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大人のJAZZ Vol.40
「世界に躍進する Jジャズの先駆者、秋吉敏子」
ジャズといえば、アメリカが生んだ20世紀を代表する黒人音楽のひとづだが、今では単にアメリカの黒人音楽の域に留まらず、世界各国で親しまれてるワールド・ミュージックにまで発展した。
欧州やカナダ、オーストラリアでもジャズは盛んだが、アメリカに次ぐジャズ大国といえば日本だ。
現在、日本の優秀な演奏家はその活動を日本国内に留めることなく、世界にフィールドを広げている。渡辺貞夫のように日本のレコード会社ではなくアメリカのジャズ・レーベルと契約を結んでいる演奏かもいれば、岩崎啓子のように日本では無名だが、アメリカでCDを発売している演奏かもいる。若手では大西順子や木住野佳子、小曽根真などが世界的な評価を得ているし、無名だが本場ニューヨーク(New York)で修行を積んでいる若手日本人演奏家も沢山いる。
このように世界で活躍し活況を呈している日本のジャズ(Jジャズ)だが、現在注目すべきはアジアのジャズ・シーンをリードする立場に立とうとしていることだ。
ケイコ・リーのアルバムはアジア全域で2万枚のセールスを記録したり、今年の4月には渡辺貞夫が台北のカーネギー・ホールとも言えるクラシック専門のホールで、初めてジャズ・コンサートを開き、大成功を収めた。また、小林桂の台北ツアーは台湾の全マスコミが集まるほどの注目を集め、ジャズへの認識が変わった、とまで評価された。
これらの歓迎ぶりをみていると、台湾の若者を中心にジャズ・ブームが巻き起こりそうな様相を呈している。
今後も台湾では木住野佳子の台北、高雄(カオシュン)でのコンサートが予定されているし、台湾ソニー(SONY)ではTokuのCDリリースも計画されている。
もはや日本のジャズに勝るとも劣らない影響力と実力を蓄え、世界に羽ばたく勢力になったといえるだろう。
現在のJジャズが国内に留まることなく、世界を舞台に活躍するようになったのも、先人の努力があればこそで、戦後間もない頃の日本のジャズといえば、本場アメリカのジャズに追いつくのがやっとで、海外に活動の場を広げることが夢のまた夢だった。
戦後から1950年代にかけての日本のジャズ・シーンはアメリカの物まねに過ぎなかった。また進駐軍キャンプやダンス・ホールなどが主な仕事場で、一般的な人気も乏しかった。
そんなジャズ後進国だった1950年代に、初めて日本を飛び出し、アメリカにその活動の場を求めた女性がいた。秋吉敏子だ。
敏子は戦後まもなく九州の駐留軍クラブでジャズを演奏し始めた。1949年に上京し、当時の日本のトップ・グループでピアノ(pf)を弾いていた。
1953年にノーマン・グランツの率いるJATOPが来日した際、オスカー・ピーターソンに認められ、グランツの手によってノーグラン(現在のバーブ)に初録音を残し、この作品によってアメリカ・ジャズ界に紹介され、注目を集めることになった。
この作品で自身を得た敏子はより自分の音楽を高めるべく1956年にバークリー音楽院に入学のため渡米、1956年,1957年と連続してニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演する機会をえて、絶賛を浴びることになった。
しかし、当時のジャズ界ではまだ女性ピアニストということだけでも物珍しさに終わることなく、その実力も評価されるところとなり、一過性で終わらなかった。
1959年にはチャーリ・マリアノと結婚、グループを結成、キャンデッドに録音を残し、1963年には帰国コンサートも開いている。
1963年から1965年まで一時日本に永住しようとしたが、結局アメリカに戻り、以後現在までアメリカを本拠に活躍を続けている。
1973年にはルー・タバキンとトシコ・タバキン・ビッグ・バンドを結成、このビッグ・バンドは形を変えながらも、現在も活動を続け、ジャズ界一、二を争うトップ・レベルのビッグ・バンドに成長した。
もはや秋吉は日本のジャズメンというよりも、アメリカのジャズメンといった方が、正しいぐらいに、アメリカに根を下ろしてしまったが、彼女の開いたアメリカ・ジャズ界への道が後の多くの日本人演奏家が世界に飛躍する道筋を付けたことは事実だ。