| 日本地名大辞典 和歌山県 粉河 |
角川書店編 |
| 門前町の産物として「名所図会」は酢・蒟蒻・団扇を揚げ、酢について町内室屋九郎右衛門・麹屋七郎右衛門・玉屋太郎右衛門の三戸に製す・・・・江戸初期には室屋が独占的に営業、藩の御用酢をつとめた。(中略)文政7年の酢御仕入方組入願写(八塚家文書/県史近世3)によれば・・・・粉河酢の生産高は寛政年間ごろ室屋が1500石程度、文久3年では麹屋が1200石ぐらいであった。室屋は酢のほか酒造も盛んに行っていた。(中略)明治9年2月から9月にかけて地租改正をめぐる農民運動が起きた。当村戸長八塚林之輔は云々 |
| 私札紀州駒屋札 |
新紀州物語文化編・紀州古泉会会誌から |
発行:慶応〜明治三年
札元 八塚真一(当主) 那賀郡粉河町粉河
(新紀州物語文化編・紀州古泉会会誌から転記)
粉河寺の門前町の中ほどに古い門構えの家がある。先祖は近江源氏の系統で400年程前(室町時代末)、泉州熊取、八塚城の城主(一名熊取城)のころ、戦乱をさけて、粉河に移住したといわれる。天正年間豊臣方に味方し(高野攻め)、軍功があったと伝えられる。
八塚家は昔から本家を中心に方角によって、西八塚、南八塚、北八塚などとよばれて代々栄え、現在本家と南八塚とが「本駒屋、南駒屋」の屋号で酒造業を営んでいる。また同家は大庄屋をつとめたこともある大地主で、紀州公の信頼もあつかったと言われ、拝領の家宝も多く残っている。
小作米だけで酒造りを営んだというほど田畑を持ち、「紀の国の名さえ粉河と聞く酒は、親を養う薬となる」と言う板が表入り口につり下げられてあったという。
現在の建物は約100年前に建てられたもので、部屋数は約30、畳数も170畳近い風格のある建物で、立派な長屋門に囲われている。
さて紙幣がどのような目的で、どのような方法で発行され、適用したかその詳細は明らかでない。 |
| 八塚家について |
礼一調書による(昭和54.1) |
| 粉河の八塚には、むろや八塚と駒屋八塚の二氏があった。駒屋八塚は一時絶えていたが、むろや八塚より世継ぎをむかえて、駒屋八塚を再興した。中興八塚(現在の八塚本家、当主第八代八塚純男)の弟2代目文次郎の二男勝次郎が、分家して南八塚家を創設し、(約180年前)、酒造業を営み、その第6代目が八塚礼一である。 |
| 八塚家について |
八塚 泰宏氏による |
発祥地は奥州熊取谷ではなく、泉州熊取(大阪府泉南郡熊取町)とのこと。
本八塚(酒造業・金櫻)、南八塚(酒造業・御代鶴)、西八塚(醤油醸造)、北八塚(郵便局受託)、室屋八塚(産土神社神官)、他に3八塚があるとのこと。 |
| 西八塚家について |
八塚 俊尚氏による |
| 私の実家は和歌山県の粉河で醤油屋の西八塚でありその中で粉河騒動の八塚林之輔は3代目当主であります。現在も両親が粉河に在住しておりますが私で7代目になります。粉河の八塚についてはHPに記載の通りですがこれ以外で私が子供の頃に亡くなった祖父から聞かされたエピソードとしては江戸時代に紀州徳川家第10代藩主 徳川治宝公が町の娘を側室として迎えるにあたって身分が問題となり一旦八塚家の養女にして八塚家から輿入れさせたとの事でした。そのお姫様のおかげで粉河寺にも多額の援助があったとの事です。当時を偲ばせる物としては輿入れに使われた葵の御紋が入った長持が我が家の蔵の中で醤油作りの道具と一緒にほこりまみれになって置かれております(中身はもちろんガラクタですが)。 |
| 地士制度 |
和歌山藩史辞典 |
なお、八塚家は粉河村の地士四人の中に入っていることは、「文献を見る」でも記されているが、地士制度について「和歌山藩史辞典」から見てみると
「第三の特徴は地士制度である。地士とはいわゆる郷士のことで、頼宣は紀州入国当初、領内の地侍の武功や名族・旧家の由来などをくわしく調査し、それらの中から元和八年(1622)に「六十人者地士」を任命して、各五十石を与えて大番頭の支配下に置いた。」 |