SFとファンタジー

序論

芥川龍之介は、なぜ小説舞台に古典を選んだのであろうか?それは、宇治拾遺物語などの古典文芸での世界観は、固定され変化がない、安定した世界を作家に提供しているからである。この世界は古めかしいが数多くの物語小道具すなわちガジェットを提供している。世界観の提供とは、小道具の提供でもある。

また、そのような平安朝の世界が実在したしないに関わらず、その世界セットを作家は扱うことができる。おそらく、日本における平安朝は実在した時代である。逆に、実在しなくても世界セットを提供する世界観は存在する。今回は、世界セットの果たす役割と、その代表的な世界観であるSFとファンタジーについて述べる。

世界セットとは?

さて、世界観、ガジェット、世界セットと呼称される、一連のパックされた概念が提供するものの根底は、ある一種の精神の動きである。代表的な精神運動とは、平たく言えば人間関係である。解決済みあるいは未解決な関係を含める。世界セットは、作家にはそういう概念を提供する。一方読者には、これから展開される物語をより理解可能なものにするための、簡単な予備知識が大まかな形で与えられる。作家―読者間の、作品での意志疎通において数少ない共通項を見出すための、規定化された作業といえる。

ファンタジー

ファンタジーの提供する人間関係は、残念ながらほとんど使いまわされ、あるいは解決されている。ファンタジーといえど人間の歴史を踏襲しており、それは神話的や伝説的といった、原始的な物語である。現在日本で言われる、いわゆる「ファンタジー」とは、欧州の伝説・神話から発生し、主に善と悪の闘争を主題に描いた物語群の典型的な呼称である。

ここで、時代を全般的に眺めて、歴史とは何かと我々は自分自身の頭脳に問わなくてはならない。ローマ五賢帝時代にあるように、争いのない時代とはすなわち歴史のない時代である。人間の歴史とは戦争の歴史であると言い換えていいし、試験に出題されるのはなぜか戦争についての問題が多い。だれも、平和な時代など見向きもせず、物語も生まれないのである。結論付けるに、人間の歴史とは戦争の歴史であり、むしろ歴史とは人間における戦争行為を記録した情報であり、物語の根源である歴史もやはり戦争であり、究極的には人間が一番興味を持つ物語とは、やはり血なまぐさい殺し合いが描かれたものである。

また、善悪二元論の歴史は奥が深くその起源も経緯も説明しがたいが、物語という限られた領域で、その主題が「ファンタジー」という戦争主体の骨格を持っているので、戦闘行為に直結する絶対悪は、主人公である善に対する物語の進め手としては、多くの人間がそれと考えるように、手軽で強力な存在なのであるから、総合して一番単純で人間関係の構図が理解しやすく、人間の気性にもうまく合致していると思われるので、そのような前時代から使用されてきた手法が今もなお息づいているのである。

ここまで語れば、ファンタジーにおける魔法やエルフや怪物の役割などを推測することは易しい。善悪二元論に基づく戦闘行為の、ほんの味付けである。この戦闘の骨格に欧州的な小道具が付随することによって、ファンタジーという世界観が出来上がるのである。

また、ファンタジーの物語展開を理解するうえでは絶対に欠かせない物語典型がいくつか存在する。ファンタジーの最後は、「魔王によって危機に陥った国が、英雄によって救われた」というものが一般的である。よって、悪の最上位である存在に対抗するために主人公は英雄となるか、もしくは生まれ付いての英雄なのである。さらに、悪の支配する前は平和であり、何らかの国が存在し、そこに王様と女王と王子がいればなおさらである。ここに、安直・単純・陳腐・アホと呼ばれ、作家に数多くの作品を提供してきた物語典型である「貴種流離譚」を挙げることができる。

他に多くの物語典型がを挙げることができ、それらについては高度な研究が数多く存在するので、ここでは割愛する。

サイエンス・フィクション

SFとは、科学が進歩してきたごく最近に設定された世界セット、物語概念である。物語の根底に存在するのは、人間が持つ科学への畏敬である。

出始めの頃のSFとは、現在見られるような高尚な問題をはらんだ文学作品ではない。ただ単に、全く存在のしない物語の場を提供するだけであった。これがどのような問題を暗に提起しているか、理解できるものは少ないだろう。初期のSF作家は、人類が見たこともない物語世界を黙々と構成するという、途方もない作業を行っていたのだ。ファンタジーはその根底に歴史という典型が存在したが、SFとはほとんど未来であり、現在であり、その手本となるべく物語りは皆無であった。よって、物語セットも揃っておらず、ガジェットも全く用意されていなかった。

ここからいえることとは、SFは人間がゼロから創り出した世界観といえる。ありとあらゆる小道具が想像や発展した科学の中で創造され、最も想像力のある科学者などといった人物がその発展に手を貸したのである。

SFでは往々にして、現在社会に見られる社会問題や人間関係を、SF的小道具やSF的背景を通じて描き出すという手法がとられる。この通り、現代とは全世界が共有されてはいるが、その統一された世界観はだれもが共有しているわけでもない。共有しているとすれば、それはSFという世界観である。共有しないわけではなく、ただ物理的な手間から、現代という世界観を共有できないだけである。

が、皮肉といえばいいのか、現代人は現代社会の世界観よりむしろ、典型的なSF世界観によって見識が統一されている。このように、SFはファンタジーとは違い、現代を如実に映す鏡としての役割をも、担っているのである。また、未定で不定な現代の畸形的な一角を、SFという巨大な隠喩によって共有できるのである。

そしてアナロジーとは

ここでひとつの類似がある。芥川龍之介は、実際に平安の時代を体験したわけではない。体験という一点においてのみ、我々が知る平安時代は全くの絵空事、空想、非現実である。同様の論理が、前述したファンタジー、そしてSFについても当てはまる。小説舞台は、ある程度の割合で全くの空想なのである。もしくは、よくできた現実のレプリカ、あるいは全くの虚構である。

存在しない場が、あたかもあるかのように扱われていることは、成熟した仮想世界であることを示す。現在も過去も未来も、当時における「現在」とは書くべき余地が対して存在せず、同時代人にとっては不定であり、全ての舞台装置が出揃っていない、未成熟な世界なのである。

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