1 誕生前夜
現在の馬頭町は、古くから武茂荘(むものしょう)または、武茂郷とよばれていました。鎌倉時代の武茂郷は、県北の豪族那須氏(扇の的で有名な那須与一の一族)の領地となっていましたが、13世紀の末、下野の豪族宇都宮氏の一族である武茂泰宗(やすむね)が城を築き、以後、武茂氏が長くここを支配することになりました。
(写真右・武茂泰宗/広重美術館裏の銅像)
戦国時代になると、常陸(ひたち)つまり現在の茨城県の豪族佐竹(さたけ)氏がしばしば攻め入り、ついに武茂氏は佐竹氏に従うようになり、武茂郷は佐竹しの支配下となりました。しかし、佐竹氏は関ヶ原の戦いのとき、徳川方に見方することをしぶったため家康から疑いをもたれ、常陸の領土を取り上げられ、秋田の方へ追いやられました。
佐竹氏に代わって、この領地を支配することになったのは、家康の11番目の子である頼房(よりふさ)でした。水戸藩の初代藩主となった頼房は、城内と城下の整備をします。この水戸藩は、同じように家康の子が藩主となっている尾張(おわり)藩や紀伊(きい)藩とともに将軍家と最も近い親せきの大名、いわゆる「御三家」(ごさんけ)として特別の扱いを受けることになります。ことに水戸藩だけは参勤交代が免除されるという特殊な地位にあり、天下の副将軍などとも言われるとともに、幕末には政治の流れを変える重要な動きをしました。
佐竹氏の支配下にあった武茂郷は、そのまま水戸藩に入れられました。それ以来、武茂郷は明示4年(1871年)の廃藩置県によって栃木県に入れられるまで、260年あまりの長い間、水戸藩の領地として、その影響を受けました。2代藩主で黄門様として有名は光圀(みつくに)は、8回ほど武茂郷を訪れ、湯津上村の那須国造碑の保全や侍塚古墳の発掘調査を行わせました。また、9代藩主の斉昭(なりあき)は、小砂に良質の粘土を発見し、これを原料として大砲を造るための溶鉱炉(ようこうろ)のレンガを焼くとともに、現在の小砂焼きのもと(1851年に初めて焼かれた)を築きました。(写真左・斉昭が将軍に献上した大砲/水戸市義烈館)北島秀朝の誕生したのは、この徳川斉昭の時代だったのです。
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2 誕生 |
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3 郷校に学ぶ 馬頭郷校が建てられた場所は、現在の馬頭小学校のあたりです。当時、水戸藩の財政は大変苦しかったので、建設にあたっては村内のお金持ちの寄付金や労力奉仕に頼りました。また、郷校で使用する本についても、寄贈されたものが多かったようです。 ここで教育を受けた人は、郷士(ごうし)とよばれ、献金などにより武士の身分になった人や、神官、村役人(名主・組頭・百姓代)たち、つまり、地方の有力者でした。また、幕府も混迷が深まり、政治の様子が緊迫してくると、一般農民も優れた人たちは教育の対象となりました。 教科の内容は、医学・儒学などの学問だけでなく、剣術(けんじゅつ/剣道)や砲術(ほうじゅつ/鉄砲を撃つ技術)などの軍事教育的なものも盛んに行われました。というのは、馬頭郷校が開校される4年前にペリーが黒船を率いて来航し、開国を迫り幕府に圧力を加え、さらに、1年前にはハリスがアメリカ総領事として来日し、幕府との間に条約を結ぶことを進めようとしていたのでした。そのように、日本全体が緊迫した情勢の中で、水戸藩も徳川斉昭のもとに藩の政治の改革を行い、軍備を増強して兵力も充実させようとしたのです。ですから、馬頭郷校は、最初から日本の国を守ろうとする人を育て、そのための武術を身につけさせるための教育を行うために建てられたと考えてよいのです。(写真・左/馬頭郷校・模型―馬頭町郷土資料館低提供)
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4 上洛
1853年、孝之介は天皇の住む御所を警護するために、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ/斉昭の子で15台将軍徳川慶喜の兄)に従って京都に上りました。京都の街は混乱していたのです。幕府が朝廷の許しを得ず日米修好通商条約を結んで以来、安政の大獄、桜田門外の変と事件が続き、幕府と朝廷の関係はますます悪くなっていました。そこで、幕府は、孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)と14台将軍家茂との結婚によりなんとか関係を好転させようとしたのです。しかし、激しく攘夷を求める勢力が強まり、京都の町の中で、互いに殺し合いが行われていたのです。(写真右/秀朝が住んでいた
京都・柳の図子あたり)
このころ、孝之介の母が、彼にあてた次のような手紙が残っています。
『・・・・・・都で何事もなく無事にお勤めなさっているとのこと、うれしく思います。さて、夏の間、具合が悪かったので手紙を出せなくて、ご心配をかけましたが、今は大丈夫ですので、ご安心下さい。5月ごろから、あなたも病気とのことで、私たちも心配をしているのですが、今はいかがですか。また、神社のお仕事のほうは小砂の方で順調に進められておりますので心配しないで、まずは、お殿様へのご奉公に専念されるようお願いいたします。忠孝(「忠」は君主につくすこと。「孝」は親孝行のこと。)が両立しないときには、孝はさておいて、忠をつくすこと。これが第一の道と思います。また、奥方様へもお粗末なふるまいをなさらないよう、何事にも心を配られるよう・・・・・・。』(慶応元年8月19日/1865.10.8 現代語補訳)
孝之介は、何度も病気にかかり、体はあまり丈夫な方ではありませんでした。母親は、jそのことを心配しています。また、御所の警護のために藩主慶篤のお供をして上洛した我が子を誇らしく思い、親孝行のことは考えなくてよいから、殿様のために一生懸命つくすよう説くのです。
しかし、このころから、孝之介の考え方はしだいに方向を変えていき、ついには水戸藩を捨てることになるのです。というのは、京都において、孝之介は長州や薩摩など西国諸藩の武士たちと交流をもつようになりました。おりしも、1863年8月の薩英戦争、1864年の下関戦争(4カ国艦隊の下関砲撃)で、それぞれ外国の力に敗れ、もはやイギリスやフランスなどヨーロッパの強国に対抗するのは不可能なことを悟り、この2大勢力は倒幕へと方向転換を始めるのです。孝之介も、このころ、攘夷の思想は捨て、日本の将来を見つめ、脱藩することを決意したのです。それが、1865年、孝之介が24歳のころでした。
竹原秀太郎? 才谷梅太郎? 臼田幸助? 花山春輔?
脱藩したとき、彼は自分の名前を“竹原秀太郎”と変えました。脱藩というのは、今までの藩の枠組みを取り払い、自由に活動し、同じ考えをもつ武士たちのネットワークをつくる目的で、自分の所属していた藩を抜け出すことです。しかし、藩の許可を得ずに藩を抜けることは違法だったので、捕まれば国へもどされ重罪に処せられます。また、脱藩はしていなくとも、尊王の志士たちの活動は幕府の役人や反対派から追われるものでした。そこで、名前を変えたり、ときには、姿を僧や商人に装ったりしながら、正体がばれないようにしていたのです。ちなみに、坂本竜馬は才谷梅太郎、木戸孝允は臼田幸助、また、伊藤博文は花山春輔、林守一、越智斧太郎などたくさんの名前を使っていました。孝之介も、1867年ころは竹原秀太郎を北島千太郎と改めています。北島秀朝としたのは、和歌山県令となった1871年のころと考えられています。
5 岩倉具視との出会い
北島秀朝が岩倉具視に初めて出会ったのは、1866年ごろです。秀朝と同じ水戸藩出身の香川敬三の案内で、京との北のはずれの岩倉村に隠れ住んでいた岩倉具視を訪ねたのです。岩倉は、身分の低い公家の出身でしたが、強い意志力と巧みな政治手腕を発揮して、朝廷内では強い発言力をもっていた人物です。このころは、政治的には失脚中で、京都のまち外れに隠れてはいましたが、絶えず内外の政治情勢に関心をもち、朝廷の権力を高めようと考えていたのです。(写真左/旧岩倉邸・京都)
このとき以来、秀朝はしきりに岩倉村を訪ねるようになりました。岩倉も、北島に絶大なる信頼を寄せており、後に、新政府軍を組織したとき、東山道軍の総督となった自分の息子の補佐役として秀朝を任命したほどです。岩倉は、明治になってから、当時を回想した文のなかで、次のように述べています。
「私は、京都の北の山村に長く隠れ住んでいたので、自然と世間にうとくなっていた。・・・・・・大橋、北島(秀朝)、坂木、中岡(慎太郎)、坂本(竜馬)5人の説を聞いて、初めて海外の形勢を詳しく知ることができた。」(1870年。現代語補訳)
ここに名前がでてきた坂本竜馬は、世界に目を向けながら日本の将来を見つめ、中岡慎太郎とともに薩長同盟を成立させた立役者として、幕末の政治史に名を残した人物ですが、北島秀朝も、この坂本と同様に世界の情勢を的確に把握し、将来を見通し、日本の開国の必要性を説いた人物として、岩倉から高く評価されていたのでした。秀朝は、こうして、岩倉の手足となり日本国内をかけめぐり、様々な情報を集めてまわるのです。1867年には、函館まで出かけ、外国の事情について調査し、岩倉に報告しています。
岩倉が政治の表舞台に再登場するのは、1867年の王政復古のときです。すでに、1866年に薩長同盟が成立し、形勢は幕府にはきわめて不利な状況となっていました。そこへ、これまで幕府に好意的だった孝明天皇が亡くなり、さらに、朝廷から「倒幕の密勅」が薩長両藩に下ろうとしていたため、15代将軍慶喜は、薩長が朝廷の権力を後ろ盾に兵を挙げる前に、先手をうって政権を朝廷に返還する、いわゆる大政奉還を行ったのです。これにより、薩長側は倒幕の名目を失ってしまったわけですが、徳川の力を完全にそぎ取ろうと考えていた薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らは、岩倉具視とクーデターを画策したのです。つまり、天皇が全ての権力を握る新政府の誕生を宣言し(「王政復古の大号令」)、徳川慶喜を官位から退かせ、領地を朝廷に差し出させることを決定したのです。これらの計画に北島秀朝も加わっていたのです。
6 倒幕軍司令官
徳川に対する朝廷側の決定に対し、幕府側に立つ会津、桑名藩は反発しました。それが戊辰戦争へと発展するのです。この戦いは,慶応4年1月3日(1868.1.27)の鳥羽・伏見の戦いに始まり、戦場は東北地方へと移りました。なかでも、会津の戦いは激戦となりました。
鳥羽・伏見の戦いに勝利を収めた朝廷側は、全国諸藩に朝廷に従わせるために、東海(現在の愛知県から静岡県を通る道)・東山(現在の長野県を通る道)・北陸(現在の福井から富山、新潟県を通る道)の三方面から軍を派遣しました。岐阜から長野を経て関東に向かう東山道の総指揮官となったのは、岩倉具視の次男具定でした。そして、その補佐役の大監察という役職に北島秀朝ら3人が任命されたのです。具定は、まだ19歳の若年でしたので、実質的に軍を統率したのは北島らでした。
道々の諸藩は、秀朝らに嘆願書を提出し、すべて朝廷側に従いました.また、農民の一揆がしきりに起こったのですが、これらの多くが幕府側の扇動によるものであったので、秀朝は農民を説得して武力を使わずに鎮めたのです。
江戸城が明渡されると、秀朝は上京して岩倉具視に関東の情勢を報告するとともに、今後の政策に関する意見書を提出しました。その中には、都を京都から江戸に移すべきであるという遷都に関するものもありました。遷都については、大久保利通や大木喬任(おおきたかとう)、江藤新平(えとうしんぺい)、前島密(まえじまひそか)など多くの要人から意見が出されましたが、北島の遷都に関する意見は、岩倉の心を動かしました。岩倉や大久保の働きかけにより、遷都は実現されました。まず、江戸を東京と改め、次に天皇が東京を訪問し、そして明治元年10月13日(1868.11.26)江戸城を皇居とし、都が移されたのでした。
《 大久保と前島の遷都論 》
| 提案者 | 遷都の場所 | 理 由 |
| 大久保利通 | 大坂 | 経済の中心であり、外交や富国強兵のための海軍基地設置によい場所である。(後に、江戸遷都へと変わる) |
| 前島 密 | 江戸 | 江戸は世界の大都である。大坂は小さな舟しか入れないが、江戸には大きな舟が入港できる。江戸城を修理し、皇居とすることができるので新築の必要がない。(明治政府の財政は苦しかった) |
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7 東京治世と千葉開墾 東京府判事となって秀朝がまず取り組んだのは、千葉県北部の下総台地の開墾でした。下総台地は、江戸時代は幕府直轄の広大な馬の放牧場になっていました。これは、軍馬の育成を目的として始められたもので、小金牧と佐倉牧とに大きく2つに分けられていました。この2000ヘクタールにおよぶ広大な土地を切り開こうとしたのです。 その目的は、東京内にあふれ出た貧しい人々の救済にありました。明治維新という大変革は、様々な種類の貧しい人々を生み出したのです。ひとつは、下級武士や武家屋敷で働いていた奉公人、さらには武士に密着した職業に従事した人などの失業者たちでした。もう一つは、農村で生活していけずに江戸に流れてきた人たちです。1869年の貧富別に人口を調べた統計によると、貧民が約40%、極貧民と極々貧民が20%にもなっていました。とりわけ、秀朝が東京市内の治安対策として重視したのは、下級武士を中心とした失業中の幕府側の武士たちです。幕末から続く諸物価の値上がりで、もしかすると再び「打ちこわし」が起こるかもしれないと考えました。これらの解決法として生まれたのが小金牧と佐倉牧の開墾事業だったのです。今で言えば、失業対策としての公共事業施策といってよいかもしれません。 この大事業の計画が認められると、秀朝は下総開墾局知事に任命され、精力的にこの仕事に取り組みました。まず、開墾の実際の仕事は民間の会社にまかせました。これを引き受けたのは、のちに三井財閥の基礎をつくった三井八郎右衛門です。次に、開墾の募集をしました。募集要項は、おおむね次のようなもので、一定の生活保障が明示された、当時としては先進的な政策でした。 @ 住居と農具は貸与する。 A 農地は50アール、宅地は5アールを与える。 B 農作業ができなくても手作業をする者には、5アールの宅地を与える。 C 老人や子どもには、1日につき1って異の米を与え、病人には薬を与える。また、一般の働ける者の米は、貸し与えるので、10年間で返済すればよい。 D 婦人または病弱で農作業が無理なものには手作業の仕事を与える。 現在、これらの開墾地には、成田空港がつくられ、京成ライナーが東京との間を結び付け、さらには東関東自動車道も建設されました。そのために、近辺の町は、東京のベッドタウンとして、ますますの発展を見せています。これらの発展の基礎を築いたのが、北島秀朝の下総開墾事業だったともいえるのです。 |
8 和歌山・佐賀・長崎へ
秀朝は、この功績が認められ終身100石が与えられました。さらに、廃藩置県が行われた翌年の明治5年1月25日(1872.3.4)、徳川御三家の領地の一つであった和歌山の県令に任命されました。
彼は、和歌山に赴任する前に、およそ10年ぶりに故郷の大山田村に帰りました。貧乏な神社の神官の息子が、今や明治政府の官僚となり、さらには31歳の若さにして和歌山の県知事になろうとしているのです。大山田村の歓迎ぶりが目に浮かぶようです。秀朝は母親に対しての長年の親不孝をわび、妹てるの苦労をねぎらいました。そして、お世話になった人々に、次のような寄進を行ったそうです。
◇生家益子家の主人定次郎(妹てるの婿)に金銀造りの短刀と金300円
◇大山田下郷深沢竹之助に短刀と金100円
◇大山田下郷村と上郷村にそれぞれ金160円
◇篠尾神社保存修繕費として金100円
※ この金額は、現在の貨幣価値で考えるとバカにしたような額ですが、当時は相当の額であったと想像できます。というのは、1990年に第1回の帝国議会開催のために衆議院議員の選挙が行われましたが、この時の投票資格は、直接国税15円以上納めていた国民に限られており、この額を納めることのできたのは国民のわずか1%にすぎなかったからです。
こうして、秀朝は家族や村人たちと別れを惜しみ、和歌山へ向いました。このとき、彼が、二度と故郷の土を踏むことができないとは誰も考えもしませんでした。
和歌山へ着任すると、彼は廃藩置県後間もないことであったので、行政組織や行政区域、諸規則を整備するとともに、医学校や病院の設立にも力を入れました。
明治7年(1874年)になると、秀朝は佐賀県令に任命されました。ここでの仕事は、多難なものでした。というのは、「佐賀の乱」が起こり、秀朝はその事後処理の大任を背負って派遣されたのです。佐賀の乱というのは、明治政府に不満をもつ佐賀の士族たちが、江藤新平を中心にして起した反乱です。江藤は政府軍に敗れ、さらし首となりました。江藤新平といえば、江戸鎮将府会計局時代にいっしょに仕事をした、秀朝の友人でもありました。ですから、秀朝が複雑な気持ちで佐賀に向ったことは言うまでもありません。しかし、この佐賀県令任命は、新政府ナンバーワンの実力者大久保利通の推挙によるものでした。秀朝は、忙しさに追われる毎日でしたが、みごとに佐賀を復興させます。また、1873年から実施された地租改正に反対する農民に対しても、地主と小作人両方の言い分をよく聞き入れ、スムーズに改革を進めていきました。
彼の母ひさが62歳で亡くなったのは、ちょうどこの頃(1875年9月)です。ですから、母の葬儀のために故郷に帰ることができませんでした。重要な地方の官会議にも代理人を出すほどの忙しさだったのです。しかたなく、彼は葬儀のために大変な費用を要しただろうと考え、香料等100円ほどと送ったのでした。
明治9年(1876年)には、長崎県令に任命されました。ここでは、まず、教員を養成するための公立師範学校を設置し、長崎病院内に医学場を開設したり、長い間放置されていた長崎港の改良工事にも着手しました。この長崎港湾の整備は、明示政府の政策である富国強兵、殖産興業を進める上で重要でした。長崎は、西海の中心地であり、海軍の根拠地となっていました。また、幕末から、ここには長崎製鉄所が建設されており、秀朝が着任した頃は、大型船建造のための立神ドックが造られているところでした。後に、この立神ドックは三菱造船所に引き継がれ、東洋一の造船所となるのです。
こうしたなか、戦争が再び起こります。明治10年(1877年)2月、西郷隆盛が1万3000人の鹿児島の士族部隊を動かすと、九州各地から不平士族が加わり、軍勢は3万人を超えました。これが西南戦争です。秀朝は、戦況に関する情報を集めたり、政府の重要な軍事基地をなっていた長崎の警備を固めました。しかし、さすがの西郷軍も最新式の兵器を備え、電信技術を使って敵の動きの情報を素早くキャッチする新政府軍には、かないませんでした。同年の9月の西郷の自殺により、戦争は終わりました。なお、この戦争で、北島は、長崎の上野彦馬に命じ、政府軍に従軍させ戦況を写真に収めさせています。もしかすると、彦馬は、わが国初の報道写真を手がけた写真家かもしれません。この時の写真は、長崎市の上野写真館に現在も残っております。
北島から依頼を受け、写真家の上野彦馬が撮影した西南戦争の戦場跡(田原坂付近)(熊本日日新聞1997年9月20日朝刊 紙齢2万号特集より)→著作権の関係で掲載しません。
9 秀朝の死
西南戦争をのりきった秀朝の行く手には、新たな災難がまちかまえていました。コレラの発生です。
この年は、全国的にコレラが流行し、6817人が死亡しました。長崎におけるコレラの被害も大きく、死者があいつぎました。これに対し、秀朝は臨時医員を雇うなどしてコレラ対策に専念します。そして、部下が止めるのも聞かず、自ら病院を訪ね患者を見舞ったのです。このことから、不幸にも自分自身も感染してしまい、発病後3日後の明治10年10月10日、36歳の若さで亡くなったのです。
北島秀朝の遺骸は、長崎港を見下ろすことのできる小高い丘に葬られました。7周忌には、かつての同志たちが岩倉具視や香川敬三の賛同のもとに、彼の業績をたたえる記念碑を建てました。この碑は、長崎公園(諏訪神社境内)にあります。こうして、彼の足跡は永久に残されることになったのです。
また、篠尾神社の鳥居のわきの土手には、秀朝没後100年を記念して、生家の子孫により、郷土史研究家藤田倉雄氏の協力を得て、顕彰碑が昭和54年に建てられました。さらに、昭和56年には、北島秀朝についての長年の研究の成果をまとめた『県令北島秀朝』(北辰図書出版)が藤田倉雄先生によって刊行されました。この特集も、藤田先生著作の本に基づいて組まれています。また、馬頭町では、平成2年に北島秀朝顕彰会が発足し、北島の長崎にある墓地(写真・左/北島秀朝墓石―長崎市)の改修を行ったり、『県令北島秀朝書簡集』も平成3年に刊行しました。このように、馬頭町の生んだ明治維新期の逸材の存在は、いつまでも忘れられることがないのです。