苗字発祥の地
 発祥の地は

八塚」は地名或いは塚の名前に由来する事は異論の無いところと思われるが、「八」は美しい、多いを意味する字で必ずしも数字の8に拘らずに命名された可能性もある。ただ愛媛県にこの苗字が多いことより、第一に考えられるのは松山市の石手寺伝説にある「八ッ塚群集古墳」であろう。

また、富山県には江戸時代八塚村が2ヶ所(現在は大字)存在していた。そして、埼玉県朝霞市には八塚古墳が存在していたことも判明した。ただし、これらの地を苗字発祥の地とされる方は残念ながら管理人の知る範囲ではない。



 「八ッ塚群集古墳」

八塚
の苗字の由来と言われる「八塚(八ッ塚)群集古墳」は写真の様に直線上に8ヶ所の円墳となっている。衛門三郎の屋敷跡と言われる四国八十八箇所番外文殊院より徒歩4〜500mの所にある。これに関する記述を2,3拾ってみると。 「八ッ塚周辺地図」

「松山市の文化財」(松山市文化財協会)

 八ッ塚群集古墳 松山市荏原町 昭和41年5月14日指定
松山平野の南丘陵部には、ドンダ原・西野・高尾田・釈迦面・松が谷等の古墳群が存在し、その東平野部に8基の群集古墳(八ッ塚)が所在している。
墳丘の規模は直径10m〜20mの円墳をなしている。玄室は未調査のため明確でないが横穴式石室によるものと推察されており、その時代は古墳期終末と考えられている。
前述した古墳群に対して性格的に異なることが考えられ興味深いものであり、平野部の群集墳としても特殊なケースである。
またこの塚が衛門三郎に纏わる8人の子供を祀ったとの伝説が残っており、塚の頂に小祠が置かれ石地蔵が祀られているものである。しかしこの伝説については今後においても確たる調査研究が必要である。


「伊予路の文化」(松山市文化協会)

八ッ塚
八坂寺の北方に文殊院という番外札所がある。石手寺の項にある伝説、衛門三郎の邸跡だという。ここから西に200m程ゆくと三郎の八人の子をまつる「八ッ塚」というのがある。塚の頂には小祠が置かれ、石地蔵が安置してある。衛門三郎の戒名は『光明院四行蓮大居士』で、天長八年(西暦831年)十二番焼山寺で死亡したという。そして三郎が生まれかわってこの世に出たのは、文保二年(西暦1318年)らしく、五世紀近く眠っていたと見える。(後略)


八塚群集古墳
人物は10年前の管理人
八塚群集古墳
このように直線状に八基並んでいる

 弘法大師伝説と八塚

ここに石手寺で発行している四国八十八箇所巡り(お遍路さん)の発祥伝説「衛門三郎伝説」を紹介します。

衛門三郎縁起
昔伊予の国浮穴郡荏原の郷に「衛門三郎」という非常に欲の深い長者がいました。或る日門前に一人のみすぼらしい托鉢の僧が訪れましたが衛門三郎はこの僧が弘法大師であることを知らず僧の持っていた托鉢をとりあげてなげつけてしまいました。
ところがその後八人の男の子が悉く死んでしまいました。これには強欲非情な衛門三郎も恐ろしくなり邪見をひるがえし家をすて身を忘れて四国巡拝に旅立ちました。然しいくら四国をまわっても大師にお会いすることができず遂に二十一回目天長八年阿波の国焼山寺の麓で病に倒れ明日をも知れぬ身となりました。
その時突然弘法大師が枕元に現れ彼の手に一寸八分の石に衛門三郎と彫み授けますと衛門三郎も安心して息を引きとりました。
それより幾許の年月をへてこの地方豪族河野息利に男子が生まれましたがその子は幾日にもなるのに右の手は握ったままで開きませんので、この寺に願をかけましたところ手の中から”衛門三郎”と書かれた石がでてきました。そこでこの石を当山に納めましたのでその後寺号を安養寺といっていたのを石手寺という様になりました。現在”衛門三郎玉の石”は大講堂の正面に安置してあります。

衛門三郎玉の石(石手寺所蔵)
 写真は「石手寺HP」より
衛門三郎屋敷跡と言われる文殊院




 富山県 八塚村(江戸時代)

「日本地名大事典 富山県」(角川書店)

富山県南砺市(旧東砺波郡福野町)及び射水市(旧射水郡大島町)に大字八塚が現存する。

やつづか 八塚 南砺市 周辺地図 旅川右岸沿いの村、村名はこのあたりに八つの塚があったことによる。
やつづか 八塚 射水市 周辺地図 射水平野の南部に位置する。むかし「尉塚」といわれたという。地名の由来は八つの塚があったからともいう(大島村史)(地図では八の字だけで塚が消えている)




  その他の八塚

インターネットで検索すると下の様に、多くの八塚が見つかった。詳細は不明だがもしご存知の方があれば、お教えください。

名  称 住     所 備 考 (サイト等)
八ッ塚 横浜市瀬谷区(場所特定できず)  「瀬谷の民話」
八ッ塚 仙台市若林区新寺小路(地図) 「CityDO!>八ッ塚/仙台市」
八 塚 岡山市沼字八塚(地図) 宇喜多氏ゆかりの沼城址の近く、地図で発見
八塚古墳 埼玉県朝霞市宮戸1丁目朝霞浄水場内(地図) 現在は朝霞浄水場建設で消滅したらしい。
八ッ塚古墳 神奈川県平塚市(場所特定できず) 「平塚市文化財調査報告書」
八ッ塚古墳 岡山県御津町新庄(地図) 「町立五城小学校6年15年度研究」
御所八ッ塚古墳群 石川県金沢市御所町(地図) 金沢大学考古研?「御所八ッ塚古墳群の測量」

その他、八塚さんの故郷とその周辺地図は「八塚の故郷」に記載。




  八塚を訪ねて

現在、管理人は山城巡りに嵌っている。 訪れる人もない古城の遺構に佇み、静かに往時に思いを馳せる旅を「土成探検」と呼んで一人楽しんでいる。 昨年この土成探検の合間に「八塚」の地を訪れたので、ご紹介します。(2011.5)

 富山県南砺市八塚(2010.10)
 
 熊騒動の真っ最中に北陸3県の土成探検に出掛けた。 熊出没を報道された魚津市鹿熊の松倉城を断念する代りに、南砺市の井波城(瑞泉寺東隣)を訪ね、そこから氷見市の森寺城に行く途中に南砺市の八塚地区を訪れる事が出来た。 井波城から北西に約4qに八塚地区がある。 ここは南砺市役所から県道71号線を約1qほど南下した地点で、71号線の「八塚」交差点を中心に住宅と田園風景が広がる平地である。 交差点の北400mの所には「八塚公民館」まであり、相当大きな集落であることが分かる。 管理人が訪れた日は土曜日で、公民館周辺には人影もなくお話を聞くことも出来なかった。 


 
 富山県射水市八塚(2010.10)

 
富山空港近くの安田城から砺波市の増山城への途中で、少し寄り道をして射水市八塚へ行った。 八塚はJR北陸本線高岡の手前「越中大門」駅の南東に位置する。 大門高校と大門中学の間の道路に「八塚」交差点周辺が集落となるのだろう。 地図でみると大門中学の北100mほどに「八塚ふれあい館」と言うのがあるらしいが、先を急いでいたので、八塚交差点にある店の駐車場から周辺を見渡しただけで、失礼することとした。 

 岡山県岡山市沼字八塚(2010.11)

 沼城は備前国の戦国大名宇喜多直家が岡山城に移るまでの居城であった。 城址は東区沼の浮田小学校を西郭として、その北東の弁天神社のある小山に主郭とU郭を配していた。 この城址には宇喜多氏の旗印「兒」の大きな幟が立ち、それが風でハタメク大きな音と、北側を走る山陽新幹線の轟音に驚かされる。 この城址の南300mを国道250号線が走っており、その南側「シャシャ木山」の東麓を八塚集落と呼ぶようである。 但し地図によっては「沼」としか表記されていないが、250号線の沼交差点から東へ500mの地点にバス停「八ッ塚」がある。 このバス停の周辺には畑しかないが、その南側に民家が散見できる。 ここも集落の中まで入ることなく退散したが、どうして「八ッ塚」と表記しているのだろう。