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| 【徳田靖之弁護士の講演】 みなさん、こんばんは。お仕事のあと、こんな時間帯に集まっていただきまして、本当にありがとうございます。 今日は、先ほどスライドも見ていただきましたし、現実に現地に、この共に歩む会のメンバーの方に行っていただいて、その報告もしていただきましたので、単に私が説明するだけではなくて、いろんなことが感覚的にお分かりいただけるのではないかと思います。 今日、私はソロクト問題全般と、東京地裁で始まった裁判のことについてお話しをさせていただきます。 先ず最初に、「ソロクト」と言っているのですが、ソロクトというとこはどういう所なのかということを歴史的な経過をふまえてお話しをしたいと思います。 「ソロクト」というと馴染みにくいかと思うのですが、日本の漢字で書くと「小鹿島」と書きます。先ほどの地図で色をつけてあるところということでお分かりいただけたでしょうか。お手元の資料の最後に地図があります。この地図の真ん中の下のほうにある島、これがソロクトです。 ご承知のとおり、日本でハンセン病の患者に対する隔離政策が始まりましたのは、1907年(明治40年)です。いわゆる日韓併合、日本が朝鮮半島を植民地にしたのは1910年、歴史の勉強の時によく暗記したと思いますが、「半島にイクヒト困る」が1910年。ですから、日本が韓国を併合した1910年にすでに日本ではハンセン病患者と疑われた人たちに対する隔離政策が始まっていたわけです。 当時の朝鮮半島におけるハンセン病の患者がどういう状態だったかというと、日本とほとんど同じ状態だったと言われています。 家族に守られて生活をしている人たちもいますし、家族への迷惑を恐れて家族と別れて全国を旅としてまわるという人もいました。主として、これらの人に治療の場、生活の場を提供をしていたのは、宗教者、とりわけキリスト教系の宗教施設あるいはキリスト教宣教師達が作った病院というものがこの人たちの治療、あるいは生活の場を提供していたというわけです。 そこに日本が韓国を併合して、そして日本の隔離政策を事実上持ち込むということになったわけです。 お手元の資料に挟み込んである「ソロクト問題略史」という年表がついていますが、これをちょっと見ていただきますと、ここに今私が話しましたように1907年に「らい予防ニ関する件」という法律が制定され、その3年後に日本が韓国を、朝鮮半島を併合しました。そして1916年、この現在のソロクトの地に「全羅南道小鹿島慈恵医院」を開設し、ここでハンセン病患者と疑われた人たちの収容、治療を始めたわけです。 その後いくつかのことを経た上で、1926年、この小鹿島慈恵園を拡張して、いよいよ大量のハンセン病患者を収容しようというときに、もともとここに住んでいた人たちがそれに反対するという大きな運動を起こします。これをいわば反対闘争を弾圧するような形で朝鮮総督府がここに大きな病院の拡大、拡張ということを実施するわけです。折柄、日本では1931年(昭和6年)になりまして、旧らい予防法というのが制定され、従来の定住の場所、療養の道を有しない人だけを隔離していた政策から、すべてのハンセン病と疑われた人を、日本中の療養所に強制隔離するという法律が日本の本土、国内に制定をされたわけです。これを受けて朝鮮半島においても同様の絶対隔離政策というものを展開しようということで、1933年朝鮮総督府はらい根絶20年計画というものを策定したのです。そして1934年に勅令第260号というのを出して、この小鹿島慈恵園と呼ばれていたのを小鹿島更生園というふうに名前を変えた上で、これを朝鮮総督府の直轄、つまり国立らい療養所にしたという経過をたどるわけです。さらにその1年後1935年に朝鮮らい予防令というものを制定し、法律上も隔離政策というものが朝鮮半島で認められるという経過になったわけです。 実際、一番多かったときには6500人が収容されていたと聞きますので、ハンセン病療養所としては世界最大だったと思われます。 後で具体的なことをお話ししますけれども、あまりにも苛酷な隔離政策が貫徹されていましたために、入所者がたびたびいろんな形で反抗を起こしていくわけですけれども、1942年にはこの小鹿島更生園の園長である周防という人が入所によって刺殺されるという事件が起こっています。このときに周防園長を刺殺した李さんは、入所者からは、非人道的な弾圧に抵抗した人物として評価されていまして、日本では、日本人の園長を殺害したとんでもない入所者という形で評価されてますから、極めて対照的な評価を受けているわけです。 なお、1945年8月15日に日本は敗戦、無条件降伏をしたわけですけれども、その直後にソロクトで朝鮮人の職員が自分たちが報復されることを恐れて入所者を大量に虐殺するという事件が起こっています。84名が記録上残されているわけです、このときに虐殺された人の数でありまして、ソロクトで行われていたことの悲惨さを端的に示しています。つまり同じ民族、朝鮮人の職員が入所者を殺害するという、暴動を恐れて殺害したと言われているのですが、こういう事件が起こっていて、引き揚げ途中の日本軍がここに駐留をし、日本人の職員をみんな軍隊が守って引き揚げ、その際記録を全部焼却、あるいは持ち去って、(実は、後でもお話ししますけれども、小鹿島更生園には日本統治自体の記録がほとんど残っていません。)全て日本人が日本軍に守られながら撤退する際に資料を全部消し去ってしまった。日本の裁判では、入所証明というのを各療養所が出すことで、これのみで入所していることが証明できるんですが、小鹿島更生園では実はその入所者名簿というのがないんです。戦後ここが韓国政府の管理下に移った後で、1960年頃にやっと名簿の複製をしたということで、そのために、名簿に載っていない、あるいは入所時期が戦後になっていて自分たちが植民地時代にここに入れられた証明ができない方がいるという状況なのです。 現在はここに500名を越える方がおられまして、その内117名の方が、いわゆる日帝時代、日本が植民地にしていた時代に入所をしていた人だといわれているわけです。 これが小鹿島更生園といわれるものの歴史と、今の概略ということになります。 そのほかに全国88ケ所とよばれている定着村に、日本が統治していた時代に強制収容されていたという人がおそらく、私たちの推定ですけれども300〜500人はいらっしゃるだろうと、皆さん平均年令は80才を超えていらっしゃいます。ちょうど1945年の日本の敗戦からほぼ60年を経過しているわけですから、入所していた当時の年令に60を足すということになりますから、平均年令がいかに高くなるかということがお分かりいただけると思います。 私たちはこの裁判のなかで、現在ソロクトにおられる117名の方だけではなくて、この定着村におられる300人とか500人と推定される人たちをも、この裁判に参加していただこうというふうに思っています。 忘れないうちに、先ほどご質問がありましたからお話しておきますと、定着村は88ケ所と言われていますけれども、定着村ごとに千差万別です。上手くいっているところ、経済的に上手くいっているところと経済的に上手くいっていないところの格差は非常に大きいといわれているわけです。 実は自分たちの手で作り上げたという非常に強い誇りをもって各定着村は運営されていますけれども、いわば地域隔離、あそこがハンセン病の元患者の人たちの住んでいる地域だという形で韓国社会の中では、戦後もずっと現在まで差別の対象とされ続けている、そういう側面が残っています。ですから、そこで暮らし自分たちの村をつくっていた人たちは、自分たちの子どもにだけはこういうつらい思いをさせたくないという、本当にそういう悲願のもとに死に物狂いに働いて村を作っていった、というそういう経過があると思います。そのことは、また少し後でお話ししますけれども、少なくとも韓国社会においてはハンセン病の回復者、元患者に対する差別は日本以上と言っても過言ではないのではないかという印象を私自身は持っています。 次に、ソロクトにおいてどんなことが行われていたかということ、ソロクトにおける隔離政策とその特徴ということでお話したいと思います。 まず最初に明らかにしておきたいのは、日本における隔離政策と同じ隔離政策が行われたわけですので、特に韓国において、日本国内で行われた隔離政策で現実に実行されなかった政策というのはありません。ですから終生隔離、死ぬまで、なおかつ断種、堕胎というのは貫徹されましたし、労働は強制されましたし、なおかつ治外法権、法律や憲法が働く場所ではありませんでしたので、園長が勝手に処罰ができる。そのために先ほど非常に印象的だった写真が監禁室。これが外見がそっくりそのまま残っています。外壁があり、内壁があり、中に先ほど独房といいますか、その写真も写っていましたけれども、監禁室を備えて違反者に対しては裁判手続を取らずして園長が処罰を加えるというようなことが、これは日本における各療養所と全く共通のものとして行われています。 問題は、そうした日本における隔離政策と共通しているという、そのほかに日本の国内では絶対になかったことがここでは行われている。それはどういうことかというと、つまりソロクトや台湾、日本は台湾でも同じようなことをしていて、「楽生院」という楽しく生きる院という、本当に言葉というのはなんて恐ろしいのかと思いますが、楽生院という名前、ソロクトは更生園、人生をやり直していく更生園という名前をつけているのですが、ここがどういう場であったかというと、隔離政策と植民地政策、これが全く同時に貫徹された場所だといっていいと思います。一方でハンセン病患者、元患者に対する隔離政策が行われ、他方で他民族に対する支配、植民地政策が貫徹されたという側面を持っていたといえるのではないかと思います。それがどういうところに現れているのかというと、私は3つの点でお話ししておきたいと思います。 1つは、労働です。労働の強制が日本国内とは著しく違います。どう違うかというと、第1に、先ほど赤いレンガがありましたが、このレンガを、赤土を使って作らせるのですが、これを商品にして、それを売ってその収入で園の運営に充てようとしたわけです。日本国内においては、療養所の自給自足体制を維持するための患者作業というのはありました。 もちろん一部に例外的に商品化というのがなかったとは言えないのですが、特に栗生楽生院ではなかったとはいえないのですが、このソロクトにおいては、レンガとカマス、それからマツヤニ、これをノルマを課して大量に作らせてこれを売りさばく、そしてそのお金で園の維持にあたるという、いわば商品というのでしょうか、これを生産させようとしています。ですから完全な労働力としての収入といっていいでしょうか。 そのうえでこの労働の苛酷さというのが著しく違います。朝早くから真っ暗になるまで、なにしろそれぞれの班、一番大きな単位は里という単位があるんですけれども、さらにいくつかの班に分かれて、それぞれに例えばこの班はカマスいくらというのが月の目標、ノルマとして課せられている。これを達成しないと懲罰がきますので、それはみんなでとにかく競い合って仕事をやらざるを得ない。これは日本の療養所においてどういう点が著しく違うかといいますと、日本の場合は特に長島愛生園が有名ですけれど、友愛運動という名前で労働を強制していったわけです。つまりその患者同士が助け合う、そういうものとして労働を強制していく。働けない人がたくさんいるんだ、働ける人が働くという、あるいはお世話をする、そういう友愛運動というようなスローガンで労働を強制し、これをやっていない人は仲間外れにされてしまうという形でいわば労働が強制されたという特徴を持っているんですけれども、ソロクトでは、暴力的、物理的強制そのものです。そういう意味で極めて長時間の苛酷な労働で、なおかつノルマと暴力的な強制によって行われた。例えば海に朝からずっと浸かったままで海草の採取をするとか、桟橋工事に従事させられる。ご承知のとおりハンセン病は抹消神経を侵されていますので、冷たいという感覚がありませんから、そこで長時間海水に浸かったままの作業をしますと、たとえば冬場等には完全に凍傷になってしまうんですが、それも気付かないという労働をさせていくわけです。この労働の絶対的強制というのが特徴だと思います。 それから2つめは、懲罰。これは極めて特異な形をとっています。私はこの懲罰の特異性の中に植民地政策という性格が一番でていると思います。暴力ですね。棒で叩くというのが懲罰の第一です。日本の懲罰というのは監禁室に入れる、あるいは減食、食事を減らすというようなことが懲罰の中身だったわけです。殴るということは日本国内の療養所における懲罰としては、全くなかったとはいえないとは思いますが、それが日常化されていたという話までは聞いていないのですが、このソロクトでは、懲罰は第一義的には暴力です、棒で殴る。そのうえで、なおかつ懲罰として断種をする。10代の男の子が規則違反だとして、懲罰として断種をされたという報告がいくつかあります。日本は結婚の条件として断種が行われてきたわけですけれど、このソロクトでは結婚の条件ではなく懲罰としての断種も行われてきた。これらは植民地政策ということを抜きにして、他民族蔑視支配ということを抜きにしては考えられないことだという気がします。 この労働が苛酷でなおかつ懲罰というのは暴力、棒で打擲(ちょうちゃく)するということであったということが何をもたらしたかというか、先ほど集会場での写真を思い起こしてほしいのですけれども、私もソロクトにはまだ3回しか行っていないんですけれども、その2回目の訪問で、原告になる人たちが100人近く集まったわけです。私たちは先に着いていて、そこに後から次々とみなさん到着するんですけれど、息を呑みました。私も日本の療養所をほとんどまわっていますし、これまでに何百人という方と接してきましたけれども息を呑みました、恥ずかしいですけれど。それは両足を失っている人、それはあまりにも重い。両足の指ではなくて、両足を失っている人。電動車椅子に、ぶら下がるようにして会場に入ってくる。会場に入ってくると残された指はないんですけれど、残された腕で自分の席に着こうとされる方が何人もいらっしゃるわけです。これは苛酷な労働と懲罰で、暴力的に叩かれていますので、その傷がもとで足を奪われたという人たちが非常に多いわけで、それは日本のどの療養所における後遺症の重さと比較しても比べものにならないという印象を私自身が持ちました。先ほども心凍るという思いをしたという話がありましたけれど、本当にそういう感じを私が受けたわけです。 植民地政策と隔離政策というのが重なっていたんだという3番目、これは民族性を徹底的に封殺しようとしたということです。これは1つは、韓国は儒教社会ですけれども、ずっと長らくキリスト教の宣教師たちがいろんな治療にあたってきたということがあって、ハンセン病の患者の圧倒的多数がクリスチャンです。この人たちに、神社参拝を強制したんです。ソロクトに行きますと、一番高いところに鳥居があります。ここに神社を造ったわけです。そしてここへの参拝を強要し、参拝しない者に懲罰を加えたわけです。 お手元の資料のなかに、週間朝日の記事があるんですが、このなかにチャン・ギジンさんという方がおられます。先ほど原告代表ということで先ほど写真にでていた83才の方なんですが、チャン・ギジンさんという方は本当に敬虔なクリスチャンでして、実は私が担当する原告なんですが、この方は神社を参拝しろと言われてそれに従わなかった。神社の前を通るときに礼をしなかったと咎められて暴力を振るわれています。そういう信仰をも強制しただけではありませんで、これは資料の中にある滝尾さんが強調されるところですけれども、亡くなった後遺体を解剖して、そして火葬にしたわけです。韓国社会というのは、儒教思想の影響をうけていまして、土葬です。 その、土に帰るということを一切許されずに解剖したうえで、いわゆる遺体を切り刻んだうえで火葬にする。それもいわば韓国の人たちの民族的な風習等を踏みにじったという行為になるのではないかという感じがします。 この3つの点に見られるように、ソロクトにおいては、私は隔離政策と植民地政策というものが集中して実行されるといっていいのではないかという気がしています。 それでは、今回ソロクトでの問題を裁判ということでやろうとしている、その何を課題としているのか、ということと、今回の訴訟にはどういう目的の特徴があるのかということをお話ししたいと思います。 先ず私は、これまでお話したことで少しお分かりいただけるのではと思うんですが、このソロクト問題における日本という国の責任があると思います。私がちょっとお話ししただけで、何が行われたかある程度ご理解いただけたと思いますが、これほどの苛烈な被害を放置してしまっているわけです。何らの補償もしていません、日本政府は。なおかつ、これらの日本が統治時代、植民地としていた時代に、これだけの苛酷な被害を与えただけではなくて、この問題がその後日本が敗戦した後、韓国社会にもたらした影響という問題が非常に大きいと言う気がします。つまり、日本が1910年に日韓併合ということをしてから1945年までの間35年間にわたって隔離政策を遂行したことがその後韓国社会の中にハンセン病に対する強固な差別意識を根付かせてしまっている。非常に特徴的なことがありました。丁度先ほど藤内先生、大谷さんが一緒に行ってくださったときに、実は通訳、韓国の通訳の方をお願いしたんです。そのうちの一人は私たちと以前にもソロクトへ入ったんですが、その外の方は始めて入ったんですね。その方たちは韓国の若い方たちで、日本語を話せるとという人たちで、一定の教育を受けた人たちなんですけれど、皆さん一様に、表現をどういうふうにすればいいのか分かりませんが、私たちと一緒に各部屋に入って聞き取りをする際に、恐る恐ると言う感じで、恐る恐る着いてくるのがわかりました。私たちが握手をしたりしていると、その後で、「あの、握手などして大丈夫なのでしょうか」ということを聞いてくる。あんまり腰が引けている感じがするので、弁護団の一人が夜に通訳の人たちといろいろ話をしたんですけれど、自分達は子どもの頃から定着村のことを聞いていて、あそこにはいわば恐い人たちが住んでいるということで、何かあると石を投げたりというような、そういう生活を経験してきた。ハンセン病という病気はどういう病気かということは分からないけれど、とにかく恐ろしい病気だ、と言う感じで近寄ってはならない場所として、その定着村という場所を意識してきたという話をされまして、日本の弁護士が入ってきて握手をしている姿を見てびっくりした、というようなことを、その通訳の方たちが言っておられました。それを聞いて私たちは、どういう状況かという具体的な知識もないままに訪問したんですけれど、韓国社会の中で、ハンセン病の元患者・回復者の方々が置かれている状況がどんなものであるのかということを垣間見たような気がしました。 その後私自身がソウルに行きまして、韓国の弁護士会「大韓弁護士協会」というのですが、ここを訪問して、そこの人権擁護委員会の主だったメンバーの人たちにソロクトへの裁判の支援のお願いに行きました。そうしましたところ、その大韓弁護士協会の中で、人権問題にずっと取り組んでこられた方々が一応に口にされたのは、「恥ずかしい」と。自分達は韓国内のハンセン病の問題について、これまで何もしてこなかった。そのことを日本の弁護士に指摘されて恥ずかしい思いがする、というふうに言われまして、それが実は6年前に私たち日本の弁護士たちが日本のハンセン病療養所におられる方たちから突きつけられた、刃を突きつけられたような思いをしながら反省をした同じ言葉が返ってきたんです。お話しを聞いてみると、韓国が隔離政策を事実上継続をさせてしまっている、日本が引き揚げた後、なおも断種は続いていました。法律は1961年になくなったんですけれど、実際は社会復帰政策など何もとられてませんで、定着村以外に社会復帰をする道というのは閉ざされていますので、定着村に行くかあるいはソロクトでそのまま人生を終えるかという、そういう道しかない。なおかつ補償が全くないので現在も65才以上になり、いわゆる老齢福祉年金というようなもので、一ヶ月、私が聞いた話では、35,000ウォン。75才以上になると50,000ウォン、10分の1にしてもらえば大体今の日本円ですから、月額にして3,500〜5,000円の年金がでているだけで、これは国民誰もが受けとる年金です。ですから、隔離された被害に対する補償金は全くなされていないのです。 次に、今回東京地裁で始まった、いわゆる「ソロクト訴訟」についてお話したいと思います。 実は、熊本地裁での裁判が進行している最中において、私たち弁護団は、ソロクトの問題を放置して国内の療養所の問題だけに取組むのは自国民中心主義だと批判をされていました。批判を受けて、私としては、何とかしたいと思いはしたのですが、大きな壁があったのです。日本国内の場合には、戦後も1996(平成6)年までハンセン病隔離政策が続いていた。らい予防法が廃止されるまでずっと続いていたということで、除斥期間は突破できたんですけれど、韓国の場合は、1945年に日本政府はソロクトにおける隔離の主体ではなくなった。その1945年から20年以上経っている訳です。そうなると国はもう責任は負わない。この除斥期間の壁をソロクトで破るというのは非常に難しい。したがって、日本でやったと同じような国家賠償訴訟をやっても、勝つ見込みが非常に薄いということがありました。このために私たちの側から国家賠償訴訟をやりましょうと呼びかける訳にはいかない。そこで私たちが考えだしたのは今回のソロクト訴訟です。それはどういうことを考えだしたかといいますと、3年前を思い出していただきたいのですが、熊本地裁で判決がでて、そして国が控訴断念をした直後に、実は国会である法律が成立したんですが、それを私たちはハンセン病補償法と呼んでいますけれども、どういう法律かといいますと、熊本地裁判決と同じような基準でハンセン病隔離政策の被害にあった人たちに補償金を払います。原告にならなくてもよい、裁判をしなくても補償法に基づく請求をすれば、お金を払いますという法律をつくったんですね。何故つくったのかというと、原告がこれ以上増えたら国としては非常に困るので、原告団や弁護団の力がこれ以上大きくならないために裁判手続きをしなくても、つまり今まで裁判に反対してきた人たちも結構いましたから、その人たちが別に弁護団や原告団に頼まなくてもお金をもらえますよということを実現したいということで、慌てて作った法律がこのハンセン病補償法という法律なんです。この法律には、国籍条項がないんですね、つまりハンセン病隔離政策の被害をうけた人ならどこの国でもよい、なおかつ居住地条項がない。ご存知でしょうか。最近いろいろ問題になっています被爆者援護法、これは居住地条項というのがあって日本にいる人が申請しないといけない。あるいは日本に来て申請をしないといけないという制限があるんですが、このハンセン病補償法にはこれもない。どこに住んでいようと、どこの国籍であろうとハンセン病隔離政策の被害を受けた人すべてに適用するという法律になっていて、日本のなかでいいますと、私立の療養所でもよいし、あるいはアメリカが直接統治権をもっていた時代の沖縄の療養所でもいいし、戦前の療養所でもいい。こういう法律をつくったわけです。そしてソロクトや台湾楽生院のことを知らなかったために、この法律が適用されるのは、こういう療養所ですというふうに厚生大臣が定めた告示というものがあるんですが、その中に、ソロクトや楽生院をいれなかった。私たちはこの法律を楯にとろうと考えたのです。どこの国の人でも、どこに住んでいてもいいんだったら、ソロクトは日本の国がつくった国立ハンセン病療養所だからここにいる人たちもこの補償法の適応は受けられるはずだと、受けさせないとするんだったらそれは平等原則に違反しているだろうと。ということでこの補償法を逆手にとってやろうというふうに考えたわけです。私たちにとっては本当に癪に障る法律だったんですけれど、これを逆手にとって補償法による請求をしてみようということで、117人の人がその補償法の請求をした。案の定、厚生労働省はそれを棄却しましたので、それはおかしいということで、取消を求める訴訟を起こしたわけです。 これがソロクト訴訟と呼ばれるものということになります。第1回が10月25日、奇しくもこの日は、草伏村生さんがなくなった日なんです。この訴訟は10月25日が第1回ですけれども、1年以内に判決をもらいたい、と思っています。といいますのは、平均年令が80才を超えていて、私たちがソロクトへ行くとみなさんに言われることというのは、「生きてるうちに、生きているうちに」と言われるんですね。2回目に行ったときに、「今日は勝訴の判決を報告に来たんですか。」と言われてですね、「まだ裁判を起こしていないんです。」という言葉をやっとの思いで言ったんですけれど、皆さんが本当に一日千秋の思いで待っている。だから、2年や3年はかけられない。なんとしても1年以内に判決を取る。というふうに思っています。そして重要なことは、大韓弁護士協会に対する申し入れが功を奏して、韓国の弁護士たちが日韓共同でこれをやろうということで、韓国弁護団ができたわけです。 当初は7人で、これは韓国弁護士会の錚々たる人たちなんですが、さらに今どんどんどんどん韓国弁護団が広がっています。日韓共同で裁判をやりぬくということを今目論んでいまして、8月それからつい先日の9月、ソロクトに日韓の弁護士たちが入って共同で今聞き取り、陳述書作りをやっています。多分これは歴史上初めてではないかと言う感じがしています。そのうえで、10月25日を期して日韓で同一内容の署名活動をやろうということを考えています。つまり、日本語とハングルとで同一内容の署名用紙をもって大量の署名を集めていく。私が思いますのに、1年で判決をとることが仮に可能だとしても、今度は控訴するかもしれない。その控訴を許さないという、その力の一番大きな切り札は、韓国内の世論の盛り上がりです。これを日韓問題にしていく、韓日問題にしていくということが、短期でこの問題を解決していくという上での最も重要なことだと思っていまして、日本と韓国とでそれぞれ数十万の署名を集める。そして韓国政府がこの裁判を支持していくという、そういう状況を作り出していく。これは韓国の弁護団は、凄い人たちで大統領も弁護士出身ですから、今度10月12日ですか、韓国の国会でシンポジウムを大韓弁護士協会が開くということで、私たちも招かれていくんですけれど、いよいよ韓国においても、ハンセン病の元患者の方たちに対する補償法というものをつくれという要求を大韓弁護士協会が打ち出すということになりましたので、この裁判は、単にソロクトの訴訟を勝ち取るだけではなく、韓国内におけるハンセン病問題の解決の第一歩に、引き金になるという、是非そうしたいなという思いがしています。 いろいろと偉そうな事を申しましたけれども、最後に日本国民として何をすべきか、ここからはお願いということになるんですが、講師から一転お願いということになるんですが、私自身6年前にハンセン病の問題に取り組んだときに法律家としての責任ということを強く意識して参加をしましたけれど、今回3度ほどソロクトへ行って強く感じたのは、日本国民としての責任。国民というか、日本人としての責任という言い方のほうがいいのかもしれませんが、よくわかりませんけれども、そのことを強く感じました。 こういう話をされるんですね、あまりにも辛いので泳いで逃げようとした。しかし見つかって船が出て、陸に下ろされて、みんなが見ている前で、棒で叩かれて立ち上がれない程に。そういう話を聞いていて、自分が日本国民であることについて、恥ずかしい思いがするわけです。それで恐る恐る「日本政府に何をお思いですか」と聞くと、ほぼ全員がクリスチャンなものですから、「私は神を信じているので、他人を恨むということをしない」とみなさん言われるんですね。「じゃあ、この裁判に勝つと不十分ですけどお金が入りますけれど、何をしたいですか」とお聞きすると、「一度だけバナナを腹いっぱい食べてみたい」とか、「視力障害者用の腕時計がほしい」とかですね、これは日本円で1万円から2万円ですが、そういうことを言われる人たちです。私は、やはりこういうような深刻な被害を与えた事について、日本国民としてこの問題をどう受け止めるかという視点は大事だと思っています。 もう一つ、この問題をやっていくことと連動して、日本におけるハンセン病差別というのが、昨年11月のアイスター事件に象徴されるように、今なお差別・偏見というのは実は根強く残っているわけでして、これを本当に克服していく運動というのをこれからどんどんやっていかないといけないわけで、このソロクトの裁判を支援していくという運動と、アイスター事件に見られる日本国内のハンセン病の差別等の問題を結びつけて運動をより広く、より深くつくっていく必要があるのではないかと思っているわけです。 東京で行われますから、毎回傍聴にきてくださいというお願いはできないわけですが、大分はやはり薬害エイズ以来、全国に先駆けていくつかの事をしてきました。実は、ソロクトのこういう開かれた勉強会も日本で今日が最初だと思います。少なくとも、私たち弁護団が把握している限りでは最初だと思いますけれど、この署名ですね。最低50万、そういう署名を全国でやって、その中心を大分で担っていただけないだろうかと思っています。できれば、毎回一人どなたか代表で行けるような状況を作り出すために、いろいろ資金的な面でもご協力をお願いできないかということを考えています。 最後はお願いばかりになってしまいましたが、以上で私の話はおわりにしたいと思います。 |
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