第三章
| 第一話: |
〜樫原が見る景色〜
春迦が退出して、慎一郎さまとぼくは、しばらく黙ったままでいた。
決して重苦しい空気ではなかったが、ぼくは、自分の中の躊躇が少しうしろめたくて、
慎一郎さまの顔をきちんと見ることができない。
慎一郎さまにとって大事な義妹の春迦を任されていながら、
『執事』という職への執着を捨てきれないでいる、己の優柔さが疎ましい。
しかし、慎一郎さまがそんなぼくにかけた言葉は、とても温かいものだった。
「侑人、おまえに心の準備もさせないまま、いきなりこんな話をして悪かったね。」
「慎一郎さま…」
「ぼくはね、侑人が今まで家令として、また、ぼくや春迦ちゃんの専属執事として、
この家をいかに支えてくれてきたか、よくわかっているつもりだよ。
まともに休みもとらず、日々、九条院家のために心をくだいて尽くしてくれてきた。
それはもう、どれほど感謝しても足りないぐらいだ。」
「旦那さまそれは……わたくしの好きでしてきただけ、ただそれだけのことでございます。」
「いや、侑人あっての九条院家だよ。それだけに、ぼくは、おまえのことを肉親のように大切に思っている。
そして、そんなおまえの才能を今以上に生かせる場所を用意したいともね。」
「もったいないお言葉です、わたくしの才能など…」
「侑人、おまえは自覚してないだけだ。世の中はね、リーダーだけでは動かない。
組織の中では、高い事務処理能力や調整力をもつ人間は、とても貴重な存在なんだよ。
そういう才のある人材は本当に稀なんだ。そしておまえにはそれがある。」
事務処理能力と調整力…それは、日々の家令としての業務では当然のものだが…
それがぼくの武器になる…と…
「今度の財団は手始めにすぎない。」
慎一郎さまは続けられる。
「理事長の春迦ちゃんと専務理事の侑人で、まずは仕事上のパートナーになって、 しかるべきのち
人生のパートナーにもなれば、おまえはかつてぼくが言ったように、春迦ちゃんのすべてを任されることになる。」
「もし春迦ちゃんが望むなら、結婚を機に彼女は寿退社してもいい。
一方で、おまえ自身の活躍の場として、その頃には財団運営も軌道にのっているだろうから、
あとを誰か他の者に引き継いで、侑人にはぼくの傍らで、僕の右腕になって力を貸してほしいと考えているんだ…
執事ではなく、僕の、義弟、家族としてね。」
(あぁ、この方は本当に……なんと懐が深いのだろう…)
ぼくは改めて、慎一郎さまにお仕えできたことを感謝した。
「そこまでおっしゃっていただいては、もうわたくしには否とお答えする選択肢などございませんね…ただ…」
「ただ…?」
「慎一郎さまには、仕事のパートナーとしても夏実さまがおいでです。わたくしなどが出る幕はないのでは…?」
「そうだね、でも夏実の才能はまた、侑人の才能とは違うものだ。
彼女は本来、トップに立ってこそ力を発揮できるとぼくは思っているんだよ。
いずれ、彼女自身で一つ会社をもってもいいし…でも、しばらくは無理かもしれないな…」
「おや、何故でしょう?」
「それはね…」
慎一郎さまが少し照れたように頬を染められた…もしや…?
「ついに、夏実が…ママになるからだよ。」
| 第二話: |
〜中岡が見る景色〜
夕食のあと、お嬢さまと樫原さんは旦那さまのお部屋に呼ばれたままだ。
俺は、真壁と二人でダイニングルームの片づけを済ませ、一人で食事をしてから、
サロンでおくつろぎの夏実さまに付いていた真壁と交代した。
執事はこの時間、交代で食事をとっている。
すると、退出したはずの真壁がすぐに戻ってきて、夏実さまに何かささやいた。
「あら…春迦が?そうね、ここでいいわ、呼んできてくれる?」
ほどなくして、春迦お嬢さまがおいでになった。
どうしたのだろう、なんだか少し、落ち込んでいらっしゃるように見える。
「中岡さん」
「はい、お嬢さま」
「義兄さんには部屋で待ってるように言われたのだけど、わたし、どうしても姉さんと話したいから…
もし、侑人さんが探していたらここにいるって伝えてもらえる?」
(…侑人さんか)
お嬢さまが人前で樫原さんをそういうふうに呼ぶのは珍しい。
「かしこまりました、お嬢さま。」
「奥さまそれでは、わたくしは外に控えておりますので、何かありましたらお呼びください。」
そう言ってサロンを出たものの、ちょっと気になる…。ふと視線を上げると、通路の先に真壁がいた。
「中岡。」
「どうした、真壁?」
「お嬢さまの様子が変だ…何か酷く心配されているように奥さまを探しておられた。」
「樫原さんは、まだ旦那さまとお話し中なのか?」
「そのようだな…」
「お嬢さま、今にも泣きだしそうな顔をされていたぞ…」
「あぁ、ただ事ではないな…」
旦那さまも樫原さんも、お嬢さまを泣かせるようなことを言うはずはない。
いったい、どんな話があったのだろう…と、サロンから奥さまのお声がかかった。
「はい、お呼びでしょうか。」
「悪いけど、ここに温かいお茶をもってきてくれるかしら?」
「かしこまりました。」
「あ・それと、私にはディカフェでお願いね」
「はい……承知いたしました…」
紅茶をご所望にしては、珍しい注文がついた。
もちろん、ノン・カフェインの紅茶も用意してはいるが、前に一度お持ちしたところ、
少々香りが薄いとおっしゃって、奥さまのお好みには合わなかったのに…疑問に思いつつ厨房へ向かった。
〜わたしが見る景色〜
わたしは姉さんに、さっきの話をすべて伝えて自分がどうすればいいのか相談した。
話しているうちに、気持ちがちょっとたかぶってしまって、涙声になっている。
姉さんはうんうんと穏やかな表情で相づちをうちながら聞いてくれていた。
「春迦、あなたは本当に、樫原さんのことが好きなのね…」
「うん…好き…だから、侑人さんが辛い思いをするんじゃないかって考えたら…わたし…」
そのとき、中岡さんがトレーに紅茶を用意して戻ってきた。慌てて涙をぬぐうけど、しっかり見られちゃった。
(…心配かけちゃうな)
「あ・あの…」
「あぁ、いいの、大丈夫だから…」
姉さんが困った様子の中岡さんに向かって笑顔で言う。
そして、紅茶をサーブする中岡さんにお構いなしで話しはじめた。
「春迦、慎一郎さんを信じなさい。あの人があなたたちの将来を考えて出した答えよ。
それにね、あなたが心配するようなことにはならないとわたしは思ってるのよ。」
「でも、侑人さん、家令じゃなくなったらどうなるの…?」
「多少、形は変わるかもしれないけど、樫原さんは屋敷を出てったりしないから…」
カタンッ…と食器が音をたてた。中岡さんが思わず手を滑らせたみたい。
「あ…し・失礼しました、申し訳ございません…」
「中岡さん」
「は・はい…奥さま…」
「これからこの家はちょっと変わるわよ。あなたたちも覚悟しててね!」
「奥さま…それは…あの、どういう…」
「そうねぇ、いろいろあるんだけど、とりあえず、私が当分仕事を休むことになるわ。」
(え…?姉さん、何を言ってるの??)
「それから、あと8か月もすると、かなり賑やかになるわねぇ」
「賑やか…ですか…」
中岡さん、わけがわからないって感じ。私もだけど…
「夜泣きとかしないでくれるといいんだけどね、あかちゃん…」
「・・・・え!?」
「ね・姉さん!?」
| 第三話: |
〜真壁が見る景色〜
当主ご夫妻のお部屋で、お休みの仕度を整え、廊下に出たときだった。
「ま・まかべっ…!!」
中岡が俺の姿を認めるや否や、血相を変えてとんできた。
「なんだ中岡、執事たるもの、やたらに取り乱すものではない。」
「それどころじゃないんだって、耳を貸せ…!」
興奮気味に中岡が耳打ちしてきた内容は、俺の冷静さをも失わせる内容だった。
「っ!?…奥さまが?……なっ…か・樫原さんが辞める!?」
そのとき…
「誰が、辞めるって?」
驚いて振り返った先には、樫原さんがいつもの微笑をたたえて立っていた…
(う…この笑顔は……非常にまずい…)
『な・か・お・か――っ』
俺は心の中で中岡に毒づく。
「二人とも、その話は誰から聞いた?」
中岡が恐縮して応えた。
「はい…先ほどサロンで、奥さまから…ご懐妊のことを直接伺いました…。」
「ふむ、それで、わたしが云々というのは?」
「そ・それは…」
言いよどむ中岡に樫原さんが笑顔で詰め寄る
「中岡…?」
「す・すみません!お嬢さまと奥さまの会話を横で聞いただけです!申し訳ありません!」
「なるほど、春迦は今、サロンにいるんだね?」
(い・今、春迦って言ったか?樫原さん…お二人の間ではそのように呼んでいるのは知っていたが、
俺たちに、春迦って???)
「はっ!そうでした、樫原さんがいらしたらそのことをお伝えするようにお嬢さまから言いつかっておりました。」
「そうか、では、わたしもサロンへ行こう。」
そう言って、一歩踏み出した樫原さんが俺たちを振り返って言った。
「二人とも、今夜のミーティングは少し長くなるからそのつもりで…」
「………はい…」
俺も中岡もそう返事するのがやっとだった。
〜樫原が見る景色〜
(あれではまだすべてを任せるわけにはいかないな…)
二人の執事たちと別れて、ぼくは軽くため息をついた。
慎一郎さまと、あれから、今後のことをいろいろ話してきたが、
今はとにかく、春迦を安心させてあげるのが最優先だ。
きっと、自分のせいでぼくが執事を辞めることになると思っているに違いない。
けれど、現実的に考えて、今、ぼくが九条院家の業務から完全に抜けることは難しい。
夏実さまがご懐妊というならばなおさらだ。
中岡も真壁も、この5年で成長して、執事としてはどこへ出しても恥ずかしくない。
真壁などは職人気質よろしく執事道を追求している猛者といってもいい。
しかし、お屋敷全体をとりしきる事務処理能力と使用人全体に配慮する調整力は、
残念ながらまだ彼らの中で育っていない。
(慎一郎さまが稀な能力とおっしゃっていたのは、要するにこういうことなのか…)
ぼくは、慎一郎さまからの言葉を一つ一つ反芻しながら、サロンへと足を向けた。