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国定山東海寺地蔵院・「あずり越え」(2011年5月5日)HP(1/3ページ)

 「あずり越え」は園瀬川沿いの「上八万」から勝浦川沿いの「方上(カタノウエ)」に抜ける峠道である。その道沿いに「地蔵院」がある。
 古代「粟」と「長」を結ぶ道、弘法大師の通られた道、源義経の進軍路、四国八十八箇所の遍路道、文豪モラエスの散策の道として知られている。 

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 2011年5月5日9時30分、徳島市バスで「丈六寺北」へ。 これより徒歩で9時53分「勝占(カツウラ)神社」着。 延喜式の式内社。 一の鳥居から参道を登る。  ktn_1.jpg
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参道の最後の長い石段の先に拝殿の唐破風が見えてくる。 この姿は神領の「上一の宮大粟神社」に似ている。 共に出雲系の先住民の祖神、農業神、漁業神が祀られている。
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拝殿。瓦葺き単層入母屋造り、唐派風の向拝を付けている。 阿波の神社の典型的な形である。 簡素な装飾のうち棟瓦の荒々しい波涛の模様に海人族の勢いを感じる。 掃除をする人。椎の木などの枯葉が沢山溜まっている。 ktn_3.jpg
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拝殿。もとは「杉尾大明神」と言われていた。 同名の神社は阿波に10数社あったとのことである。 明治になって延喜式の式内社として「勝占神社」となった。 「勝利の占いをする神」とは戦勝祈願を直接表したもので、源義経もここで戦勝祈願をし武器を奉納している。
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妻入りの本殿。  出雲系海人族の祖神の代表としてオオナムチの命を祀る。オオナムチ命は農漁業の神で戦の神とは思えない。 「戦勝を占う」神としたのは矛盾。 「勢見」と同じように義経伝記から後付けの地名ではないか? ktn_5.jpg
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11時、開けた水田の中に出る。「県道209号、方上(カタノカミ)町 高塚」の標識。 ポルトガル人で大正時代徳島に住んだ文豪ウィンセスラオ・モラエスを記念して「ポルトガル・レイリア大通り」と名付けられている。
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11時10分,「弁天山」。 県道沿いにある。 「日本一低い山」の案内板。 国土地理院の地図に載っている山の中で一番低い山とのこと。赤い鳥居があり、6.5mの頂上には市杵比売を祀るイツクシマ神社がある。 ktn_7.jpg
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弁財天は川の神、イツキ媛の神は海の神で共に女神である。 入江に浮ぶ島にまずイツキ姫が祭られ、その後に仏教とともにインドから招かれた弁財天が祭られたのではないか。「東海寺」と弁財天とも何か繋がりがあるようだ。
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「あずり越え」の山をズームアップして撮影。 麓に動物園と植物園の観覧車や温室などが見える。 ktn_9.jpg
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 11時34分、「方上(カタノカミ)小学校」。 もとの字は「潟の上」で、この辺は入江であったらしい。ここから「あずり越え」の登り道が始る。畦道の近道を教えてくれた人があり、そこを行くとタンポポが咲きなかなかいい所であった。
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舗装された道。 灌漑用水に沿ってくねくねと曲って登る。 その先に「あずり越え」の山。 ktn_11.jpg
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 遍路道の曲がり角の小さい祠。 地蔵菩薩か? かつては17番井戸寺から18番恩山寺に向かう遍路道であったが現在では徳島市内を通るコースに変わっている。
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「熊野神社」。 舗装道の先にこんもりと繁る森と石段が見える。 「熊野神社」がこんなに早くしかも民家の近くにあるとは予想していなかった。 もっと山の中と思っていた。  ktn_13.jpg
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正午頃「熊野神社」に着く。 藤の花が垂れ下がる石段を登る。  紀伊の熊野神社は熊野本宮大社(那智)、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社(勝浦)の三社があり本地垂迹説によれば、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音菩薩の化身と言われている。
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一の鳥居。 観音菩薩を本尊としていたというから熊野那智大社(勝浦)から勧請されたのであろう。ここではまた「補陀洛山寺」というのがあり、そこで修行をした高僧が「渡海船」に乗り「補陀洛山」に渡る宗教行事が行われていた。 ktn_15.jpg
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拝殿。 木立に囲まれて銅板で覆われた桧皮葺きの拝殿が見える。 近つくとその前に車が通れる道がついている。 道の先が「地蔵院」であった。