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仏暦 2551年(西暦2008年)1月
カラヤニ・ワッタナ王姉殿下のご逝去を悼む

− マスコミ各社などの追悼ページ −
Princess Watana 00
 「カラヤニ・ワッタナ王姉殿下」が、去る1月2日の深夜にご逝去されたことは、日本をはじめ海外でも報道された。
 昨年の6月に、「癌」が見つかり、シリラート病院に入院されていた。おりしも、内政の不安定など、ご心労が多く体調をくずされていた「プミポン国王」も、同じ病院にご一緒ということもあった。幸いにして国王は、1ヶ月ほどのご療養で快癒し、ご退院されたが、退院後も、たびたび姉君をお見舞いに病院をおとずれておられた。

 王姉殿下の病状は、医師団の懸命の看護にもかかわらず、快方に向かわれることもなく、暮れのクリスマス頃からは、もう時間の問題と思われていたようである。
 年が明け、元日の夜からは、王室の皆さんも病院にかけつけられ、ご親族の皆さんに見とられるようにして逝かれた。享年84歳だった。

 国民に対して、政府から15日間の服喪(ไว้ทุกข์)要請の通達がなされ、官庁や大企業などでは、喪服、黒ネクタイ姿での出勤がほとんどで、ちまたでも、黒を貴重とする服姿がめだった。
喪明けまでの15日間は、「各種祝賀行事」なども自粛され、「歌舞音曲」などテレビ番組はひかえられ、庶民が楽しみにしているゴールデン・タイムの「連ドラ」も、放映延期になった。
 また、恒例の「子供の日」の行事なども自粛ムードで、規模を小さくして実施されたところが多い。
暮れに下院議員選挙があったが、民選内閣の組閣前の喧騒も喪明けの18日まで先延ばしされ、大騒ぎされるはずの新政権発足も、静かな雰囲気のうちに終わりそうである。

 「王姉殿下」ご逝去のニュースは、インターネットを通じても、瞬く間に世界中に広まっていったが、マスコミ各社など、自前でホームページをもっている企業の第1ページは、「王姉殿下追悼」のページに変えられたところがほとんどだった。

 「カラヤニ・ワッタナ王姉殿下」は、地味なお方で、ご生母生前は、ご生母のお仕事を陰で支えられ、ご生母没後は、すでに彼女自身もご高齢ということで、毎日放映されている王室番組などのマスコミに登場することもそれほど多くはなかった。お若い頃から、「マヒドン前国王」や現国王の姉君として、裏で、王室のご公務などを支えられ、一生独身を通されたこともあって、あまり目立たない方だった。
 現「プミポン国王」もご幼少のころから、姉君には可愛がられたそうで、その姉君のご逝去は、国王にとっても、ことのほかご心痛であられるとのご談話が、どこかに出ていた。

 後々の記念のためにと、主だったところの「追悼ページ」を集めてみた。
「国民の服喪期間(15日間)」を過ぎた現在では、それらのほとんどは、削除されていて、実物は見ることが出来ないかもしれない。

 以下に掲載したものは、諸般の事情により、元の画面を縮小したもので、実際は、これよりずっと大きく、追悼メッセージなども、はるかに読みやすい大きさである。


− 00 チュラポーン研究所  −
チュラポーン研究所

− 01 バンコク・ポスト (英字紙) −
BANKOK POST

− 02 The NATION (英字紙) −
NATION

− 03 マティチョン −
マティチョン

− 04 タイラット (大衆紙) −
タイラット

− 05 ターン・セタキット (経済紙) −
セタキット

− 06 パヤップ (北タイ紙) −
パヤップ

− 07 チャンネル 3 (テレビ) −
チャンネル 3

− 08 チャンネル 5 (テレビ) −
チャンネル 5

− 09 チャンネル 7 (テレビ) −
チャンネル 7

− 10 チャンネル 11 (テレビ) −
チャンネル 11

− 11 UBC・TRUE ビジョン(衛星テレビ) −
UBC

− 12 チュラロンコン大学 −
チュラロンコン大学

− 13 コンケーン大学 −
コンケーン大学

− 14 ラームカムヘン大学 −
ラームカムヘン大学

− 15 イースタンアジア大学 −
イースタンアジア大学

− 16 メーファールアン大学 (チェンライ) −
メーファールアン大学

− 17 チェンライ・ラーチャパット大学 (旧師範学校) −
チェンライ・ラーチャパット大学

− 18 タイ中央銀行 −
タイ中央銀行

− 19 TOYOTA タイ −
TOYOTA タイ


(感想)
 「タイラット」のページや「タイ中央銀行」のページが、上品でいいと思われた。特に、「タイラット」のページは、紅葉しかかった葉っぱが1枚だけの「かえで」の小枝が添えられていて、なんとも奥ゆかしい気がした。故「王姉殿下」のお人柄をしのばれるデザインである。
 ただ、「かえで」や「もみじ」は、熱帯のタイで育てるのはむずかしい植物で、自然の状態で育つ場所があるとすれば高地しかないと思われるが、タイで撮影したものだとすると、ご生母の離宮のある「ドイトゥン」か、チェンマイの「ドイ・ステープ」の奥の王室別荘あたりに植えられているものなのかもしれない。

 「TOYOTA」のページは、手書きのフランス語ボカシが背景に使われている。故「王姉殿下」のご親筆なのかもしれない。風景も、スイスのローザンヌあたりの風景なのだろう。
故「王姉殿下」は、フランス語の教授として、「チュラロンコン大学」や「タマサート大学」、その他多くの大学で教鞭をとっておられたご経歴があり、晩年まで、タイのフランス語教育にご尽力されたようである。

 冒頭の「マティチョン」のお写真や、「チュラロンコン大学」のお写真は、近影といってもいい、最近のお姿のようにお見受けした。お若い頃のお写真の掲載も、それなりに良いとは思うが、やや「老醜」さえ感じさせるご近影の掲載は、それなりに見識だと思われる。
 インターネット上に、ご幼少時代から、華やかな娘さんといった時代のお写真など、数々のお写真が公開されているが、それらを拝見しているうちに、ついつい、「生・老・病・死」、人間の一生のはかなさを感じずにはいられなかった。

 (後記)
 各ページの追悼メッセージに、日本語訳をつけようと思ったが、独特の王室用語の雅語の羅列で、稚拙な語学力の自分には、的確な日本語訳は無理とあきらめた。
 「マティチョン」のメッセージにも見えるように”天に昇って、星になる”などという、ロマンティックなものもあるようである。

 2008年2月1日現在、”สมเด็จพระเจ้าพี่นางเธอเจ้าฟ้ากัลยาณิวัฒนา กรมหลวงนราธิวาสราชนครินทร์ (王姉殿下の正式呼称)”をキイにgoogleで検索すると、400万件以上がヒットする。
 追悼ページも、その気になって検索すれば、掲載した100倍くらいはすぐに見つかるにちがいない。
思いついたものだけ掲載したもので、選択に特別の意図などはないし、掲載順についても、特段の意味はない。
 名の知れた新聞社などでも、特別の追悼ページを設定しなかったところもあるようだし、検索したのが「国民の服喪期間(15日間)」を過ぎていたこともあって、すでに臨時の追悼ページを削除したところもあるにちがいない。

 なお、タイ語のページだが、「王姉殿下」のありし日のお姿など、お若かった頃の写真やご業績など84年間の記録が、こちら のページなどでご覧になれる。
 これらの記事は、「カラヤニ・ワッタナ王姉殿下」の84歳を記念して、昨年作成されたもので、亡くなられたあとに作成されたものではない。

 冒頭のご近影は、「マティチョン紙」の追悼ページからトリミングしたもの。
 マスコミ各社や大学などの追悼ページから、無断でコピーさせてもらったものばかりだが、著作権等のことは、なにぶん良しなにお取りはからいいただきたい。どうしてもということでしたら、ご連絡いただければ、削除いたします。


(月並みですが、最後に)
故「カラヤニ・ワッタナ王姉殿下」のご冥福をお祈りいたします。
合掌(ワイ)



(追記)
  前記した「王姉殿下」を紹介してあるホームページは、タイ語表記のみのため、タイ語が全く読解できないと、「王姉殿下」の雰囲気すら、うかがい知ることも出来ないのではないかと思い、非常にたくさんあるお写真の中から、紹介記事のメニュ項目ごとの「タイトルバック」のお写真だけでもと、蛇足のような気がしないでもないですが、拾い出してのせることにしました。
  ご覧いただければ、おわかりなるかと思いますが、タイの王室のご様子は、実に細かいことまで、一般に公開されております。


   01 「ご経歴」から 「ご幼少時代」 
ご幼少時代

  背景に、初めてのお友達にあてた、英文のお手紙が写っております。
        ”Hello, I am May. I born in London.
         England on Sunday 6 May 1923.
         My father is doctor. He is hero for my heart.
 ・・・”
  このお手紙の内容から、「王姉殿下」のご幼少時の通称は、「メイ」だったことがわかりますが、いつまで、「メイ」でいられたのでしょうかね。

  お父上は、ラマ5世・チュラロンコーン王のご子息で、「王姉殿下」ご兄弟は、ラマ5世のお孫さんにあたります。
  ラマ7世の突然ともいえる引退後、「王姉殿下」の弟君、「アナンタ・マヒドン国王」に、順番がまわってこようとは、ご両親にとっては「晴天の霹靂」だったとのことです。
右端の「王姉殿下」の隣りに座っている坊やが、後のラマ8世国王です。
  真ん中の写真の、お母様に抱かれている赤ん坊が、現ラマ9世、「プミポン・アドゥルヤデート国王」です。80年ほど昔のお写真です。


   02 「ご経歴」から 「学生時代」 
学生時代

  お父上が、合衆国の「ハーバード大学医学部」に留学されることになり、ボストンで初等教育をお受けになられたが、現国王がお生まれになったりして、お子様たちのご養育のことなどあって、お父上おひとりをボストンに残して、スイス・ローザンヌへ引っ越され、かの地で大学(ローザンヌ大)まで進学された。
  このページには、そのときの学位(ディプロマ)証明書や成績表などが掲載されていますが、こういうのっていいですね。 
  お住まいのあった、ローザンヌは、スイスでもフランス語が日常的に使われる地域で、このことが後に、「フランス語教育」に携わられる契機になられたものと思われます。


   03 「ご経歴」から 「教育者として」 
教育者として

  1950年、27才のときに、タイにご帰国になり、チュラロンコン大学、言語学部フランス語学科の非常勤講師に就任され、ビクトル・ユーゴーやフラン文化などの講義を担当された。
 下のお写真は、その頃の、雄姿である。
教育者として
 その後、タマサート大学でも、フランス語学科の主任教授になられたあと、生涯にわたってタイの「フランス語教育界」の中心的役割を担われた。

   ※ ここまで(01〜03) は、写真をクリックすると、原ページのTOPページへ、ジャンプできます。

 【お断り】  (2008/10/22補記)
 これらのページは、その後、すっかり改訂されてしまい、現在では見ることが難しくなった写真がほとんどです。
 リンクも、とりあえず、TOPページに付けなおしてあります。悪しからず、ご了承ください。



   04 「ご趣味など」から 「馬術とカメラ」
馬術
  馬術競技の腕前は、国際競技レベル。
カメラ
  趣味と実益を兼ねたカメラ。
 歴史的建造物や遺跡の保護にもご尽力されていて、ご趣味のカメラの被写体でもある。
 ちなみに、「プミポン国王」のカメラのお腕前も相当なものだそうです。


   05 「ご公務」から 「ご生母殿下」のサポート 
教育者として

  ご生母・故「シーナカリン殿下」ご存命中には、母殿下ご高齢ということもあって、「ドイトゥン・プロジェクト」などを、陰でお支えになられていた。
 10年前ころ、母君のあと、「ドイトゥン・プロジェクト」をお継ぎになるのではという噂が流れたが、「プロジェクト」が一応一段落し、目標達成の目途どが立っていたことなどもあってか、以前ほどには、おいでにはなかったようである。


   06 「ご公務」から 福祉事業などの慈善活動 
教育者として
  タイも大分豊かになったとはいえ、地方へ行くと、まだまだ大変な生活を強いられている人たちも多く、機会あるごとに、他の王室の方々と分担しあって、福祉活動などを続けてこられた。公衆衛生や地方の医療などについても、多くのご援助をなされていたようである。


   07 その他 切手と記念硬貨 
教育者として
   タイの硬貨や通常切手には、「プミポン国王」のご肖像をデザインしたものがほとんどだが、「王姉殿下」のご肖像のものもいくつかあるようである。
  硬貨は、お目にかかったことがないので、もしかすると、金貨、銀貨の高額記念硬貨なのかもしれない。


 (追記 その2 10/22/2008)
 「本葬」の日程などが、公表されているので、書きとめておくことにしました。
 11月15日の 「火葬」当日は、テレビに生中継があるにちがいないので、是非ご覧になることをお勧めいたします。
 式の進行は、白装束のバラモン僧が中心になって執り行われ、タイの王室における「仏教」と「バラモン教」の役割分担のようなものを伺い知ることが出来ます。
 かなり不謹慎なことではありますが、タイ王国の伝統的な王朝絵巻を目にすることが出来るにちがいありません。

    (本葬儀の日程)
     2008年11月14日  お棺安置所からの出棺 (お棺は高貴な方専用の坐棺)
     2008年11月15日  火葬式(サナームルアン)  各局テレビ、生中継
     2008年11月16日  お骨拾い式
     2008年11月17日  お遺骨供養のお布施式
     2008年11月18日  僧侶接待、お遺骨の安置
     2008年11月19日  遺灰収納式


 「本葬」の期間中、14日〜16日は、「政府通達」により、「国民の服喪期間」 ということで、この期間中には黒色系統の衣服の着用し、娯楽施設の営業自粛や祭事の催行の自粛などが、呼びかけられることになった。
  

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