執事たちの(その後の)恋愛事情


第十五章




第一話:

〜わたしが見る景色〜

翌週、侑人さんの具合もすっかりよくなって、わたしはほっと一安心。

あのあとは、仕事も無理をしないで、義兄さんが手配してくれた会計士さんに
お屋敷の経理関係をいろいろ引き継いだみたい。

そして、今日は、わたしもスピーチをした財団主催のパーティー。

各界のセレブたちに、財団の活動をPRして、若い芸術家を育てるための寄附を促すのが目的なんだけど…

出資母体の九条院グループ総帥の義兄さんが、少し遅れているため、それを樫原専務がカバーして、
先に招待客に挨拶回りしている。

開会の挨拶としてわたしがスピーチしたあと、来賓から乾杯の発声があって、今はしばらくの歓談の時間。

義兄さんの到着を待って、グループ総帥からの挨拶というスケジュール。

スピーチの前はめちゃくちゃ緊張したけど、専務…じゃなくて侑人さんが、
『練習どおりにすれば問題なし』って言ってくれて、どうにか、お嬢さまの演技で切り抜けた感じ。

会場の反応は、侑人さんによればかなり良かったらしい。

実際、私自身はあまり全体が見えてなかったのよね…。

私と侑人さんは、理事長と専務理事として、それぞれ会場を回っていた。

今日の侑人さんはタキシード姿で、執事時代とはまったく違ってなんだか…

(とってもカッコいい…)

単純に服装が違うだけじゃなくて、やっぱり『専務』の貫禄っていうか…

前とは出ているオーラが違う感じ?なんかちょっと、見ていてドキドキしちゃう。

でも…どうやらそんな侑人さんにトキメイテいるのは、わたしだけではなさそうだよ…?

招待されているセレブの奥さまたち、樫原専務に興味津々かも…!?

侑人さんから少し離れたところでわたしは思わず耳をそばだててしまう。

わたしも来賓と話しているのだけれど、心ここにあらずっていうか…

(もう、集中できないんですけど…)

気づけば侑人さんは、周りをすっかり奥さまたちに取り囲まれていた。

なんだか質問攻めにあっているみたいなんだけど、その内容がプライベートにまで及んでいるように聞こえる…

(侑人さん、さすが…うまく話をはぐらかしつつ、ちゃんと相手してるみたい…)

けれど、奥さまたち、ちょっとずつ侑人さんとの間合いをつめてない?

なんか、さっきよりだいぶ近いんですけど…

そわそわしながらその様子を見守っていると…

「…春迦ちゃん。」と声をかけられて振り返る。

「あ・義兄さん」

「遅れてごめん、どうやら侑人がうまくフォローしてくれてるようだね。」

「え…あ…はい…」

「うん?どうしたの春迦ちゃん?…ははぁ、そうか…」

義兄さんが向こうにいる侑人さんの方を見て、ちょっといたずらっぽい笑みをこぼす。

「あの有り様を目にして、きみとしては気が気じゃないんだね?」

「に・義兄さんっ…!」

「たしかに、ああしてると侑人は結構なイケメンだからね。

 執事のときは存在感をあえて消していたから目立たなかったけど、

 前へ出るようになってモテるのは仕方ないかな…。」

(う…義兄さん、お見通しだ…)

「春迦ちゃん、ぼくも来たことだし、そろそろ侑人を助けにいってあげて。」

「あ…はい、いってきます。」

わたしは思い切りお嬢さまの顔を作って、奥さまたちの群れに向かう。

「皆さま、ごめんあそばせ…樫原専務、総帥が到着されたのでこちらへよろしいかしら?」

「承知しました、理事長。それでは皆さま、少々失礼いたします。また後ほど…」

そう言って執事の微笑みで奥さまたちに挨拶した侑人さんが、わたしと並んで義兄さんのもとへ向かうと、
後ろからため息ともつかないような声が漏れ聞こえてきた。

なんだか、わたしと侑人さんのことも何か言っているような…

思わず振り返りそうになると、横を歩く侑人さんが周りに聞こえないような声でささやく

「振り返ったらダメ、そのまま理事長の顔で慎一郎さまのところへ行って…」

「は・はい…」

「春迦…」

「なに?」

「助け出してくれて、ありがと…」

「え?」

「そろそろ限界だったからね、助かった。」

「限界?侑人さんが?」

「マダムたちにあんなふうに囲まれるなんて今までなかったからね、正直、参ってた。」

「そんなふうには見えなかったよ?」

「それは…当然でしょ?」

「あ…うん、そうよね、侑人さんなら当然です、愚問でした…」

侑人さんはクスッと笑ってすぐに樫原専務の顔にもどる。

「慎一郎さま、お待ちしておりました。」

「侑人、お疲れさま。なかなか面白い絵になってたよ?」

「助け舟を出していただきまして、おそれいります。」

「うん、ナイトが姫に助けられるなんて…ね?」

「はい、わたくしの姫は、とても頼もしいのです。」

(またそういうことを平気で口にするんだから、侑人さんてば…)

「はいはい、それぐらいで、次に進むよ、侑人、いいね?」

義兄さんは何か意味ありげに侑人さんに確認する。

「は、かしこまりました。」

侑人さんも全部わかっているみたいに返事をした。

(えっと…なんだろう…?)




第二話:

〜樫原が見る景色〜

遅れて到着された慎一郎さまが、九条院グループ総帥として挨拶のため檀上に立たれた。

司会者の紹介で、会場のざわつきが静まる。

昨夜、ぼくは慎一郎さまに呼ばれ、今日のこの挨拶の中で、春迦とぼくの婚約を発表すると言われていた。

財団の理事長と専務理事の婚約…

これから財団の知名度が否応なしに上がることを考えて、世間一般の注目度がまだ低い今のうちの方が、
春迦もぼくも余計な詮索を受けずに済むという慎一郎さまの判断だ。

今日の会には、社交界の顔が多く集まっている。

春迦が婚約したことを明らかにして、彼女へのこれ以上の縁談話を封じる意図もある。

とうとう、来るべきときが来た。


「…次に、ここで一つ、皆さまにお知らせがあります。当財団の理事長の…」

ついに慎一郎さまがぼくたちのことを発表した。

会場にどよめきが起こり、一瞬にしてぼくと春迦に注目が集まる。ここが正念場だ。

ぼくは、隣で絶句している春迦にささやく。

「春迦、お嬢さまの演技…。ぼくの腕をとって、笑顔で応えて…」

ぼくたちは、顔をあげて、堂々と、会場からの痛いほどの視線に微笑みと会釈で応える。

『堂々としたもの勝ち』と慎一郎さまはおっしゃった。

かつて急ごしらえのお嬢さまだった春迦に、執事として、そういうようなことを言った覚えがある。

まさか自分がそういう立場になるとはその時は想像もしなかった。

ぼくは、財団の事務方トップである「専務理事」の仮面をつけて、この厄介な社交界に名乗りを上げた。

やがて、会場のどこからか小さな拍手が起きると、その波は全体に広がり、ぼくたちは大きな喝采に包まれた。

たとえそれが、虚ろな社交辞令だとしてもそんなことはどうでもいい。

拍手をもって認められたというだけで、既成事実としては十分なのだから…


〜わたしが見る景色〜

やっとパーティーがお開きになった。

たった2時間のことなのに、ものすごく長く感じたのは…スピーチの緊張とそのあとのサプライズ…
なんてものじゃなくて、とにかく、ただびっくりして固まったからかな…?

義兄さんも侑人さんも、一言も教えてくれないなんて…あんまりじゃない?

あの衝撃的な発表のあと、わたしは侑人さんに言われるまま、理事長っていうか、
九条院家当主令妹としての『お嬢さま』を演じ続けた。

でも、状況がわからないから、周囲にお祝いを言われても、ひたすら微笑んでお礼を言うことしかできず、
ずっと同じ表情をしていたから、顔の筋肉がひきつりそうな感じ…。

お屋敷に向かうリムジンに乗り込んで、やっとわたしは口を開くことができた。

「もう、義兄さんも、侑人さんも、ひどいよ。あんな抜き打ちみたいなこと…」

義兄さんが驚いて侑人さんを見た。

「なに、侑人、春迦ちゃんに言ってなかったの?」

侑人さんはにっこり笑って答えた。

「はい、それでなくても春迦はスピーチの件で緊張していましたから、それ以上のプレッシャーは酷だと存じまして、
 あえて黙っておりました。」

「えーっ」

私の抗議の声にも侑人さんは動じない。

「だからぼくがちゃんとエスコートしたでしょ?」

「え…そういうことじゃなくて…」

「春迦なら、ちゃんと機転をきかせてついてきてくれるって信じてたからね。」

(うぅ…そんなふうに言われちゃったら、もう何も言えないよ…)

それを聞いた義兄さんが肩をすくめる。

「やれやれ、なんだか、すごくあてられてる気がするんだけど…?」

「はい、そうお取りいただいて結構でございますよ、慎一郎さま。」

「はいはい、ご馳走さま、侑人。」

(やっぱりこの二人って、スゴい…)


そして、侑人さんは義兄さんに向き直ると、真面目な表情になって言った。

「とは申せ…慎一郎さま。」

「うん?」

「わたくしどものために、本当にいろいろとお骨折りいただいて、感謝しております。ありがとうございました。」

義兄さんは穏やかな笑みを浮かべる。

「いいんだよ、侑人。こうするのはぼくの務めだったんだから。 やるべきことを、しかるべくやった…ただそれだけさ。」

侑人さんは、黙って義兄さんに頭を下げた。


「ところでさ…」

義兄さんが話を切り替える。

「結婚式はどうする?」

実はそのことは、侑人さんの誕生日の夜、二人で話して決めていた。

侑人さんがわたしの方を見て、わたしはそれにうなずいた。

「それにつきましては、ひとまず入籍だけ先に済ませようと春迦と話しました…」

「え?結婚式しないの?」と、驚く義兄さん。

「違うの義兄さん、もうすぐ姉さんが出産だし、年末年始はお屋敷も忙しいから、
 式は少し先に延ばそうっていうことなの。」

そう聞いてちょっと安心したように義兄さんは言う。

「あぁ、そういうことか…それならぼくは何も口出ししないよ。だって二人はもう生活を一つにしたわけだしね。

 入籍だけ先にするっていうのも、まぁ、ありなんじゃない?」

そう、義兄さんが言ったとおり、わたしたちは昨日からあの離れに入った。

わたしが義兄さんに頼んで、侑人さんが無茶をしないよう、一緒に生活する命令を出してもらって、
やっと侑人さんも承諾してくれた。


「で、いつ婚姻届は出すの?」

「慎一郎さまにお許しをいただければ、明日にでも…」

「えぇっ?」

あ・義兄さん今度はは本当にびっくりしてる。それはそうだよね…

「義兄さん、この前、侑人さんとね…離れに引っ越したらすぐ出そうって話してたの。」

義兄さんはちょっと呆れたように

「なるほどねぇ…」とため息をついた。

「さんざんぼくに出し抜かれたから、ここで侑人なりのけじめを通すわけだね?」

「ちなみに、夏実さまにはご了解をいただきました。」

「え?そうなの?…」

「はい…」

そう言って侑人さんは内ポケットから封筒を出すと、中の書類を開いて義兄さんに見せる。

「これ…婚姻届…もう用意したんだ…」

「義兄さん、あとは義兄さんと姉さんが証人になってくれれば出せるの。」

「あ…ほんとだ…証人欄以外はもう全部書き込まれてる…」

「はい、お叱りは覚悟の上の暴挙でございます。」

「ぼくが叱るなんて思ってもいないくせに…」

「わたくしたちにとって、証人は、慎一郎さまと夏実さま以外にはありえません。」

にっこり微笑む侑人さんに対して、義兄さんも納得したように笑顔で言った。

「わかったよ、侑人。とにかく、二人ともおめでとう。これで明日には、樫原夫妻になるんだね。」

(あ…なんか改めて言われると、とっても照れくさい…)

「ありがとうございます、慎一郎さま。

この先は、春迦と二人、どうぞよろしくお願い申し上げます。」

義兄さんは嬉しそうにうなずいていた。




第三話:

〜わたしが見る景色〜

お屋敷に帰って、わたしたちは義兄さん夫婦と一緒に軽めの夜食をとる。

義兄さんが、とりあえず正式な婚約発表のお祝いと言ってシャンパンを開け、姉さんは飲めないけれど、
形だけ一緒に乾杯して祝ってくれた。

わたしたちは離れに引っ越したものの、まだ食事は母屋で一緒にとっている。

でも、わたしは、これからは離れで、なるべく自分で食事を作りたいと思っている。

もちろん、母屋のような料理は無理だけれど、私なりに得意料理を作って侑人さんに食べてもらいたいし、
たぶん侑人さんもそれを望んでいるはずだから…

食事が終わると、義兄さんが侑人さんに、リムジンの中で預かった封筒を返してきた。

わたしたちの婚姻届…

「一応、確認してくれるかな?」

義兄さんの言葉に従って侑人さんが書類を確認する。

確かに、証人欄に、義兄さんと姉さんの署名捺印が入っていた。

「ありがとうございます。慎一郎さま、奥さま」

侑人さんは綺麗なお辞儀をしてから、受け取った書面を上着の内ポケットにしまった。

姉さんが感慨深そうに言う。

「これで春迦も、やっと樫原春迦になれるのね…おめでとう。よかったね。」

(あ・侑人さん、そう言われてちょっと赤くなってる…)

「ありがとう、姉さん。ここまで長かったけど、でも、だから余計に嬉しいっていうか…わたしこれから侑人さんのこと、
 何より大事にする…今までわたしを大切にしてもらった分、ホントに大事にするから。」

「春迦…」侑人さんが目を見張る。

義兄さんがそれを見て言った。

「侑人、春迦ちゃんはこう言ってるけど、ぼくの『妹』を頼む。…これからも大切にしてくれよ?」

「はい、慎一郎さま、奥さま。必ずお嬢さまを生涯守って幸せにします。」

侑人さんは義兄さんと姉さんをまっすぐ見てそう宣言してくれた。

わたしは嬉しくて涙が出そうなのを我慢しながら、侑人さんを見つめていた。



〜執事たちが見る景色〜

「(グスッ…)良かったよな、お嬢さまと樫原さん…」

「!…中岡、おまえ…泣いているのか…?」

「なんだよ真壁、別にいいだろ?お二人ともホントにここまで長かったんだから…」

「中岡、執事たるもの…」

「あーもう、それはわかってるからいいって。でもそれは、表にいればのことだろ?」

「ん…まぁな…」

「お嬢さま、すごく嬉しそうだ…樫原さんも、あんなに優しい顔するんだな。」

「あの人も以前に比べてずいぶん変わったものだ…だが…それは皆同じか…」



「お嬢さまは明日から、エンゲージリングつけたまま外に出られるんだよな?」

「あぁ、いつもお出かけの際には外されていたからな…見ているこちらが切なかった…」

「?…真壁、おまえでも『切ない』なんて感じることがあるのか…」

「(ぐっ)…中岡、おまえ、俺をバカにしてるのか…?」

「あぁ、いやいや…そうじゃなくて。ここへ来た頃のおまえをよく覚えてるだけにな…」

「ま・確かに俺も…お嬢さまがいらしてから、いつの間にか変えられていたな…」



「なぁ、真壁、俺はときどき思うんだよ。タイミングによっては、もしかすると、お嬢さまと恋人になっていたのは
 俺や真壁の可能性もあったんじゃないかってね。」

「っ!?…中岡…おまえ…ずいぶん大胆な妄想をするんだな…。」

「も・妄想って、おまえ…。だけど、真壁はまったくないのか、そういうの考えたこと?」

「ない………ということにしておく…」

「え…ずるいぞおまえ…。」

「あのお二人の幸せそうな姿を見て、そんなこと、言えるはずないだろう?」

「それはそうだな…」



「それに…」

「それに?…」

「仮にお嬢さまとそういう関係になったとして、今の樫原さんほどお嬢さまを幸せにできたかと考えると…

 たぶん…かなわない。…だから樫原さんでよかったんだと思う。樫原さんなら仕方ないと思えないか?」

「真壁……おまえって、案外いろいろ考えてるんだな…」

「…ったく失礼なヤツだなおまえは…『案外』は余計だ…!」

「悪い…。何にせよ、俺たちはこれからもずっと執事の立場でお二人をサポートできる。

 俺にはそのことがすごく誇らしいよ。」

「同感だ。そういう意味では俺たちもまた、この上なく幸せな執事と言えるだろうな…」

「あぁ…そうだな…」




第四話:

〜わたしが見る景色〜

その晩…

ふと目が覚めると、わたしは侑人さんの腕の中にいた。

(まだ暗い…夜明け前くらいかな…?)

頭の上で、侑人さんの静かな寝息が聞こえる。見上げると、彼の穏やかな寝顔があった。

(なんだか…とっても安心する…)

わたしは、今まで感じたことのない充足感と安心感に、心を開放されていた。

(こうして侑人さんに包まれていると、不安なんて何一つなくなる感じ…)

もう、遠慮しなくていい。

わたしたち、ホントに一緒に暮らせるようになったんだね…。

(夢みたい…もし夢なら覚めてほしくない。ずっとこの夢の中にとどまりたい。)


朝になったら、二人で婚姻届を出しに行くの。それでわたしたちはもう夫婦。

(まだ実感が…わかない…)

でも、義兄さんと姉さんみたいな夫婦になれたらいいな…

うん、きっとなれるよね、だって、わたしの旦那さまは侑人さんだもん。


夕べは、侑人さんにいっぱい愛してもらった。

わたしも、侑人さんの優しくて強い思いに夢中で応えた。

今までは、二人で朝を迎えるのは、いつもお屋敷の外。

帰ったらまた別々なんだ…そう思うと、愛されても愛されても切なさが残った。

でも、わたしが寂しい顔をすると、侑人さんを悩ませてしまうから、笑顔で甘えてごまかしていたのよね。

けれど、侑人さんはわかっていたみたい。

彼は昨日、わたしをきつく抱きしめながら『今まで待たせてごめん』と言ってくれた。

侑人さん、そんなのお互いさまだよ?

だって、侑人さんは、わたしが二十歳になるまで待ってくれたでしょ?

成人式を迎えて、わたしが自分の責任でなんでもできるようになるまで、一線を越えずに、
それでも一生懸命わたしを愛してくれたじゃない。

わたしのことをそうして本当に大切にしてくれたから、義兄さんも姉さんもわたしたちを祝福してくれて、
今の二人があるんだよ?


侑人さんの肌のぬくもりがとっても心地いい。わたしは彼の胸に頬を寄せてもう一度目を閉じる。

ずっと朝までこうしていられる幸せ。わたしがほしかったのはこの安息だったんだ…

(侑人さん、これからよろしくお願いします…)

そう思いながらわたしはまた眠りに落ちた。



〜樫原が見る景色〜

執事のときからの習い性で、ぼくはいつもと同じ時間に目覚めた。

まだ春迦が起きるにはだいぶ早い時間だ。

彼女はぼくに寄り添ったまま、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。

あまりの可愛さにいたたまれず、そっと抱きしめて、その綺麗な髪にキスを一つ落とす。

この屋敷で、これほど満ち足りた幸せな朝を迎えたことはかつてない。

もちろん、執事として、且つ家令として勤務していた日々はとても充実していた。

ぼくには、九条院家と慎一郎さまのために力を尽くすことが、何よりの喜びだった。

が、それも…春迦の専属執事になるまでのことだ。


春迦がこの屋敷にきて、執事をどうするかという話になったとき、
慎一郎さま付きだったぼくを春迦の専属に勧めたのは、他でもない慎一郎さまだった。

真壁や中岡では、お嬢さまへの指導という点では不十分な面があったからだ。

慎一郎さまは、夏実さまへの指導をぼくに任せられたように、春迦のことも託された。

(だが…)

今思うと、慎一郎さまには、当初からその愛すべきご令妹の人生をぼくに任せたい意図があったのかもしれない。

慎一郎さまとの付き合いは、ぼくが九条院家の執事になるずっと前から続いているものだ。

だから実際ぼくたちは、気心が知れる仲などというレベルをはるかに越えている。

ぼくには慎一郎さまのことで、わからないことなど何もないという自負がある。

そして慎一郎さまもまた、ぼくのことを、ある意味、ぼく以上によくわかっておいでのときもある。


夏実さまとのご結婚が決まったとき、それを誰よりも祝福したのはぼくだった。

慎一郎さまが全身全霊で愛し、生涯を共にと心から望まれた夏実さまとの結婚までの道のりは、
決して平坦ではなかった。

ぼくは、家令としては九条院家の対面を、慎一郎さまの執事としては主人の希望を、
どちらも損なうことがないよう、うまく収めるために奔走した。

披露宴が無事に終わった夜、慎一郎さまはぼくの働きを労ってくださった、と同時に
『いずれ侑人にもこういう幸せな結婚をしてほしい』とおっしゃった。

そのときは、単に労いの言葉の延長線と思っていたが、考えてみると、
すでにその時点で、春迦と旧知の仲だった慎一郎さまは、無意識に、
春迦とぼくの将来を重ね合わせて見ていたのかもしれない。

あの方にはそういうところがある。

(慎一郎さまのおっしゃった通り、今、こうして春迦を妻にできてとても幸せですよ…)


それなのに、身体に染み込んでいる執事の時間軸が、いまだにぼくを、早朝、
あたりまえに目覚めさせることに苦笑する。

確かに、財団の仕事が本格的になってからも、ぼくはときどき屋敷内での行動に限定し、
臨時で執事服を着ることはあった。

真壁と中岡の手がどうしても回らないときだ。必要なときに必要なことをピンポイントで手伝っていた。

しかし、それももう昨日までのことと覚悟する。春迦の夫となる今日からは、もう二度と、執事服は着られない。

(きみを、『執事の妻』にするわけにはいかないからね…。)


さて、あと30分たったら、いつもより少し早めだけど春迦を起こそう。

一緒に起きて、一緒に身支度をして、そして朝食を作って二人で食べよう。

そうやって新しい習慣を少しずつ二人でつむいで、ぼくの身体にも刻んでいこう。

ぼくは、ごく普通の日常を、二人でいること・二人ですることへの喜びを感じて、これからの生活に思いを馳せた。

執事からの完全な卒業への寂しさは、もう、感じない。