自分の苦悩を乗り越えて生きる
- 私が、不自由な体になったのは、お母さんのおなかの中で暴れまわっていために、へその緒が私の首をくるくると巻きついており、息もしない仮死状態で生まれてきたためでした。
直ちに医師が懸命な処置をしてくれて、なんとか息を吹き返すことが出来ました。
しかし、その後も高熱が何日も長く続いたため、脳と全身に後遺症が残ってしまいました。
父と母は、仕事を休んで私を何ヵ所も大きな専門病院へ連れて行き、専門医師の診断を受けさせてくれました。
- 医者の診断結果は「小児脳性麻痺」でした。
医者は「リハビリに専念する以外は治る道はない。」と両親に宣告されました。
この宣告に一番ショックを受けたのは、お母さんでした。
- 母は「この子が可哀そう、一緒に死んだほうがいい。」と自殺を考えましたが、父は「この子の笑顔を見ると、死ぬよりは二人で温かく育てていこうじゃないか。」と母と共に温かい育児を誓い合ったそうでした。
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- 昭和38年秋、私は3歳のときに、佐賀市の肢体不自由児施設「佐賀整肢学園・母子棟」に入園して、本格的な身体治療が始まりました。
お母さんは、教員の仕事をしていために、お父さんの妹・おばさんが母親代わりに、小学4年の1学期まで付き添っていろいろな世話をしてくれましたが、私が10歳を迎えた時、学園の規則によりおばさんは家に強制帰還させられました。
- しかし、おばさんは、私がまだ何も出来ないことに心配で悩み続けられました。
私は、おばさんと別れた後に、重度棟に移され他の子供達と同じように治療と生活が始まったのでした。
小学生の頃は、同じクラスの級友や中学3年生の先輩からよく虐められていました。
- 佐賀整肢学園は、昭和30年代の当時は県内唯一の身体・知的障害児(者)の専門施設でした。
学園内には、金立養護学校所属の小中学部分教室があって勉学と治療に両立されていました。
私は、そこで約13年間あまりを厳しい機能回復訓練と勉強に励みました。
私は、幼年時に右足のアキレス腱の手術をして、歩行器を使って歩行訓練にも励みました。
しかし、私にとって一番難しい病気の「緊張」があって、言葉もうまく話せないことや普通の子供たちのように思うように、外で遊ぶことも、金立養護学校の高等部にも行くことが出来ませんでした。
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- 昭和53年10月、私が18歳を迎えた時、佐賀整肢学園を退園し、三養基郡中原町にある身体障害者総合援護施設に入所しました。
そこは、子供から大人へ自立していくための総合的な訓練施設です。
そこでは、私が思っていたよりも厳しい生活が待っていたのです。
- 私は、入所した当初は何も分からずに、先生方から注意される日が多くありました。
毎年一年が経過するごとに、訓練生活が充実したものになっていき、自分ができなかったことが徐々にできるようになり、自分の心にも自信と余裕が出てくるようになったのでした。
私は、スポーツするのが好きで、所内のスポーツクラブに入部して先輩たちとゴロ野球試合などをしたりして楽しく過ごしていました。
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- 入所して3年目の秋に、身障者スポーツ県大会へ出場して車椅子バック走50メートルに初挑戦したのでした。
初出場で3位に入る大健闘でした。
大会前は、あまり練習も出来なかった、自分が「力がこんなにあるとはな。」と自ら驚きました。
- 平成2年の夏、私はキャンプ帰りにタクシーで西友デパートへ行き、一人で街を車椅子で自由体験を楽しみました。
これは、自ら車椅子を動かして、車椅子の障害者にとって「何が不自由なのか?。」「何が危険なのか?。」かを自分の目で検証するためと、自分自身へ「僕にも、出来るかもな。」と自信をつけるためでした。
- まだ、その頃はバリアフリーというのがなくて、私の目で見たそこのデパートには車椅子用のエレーベーターと障害者用トイレやスロープなどがなくて本当に困りました。
そのことを、聞いた両親は「お前が、こんなことまでやるなんて、すごか。」と突然の急成長にびっくりされていました。
- これが、私にとって自ら自立の道を大きく切り開くきっかけとなり、その後も自ら積極的にいろいろなところに出かけて行き、いろいろな人と出会い、たくさんの友達が出来たことが、私は、とてもうれしい気持ちでした。
---- つづく ---- |
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