
●作品
ジェローム・カーン作曲
1トラック:メイク・ビリーヴ
2トラック:愛さないではいられない
3トラック:オール・マン・リヴァー
4トラック:ビル
アンドレ・プレヴィン作曲
5トラック:リケッティー・スプリット
6トラック:ホワイト・ウッド
7トラック:ドクターDJ
ジェローム・カーン作曲
8トラック:ライフ・オン・ザ・ウィッキド・ステージ
9トラック:何故好きになったの?
10トラック:アイ・マイト・フォール・バック・オン・ユー
11トラック:私以外には誰も
アンドレ・プレヴィンのジャズに耳をすましていると、メンデルスゾーンの室内楽作品を聴いているような気持ちになる。
アンドレ・プレヴィンには、ほぼ10歳年長の、ひとしくアメリカで育った故レナード・バーンスタインと似たところがいくつもある。それだけに、先輩格のレナード・バーンスタインと対比してさせてみると、思いもかけない角度から光があたり、アンドレ・プレヴィンの音楽家としての姿がより鮮明になる。
レナード・バーンスタインと同じように、アンドレ・プレヴィンも又、指揮者であり、同時にピアノもよくする音楽家である。世に指揮者は多いが、レナード・バーンスタインやアンドレ・プレヴィンほどの腕前を備えた指揮者となると、その数は自ずと限られる。そして、レナード・バーンスタインのものほどには広く知られているとは言い難いとしても、アンドレ・プレヴィンも作曲家としてかなりの数の作品を残している。
レナード・バーンスタインは、周知の事実ながら、垣根にとらわれず、しなやかに音楽と関わって活動を展開し続けた音楽家だった。バーブラ・ストライザンドのために、バッハの音楽を援用した微妙なアイディアによる編曲を行ったりもしたのが、レナード・バーンスタインである。その点だけをとっても、レナード・バーンスタインはアンドレ・プレヴィンにとっての兄貴分の音楽家だった、と考えられている。
活動の範囲がクラシック音楽圏内にとどまらず、ジャズなどに対して積極的な興味をしめしたということでも、このふたりの音楽家はよく似ている。しかし、アンドレ・プレヴィンがピアノをひいて、これまでに60枚ほどのジャズ・アルバムを作っているにも関わらず、レナード・バーンスタインは、ついに正面切ってジャズをプレイした録音を残さなかった。アンドレ・プレヴィンが1950年代に録音したジャズのレコードは、一般に思われている以上に多く、ドラムスのシェリー・マンやトランペットのディジー・ガレスピー、クラリネットのベニー・グッドマン、ギターのバニー・ケッセル、ベースのレッド・ミッチェル、或いは歌い手のビリー・ホリデイ、ダイナ・ショア、ドリス・デイといった人たちと、様々なレコードを録音してきた。
レナード・バーンスタインが結婚していたフェリア・モンテアレグレは、若い頃にはピアニストを目指していたが(彼女はクラウディオ・アラウの弟子だった)、後に女優として舞台やテレビで活躍した女性である。一方のアンドレ・プレヴィンも又、1970年代に女優のミア・ファローと結婚している。期せずとして、というべきであろうが、ふたりには、もうひとつ、女優と言う華やかな職業を持つ女性を伴侶にしていた共通点があることになる。
そして、ふたりとも、ユダヤ系の家に生まれた音楽家だった。しかし、幼時の家庭環境ということでいうと、ふたりの間には僅かとは言い難い隔たりがあった。
アンドレ・プレヴィンは本名をAndreas Ludwig Prewinといって、ベルリンの裕福な法律家の一家に生まれた。お父さんのヤーコブ(アメリカに移住して後の名前はジャック)はアマチュアのピアニストで、かなりの腕前だった。アンドレ・プレヴィンは、僅か6歳で、ベルリン音楽院に入った。その頃のプレヴィン家では、しばしば、楽器をたしなむ客なども参加してのホーム・コンサートが行われていた。しかし、ユダヤ系の一家にとって、当時のベルリンは次第に住みにくい町となりつつあった。
そこで、一家は、1938年に、ベルリンを離れ、パリ経由でアメリカに移住する決意をかためる。プレヴィンがパリ音楽院で指揮者のモンテューや作曲家のカステルヌオーヴォ・テデスコ、著名なオルガン奏者のマンセル・デゥプレに学んだのは、そのときである。プレヴィン一家が選んだ目的地はロサンゼルスだった。映画会社ユニヴァーサルの音楽部門のトップに、親戚にあたるチャールズ・プレヴィンがいたからである。
なに不足なかったはずの幼少時代のアンドレ・プレヴィンのことを考えていると、どうしても思い出さずにいられなくなる音楽家がいる。あのメンデルスゾーンである。裕福な家庭に育った人の属性と考えるべきであろうか、メンデルスゾーンの残した作品には、そしてアンドレ・プレヴィンの聴かせてくれる演奏にも、激しさよりは暖かさを、精緻さよりは柔和さを、冷徹さよりは温厚さを、さらに、激情にかられての鳴咽より、物静かな心情のこもった口調をたっとんだ風情が感じられる。
レナード・バーンスタインは指揮台の上で涙を流すことさえいとわない、過剰とも思える感情の持ち主だった。そこにレナード・バーンスタインならではの演奏の強さもあれば、魅力もあった。しかし、アンドレ・プレヴィンの行う演奏には激することを恥じているような、独特の慎まさが感じられる。
表現の慎まさをたっとび続けているアンドレ・プレヴィンであれば、すぐにでも、殺すの、死ぬの、呪ってやるの、と物騒なことを口走る血の気の多い人物が次々に登場してくる19世紀のオペラ作曲家たちの作曲したオペラを好むはずもない。アンドレ・プレヴィンにも、若干のオペラを指揮してのレコーディングはなくはないが、少なくともこれまでのところ、ヴェルディやワーグナーといったオペラの世界の中核をなす作品には触れないままきている。あからさまであることを、寧ろ誇り、激情を命綱とするオペラがアンドレ・プレヴィンの音楽的なテリトリーに組み込まれていくのは、容易に理解できる。
さらに、アンドレ・プレヴィンが指揮者として取り上げる作品をみていくと、いくつかの興味深い点が浮かびあがる。リヒャルト・シュトラウスの交響詩はしばしば指揮しても、マーラーの交響曲に対しては殆ど関心を示さないのがアンドレ・プレヴィンである。さらに、ストラヴィンスキーの音楽よりプロコフィエフの音楽を好んでいるあたりにも、アンドレ・プレヴィン独自の音楽的なスタンスを感じることができそうに思う。
アンドレ・プレヴィンには、“The Story of the Symphony(以前、VHDで発売されたときには、『シンフォニー物語』となっていた)”というタイトルのとても興味深いヴィデオ作品がある。この一連の作品で、アンドレ・プレヴィンはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ベルリオーズ、ブラームス、チャイコフスキー、それにショスタコーヴィチの作品を取りあげ、解説をしながら、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮している。アンドレ・プレヴィンの解説は滋味掬くべき内容のものながら、いかにも渋く、あの解説の達人レナード・バーンスタインの意表をついた巧妙な展開や酒脱な話術を感じ取るのは難しい。
もてる才能は各別の輝きからいっても、さらに、常に音楽界お第一線を歩んできた、その華麗なキャリアからいっても、アンドレ・プレヴィンは、スター的に身を処して、何ら不思議のない音楽家である。しかし、アンドレ・プレヴィンは、これまでもずっと、静かに演奏活動を展開してきた。ここで、ドイツ・グラモフォンの黄色いレーベルにとって初のジャズを録音するにあたっても、アンドレ・プレヴィンのプレイに微塵も気追いは感じられず、いつものようにしなやかに音楽を楽しんでいる。
アンドレ・プレヴィンがジャズをプレイしてのファースト・レコーディングにあたって、『ショウ・ボート』を選んだのは、納得できる。アンドレ・プレヴィン自身、このジェローム・カーンの傑作ミュージカルについて、“It’s a really sensational score, in
many ways the best ever written
for an American musical”と書いている。1950年代のアンドレ・プレヴィンが、『マイ・フェア・レディ』や『ウェスト・サイド・ストーリー』を演奏して、世評高い録音を残していることから明らかなように、このようなミュージカルのナンバーをもとにしてのプレイを、アンドレ・プレヴィンはもともと好きだったし、得意にもしていた、ということもある。
さらに、これも1950年代に録音されたものではあるが、アンドレ・プレヴィンはジェローム・カーンの曲を10曲ほど集めてソロで弾いたアルバムがある。そこでも、アンドレ・プレヴィンは『オール・マン・リヴァー』や『何故好きになったの?(Why do I love you?)』といった『ショウ・ボート』のナンバーを弾いていた。そのことからも、ジェローム・カーンがアンドレ・プレヴィンのお気に入りの作曲家だということがわかる。
『ショウ・ボート』はオスカー・ハマースタイン2世(1985年に生まれて、1960年に亡くなったアメリカのミュージカル台本作者)の台本にジェローム・カーン(1885年に生まれて、1945年に亡くなったアメリカのミュージカルの作曲家)が作曲し、1927年12月27日に、ニューヨークのジーグフェルト劇場で初演されたミュージカルである。初演は成功で、このときは572回も上演されていて、さらに、1946年にも再演されていて、このときは418回上演されている。ちなみに、書きそえると、『ショウ・ボート』の映画化は、これまで3回行われている。最初の映画化は、1929年に行われているが、これは部分的にトーキーだった。ついで、1936年にも映画化されているが、このときにはポール・ロブスンが初演されているが、このときにはポール・ロブスンが初演していた。そして、1951年に3度目の映画化が行われた。
なお、このCD(CD番号:POCG-1902
447-639-2)で8番目のトラックでも取り上げられている『私以外には誰も(Nobody
Else But Me)』は1946年の再演のときに新たにジェローム・カーンによって作曲されたナンバーで、これはジェローム・カーンの作曲した最後の音楽である。ここでは、このミュージカル『ショウ・ボート』からの8曲とアンドレ・プレヴィンの自作の3曲のうちの“Lickety Split”はアンドレ・プレヴィンの11歳になる息子ルーカスの作品といわれている。
黒い肌に汗の光るのが見えるようなテナー・サックスのブロウこそがジャズだ、と主張するハードなジャズ・ファンの多くは、アンドレ・プレヴィンの聴かせてくれるジャズを、必ずしも好んで聴こうとはしない。あれはジャズではない、などと偏狭なことを言ってのける人さえ、いなくもない。しかし、ジャズを、そのような狭い囲いの中に閉じ込めて考え必要もないように思える。
アンドレ・プレヴィンが微妙な色調をたっとびつつ、ジェローム・カーンの音楽を弾いて聴かせてくれる淡い抒情は、笑顔の似合う優しい表情の持ち主であるメンデルスゾーンの室内楽に耳をすまして喜びを感じられる、柔らかくて、鋭敏な耳の持ち主であれば、充分に楽しめるに違いない。アンドレ・プレヴィンの音楽家としての持ち味が過不足なく明らかにされている、この室内楽的なジャズは、アンドレ・プレヴィンの人柄の徳もあって、聞き手に極上の学興の時を体験させてくれる。
著:黒田恭一、発行者:ドイツグラモフォン、CD番号:POCG-1902
447-639-2
アンドレ・プレヴィン作曲
ハニー・アンド・ルー
発行者:ポリグラム、CD番号:Po POCG1927、アンドレ・プレヴィン指揮聖ルカ管弦楽団
○コンサート
アンドレ・プレヴィン作曲 テヴァージョンズ
ショスタコーヴィチ作曲 交響曲第5番ニ短調『革命』op.47 他
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
2000年6月1日 ドイツ(ブレーメン,グロッケ)
2000年6月4日 ボスニア・ヘルツェゴビナ(ザグレブ,リンスキー・コンサートホール)
曲目未定
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
2000年6月3日 ドイツ(ブレーメン,グロッケ)
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