第二章
| 第一話: |
〜わたしが見る景色〜
「義兄さん…?」
わたしと侑人さんの顔を見比べるようにして何か考えていた義兄さん。
顔は笑っているけど、これから切り出そうとする話の重要さを、その目が語っているような気がした。
「実は、今度、九条院グループ各社と九条院家からの寄附で、若手芸術家を支援して育成するための、
財団法人を設立することになってね…」
義兄さんから切り出された話は、私には想像もつかないことだった。
「春迦ちゃんには、その財団の代表理事、つまり理事長を頼みたいと思ってるんだ。」
「!?」
(え…何?義兄さん、財団?理事長?唐突すぎてわたしの頭、ついていけないみたい…わたしが?えっ!?)
〜樫原が見る景色〜
隣に座る春迦の心の叫びが聞こえたような気がした。
何より、きみの表情が、その驚きぐあいを物語っているね、とてもわかりやすい。
以前のきみだったら、きっとそのままその心の叫びを声に出していただろう。
でも、それは九条院の令嬢としてはあまりよろしくないことだともうわかっている。
春迦、大人になったね、もうきみは九条院家の立派なレディーだよ。
そうはいっても、慎一郎さまの真意は、まだぼくにも見えない。
財団を設立するなんて話は今初めて聞いた。
九条院家も資金を拠出する以上、家令のぼくに、まず話があってもいいはずなのだが…
それに、まともな社会人経験もない春迦をその理事長にする意図は何なのだろう。
(慎一郎さま…?)
そして、ぼくの無言の問いかけを察した慎一郎さまがおっしゃった次の言葉は、
今まで考えたこともない、突拍子もないことだった。
「侑人、きみには、その財団の専務理事になって、春迦ちゃんをサポートしてほしい。」
「…っ、慎一郎さま…!?」
| 第二話: |
〜わたしが見る景色〜
(わたしが理事長で、侑人さんが専務理事って、それって……え?)
思わず顔を見合わせたわたしと侑人さんの様子を見て、義兄さんは少し申し訳なさそうに言う。
「二人とも、驚かせてしまったようだね、でも、ぼくもこの結論に至ったのは、つい昨日なんだよ。」
そして、冗談抜きの真面目な顔で続ける。
「春迦ちゃんは、これからも九条院家の姻戚として生きていくことになる。望むと望まざるとに関わらずね…。
これまでも多くのパーティーや会合など、九条院家の代表として出席してもらった。
つまり…すでに春迦ちゃんは、社交界に九条院家の縁者として記憶されている。
だから、九条院としても、もう春迦ちゃんに、普通の女の子の人生には戻ってもらえないんだ…
申し訳ないことだけど、それが現実だ。」
そう、確かに、もうわたしは以前の「あたし」ではいられなくなっている。
わたしが普通の就職をしなかったのは、何よりもそれが理由…。
そのとき義兄さんは『悪い虫がつくといけないから』って冗談めかして言ったけど…
本当は、九条院家の者として下手な就職はさせられないっていうこと。
義兄さんの話は続いた…
「春迦ちゃんが九条院の囲いから出られない以上、春迦ちゃんとの将来を考えるなら、あとは、侑人…
きみの方が春迦ちゃんに歩み寄るしかないんだよ…」
ここで突然出た侑人さんの名前に反応して、私は反射的に彼の顔を見た。
(侑人さん、少し難しい顔をしてる。)
私はイマイチ呑み込めてないのだけど、侑人さんには、義兄さんの考えがわかったみたい?
〜樫原が見る景色〜
「慎一郎さま…わたくし達のために、そこまでお考えいただいたのですね…」
「侑人、でもこれは、春迦ちゃんのためだけじゃないよ。ぼくはね、きみにも羽ばたいてほしいんだ。」
春迦はまだ理解が追いつかないようだったけれど、ぼくには慎一郎さまのお考えがわかった。
つまり、慎一郎さまは、春迦…いや、春迦お嬢さまにふさわしいポストを用意した上で、
そのお嬢さまと対等になれる場所に、ぼくを導いてくださるというのだ。
(最初に『義弟』という言葉を使われたのはこのためか…)
家令とはいえ、一人の使用人にすぎないぼくが、令嬢の春迦とこの先「結婚」ともなれば、
口さがない周囲の批判や不要な好奇の目を、九条院家は否応なしに被ることになるだろう。
ぼく自身は何を言われても構わないし、春迦を何者からも守る覚悟はある。
だが、恩ある九条院家と慎一郎さまに悪意が向けられることは、堪えられない。
そしてこれは、ぼく自身の立場ではどうにも解決できないことだった。
慎一郎さまはそこのところをちゃんと考えてくださったのだ。
執事ではない素に戻されていたぼくは、そんな慎一郎さまの深い思いやりの心に触れて
熱いものがこみ上げてくるのを留めることができず、思わず下を向いて視線をそらした。
執事としてはこんなふうに感情を露わにするのは好ましくないのは承知している…が、今のぼくは、
春迦を愛する一人の男として扱われている。
ここは、自分の心の内をさらしたとしても、非難には値しないだろう。
とはいえ…もし、この話を受けるとすると、ぼくは一つの決別をしなければならない。
それは、ぼくが天職と信じて歩んできた、執事という職業との別れを意味するのだから…
| 第三話: |
〜慎一郎が見る景色〜
さすが侑人、察しが早いね。
長年、きみとつきあってきたけど、きみの目が一瞬でもそんなふうに潤むのを見たことはなかった。
それだけできみの気持ちは十分伝わってくるよ。そして、戸惑いもね…
「侑人…」
と言いかけたとき、突然、春迦ちゃんが堰を切ったように声を上げた。
「義兄さん、ありがとう…ううん、ありがとうございます…。」
「春迦ちゃん…?」
「わたし、自分にそんなことができるのか全然わからないけれど、でも、義兄さんは、
それが私たちにとって最善の道だと考えてくれたのよね?」
(うん、やっぱりこの娘は人の気持ちを素直に感じ取れるセンスをもっている。)
「そうだよ、春迦ちゃん、財団の運営そのものはきみがすぐに関わらなくてもいい。
でも、代表として外に向かって発信することは多いからね、君に活躍してほしいのはそこなんだ。」
「大丈夫、侑人さんがいるなら、きっと全部うまくやってくれるはずよ。わたしは広告塔になればいいのよね?」
「…春迦…。」
侑人がぼくの前で初めて春迦ちゃんを『お嬢さま』ではなく『春迦』と呼んだ。
どうやら侑人の心はもうとっくに彼女の人生に寄り添う覚悟をしていたらしい。
それは、執事を辞めるかもしれない可能性も予見してのことだとは思うが、
やはり、それが現実に目の前に突き付けられたら悩まないはずがない。
ぼくは、侑人がどれだけ、執事としてこの家で過ごす日々を大切にしてきたか知っている。
「でもね、春迦ちゃん、これは、侑人にとってはとても重大な決断なんだよ。
わかるだろう?春迦ちゃんと対等に財団の仕事をするようになるということは…」
そこまで聞いて彼女の顔色がサッと変わった。
「あっ……」
そして、不安気にぼくと侑人を見る。
「春迦、大丈夫、心配しないで…」
そうは言っても侑人の言葉の語尾は少しだけかすれていた。一杯一杯な感じだ。
「春迦ちゃん、あとは侑人と二人だけで話をするから、ちょっと部屋で待っていてくれるかな?」
「義兄さん…」
「そんな心配そうな顔をしないで、あとで侑人が行くから。」
あえて笑顔でそう言ったけれど、彼女の侑人への思いが伝わってきてちょっと辛い。
そのとき、侑人が彼女に向かって静かにうなずいて見せた。
「はい、それじゃ、先に部屋に戻ってます。」
そう言って彼女は一人、ドアから出て行った。
〜わたしが見る景色〜
義兄さんの部屋を出て、わたしは自己嫌悪に陥った。
(わたしったら、自分のことばっかり…。)
義兄さんの提案は、わたしにとっては、侑人さんとずっと一緒にいられる夢のようなことだけど、
侑人さんにはただそれだけじゃない。
わたしは執事としての侑人さんも、家令としての侑人さんも本当に素敵で大好き。
それって、侑人さんがこの仕事を心から誇りに思って、愛しているからだと思うの。
わたしと一緒になることが、その大事な仕事を彼から奪うことになるなんて、思ってもみなかった。
「侑人さん、ごめんなさい…」
わたしは振り返って、ドアに向かってつぶやいた。