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第一話
喜寿を迎えて思うこと
いつのまにやら喜寿を迎えた。
還暦を迎えた時は、記念に、エッセイ『晩鐘 還暦に思う』という本を書いて、出版した。そし
て、その本の最初のページに次のように記した。
「 還暦を迎えた
今日還暦を迎えた。
いろいろなことがあった。苦しいこと、悲しいこと、うれしいこと、楽しいこと。
とにかく、たいした病気もせず、事故にも遭わず、六十年生き続けられたことに感謝します。
ありがとうございました。
つらいこと うれしいことを繰り返し
いつのまにやら 我は還暦 」
と。
古希を迎えた時は、一人娘夫婦に小学校一年生の長男のアッ君と、まだ幼稚園に通える
年ではなく、「ママ!」「ママ!」と言ってママに付きまとう次男のカイちゃんがいたので、妻と
共に、娘を支援する必要があり、古希を迎えた感慨にひたる余裕も無かった。
今回喜寿を迎えたわけであるが、その間、娘夫婦に三人目の子どもの長女ひーちゃんが
生まれ、妻と共に娘を支援してきたのであるが、ひーちゃんは現在幼稚園の年中組に通っ
ており、娘の育児の負担が軽くなり、妻と私の支援の必要性がほとんどなくなり、妻と私の
二人だけを中心にした生活を営んでいる。妻も私も今のところこれという持病も無く、穏や
かな生活を送っている。
喜寿を迎えた気持ちを言い表すとすれば、
「いろいろなことがあった。苦しいこと、悲しいこと、うれしいこと、楽しいこと。とにかく、たい
した病気もせず、事故にも遭わず、七十七年生き続けられたことに感謝します。ありがとう
ございました」
ということになる。
(2014年1月)
第二話
孫の成長の早いこと
一人娘夫婦に三人の子どもができて、近くに住んでいることもあって、妻と共に三人の孫
たちにかかわってきたのであるが、孫で長男の厚君は、来年高校生になるという。
厚君は、現在満十四歳で、中学校三年生である。
厚君との出会いは、昨日のことのように鮮明に思い浮かべることができる。
娘は、私たちの家の近くの産院で出産し、退院するやいなや、厚君と、産後の数週間を
私たちの家で過ごした。
厚君のお風呂は、一月のこととて風呂場は寒いので、暖房の効いた部屋の食卓の上に
セットされたプラスチック製のベビーバスで、沸かしたお湯を入れ、水を少しずつ入れて、
かき回し、良いあんばいの湯加減にし、妻が厚君の両耳をふさいで、仰向けにして、そっ
とお湯に浸けていった。厚君がどんな顔をするか、見守っていると、嫌がりもせず、胸元に
ガーゼでお湯をかけると、おちょぼ口をして、「気持ちがいい」というような顔をした。
「アッ君はお風呂が好きなようだね」妻と私はそう言ってほほ笑んだ。
あの光景は忘れられない。昨日のことのように思われる。
あれから、いつのまにやら十四年の歳月が流れたのだ。
厚君の成長記録については、エッセイ『おもしろおかしいカイちゃん 赤ちゃんは天から
の贈りもの』及び、エッセイ『孫という名の宝物 三人三様の三つ子の魂』に記した。
(2014年3月)
第三話
今も硬式テニスをやっている
今も硬式テニスを週に一、二回、午後二時間程度やっている。 なんといっても、健康でテ
ニスコートに立つことができるのがありがたい。また、バスを利用して二十分程のところにテ
ニスコートがあり、テニス仲間がいるということもありがたいことである。
昨年の十一月三十日、堺市役所硬式庭球部創立五十周年記念祝賀会が開かれ、私は創
部に携わった者として招待され、乾杯の音頭を取らせていただいたが、堺市役所硬式庭球
部が五十年、途切れることなく、続いているのはうれしいことである。私は、堺市役所硬式庭
球部を定年退職とともに去ったが、いろいろなところで、続けてテニスをやってきた。私にとっ
ても五十年テニスやってきた証になった。
(2014年4月)
第四話
私の誕生日に、孫たちからお祝いのメッセージ
平成二十六年六月の私の満七十六歳の誕生日に、孫の小学校五年生のカイちゃんと幼
稚園年中組のひーちゃんから、ファックスで次のようなお祝いのメッセージが送られてきた。
もちろん、娘が二人に何か書くように仕向けたのであろう。
いずれにしても、孫たちからのメッセージは嬉しい。
(上段の「こうのひとみ」の「の」が左右反転
している。字を書き始めたばかりのようだ)
カイちゃんの成長記録については、エッセイ『おもしろおかしいカイちゃん 赤ちゃんは天か
らの贈りもの』及び、エッセイ『孫という名の宝物 三人三様の三つ子の魂』に記した。
ひーちゃんの成長記録についても、エッセイ『孫という名の宝物 三人三様の三つ子の魂』
に記した。
(2014年6月)
第五話
愛について
私は、三組の両親から深い愛を受けた。
まずは、私を生み、育ててくれた実の両親(父、嶋崎武雄、母、道子)から。
私は、五歳の時両親を失い、おぼろげな記憶しかないので、残された次のような写真から
両親の愛を感じとってきた。

旧満州の大連市(現・中国東北部)で、生まれて間もない私を抱いて、うれしそうにほほ笑
んでいる父。

私を抱いている母。写真の裏面に「July 26th 1938 KENICHI」と記入されている。私が
一カ月半程経った時に写されたものである。
父に抱かれた私を見つめる父と母。写真の裏面に、上の写真と同じく、「July 26th 1938
DAIREN」と記されている。

この二枚の写真は、裏面に「昭和十六年五月二十日」と記入されており、一枚は、岡山市
内の百貨店「天満屋」で写したものであり、一枚は、「後楽園」で写したものである。私は、間
もなく三歳になるところであり、妹は、間もなく半年になるところである。
はっきりした理由はわからないが、両親は、岡山県御津郡円城村の母の両親(父、合田兼
義、母、君代)を頼って帰国した。
おそらく、円城村へ行くまでに、記念のため、この二枚の写真を写したものと思われる。
妹を祖父母に預けて、私と両親は、大阪市住吉区平野元町に住んでいたが、昭和十八年
六月二十八日に母が病死し、その直後に父が応召され、二度と帰らぬ人となったので、家
族四人そろって写っている写真は、この二枚が最初にして最後である。
私は、この二枚の写真からも、私の肩にそっと指先を置いた優しそうな父と妹をしっかり両
手で支えた母を見て、深い愛を感じてきた。
父と母のことは、エッセイ『晩鐘 還暦に思う』、小説『ふるさとの詩 真一少年は行く』及
び、小説『父の詩 母亡き幼子残し応召の補充兵』に記した。
続いて、両親を失った私と妹を引き取り、育ててくれた祖父母(合田兼義・君代)からも深い
愛を受けた。
前にも述べたように昭和十八年六月二十八日に母が病死し、その直後に父が応召され、
戦地へ旅立ったので、残された五歳の私と二歳半の妹は、祖父母の合田兼義・君代夫婦
に引き取って、育ててもらうことになった。
兼義と君代は円城村の山村で農業をしていた。兼義は五十四歳、君代は四十八歳であっ
た。
合田家には、兼義と君代の他に、兼義の両親の長平と登江、四女の千恵子、六女の島
子、二男の正生がおり、千恵子は、私より八歳年上の十三歳で、島子は、三歳年上の八歳
で、正生は、一歳年下の四歳であった。
長男の永一(二十四歳)は出征していた。五女の春代は昭和八年三月一日、生まれたその
日に亡くなり、二女の浪子は十一歳で、三女の一恵は八歳で、昭和九年七月二十二日、二
十八日に相次いで亡くなっていた。
合田家では、私と妹が増えたので、九人家族になった。長平と登江は、私を引き取ること
に難色を示したとのこと。後年、兼義が亡くなり、私が合田家に帰った時、君代が次のよう
に打ち明けてくれた。「研ちゃんを引き取って育てられたのは、おじいさん(兼義)のおかげじ
ゃ。親が反対したのに、『大阪から連れて帰ってけえ。わしが責任を持つけん』と、おじいさ
んが言うてくれた。やさしいお人だった」と。
話は元に戻るが、兼義と君代を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことになったが、私は実の
父母のことを知っていたので、初めはなかなかそう呼ぶことができなかった。
私も妹も、兼義と君代の下で、私が小学校六年生の一学期まで過ごした。
兼義と君代はやさしい人であった。私は合田家で過ごした間、二人から何一つ小言を言
われたことが無かった。両親を失った私と妹に深い愛をかけてくれた。

この写真は、私が結婚して初めて合田家へ帰った時撮ったもので、兼義と君代、永一
(無事復員した)と妻の良子である。

この鉛筆画は、私が描いた71歳の君代である。

この鉛筆画は、83歳の兼義である。
祖父母のことについては、エッセイ『晩鐘 還暦に思う』及び、小説『ふるさとの詩 真一
少年は行く』に記した。
続いて、兼義と君代 から引き取って育ててくれた父の妹夫婦(山口春子・数雄)からも深
い愛を受けた。
私は、兼義と君代の下でずっと暮らすものと思っていた。ところが、ある日突然、春子と
数雄が合田家を訪ねてきた。
昭和二十四年七月のある日、私と妹を引き取って育てる話をするために、春子と数雄
が大阪府富田林市から、初めて円城村の合田家を訪ねてきた。小学校五年生であった
私は、突然訪れてきた春子と数雄にびっくりした。春子と数雄は結婚して九年になるが、
二人の間に子どもが生まれそうな兆候は一度も無かったという。二人は子どもはできない
ものとあきらめて、私と妹を引き取って育てる決心をして、はるばる円城村の合田家を訪
れたのであった。
私は、いったん、大阪へ行くことを断ったが、結局、一年後に大阪へ行く決心をした。
昭和二十五年七月の夏休みに、春子と数雄に引き取ってもらった。
数雄と春子を「おとうさん」「おかあさん」と呼び、新しい生活が始まった。
春子は、実の父の妹であり、血縁関係があり、満州の大連で私の子守をしたことがある
と言い、親しみを感じた。春子はスポーツやトランプなど遊びが好きで、ハキハキものを言
い、テキパキ振る舞った。私は春子を母というより姉のように感じた。私は昭和四十六年
十月に結婚し、春子の下を離れていったが、小言らしい小言を聞いたことが無かった。
数雄とは血縁関係が無く、全くの他人であった。数雄は、幼い頃父親を亡くし、小学校を
出ただけで、土木工事の現場で働いてきた。昭和十四年、満州の大連で春子と結婚し、
土木請負業の半田三次の下で働いていたが、戦争が厳しくなったので、志願して海軍に
入隊した。そして、終戦直後、ロシア軍に拉致され、シベリア抑留となったが、過酷な状況
に耐え、昭和二十三年に帰国し、すでに昭和二十一年に帰国していた春子と再会し、いっ
たん、長崎市に住んでいる数雄の妹のところで世話になったが、半田三次が富田林市で
土木請負業をやっているのを知り、再度彼の下で働くことを決心し、富田林市に移り住ん
だのであった。
数雄は海軍軍人を志願しただけのことはあって、立派な体格をしていたが、気持ちは優
しい人で、春子にも、妹にも、小言一つ言わなかった。私も、中学生の時、家族でトランプ
遊びをしていて、負け続けて不満顔をした時、「楽しく遊ばないのなら、二度と遊ばないぞ」
と言って大声で叱られたのが、後にも先にも一回あっただけであった。

この写真は、写真の裏面に春子が書いたように、昭和二十七年三月に、朝鮮(現・大韓民
国)の仁川から引き揚げて熊本県天草郡鬼池村(現・天草市)で暮らす春子の兄の井上仁作
が、大連で会って以来十年ぶりに訪ねてきた時に、彼の写真機で撮ってもらったものであ
る。
私と妹を引き取って一年半程経った頃であり、二階建ての四軒長屋の一軒の二階部分二
部屋を借りており、奥の部屋で撮ってもらったものである。冬は火鉢一つで暖をとり、この部
屋で食事をし、寝起きした。後ろに粗末な小さな食器戸棚一つ、鍋一つ、水を入れた一升瓶
一本、小瓶一本、みかん箱に新聞紙を貼って物入れにした物が写っている。
戦後、まだまだ貧しい最中に私と妹を引き取ってくれたものである。数雄と春子にはどんな
に感謝しても感謝しきれない。私と妹は、大きな愛を受けたものである。
それにしても、写真の裏面に「隆史がお腹に三ヶ月」と書かれているが、十年以上も妊娠の
兆候が無かった二人が一粒種の隆史を授かったのであった。子どもをもらうと子どもを授か
るということを聞いたことがあるが、不思議なものである。
数雄と春子のことについては、エッセイ『晩鐘 還暦に思う』、小説『ふるさとの詩 真一少
年は行く』及び、小説『母の詩 晴子とともに』に記した。
(2014年10月)
第六話
三十数年前に描いた鉛筆画が出てきた
身の回りの物を整理していたら、三十数年前に描いた鉛筆画が出てきた。

これは、三十五年前、私が満四十一歳の時、幼稚園の運動会で遊戯をする満六歳の娘を
写真に撮り、その直後、写真を見ながら鉛筆画を描いたものである。その娘も満四十一歳に
なり、結婚して三人の子どもを授かり、まずまずの生活を営んでいるのはありがたいことであ
る。

これは、私が四十二歳の時描いたものである。岡山県加賀郡吉備中央町の円城村に妻と
娘を連れて帰った時、私が小学校一年生から六年生の一学期までを過ごした懐かしい円城
小学校を訪れて、写真を撮り、帰宅してその直後、鉛筆画に描いたものである。小学校一年
生の娘がその絵の上に小学生達を挿入してくれた。私と娘の合作作品である。
(2015年6月)
第七話
今年も、私の誕生日に、孫たちからお祝いのメッセージ
平成二十七年六月の私の満七十七歳の誕生日に、孫の小学校六年生のカイちゃんと幼
稚園年長組のひーちゃんから、ファックスで、次のようなお祝いのメッセージが送られてき
た。
孫たちからのメッセージは嬉しい。


(2015 年6 月)
第八話
愛
ささやかな愛が私の羅針盤
ささやかな愛が私の北極星
これが無ければ
人間砂漠の中で
道に迷ってしまう
(2015年9月)
第九話
今年も、私の誕生日に、孫からお祝いのメッセージ
平成二十八年六月の私の満七十八歳の誕生日に、孫の小学校一年生のひーちゃんか
ら、ファックスで、次のようなお祝いのメッセージが送られてきた。
孫からのメッセージは嬉しい。

(2016年6月)
第十話
傘寿を迎えて思うこと
いつのまにやら傘寿を迎えた。
喜寿を迎えた時は、「娘夫婦に三人目の子どもの長女のひーちゃんが生まれ、妻と共に娘を
支援してきたのであるが、ひーちゃんは現在、幼稚園の年中組に通っており、娘の育児負担が
軽くなり、妻と私の支援の必要性がほとんどなくなり、妻と私の二人だけを中心にした生活を営
んでいる。妻も私も今のところ、これという持病も無く、穏やかな生活を送っている」と記したが、
その後の三年間もたいした病気もせず、事故にも遭わず、生き続けられたことをありがたく思っ
ています。
(2017年1月)
第十一話
今年も、私の誕生日に孫たちからお祝いのメッセージ
平成二十九年六月の私の満七十九歳の誕生日に、孫の小学校二年生のひーちゃんから
ファックスで次のようなお祝いのメッセージが送られてきた。続いて、中学二年のカイちゃん
と高校三年生の厚君と娘の寄せ書きのファックスが送られてきた。
孫たちからのメッセージは嬉しい。


(2017年6月)
第十二話
彼岸花
今日は九月二十三日の秋分の日
彼岸花は咲いていないかな
もし咲いていたら写真に撮りたいな
そう思い
デジカメを持って
散歩に出た
いつもの散歩コースの一カ所で
真っ赤に燃えて咲いている彼岸花をみつけた
通る人に支障がないように道の片側に寄り
しゃがんで写真を撮った

彼岸花
どうして お彼岸に咲くの
お彼岸の日に
お墓参りをしてほしいから
彼岸花
どうして そんなに 赤いの
お彼岸の日に
亡くなった人を 思い出してほしいから
彼岸花
どうして 摘んでは だめなの
亡くなった人の
野辺の送り火だから
(以前に出版した詩集 『ゆずり葉 心にふれるままに』 の中より)
(2017年9月)
第十三話
今年も、私の誕生日に孫たちからお祝いのメッセージ
平成三十年六月の私の満八十歳の誕生日に、孫の小学校三年生のひーちゃんから、ファックス
で、次のようなお祝いのメッセージが送られてきた。大学に入ったばかりの厚君と娘の寄せ書きが
添えられていた。
孫たちからのメッセージは嬉しい。

(2018年6月)

エッセイ『晩鐘 還暦に思う』 小説『ふるさとの詩 真一少年は行く』

詩集『ゆずり葉 心にふれるままに』 小説『母の詩 晴子とともに』

エッセイ『おもしろおかしいカイちゃん』 エッセイ『人間砂漠 金儲け至上主義』
エッセイ『人生夢物語 最終章を生きる』 小説『父の詩 母亡き幼子残し応召の補充兵』

エッセイ『孫という名の宝物 三人三様の三つ子の魂』 還暦を過ぎて本を出版した動機