全ての創作物は、その内部に構造を内包している。
人間の五感では直接認知できず、脳内組織に働きかけていかにその構造を示すか、その新しさや鮮やかさ、あるいは完成度に人は創作物を「芸術」と認めるのである。
実体はつかめないが、その外形、形質、意図が十分に理解できるのである。言語外で脳が反応し、そこに一種の完成を見つける。それを達成するのが脳の活動である。
あからさまに露呈した構造は、創作主の幼稚な精神行動そのものである。逆に思考という過程を経て理解できる構造は、一定水準を上回る人間に好まれる。
彫刻や絵画など、目にみて直接に理解できるものは、その完成度自体が構造の発露であり出現である。時間的に変化がなく、単体としてそこに存在する。文学においては、構造というのはしばしば人間の思考過程そのものを表している。文学は全くの情報として伝えられるもので、彫刻の複製という忌むべき存在はあっても、小説の複製は情報の複製に留まるに過ぎない。ここに、芸術は情報であるか否かという根本的な命題が出現する。構造を内包するか、その構造を悟らせるか。文字の配列のみを眺めて、前衛芸術のような陶酔感に浸れるわけがない。あるいは、楽譜一杯に記された音符のクラスターの視覚情報のみが芸術性、あるいは構造を認知させるとはやはり思えない。建築物の完成度は、その建物をぱっと眺めることにより確かめられる。しかし文学の完成度は、「ぱっと」拝見するだけではダメである。映像としての文字を、物語の最初から最後まで眺めてもやはりわからないだろう。唯一、文字という記号を言語として思考に直結させることで、文学など情報芸術はその存在を主張できる。
東アジアのごく一地域には、書道という芸術の一可能性がある。書道とは、毛筆で紙に文字を書き、それを一個の絵画のように芸術とみなす。そこで使われる文字は主に漢字である。この記号を使うのは世界で中国、朝鮮、日本程度である。この文化の大きな特徴は、記号体系が表意文字だということである。アルファベットは表意文字で、組み合わせ如何でどのような情報でも表せる。RAINならば雨である。AIRならば空気である。TRAINならば列車である。このように、たかだか五つの記号を使うことで三つの意味を表現できる。この点、表音文字体系は情報量が大きい。逆に、中国を中心とする文化では、紙という発明があった。そのため、文字を表記して表意文字とした方が合理的だった。