ここでは、SF作家スタニスワフ・レムの文学作品、「完全な真空」の論評を行う。この本には、十六の架空の書評が掲載されている。底本としたのは、「完全な真空 国書刊行会 1989年11月20日初版発行、訳者は沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄」である。
最初から十分なメタ要素を発現させる。この書物「完全な真空」の書評から、「完全な真空」が始まる。ここではいかにこの本が生まれたか、その背景は何か、などの薀蓄が集積されている。
ロビンソン・クルーソーの後にでた「ロビンソン物」が主題である。つまり主人公が無人島に漂着してそこで難儀な生活を送るという内容の作品を指す。もしかすると「ロビンソン物」という言葉自体、レムの造語であろう。であるとすれば、存在しないジャンル、すなわちメタジャンルを、レムが打ち立てたことになる。
書評のはじめには、ロビンソン物である「スイスのロビンソン」「ロビンソン・クルーソーの性生活」など、珍妙な本が挙げられている。「ロビンソン・クルーソーの性生活」は、評者によって「じつにくだらないしろもので、著者の名前を挙げる必要さえない」とされている。ここには、著者レムの一流の遊びが発露している。あたかも「ロビンソン物」というジャンルが存在しているかのように描かれているからである。また、性的な不謹慎を表に出している。これも著者レムの遊びである。
ここではマルセル・コスカ著の「ロビンソン物語」が詳細に紹介されている。無人島に漂着したセルジュ・N氏は、ロビンソンとなるべくして生活を始める。そして自己のなかで登場人物を想像してゆく。そして最後には登場人物が飽和してしまい、無人島生活が破綻すると言う内容である。
ギガメシュとは、ギルガメシュからLを除いた綴りである。そして、ジョイスの「ユリシーズ」「フェネガンズ・ウェイク」を上回る作品を、架空の書評の中に現出させている。
ここでも、新造語が行われる。爆発はエクスプロージョン、性爆発はセクスプロージョンとなるからである。ややSFめいた書評である。
おそらく、「完全な真空」の中で最も面白い書評である。ナチスの敗残兵が織り成す虚構のフランス王室、といった趣の物語が展開される。ここで注目すべきは、架空の書評の中でさらに虚構が行われている、という点である。この二重の虚構により、「親衛隊少将ルイ十六世」という物語が本当に存在するかのように錯覚させられるのである。
テクストの限界に挑んだとされる、否定的文章を持つ作品の書評である。
この書評はややSFのプロットめいている。新しい創造を生み出すたびに金がかかるという社会システムを描いている。
知恵遅れの子供が居る中流家庭を描いた作品。
「あなたにも本が作れます」という機械を主題とした、SFのプロットめいた話。
アメリカのマサチューセッツ州のイサカというところで生まれたオデュッセウスという男を主人公とした物語。オデュッセウスは天才の発掘を行う。しかしその過程で真実を知る。
文学についての小論めいた話。書評とは言いがたい内容である。
SFのプロットめいた話である。お金を払えば、どのような生活上の偶発も買うことが出来る、という内容である。これにより、機械に縛られた生活が真実の生活となってしまう。
文化や進化についての、所感が述べられている。
確率の問題を例にとって、筆者であるベネジクト・コウスカの出生の秘密を探る。
非常に難解な、数学的な、計算機学的な内容である。
最後は書評ではない。架空のノーベル賞講演のテキストである。題の通り、ノーベル賞学者の「新しい宇宙創造説」が語られる。
スタニスワフ・レムは、「ソラリスの陽のもとに」や「金星応答なし」などのSF作品で有名である。しかしレムの想像力はSFという媒体を軽々と超え、ついには文学にも迫る。その一つの結果が「完全な真空」である。この作品の最も重要な点は、「存在しない文学作品の書評集」という内容にある。文学の上部構造からもたらされる思索である。メタ文学的な視点から見ても、レムが文学の一境地を開いたのは間違いない。さらにこの作品は、存在する数多の文学の嘲笑している。文学とは何か、文字で書き連ねられる物語は何か、という根本的な問いに答えているからである。このような形態の文学が出現すると言うことは、その分野において相当の蓄積がないと不可能である。人間の経験や記憶によって蓄積された「文学」というイメージを、架空の書評集という文体で見事に捕らえている。
見事なのは、存在しない文学作品をあたかも存在するかのように書き記すことのできる、レムの手腕である。そもそも、いかなる表現手法においても駄作というものは存在する。そのような駄作を世に送り出すということは、それだけ資源の無駄遣いということになる。それを押しとどめると言う意味においても、「完全な真空」は優れている。真実出版されてしまうのなら、「B級」、「物まね」、「二番煎じ」と言われかねないような文学作品を、書評と言う空間にのみ存在させているからである。そして、実の作品を書いて枚数を費やさなくとも、このような書評だけで、我々は作品を「理解」することが可能となるのである。このように、「完全な真空」は、物語を綴ることの厳しさと言うものを、我々人類に教えてくれるのである。
レムは、同様の趣向で書かれた「虚数」という作品も出している。この作品は、またの機会に紹介したい。