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筆者が見る事が出来た文献の中から「八塚」記載のものを次に示す。

「姓氏家系大事典」 太田 亮著 角川書店

八塚 ヤツカ 紀伊続風土記に「那賀郡粉河庄粉河村八塚常三郎。 その祖を八塚左衛門太夫という。奥州熊取谷を押領す。永禄年中没落して当村に来る。三代目を善兵衛という。天正年中、織田家高野攻めの時、堀久太郎に属し飯盛山の砦に忍び入りて功あり。この時、氏を郡と命ぜらる。故に八塚の氏は弟に譲れリ。子孫九左衛門友之というものに至りて再び八塚に復して、世々常時に住す。当時独礼格に命ぜらる」と。又同邑地士六拾人の内に「田林利兵衛、田林直七、八塚次郎」等見え、又武蔵等に存す


「紀伊続風土記」 仁井田好古ほか
巻之三十二 那賀郡 粉河荘 粉河村
八塚常三郎  其祖を八塚左衛門太夫といふ泉州熊取谷を押領す永禄年中没落して当村に来る三代目を善兵衛といふ天正年中織田家高野攻の時堀久太郎に属し飯盛山の砦に忍び入りて功あり此時氏を郡と命ぜらる故に八塚の氏は弟に譲れリ子孫九左衛門友之というものに至りて再八塚に復して世々常時に住す当時独礼格に命ぜらる
巻之三十二 那賀郡 粉河荘 粉河村
地士四人
           六十人之内
              田 林 利 兵 衛
              田 林 直 七
              八 塚  次 郎
              神 野 新 四 郎

「豫陽郡郷俚諺集」 愛媛青年淑女協会
浮穴郡の篇
八塚 荏原 当所衛門三郎が八子頓死せし其墓所也、詳しく石手寺の下に記す、今八塚と名乗は河野末流也、又八束とも書くあり。

「伊予の名前事典」 愛媛新聞 昭和44年11月2日付

八塚 やつづか 
松山は久谷に八つの塚があります。むかし、弘法大師がこの地に巡錫(−しゃく)されたとき、この地の豪族の門に立たれて喜捨をこわれました。その家の主人は大師のささげられた鉢(はち)を打ち割ったといわれています。その鉢が八つに割れてそれぞれの塚になったのだそうです。豪族の家では八人の子供がつぎつぎと命を落としました。主人は前非を悔い遍路に出ました。そして生まれかわってふたたびこの世に生をうけたとき手の中に石を持っていました。石手寺の名の起こりです。その名を衛門三郎といいました。久谷村の浄瑠璃寺(じょうるりじ)には、子規の句碑があります。“永き日や衛門三郎浄瑠璃寺”とあります。県地方労事業局長の
八塚太郎は宮窪町出身であります。中四国結核病学会長をつとめ国立療養所山陽荘長八塚陽一も同町の出。松山市からは三菱電機常務の八塚茂治、富士鉄名古屋製鉄所製鉄部長八塚健夫が出ています。


「越智氏族略系図」 近藤福太郎 不詳
(六)越智氏族略系図
      

「瀬戸内海水軍史」 松岡 進著 瀬戸内海文化研究所
第九章 安土・桃山時代
第四節 因島村上家の水軍組織
村上三家由来記に
因島村上氏 十八家衆番頭衆左記

 三百三十貫 天正十八年改 四百五拾石
 一四百二拾貫領              旗奉行

                        八塚内記越智通政

第九章 安土・桃山時代
第三十一節 関ヶ原の決戦と竹原村上水軍刈屋口敗戦、竹原崩れ(要約)
関ケ原の戦いの時、毛利氏(西軍)の配下にいた村上氏は東軍の伊予松前城主加藤嘉明を攻めるべく三津浜に上陸し、刈谷口に宿陣したが松前城留守役の佃十成の奇襲攻撃により敗北する。この時、能島村上・因島村上合同で安芸国竹原を出陣する軍勢の中に八塚通政がいる。
第十章 江戸時代以後
第一節 因島村上氏の移動と定着(要約)
大島の高龍寺にある村上宗太郎文書の「能島記録亀老山高龍寺記」によると、「関ケ原合戦の結果毛利氏は防長二州に国替えとなり因島の村上義光吉国父子も備後国鞆の居城を差し揚げられ、長州矢田間に於て僅かに二千八百石地を領し給う。以前の領地の二十分の一に減少し、家中給人二百八十騎余の上下老若男女小者に至るまで八千余人是に当惑す。然りと雖も是非に及ばず、追々分散して数多の人減す。是をもって迫る後、村上義光存念の事有り、矢田間の領地を差し上げて官を辞して備後の国に帰る。而して後、予州弓削に蟄居す。加藤家より身分に就けんと欲し和睦を整えられ、之に由り慶長十三年冬、大州予添国の郷亀田に仮に住居する。三ヶ年随従、武士僅かに残って五十五騎、慶長十五年乃万郡佐方ノ保に移る。」とあり、佐方に移ってのちは、同文書によると、稲井、救井、あるいは秋山、磯兼、大舘、徳丸、大塚、八塚、坂田等も乃万郡賞田荘や多根ノ浦、佐方ノ保など所々に分居し、三十六騎は銘々に加藤家に従って屋敷地を渡された。「後世まで相続し子々孫々繁栄して、今百弐拾軒余ことごとく軒を並ぶ。此の屋敷地は他より入ることを免されず、皆三十六騎の門葉のみを以って是に住する也。」とある。

「因島市誌」 因島市
因島市の史誌である本誌には、村上三家由来記の「因島村上家の水軍組織」で八塚通政が大塚通政となっている

「予章 与陽盛衰記」 愛媛県越智郡社会科同好会 愛媛県教育研究協議会
第七章 遊行上人由来の事(抜粋)
昔、当国浮穴郡荏原村に八塚右衛門三郎と云う俗あり。その後八塚伝説(石手寺伝説)を述べている。詳しくは「与陽盛衰記について」を参照のこと。

その他 下記書籍には「八塚」に関する記述は無い。

  「予章記」(越智、河野氏の誕生から滅亡迄を記す)群書類従 合戦篇
 「河野分限録」(天正三年九月以前の城主並びに家来衆の人名を記すもの)
 「伊予の姓氏」(村上順市著、愛媛文化双書刊行会)