第十七章
| 第一話: |
〜樫原が見る景色〜
離れに戻る道すがら、春迦が言う。
「ね、侑人さん、もう少し、このドレス着ていたいな。侑人さんも、もうちょっとだけ、その服でいてもらえない?」
そう言われて断る理由はぼくにはない。
「いいよ、じゃ、このまま少し、ディナーの余韻にひたろうか…」
「うん、ありがとう、侑人さん。」
嬉しそうに腕をからめてくる彼女を、新しいぼくたちの住まいまでエスコートする。
「春迦、先に上のリビングに行ってて。お茶を淹れてもっていくから。」
「いいの?なんだか執事さんみたい。」
そう言ってぼくを見上げたその目は期待に満ちていた。
「元執事の夫としては、これからも、できることは何でもするよ。」
「ふふっ…でも、わたしも侑人さんの奥さんとして何でもしてあげたいけど?」
「じゃ、それぞれ得意なことをしよう、とりあえず今はお茶を淹れるね。」
「はい、お願いします。上に行ってるね。」そう言って、彼女は階段を上がっていった。
ぼくは、キッチンで、今日買ってきたばかりの紅茶を取り出して用意を整え、トレーで上階のリビングに運ぶ。
ここは家族での長期滞在用に設計した。
上階は家族のプライベートなエリアで、広いリビングを中心に、それぞれの寝室につながった造りにしてある。
(やはり、春迦と二人で住むにはどうにも広くて持て余すな…)
今日もそのことを慎一郎さまに話したのだが…
『だったら家族を増やせばいいじゃないか、これから二人でね。』
…と事もなげにおっしゃって、ぼくと春迦を慌てさせたどころか、傍らに控えていた中岡や真壁までも赤面させていた。
(まぁ、そんなことを悪気もなく言ってしまわれるのが、らしいといえばらしいが…)
慎一郎さまの屈託のない笑顔を思い出しつつリビングに着くと、
先にいるはずの春迦の姿が見当たらない。
「?」
すると、リビングからバルコニーに続くガラス扉が開いていた。
ぼくは、トレーをテーブルに置いて、バルコニーへ向かった。
今夜は満月で、バルコニーが月に照らされているのがわかる。
「春…迦…」
次の瞬間、ぼくは、その場に立ち尽くしてしまった。
バルコニーに立って月を見ていた春迦が、ぼくに気づいて振り返り笑顔を投げかけた…
その姿が、あまりにも綺麗だったから…。
そしてぼくは思い出した。
いつだったか、この離れ脇の木立のベンチで休憩していて見た夢を…
夢の中の春迦は、太陽の光に包まれて、まるで天使のようだったけれど、今夜の、
ローブデコルテを身にまとった彼女は、月明かりの下、まるで女神のような美しさでそこにたたずんでいた…。
| 第二話: |
〜わたしが見る景色〜
侑人さんの気配がわかって振り返ったら、なぜだか侑人さんが固まってしまった。
目を瞬かせて、びっくりしたようにわたしを見ている。
「侑人さん?……ねぇ、侑人さん?」
「…あ…うん、ごめん、春迦があまりにも綺麗で、見惚れちゃった。」
「え?」
(わたしはただ、ここで月を見ていただけなのに…)
「一瞬、月の女神が降りてきたのかと思った。」とやわらかな笑みを浮かべる侑人さん。
こういう表現はすごく侑人さんらしいし、普通ならとってもキザなセリフなのに、
そうならないところが侑人さんのすごいところ…。
でも、面と向かって言われたら、気恥ずかしいことに変わりはない。
「もう、侑人さん、そんなことばっかり言ってからかうんだから…」
「からかってなんかないよ。」
そう言って侑人さんは静かにわたしの背を抱き寄せる。
「今まできみは、ぼくの可愛い天使だと思っていたけど、それは違った…
もう、春迦はすてきな大人の女性で、ぼくを守護する女神になった。」
「侑人さん…」
「春迦、いつだったか、ここのベンチでぼくが見た夢の話、覚えてる?」
「うん…わたしが離れの二階のバルコニーにいてっていう夢だよね…」
そこまで言って、わたしも侑人さんが何を言いたいのかわかった。
「侑人さん、もしかして…あの夢って、今の、このことだったとか?」
「不思議な感覚が残っていたんだけど、そうだったのか…って今、納得できたね。」
彼は、わたしに向き直ると、そっと、ドレスから出ていた素肌の肩に触れた。
夜風で冷えていたのか、侑人さんの温かい手が心地いい。
「ちょっと冷えてるね、寒いんじゃない?中に入ろうか…」
「ううん、もう少し、侑人さんとここでお月さまを見ていたい。」
「それじゃあ…」
そう言うと、彼は自分のテイルコートを脱いで、わたしに羽織らせてくれた。
侑人さんのぬくもりが残るテイルコートはとても暖かく感じる。
「ありがとう、侑人さん」
そう言って侑人さんを見上げた瞬間、彼に抱きしめられて、それからやさしく、深く、キスされる…
「春迦…」
「侑人さん…」
もう一度しっかり抱きしめられて、侑人さんがささやいた。
「春迦、愛してる。ぼくはこれからきみだけを見て生きていくよ。だから、ずっとぼくのそばにいて…
ぼくの最愛の妻として…」
わたしはもう、涙で侑人さんの顔がにじんでいた。
最愛の人からこんなことを言ってもらえるなんて、これ以上の幸せはないよね…
「侑人さん、わたしも侑人さんのことを愛してる。世界で一番、誰よりも愛してる。
どこにも行かない…いつもいつも侑人さんのそばにいたいから…」
それはまるで、お月さまが見守る中で交わした、婚姻の誓いのようだった。
わたしたちは、月の光に包まれて、いつまでも抱き合っていた。
これからの二人の生活に胸をときめかせながら、いつまでも、いつまでも…。
| エピローグ〜3年後〜 |
〜執事が見る景色〜
「坊ちゃん、どこですかっ、出てきてください…!壮一郎坊ちゃん…!」
穏やかな日曜の昼下がり、ぼくは、ぼくの小さなご主人の姿を探し求めていた。
(今まであずまやにいたのに、ほんの一瞬、目を離したすきに…)
「古手川…。」
呼ばれて見上げると、東の離れの窓から、樫原さんが顔を出していた。
(坊ちゃんの目線で下ばかり見ていたら、いつの間にかこんなところまで来ていたんだ…)
「樫原さん、すみません、お騒がせして…」
「壮一郎なら、離れにいるから心配ないよ。」
「え?またお邪魔してるんですか…申し訳ありません。ちょっと目を離したら…」
「古手川、おまえの主人はまだ3歳だからね、そもそも目を離してはいけないよ。」
「はい、すみません。気をつけます。」
今年のはじめ、イギリス留学から戻ったぼくは、執事見習いから正規の執事として採用され、
旦那さまのご長男、壮一郎坊ちゃんの専属に指名された。
とはいえ、幼い坊ちゃん対しては、執事というよりほぼ、ベビーシッターに近いけど…
樫原さんが、坊ちゃんに振り回されているぼくを見かねて言う。
「壮一郎はしばらくこちらで見ているから、おまえは屋敷内で溜まっている仕事を済ませなさい。」
「ありがとうございます、樫原さん。坊ちゃんはまた、あやさまのところですか?」
「うん、うちの娘がよほど気に入ったようだね。ベビーベッドの脇にくっついて離れない。
さっきも慎一郎さまと一緒に来たばかりなのに…」
「旦那さまはあやさまが可愛くて仕方ないようですよ。
だから坊ちゃんも自分の妹のように思っているのかもしれませんね。」
「何しろ、慎一郎さまのご子息だからね、親ゆずりの『兄ばか』になるかもしれないよ。」
「え…か・樫原さん…。」
(中岡さんたちから聞いてたけど、ホントにすごいことを笑顔でさらっとおっしゃるな…)
「春迦が急に産気づいて、会社から慎一郎さまと一緒に病院に駆けつけた時、そのあまりの慌て振りを見て
看護師が勘違いしてね、『お父さん、落ち着いてください』って慎一郎さまが言われたぐらいだから…。」
(そ・そんなこともあったんだ…それは…旦那さま…だめですよ…)
「え…あ…えーと…樫原さんはどんな状況でも冷静でいらっしゃいますからね…。と、ところで春迦さまは?」
「壮一郎ともども、あやのところにいるよ。」
「あ・そうですよね、お母さんですものね、春迦さま…」
そのとき、春迦さまが樫原さんを呼ぶ声がした。
「侑人さん、あやのおむつ替えるから、ちょっと壮ちゃんをみててくれる?」
「わかった、すぐにいくよ、春迦。」
ぼくは樫原さんにお礼を言ってその場を後にし、母屋へ戻る。
(なんか…いいな…樫原さん、とてもお幸せそうだ。春迦さまのことを心から愛しているんだな…)
幸せをおすそ分けされたような、温かい気持ちがぼくを包んでいた。
〜樫原が見る景色〜
春迦に呼ばれて娘のもとへ行く。そばには案の定、壮一郎が張りついていた。
「壮一郎、おいで、一緒にお外へ行こうね。」
慎一郎さまの長男でぼくたちの甥っ子になる壮一郎を抱き上げて、部屋から連れ出そうとすると、
春迦があやのおむつを用意しながら言う。
「侑人さん、別に、出て行かなくても大丈夫よ?すぐ終わるし…」
それに対して、ぼくは笑って答えた。
「そうはいかないよ、これは、ぼくたちの娘のプライバシーに関わるからね。男の壮一郎に見せるわけにはいかない。」
「もう…侑人さん、大げさ…」
春迦は呆れたように笑う。
「娘を他の男から守るのは、父親の本能みたいなものだよ。こればかりはたとえ慎一郎さまでも不許可。」
そう言って、幼い甥っ子を抱いたまま部屋を出た。
「ふふっ…あや、今からこんなで、あなたに彼氏ができたらどうなっちゃうかしらね、ちょっと心配…」
春迦のそんな冗談まじりの声を後ろに聞きながらつくづく思う。
(やれやれ、慎一郎さまのことをもう「兄ばか」とは言えないな。ぼくも相当の「親ばか」になりそうだから…。)
春迦を妻にして3年、ぼくの人生は、前にも増して充実している。
去年、可愛い娘の『あや』が生まれて、夫の他に父親としての責任も加わった。
財団は、春迦が妊娠して身を引いたのを機に、人事の刷新を行い、
新理事長には、海外から帰国された山科さまが就任された。
ぼくは九条院家の姻戚という立場で、今は、慎一郎さまのもと、役員兼秘書室長として、
九条院グループ本部に移籍し、総帥の繁多な業務をサポートしている。
執事であれ、部下であれ、慎一郎さまのお役に立てるのは、ぼくには喜ばしい。
一方、九条院屋敷でも、中岡・真壁が中心となり、使用人たちを束ねるようにまでなった。
いずれ、二人のどちらかが家令になる日も来るだろう。
ぼくは、九条院家でのこの愛おしい日々を、これからも春迦と一緒に歩んでいく。
これは、お嬢さまとの恋におちた一人の執事の恋愛事情として、とても幸福な結末、そして、未来といえるだろう。
God bless you forever !