第十三章
| 第一話: |
〜わたしが見る景色〜
それから夏が来て、秋になって、すっかり木々の葉が色づいた頃…
わたしは、毎日、侑人さんと一緒に、財団に勤務するようになっていた。
日々いろいろな関係者と面会したり、ときにはこちらから出向いて挨拶に回ったり…。
理事長としての活動はけっこう忙しいけれど、樫原専務が完璧にフォローしてくれるので
戸惑うようなことは何もない。
財団では私は『理事長』と呼ばれ、侑人さんは『樫原専務』と呼ばれている。
まだできたばかりの組織ではあるけれど、九条院の名前があるので、それなりに注目度もあり、
海外の要人クラスの訪問も多い。
そのため、スタッフ全員に、ユニフォームとして、ディレクターズスーツが支給されていて、
樫原専務は、あのときの、あのフロックコートがそのまま制服になっている。
ようやく見慣れてきたけれど、この服装を見ると、侑人さんのプロポーズのときの様子を思い出し、
嬉しくて、つい頬がゆるんでしまうのよね…
「?…理事長、どうかされましたか?」
(あ・また侑人さんのこと見つめちゃってたみたい…)
「い・いえ…なんでもないですよ、専務。」
今日の午後の予定の確認で理事長室に来ていた樫原専務が、不思議そうにわたしを見る。
わたしたちが婚約していることは、まだ公にはしていないものの、
理事長と専務の、パートナーとしての仕事振りは評判になっているようで、
義兄さんが言うには「機が熟すのもあと少し」…なのだそうだ。
「午後は、1件あった面会がキャンセルになったので、とくに予定はございませんね…。」
専務が手帳を見ながらわたしに確認したけど、わたしはちょっと他のことを考えていた。
「専務、来週のパーティーの件ですけど、やはりわたしもスピーチしないといけませんか?」
「はい、主催である財団理事長のご挨拶は欠かせませんよ。」
「…どうしても…ですか…?」
「どうしても…です。」
専務の微笑みは、執事の樫原さんの微笑みそのもので、これには逆らえないというか…
思わず軽いため息をつくと、専務はおもむろに、開いていた理事長室のドアを閉めて『侑人さん』に変わる。
「そんなに嫌なの?春迦。」
「うん、個人で、この距離で話すのは何も問題ないんだけど…大勢の前でのスピーチってどうしても苦手。」
そしてまた、ため息一つ…
「だって、それって、お嬢さまが普通にすることじゃなかったから、経験値が足りないっていうか…」
侑人さんは少し考えるような仕草をする。
「ふむ…それは確かにそうかもしれないね。…じゃ、練習すればいいんじゃない?」
「でも…そもそも、何をどう話せばいいのかもよくわかってないのに…」
「そうか…だったら、スピーチの原稿はぼくが書くよ。」
「え?」
「だから春迦は、それをなるべく覚えて、話す練習だけすればいいでしょ?」
あ・またこの、有無を言わさない執事スマイルの侑人さん…
「………はい…」
こんなやりとりが財団でのわたしたちの日常で、わたしは樫原専務がいなかったら、ホントにどうにもならない感じ。
「それとね…」と、侑人さんが話題を切り替える。
「慎一郎さまから連絡があって、今日は早めに帰るよう言われたからそのつもりで…」
「お屋敷で何かあるの?」
「うん、離れに家具とかインテリアとかが全部入って完成したからね。」
「そういえば、先週、建物が完成して、カーテンとか家具とかこれからって言ってたね。」
「そう、それで今日最後の家具が入ってやっと完成。
ぼくは昨日のうちに、ひとまず中を確認したけどね…」
「ずるいよ、侑人さん。わたしも見たかった…」
「今日、慎一郎さまも夏実さまも一緒に内覧するから、春迦もそのときに…ね?」
それに…春迦は昨日、慎一郎さまとパーティーだったでしょ?」
「それはそうだけど…」
姉さんがもう臨月に近いので、いつもなら義兄さんが夫妻で出る会合に、
今だけわたしが姉さんの代理で出ている。
義兄さんはなんとなく嬉しそうなんだけど、わたしは侑人さんと一緒の方が実は嬉しかったりするのよね。
侑人さんいわく、私たちの婚約が正式になれば、侑人さんとわたしで義兄さん夫婦の名代として
出る機会もできるらしいけど、その正式がいつになるのかまだわからない。
「ねぇ、侑人さん、早く帰れるなら、そのあとは少し二人でゆっくりできる?」
最近、侑人さんがとても忙しくて、お屋敷での二人の時間が少なくなっている。
「うーん、それはちょっと…どうかな…」
「えー、だめなの?」
「もう月末だからね、屋敷の方も帳票類の月締めをしないとならないんだけど…
中岡がちょっと苦戦してるみたいだから、手伝いたいんだ。」
「そう…なんだ…」
侑人さんは、家令として勤めていた業務をほぼそのまま今もこなしている。
ただ、少しずつ、真壁さんと中岡さんに仕事を振って彼の代わりができるように訓練しているそうで、
特に月末と月初は、お屋敷に帰ってもとても忙しい。
わたしたちはまだ、寝室は別々にして生活しているので、侑人さんの仕事上がりが遅いと、
翌朝まで顔を見られなくなることさえある。
「春迦、そんなにがっかりした顔をしないで、なるべく早く済ませるから…」
「でも、そう言ってて昨日も…」
「っ…そうだったね…ごめん。」
「ううん、侑人さんが謝ることじゃないもの。忙しいんだからしょうがないよね…
わたしは何も手伝えないのに、わがままだけ言ってごめんなさい。」
そう言いながら、わたしはどうしても笑顔になれず、反対に、涙目になりかけてるのがわかって、
慌てて席を立って窓辺に行く。
でも、侑人さんにはもうバレていて…
「春迦、ごめんね…」
そう言って、わたしのそばに寄ると、いきなり後ろから抱きしめてきた。
「ちょっ…ゆ・侑人さんっ…!誰か来たらどうするの…!」
「かまわない…。」
「そ・そんな、かまうでしょ、それは…侑人さんってば…!」
そう言って、彼の腕をほどいて振り向くと、侑人さんが優しく目をほそめて言う。
「涙、止まったね?」
「あ…うん…びっくりしたから…」
「よかった、じゃ、今日はもう帰っちゃおう。」
「え?」
「今から帰れば、少しは時間作れるよ。そうだね、一緒に昼寝でもしよう?」
「…おひるね?」
「そう、きみのベッドで。」
「え!?」
いたずらっ子のような笑顔を浮かべる侑人さん…。
「春迦、ただの昼寝だから…それ以上は期待しないで、ぼくもまだ執務が残ってるし…」
「え・あ・え…それ以上って…え?」
「だから、それはないから…。」
「あ…りょ、了解です。」
侑人さんはわたしのデスクの内線電話をとると、秘書に連絡した。
「理事長とわたしはこれから外出するから、車を回してくれる?
今日は5時までに九条院に行かないといけないのでこちらには戻らない。緊急事項はメールして…よろしく。」
(そうやって、周囲に指示を出す侑人さん、なんだか堂々としててカッコいいな。)
「…理事長。」
気がつくと侑人さんはもうドアの前でわたしを待っていた。
「あ・はい、行きます、ちょっと待って樫原専務。」
わたしは大急ぎでバッグを手にとると、彼と一緒に財団をあとにした。
| 第二話: |
〜中岡が見る景色〜
奥さまのランチが終わって、午後の休憩時間に入ろうかというとき、車寄せに屋敷のではない車が入ってきた。
(あの車は…お嬢さまの財団の車?)
急いで車寄せに向かうと、樫原さんとお嬢さまが降りてきた。
「帰ったよ、中岡。」
「お嬢さま、樫原さん、お帰りなさいませ。今日はずいぶん早いお戻りですね。」
「中岡さん、ただいま。」
お嬢さまは明るい声でそう返してくれると、そのまま急ぎ足で中に入っていってしまわれた。
「あ・お嬢さま…!」
俺があとを追いかけようとすると、樫原さんがそれを制した。
「いいよ、中岡。いろいろ事情があってね、早く戻ってきたんだ。ところで、帳票の作成は順調かな?」
「は…あ、すみません、厨房の出金管理がちょっと雑になっていて…」
「厨房は、ルールだけ決めてもなかなかその通りに動かないと忠告したはずだが?」
「はい、もう少し細かく監督するべきでした、申し訳ありません。」
「わかった、それはまた今夜にでもやろう。とりあえず…ぼくはこのあと少し寝る。」
「え?」
「おまえたちも、この時間は休憩時間だろうから、ぼくにも春迦にもかまわなくていいよ。」
「お嬢さまにお茶ぐらいお持ちしますが…」
「必要ならぼくが淹れるから。」
「そういえば樫原さん、書類整理で夕べも3時間くらいしか寝てないんですよね?」
「今夜も遅くなりそうだからね、今のうちに少し仮眠をとっておくよ…」
「わかりました。ごゆっくりおやすみください。」
樫原さんはそのままご自分の部屋へと向かわれた。
俺は、それからバックヤードに回り、そのことを真壁にも伝えた。
だが、真壁は…
「樫原さんがお休みになるなら、お嬢さまはお一人だろう。お帰りなっているのに放っておくわけにもいくまい?」
と、もっともな反論をしてきた。
「そうだけど、樫原さんがいいと言ってるんだから、いいんだろう。」
「とりあえず、休憩に入る前に、お嬢さまにご用向きはないかだけ聞いてくる。」
「おい、真壁…!」
真壁は俺が止めるのも聞かずに、お嬢さまのところに向かった。
〜真壁が見る景色〜
中岡と別れ、すぐにお嬢さまの部屋へ向かおうとしたところで、外から来た大木に呼び止められた。
「真壁さん、すみません、水道局の方が離れの件でいらっしゃってて…」
そういえば、新しい水道メーターをつけにくると聞いていた。
「わかった。今いく。」
俺は、水道局の担当者にメーター取り付け位置の指示を出し、母屋に戻る。
そして、上階のお嬢さまの部屋へ向かった。
静かにノックをするが返事がない。
(?…お部屋にいらっしゃらないのか?)
「失礼いたします」
そう声をかけるもやはり返事がなく中は静まりかえっている。
少し不安になって、静かにドアを開け一歩中へ入ると…
(っ…!!)
まずい…そういうことか…
そこには、仲良く午睡中のお嬢さまと樫原さんがいた。
(樫原さん、白昼堂々、大胆すぎる…というか、俺が悪いのか…)
樫原さんはお疲れなのか、完全に寝入っており、お嬢さまはその樫原さんに寄り添うようにして、
気持ちよさそうに眠っている。
(だがしかし…これはこれで、なんとも微笑ましい…)
俺は音をたてないようにそっと退出し、ドアを閉めた。
あの衝撃のプロポーズ以来、お二人の仲はますます睦まじくなっていて、もう俺たちの前でもごく普通に、
婚約したカップルとして振る舞われている。
だから、今さら驚くようなことではない。
むしろ、危うくお二人の静寂を乱すところだった己の無粋さを恥じた。
(それにしても…いい景色を見た。ご馳走さまでした、樫原さん。)
執事とは、ときに、こういう役得なこともあるものだ。
〜わたしが見る景色〜
目が覚めると、隣には侑人さんの端正な寝顔があった。
侑人さん、よほど疲れているのか、わたしを抱えるようにして横になるとすぐ寝ちゃった。
(仕事をするにしても、寝るにしても、この集中力ってすごいかも…)
できる男のできる理由を垣間見たような気がしてちょっと嬉しい。
侑人さんのフワッとした髪が顔にかかっているのを見て、思わず手をのばして触れると、彼が目を覚ました。
「あ・起こしちゃった…ごめんなさい。」
「いいよ、もう起きる時間だから・・・春迦は眠れた?」
「うん、気持ちよく…」
侑人さんは起き上がって伸びをする。
「侑人さん、熟睡してたよ…」
「そうだね、おかげですっきりした。」
そう言ってニッコリ微笑むと、わたしの肩を抱き寄せる。
「ここのところ時間とれなくてごめんね、春迦…」
「だから、もう謝らないでよ侑人さん、わたしこそ、気を遣わせてごめんなさい。
侑人さんがどれほど忙しいか、わかってるはずなのに…」
彼はちょっと困ったような表情で言う。
「家令だけのときとはいろいろと状況が違うからね…
外に出ている分、屋敷の中のことを以前ほど細かく把握できてなくて、作業に手間取ることがあるんだよ。」
「やっぱり両方は大変なんじゃない?」
そう言って侑人さんを見上げると、彼は首を横に振る。
「中岡や真壁が頑張ってくれているから、もうすぐ新しい流れができる。
そうしたら大丈夫。春迦との時間も増やせるから、もうちょっと我慢してくれる?」
「わたしより、侑人さんのことが心配なんだってば…」
侑人さんはわたしの髪をやさしく撫でてくれながら微笑む。
「ありがとう春迦、それを聞いただけで疲れなんて飛んじゃうよ。」
そして侑人さんは、今度はお屋敷の仕事に戻っていった。
たった1時間半の二人の時間。でもわたしの心は温かく満たされていた。
| 第三話: |
〜樫原が見る景色〜
夕方前、予定通り慎一郎さまも早めにお帰りになり、夏実さまと春迦も一緒に、
大改装が完了した東の離れを内覧された。
一通り見終えて、慎一郎さまは興奮気味におっしゃる。
「いいね、侑人。」
離れのサロンのソファに夏実さまとともに座られて、室内をぐるりと見渡しながら続けられた。
「外観のクラシカルなイメージを損なわないよう、ほどよくモダンにしつらえてあって、とてもいい内装になっている。
設備は最新だし、家具も九条院の離れにふさわしく質の良いものを揃えてある…。
よくこれだけのものを見つけたね。」
「一部はヨーロッパのアンティーク家具を輸入しました。」
「さすが樫原さんねぇ、使い勝手や動線もよく考えてあるわ。」
「おそれいります、奥さま。」
「これならぼくらがこっちに住みたいぐらいだ。」
「慎一郎さま…ご当主がそのようなことをおっしゃっては、あの立派な母屋が泣きます。」
最上級の褒め言葉が少しくすぐったくて、あえて、冗談めかして言ったとき、
突然、慎一郎さまはぼくと春迦を見ておっしゃった。
「そうだね、だったらここには、春迦ちゃんと侑人が入ればいいよ…」
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。春迦もきょとんとしている。
「……はい?」
やっと絞り出した問い返しに、慎一郎さまは楽しそうに応えられる。
「だからさ、これはぼくと夏実からの、二人へのプレゼントって言ってるんだよ。」
〜わたしが見る景色〜
侑人さんもわたしも、義兄さんの言葉にただびっくりしていた。
(え?ここって、ゲストの滞在用で改装したんだよね?それが…え?なんで?)
「あ・あの…慎一郎さま…プレゼントというのは、どういう…」
「あれ?侑人にしては察しが悪いんじゃない?最初から、ぼくは、ここに二人の家を建てるつもりだったんだよ。
母屋の春迦ちゃんの部屋では、夫婦で住むには不便だろう?」
(…わたしたちの…家?)
「もちろん、母屋を改装してもよかったんだけど、それよりは、離れの方が、侑人も春迦ちゃんも
気兼ねなく生活できるだろうと思ってね。」
それを聞いた侑人さん、ものすごく困った顔になってる。
「慎一郎さま、いくらなんでも、それは…了承いたしかねます。」
「うん、きみならそう言うだろうと思ったよ。だからこれは侑人のためじゃない。ぼくと夏実の可愛い妹のためさ。」
「あ…わたし?」
これまで本当にたくさんのものを義兄さんにはもらってきたけれど、でもこれは…すごすぎる。
「料理上手な春迦ちゃんとしては、結婚したら、毎日侑人に食事を作りたいんじゃないの?」
「え?……そうね、それはそうだけど…」
「母屋だとそれは難しいけど、ここならできるでしょ?」
「義兄さん…」
今までも母屋の厨房を借りて、ときどき料理やお菓子を作ることはしてきた。
でも、そこが自分の自由になるキッチンでないのは確かだった。
(それはそうかもしれないけれど…)
「義兄さん、だったら、どうして最初から言ってくれなかったの?だって、ここ、ゲスト用だと思うから、
すべてのものを九条院家にふさわしい高級なものばっかりにしたのよ?」
「春迦ちゃん、きみたちは九条院の家族だよ。
だったら、九条院家にふさわしいものにすることは、何も間違ってないでしょ?」
ここで、やっと侑人さんが口を開いた。
「とは申せ、ここの設備と広さは、わたくしと春迦ではもてあまします。
どうか、当初おっしゃったとおり、ゲスト用としていただけませんか?」
「樫原さん。」
それまで黙って成り行きを見ていた姉さんが侑人さんに言う。
「慎一郎さんの気持ち、そのまま受け取ってもらえないかしら…?」
「奥さま…」
「慎一郎さんも、わたしも、樫原さんには感謝しているの。
わたしたちがこうして夫婦になれたのは、誰よりも樫原さんのおかげよ。
あなたは仕事の域を越えてわたしたちのために骨を折ってくれたじゃない。
わたしたちは、あなたに春迦を託せたことをとても喜んでいるし、二人の幸せを願っているの。
春迦だけじゃなくて、樫原さんにも、ここで幸せになってほしいのよ。
これはね、慎一郎さんとわたしからの、せめてもの樫原さんへのお礼の気持ちなの。
騙したようになったことは謝るわ。
でもわたしは、この離れのすべてが、あなたと春迦の居宅としてふさわしいと思ってる。
それだけ樫原さんは、九条院家にとって大切な人なのよ。」
姉さんの言葉は、侑人さんの心の深いところに響いたみたい。
(…侑人さん……泣いてる…!?)
しばらく間があいて、やがて侑人さんは、少しうつむきかげんに、潤んだ声でつぶやくように言った。
「わたくしのような者が春迦お嬢さまをいただいた、それだけでも十分ですのに、
そこまで思っていただけるとは…執事冥利につきます。
これまで、わたくしのすべてをかけて九条院家にお仕えしてきたこと、本当によかったと思えます…。」
そして、わたしにちょっと視線を向けてから、侑人さんは義兄さんに向き直る。
「これからは、まずは春迦の夫として彼女を幸せにすること、そして、姻戚として、
九条院家と慎一郎さまのお役に立てるよう力を尽くしてまいります。」
「侑人…じゃあ、ぼくたちの気持ち、受け取ってくれるね?」
「はい、慎一郎さま、ありがたく頂戴いたします。」
そういって、侑人さんは義兄さんと姉さんに深々と頭を下げた。