道に迷ってしまった、
歩き慣れたはずの森の中で出会った若い女性の足元から突如現れたのは、
体長十メートルはあろうかという大きさの野ウサギでした。
目は真っ赤で、大きな耳と黒い鼻をピクピク動かしてこちらを見ています。
レオはとっさに、今朝起きた日常のワンシーンを思い浮かべていました。
薪割りを終えてから山道を歩いていると、夜に仕掛けておいた罠に二匹の野ウサギが掛かっていたときのことを。
親子一緒に罠に掛かった様子で、子供らしき小さな野ウサギは足を必死にバタバタと動かしていました。
かわいそうだとは、十年以上も山の中で動物の肉を食べてきたレオにとっては遠く無縁な感情で、
今朝はそのまま二匹とも家に持って帰り、夕食のためにと籠に入れっぱなしにしてきました。
家一軒飲み込むほどの大きさの野ウサギなど、見たことも聞いたこともありません。
きっとモンスターだ。
レオは右手に持っていた靴を力いっぱい野ウサギ目掛けて投げつけ、地面に転がっていた斧に左手を伸ばします。
するとその野ウサギは、向かってくる靴に驚いた様子で体を強張らせて、
すぐさま背を向けて森の中へと走っていきます。
レオが斧を手に取り、目線を戻したときには、
巨大な野ウサギの姿はどこにも見当たらなくなっていました。
そんなものなど最初からいなかったかのように、静かな風が流れています。
心地良い小川のせせらぎと、遠くから聞こえる小鳥のさえずり。
レオは投げ飛ばした靴を拾うと、
首に巻いた手ぬぐいで足の水滴を拭き取り、靴を履き始めます。
危険な気配はまるで感じ取れないが、あまり長くこの場所にはいないほうがいいと判断しました。
荷物を持って来た道を歩き始めると、相変わらずの一本道です。
けれども、さっき通ったときにはなかったはずの看板がありました。
それはレオにとって見覚えのある看板で、この森の東側の出口にずっと昔から立っている看板です。
森の中で出会った若い女性のことを思い出したのは、東の町に着いてからのことでした。
人気の無い山奥で、獰猛な獣から身を守って生活しているレオにとって、
他人の命を心配するという感情はその程度のものになってしまっていました。
もちろんレオ自身は、そのことを悲しいことだなんて思いはせず、
人間として強い心を持てるようになったなどと思い込み、むしろ喜んでさえいるようです。
魔王が現れる前の世界は、絶対王による絶対王制が続いていました。
しかしその政治は不完全なもので、世界の中心にある王都から離れるほどに治安は悪かったのです。
魔王の支配がそれに拍車をかけ、生活の苦しさから窃盗を働く者の数が激増。
かの討伐隊の中にも、隊員になれば飢えに苦しまなくて済むという考えの者達も少なからずいたようです。
魔王討伐後の世界は急速な発展を遂げようと、資源を取り争う世界へと変わり始めます。
これによって、生活のためでなく豊かさのための窃盗を働く者が増えていくことになります。
そのせいでしょうか。
この町にも、麓の村で見たものと同じ内容の貼り紙が貼られています。
一昔前までは食べ物や家畜の被害などが主流だったのですが、
最近になって、鉄や銅といった金属類の窃盗事件が増えています。
木やレンガに代わる新しい資源であると、世界中から需要が高まっている影響です。
この町の鉄の値段が、全てを物語っていました。
レオにとっても、盗みを働く者達の気持ちが痛いぐらい分かる高値で売買されています。
太陽が西側の山脈にどんどん近づいています。
元々は麓の村で必要な物だけを買ってすぐ帰る予定でいたため、食費や宿代までは用意してきていません。
目的の物を前にして、袋の中の銀貨をチャラチャラと鳴らしながら考え込みます。
「あっ泥棒」
背後から若い女性の声を聞き、ぱっと振り返る。
するとそこにいたのはなにやら見覚えのある姿。
顔はともかく、赤のチェックが入ったポンチョを羽織った女性を、南の森で見かけたのを覚えています。
レオは話しかけると同時に顔をあわせ、そのときになってようやく、
この女性が相当若いということに気付きました。自分より年下かもしれない。
「あ、あの時の。無事に森を抜けたんだね。ところで泥棒は?」
森で出会ったときには遠目でよく分からなかったからつい敬語を使いましたが、今回は使いませんでした。
その女性は目を丸くして、アタフタした様子で話を続けます。
「そんなことより、お、お金っ取られてる」
レオが袋の中に手を入れたとき、ようやく泥棒の被害にあったのが自分であることに気付きました。
若い女性が指差す方角には、頭に緑色のバンダナを巻いた男が二人、
そのうちの一人が右手の親指と人差し指で銀貨の縁をつまみながら、ニタニタと笑っています。
「田舎者の兄ちゃん、貼り紙見る度に袋に手つっこんでちゃ盗んでくださいって言ってるようなもんだぜ」
そう投げかけると男達は、一目散に走り出します。
レオも大慌てで後を追います。が、背中に担いだ斧が邪魔で思うように走れません。
どんどん小さくなっていく二人の後姿を追っていると、ふっと大きな影が通り過ぎました。
上を見上げると、見たこともないぐらい大きな黒い虫が空を飛んでいました。
その黒い虫はレオの前を走る二人組み目掛けて接近し、上空から強烈な体当たりをお見舞いしました。
男達は豪快に吹っ飛び、その拍子に手に握っていた銀貨が地面に転がります。
体長二メートルはあろうかという黒い虫は、地面にうずくまっている男たちに襲い掛かります。
レオは盗賊などほっといて銀貨を拾いに行きたかったが、そうもいかないようです。
男たちが立ち上がり、銀貨には目もくれず散り散りに逃げると、虫はレオの方に狙いをつけてきました。
レオが斧を振りかぶって斬りかかり、はじかれた。
外殻は鉄のように硬くて、割れる気配がありません。
黒い虫が口をあけて襲い掛かってきたとき、
レオの背後から赤くて熱い何かが飛んできて、虫に直撃しました。
炎だ。
火の塊が着弾し、黒い外殻がメラメラと音を立てて燃え盛ります。
虫は声にならない悲鳴をあげるかのようにのたうち回り、やがて動かなくなりました。
後ろを振り返るも、町民たちが遠巻きに眺めているだけ。
今の炎は一体――
大きな黒い虫だったものがパチパチと音を立て、崩れ去ります。
もはやさきほどまで飛び跳ね回っていた姿は原型を留めておらず、焼けただれて腐臭を放ち始めています。
その姿を眺めているレオの前方に、黒い煙と焼け跡を挟んで人影が見えます。
さきほどまで話していた若い女性と、
見覚えのないボサボサ髪に日焼けした褐色肌で、腰に二丁のナイフを差している男の二人です。
並び立っているというよりも、男のほうがその女性を力づくで連れて行こうとしているように見えます。
「そこのお前、なにをしてるんだ」
レオが褐色肌の男に向かって言い放つと、その男が返してきました。
「あんた何も見てなかったのか? この女、魔法師だ。だから俺が盗む」
褐色肌の男はそう言い放つと、レオに光り輝く銀貨を見せつけながら言いました。
「俺の名前はフォーク。さっきの二人組の盗人なんかとは格が違う、欲しいものは必ず手に入れる盗賊だ」
そう言って捕まえていた若い女性の背中と膝裏に腕を回すと、お姫様だっこをしながら町の東出口へと走り去っていきます。
フォークと名乗る盗賊が立っていた場所には、レオが盗まれた銀貨は一枚たりとも落ちていません。
太陽は西側の山脈の向こうにどんどん隠れはじめています。
レオは銀貨を取り戻すため、盗賊を追いかけることに決めました。
貴重な鉄を手に入れるために。野宿をしなくてすむようにするために。
そして、自慢の斧で全く歯が立たなかったあの黒い虫を一撃で葬り去った炎の謎を掴むために。