人間は古来、伝説や伝承にあこがれる形質を持つ。それは、昔から語り告がれてきた物語のほとんどが伝説や伝承でありあくまで架空の話だからだ。
いわく、歴史とはひとつの劇場をなしている、と言われることが多い。観客がいて、役者がいて、舞台があって、そこで歴史という演目が延々と上演される、一個の閉じた系である。役者とは無論、舞台に上がって何らかの役を演じている人、何らかの役を演じる実力のある人、観客から「演じてもよい」と許可されている人である。
劇場型世界の大きな欠点は、役者と観客が徹底的に二分されているところにある。また、現代ではその役者がメディアにのり、本物の「役者」としてわれわれ観客の目に留まるというところにもある。観客と役者は場所的、地位的に確実に二分されていて観客は役者を「何か架空の出来事」として捕らえることのできる世界である。
現在も過去も未来も、観客が役者に変貌するのは幾度となく繰り返されることであろう。しかし、そこには一人の観客があらゆる努力や人物的な魅力を放って新たな「役者」になるという過程が見えてこないのである。観客が一挙に役者になり、あらゆるメディアを席巻し、そして伝説やら伝承やら、現代における物語を形成して行くのである。
現代は、歴史の終わった時代である。人類に必ず必要であった英雄譚や伝承は姿を消し、現代は事実の積み重ねのみで殺伐と続いていくのである。出来事が記録され、ディジタルで保存され、一個の間違いも狂いもないまま、正確に未来に伝えられてゆく。そこには源義経のように誇張され、チンギスハンとまでささやかれる虚構や、ナポレオンのような英雄に伴う大袈裟な作り話は、皆無である。現代という時代には、人々=一般大衆の願望を反映した物語が欠如しているのである。
そのような背景で育まれていったのが、地域の伝承ならぬ都市伝説という物語形態である。資本主義経済の末端である「家庭」で語られるべき物語が現に資本主義の物品である書籍として流通に乗る今日、物語の新たなネットワークは新たな集団に託されたのである。その二大精製所が学校と会社である。そこには、これまでだれもが何の疑問も持たず演じてきた「家族」という演目や、「親友」という演目や、その他人間感情や人間育成に好影響とされる人間関係の「演目」から脱出できるだけの、巨大なエナジーが潜んでいるのである。
例えば、日本各地にある伝説や伝承は、その地域の風土にあった、人生を楽しむための一種の舞台装置であると言える。ある一定の地域に住む集団は、その地方の伝説や伝承を嘘でもまやかしでもいいから信じ、疑いを抱かないことによって一定の人生を演出してきたのだ。
今の世界は、小規模の閉集団がなくなり、世界全体が大規模な閉じた系になろうとしている、人類の物語の最終形態である。もしも宇宙に人間とコミュニケーション可能な知的生命体がいない限り、物語は人類という閉じた系の中でしか語れなく、物語も閉塞し、一定化し、あらゆるパターンが語られてしまうのである。
都市伝説とは、希薄となった都市の人間関係のなかで、相互に語ることのできる伝承や伝説のことである。私の周りで、インターネットで出回っているような都市伝説に類するものを聞いたことはない。しかし、それを知っている人間はかなりの数に上るのである。そして、伝説や伝承が人間が生きるために必要なバックボーン、人生を豊かにするための舞台装置であり、その物語を一定の集団内が知っていなければならないとすれば、都市伝説はまさにその要求を満たした物語だといえよう。