堀悌吉と堀家

この章は八塚とは全く関係の無い「堀 悌吉 海軍中将」について述べます。
これは管理人の遊びですので、関心の無い方は通り過ぎてください。
実は管理人の妻が悌吉の遠縁に当り、岳父は悌吉の悌の字を貰った悌治と言う名を生涯誇りとしておりました。その岳父の三回忌も近づいたこの時期にこの文章を書くのも、何かの因縁と思っています。(2004.9)


堀 悌吉
は海軍兵学校で山本五十六と同期で、その生涯の心友(親友)として良識派海軍軍人として著名です。その経歴・思想等については、宮野澄著「不遇の提督堀悌吉」「海軍の逸材堀悌吉−海軍良識派提督の生涯」、阿川弘之著「山本五十六」や堀悌吉に関するサイト(海軍兵学校―堀悌吉)を参照頂くとして、ここでは従来あまり語られる事の無い堀家と堀悌吉について述べたいと思います。


悌吉は明治16年大分県で矢野弥三郎の二男として生まれ、杵築藩士族堀正次の養子となり、海軍兵学校に進みました。

堀家は大分県杵築藩松平家藩士で、現在も杵築市に本家と屋敷が残っています。
正次堀新右衛門正孝の次男で子が無かった為、悌吉を養子としました。

堀正孝の長男を弘(ひろむ)正治と言い、岳父の祖父に当ります。正治は明治4年江戸屋敷から帰郷後、小学校(寺子屋)教師として過ごし明治12年に亡くなり、それはその子善一郎が18才の時で、正次はその後見人となりました。

その関係から善一郎と悌吉は兄弟のように過していたようで、善一郎の子供達(岳父を含む)は悌吉を実の叔父と考えていたようです。岳父は三男坊で幼くして親元を離れた為、つい最近まで本当に叔父さんだと思っていたようで、宮野さんの著書により実の関係を知ったようです。

これは系図上の誤りに通じる話ではないかと思います。戸籍など無い江戸時代以前では、人の記憶だけで系図が作成される為、この様な思い違いも多々あったのではと推測されます。

尚、杵築における正次、悌吉の屋敷跡は現在柴田家(柴田勝家の末裔、善一郎の姉及び二女の嫁ぎ先)の屋敷地の一部となっています。

岳父は大分県から岡山県に移り、堀玉陽の名で綱濱曙詩社を主宰し詩集「曙」を発行しており、戦時中の一県一誌時代には岡山県での版権を有しており、「秋津温泉」で有名な藤原審爾がまだ無名の文学青年で、その版権の譲渡を依頼に来たとのことです。

その岳父も戦前陸軍に召集され、中国戦線にいる時当時連合艦隊第三戦隊司令官であった悌吉を旗艦「由良」に訪ね、歓待されたことをよく話題にしていました。旗艦の衛兵に捧げ銃(栄誉礼)で迎えられたことを楽しそうに話しておりました。


堀善一郎夫妻と子供達(大正年代初期)
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堀正次から堀善一郎への書状(明治22年)


  豊後杵築松平藩士 堀家家系図