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えー、いちおうピアノの話だったんで、ぼくの役割は「ジャズとピアノ」というんですが、まとまった話にはならずに、まあその、ピアノという楽器について、ぼくがどんな感想をもっているか っていう話に終始すると思います。
ジャズにとってピアノとはどういうものであるかというような、筋道が立ってたり論理的だったりする話にはならない。これは保証しますので、そういう覚悟でお聞きください。
このまえのシリーズでは、ジャズの特集をやったんですがけれども、そのときぼくがやっぱりここへノコノコ出てきてしゃべったのは、音楽はいまいろいろあるけど、ジャズってのは、なんていうか、演奏者がモロに個人的な表現を、前面に臆面もなく押し出す。いまだにそういうことをうやりたいというプレーヤーが、どうもジャズプレーヤーになるらしい。早い話が、楽器でもって「オレガ」という。「オレがこう言っておるゾ」と、まあ、演説を人に聞かせちゃう。「オレが」「オレが」と、いやらしいことはいやらしいんですが、「オレが」以外に何かがあって、それを自分が写すというふうな、きれいなことにはなかなかならない。そんなエゴイスティックな人間が、まあ、ジャズをやるんで、そういうやり方が依然として残っているのは、ジャズの中だけじゃないか、ってな結論というか感想で終わったんです。
で、そのォ、ピアノでジャズをやる場合も、やっぱりそういう個人のところから話をしたいわけです。これで個人的な表現をしたいという。ところが、個人的な表現ということを、モロに本人の肉声、たとえばギャオー! とかいうところまで近づけて考えてみると、ピアノっていうのはあまりにも上品すぎるわけです。それはまあ、この楽器の成り立ちがそうなんで仕方ないんですけど、なんとなく、ジャズの「ギャオー」というやり方からもはずれているような、変な楽器だという感じがぼくにはあるんです。
ジャズってのにはやはり肉声が残っているんだと思います。その歴史となると実はぼくもよく知りませんけど、いまはやりのテレビの『ルーツ』的観点によれば、こんなふうです。黒人たちとが連れてこられて、連中はもちろん歌も踊りも持っているんだけれども、儀式やらなにやら禁止されますから、なにもできない。できないけど、言葉と節ってのはもってる。ブツブツいうぐらいのことはしていたかもしれない。で、後年、教会なんかに行くようになっても、白人たちの音楽のなかに、どうしても自分たちの節が入ってきちゃうということがあったらしい。そんなこんなで、1900年の前後になって、ニューオリンズで、ジャズというものができたということになります。この直後のキッカケは南北戦争だといわれてます。あれが終わって、軍楽隊の楽器が安く手に入るようになったからだっていうんですが、どこまで本当か、よくわかりません。わからないといえば、『ルーツ』を見てても、いつ黒人たちがブルースの節を歌いだしたかってのも、よくわかりません。ブルースの節は、たしかにアメリカの黒人のものですけど、アフリカからもってきたのかどうかも、わからない。アフリカ音楽ってのは、ブルースみたいなものは案外少なくて、どっちかっていうとサンバみたいなものが多いんです。『ルーツ』を見てても、そころへんがどうもあいまいで、ヴァイオリン弾きが突然なんかこう、頭にきて、もう白人のためにやるのは嫌だ、自分の音楽を弾きたいよといってブルースをやりはじめることになってて、あいつがいつあの節をおぼえたのか、テレビではよくわからなかった。本能的にその節を持っているというようにしてしまっている。
で、ニューオーリンズに戻ると、とにかく最初はブラスバンドをやったらしい。そのブラスバンドが、えーと、こうテンポの面や和音の面で夫々ズッコケてジャズができたというふうに言われているわけです。つまり、ブラスバンドのなかにブルースの音感とか、ずれていくリズム 1、2、3、4、とやってたのが、タン(四分音符)、タン(四分音符)、タタン(八分音符と四分音符)、タン(四分音符)、タン(四分音符)、とこうなっちゃうようなリズムが入ってきて、マーチング・バンドをやってるうちに、自然にガクーンとずれちゃったり、変な節がピュッと入ってきたり、つまり、彼らはブラスバンドをやってても「オレの音」って感じで、そういうのを出しちゃうわけですよ。「オレが」「オレが」、まあ「ワレワレが」でもいいですけどね。そしてこう、ズレて、なんかジャズみたいな演奏ができてきた。
で、ピアノっていうのが、そこにいたかっていうと、これがいないんです。そのとき、いっしょに後進しなくちゃならないんで、バンジョーとかギターで和音をだしていた。ピアノはそこにいずに、どこにいたかっていうと、ラグタイム・ピアノというのが別の系統であったわけです。これはヨーロッパの、譜面に書けるようなダンス音楽を黒人が弾くときのスタイルだった。「ラグ」っていうのは「ずれる」という意味らしいんですけど、ちょっとタイミングをずらしちゃう。すると変なスウィング感がでるんで、それをラグタイム・ピアノといって、『スティング』のテーマとか、あのへんの感じです。マーチング・バンドの発生とピアノは、直接結びついていないらしいんです。これが「ピアノのけもの説」の根拠であります。
ジャズが個人的なものだという考えからすれば、楽器もそうなんで、まあ肉声もそうなんで、まあ肉声がいちばんいい。これはやっぱり、いちばん表現がありますよね。あとはトランペットだのサックスだのぶらさげて、いかにも「オレが自分の音楽をやるぞ」という態度があっていいんですけど、ピアノ弾きというのは、手ぶらでノコノコ行かなきゃなんない。そこにあるピアノを弾かなきゃなんない。つまり、でかすぎて持って歩けないから、自然アナタまかせになるしかない。ピアノがジャズの仲間に入れてもらえたのは、ずいぶんあとになってからです。ブルースはギターと歌ではじまってるわけで。
そんなことで、ジャズの歴史のなかでピアノが変にズッコケて入ってきてるということがあります。でっかいから持って歩けない。さぞかしピアノ弾きは残念だろうと、その感じはぼくもよくわかる。きょうのこのピアノはすごくいいピアノなんですけど、いつもそうとは限らない。といって、えりごのみを言ってられない。これは「ジャズとピアノ」「ピアノと現代」というテーマと全然関係ないかもしれないけど、つねにピアノ弾きが恨みに思っているのは、自分の楽器を人前で弾けないということです。サックスやらトランペットの連中ってのは、何十万も出して自分の楽器を買いこんで、「これはセルマーのナントカ」だの「××年もの」だとか、「ゴールド」だとかいって、こう撫でさすりますよね。そしてリードをペチャペチャなめたり、いかにもいとおしげに撫でさすってる。自分の楽器だ、というように。ああいう態度ってのは、ピアノ弾きから見ると、どうも解せない。あんな軟弱な態度ではイカンわけで、何であろうとそこにあるものを弾いてしまえと言いたくなるんです。それが何というか、覚悟のある態度ではなかろうかと。
著:山下洋輔、発行者:佐藤亮一、発行所:株式会社新潮社