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昨年の9.11郵政選挙で反対派の大物亀井静香氏の刺客として自民党が広島6区に送り込んだのがライブドアの堀江貴文社長(現、容疑者)であった。堀江容疑者が社長退任を呑まなかったことから、無所属での立候補となったが、出馬会見を自民党本部で開かせるなど、事実上の支援候補として立候補した。
小泉首相は堀江容疑者の出馬意向を受け、「時代の息吹っていうのかな。何か新しい雰囲気を感じますね」とエールを送り、武部幹事長は、民放テレビで「堀江君は将来の日本を背負っていくリーダーになる」と持ち上げた。
選挙戦に入ると、武部幹事長や竹中平蔵郵政担当相(現、総務相)が広島6区入りし、「わが弟であり、息子です」(武部)、「首相と僕とホリエモンは一体。一緒に改革をやらせて」(竹中)と訴えた。
そもそも、堀江容疑者の出馬は、「自民党の武部勤幹事長の二男を通じ、堀江容疑者の方から接触してきたらしい。武部氏は人気者の参戦に大乗り気だった」(自民党ベテラン秘書)。
武部幹事長の二男は、元IT企業の経営者で、堀江容疑者とは知り合いされるが、堀江容疑者の逮捕後、「ライブドアが武部氏の二男の会社に資金援助している」「堀江マネー還流のナゾを解くキーワードが「香港」と「スイス系金融機関」、 この2つのキーワードから、なぜか、武部勤自民党幹事長の二男」「堀江容疑者が昨年8月、自民党の武部勤幹事長の二男あてに3千万円送金」と疑惑が持ち上がり、それに対し、武部幹事長は疑惑を否定する構図になっている。
メールの真偽のほどは分からないが、武部氏の二男と堀江容疑者が親しい関係にあることが世間に知られるところとなり、選挙のとき武部氏が「わが弟であり、息子です」といった意味がわかった。
武部氏の二男は、現在、ブティック経営という肩書きになっていることからも分かるように、ネット証券、タイラーメン、タイ料理店、と次々事業を立ち上げるが必ずしも上手くいっていないという。ところで、読売新聞グループ本社渡邉会長が、昨年10月、堀江貴文容疑者が広島カープ買収に動いていると暴露した上で、その黒幕は「自民党の武部(勤)幹事長」と名指ししていた。
渡邉会長「選挙との絡みだよ。ホリエモンを非公認で選挙に出して、亀井(静香議員)に負けた。その借りが自民党の某実力者にある。その自民党の某実力者が財界の某大物に頼み、その某大物から俺に電話がかかってきたんだ。『ホリエモンに広島を売ってくれ』って」いったんは匿名にしたものの、その後すぐに「はっきり言って、背後にいるのは幹事長!何ていったっけな? そう、武部だよ! 僕に電話をかけてきた財界人に聞いたら、武部に頼まれたって」と暴露。「(堀江社長が選挙に)落ちたことに対する代償じゃないか。公党の幹事長が、そんなバカなことを、プロ野球界に手を突っ込んでくるなんてことを許せるか!」と怒り心頭なのだ。s2005102501.html へのリンク
最近も渡邉会長が、民主党の鳩山由紀夫幹事長に会い、「ライブドア」が広島カープ球団の買収を計画していた際、自民党の武部勤幹事長や財界人が堀江貴文前社長との面会を働きかけていた経緯を説明している。武部氏も、渡邉会長に電話したことは認めている。
20060216k0000m010036000c.html へのリンク
mng_____sei_____001.shtml へのリンク
渡邉会長は「(堀江社長が選挙に)落ちたことに対する代償じゃないか。」といっているが、衆院選出馬は「堀江容疑者の方から接触してきたらしい」し、それも広島6区からというのは堀江容疑者が言い出したとされており、「(選挙に)落ちたことに対する代償」というのはちょっとおかしな気がする。むしろ、武部幹事長の二男と堀江容疑者の近しい関係のほうが怪しい
なお、堀江容疑者が、衆院選出馬を表明したとき、ライブドアの若手社員は「堀江さんが国会議員になったら、インサイダー情報がバンバン入って大儲けできる」と喜んだという。
hl?a=20060214-00000001-san-bus_all へのリンク up
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ヤンキース、WBCに反対しているくせに、WBCには関心があるようです。
2006.02.18 記事差し替え
(2/16)ジーターなどのWBC出場に嫌悪感・ヤンキースオーナーバッテリー集合日の16日、ヤンキースのスタインブレナー・オーナーが、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)出場組に不快感を示した。「キャンプはワールドシリーズのためにある。WBC出場は、けがの危険性もある。だが、出るなとも言えない」。30球団のオーナーで、ただ1人開催に反対しただけに、ジーター、A・ロドリゲスら主力の出場に嫌悪感をあらわにした。そのジーターは、オーナーと話したそうで「ぎこちなくて、別のチームのような感じだった。でも、母国のために戦うのを楽しみしている」と、こちらはやる気満々。index.cfm?i=2006021701927n1 へのリンク
米大リーグ公式ホームページ(HP)は8日(現地時間)、「WBCはスカウトにとって大きなチャンスだ」と題した記事を掲載。その中で、ヤンキースのブライアン・キャッシュマン・ゼネラルマネジャーの「われわれは絶対にWBCをチェックするだろう」とするコメントを引用し、メジャー各球団の関心の高さを報じた。さらに同記事は、WBC日本代表の松中信彦内野手(ソフトバンク)の写真を載せ、「WBCでメジャーのスカウトが狙う一人」と伝えた。(スポーツナビ) 2月9日hl?a=20060209-00000025-spnavi-spo へのリンク
つまり、WBCに選手を出さない球団が得をするということです。WBCに選手が参加するとケガや疲労蓄積の問題があります。さらにWBCは、メジャー予備軍の見本市という性格も持っています。日本の球団にとってWBCに選手を出さなければ、選手のケガのリスクとメジャーへの流出という二重にリスクを回避することができます。メジャーの球団にとってWBCに選手を出さなければ、ケガのリスクが回避され、新戦力をスカウトする絶好の機会となります。
それから、WBCの日本代表入りを拒否したヤンキースの松井秀喜選手ですが、米国のイベントには熱心のようです。
米大リーグ、ヤンキースの松井秀喜外野手(31)ら日本人大リーガー4人が9日、東京都内の米国大使館で開かれた観光促進キャンペーンのイベントに出席した。ブルワーズの大家友和投手(29)、今季メッツ入りした入来祐作投手(33)、インディアンスの多田野数人投手(25)も壇上に上がり、記念品を贈られた。(毎日新聞)2月9日hl?a=20060209-00000116-mai-spo へのリンク
そういえば、昨年の2012年オリンピックの開催地招致合戦のとき、松井選手は。候補地のひとつだったニューヨークの宣伝にも協力していました。この2012年の開催地決定を決めたIOCの総会で、野球はソフトボールとともにオリンピック競技から外されました。
ところで、日本人メジャーの先駆者野茂英雄さんは、昨年暮れの「朝日スポーツ大賞」の授賞式で、「(賞を)あげる方も、あげた責任というか、その選手をフォローしながら、今後のスポーツを、その競技を考えて頂ければいいなと思います」とコメントしています。up
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産業再生機構とダイエー優勝セール
近鉄球団の売却先を探していたオリックスの宮内は、4月下旬、突然、近鉄球団の親会社である近畿日本鉄道の山口社長に球団合併の話を持ちかけ、5月上旬には合意した。この心変わりは、読売巨人軍オーナー渡辺恒雄や西武ライオンズ・オーナー堤義明との間で1リーグ制への合意が成立したことを意味していた。球団が奇数では、パ・リーグの維持は困難であり、近鉄とオリックスの球団合併は1リーグ制の引き鉄になるはずであった。ところで、1リーグ制への動きは、1年も前から進められていた。その主役は近鉄球団ではなく、福岡ダイエー・ホークスであった。
不良債権が、バブル崩壊後の日本経済発展の足かせになっているとして、政府は、不良債権比率を2005年3月末までに半減するという目標を設定し、産業再生機構を2003年4月設立した。産業再生機構は、有用な経営資源を持ちながら過剰債務を負っている事業者に対して債権買取などの支援を行うことで事業の再生を図り、産業と金融の一体的再生を実現するとしていたが、その企業再生の象徴とされたのがダイエーであった。
ダイエーは、バブル期の過剰投資などがたたって経営不振に陥り、一時は2兆5000億円を超す借金を抱えて身動きが取れなくなっていた。このため、主力銀行から2度にわたって計5200億円の債権放棄を中心とする金融支援を受けたが、それでもなお約1兆2000億円の有利子負債を抱えていた。ダイエーが産業再生機構入りすれば、税金でプロ野球を経営できないとして、ホークスを手放すのは必然であった。ホークスの引き受け手とされたのが、ロッテであった。
産業再生機構の支援第1号ともいわれたのが、ダイエーの残った有利子負債の約1割を占める福岡事業であった。福岡事業とは福岡ドームを中心としたシーホークホテル、ホークス球団を合わせた3点セットで、1200億円の有利子負債を抱えていた。2003年ダイエー再建の課題は、この福岡事業をダイエー本体から切り離すことであった。
ところが、福岡事業の売却先が外資の米国投資会社コロニー・キャピタルであったことから、ホークス球団のコロニー社への売却は、NPBの外資規制に抵触するとされ、ホークス球団は引き続きダイエー本体が保有し、福岡ドーム・ホテルのみコロニー社に売却することとなった。福岡事業の産業再生機構入りも消えたため、ホークスとロッテの合併も遠のいた。
一時的に遠のいたと言え、この1リーグ化への動きを察知し、抵抗したのが当時の川島コミッショナーであった。彼は、渡辺巨人軍オーナーの傀儡ともいわれたが、長年セ・リーグ会長を務め、球界に愛着を持っていた。これが、渡辺との確執を生み、2004年3月6日の任期切れを待たず、同年1月31日コミッショナーを辞任することとなった。
ところで、ダイエー本社にとってホークス球団ほど他に代え難い存在はなかった。2003年2月期に始まった経営再建新3カ年計画は1年目から大きくつまずいていた。有利子負債の圧縮こそ予定以上に進んだが、肝心の本業では、経常利益(単独)が145億円と、目標にしていた200億円を3割近く下回った。ところが、目標を下方修正し背水の陣で望んだ2年目の2004年2月期は目標をクリアすることができた。
既存店売上高が目標としていた「前の期比1%減」の水準を超え、2003年2月期並みになったからだ。上期(3~8月)は冷夏の影響もあって前年同期比3%減と低迷したが、下期(9~2月)に入って盛り返し、通期で目標を超えた。「営業改革が成果」とはいうが、実際は前年10・11月のホークス球団のリーグ優勝、日本シリーズ制覇という2度の優勝セールの売り上げ約800億円が下期の業績を押し上げたからだ。
NET EYEプロの視点 深堀純 http://www.nikkei.co.jp/neteye5/fukabori/20040317e3m1700e17.html
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大阪ドームと大阪近鉄バファローズ
1997年3月に完成した大阪ドームに専用球場を移転。大阪ドームは、東京ドーム、福岡ドームに次いで日本で三番目に建設された多目的ドームで、大阪市の20%を筆頭株主に大阪ガス、近畿日本鉄道、松下電器産業などが出資する第三セクターである大阪シティドームが運営・管理している。1年目こそドーム人気で178万人の観客を動員するも、翌年からは早くも低迷、大阪ドームは、年間経常赤字が毎年15億円前後と経営状態が悪化していった。
この大阪ドームへの移転が結果として、近畿日本鉄道が近鉄球団を2004年中に手放さなければならなかった理由となった。そもそも、大阪ドーム周辺には近鉄の路線がなく、親会社の鉄道収入が初めから望めなかった。現在阪神西大阪線の西九条から近鉄難波への延伸工事が行われており、完成すれば近鉄電車でドーム近郊まで行くことは可能になるが、開業予定は2009年度で、しかも運営主体となるのは阪神電鉄なので、近鉄には将来的にも鉄道収入が見込めなかった。
これでは、鉄道会社が球団を保有するメリットがない。メリットがないばかりか、近畿日本鉄道は、大阪財界の一員として大阪ドームの大株主であり、しかも、ドームの最大の利用者である近鉄球団の親会社として、巨額のドーム使用料を負担したうえ、大阪ドームの経営破綻の責任もとらされようとしていた。
大阪ドームを運営する大阪市の第三セクター「大阪シティドーム」の借入金残高は、2004年1月で約517億円を計上し、債権放棄などを求め、特別調停を申し立てる方針を固めていた。特定調停になれば、大株主で最大の顧客である近鉄は、再建計画で長期利用が義務づけられる恐れがあった。
近鉄球団は、1999年に地元企業との提携、地元密着を目指しチーム名を大阪近鉄バファローズに改称。2001年、球団社長となった永井の改革が実り、圧倒的破壊力を誇る「いてまえ打線」を擁し4度目のリーグ優勝を達成するが、選手の年俸が高騰する結果になった。
結局2004年6月13日、親会社である近鉄が経営上の理由でオリックスとの球団合併を発表。選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。8月10日に合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日のオーナー会議でこの合併が正式に認められたため、このシーズンを最後に、日本一に輝くことなく大阪近鉄バファローズの55年の長い歴史に幕を閉じた。
2004年11月1日、大阪ドームを運営する大阪シティドームは債権放棄を求める特定調停を大阪地裁に申請したが不調に終わり、2005年10月7日、会社更生法の適用を申請した。合併球団オリックス・バファローズ(オリックス80%、近畿日本鉄道20%出資)が、大阪ドームの長期使用を義務づけられることはなかった。
(敬称略)
参考文献
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近鉄バファローズ
1959年、チーム建て直しのため、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。チーム改革はなかなか進まず1961年にはシーズン103敗という不名誉な記録を残した。千葉の退陣を機に近鉄バファローズに改称。別当薫、岩本義行、そして生え抜きの小玉明利に監督を任せるが結果は出ず、パ・リーグ他球団が優勝を経験する中、万年Bクラス・最下位の近鉄は「地下鉄」「パ・リーグのお荷物」などと揶揄された。
1965年オフには当時のオーナー佐伯勇が広島カープオーナー松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では近鉄と広島が合併、本拠地を広島に置き、セ・リーグ所属とする。資本は近鉄・広島で半々、球団愛称は公募する、と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。
1969年、前年より監督の三原脩の指揮の下、初めて2位に躍進。その後はAクラスとBクラスを往復した。1970年前後に日生球場の暗いナイターがNPBで問題になり、近鉄沿線の三重、愛知へのフランチャイズ移転も検討されたが、中日ドラゴンズの独占権益が侵されるため、親会社の中日新聞社が金銭を要求し、三重、愛知へのフランチャイズ移転は断念(ただし、名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われた)。
1973年に藤井寺球場のナイター設備工事を施すが、球場が住宅街の中にあるため騒音問題を懸念する住民から反対運動が起こった。住民側は大阪地裁に工事差止めの仮処分を申請。地裁がこれを認めたため、ナイター設備の外野の鉄塔部分が完成したところで中断され、そのまま約10年間工事がストップした。
1978年、東大阪市が、近畿日本鉄道に球場の建設と球団の本拠地移転を要請している。近鉄が所有する花園ラグビー場に隣接する大阪外国語大学花園運動場が移転することになり、その跡地を近鉄に払い下げ、球場をつくってもらうというものであった。近鉄側も、藤井寺球場の問題が滞っており、本格的な球場を他に造るべきだという声が出ていたことと、1979年にラグビー場が開設50周年を迎え、これを機会に行われるラグビー場改装計画と連動する形で野球場構想が検討された。しかし、1983年大阪地裁が外野スタンド最上段に防音壁を設置すること、鳴り物入りの応援を禁止することなどを条件としてナイター設備の設置を認め、工事が再開。花園球場は立ち消えになった。
1984年藤井寺球場にナイター設備が完成し、正式に専用球場として機能することが可能となった。以後、藤井寺球場は、1997年大阪ドームに移転するまで近鉄の専用球場として使用された。1988年、黄金時代の西武ライオンズと激闘を繰り広げるも、10月19日のダブルヘッダー(10.19決戦)で無念の引き分けに終わり、ゲーム差なしの2位に甘んじた。翌1989年、前年を再現するかのような激戦を勝ち抜き悲願のリーグ優勝を遂げた。
ところで、東大阪市にある近鉄花園ラグビー場は、東の秩父宮ラグビー場と並ぶ西日本のラグビーのメッカだが、もとは近鉄の前身のひとつである大阪電気軌道(大軌)が1929年競馬場跡地に大軌花園ラグビー場として開場したもの。1926年に開場し数回の開催を行ったのみで閉鎖された同社所有の花園競馬場の跡地が利用された。
1922年阪急が宝塚球場、京阪が京阪グラウンド、1924年阪神が甲子園球場、1928年大阪鉄道(大鉄)が藤井寺球場と言った具合に、関西の各私鉄は、1920年代、沿線開発と旅客誘致のため、沿線に野球場や陸上競技場といった運動場を建設している。花園ラグビー場は、大軌の運動場版といえる。ただなぜ、ラグビー場なのかといえば、ラグビー愛好家で有名な秩父宮雍仁親王の意向によるものだと言われている。
(敬称略)
参考文献
野球場誌FONT> へのリンク
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近鉄パールス
近畿日本鉄道は、戦時中の鉄道統制令(陸上交通事業調整法)により南海鉄道(現、南海電鉄)と合併していた1944~1947年旧南海から球団を引き継ぎ「近畿日本→近畿グレートリング」を運営していた。このため、1949年の正力声明による球団増設の動きに即座に反応、かつての仲間だった南海ホークスの支持を得て、加盟申請を行う。2リーグ分裂時には、阪急、南海とともにパ・リーグに、近鉄パールスとして加盟した。
関東では、広い関東平野を東京中心に鉄道が放射状に伸びており、併走鉄道が少ない。ところが関西では、周りを海と山に囲まれた狭い平野に大阪・神戸・京都といった大都市が点在し、何本もの鉄道が同じ場所を併走し、昔から関西私鉄同士は非常に競争意識が強かった。その関西私鉄で近鉄とライバル関係にあったのが、京阪、阪神、阪急、南海の私鉄4社と国鉄であったが、京阪を除く阪神、阪急、南海の3社がプロ野球の球団を保有していた。戦後のプロ野球人気のなか、日本一の私鉄となった近鉄が、球団加盟に動くのは当然であった。このとき、国鉄はセ・リーグに加盟している。
プロ野球加盟の中心となったのが、後に球団オーナーとなる佐伯勇専務であったが、「鉄道は公益事業」「球団は親会社のすねかじり」といったタニマチ的体質がぬぐえず、金銭面はシビアであった。このため、近鉄は、選手層が薄く長らく下位に低迷することになる。
球場は、当初は立地が良くナイター設備のあった大阪球場を主に本拠地として使用したが、1958年にナイター設備が完成した日本生命球場(日生球場)に移転。近鉄は、自前の藤井寺球場を所有していたが、ナイター施設がなく、長らく準本拠地的な位置づけで、土・日のデーゲームを中心に使用されるにとどまっていた。
藤井寺球場は、近鉄の前身の一つである大阪鉄道(現、南大阪線)により1927年着工、翌1928年開設、甲子園・神宮に次ぎ古い歴史を持っていた。球場一帯は大阪鉄道の「藤井寺経営地」として開発され、野球場と合わせて「教材園」という遊園地や住宅地も同時に建設された。この住宅地の存在が後に球場の運営に大きく影響を及ぼすことになる。
(敬称略)
参考文献
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近畿日本鉄道
大阪近鉄バファローズの親会社である近畿日本鉄道(近鉄)は大阪・奈良・京都・三重・岐阜・愛知の2府4県に跨る、JRを除き最長の路線網を持つ大手私鉄。また、関西圏と中京圏を結ぶ大都市間鉄道としては唯一の私鉄でもある。
近畿日本鉄道の母体ともいえる大阪電気軌道(大軌)は、1910年9月に奈良軌道として設立され、同年10月大阪電気軌道に改称。生駒トンネルを難工事の末に完成させ、1914年最初の路線である上本町~奈良間を開業させた(現:近鉄奈良線)。
その後、1927年には天理・橿原神宮への路線網を確立。同年に伊勢を目指すため参宮急行電鉄(参急)を設立し、1931年宇治山田まで開通(現:近鉄大阪線・山田線)。さらに伊勢電気鉄道(伊勢電)の合併、関西急行電鉄(関急電)の設立により、1938年には名古屋へのルートを確立した(現:近鉄名古屋線)。
戦時中の陸上交通事業調整法により大阪電気軌道は、参宮急行電鉄・関西急行電鉄などと統合して、1940年関西急行鉄道(関急)に再編される。1943年現在の近鉄南大阪線などを経営していた大阪鉄道(大鉄)を合併。1944年南海鉄道(南海)と合併して現在の近畿日本鉄道(近鉄)が発足、600kmを越す路線を有する日本最大の私鉄となった。
1947年に旧南海鉄道の路線を南海電気鉄道(南海電鉄)へ譲渡したが、奈良電気鉄道(奈良電)や三重電気鉄道(三重電)などの合併により、1965年には現在の路線網がほぼ完成した。
近鉄(大軌)は、阪神電気鉄道が先鞭を付けたインターアーバン(都市間連絡電車:都市と都市を結ぶ電気鉄道)のスタイルを、アメリカ的に大胆なM&Aを伴った積極策で極端に拡張することに成功した希有な鉄道会社であり、日本型の「郊外電車」哲学を確立した阪急電鉄とは好対照の存在である。
局地的なローカル鉄道を巧みに糾合して広域に渡る高速電車網を構築し、あわせて古くからの名所・旧跡の地である伊勢・奈良を近代的観光地に脱皮させたことで、奈良・三重両県の産業・交通の発展に多大な業績を残した。大軌が近鉄となった現在でも、両県の交通網は奈良交通・三重交通等のバス会社を含めた近鉄グループ抜きでは語れない。
日本最大の私鉄となった近鉄を戦後、関連会社230社を抱え流通と不動産を合わせた一大コングロマリットに育て上げたのが、近鉄中興の祖と言われる天皇佐伯勇であった。彼は、1947年上層部が公職追放で辞任したのを受けて、43歳で専務取締役になると参議院議員を兼任していた村上義一社長に代わって経営の前線に立った。1949年、近鉄パールスを設立し、パ・リーグに参加、オーナーとなる。
1951年、7代目の社長に就任。同社では初めて社員からの生え抜きでの起用となった。以後、近鉄を合併や路線延伸により私鉄最大手へと押し上げ、ビスタカーなどの新型車両の導入や、1959年に伊勢湾台風の復旧に合わせて行った名古屋線の改軌を初め、生駒・青山両トンネルの改良による輸送力増強、近鉄百貨店や近畿日本ツーリストなど近鉄グループの拡大などを進めていった。
社長を21年余り務め、1973年に会長に就任。以後もグループのトップとして経営を指揮し続け、1987年には代表取締役相談役名誉会長に。1989年近鉄のリーグ優勝を9日前に控えて、肝不全のため死去。
なお、1970年に大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されることになり、大阪万博来場者を奈良や伊勢志摩など沿線観光地へ誘致する計画を立て、孤立路線だった志摩線の改良と鳥羽線建設による直通化に取り組み、同年3月に完成させた。さらに同月には、難波線も完成させ悲願の難波乗り入れを果たした。難波線は、2009年度完成予定で難波まで延伸工事中の阪神西大阪線との相互乗り入れが予定されている。
(敬称略)
参考文献 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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近鉄球団名売却事件
2004年1月31日大阪近鉄バファローズは、球団名から近鉄を外し、球団名を基本料年間36億円で売却すると発表した。これが誕生70周年を祝うはずのプロ野球を激震させた2004年の始まりであった。近鉄のネーミングライツは、ただちに「協約違反」と渡辺・読売巨人軍オーナーが非難し、翌日には「あまりに唐突で理解に苦しむ」と西武ライオンズ・オーナー堤義明もそれに素早く呼応した。就任したばかりの根来コミッショナーは「多勢に無勢」と近鉄を批判し、小池パ・リーグ会長も実現困難の見解を示すに及んで、2月5日、近鉄側が方針撤回を発表し、近鉄の球団名売却騒動は収拾した、かのように思えた。
パ・リーグ創設以来、唯一球団を継続保有し続けた近畿日本鉄道は、JRを除く私鉄の中で最長の営業キロを誇る私鉄の雄として、関連会社230社を抱え流通と不動産を合わせた一大コングロマリットであったが、バブル期の事業拡大策が裏目に出て、2003年3月期連結決算では有利子負債が1兆3000億円に達した。さらに、1992年をピークに鉄道の利用客が減少に転じていた。関西の大手企業の多くが本社機能を東京に移し、関西経済の地盤低下が著しかった。さらに私鉄王国といわれた関西であったが、安全をないがしろにしたJR西日本との競争にさらされていた。
近鉄本社では北勢線の三岐鉄道への譲渡、東京近鉄観光バス他2社のクリスタルへの売却、都ホテルや近鉄百貨店の不採算店舗の閉鎖、大日本土木に対する民事再生手続開始申請、OSK日本歌劇団への援助打ち切りなどのリストラ策を打ち出している中、赤字を抱える球団の保有の是非がグループ内で問われるようになった。
大阪近鉄バファローズは、何年も前から身売りの噂が出ていた。2001年には、アメリカのドジャースとの提携の際、当時ドジャースのオーナーでありFOXグループの総帥であるマードック氏による買収の噂が流れた。2002年9月には、近鉄側が、消費者金融のアイフルに共同出資を提案したとされる。
それでも、2001年に球団社長になった永井は、広告代理店が算出した「球団の宣伝効果は144億円相当」という数字を元に、近鉄グループの大切なコンテンツとして球団存続のために、ドジャースとの提携など球団改革を実施し、過去2年連続で最下位であった球団はパ・リーグ優勝に導いた。しかし、それも長くは続かなかった。優勝による選手年俸の高騰と1997年から本拠地球場となった大阪ドームへの負担が大きな問題となっていた。そこで起死回生の策としてとられたのが、球団名の売却であった。
最後の手段であった球団名売却が頓挫すると、オリックスの宮内オーナーが、手を差し伸べてきた。財界に顔の利く宮内が、「近鉄の意を受けて売却先を探し、IT企業など数社に声をかけ」「ライブドアを含めて欲しがっている企業があった」。確かに、ライブドアは、「ある証券会社から近鉄球団買収の打診を受けたのは2月下旬」としている。このころ、ライブドアは社名を「エッジ」から変更したばかりで、まだ、一般には認知されていなかった。ただし、このとき問題となった株式の100分割も行われていた。
(敬称略)
参考文献 「奮い立て 大阪バファローズ・奇跡の組織改革」神山典士著 実業之日本社
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16世紀以降、宗教戦争の嵐のなか、ヨーロッパ大陸の覇権を握ったのは、カトレシズムを掲げた大国スペインそしてフランスであった。新興国イングランド、さらにはグレートブリテン王国は、軍事・商業面にとどまらず宗教という点でも、常に大陸のカトリック強国、特にスペイン及びフランスと敵対あるいは競合関係にあった。
この大陸との緊張関係は、ヨーロッパ文明の西端に位置する後進国を先進国へ押し上げるナショナル・アイデンティティ形成に大きな役割を果たした。フランス・スペインの宗教と異なる、新しい宗教、プロテスタンティズムそのものが新興国イングランドと同一視され、イングランドは『神に祝福されたプロテスタントの国イングランド』と見なされるに至った。イングランドの勝利は、プロテスタントの勝利であり、ひいては神の勝利であるとされた。イングランドの寄せ集め艦隊がスペインの無敵艦隊を破ったとき、イングランド人はイングランドの勝利のみならず、プロテスタンティズムの勝利を祝した。
そして、このイングランドのプロテスタント国としてのアイデンティティは、イングランドよりも遥かに徹底した宗教改革を経験したプロテスタント国スコットランドとの連合(1707)によって、「ブリテン人(英国人)」形成の強力な基盤になった。特に、17世紀末から19世紀初頭まで、実に130年間にわたってフランスと敵対的な関係にあったことが、スコットランド人、ウェールズ人、イングランド人といった差異を忘却させ、宿敵カトリック(=フランス人)に対抗する「神に選ばれし者」という一体感を創り出した。
例えば、1745年に初めて公衆の前で歌われ、1800年代の初頭になって「ネイションの賛美歌」、すなわち国歌と呼ばれるようになった「ゴッド・セイヴ・ザ・キング(現在はクィーン)」には、英国におけるナショナル・アイデンティティーと宗教との結びつきが良く表れている。
イングランド・ウェールズとスコットランドという二王国をまとめ、「ブリテン人(英国人)」を作り出したのは、当時拡大の一途をたどっていた英帝国と、大陸諸国への敵対意識、それを裏打ちしていたプロテスタンティズムであった。世界初のブルジョア革命と産業革命を経験したイギリスは、ヴィクトリア朝を迎える頃には、自他共に認める世界のリーダーとなっていた。神の恩寵はプロテスタント国イギリスの繁栄に明らかであった。
参考文献
「ヨーロッパ統合と文化・民族問題」西川長夫・宮島喬編 人文書院
『イギリス国民の誕生』http://hfukuda.cool.ne.jp/review/review0012.htm
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ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)とは、MLBと同選手会が主催する国・地域別対抗戦。大リーグトップ選手が参加する初の国際野球大会。日本、米国など全16カ国・地域が4組に分かれて1次リーグを行う。日本は、韓国、台湾、中国と同じ組で3月3日から対戦(会場は東京ドーム)。1次リーグの各組2位までが、13~15日に米国とプエルトリコで開かれる2次リーグに進出。さらに2次リーグの上位チームで18日に準決勝、20日に決勝(いずれも米国サンディエゴのペトコ・パーク)を実施する。06wbc.html へのリンク
サッカーのFIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップと異なり、国際スポーツ競技組織(野球の場合、国際野球連盟IBAF)の主催ではなく、北米のプロ野球リーグ・MLBとその選手会による主催で、各国・地域は、MLB・同選手会から招待されて出場する形をとる。なお、サッカーも、ラグビーも、ワールドカップ第一回大会は予選なしの招待大会だった。
オリンピックを国別世界選手権大会としたいIOCは、大リーグ選手が参加しない野球のオリンピック参加を拒否、これに対し、MLB側は、国別世界選手権ならWBCあると対抗した。ところで、サッカーで国別世界選手権といえばFIFA主催のワールドカップで、年齢制限のあるオリンピックはとても世界一を決める大会とはいえない。オリンピックのサッカーは、国際スポーツコンテンツを失いたくないIOCが、23歳以下の選手による国別世界選手権として渋々認めた妥協の産物に過ぎない。
バスケットボールやアイスホッケーでは、米国のプロリーグが、オリンピックへの参加を認め、リーグ戦を一時中断して、ドリーム・チームの結成につながった。ところが、MLBは、選手のシーズン中のオリンピック出場を認めず、結果として、野球は2012年のロンドン大会からオリンピック種目から外れることになった。
MLBと同選手会が主催するWBCに参加する選手の約半数が大リーグ選手で、まさに、MLBの出身地別大会となっている。また、日本など大リーグ以外の選手にとっては、大リーグへの品評会となることが予想される。
ただし、サッカーのワールドカップが、ヨーロッパサッカーのシーズンオフである6月に開催されるのに対し、WBCは、3月という野球のプレシーズンに開催され、選手のシーズンへの影響が懸念され、多くの大リーグ選手の不参加を招いた。日本でも、ヤンキースの松井とホワイトソックスの井口が日本代表への参加を拒否した。また、阪神のウィリアムズは、オーストラリア代表入りを断っている。
そんななか、世界大会としての目玉であるキューバ代表チームの入国を米国政府が認めない方針を明らかにした。米財務省は昨年12月、WBCの収益が経済制裁を発動しているキューバに分配される可能性があるため、入国を許可しない方針を主催者のMLBと同選手会に伝えてきた。
オリンピックで金メダル3回のキューバが参加しないことで、大会の価値が下がることを懸念したMLB側は、キューバが分配金を大型ハリケーン「カトリーナ」の被災者に寄付することを条件として、入国を再申請した。そしてようやく昨日(1月20日)米国政府が、キューバ代表の入国を許可したことを、MLBが発表した。国際野球連盟(IBAF)もキューバ不参加の場合は、WBCの公認を取り消す考えを示していた。
マクレラン米大統領報道官は、AP通信に対して「我々の関心は、カストロ政権に金が渡らないことと、WBCがスパイ行為に悪用されないことを確認することにあった」と指摘したうえで、「問題解決に向けて努力がなされたと思う」と語った。機構のセリグ・コミッショナーは「キューバの参加で、WBCは歴史的なイベントになることが約束される」との声明を出した。
20060121k0000e050014000c.html へのリンク
米国政府にとって、経済制裁のほかに、WBCがキューバのスパイ行為に悪用されることも懸念していたようだが、野球をスパイ行為に使ったのは、米国政府であった。昭和9年(1934年)日米野球のため、ベーブ・ルース一行と共に来日したモー・バーグが試合にも出ずに撮した東京の町並みの写真が米軍による空襲に利用されたことは有名である。モー・バーグは、語学の天才で、第二次大戦中は、CIAの前身であるOSSに所属し、ドイツ軍の原爆情報の収集にあたっていた。
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楽天社長、TBSとの交渉進展に期待=電子商取引から開始を
楽天の三木谷浩史社長は1月16日、TBSとの業務提携交渉に関して「できることを何か一つでもやり、お互い分かり合うことが重要だ」と述べ、交渉の進展に強い期待感を示した。開催が延期されている業務提携委員会の初会合については、「準備をしており、近々開ける」と強調した。(時事通信)
村上氏の阪神株43.37%に 過半数に迫り影響力増す
阪神電気鉄道の筆頭株主である投資ファンド(村上ファンド)が阪神電気鉄道の株をさらに買い進め、発行済み株式総数に占める保有比率が昨年12月初めの42.36%から43.37%へ高まったことが1月16日分かった。経営権を掌握できる過半数の株取得へ一歩近づいたことで、阪神電鉄へのファンドの影響力がさらに強まりそうだ。村上ファンドが関東財務局に16日提出した株の大量保有報告書によると、昨年12月8日から1月6日までに断続的に計1.01%を買い増した。43.37%の取得にかかった資金は1139億円。ファンドは「これまで同様、投資判断に基づいた純投資だ」とコメントしている。(共同通信)
ライブドアを強制捜査、関連会社が虚偽公表で株価操作か
インターネット関連企業「ライブドア」の関連会社が虚偽の事実を公表して株価をつり上げた疑いがあるとして、東京地検特捜部は1月16日、証券取引等監視委員会と合同で、証券取引法違反(偽計取引、風説の流布)の疑いで東京都港区の六本木ヒルズにあるライブドア本社や堀江貴文社長の自宅など関係先数カ所を家宅捜索した。(朝日新聞)
こんなにマスコミが…=驚く住民、係官が中へ-ライブドア社長宅も捜索
「こんなに多くのマスコミが…」。東京地検特捜部の係官らは午後6時40分ごろ、東京・六本木にあるライブドアが入る森タワーから続いている通路を歩き、堀江貴文社長の住むレジデンスCの脇入り口から中に入っていった。道路沿いの正面入り口に待ち構えていた報道陣は係官らが向かっていると知り、走って脇入り口に移動。自動ドアの奥へ入っていく係官らにカメラを向け、辺りは騒然とした雰囲気に。(ライブドアニュース 時事通信社)
ライブドア強制捜査、フジテレビに衝撃…提携に影響も
ライブドアと資本・業務提携しているフジテレビジョンにも衝撃が広がった。フジテレビ幹部は「ライブドアに事情説明を求めることになると思うが、当面は捜査を静観するしかない」としている。ただ事態の行方によっては、提携の枠組みに影響する可能性もありそうだ。フジテレビは、ライブドアが提供する公衆無線LAN(構内情報通信網)サービスを使った取材映像の送信や、ミュージカルの共同制作などで業務提携をしている。また、フジテレビは2005年9月末現在、ライブドアに12.75%を出資しており、堀江貴文社長に次ぐ第2位の大株主でもある。フジテレビは、ニッポン放送争奪戦の和解の一環として、ライブドアによる第三者割当増資を05年5月に440億円(1株329円)で引き受けたが、1月16日の終値は買値の2倍以上の696円で、今のところは大幅な含み益を抱えている。ただし、保有するライブドア株は、ライブドアの同意がなければ07年9月末まで第三者に譲渡できない制限がある。17日以降のライブドア株の株価次第ではフジテレビにも痛手になりそうだ。(読売新聞)
ライブドア強制捜査 自民党幹部、堀江氏に早くも予防線
「ライブドア」が1月16日、証券取引法違反容疑で強制捜査を受けたことは、堀江貴文社長が昨夏の衆院選で「刺客」候補として自民党と連携し出馬、政界進出に意欲を示してきただけに同党に衝撃を与えた。堀江氏のイメージダウンが「郵政政局」以来の党の改革イメージにも傷をつけかねないとの懸念が出始める一方、野党側は同問題を通常国会の攻撃材料とする構えだ。自民党の武部勤幹事長はライブドアの強制捜査について党本部で記者団から感想を聞かれ「いや、分からない」とだけ答え、足早に立ち去った。自民党政調幹部も「(強制捜査について)何も聞いていない」と述べるにとどめた。(毎日新聞)
「村上ファンドの研究 巨大メディアを狙う「ヒルズ族」の野望」(水島愛一朗著イースト・プレス)によれば、ホリエモンはセショウの舎弟分で、昨年のニッポン放送株買収事件では、ホリエモンを焚きつけ、村上ファンドが保有していた塩漬け状態のニッポン放送株で200億円の利益を上げた。ところが、ホリエモンが派手に振る舞うので関係は冷えているという。
ニッポン放送騒動後、ホリエモンが調子乗って「次の狙い目はTBS」とセショウの戦略を暴露、さらに、昨年の衆院選出馬では、通産省出身のセショウにしてみれば、ヒルズ族の中で政治は俺の縄張りを荒らされたということになったらしい。選挙のあと村上ファンドによる阪神電鉄株の買収が本格化し、セショウがタイガースの上場問題で派手にマスコミに登場することになる。
楽天のミキティは、セショウのパートナーで、セショウは、これまた保有していたTBS株で儲けようと、TBSと業務提携の話を進めていたミキティを焚きつけたことから楽天によるTBS株の買収ということになったらしい。村上ファンドは昨年9月末までにTBS株の7.45%を取得したが、10月末までに0.52%を残してほとんど売却し100億円儲けた。楽天の資金繰りが怪しくなるとセショウはミキティを見限った。
このセショウが、頭が上がらないのがオリックスの宮内会長。通産省をやめファンドを立ち上げに必要な資金40億円を提供してくれた恩人であり、最大の後見人であった。
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16世紀ヨーロッパは、教皇-皇帝を頂点とした中世封建社会が解体し、残存する封建勢力と新興の市民勢力のバランスの上に絶対君主が国を支配し、腐敗した教会に対する宗教改革の波がプロテスタント対カトリックという対立を産み出し、絶対君主間の覇権争いと新旧両派の争いが17世紀の戦乱の世紀へと導いていった。
絶対王制は、宗教的な権威によって裏付けられ、聖書中心主義を唱えるルターやカルヴァンによる宗教改革の嵐が吹き荒れるなか、スペイン最盛期の絶対君主フェリペ2世(位1556-1598)はカトリックの盟主を自認し、プロテスタントを異端者として弾圧した。
教会の首長を国王とするイングランドの宗教改革は、そもそも、王権を教皇権から独立させる政治的なもので、その実態はカトリックであったが、絶対王制の最盛期を現出したエリザベス1世(位1558-1603)のとき、スペインやフランスといったカトリック国との対抗上、プロテスタントとしての教義が確立していった。
17世紀スペインに代わってカトリックの盟主となったフランスの絶対君主ルイ14世は、カトレシズムを掲げながらも、フランス・カトリック教会のローマ教皇からの独立を説き、聖職者叙任権を完全掌握した。
プロテスタントの中でも、利潤を肯定したカルヴァンの教えは、商工業者(市民階級)に受け入れられ各地に広まった。当時の主要産業であった毛織物業の中心地フランドル地方(いまのベルギー・オランダ)は、スペインの支配下にあったが、絶対君主フェリペ2世による新教徒弾圧のため、多くの毛織物業者が羊毛の輸出国であったイングランドや北部の低地帯(いまのオランダ)に逃れていった。また、フランドルに隣接する北フランスの毛織物業者の多くも、ユグノー(フランスの新教徒)戦争や弾圧のため、イングランドに逃れた。
このため、羊毛の産地に過ぎなかったイングランドに先進の織物技術が流入し、エリザベス1世による毛織物業の保護育成のもと、イングランドは一流国の仲間入りを果たすことになる。毛織物業者であった新教徒の多くが、イングランドに移住してきた背景には、エリザベス1世による国教会のプロテスタントとしての教義の確立があった。
逆に、カトリック盟主であったスペインとフランスは、プロテスタントを弾圧し、毛織物業者など商工業の担い手が国外に流出し、結果として国力の衰退を招くこととなった。スペインは、オランダの独立・無敵艦隊の敗北により、オランダに海の覇権を握られ、フランスは、ユグノー戦争後、ナントの勅令により新旧両派の和解が成立したが、17世紀ルイ14世がナントの勅令を廃止により、フランス革命の遠因になったとされる。
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ラグビーの商品価値に目をつけたメディアは、ワールドカップだけでなくラグビーを新たなエンターテイメント(キラーコンテンツ)に仕立て上げていく。
まず、北半球の5カ国対抗(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス)は、非公式な慣習・制度であったが、1993年、正式に優勝杯と大会の運営制度がもたらされ、2000年にイタリアを加えることで、現在の6カ国対抗(シックスネイションズ)となった。
これに対し、南半球ではプロ化が容認されると、早くも1996年南アフリカ、ニュージーランド、豪州の三カ国による3カ国対抗(トライネイションズ)が実施され、実力的に世界最高峰の大会が実現した。
各国国内のクラブ戦も人気となり、中でもイングランドのプレミアシップラグビー、フランスのトップ16、イタリアのスーパー10に注目が集まる。特に母国であるイングランドのプレミアシップは北半球最強と言われる。また、各国上位チームはハイネケンカップ(欧州カップ)に進出。
ニュージーランド・豪州・南アフリカの強豪12チームが集うスーパー12が、南半球最高峰の大会。2006年からは14チームに拡大されスーパー14となる。国内リーグのNPC(ニュージーランド)・カーリーカップ(南アフリカ)も人気が高い。 へのリンク
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1990年までIRFBはイングランド、ウェールズ、スコットランド、フランス、アイルランド、南アフリカ、豪州、ニュージーランドの8カ国で長く運営されていたが、1991年以降加盟国数を増やし、先の8カ国の他に日本、カナダ、アルゼンチン、イタリアの計12カ国が常任理事国に就いている。加盟国は2004年10月現在、101カ国・地域にのぼる。
ラグビー選手の最大目標は、従来の遠征・対抗戦から4年に一度のワールドカップ大会を中心に回り出すことになった。優勝を目指す一流国の選手にとって、練習、遠征、試合に費やす拘束時間は必然的に長くなり、フルタイム競技者即ちプロ選手に近い貢献を求められるようになっていった。
こうした中、各国ラグビー協会は代表チームの強化のため、報酬を支払って選手を拘束することが半ば公然化になっていく。厳格なアマチュアリズムを守ってきたIRFBも議論を繰り返したが、プロ化への流れは止められず1995年9月に東京で行われた会議でオープン化が決定、1823年以来のアマチュアリズム至上主義に終止符を打った。
ワールドカップは、ラグビー界に大きな収益をもたらした。回を重ねるごとに収益は倍増し、第4回のウェールズ大会の総収入は約122億円、収益は82億円であり、第5回の豪州大会は、総収入163億円、総収益128億円の収益を上げた。豪州大会の観客総動員数は190万人、世界194カ国にテレビ放映され、34億人が視聴した。ラグビーは、優良ビジネスとして、予想以上の商品価値(メディア・ヴァリュー)が認められた。007.html へのリンク
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世界選手権大会が存在しなかったラグビーだが、過去にオリンピックで実施されていた時期がある。1900年パリ大会、1908年ロンドン大会、1920年アントワープ大会、1924年パリ大会の計4回である。1924年のみが正式競技で前3回は公開競技として行われた。
いずれの大会も2、3チームの参加に留まり、決勝戦のみの実施が2回行われた他、多くて3試合が行われた程度の小規模な実施に留まっていた。しかも、参加チームもナショナルチームを選抜して参加する国は少数派であり、1920年大会のフランスはパリ市選抜、ドイツは"Eintracht Frankfurt"というクラブチーム、米国は2回ともスタンフォード大学チーム、英国は1900年大会は"Moseley Wanderers"、1908年大会は"Cornwall"というクラブチームが代表として参加している。
またオーストラジアは現在のオーストラリアとニュージーランドの合同選抜チームだった。当時の英国は4カ国対抗(5ヶ国対抗)がラグビーの最高峰の大会であると捉えていたこともあり、オリンピックに選抜チームを送ることはなかった。
国際オリンピック委員会(IOC)は英国チームの参加が望めなかったこと、古代オリンピックの精神を重視し個人競技を充実させたかったこと、女子の競技を増加したことなどの理由で1924年のパリ大会を最後にラグビー競技の開催を中止、以降ラグビーはオリンピックから姿を消した。406101.shtml へのリンク
ラグビー・ワールドカップは、1983年豪州とニュージーランドから共同提案され、1985年IRFBの全面的な賛意は得られなかったが、最終的には承認され、1987年豪州とニュージーランドによる共同開催による招待大会として始まった。なお、サッカー・ワールドカップもウルグアイの建国100周年記念によるウルグアイの招待大会として始まっている。
1987年に開催された第1回大会は、1984年のピーター・ユベロスによるロサンゼルス民活五輪の手法をならい、多くの企業スポンサーを集め、60万人以上の観客を動員し、大成功する。
このラグビー・ワールドカップの成功を受け、IRFBは組織改革に乗り出し、加盟国を一気に拡大する。ワールドカップは、IRB(1998年名称からフットボールを削除)主催となり、IRBは本来の国際競技団体へとスタイルを変えていった。101.html へのリンク
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フランス協会を盟主とするFIRAは、フランスが5カ国対抗復帰後も存続し、ソ連、ルーマニアなど共産圏諸国を独占的に取り込んで、アフリカにも勢力拡大を図るとともに、独自の選手権を組織した。フランスは1978年、唯一の非英語圏の強豪国として、ようやくIRFBの一員となり、IRFBとFIRAのふたつの権力を握る。
当時、保守的で閉鎖的なIRFBは、メンバー国を8つの理事国(ファウンデーション・ユニオン)に限定し、それ以外は賛助国に止まっていた。一方、FIRAの場合は全加盟国に投票権を認めており(国内のクラブ数が一番多いフランスの票数が最大)、1980年代には強豪国は含まれてはいないものの、60カ国近い加盟国の支持を得て、IRFBと対抗しうる国際組織へと成長していった。
ところが、主要メンバーだった旧ソ連の崩壊、東欧諸国の混乱の影響などのより、方向転換し、1994年IRFBに加盟し、現在FIRAは、IRBの下部組織として存続している。erhu_1.htm へのリンク
ラグビーは、サッカーと違い、フランス以外の欧州大陸にはなかなか普及しなかった。また、欧州以外の強豪国という点で、サッカーの南米にあたるのが南半球の南アフリカ、豪州、ニュージーランドの3カ国であったが、これらは英連邦の諸国であった。孤立した状況下では、フランス伝統の普遍主義も、通じなかった。
IRFBは、依然として、アマチュア規定に厳格な、権威主義的な組織であり、非民主的な組織であった。1980年代になると北半球と南半球強豪国との南北格差が明確になり、ホームユニオンやフランスは、南半球のニュージーランド、南アフリカ、豪州に全く歯が立たなくなっていた。
北半球には5カ国対抗があり、毎年その実力を測る機会があるが、南半球は年に数回の遠征に限られていた。このため、その実力が世界一であることを示す場所、ワールドカップの開催が要望されるようになった。
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フランスのラグビーは、1870年代英国から伝わり、1890年代にはパリのみならず全土に広がっていく。ただし、英国と異なり、階級的な差異は見られないが、ラグビー人気は南部と南西部に偏っている。ワイン貿易を通じ駐在していた英国人が広めたという説が有力だ。
フランスのラグビー組織は、サッカー同様1887年設立されたフランス・スポーツ競技連合(Union Francaise de Sports Athletiques:USFSA)の下部組織に過ぎなかったが、1920年フランス・ラグビー協会(Federation Franncaise de Rugby:FFR)として分離独立。ちなみに、サッカーは、1919年あのジュール・リメを会長にフランス・フットボール協会(Federation Franncaise de Foodball:FFF)として独立。
国際試合は、1900年代に入ってからで、ホームユニオンとも対戦するようになる。1920年代、フランスのマスコミがホームユニオン間の定期戦である4カ国対抗にフランスの対ホームユニオン戦を加え、「Tournoi des Cinq Nations:5カ国大会」と名付けたことからホームユニオン+フランスの対抗戦を5カ国対抗「ファイブネイションズ」と呼ばれるようになった。
フランス国内でのラグビー人気が高まってくると、国内チーム間での金銭授受による引き抜き合戦に発展し、IRFBのアマチュアリズム規定に抵触することとなった。1930年4つの英国ホームユニオン(IRFB)は、「プロ化」から撤退するまでの条件でフランスとの試合を全面的(国レベルからクラブレベルまで)に拒否した。
これに対抗し、フランス側は、1934年独自の国際組織「国際アマチュア・ラグビー協会(Federation International de Rugby Amateur:FIRA)」を設立し、ドイツ、イタリア、ルーマニアといった欧州大陸のラグビー新興国に参加を呼びかけた。FIRAは予想外に拡大し、危機感を抱いたIRBFは、フランスの妥協案もあり、1939年国際試合を許可し、1947年正式に5カ国対抗への参加も承諾した。
その後、5カ国対抗は、ファイブネイションズ=五カ国対抗選手権=Five Nations Championshipとして歴史を重ね、インターナショナルチャンピオンシップとも呼ばれるようになった(ということは、米国のみのワールドシリーズと似たような状態なもの)。 へのリンク
フランスがプロ化を理由に英国ホームユニオンとの対戦を拒否されていた時期(1930年~1947年)、サッカーでは、英国4協会がFIFAに求めたオリンピック参加選手への休業補償が拒否され、英国4協会はFIFAから脱退していた時期(1928年~1946年)と重なる。英国とフランスは、ラグビーとサッカーで逆パターンを演じていた。
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アマチュア組織となったFRUが主導するIRFBの目的は、ルールの統一だけでなく、アマチュアリズム規定の遵守も目的となり、競技者の国際組織へと変わっていく。ただし、IRFBでは、ホーム&アウェイの対抗戦が基本とされ、3カ国以上の国が1カ所で試合を行うことがプロ化に通じるとして禁止されていた。これでは、FIFAのような世界選手権を標榜する国際組織にまで発展することが困難であった。
ラグビーの国際組織IRFBは、ホームユニオンの手により、サッカーのFIFA(1904年)に先駆け国際的な競技者団体となるが、アマチュア規定に厳格な権威主義的な組織であった。
20世紀半ば1948年南半球の英連邦内の南アフリカ、豪州、ニュージーランドが加わるまで、ホームユニオンのみの組織であった。大英帝国内の4ユニオンのみでは、とても、国際組織とはいえないが、1922年アイルランドは独立後(完全独立は1949年)も、北アイルランドと分離することなく、そのままIRFBに加盟している。
IRFBは、1890年RFUが加盟と条件に、代表議席数をRFU6、他各2とし、イングランドが主導権を握った。1911年、RFUは、自発的に議席数を4に減らすが、不平等は残った。このイングランド支配が崩れるのが1948年の南半球3カ国の加盟であった。この年、ホームユニオンの議席が2で統一された。
南半球3カ国の議席は当初は1であったが、1958年2となり、IRFB加盟国7カ国すべてが2となった。1978年になってようやく、非英語圏で初めてフランスが議席2でIRFBに加盟が認められ、これら8ユニオンはIRBのファウンデーション・ユニオンと呼ばれる。
現在も、このファウンデーション・ユニオン8カ国が、ラグビーユニオンの組織、実力とも独占している。1987年から始まったラグビー・ワールドカップの開催地及び優勝国は、現在もこのファウンデーション・ユニオン8カ国に独占されている。eri.htm へのリンク
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それ以降、ケンブリッジ大学対オックスフォード大学戦に代表される南部を母体とするアマチュア主義をうたった組織はラグビーユニオン、北部を母体とする報酬を目的とするものはラグビーリーグ(1922年)と呼ばれ、英連邦を中心に世界に広がっていった。その後も、ユニオンとリーグの絶縁状態は続き、交流が始まるのは100年後の1995年ユニオンのプロ化以降だ。
1895年の北部チームの脱退は、RFUにとって大きな痛手となり、競技人口が大幅に減少し、レベルの低下も著しかった。競技人口の回復には30年を要したという。サッカーが19世紀末以降、欧州や南米で急速に発展し、それがフランス主導のFIFAの誕生、ワールドカップの開催に繋がっていったのに対し、ラグビーは、英連邦内の上流階層(白人層)への普及に留まる原因ともなった。
ところで、手を使わないフットボールは、サッカーだけなのに対し、手を使うフットボールはヴァリエーションが多い。アイルランドにラグビーとは異なる歴史を持つゲーリック・フットボールがあり、このゲーリック・フットボールは、移民とともに豪州に渡り、オーストラリアン・フットボールとなった。北米では、ラグビーをもとに米国ではアメリカン・フットボール、カナダでカナディアン・フットボールが生まれた。さらに、ラグビー自体が、ユニオンとリーグに分かれ敵対関係にあった。
同じフットボールといっても、サッカーは、手の使用を禁止することにより、ノンコンタクト・スポーツとして洗練化、普遍化されやすかったが、ラグビーの場合、手を使い、しかも、コンタクト・スポーツであったことが、その社会の文化や風土の影響を内在化させ、洗練化・普遍化の妨げになったとも考えられる。
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IRFBは設立とともにプロ化という大きな問題に直面することになる。1871年の成立以後、ラグビーは、労働者階級にも広がり、英国でも指折りの炭鉱地帯であるマンチェスターを中心とするイングランド北部のランカスター、ヨークシャー地方で発展していった。
ところが、1880年代に入ると、労働者チームの休業補償の問題(プロ化)がでてくる。試合数が増え、遠征も多くなると、当時、時給ベースであった労働者階級にとって休業補償は死活問題となった。
もともと、サッカーやラグビーといったフットボールは、大英帝国の植民地経営に必要な強靱な肉体と健全な精神を持ったエリート(支配階級)を育成するため、パブリックスクールや、オックスブリッジで近代スポーツとして成立していった経緯がある。RFUも、オックスブリッジの出身者で占められていたが、上流階級の富裕層にとっては、無給での休職や休業はなんの問題もなかった。
フットボールが普及し、労働者階級のチームが増えると、必然的に休業補償の問題(プロフェッショナル化)と、それまで上流階級が握っていた組織の主導権の問題(アマチュアリズム)が生じてくる。この問題は、サッカーにおいても同様であったが、ここで、サッカーとラグビーは異なる対応をとる。
サッカーは、1885年プロ化を容認し、1888年にはロンドンのFAというアマチュア組織の下に、イングランド北部のプロ組織(The Football League:FL)を組み込むことによって、競技人口が低所得者層まで拡大していった。
これに対し、ラグビーは、上流階級によって支配されていたRFUが、アマチュアリズムを厳守を打ち出し、1886年金銭の授受を禁止する。このため、イングランド北部に多かった労働者階級のチームと対立することとなり、1895年には、とうとう北部でFRUからの分裂が起き、22チームからなるプロリーグが発足した。post_1.html へのリンク
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サッカーが近代スポーツとして成立したのが、イングランドにフットボール協会(The Football Association:FA)ができた1863年、遅れること8年、1871年ラグビーフットボールユニオン(The Rugby Football Union:RFU)が設立され近代スポーツとしてのラグビーが始まった。
2年後の1873年スコットランドに、1879年アイルランド、1880年にはウェールズにユニオンが設立され、ケルト三国への普及は、サッカーとほぼ同じ頃だった。1870年代から国際交流が始まり、1882~3年にかけ、イングランドが他の3ユニオンに全勝したのを事実上の優勝者とし、1884年には4ユニオンによる総当りが実現した。 へのリンク
ところが、1884年のイングランド・スコットランド戦でノックオンの判定を巡り対立が起こり、スコットランドがイングランド(RFU)との国際試合の中止を発表。1886年、アイルランドが仲裁に入るが、RFUはこれを拒否。
同年、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの3ユニオンは、ラグビー・ルールの統一を図ることを目的とした国際ラグビー・フットボール評議会(International Rugby Football Board:IRFB 1997年Footballを省き国際ラグビー評議会(IRB)となる)を設立するが、RFUは、加盟を拒否。このため、スコットランドだけでなくアイルランド、ウェールズもRFUがIRFBに加盟するまではRFUとの対戦を拒否した。
1890年、結局RFU側が折れ、IRFBに加盟するが、代表議席数が他の3ユニオンが2なのに対し、RFU6という不平等なものとなった。RFUを含むこの4ユニオンは、ラグビーの母国の意味でホームユニオンと呼ばれ、敬意が払われているが、ホームユニオンのなかでもRFUは、ラグビーの創始者として主導権を維持しようとした。eri.htm へのリンク
ちなみには、サッカーでは1882年、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの4協会によって、サッカーのルールの制定など、サッカーに関わる重要事項を決定する国際組織として、国際サッカー評議会(International Football Association Board:IFAB)が創立されている。FIFAも1912年IFABに加盟し、現在、FIFAから4名、英国4協会から各1人代表が送られて構成されている。サッカーでは、ルールを管理する団体と国際大会を運営する競技者団体が別々になっている。
ラグビーのIRFBも当初は、IFABと同じルールの統一を図る目的で組織されたが、現在のIRBは国際大会を運営する競技団体でもある。
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昨年2005年11月17日、2011年のラグビー・ワールドカップの開催地がニュージーランドに決定し、立候補していた日本は大会招致に敗れました。
「ラグビーが国際化するには、創立ユニオンの8カ国のみが中心となって世界のラグビーの方向性を決めてしまうのではなく、もっと他国に対してドアを開き、世界のラグビー界が一緒になって発展を考えていく必要があると思います。IRBにどの程度その認識があったかわかりませんが、その点、今回の招致活動で、世論が日本に味方したという事実はIRBに対して、ラグビーが変わらなければならないという強いメッセージを残したと感じます。今回の日本の立候補をきっかけにして、世界のメディア上で、「ラグビーの真のグローバル化」について様々な議論がなされました。これも日本の立候補した結果のひとつの財産だと思いますし、今後我々もこの財産を生かしていかなければなりません。」article_1.html へのリンク
これは、元日本代表監督で、「2011年ラグビーワールドカップ招致実行委員会」ゼネラルマネージャーとなった平尾誠二氏のコメントです。
フランスは、スポーツを独自に創出しませんでしたが、オリンピックやサッカーワールドカップにおける「スポーツのグローバル化」は、フランスの普遍主義の伝統によるところが大きく働いています。フランスは、ラグビーでも六カ国対抗ラグビーに参加し、ラグビーの四つ母国を相手に毎年優勝争いを演じるラグビー強国ですが、ラグビーが世界的に普及したとは言えません。ラグビーは、フランスを介在することによってスポーツを普遍化するという論理の例外なのでしょうか。 以下№580~588は、昨年、掲示板に投稿したモノです。
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【九州リーグ】社会人野球を九州から変える! 九州・沖縄地区では、元プロ野球選手やタレントが社会人野球の新クラブチームを相次いで誕生。宮崎ゴールデンゴールズ(GG)が誕生した宮崎に続き、佐賀と鹿児島でも、新クラブチームが産声を挙げた。各県チームが競い合う「九州リーグ」を今年秋にも開幕させる構想も出てきた。元巨人の定岡正二氏(49)が監督を務め、「鹿児島ホワイトウェーブ」が正式に登録準備中。今年九州から「空白県」が無くなる。「九州各県にあるので『焼酎リーグ』という名前もいいねぇ」(大分ソーリンズ中村監督)。
【香川】昨年12月21日、高松市の自動車用コーティング剤メーカー「アークバリア」は、プロ野球選手を生み出すことを目的とした社会人野球チーム「アークバリアドリームクラブ」の発足を発表した。総監督は元ダイエーの広永益隆氏で、近く日本野球連盟に加盟する予定。野球の独立リーグ、四国アイランドリーグ運営会社IBLJを解雇された選手など計15人が内定しているという。年内に契約を結び、来年2月から合同練習に入る。3月以降に練習試合を行い、四国アイランドリーグのチームとの交流戦も検討している。
元プロ野球選手の川口和久総監督と加藤伸一監督が率いる山陰初の社会人硬式野球クラブ「県ベースボールクラブ」が昨年12月23日、1回目の入団選考会を倉吉市福庭町1の倉吉北高校の室内練習場で開いた。川口総監督らは球団名を「鳥取キタロウズ」にしたことも発表し、一反木綿や目玉おやじの絵入りロゴマークを披露した。男女約60人が挑戦。結局、クラブは技術面で参加者を2ランクに分け、不合格者を出さなかった。
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スコットランドは、アイルランドにいたケルト系ゲール人がブリテン島北部に移住して先住のピクト人と融合してできた国で、ゲルマン系アングロサクソン人のイングランドとは根本的に異なり、アイルランドとは姉妹関係となる。ウェールズも同じケルト系だがゲール人ではなくブリトン人のため関係はやや遠い。
ブリテン島北部(スコットランド)は、アイルランドと同じくローマやゲルマンによる支配は受けず独自の文化が残った。また、ケルト系民族は、小部族に分かれ(アイルランドは結局、20世紀になるまで)統一国家の形成は遅かったが、ブリテン島南部を支配するようになったアングロサクソン(イングランド)の脅威に対抗するため、11世紀(1034)ダンカン1世(アサル朝)がスコットランドを統一した。
ダンカン1世からマクベスを経て、マルコム3世が継承したのはケルト的社会で、教会もケルト教会の方式を多分に踏襲していた。しかしイングランド出身の王妃マーガレット(最後のサクソン王ハロルド2世の娘)を通じ、マルコムの3人の子息が王位につくころからイングランド化が推進された。
15 世紀末までにスコットランドの封建化・一体化、西欧キリスト教世界との同一化、そしてイングランドとの対立が進行した。13 世紀末から 14 世紀初めにかけ、封建的上長であるイングランド王との対立が独立戦争として激化。 ロバート・ブルース(ロバート1世)は 1328 年スコットランドの独立を獲得した。
その後ダンカン1世の血統が絶え、1371 年ロバート 2 世(位1371-90)が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり、ジェームズ 5 世 (位1513-42) は 2 人の王妃をフランスから迎え、その娘の女王メアリー・スチュアート(位1542-67) はフランス王妃ともなった。
スチュアート王家、フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として、1559年宗教改革戦争が始まり、ジョン・ノックスの指導のもとにカルヴァン派の長老教会が樹立された (1560)。
スコットランドの宗教改革は親イングランド的運動でもあり、イングランド女王エリザベス1世の支持を受けた新教勢力とカトリック女王メアリーとの対立はメアリーの退位として終わった
(1567)。その後を継いだジェームズ6世(位1567-1625)は、貴族・牧師層を懐柔して巧みな統治を行ったが、1603 年エリザベス1世の死によりイングランドのテューダー朝が断絶すると、イングランド王ジェームズ1世(位1603-25)として即位 、スコットランド王国とイングランド王国は同君連合となった。
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アン女王の1707年、同君連合を形成していたイングランド王国とスコットランド王国は、合同しグレートブリテン連合王国となった。エジンバラのスコットランド議会は閉鎖され、ロンドンの下院に45議席、貴族院に16議席がスコットランドに割り当てられ、議会はひとつになった。
両国の国力の差(現在でもスコットランドは、国土はイングランドの60%、人口は10分の1)を考えれば、これは実質的にイングランドによるスコットランドの併合であったが、スコットランドは(通貨は統一されたが)独自の紙幣を発行することを許され、教育制度、法制度はその後も独自の制度を保った。
スコットランドは、独自の議会を失うことと引き替えに、イングランドの航海法体制に組み込まれた結果、北アメリカなどイングランドの植民地と通商する権利を手に入れた。その結果、ヴァージニア煙草中継貿易を軸とした大西洋横断貿易により、産業都市グラスゴーを中心にスコットランド経済は急速に発展していくことになる。、
1707年以前は、航海法によってスコットランド人はイングランド領から排除され、スコットランドの唯一の商業都市といえるグラスゴーも、地域の中継都市以上のものではなかった。また、スコットランドとイングランドとの貿易さえも停滞していた。
1689-90年、スコットランドにおいてもイングランドの名誉革命に付随した革命が起き、議会によりカトリック王ジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)は、その王位を奪われ、代わってウィリアム 2 世 (イングランド王としてはウィリアム 3 世)とメアリー 2 世の即位が承認された。
「権利章典」に類似した「権利要求章典」が制定されて、議会はその独立的な地位を獲得したが、行政はイングランド政府によって大きく左右された。また 1560 年以来長老制と主教制(国教会)の間を揺れ動いていたスコットランド教会も、議会の決定によって長老制の基礎の上に再建された。
オランダ人王ウィリアム2世はスコットランドと長老制に好意を示さず、国内ではジェームズ7世の支持者 (ジャコバイト) や主教派(国教会)が活動し、1690年代には凶作が続き、またスコットランド会社による中米植民地の建設 (ダリエン計画) は失敗して、革命後には混乱と不穏の時期が続いていた。
※ダリエン計画 スコットランドも英仏間の植民地争奪戦に割り込もうと、W・パタースン(イングランド銀行設立に努力した「経済の天才」」といわれたスコットランド人)が計画、40万ポンド(スコットランド総資本流動の50%)を村々から集めたが、中央アメリカに送り込まれた3000人の植民者のうち約2000名が死亡、3年やったが1700年に植民地は放棄され、スコットランドの国家財政は破産状態となっていた。
また、1700年にアンの王子が死亡してスチュアート朝の断絶が明らかになると、スコットランドにおける政治的・外交的混乱はさらに高まった。ハノーファー家を推すイングランドに対し、スコットランドは別個の後継者の支持をほのめかし、イングランドはスコットランド人を外人とみなす法を作成してこれに対抗した。
このような対立の解決策として両王国の連合案が画策され、 1707 年連合条約が成立して、これ以降のスコットランドはグレートブリテン連合王国(英国)の一部として扱われるようになり、本国(ホームネイション)となった。
これによりスコットランドは英国(イギリス)の世界システムの一部となり、多くのスコットランド人が英国人(ブリテン人=ブリティッシュ)として、北米を初めとする世界の英国植民地で活躍することになる。幕末・明治期に日本にきた「英国人」の多くはスコットランド人であったが、彼らは自ら「英国人(ブリティシュ)」と名乗り、日本人もこれを「英国人」、つまりイギリス人としてみていた。
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ヤクルトスワローズが、「東京ヤクルトスワローズ」に球団名を変更。19日の実行委員会で承認。以下は、15日読売新聞記事です。20051215ie29.htm
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ヤクルトが、チームの名称を「東京ヤクルトスワローズ」に変更することを決めた。実行委員会、オーナー会議での承認が必要だが、認められれば、地域名が球団の呼称に含まれる球団としては「千葉ロッテマリーンズ」や「福岡ソフトバンクホークス」など続く7球団目となる。
国鉄時代にチーム名にはなかったが、ユニホームに「TOKYO」の文字が入っていたことはあった。しかし、サンケイ時代になくなり、ヤクルトスワローズとなってからも、ヤクルトの販売が全国規模で展開されていることなどから、チームの名称などに地域名が入ることはなかった。
同じ東京を本拠地とする球団には巨人もあるが、「実際のフランチャイズであれば、同じ地域名を複数の球団がつけても問題はない」という判断から名称変更を決めた。今回の変更に伴って、ユニホームに「東京」の文字を加えるかどうかは、承認された後検討するという。また、本拠地の神宮球場が渋谷、新宿区にまたがることから、隣接の港区も含めて「ヤクルトタウン」を構築し、地域密着を打ち出してファンの拡大に努める構想もある。
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現在、経営再建中の西武グループは、ライオンズの継続保有を表明しているが、合わせて球団名に都市名や地域名を入れることを検討しているようだが、ここにきて地元、所沢市議会が、球団名に「所沢」を冠するよう求める請願を、全会一致で採択する見込みであることが分かった。以下は、報知新聞の記事から。o20051218_20.htm
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「プロ野球球団ライオンズの球団名に地元『所沢』の名前を冠するように推進して頂きたき件」と題する請願書は、所沢商工会議所・山田裕通会頭が代表となり、同市内の野球チームや商店街などの代表18人の連名で、所沢市議会に提出されていた。請願が採択されれば、所沢市が正式に西武鉄道と球団に対し「所沢」という地域名を入れるよう働きかけることになる。
これには西武側も前向きだ。西武グループの中核である西武鉄道・後藤高志社長(56)が11月18日、日テレの番組で「例えば埼玉ライオンズとか所沢ライオンズなどの名前で、地元にチームをアピールしていきたい考えはある」と発言。今回の請願書は、この発言を受けて提出されたもので、星野球団社長も「いろいろ再編を進めている中で、そういう話も出ていたことはある。話が(鉄道から)下りてくれば考えることになるでしょう」と検討を示唆。経営再建中のグループにとって、球団はそのシンボル的存在であるだけに、地域密着を前面に押し出して集客力を向上させる方針だ。
松坂も「(チーム名を)公募したらいいんじゃないですか。ファンの意見も分かりますし」と、関心を寄せている。呼称に「西武」を残すかどうかは今後の検討となるが、市議会での採択をきっかけに「所沢(西武)ライオンズ」誕生と、その後の地域密着プランが一気に加速しそうだ。
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【Uリーグ沖縄】
Uリーグは硬式野球独立リーグで、沖縄本島を4つの地域に分け、4チームでリーグ戦を行う。1チームは選手25人で来年10月に開幕し、4月まで年間80試合を実施する。現在、日本と韓国のプロのキャンプ地として県内15以上の球場が利用され、インフラは整っている。県内の移動距離も短く、リーグを開催するのには恵まれた条件。冬の時期にも試合を行うことによって、キャンプに来たプロ野球関係者との交流や報道陣に注目される機会も増える。
トライアウトは九州(26、27日福岡)、西日本(12月3,4日大阪)、東日本(12月10,11日東京)、沖縄の全国4カ所で行われる。沖縄では12月17,18日の2日間、北谷町運動公園野球場で行う。トライアウトで100人の選手が選ばれた後、来年1月27日に行われる同リーグ開幕に向けてのシンポジウムまでに、4球団のチーム名、選手が正式に発表される。
各球団の監督は未定だが、森長隆(元ヤクルト、八重山高出身)、比嘉良智(元ロッテ、沖水高出身)、川畑健一郎(元レッドソックス傘下のマイナー、奈良・天理高出身)らプロ野球経験者や平山委員長など一般からも数人が候補に挙がっている。
松川英明副委員長は「具体的にチームを持って参加を表明しているのは沖縄スポルトの1社だが、支援、参加したい企業は多い。手応えを感じている」と現状を報告。平山委員長は「沖縄に4つのプロ野球チームが試合をする夢を実現させるため、頑張りたい」と抱負を語った。storyid-8516-storytopic-2.htm へのリンク u01.html へのリンク
【沖縄】その先駆けになるのが安仁屋ベースボールクラブです。安仁屋ベースボールクラブ は、野球評論家、安仁屋宗八氏 が2005年 12月 に結成する硬式野球クラブチーム。一連の球界再編問題などで揺れ動いた日本の野球文化の高揚と地元での野球人気回復を目的として琉球放送
と提携して沖縄県在住・在勤者の野球愛好家を対象にした入団試験合格者によって編成され、12月に茨城ゴールデンゴールズ (欽ちゃん主宰)と結成記念試合を浦添市で行い、2006年度以後本格的に公式戦出場などの活動を開始予定。
【北海道】今年2月に駒大苫小牧OBが中心となって発足した社会人野球のクラブチーム「Chitose Baseball Club Hokkaido」(CBC北海道)が札幌グランドホテルで記者会見を開き、Florida
Marlinsと提携して「北海道マーリンズ」を設立すると発表しました。CBC北海道のアドバイザーを務める元日本ハムの広瀬哲朗さんが総監督に、Marlinsの池田豪アジア担当スカウトが助監督に、MarlinsのFred
Ferreira国際担当副社長がアドバイザーに、歌手の松山千春さんがスーパーアドバイザーに就任。社会人チームとMLB球団との提携は日本初で、Marlins傘下のマイナーチームのキャンプへの参加や人材交流などでレベルアップを図り、都市対抗出場も目指すそうです。
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独立リーグ
【フルキャスト・リーグ】
楽天本拠地球場の命名権を持つ人材派遣会社「フルキャスト」(本社東京)の平野岳史社長(43)が、首都圏での独立リーグの設立の構想を持っていることが11月23日判明。07年春開幕を目指しており、まずは1都3県に4チームを置く構想など、具体案にまで及んでいる。選手を、本業の人材派遣でも生かす新しい手法を導入した「フルキャスト・リーグ」創設を目指す。
課題のひとつには、独立リーグの選手の収入は少ないという問題がある。四国リーグの場合、月給は約12万円とされる。収入面をサポートする解決法として「人材派遣会社」という本業メリットを生かし「野球をしながら、うちの人材派遣のネットワークで、選手を仕事に就かせることができます」と話した。適材適所に配置しながら、野球と仕事の両立をはかるという案だ。同社長は「フルキャスト・リーグで野球の底辺を拡大したい」と話した。
【東北アカデミーリーグ】
岩手、宮城両県で来年4月に開幕するクラブチームによる野球リーグの名称が、「東北ベースボールアカデミーリーグ」に決まった。また、岩手県チームの名称は「カウボーイズ岩手21」に決まった。宮城県チームの結成を進めているのがNPO法人の仙台市民球団企業組合(鈴木悟理事長)、岩手県チームを運営するのが岩手プロ野球OB振興会(横山国夫代表)。2009年までに東北地方の残り四県でもチームをつくり地方リーグ化を目指す。
【岩手】岩手県チーム「カウボーイズ岩手21」は9月下旬のセレクションなどを通し、高校1年から28歳の社会人まで32人の入団が内定。徳島、茨城、兵庫など県外選手も多数含まれている。11月6日に2度目のセレクションを行い、選手を50人ほどに増やす。盛岡、花巻両市に就職の受け皿も準備できるとしている。
【宮城】一方、宮城県チームは選手募集が延期になるなど、雲行きが怪しくなっています。index.html へのリンク
【岩手】岩手には、東北アカデミーリーグとは別に、既に「フェズント岩手」が始動しています。団体の正式名称は「岩手の野球を発展・躍進させる会」。元西鉄の泉沢彰氏(59)を総監督に迎え、既に4月に発足。監督は元盛鉄管理局野球部の松田修一氏。6月にはNPO法人の認定を受けている。8月9月にはセレクションを行い、本格稼働中。1つの市町村だけでなく県全体を代表する「広域チーム」の象徴だ。すでに50社以上から協賛の内諾を取り付け、運営にはメドがついている。
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【新潟】新潟県魚沼市に本拠を置く「ウェルネス魚沼」。同市堀之内地区に校舎を置く「日本ベースボール・セキュリティ専門学校」を運営する「タイケン学園」(東京都板橋区)が立ち上げたもので、青島健太氏を監督に迎え、オーストラリア代表選手と日本人1名という構成で旗揚げしたものの、都市対抗県予選でバイタルネットに敗退し、本大会出場が消滅したのと同時にチームは解散。更にはチームの運営方針を巡る確執から青島氏は退団し(現セガサミー監督)、形式上チームを存続させるために企画したトライアウトにも人は集まらず…消滅。したそうです。
【千葉】再び千葉に戻ると、西多摩倶楽部の監督を2年間務めた谷沢健一氏が、NPO法人「谷沢野球コミュニティ千葉」を発足し、社会人野球のクラブチームの結成や野球教室の開催などを行う。12月4日千葉・市立柏高グラウンドで第2回トライアウトを実施し、15歳から39歳までの70選手が受験した。合格者は後日発表され、11月12日に行われた第1回トライアウトで選ばれた22人を含めてチームが形成される。右ひじ痛のため、この日は見学だけに終わった元ヤクルトの片山文男投手(21)も、完治し次第テストを受け入団する見込み。谷沢氏も「彼には非常に期待している。将来は元プロをどんどん受け入れて、プロとアマの融合を目指していきたい」と語った。
※チーム名が12月13日、YBCフェニーズと決まった。発会式は来年1月22日に同市内で行う。
【千葉】もう一つ千葉に硬式クラブが誕生します。元衆院議員でタレントの森田健作氏(55)が総監督を務める「千葉熱血MAKING」。元ロッテの沢井良輔内野手(27)と元ロッテの本西厚博氏(43)の入団が明らかになった。地元密着を掲げるチームにはうってつけ、本西氏はコーチ兼任。また、タレントの小野真弓さんをマネジャーとして登録。5日に千葉マリンで設立記者会見。
【神奈川】元巨人・中日の江藤省三氏は、昨年12月に野球界で初のNPO法人ジャパン・ベースボール・アカデミー(略称・JBBA)を設立し、元プロ選手を講師に神奈川県内などで野球教室を開いている。その江藤氏がNPO活動とは別に「神奈川BBトリニティーズ」を結成し、監督にも就任。元西武のデストラーデ(43)元横浜の屋鋪要(46)ら元プロ9人がコーチ兼選手として名を連ねている。神奈川出身の俳優嶋大輔氏も合格。10月24,25日でセレクション終了。IT企業のアイエストリニティ株式会社がスポンサー。entry_14031.html へのリンク
※ プロ野球の横浜ベイスターズは12月15日、地域貢献を目指す特定非営利活動法人(NPO)の設立を神奈川県に申請した。横浜市に本拠を置く社会人野球の新日本石油ENEOS(監督大久保秀昭(前横浜コーチ))と提携し、スポーツ、特に野球を通じて地域活性化をはかるのが目的。日本野球連盟によると、プロ球団と社会人チームがパートナーとなりNPOを設立するのは全国初のケースだという。NPOの名称は「横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ」で、来年4月からの活動を目指す。横浜の選手は主にシーズンオフに活動する予定。理事長には両チームOBの平松政次さん(58)が就任。
http://info.eneos.co.jp/press/2005_2006/e71_pr_20051215_02.html
【埼玉】(7日追加)おまけの埼玉。偶然、森健がらみで、元西武の大塚光二氏が監督を務める「埼玉硬式野球倶楽部(仮称)」の選手募集を発見。今月17日西武第二球場でセレクションを実施します。総監督はなぜか、来年から尚美学園大学女子野球部監督と佐賀魂の監督を務める新谷博氏。でも、17日のセレクションには新谷氏は欠席とか。
saitama.html へのリンク
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【大分】大分では元ヤクルト、日本ハムの中村国昭氏(58)が大分出身の大ヒーロー、稲尾和久氏の助力も受けて「大分ソーリンズ野球倶楽部」を設立。監督は中村氏、クラブ名は地元の戦国武将大友宗麟に因なむ。27日のセレクションでは、男女59人が参加、遠投や打撃、守備などのテストを経て、33人が合格した。
【福岡】11月30日福岡で、ドカベンこと元南海の香川伸行氏(43)が監督を務める記者発表したのが「福岡ミサキブラッサムズ」。香川氏は、元ロッテの市場孝之氏(35)のコーチ就任と南海カラーのユニホームデザインを披露。総監督は歌手の森口博子さん。12月23日に福工大グラウンド(福岡県新宮町)でセレクション予定。資金面は生花装飾業「美咲」(福岡市)がサポート。
【山口】関門海峡を渡って山口県防府市、ここにできたのが演歌歌手の山本譲二氏(55)が総監督、元西鉄の池永正明氏(59)が監督を務める「山口きららマウントG」。母体は、今夏のクラブ選手権中国・四国・九州代表の「防府クラブ」。全国にクラブチーム創設を提唱している欽ちゃんの意向を受けた関係者が、今夏の都市対抗野球後に同クラブと接触したことがきっかけ。11月26日のセレクションで合格した16人を加え、来季からの公式戦参戦を目指している。。3人まで登録可能なプロ経験者には山口・多々良学園高出身で、元横浜の高木豊氏(47)の兼任コーチ入団が内定。
【鳥取】山陰で初の硬式クラブが設立されるそうです。毎日新聞の記事によれば、鳥取県に、社会人野球のクラブチーム「鳥取県ベースボールクラブ」(仮称)が設立されることになり、8日、正式発表される。同県出身で元広島、巨人の川口和久氏が総監督、オリックスなどに在籍した加藤伸一氏が監督に就任する。年内にも県内でセレクションを行う、とのこと。
【京都】中国から関西にくると、京都に元参議院議員で元南海の江本孟紀氏が監督を務める「京都ファイヤーバーズ」があります。江本氏は、今年(2005年)、米国独立リーグ「ゴールデンベースボールリーグ」に参加した日本人のみのチーム「サムライ・ベアーズ」を支援したが、来年度の参加は断念となり、それに代わる日本のクラブチーム「京都ファイヤーバーズ」を社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。 同チームは京都府内に拠点を置き、12月10日にトライアウトを実施する。NPO(非営利活動法人)化を図り、来年2月までに日本野球連盟に登録申請する予定。
【滋賀】メジャー先輩野茂投手の「NOMOベースボール・クラブ」に習って、ブリューワーズの大家友和投手がGMを務めるのが滋賀県高島市をホームタウンとする「OBC高島クラブ」。今津スタジアムを本拠地に地元の全面協力を得ているようです。トライアウトには近府県だけでなく栃木、東京、神奈川、高知など120人が応募し、107人が第1次選考にトライ。最終的には25人前後に絞られるが、レベルの高さが期待されます。監督、コーチなどスタッフの発表は年明け。
【三重】三重県津市では、元阪神の松下立美氏(48)が三重県津市を拠点とする「三重高虎ベースボールクラブ」を結成。82年に退団後は喫茶店経営などを手がけてきたが、今年1月から津市では初となるクラブチーム作りに着手。選手は韓国プロ野球経験者など約20人が集まっている。専用グラウンドも持たない手作りのチームだが、夢の都市対抗へ第一歩を踏み出す。12月1日明らかとなる。
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日本野球連盟(社会人野球)のクラブチーム設立支援と欽ちゃん球団の活躍のため、企業チームの休部廃部が続く中、芸能人・プロ野球OBによるクラブチームの誕生ラッシュが続いています。
【茨城】まずは、欽ちゃん球団「茨城ゴールデンゴールズ」。茨城県稲敷市を本拠とし、監督欽ちゃん(萩本欽一氏)、ヘッドコーチ鹿取義隆(元巨人)で全日本クラブ選手権にも出場、準々決勝であのNOMOベースバールクラブに惜しくも敗退するが、全国に巡業し、全国にブームを起こす。その後、ヘッドコーチは、元巨人の鈴木康友氏に交代。マスターズリーグと提携しています。
【千葉】「サウザンリーフ市原」。欽ちゃん球団旗揚げと同じ頃、元日本ハムの広瀬哲朗氏を総監督、市原市で18年にわたってリトルシニアの監督をしていた加藤和昭氏(51)が監督で、今年の春設立、本拠地は千葉県市原市。漫画画家の本宮ひろ志GM、元巨人の江川卓臨時コーチで欽ちゃん球団と5月に対戦話題となった。
四国にはプロの独立リーグ「四国アイランドリーグ」ができ、1シーズンを乗り切ることができました。育成選手ですがNPB球団に2選手が入団することになりました。この四国と並びプロ野球のメッカだったのが南九州です。
【宮崎】欽ちゃん球団「茨城ゴールデンゴールズ」のキャンプをきっかけに宮崎県内初の硬式野球クラブとして誕生した姉妹球団が「宮崎ゴールデンゴールズ」(日向市)で、欽ちゃんが総監督で元広島の片岡光宏氏(44)が監督。宮崎県内ではその後、2つの硬式クラブが誕生し、将来はリーグ戦を目指すとか。
【鹿児島】元巨人投手のタレント・定岡正二氏(48)が今年の夏、故郷・鹿児島で、欽ちゃん球団と対戦するために作った「ホワイトウェーブ」はその後消息不明。
【佐賀】佐賀県初の硬式クラブが元西武の新谷博氏(41)が監督を務めるのが「佐賀魂(スピリッツ)」。「欽ちゃん球団の活動に刺激を受け」けて11月1日記者発表し、同23日のセレクションには67人が参加し、A組30人、B組22人を選出。年末に正式発足させ、1月初めには、山本穣二氏の率いる「山口きららマウントG」とのデビュー戦を計画している。
※ 新谷氏は、来春創部する尚美学園大学(埼玉県川越市)の女子硬式野球部監督に就任が決まっており、新谷氏が、大学の指導に当たっている間は4人のプロOBコーチ陣が指揮を執るとのこと。尚美学園大学女子野球部の総監督は、サウザンリーフ市原の総監督も務め、女子硬式野球現日本代表監督でもある広瀬哲朗氏。この縁から新谷氏が、佐賀市在住で元阪急の今井雄太郎氏に監督にチームの設立を企図したが、今井氏の承諾が得られず、自ら、監督に就任したようです。
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18世紀末に世界で最初の工業化がスタートするまでの英国社会は、ジェントルマンと総称された地主貴族とジェントリーによって支配されていた。このジェントルマン層には、近代史の全期間を通じて、法律家や商人などから絶えず新人が加えられ、伝統的な支配層から脱落してゆく者と入れ替わった。
しかし、名誉革命以後の地主社会は、宗教改革や革命の波に洗われた16,17世紀と比べると、はるかに安定したものになった。18世紀前半のうちに、ヨーマンや小ジェントリーのような中小地主が没落して大地主による土地集積が進行した上、大地主の家系では、土地財産の分散を防ぐための法的措置が講じられたからである。
彼ら大地主は、一つの地方で最大の資産家として、あたり一円の民衆の保護者を自認しおり、治安判事などの役職に就いて地方自治を担当した。「地主と教区会議は小型の国王とその王国だ。やり方こそ違え、その専制ぶりにかけてはいずれも劣らぬ甚だしさだ」と書き残した同時代人もいる。宮廷や内閣、議会といった中央の統治機構は彼らによって独占されていた。
しかし、17世紀後半と18世紀といえば、英国がオランダやフランスとの重商主義戦争に次々と勝利し、カリブ海や北米大陸を中心に植民地を形成する時代であり、インドを拠点に大規模なアジア貿易を展開してゆく時代だった。英国商業革命とよばれるこの過程によって大商人の富が一挙に増したばかりか、植民地開発が進んだ結果、アイルランドやカリブ海の砂糖植民地の不在地主、ネイホップの蔑称でよばれたインド成金などが急成長した。こうした広義の商人層は、大地主の同盟者として18世紀の政治的・社会的支配層の一翼を担った。
こうして18世紀には、大商人を盟友とした大地主層支配体制が成立するが、その背景には、ピューリタン革命期から王政復古にかけて成立した穀物法と航海法の二本柱であり、地主と商人はその直接の受益者であった。この二本柱が相次いで崩壊する1840年代こそは、産業資本家の台頭によって、地主支配体制が崩壊した時代でもあった。
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17世紀イングランドで起こった二つの革命は、18世紀の二つの革命とは、異質なものであった。アメリカの「独立宣言」やフランス革命の「人権宣言」が自然権としての要求、天賦人権論の立場に立つのに対し、名誉革命における「権利の章典」は、イングランドの歴史のある時点で保証されたイングランド人の歴史的権利に対する王権の側からの侵害を排除し、その歴史を守り抜くことであった。
ノルマン王朝以来の征服王朝であるイングランド王朝は、王位継承権争いの中で、王権への支持と引き替えに多くの権利(コモンロー)をときのイングランド国民に与えてきた。それが、マグナカルタを初めとするコモンロー(慣習法)であり、そのコモンローが、絶対王制の中で侵害され、それに反発して議会による革命が起きた。
ところが、革命後も、世襲の国王がいるし、国教会も体制の中核に存続し、議会も依然として貴族院と下院(庶民院)の二院制という伝統的な構成のままであった。変わったのは、国家の最終的な意思決定者が、国王から議会に移ったことである。
別の言い方をすれば、絶対王制下における王権の持つ絶対性が、議会に受け継がれたものに過ぎず、「議会は、市民及び法の上に立つ」とされ、フランス革命における、「市民が議会の上に立つ」とする人民主権の論理とは異なっていた。
すなわち、名誉革命が樹立した政治体制は、「議会における国王」に国家主権があるという中世以来の伝統的な建前は、そのまま守りながらも、コモンローではなく、議会制定法が支配する議会主権体制であった。しかし、議会は国家構造におけるその地位を向上させたが、その議員の構成に関する改革にはいっさい手がつけられなかった。それどころか、18世紀初頭の議会は、自ら作った法律によって、議員を土地所有者に限定し、地主寡頭支配の性格をいっそう強めた。
このような古い体質を引きずりながら、18世紀、イングランドは帝国の建設、工業化のための巨大な歩みを開始する。革命の一つの成果となったのが、後見裁判所と軍役保有が廃止され、土地の私有財産権が確立されたことであった。議会主権体制の出現のもつ最大の意義は、その基盤があったからであり、私有財産権を承認された人たちの利害は、議会制定法を通して貫徹されることになる。
そして、イングランドの二つの革命によってもたらされた議会主権体制は、ドイツ人王ジョージ1世(即1714~27)のとき、議院内閣制として確立されていく。ハノーヴァー出身のドイツ人王は、大陸政治に強い関心を持った反面、国内政治にはさほど興味を持たずドイツ滞在が多かったため、内閣に政務の一切は委ねられるようになった(王は君臨すれども統治せず)。
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名誉革命(1688~89)
この王政復古にはいくつかの条件がつけられていたが、チャールズ2世は帰国の直前にオランダのブレダで宣言を発し(ブレダ宣言、1660)、父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収あるいは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払いなどを約束した。
チャールズ2世は即位後はこの公約を守らず、すでに死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体を絞首刑にしたり(1661)、多くの生存者を死刑や投獄刑に処した。また革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻したり、宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661)などピューリタンに対する圧迫を強めた。そのためピューリタンの勢力は次第に衰え、ジェントリーや商工業者の中には国教会に改宗するものも多かった。
チャールズ2世の時代に、議会では国王を支持するトーリー党、国王に対立するホイッグ党という2大党派が形成された。国王はトーリー党を利用してホイッグ党を弾圧した。1685年、チャールズ2世が死去し、王弟がジェームズ2世として即位した。彼はカトリック教徒であって、イングランドにカトリックの信仰を復活しようとはかり、国教会と対立したため、トーリー党の支持も失ってしまった。
1688年、カトリックの王妃に王子が生まれると、ホイッグ党、トーリー党は共同でジェームズ2世の廃位を計画し、ジェームズ2世の長女メアリーの婿で、オランダ総督であったオラニエ公ウィレム(英名ウィリアム)にイングランド国王に就任するよう要請した。このため、プロテスタントのウィレムはこれにこたえてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はルイ14世のフランスに亡命した。
当時、ウィレム率いるプロテスタント国オランダは、カトリックを看板に大陸制覇を狙うフランスのルイ14世に抵抗していた。1689年、ウィレムは、ウィリアム3世としてメアリーとともに、イングランドの共同統治者として国王に即位した。ウィリアム3世はイングランド国王にしてオランダ共和国の総督となった。
議会は国王に「権利宣言」を承認させ、これを「権利章典」として発布した。これによって、国王は議会の同意にもとづいてのみ統治することとなり、英国(イギリス)の立憲君主制がここに成立した。これが名誉革命(1688~89)である。英国人はこの無血革命を誇ってGlorious
Revolutionと呼んだが、日本では名誉革命と訳されている。
ジョン・ロックはこの革命を「政府二論」(1690年)によって理論的に基礎付け、「名誉革命の哲学者」とよばれている。
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その後議会では長老派が追放あるいは逮捕され、独立派が権力を掌握した。1649年議会はチャールズ1世を裁判にかけ、処刑した。議会は君主制の廃止と共和政の開始を宣言した。しかし、君主がいなくなったという意味で共和政が成立したのは確かであるが、それ以上に政治の民主化が進んだわけではなかった。
また、第一次内乱中の1646年に、国王の上級領主権が廃止されて、領主の封建的土地所有は近代的土地所有(私的土地所有)に転化したが、領主と農民の関係は変更されなかった。ピューリタン革命は「市民革命」であるとは言われるものの、これによってただちに封建的諸関係が全廃されたかのように考えるのは誤りである。
革命の結果、独立派の指導者であるクロムウェルが実権を掌握したが、彼はチャールズ1世の処刑後、アイルランド征服に乗り出した。チャールズ1世の処刑後その皇太子がチャールズ2世としてオランダで即位した時、アイルランドがこれを王として認めたことがきっかけであった。
クロムウェルはアイルランドの一般市民多数を虐殺し、アイルランド人の土地を没収し、耕地の3分の2がイングランド人のものとなった。アイルランド人の多数が餓死し人口は半分近く減少した。アイルランドは、1649年のクロムウェルの征服によって植民地的な地位に落とされ、アイルランド人は以後、宗教・政治・土地所有などの差別に苦しむことになる。
また、1650年には、チャールズ1世の子チャールズがスコットランドに拠って王権回復を謀ったので、クロムウェルはスコットランド遠征を行い、スコットランド軍を破ってこの地を征服した。
1651年、議会は「航海法」を制定し、イングランドの海運業を保護してオランダ(ネーデルラント)の中継貿易に打撃を与えようとしたため、翌年第1次英蘭戦争がおこった。戦争はイングランドの勝利でおわり、1654年講和が成立した。英蘭戦争はその後、第2次(1665~67)、第3次(1672~74)と続いたが、イングランドは次第にオランダを圧迫し、オランダから海上覇権を奪い、17世紀に繁栄したオランダが没落していく大きな原因となった。
1653年、クロムウェルは護国卿の地位につき、立法・行政の最高権限をにぎり、軍人に地方行政を担当させて、軍事独裁の体制を築いた。クロムウェルは58年病死し、息子が護国卿の地位を継いだが、軍は彼を無視したため力はなく、翌年引退した。
王政復古(1660)
1660年、議会が軍をその統制下に置こうとして軍と対立し、内乱となったが、議会の勝利でおわった。議会は国王の復位を決定したため、チャールズ2世がオランダからイギリスに戻った。これを「王政復古」という。
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ドイツ三十年戦争が終結に近づいた頃、イングランドではピューリタン革命(清教徒革命)と呼ばれる内乱が勃発し、王政が廃止されて共和政が成立した。その後ふたたび王政が復活したが、さらに名誉革命と呼ばれる革命によってイングランドでは立憲君主制が成立し、国王は「君臨すれども統治せず」と言われる存在となった。このピューリタン革命と名誉革命は、通常英国(イギリス)の市民革命とされている。「市民革命」とは、絶対王政を打倒し、近代市民社会への道を切り拓く革命のことである。
ピューリタン革命(1642~1649)
チャールズ1世はイングランド国教会を自身の権力の支柱とし、スコットランドにも国教会の信仰を強制しようとした。スコットランド教会はカルヴァン派であったため信仰の自由を守るため反乱を起こして抵抗した。
1640年、チャールズ1世はその鎮圧の費用を調達するため議会を召集したが、議会は経費の調達に反対したためわずか3週間で解散させられた。その後議員の選挙が行なわれて再び議会が開かれたが、議会はわずかの差で議会派が王党派を上回り、チャールズ1世の政策に対する非難を決議した。1642年、チャールズ1世は議会派の議員を逮捕しようとしたが失敗し、これを契機として王党派と議会派の内乱が勃発した。
王党派(国王派)は経済的な発展が遅れたイングランド西北部を地盤とし、貴族・特権商人・保守的なジェントリなどに支持され、宗教的には国教徒が中心であった。これに対して、議会派はロンドンを中心に商工業の発達したイングランド東南部を地盤とし、進歩的なジェントリー・ヨーマン・商工業者などに支持され、宗教的にはピューリタンが中心であった。
戦争のはじめは王党派が優勢であったが、その後オリヴァー・クロムウェルの組織した騎兵隊の活躍によって議会派が優勢となった。彼の指揮する騎兵隊は強力で「鉄騎隊」とあだ名されたが、議会派の軍隊はこの「鉄騎隊」にならって能力本位の組織に改組され、「新模範軍」と呼ばれた。1645年のネーズビーの戦いで王党派は完敗し、チャールズ1世はスコットランドに逃走したが、1647年、スコットランドから議会軍に引きわたされた。
内乱は一旦議会派の勝利で終結したものの、今度は議会派の内部で対立がおこった。独立派と長老派の対立である。独立派とは各教会の独立と横の連合を主張した宗派であり、長老派とは長老会による全国の教会の一元的指導を主張した宗派である。
王党派に対しては独立派の方が非妥協的であり、長老派の方が妥協的であった。チャールズ1世はこの状況を見て脱走し、スコットランド軍と連合し、王党派の軍を率いてふたたび内乱を起こした。しかし、チャールズ1世はまたも議会軍に敗北し、第二次内乱は終結した。
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エリザベス女王は、「私は国家と結婚している」と言って、各国君主の求婚を全て退けて生涯独身を貫いたので「処女王」と呼ばれた。そのためエリザベス女王が死ぬとテューダー朝は断絶し、遠縁にあたるスコットランド王のジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)がイングランド王位を兼ねてステュアート朝(位1660~1714)を開いた。
ジェームズ1世は「監督なくば国王なし」と唱えて、英国国教会の監督制度(イングランド国王を首長として、教会は国家の監督・支配を受けるというしくみ)を重視し、ピューリタン(イングランドのカルヴァン派)・カトリック教徒を圧迫したので、ピルグリム=ファーザーズの新大陸移住を引き起こした(1620)。 ピルグリム=ファーザーズとは信仰の自由を求めてメイフラワー号で北米のプリマスに移住した102名のピューリタンと非国教徒の人々のことである。
またジェームズ1世は、イングランドの国情・特に議会についての理解が乏しく、王権神授説を信奉し、議会を無視して増税や大商人に独占権を付与したので、しばしば議会と対立した。次のチャールズ1世(位1625~49)も王権神授説を信奉し、フランスの新教徒援助に失敗し(1627)、戦費支出の増大による財政難を打開するために課税を強化し、また国教会を強制してピューリタンを弾圧したので議会との対立が激化した。
この頃、イングランドでは毛織物工業を中心に商工業が発達し、市民階級(ブルジョアジー)の力が強まっていた。また農村でも荘園制が崩壊する中で多くの独立自営農民(ヨーマン)が生まれ、多くのヨーマンは農耕とともに羊毛・毛織物生産に従事し、中には毛織物マニュファクチュアを営む富農も現れた。
特にジェントリーと呼ばれた地主階級が地方行政や議会で活躍した。ジェントリーは郷紳と訳されてジェントルマンの語源となったが、身分的には貴族の最下層・ヨーマンよりは上層の地主階級で、富裕なヨーマンや商人が土地を買い取ってジェントリーになった。このような中産階級の人々にはピューリタンが多く、彼らは議会を通して権利を伸ばそうとして貴族や特権大商人と結びついていた絶対王政と対立していった。
一方、アイルランドでは、北部のアルスターだけが、チーフテンと呼ばれるこの地方の族長が力を維持していた。そこでイングランドはこの地に、スコットランド人を中心とするプロテスタント移民やイングランド王室に忠実だったプロテスタントのプレスバイテリアン:長老教会派などを送った。
しかしついに、ヒューや他の族長率いるアルスターもついに降伏。当時のイングランド王ジェームズ1世は「王への忠誠と引き換えに土地の保有」の許可を与える。しかしヒューらが海外へ逃亡、人民を守っていた役割をこなしていたリーダー達がいなくなり、イングランドはアルスター人民に「主人に忠誠を誓えば各自の権利は守られる」と申し出て、今まで一番イングランドに屈しなかったアルスター地方に対し、徹底したイングランドの植民地化を行う。
彼らは少なくとも郷里に住み続けられるし、領土争いや最低レベルの農民で貧しく暮らすよりかは、イギリスの領主の下で小作人になって安定した収穫を得て年貢を納める方が楽との見方をし、忠誠を誓うことになる。
現在の北アイルランド問題の起源はここにある。アルスター地方のカトリックのアイルランド人は追放され、移住してきたプロテスタントの地主集団は次第に規模を拡大していったが、この計画的な植民によって北部アイルランドには宗教のみならず、生活様式も他の地方とは異なる社会が形成されていった。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/24-rikken1.html
http://www.globe.co.jp/information/history/history-2.html
http://www5.ocn.ne.jp/~kanebon/bstkitaireland.htm
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エリザベス1世の時代にイングランドの絶対主義は全盛期を迎えた。しかし、フランスに比べ、強力な官僚制や常備軍が整備されず、州の有力者であるジェントリー(地主階級)の勢力が強かった。エリザベス1世は、英国国教会制度を確立するとともに、その頃国民的産業になっていた毛織物工業を保護・育成し、大商人に独占権を与えて国家財政の充実に努めた。
スペインの絶対君主フェリペ2世は、1588年に無敵艦隊をイングランドに向けて出動させたが、イングランド海軍はアルマダの海戦で無敵艦隊を撃破して、以後英国が海外に発展していく道を開いた。
エリザベス1世は多くの独占貿易会社を設立したが、特に1600年に設立された東インド会社は喜望峰からマゼラン海峡に至るアジア全域での貿易独占権を与えられた貿易会社で、英国のアジア進出、特にインドへの進出及びその植民地化に重要な役割をはたすことになる。
また新大陸へも進出し、寵臣ウォーター=ローリーらは英国の北米最初の植民地であるヴァージニア植民地(「処女王」と呼ばれたエリザベス1世にちなんで命名された)を創設したが失敗に終わった。
45年間にわたるエリザベス女王時代に、イングランドはそれまでの二流国からヨーロッパの強国に仲間入りし、繁栄期を迎えた。
アイルランドでは、エリザベス1世が外交的軍事的強硬を巧みに使いわけて、イングランドの支配地域をアイルランドに徹底的に広げていった。アルスター(現在の北アイルランド)は、イングランド通で軍事戦略にたけているヒュー・オニールのもとに置かれた。
ヒューの軍勢はアイルランド各地方のイングランド駐屯地を破り攻撃を繰り返した。当時のイングランドの恐れは、ヒュー達とスペインが手を組めば、侵略される恐れがあった。エリザベス1世の指揮により、イングランドは非情な政策にでた。
彼らは敵対する地域の作物を刈り、畑や農家を焼き払い、恐ろしい飢餓が始まり、厳しい冬が待っていた。その後イングランド軍の巧みな軍事力と、逆に軍事戦略とはおぼつかない程のアイルランド軍の動きの鈍さに加え、結果はイングランドがアイルランドの殆どの地域を統治することに成功。エリザベス1世は息をひきとり、テューダー朝は終わった。
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百年戦争とそれに続くバラ戦争(内乱)によってイングランド国内の貴族、騎士層は疲弊し、相対的に王権の権力は強まった。テューダー朝の16、17世紀はイングランドにおける絶対王政の時代でもある。貴族、騎士の代わりにイングランドの国政に影響力を持つようになたのは、王の側に官僚として仕える廷臣、そして大商人であった。
また、対仏戦争と内乱のため、それまで関心薄かったアイルランドに、イングランドは、関心を抱くようになる。当時イングランドの敵だったスペインとアイルランドが手を組みイングランドが占領なされないよう、アイルランドを完全に支配下におくことにした。アイルランドの受難の始まりでもある。
テューダー朝2代目のヘンリー8世は、熱心なカトリック教徒であったが、王妃キャサリンとの離婚を、教皇が認めなかったため、離婚を強行し、ローマ教会からの独立を図った。1534年に首長令を発し、国王が国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、英国国教会をローマ教会から分離・独立させ、また同じく議会立法で修道院を廃止し、その広大な土地・財産を没収した。
このようにイングランドの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、中央集権化をはかるヘンリー8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたということが特色である。そのため教義上の改革は不徹底で、英国国教会の教義はカトリックとほとんど変わらなかった。
さらにヘンリー8世は自らアイルランド王を名乗ると、イングランドで始めた宗教改革をアイルランドにも強要し、ダブリンで行われた宗教改革議会は修道院解散、教会財産の没収を決定した。しかし、実際宗教改革がなされたのは、当初からイングランド王の支配力が及んでいたいくつかの都市とダブリン周辺のペイルに限られていた。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/13-kaikaku3.html
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アイルランドは、アングロサクソンのイングランドと異なり、ウェールズと同じケルト人の国であったが、国名が示すように、ヨーロッパの西の果ての国のためか、ローマ軍やゲルマンの侵略を受けることなく独自のケルト文化が残った。
「Ireland」はアイルランド語(ゲール語)の「Eire」とゲルマン語の「国」を表わす「Land」をあわせたもの。アイルランド憲法では国の名前は「Eire」(エール)、英語で「Ireland」(アイルランド)と定められている。「Eire」の語源には諸説あるが、「Eire」の古い形である「Eriu」は、ヨーロッパの語源と同じ、古代アッシリア語「Ereb」(「日没」、転じて「西」)に由来するといわれる。まさにアイルランドは、ヨーロッパの西の果ての国なのだ。
ヨーロッパが、西ローマ帝国の崩壊とゲルマンの侵入より、侵略と征服を繰り返していた5世紀ごろ、アイルランドにキリスト教が聖パトリックによって広められ、6世紀と7世紀には修道院を中心としてアイルランド独自の芸術、学問、文化が開花した。通常、キリスト教化されると土着の神々は悪魔にされたが、アイルランドではケルトの神々が妖精となった。アイルランドのケルト人は都市を作らず、政治的には統一されることはなかった。
アイルランドのキリスト教は、ケルトの宗教(ドルイド教)や民族性と融合する形で広まったので、家族単位、部族単位の集団と結びついた司教区が設定され、修道院長が司教を兼ねる独自の教会制度や、東方の影響を受けた暦法や慣習を用い、ローマ教会とは対立したが、664年ウイトビー宗教会議で、とりあえずカトリックに統一されることが決まった。
混乱が続く西ヨーロッパに対し、アイルランドでは、8世紀末のバイキング(ノルマン)襲来まで平和が続き、キリスト教や古代ギリシャ・ローマの学問研究が盛んに行なわれた。この時代は「聖者の時代」と呼ばれ(最盛期は7世紀から10世紀)、また、「聖者と学者の島」として、海外からも多くの修道士がアイルランドへ渡ってきた。
逆に、アイルランドからは多数の修道士たちがブリテン島やヨーロッパ大陸に渡り、修道院や教会を建て、学校を設立し、異教徒を改宗させ、ヨーロッパの宗教、文化活動を支えた。レーゲンスブルク、ザルツブルク、ウィーンなどはアイルランド系修道院を中心に発展した町とされる。アイルランドは、まさに、西ヨーロッパの文化の中心であった。
9世紀から10世紀にかけてアイルランドはバイキング(ノルマン人)の襲来をたびたび受けた。バイキングは交易も行い、ダブリン、コーク、ウォーターフォードに都市を作り、都市を作らなかったアイルランドに都市文化を発展させた。やがて都市に住むバイキングはしだいにケルト人と融合し、バイキングの影響力もうすれ、11世紀から12世紀にかけてアイルランドの文化はふたたび活発になった。また、中世キリスト教が全盛期を迎える11世紀末には、ケルト独自のキリスト教は、ローマ・カトリックにとって変われ、以後、アイルランドは熱心なカトリック教国となった。
しかし、12世紀になると、すでにイングランドやウェールズに定住していたいわゆるアングロ・ノルマン人が侵入してくるようになり、アングロ・ノルマンはたちまちアイルランドの広い地域を支配下に置き、その後はイングランド王の政治権力に取って代わられた。
その後の400年間は、アングロ・ノルマンはアイルランドで影響力のある存在であったが、国土の多くは依然としてアイルランド人が握っていた。16世紀初頭になるとアイルランドにおけるイングランドの支配地は、ダブリンを含む幅約20マイルの細長いペイル(Pale)と呼ばれる地域に減っていた。これには多くの理由があった。多くのイングランド王たちはアイルランドに対する興味を失っていたのだ。アングロ・ノルマン人たちはアイルランド人と結婚し、アイルランド語を学んだ。彼らはイングランドにほとんど忠誠を持っていなかった。
http://www.globe.co.jp/information/saint/saint-2.html
http://www.snn.co.jp/_snn/top_data/offshore/celt/rekishi.shtml
http://www.snn.co.jp/_snn/top_data/offshore/celt/gengo.shtml
http://www.asahi-net.or.jp/~hh6k-kwbt/ireland.htm
http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Kelt.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/celthist.html
http://eigo.be/cultures/globallanguageireland.htm
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中世騎士伝説の中心となったアーサー王伝説は、ケルト系のブリトン人とアングロサクソン人との戦いを描いたウェールズのケルト伝説が、その後ブリテン島の支配民族となったアングロサクソン人の神話に変化してできた。
アーサー王伝説の舞台となったのが、ウェールズとともにアングロサクソンによって追いつめられたブリトン人の国コーンウォールであった。アーサー王伝説では、イングランド王ウーゼル・ペンドラゴンはコーンウォール公Gorloisの妻イグレインに魅了されて子供をもうけた。Gorloisはウーゼル・ペンドラゴンの支配に反抗してイグレインともども殺害され、ここコーンウォールで生まれた非嫡出児はのちにアーサー王となったという。
このコーンウォール公の爵位を持つのが、チャールズ皇太子である。コーンウォール公は、爵(英:Duke of Cornwall)は、イングランド王位(現在では連合王国王位)の男性長子に与えられる。イングランドで最初に創設された公爵位で、現在ではランカスター公とともに二つしかない公爵領をもつ爵位である。ただしランカスター公は1413年に王冠にマージされた(爵位保持者が王位を継承した)ため、現在保持者が存在しない。
チャールズ皇太子の称号として有名なのが、プリンス・オブ・ウェールズであるが、これは、第一王位継承者である皇太子に与えられる称号でウェールズ大公の意味。もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、グウィネズ地方のウェールズ人支配者(公)、ルウェリン・ザ・ラストことルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域のウェールズ人の諸侯に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主を意味するウェールズ大公(英語でプリンス・オブ・ウェールズ)と称したことに始まる。
アングロサクソンによってブリテン島西部に封じられたウェールズでは、ケルト系小部族国家が群立したが、11世紀中葉にグウィネッズ王グリフィズ・アプ・ルウェリンがウェールズのほとんどの領域を支配下に収めた。1066年にイングランドを征服したノルマン王朝もウェールズでは頑強な抵抗を受けた。しかし、1282年ウェールズ最後の王ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に破れ、イングランドの支配下に置かれた。
1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワード(2世)にウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)の称号を授けてウェールズの名目上の君主とする。このために、身重の王妃を当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させている。ウェールズ生まれのエドワード2世をウェールズ人に支配者として受け入れさせるためである。エドワード1世は、ウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と、即位を認めさせた、という逸話がある。以後、イングランド王室の皇太子がウェールズの大公「プリンス・オブ・ウェールズ」という名称を持つことになった。
しかし、15世紀の始めまでウェールズはほぼそのまんま独立国であった。その後にウェールズ人の歴史的な英雄オワイン・グリンドゥールが国民を導って、当時独立していたスコットランドやフランスの支援をうけ独立国を成立させることに成功した。残念ながら長い間は続かず、ウェールズが独立国として存在したのはこれが最後となった。
その後1536年にイングランドとウェールズが合併することになり、この時からウェールズ人はイングランドの法律に従うことになった。ウェールズ語の使用は禁止されていたが、宗教的な背景もあって、エリザベス1世が聖書をウェールズ語に翻訳させ、現在のウェールズ語の存続に影響を与えた。
英国(イギリス)の国旗ユニオンフラッグ(英国旗)は、イングランドの国旗(白地に赤い十字)、イングランドのスコットランド併合の際にスコットランドの国旗(青地に白い斜め十字のセント・アンドリュー・クロス)、アイルランド併合の際にアイルランドの国旗(白地に赤い斜め十字)を組み合わせて作られたが、ウェールズは、早くからイングランドに併合されていたため、赤い竜のデザインは英国旗の中には採用されていない。
英国皇太子の2つの称号、「プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)」と「コーンウォール公」の地、ウェールズとコーンウォールは、アングロサクソンによって征服されたケルト人(ブリトン人)の地である。これは、まさに、マルチナショナル国家・英国(イギリス)の姿を象徴したものといえる。
なお、プリンス・オブ・ウェールズは、「殿下」(His Royal Highness)の尊称で呼ばれ、夫人は、プリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公妃あるいは皇太子妃)の称号を帯びる。ただし、現在はダイアナが死後もその称号を保持することが認められたため、チャールズの妻であるカミラ・パーカー・ボウルズは、現在コーンウォール公妃の称号を名乗っている。
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9世紀、イングランドのアングロサクソン七王国はデーン人(ノルマンの一派)の侵攻による動乱の中で、サクソン人の強国ウエセックス王国のアルフレッドがイングランドを統一する。この頃、コーンウォールもウエセックスに呑み込まれてしまう。一方、ブリテン島北部では、スコット人のダルリアダ王国がピクト人のオールバ王国を併合し、以後この地はスコット人の国スコットランドと呼ばれるようになった。イングランドは、1013年デンマークのカヌート大王(クヌート)によって1042年までに支配された。北海帝国の成立であるが、1042年をもって、北欧との関係は途切れた。
1066年にフランス王国のノルマンディー公(ノルマン人がフランスに侵入し、ノルマンディに封土された)ギヨーム(ノルマン人:英名ウィリアム)によって征服され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代した。その結果フランス語がイングランドの支配言語となり、今日、本来ゲルマン語系の言語である英語の語彙の半分はフランス語起源とされるほどフランス文化の影響を受けた。
ノルマン朝の後、イングランドではやはりフランス系のプランタジネット朝が成立、イングランドとフランスに跨る支配域を形成した。ギヨームのイングランド征服以来、イングランド王はイングランドにおいてはフランス王に対等、フランス王国内では封建諸侯のひとりとしてフランス王に臣従という形が続いた。
しかしイングランド王家はフランス王の臣下とは言っても、フランス王を脅かすほどの大諸侯でもあり、フランス王家とも姻戚関係を結んでいたため、ユーグ・カペー以来のカペー家の嫡流の断絶に伴い、フランス王の地位も獲得を目指すようになった。
結果としてイングランド王家とカペー家庶流ヴァロア家の間で、1339年、フランス王の地位を巡って百年戦争が引き起こされた。百年戦争は結果的にイングランド王家の勢力がフランス王国内から追い出される形となった。
百年戦争に敗北し、イングランドがフランスの領地を失ったことから、これまで渾然としていた英仏の区別がはっきりし、また長く続いた断続的な戦争状態の継続によって、それぞれの王国内の臣民は、フランス人に対する他者としてのイングランド人、イングランド人に対する他者としてのフランス人という大きなまとまりでの自意識を持つようになった。
これは後に国民国家を成立させることになる、近代的な国民、民族といった大きなまとまりでの自意識が形成される契機となった。
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英国(イギリス)は、16世紀までヨーロッパの辺境に過ぎず、未だに大陸ヨーロッパとは区別されている。日本ではイギリスとか英国とかいわれるが、正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(UK)」といい、イングランド、ウェールズ、スコットランドそして北アイルランドにより構成される。1922年アイルランド南部が、アイルランド自由国として分離するまでは、「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」であり、イングランドが他三国を支配する関係にあった。
英国のあるブリテン諸島は、グレートブリテン島とアイルランド島その他の島々から成り、紀元前5世紀までに、ケルト人が移り住んでいた。ケルト人は大きく初期にやってきたゲール人と後のブリトン人に分けることができ、ゲール人は後からやってきたブリトン人に現在のアイルランドに追いやられ、ブリトン人の多くはブリテン島南部(いまのイングランドとウェールズ)に住みついた。後にこの島は「ブリトン人の地」の意味でブリタニアと呼ばれ、これがブリテンという名の語源となった。
西暦1世紀には、いまのイングランドとウェールズの地域はローマの支配を受け、この地方のブリトン人はローマ化するが、ブリテン島北部(いまのスコットランド)にいたケルト系ともいわれるピクト人は、ローマ軍の北進に抵抗し、ついにローマはピクト人の征服を諦めるが、ローマ皇帝ハドリアヌスはピクト人の南下をくい止める長城を造ることを命令した。これが全長118キロメートルにおよぶハドリアヌスの長城である。
5世紀にゲルマンがガリアに侵入すると、ローマ帝国はブリタニアの支配を放棄し、ローマ軍を大陸に引き上げた。この間隙を突いて、アイルランドにいたケルト系ゲール人の一派スコット人が、ブリテン島北西部に4つの王国を作った。
一方、ゲルマン系のアングル人、サクソン人、ジュート人(いわゆるアングロ・サクソン)は、大陸から海を渡ってブリテン島に侵入し、ブリテン島南東部(いまのイングランド)を征服し、この地域に七王国と呼ばれる小国家群を作った。5~7世紀には、イングランドのブリトン人はアングロ・サクソンによって吸収・消滅してしまう。なお、イングランドの名称は「アングル人の国」に由来する。
アングロ・サクソンから逃れたブリトン人は、ブリテン島西部の山岳地帯に追いやられ、いまのウェールズ人となった。まら、南西端の不毛地帯コーンウォールに移り住んだブリトン人は、コーンウォール人となった。海に逃れたブリトン人は、当時、ローマ領アルモリカに小ブリタニア(現在のフランス・ブルターニュ)を作りブルトン人となった。小ブリタニアと区別するために、ブリテン本島は、グレート(大)ブリテンと呼ばれるようになった。
ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュに分断されたブリトン人は、極貧の地に住ながらも相互に連絡を取りつつ約400年生き延び、「アーサー王伝説」のもととなった。
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カトリックの国フランスでも、毛織物工業が盛んな北フランスを中心にカルヴァン派が勢力を持ち、ユグノーと呼ばれた。ユグノーとはドイツ語の盟友の意味から生まれた蔑称である。長らく王権の弱かったフランスは、百年戦争終結をきっかけに官僚制の整備と中央集権化を進めら、改革派となるユグノーは弾圧された。ところが、ユグノーには一部貴族も加わり、弾圧にもかかわらず、勢力を広げていった。
1560年、改革派は、弾圧側の中心であったギーズ公アンリを襲うが、計画は事前に漏れていたため、実行者は捕らえられ、残酷な処刑が行われた(アンボワーズの陰謀)。1562年、ヴァシーで改革派の虐殺事件が起こると、内乱状態(ユグノー戦争)になった。1572年8月24日にはカトリック側が改革派およそ4000人を大量虐殺した事件が起こっている(サン・バルテルミの虐殺)。
宗教上の対立であるとともに、カトリックのアンリ3世とギーズ公アンリ、改革派のブルボン家アンリ(のちのアンリ4世)の三アンリの勢力争いという側面もあった。カトリック国スペイン(フェリペ2世)も干渉した。ギーズ公、アンリ3世は暗殺され、即位したアンリ4世が改革派からカトリックに改宗し、ナントの勅令(1598年)を発して、改革派にもカトリックと同様の信仰の自由を認めたため、ユグノー戦争は終結した。
この内乱でフランスの大諸侯の力が衰え、アンリ4世につづくブルボン朝の絶対王制が確立されていく。アンリ4世をついだのがルイ13世(位1610~43)。ドイツで起きた三十年戦争にも介入して、領土を拡大するなど、この時代にフランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つようになる。
次の王がルイ14世(位1643~1715)の時代は、フランス絶対主義の極盛期・フランスの黄金時代であり、フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心となった。ルイ14世によって改築されたヴェルサイユ宮殿はヨーロッパの外交・文化の舞台となり、フランス語はヨーロッパの国際語となった。ラシーヌ・モリエールらに代表されるフランス古典主義文学もヴェルサイユ宮殿を中心に発展した。
しかし、たび重なる侵略戦争や宮廷の浪費のために、特にルイ14世の最大の失政といわれるナントの勅令の廃止(1685)によってユグノーの商工業者が大量に国外に亡命してフランス経済は大打撃を受けたことなどによって、王の晩年には国家財政が窮乏し、国民は重税に苦しむようになった。
このため、ルイ14世が72年に及ぶ治世の末に亡くなり、曾孫のルイ15世が即位したが、次のルイ16世の時代にかけて国家財政はますます悪化し、のちのフランス革命の原因になっていく。
参考サイト
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ドイツとフランスに挟まれた三角地帯がネーデルラントで、「低い地方」の意味、現在のオランダ・ベルギーの地域にあたる。ネーデルラントは、中世神聖ローマ帝国の一部とされ、ブルゴーニュ公国領、オーストラリア・ハプスブルク家所領を経て、1556年、スペイン・フェリペ2世の支配下におかれることとなった。
中世以来毛織物工業が発達し、都市が繁栄していたネーデルラントにはゴイセン(乞食の意味)と呼ばれたカルヴァン派の新教徒が多かったが、カトリックの絶対君主フェリペ2世はプロテスタントを厳しく弾圧した。このためネーデルラント諸州は、1568年、有力貴族オラニエ公ウィレム(英名オレンジ公ウィリアム)を先頭にスペインに対する反乱を起こした。南部ネーデルラントはスペインの軍門に屈したが、北部7州は1579年ユトレヒト同盟を結成して結束を固めた。この同盟体は1588年ネーデルラント連邦共和国の樹立を宣言し、1600年頃までに北部7州は実質的に独立を果たした。
ネーデルラント諸州は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガルから香料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる。また1621年には西インド会社が設立され、アフリカ西岸と新大陸との貿易に活躍し、北米にニューネーデルラント植民地を建設した。
こうしてオランダ(ネーデルラント)はポルトガル・スペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムはアントワープに代わって国際金融の中心となり、オランダは16世紀末から17世紀末の約1世紀にわたって全盛期を迎えた。しかし、オランダは仲介貿易に重点を置く経済構造であったこと、特権的大商人の力が強かったこと、毛織物工業におけるマニュファクチュアの発展がイギリスより遅れていたことなどの弱点を抱えていた。そのため17世紀の後半にはイングランドとの3回にわたる英蘭戦争に敗れて衰退に向かい、その繁栄は長続きしなかった。なお、第二次英蘭戦争の結果、1665年ニューアムステルダムを含むニューネーデルラント植民地はイングランドに割譲された。
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ルターによる宗教改革後、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの対立が深まり、各地で宗教戦争が勃発した。ドイツでは、教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達が、ルターの思想的な影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱(ドイツ農民戦争)を起こした。ところが、ルターは、農民側の過激な行動を非難し、諸侯による鎮圧を支持した。このため、農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移っていった。
ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散などの改革を進めていった。1555年のアウグスブルク宗教和議で、諸侯はカトリックもプロテスタントも好きな方を選べる、領民はこれに従うとされたが、新旧諸侯間の争いに端を発するドイツ三十年戦争(1618年~48年)により、ドイツは荒廃し、人口の1/3が失われ、神聖ローマ帝国も有名無実化し、ドイツは小国の分裂状態に落ちいっていった。そしてドイツの近代化が遅れる要因となった。
1648年三十年戦争の講和条約として新たなヨーロッパ秩序を形成したのがウェストファリア条約であった。この条約の成立によって、教皇・皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はウェストファリア体制とも称される。なお、ウェストファリア条約によって、スイスとオランダの独立の独立が承認され、カルヴァン派も公認された。そのことは領主と異なる宗派の領民が黙認される結果になった。
参考サイト
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ご存じのように広島東洋カープは、松田オーナーとその親族が株の6割を保有している日本では珍しい個人保有の球団である。松田家は、自動車メーカー・マツダ(旧東洋工業)の創業家で、現在、松田家は、マツダから手を引いているが、その名残で3割強の株式は、マツダが保有している。なお、広島東洋の東洋は、マツダの旧社名である東洋工業の名残。
巨人の渡辺球団会長が、ライブドアの堀江社長が買収に動いている、黒幕は自民党の武部幹事長だといっていたが、カープの株式は非上場であり、かつ、個人が株式の6割を保有しており、親会社のM&Aによる買収という手段も使えない。株を個人で保有している松田オーナーが反対している以上、堀江氏によるカープ買収は困難である。また、堀江氏は新球場を証券化して買収資金を調達する考えだったようだが、新球場は、広島市が直接建設することが決定されたばかりだ。hl?a=20051014-00000225-kyodo-spo
へのリンク hl?a=20051016-00000008-dal-spo
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その新球場建設の「たる募金」が1億円突破した。かねてより、広島東洋カープの本拠地、広島市民球場の建替資金の一助にしようと、中国新聞社や地元放送局が市民に呼び掛けている「たる募金」が10月31日、目標額の1億円を突破した。
たる募金は1951年、創設間もない球団の資金難を救うため、当時の広島総合球場入り口に、ファンが四斗だるを置いたのが始まり。新球場建設「たる募金」推進委員会によると、31日現在の累計募金額は1億113万9957円。半世紀ぶりの募金は全国に広がり、1200カ所以上に募金箱が設置された。
市民らの熱意を受けて、広島市は今夏、2009年シーズン開幕までの完成を目指し、JR広島駅東側の貨物ヤード跡地に球場を新設する方針を固めている。f-bb-tp0-051031-0037.html
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一方、同日、村上氏から球団の株式上場を迫られている阪神電鉄は、急遽、甲子園球場の100億円を超える大規模改修計画する方針を明らかにした。甲子園の老朽化対策は長期課題としてこれまで検討されてきたものであるが、電鉄筆頭株主となった村上ファンドから具体的な企業価値向上策を求められていることもあり、この時期の発表を決めた。
阪神電鉄は11月4日のプロ野球オーナー会議後、阪神タイガースの上場問題について見解を出す予定で、この場で甲子園改修計画も明らかにする見通し。上場案自体には反対する一方、ファンサービス向上につながる大規模改修を強調することで、支持を得たい考えとみられる。
阪神電鉄経営陣は31日夜、改修費用の規模を「数十億円の単位ではない」と話し、この時期の発表について「村上ファンドの件もあり、こうなった」と説明した。改修は、狭くて使いにくいといわれる通路幅の拡大や座席の更新、飲食の充実など、集客増につながる設備の改善を計画している。
KFullFlash20051031048.html
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村上ファンドは、阪神電鉄株の買収に1000億円を投じているが、ファンドの配当は、5%~20%といわれており、上限の20%とした場合、村上ファンドは200億円以上を阪神電鉄から稼ぎ出さなければならない。現在の阪神電鉄の収益力だけでは、単に阪神電鉄から村上ファンドに利益が移転するだけに終わり、甲子園球場の老朽化対策費が犠牲にされかねない。甲子園球場は老朽化対策が講じられなければ、阪神電鉄と阪神球団の企業価値は低下を免れない。このため、先手を打って甲子園球場の改修計画を発表したのではないか。
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(8/10)西武鉄道、3社合併断念・持ち株会社設立
西武鉄道はコクド、プリンスホテルとの3社合併を断念し、新たに設立する持ち株会社の傘下でグループ再建を進める方針を決めた。10日午後、後藤高志社長が発表する。コクドとプリンスは2005年3月期にともに債務超過に転落しており、財務が比較的良好な西武鉄道の一般株主は3社合併に強く反発していた。06年3月期中に新体制に移行し、持ち株会社の早期上場を目指す。コクドとコクドの100%子会社であるプリンスホテルは従来方針通り、合併する。プロ野球の西武ライオンズ球団については「引き続き保有する考えを変えていない」(西武グループ幹部)としている。
(8/12)村上ファンド、持ち株会社方式の西武再編案に反対
旧通産省(現経済産業省)OBの村上世彰氏が設立した投資ファンドであるM&Aコンサルティング(東京・港)は12日、西武グループが10日に発表した持ち株会社方式による一体再編案に反対すると発表した。再編案の根拠や株式移転比率が不透明で、西武鉄道株主を犠牲にしたコクドやプリンスホテルの救済だと主張している。M&Aコンサルは西武鉄道株を500万株超(1.4%程度)保有しているとされ、西武に対し1株1000円以上での公開買い付けを提案している。
(8/27)西武鉄道の後藤社長、球団の保有継続を強調
西武鉄道の後藤高志社長は27日、インボイス西武ドームで記者団に対し、プロ野球・西武ライオンズについて「西武グループで一体となって支援するために様々な施策を考えている。来季以降はもっとしっかりとした運営ができるだろう」と話し、球団を継続保有することを強調した。ライオンズ球団は昨季、20億円程度の赤字だったとみられる。しかし、今季は経営努力が実り、球団の収益は大幅に改善する見込みで「球団経営に関しては昨年に比べ(収支が)いい形で推移している。今後も西武グループを挙げて全面的に球団をバックアップしていく」と述べた。
(10/18)西武鉄道、サーベラスなど2社と資本提携
西武鉄道は18日、グループ会社のコクドが計画している1600億円規模の増資の引受先を米投資ファンドのサーベラスと日興プリンシパル・インベストメンツの2社にすると正式発表した。これにより再建に向け第一歩を踏み出すための資金面の条件が整った。同日、都内で会見した西武鉄道の後藤高志社長はサーベラスなど2社と資本提携した理由を両社がそれぞれ手がけるホテル事業の実績など「事業パートナーとして西武グループの企業価値を高めるのに最も示唆に富む提案があった」と説明した。
(10/31)堤猶二氏、西武鉄道へのTOB提案を発表
西武鉄道の創業者一族である堤猶二氏は31日記者会見し、西武鉄道へのTOB(株式公開買い付け)提案を正式発表した。同鉄道株式1株を1150―1300円で買い取り、100%の株式取得を目指す。コクドへの総額3300億円の増資引き受け案も提示し、TOBか増資引き受けを選択する。後藤高志・西武鉄道社長ら現経営陣による持ち株会社方式のグループ再編計画に対抗する。会見で猶二氏は、現経営陣の計画では西武鉄道株1株当たりの価格は700円程度と推測。猶二氏らは1150―1300円の価格を提示し、「株価は不当に低く抑えられており、約20%を占める一般株主を(TOBで)救済する」と述べた。TOBに要する資金は5000億―5600億円としている。調達先は「守秘義務があり、現時点では言えない」としながらも「企業再生へ中長期のビジョンを持つ投資家」と組む考えを示した。
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さらに、このブログでは、
(アイスホッケー)日本リーグはその後コクドと西武鉄道の合併によって今年「発展的解消」という名目で一時消滅しました。近オリ合併はアイスホッケーと同じ道をたどる気配があるというのは考えすぎでしょうか。さらに書きますと、昨年5チームでスタートしたアイスホッケーのアジアリーグは今年さらに3チームを加え、試合数も大幅増加で2年目のスタートを切りました。もちろんこちらにも多くの問題はありますが、隆盛を模索する道はプロ野球界にも他山の石として見てほしいと考えるのはやりすぎでしょうか。
と続けています。この記事は堤黒幕説を前提に書かれ、原稿が書かれた直後、堤氏が逮捕され、日本アイスホッケー連盟名誉会長職も辞したことから、<追記>で記事の論旨が的はずれであったことをわびていますが、滝口記者の記事を見るとあながち的はずれでもないようにも感じられます。
JOC名誉会長、日本アイスホッケー連盟会長、西武ライオンズオーナーとしてスポーツ界に君臨した堤義明氏は、逮捕失脚しました。昨年、堤氏、宮内氏とともに1リーグ制化を図った、渡辺読売新聞グループ本社会長は、裏金問題でオーナー職を辞していたが、6月に球団会長として球界復帰。
村上ファンドの阪神電鉄株買収、楽天によるTBS株買収によって再燃しようとしている球界再編問題で「(28日発売の写真週刊誌が)渡辺会長が8球団1リーグ制を推し進めている」と報道されると、渡辺会長は、「8球団1リーグ? 12を8にするなら4つつぶすのかな? そんなことはできるワケないじゃないか」と完全否定し「12球団2リーグでいくんだよ、しばらく、オレの生きている間は!」と昨年1リーグ制を唱えた渡辺球団会長は、態度を一変させていています。
滝口記者は、「読売新聞後援のアジアシリーズ開催である。スポーツ紙によれば、渡辺会長は「オレの生きている間は12球団2リーグで行くんだよ」と話したという。当面はもちろん2リーグ制だろう。しかし、将来的にはまたも球界再編の動きが加速していくに違いない。その背後に「アジア」という大きな市場が広がっているのだ。」と結んでいます。
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アイスホッケー日本リーグは、プロ野球、サッカーに次ぐ日本で三番目、ウィンタースポーツでは最初の全国リーグとして1966年5チームで創設され、堤氏の西武鉄道も当初から加盟しています。1972年には、関西の福徳相互銀行が撤退したとき、堤氏は西武鉄道チームを分割し国土計画(現・コクド)チームを設立し、西武グループは2チーム体制となり、翌1973年、堤氏は日本アイスホッケー連盟会長に就任しています。ところが、2003年になると帝国崩壊の予兆させるように西武鉄道とコクドのアイスホッケー部はコクドに一本化され、堤氏自身も名誉会長に退いています。
2001年には、雪印が廃部となり、クラブチーム札幌ポラリスにチームが引き継がれますが、札幌ポラリスは運営資金不足などを理由に僅か1年で休部となり、2002年シーズンは28年ぶりに5チームでのリーグとなっていました。それが、西武のコクドチーム一本化により2003年のシーズンから4チーム体制となり、このじり貧体制を打開するために考案されたのがアジアリーグです。これはまさに、滝口記者がプロ野球ビジネスの有力関係者から聞いた話とまさに同じです。
アイスホッケーとプロ野球の動きの類似性を指摘した「たかぼーさんのゆるフォトブログ」」を見つけました。それによるとパ・リーグに先行して、アイスホッケーの日本リーグでも、プレーオフが行われ、ルールもパ・リーグとほとんど変わらないということです。
・2位と3位が3戦2勝で1位への挑戦権を得る
・1位と2位は5戦3勝で優勝決定
ただ、wikipediaで調べると、アイスホッケー日本リーグでプレーオフが始まったのは、1990年で、6チーム体制のときでした。このときは上記と同じ方式でしたが、1994-1995年、1995-1996年の2シーズンは前後期の2シーズン制がとられ、1996-1997年のシーズンから2001-2002年のシーズンは、1シーズン制に戻すとともに、上位4チームに出場枠を変更し、1位と4位、2位と3位が準決勝を行い、その勝者同士で決勝戦を行う仕組みでした。
これなら、1位のゲーム待ちの弊害は解消されるでしょうが、Bクラスのチームもプレーオフに参加できるわけで、これではリーグ戦の意味は何か、とうことになってしまいます。うーむ。
でも、チーム数が減り、5チーム体制になった2002年が上記のブログにでていたパ・リーグと同じ上位3チームによる下位からの勝ち上がり方式となり、4チームとなった2003年は、前後期の2シーズン制に戻っています。
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毎日新聞の滝口隆司記者が10月28日発行の「SPORTS ADVANTAGE」で「アジアシリーズが意味するものは?」と題し、巨人=読売主導のアジアシリーズが球界再編と「アジア」という巨大市場を睨んだものであることを書いています。一部抜粋すると
数年前、プロ野球のビジネスに深くかかわる有力関係者からこんな話を聞かされたことがある。「日本はいずれ12球団から8球団となる。経営体力のない弱小球団は排除されていくだろう。これに韓国、台湾、中国を巻き込んでのアジアン・リーグを創設しようという動きがある。メジャーリーグと比較した場合、時差や移動距離を考えても無理な話ではない」その人物は排除される球団名も挙げ、この構想が野球界の新たなビジネスとなり、市場開拓につながっていくだろうと自信ありげに話した。昨年のプロ野球再編問題で1リーグ制移行の話が浮上した時、私はこの人物とのやりとりを真っ先に思い浮かべた。takiguchi_index.html へのリンク
とあります。その有力関係者なる人物が誰かは知りませんが、韓国、中国を巻き込んだアジアン・リーグでまず、思い浮かぶのアイスホッケーです。アイスホッケーも企業チームの撤退が相次ぎ、日本国内だけではリーグが組めないため、2004-2005年のシーズンには日本、韓国、中国、ロシア極東の4カ国8チームによるアジアリーグが行われています。(2005-2006年は、ロシアが撤退したが、新たに韓国のチームと中国北京に本拠を置く北欧選手による「ノルディック・バイキングス」が参加)main.shtml へのリンク
アイスホッケーといえば、西武ライオンズの堤義明元オーナーが大きな影響力を持っていました。堤氏が、スポーツ界に関わるきっかけになったアイスホッケーチームの所有と日本リーグの創設について、堤氏自身次のように語っています。
「アイスホッケーならスポーツ競技だ。スキー、スケートの国土計画(コクドの前身)としては企業イメージに合う。軽井沢の分譲にもいいかな、とも考えました。それもうち1社ではなく西武グループのものとして”東京西武”とした。これで百貨店の購買力にも結びつくことが期待できるわけです。強化にために経費もかけます。しかし、企業宣伝費と考えれば安いものですよ。新聞に社名が出たり、テレビで放送されたりする。これはたいへんな広告です。経費がいくらかかるといっても宣伝費の100分の1でおとせますよ」
これは谷口源太郎氏の「スポーツの支配者たち 巨人帝国崩壊」(花伝社)第二部「スポーツに賭けた堤義明の野望と挫折」のなかにでてくるものですが、谷口氏はさらに堤氏について「堤は、アイスホッケーを企業スポーツと捉えるだけでなく、グループのレジャー・リゾート事業の利益に直結させることを企図していた。日本経済のむちゃくちゃな高度成長やバブルなどを背景にして堤は、軽井沢をはじめ全国各地に次々とスキー場、ゴルフ場、ホテルなど建設していった。その数は160カ所に及んだ。」と続けています。
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日刊スポーツから10月21日~28日の出来事です。一部編集はしてあります。
10月21日、千葉市内のホテルで実行委員会が行われ、楽天本社が横浜球団のオーナー企業であるTBS株を大量取得した件で、楽天をのぞく11球団が現状が野球協約183条に違反するという見解を出した。楽天は同条の注釈を持ち出し、正当性を主張したが、確信犯でありペナルティーをという意見も出るなど、孤立した形となった。
次回オーナー会議でも現状が協約違反と認識されれば、コミッショナーが何らかの指示を出す可能性が高い。ただ、問題の183条も条文はあいまいで、フジテレビはヤクルト球団の株式を有し、フジテレビの子会社のニッポン放送が横浜球団の株式を持つ現状もある。楽天の主張通りと解釈することもできる。根来コミッショナーは「こういう問題を含め協約には問題がある。現協約には法的効果を伴う部分と紳士協定のところがある。法的効果を伴うよう改正した方がいい」と、根本的な問題解決にも乗り出す考えを示した。p-bb-tp0-051022-0018.html へのリンク
同実行委員会では、村上ファンドによる阪神の株式取得問題が、オリックスにも飛び火した。巨人清武英利球団代表が、オリックスが村上ファンドに出資している関係において、オリックス、阪神2球団を間接支配していることを示唆した発言を行った。「村上ファンドに影響力を及ぼしているのは、例えばオリックスでしょう。MACアセットマネジメントの株式を45%持っていて、それが、今回阪神電鉄の株式を持っている」。11月4日の次回オーナー会議では、議長役のオリックス宮内オーナーから説明を求める。楽天、横浜の問題だけでなく、株取得による複雑な相関図が浮き彫りになって、球界はさらにうごめきそうだ。p-bb-tp0-051022-0019.html へのリンク
巨人渡辺恒雄球団会長が10月24日、都内で取材に応じ、ライブドア堀江貴文社長による広島球団買収への動きをけん制した。「ホリエモンは乗っ取りに必死。選挙の絡みだ。背後にいるのは幹事長、武部だよ」と、衆院選で広島6区から出馬して落選した同社長と自民党の武部幹事長との関係に踏み込んで言及した。一方、オリックスが阪神電鉄の筆頭株主である村上ファンドに出資している問題について、関係を解消しない場合には、球団支配権抹消といった強行措置の構えを見せた。楽天がTBSの筆頭株主になったことを「大抵触だよ」と批判し、間髪入れずに「村上ファンドの株式の45%は宮内さんが持っている」と矛先をオリックスにも向け、「ハゲタカリーグと反ハゲタカリーグの2つに割るしかないね」と語気を強めた。p-bb-tp0-051025-0009.html へのリンク
巨人渡辺恒雄球団会長が10月25日、楽天が横浜の親会社であるTBSの筆頭株主になり、実行委員会で11球団から野球協約違反という見解が出ている問題について「だから楽天は横浜の売り先を見つけているわけだ。そこに売ろうと思っているから。(野球協約に反する)二重支配にならないと思っているから」と語り、微妙な言い回しながら売却の可能性を否定しなかった。しかし同会長は「完全にTBSを抑えた場合の話だろう。TBSを抑えてもないのに、横浜をどこかに売るというのは失礼じゃないか」と語気を強め、楽天がTBSに提案している経営統合の動き次第であることを強調した。p-bb-tp0-051026-0015.html へのリンク
オリックスの宮内義彦オーナーが反撃に出た。10月28日、政府の規制改革・民間開放推進会議の議長として記者会見。村上ファンドが阪神電鉄株などを大量取得したことに関連し、巨人の渡辺恒雄球団会長が「背後に宮内さんがいる」と指摘したことについて「全く事実無根」と否定した。村上ファンドとの関係について「(オリックスは)たくさんのファンドに運用をお願いしている。その1つが村上さんのファンド」と資金運用先の1つにすぎないと説明。その上で「ファンドマネジャーの独立性が確保されなければお金を預ける人はいない。誰かが後ろで操っていたらファンドは成り立たない。金融の世界、ファンドの実態をご存じない方の話だ」と不快感を示した。p-bb-tp0-051029-0010.html へのリンク
阪神星野SDが10月28日に更新した自身のホームページ上で、日本シリーズ惨敗の要因として村上ファンド問題を批判した。「わたしの胸のなかで今も一番ブスブスと、一番ムカムカとして納まりつかないでいるのがやはり『村上ファンド』の問題だ」。選手たちが本社、チームの今後を不安視していた話を紹介し「ドスを横っ腹に突きつけられているような阪神の今の事態と、このシリーズでの惨敗とは全くの無関係だったろうか」と指摘した。p-bb-tp0-051029-0007.html へのリンク
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TBS株を大量取得した楽天の三木谷浩史社長が、TBS傘下のプロ野球球団「横浜ベイスターズ」について、複数の政財界関係者に「既に売却先を見つけた」と話していることが18日、分かった。(10/19毎日)
これに対し、横浜の峰岸進社長は19日、「まだ売ると決まっていないのに、そういう話をするのは常識では考えられない。あらゆることで順番が違っている」と声を荒らげた。さらに、「協約違反を承知でいらした方(楽天)が売却するんじゃないですか。ルールや世間的常識は、そうじゃないですか」と話し、楽天側が球団を売却するのが筋との見解を示した。(10/19報知)
横浜の若林オーナーも「球団を単純に手放すとか、軽く見ないで欲しい。アメリカはオーナーが球団を高く売る文化がある。しかしアメリカと日本は違う。野球でボロもうけ、以前の問題。IT企業の方はスピード、サイクルとよく言うが、メーカーとも違う。楽天さんも何年か(球団経営を)やっていけば分かるはず」と反論。(10/20日刊)
三木谷さんが見つけた横浜球団の売却先といわれる有線放送最大手、USENの宇野康秀社長は20日、一連の報道は否定したが「プロ野球は(動画配信事業の)視聴者獲得に有力なコンテンツ。放映の自由度を高めるために横浜ベイスターズと資本関係や経営に近い環境を構築できればいいと一方的に思っている」と語り、横浜球団への資本参加を前向きに検討していることを表明した。(10/20日経)
楽天幹部が19日、横浜球団売却の可能性を暗に示した。TBSとの経営統合実現が大前提と前置きした上で「今のルールでは楽天か横浜の売却、両者の合併と3つの選択肢しかない。新球団の楽天は売らない、球団数縮小につながる合併もない。そうなれば、横浜の身売りもあるということ」と話した。(10/20日刊)
巨人の渡辺恒雄球団会長が19日、「三木谷氏は横浜をどこかに売却するでしょう、楽天は売らないけど。合併もあり得ない」と発言した。同会長がこの日、ニッポン放送の番組に出演し、楽天がTBSの筆頭株主になったことについて持論を語ったもので、問題部分は放送上はカットされた。(10/19日刊)
ところが、翌日巨人の渡辺恒雄球団会長は、この問題に対し「横浜は売るって決めたわけじゃないだろう。TBSが売ってないじゃないか」と語った。さらに同会長は「TBSが横浜を売るなんて話はないよ」と否定し、今年中の売却の可能性についても「そんなわけにはいかんだろうな」とした。(10/20共同)
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報知新聞によれば、横浜市の中田市長が、楽天がTBSの筆頭株主になったことで、横浜ベイスターズの球団身売りが取りざたされている問題について、18日「横浜から球団をなくすのはプロ野球界にとってプラスにはならない」と話し、横浜から球団が撤退することのないようクギを刺した、という。
さらに、「チーム名に企業名が入らないのはベイスターズの特徴。TBSはその部分も理解してくれているし、申し分ない(オーナー企業)」と、現状ではTBSによる球団保有がベストとの考えを表明した中田市長。楽天の三木谷浩史社長(40)とは同い年で、2年前に経済界の知人を通じて親交があるという。「三木谷さんは純粋にビジネスのことを考えていると思うが、いよいよ(売却が避けられない)となったら、『あなたも球団のオーナーなら、球団を粗末にしないでくれ』ということは言うつもり。僕にできることは全部やる」と問題解決にひと肌脱ぐ覚悟を示した、ということである。
なぜ、横浜ベイスターズの売却話が出たのかといえば、球団の赤字が続いているからにほかならない。TBSが、球団を保有するまでは、黒字か収支トントンの状態であったが、ここ3年ばかり、赤字が続き、特に今年は、観客動員が100万人を割り、15億円の赤字だという。こういった状況のため、村上世彰氏からは、「売っちまえ」といわれるのだ。
ところが、ベイスターズの赤字の原因のひとつに、横浜スタジアムによる搾取といった構造的な問題を抱えていた。この点について、あの有名な小林至氏の宝島社からでた「合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!」から見てみよう。小林氏は、横浜ベイスターズと横浜スタジアムの関係について、次のように指摘している。
スタジアムは、場内の広告からの売上、売店からのテナント料はほとんどすべて、そしてチケット代の25.5%を持っていく。この結果、横浜スタジアムは、大洋ホエールズが移転した1978年度から黒字経営を続け、優勝した1998年には売上50億円、当期利益13億円を叩き出している。そして観客動員に苦しむ現在でも、当期利益5億円以上を確保している。さらに特筆すべきは、長期負債のない、つまり、無借金経営であることで、まさにその経営は盤石である。
いっぽう、横浜ベイスターズの経営は楽ではない。未確認情報だが、ここ数年は赤字転落したという話も伝わってきている。スタジアム内の広告看板にしても、売店のテナント料ししても、横浜ベイスターズあってのものであることは明白であるのに、市の主張は、1民間企業に便宜を図るわけにはいかない、で一貫していたという。ならば、企業名の「大洋」を取り、横浜ベイスターズとしてみたが、それでも駄目。そして迎えた1998年、38年ぶりに日本一になったこの年は、地下街に大魔神神社が出来るなど、横浜市を挙げての大変な盛り上がりになった。球場の利益も他の年を大きく凌駕する数字となった。
球団は、同じ年に神奈川県で行われた「ゆめ国体」を引き合いに出して、これだけ市を挙げて盛り上がったのだから、横浜ベイスターズにも認めてくれてもいいのでは、と主張した。具体的に、国体にスポーツ振興の名の下に何千億円もかけているのであれば、ベイスターズに対しても、せめて球場使用料を減免する措置を取ってくれないかと頼んだのである。しかし、答えはノー。(中略)
私が横浜球団なら、とうの昔に移転の決断を下していたと思う。もっとも契約などでいろいろな縛りがあって動けなかったのだろうか。2002年にマルハから球団を引き継いだTBSは、球団単体では商売にならないこの契約形態を承知しておらず、買った後で、頭を抱えているという。だが、すでに契約されている条件をおいそれと変更するわけにいかない。横浜スタジアムは儲かっているが、横浜市そして神奈川県は、共に財政は火の車である。以上のことを勘案すると、これはまったく私の推測だが、ごく近い将来、ベイスターズ球団に大きな変化が起こる。そんな予感がする。
以上、小林至著「合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!」2004年12月31日(宝島社)より
あたかも、小林氏が初めて指摘したような書き方だが、横浜スタジアムの実態については、当コラム「wind№77、79」で既に2002年に指摘している。それに、ゆめ国体の話は、wind№77でも述べているように、「スポーツの今日(いま)を刻む」(杉山茂・岡崎満義+スポーツデザイン研究所編 創文企画)に書かれている内容とまったく同じである。また、中田横浜市長にしても、私が懸念したとおり、都市経営といいながら、やはり、何も分かっていなかった。
№77 (2002/4/23) 新横浜市長と都市経営とプロ野球と
№79 (2002/4/25) ハマスタの正体
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阪神電鉄の株式を約40%を握り、TBSの株式の7.45%(9月末現在)を保有していることが分かった村上ファンドの村上世彰氏は、阪神球団については「強い愛着を感じています」といい、株式公開を提案しながら、TBSが保有する横浜球団については儲からないからと売却を提案していたという。
「(球団保有のために)何十億円もの資金を寝かせておく必要はない」「放映権を10年でも20年でも球団と結べばいいのであって、なんでチームを保有しなければならないのか」「(放映権獲得という)テレビ事業のコンテンツを増やすために、何十億も(かけるなんて)。要するに金余り状態なんです。ベイスターズがどれだけのリターンを生んでいるのか」(10.15報知新聞)
「阪神タイガースという球団名称、ホームグラウンドである甲子園球場、縦縞(ジマ)のユニホームのすべての面について強い愛着を感じています。阪神経営陣がこの偉大な球団とブランドの価値を、ファンの皆さまや選手の理解を得ながら、さらに高めてくれるものと期待しています」(村上ファンドのHP)
タイガース・ファンといいながら、結局、プロ野球を金儲けの手段にしかみていないことが明らかである。阪神球団の株式公開についても、利益は村上ファンドに回るだけで、老朽化した甲子園球場の改修資金には回らず、結局は、企業価値の低下につながるだけだと、経営コンサルタントで帝京大学教授の大坪正則氏は指摘している。
以下は、10月15日に大坪氏の朝日新聞への寄稿である。
タイガースの上場は、それによる情報公開が球界の構造改革に大いに役立つと考える。しかし、村上市の主導による上場には反対だ。甲子園球場の全面改装が先延ばしになる恐れがあるからだ。
上場を正当化するためのポイントは、タイガースと阪神電鉄に資金調達の必要性があるのか△あるとして、上場と銀行融資のどちらが有利か△その上場は誰のためにあるのか、という点である。
タイガースのホーム球場の甲子園は、1924年の完成で、阪神大震災が老朽化に追い打ちをかけるなどして、その対策が緊急課題だ。全面改装のため、球団と電鉄は資金調達が必要なはずである。
電鉄の連結決算では、売り上げが約3千億円。優良資産を保有しているので、200億円~300億円の階層資金を銀行から借りるのはそれほど難しいことではない。しかし、電鉄首脳はこれまでそれをしぶってきた。銀行借入が電鉄の財務内容を劣化させることを避けたかったのだろう。銀行融資を躊躇するのであれば、上場でその階層資金を賄う策は検討に値する。
とはいえ、村上氏が電鉄の株40%近くを握ったいま、それは彼が将来的なタイガースの株も相当掌握したことを意味する。その彼が得るキャピタルゲイン(株式売却)は改装資金にはまず回ってこないだろう。仮に上場で200億円~300億円の利益が生じても、彼がえる部分は電鉄は別途、銀行融資などで埋めざるを得ない。
甲子園球場は電鉄の所有物であっても、春・夏の全国高校野球の舞台になるなど一種の国民的財産と化している。せっかく上場で生み出される資金の相当部分がいわゆる村上ファンドに移転してしまえば、甲子園球場の老朽化対策に使われないことになってしまう。今回の買収劇と村上氏主導による上場の最大の欠点がここにある。
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プレーオフ第5戦、高視聴率-テレ東にはファン感謝の声(10/18 日刊スポーツ)
ロッテが優勝を決めたプロ野球パ・リーグのプレーオフ第2ステージ第5戦で、テレビ東京系の中継の視聴率は関東地区で17・0%、関西でも15・2%と高水準だったことが18日、ビデオリサーチの調査で分かった。北部九州は36・7%と同地区での今季野球中継の最高を更新した。
プレーオフ各試合は地元・福岡では民放各局が放送したが、全国生中継はテレビ東京系の第2ステージ第4、5戦だけで、同局にはファンから「よく放送してくれた」と感謝の電話やメールが数百件寄せられた。
昨季始まったプレーオフだが、昨年5試合を全国中継したテレビ朝日系の視聴率は関東で10%前後と苦戦。今季は巨人戦ナイターの平均視聴率が関東で10・2%と低迷したこともあり、他局は「日本シリーズと違い、全国ネットワークに乗せるほどのニーズはない」(在京キー局幹部)と中継を控えていた。
テレビ東京は「巨人の成績は悪かったが、プロ野球全体の人気が落ちているわけではないということを証明できた」と話している。
幕張ボールパーク化構想弾み/プレーオフ(10/18 日刊スポーツ)
92年に本拠地を川崎から千葉マリンに移転して13年。「千葉ロッテマリーンズ」が地元に密着したことが、今年の快進撃につながった。91年7月のオーナー会議で移転が了承された際、重光オーナー代行は「プロ野球ファンの底辺拡大に寄与したい。地元に歓迎される新しい球団をつくる」と球団、現場を含め大刷新する考えを示した。地元と一体となる努力は当時から、今も続けられている。
幕張新都心というビジネス街の性質と、新築マンションが立ち並ぶ新興住宅地という2つの側面を併せ持つ街。シーズン中もバレンタイン監督、西岡らがビル街に出向き「試合を見に来てください」と直接、訴えた。幕張の住宅地には球団幹部が出向き、応援しやすい環境づくりを協議。地元自治体による応援組織「ベイタウン・マリーンズ・クラブ」も今年、発足した。「野球の城下町」を目標に掲げてきた。
単なるプロ野球の行われる球場からの脱却も目指している。千葉市は9月に千葉マリンスタジアムの管理、運営を民間に託す「指定管理者制度」を適用させることを明らかにした。その候補にロッテ球団と現在、同球場を運営している千葉市の第3セクター、千葉マリンスタジアムの2社を挙げた。ロッテは今季、積極的に県、市、マリンスタジアム社に対し協力要請し、敷地内での屋台の出店、外野フェンスの広告など、さまざまな改革を行ってきた。
球団が指定管理者になればプロ野球、Jリーグを含めた適用第1号となる。自治体と一心同体となったプロ野球文化の定着。ロッテは球場を含めてボールパーク化構想を持っている。31年ぶりの優勝は、その過程に弾みをつけることだろう。【栗原弘明】
指定管理者制度 参考サイト
sports.html へのリンク mano1_1.html へのリンク へのリンク
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グーテンベルグが発明した「活版印刷技術」は、15世紀のルネサンス、16世紀の宗教改革、17世紀の科学革命へと続き、18世紀の啓蒙主義の時代を経て近代へとヨーロッパそして世界を導いていくことになる。
ところで、宗教改革で近代に与えた影響は、ルターよりもカルヴァンの方が大きかった。16世紀に資本主義が発生したのは、イングランド、北フランス、ネーデルランド、ニューイングランドであったが、これらはカルヴァン派が盛んだった地域である。
カルヴァンの教義は、福音主義(聖書を信仰の基礎に置く)と信仰義認説(人は信仰によってのみ救われる)に立っているが、かれの教義の中心となっているのが「予定説」である。
「予定説」では、魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められているが、人は信仰によって「自分は救われる」と確信することが出来ると説かれた。また救済の確証を得るために、人は禁欲的な生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべしと説き、勤労の結果得られる富の蓄積は信仰上正しいと説いた。このためカルヴァンの教えは、当時勃興しつつあった市民階級(商工業者)に支持されて普及し、資本主義の発展に大きな影響を与えた。
カルヴァン派は各地に広まり、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれ、その勢力はルター派をしのぐようになり、ルター派以上に大きな影響を残した。
参考サイト
kougi-60.html へのリンク 12-kaikaku2.html へのリンク
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岡田監督が私見「理想は1リーグ」(10月15日デイリースポーツ)
阪神・岡田彰布監督(47)が、再編の動きが見え隠れする球界についての持論を展開。改めて“8球団での1リーグ制”移行を理想とする私見を述べた。
「前から言うてるように、減らさんと成り立たへん。1リーグじゃないとできへんわな」昨オフの激動を乗り越え、今季も12球団を維持したものの「表面上だけでやってるから、1年でこんなことになったんや」と抜本的な改革ではなかったと振り返る。「自分のところだけではしんどい球団が、いくつもあるわけやから」という現状を指摘した。
阪神球団としてのスタンスは「12球団維持」で変わらない。1リーグ制への移行には、真っ向から反対の立場を取っている。岡田監督の発言について牧田社長は「経営レベルとチームとは違う。そういう意味では個人的な感想だろうと思う。球団としてはそんなこと(合併など)はあり得ない」と、あくまで私見としてとらえた。
「オレが(労組の)選手会長をやってるころから、8球団にする話が出てた」と同監督。球界の流れを見続けてきた、一人の野球人としての言葉だった。
落合監督、村上氏に苦言「上場できない」(10月16日日刊スポーツ)
中日落合博満監督(51)が15日、秋季練習が行なわれたナゴヤ球場で、球界を揺らす株取得問題に言及。阪神電鉄の筆頭株主となり、阪神球団の株式上場や、野球協約の改定を提言している通称村上ファンドを率いる村上世彰氏(46)らに苦言を呈した。
落合監督「第3者の彼らは球界のことを知らないだろう? 本社の買収は商法でできる。だが野球界には協約という憲法がある。(球団の株式)上場は(簡単には)できないんだ。それに対して協約がおかしいと言うのは外国からやってきた人が日本国憲法を変えろと言うのと同じ。(TBSの株を取得した)楽天だって協約違反だよ」。
阪神への援護射撃とも取れるが、同時に村上氏側から要求されている上場是非のファンアンケートで対応に苦慮する阪神側についても、厳しく話した。落合監督「ナンセンス。なんで球界のことを知らない人の言うことを聞かなきゃいけないの? 本社が買収されたって、球団が買収されるわけじゃない。経営陣が変わればそれに従うだけ。毅然(きぜん)としていればいいんだ」。
昨年の球界再編問題では2リーグ制の維持を主張した落合監督。今回は本社買収という新たな手法で球界再編の波が押し寄せようとしている。「オレは保守的だなあ」とした上で「個人的な願いを言えばこれから何十年、何百年と2リーグ制を維持してほしい。それが伝統だ」と話した。
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プロ野球を含めプロスポーツの興行形態は、リーグ戦です。チームスポーツの競技形態には、基本的に総当たり戦と勝ち抜き戦がありますが、プロスポーツの場合、経営上、リーグ戦が主で、勝ち抜き戦は補完的なものとなります。負けたら後がない勝ち抜き戦は、選手への投資にリスクが大きすぎ、プロ興業では、ビジネスというより博打になってしまいます。
ですから、プロスポーツビジネスは、リーグ戦興行が基本となり、リーグ戦興行体となります。リーグ戦興行体では、個々の球団は、グラウンドではライバルですが、ビジネスではパートナーとなります。そもそも、プロスポーツでは、1社(球団)だけでは、商品である試合を生産することができません。商品である試合は、2社(球団)が対戦することによって生産されます。まさに、プロスポーツビジネスは特殊な産業として位置づけられます。とすれば、ビジネスモデルも特殊なものになります。
リーグ戦興行体という特殊なビジネスモデルでは、個々の球団(会社)の経営者は、オーナーシップだけでなく、他の球団(会社)とのパートナーシップも求められます。
ところがカイシャ・フランチャイズという日本独自のビジネスモデルでは、オーナー企業同士の合併や企業統合によりパラドックスが発生します。1社(球団)だけでは、商品を生産できないという、プロスポーツ(ただし、チームボールゲーム)のドグマは、逆にいえば一の経営者が二つの球団を経営することができないということです。ところが、カイシャフランチャイズ・モデルでは、オーナー企業同士の合併や企業統合がおこれば、どちらかの球団の存続を危うくなるというものであり、リーグ戦興行体という存在すら危うくなってしまいます。
もし楽天のTBS株の買収が、交流戦のまっただ中で行われたとしたら、どうなるでしょうか。横浜球団だけでなく、公式戦、しいてはプロ野球自体の存続さえ危うくなってしまいます。これは、明らかにパートナーシップ違反です。株式の世界では許されても、プロスポーツビジネスの世界では、許されないことです。三木谷オーナーは、軽くてオーナー資格の停止又は剥奪、罰金といった処分が課せられるべきです。このことを感じているのか、三木谷氏は、さかんに拡大ドラフトがおこなわれなかったのに球界に参入したことを盛んに強調しています
もともと、NPBには、パートナーシップなどないのであるから、パートナーシップ違反などにならない、責任は負わない、という論拠です。
番外編
小泉流球界改革 反対派球団に刺客、続々
昨年、1リーグ制を否決された○○議長は、反対派に対し、次々と刺客を放った。急先鋒の阪神には、エースのとっちゃん坊やを放ち、横浜TBSには、絡めてからミキティを送る。また、広島には、本物の刺客ホリエモンを放つ準備をしていることが判明。ホリエモンは無所属。
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【村上ファンドの動き】村上世彰氏が率いる投資会社(村上ファンド)が今年9月末時点で、TBS株式の7・45%を保有していたことが、同ファンドが14日に関東財務局に提出した大量保有報告書で明らかになった。7月の報告書には記載がなく、3カ月間で約2・5%以上を買い進めたことになる。村上世彰氏は14日、共同通信などとのインタビューで、保有するTBS株について「株価次第では売却するのは当然だ」と述べ、TBSの筆頭株主となり経営統合を申し入れた楽天など第三者への売却の可能性を示唆した。TBSの買収防衛策に関しては「ひどい内容だが、法廷闘争は難しい」と述べ、差し止め請求などを行う意思のないことを明らかにした。
【TBSの対応】楽天によるTBS株の15%超の大量取得を受け、TBSが友好的な大株主や地方系列局に対し、株の継続保有と買い増しを要請していることが14日、分かった。要請は「安定株主」を手厚くし、楽天などが追加取得する余地を狭める狙いだ。要請先は同社に関連の深いメーカーなど企業数十社と全国の27の系列局。一部は既に、要請に応じたもようだ。また今後の対応を検討するため、買収防衛策の発動の是非を決定する第三者機関「企業価値評価特別委員会」の7人の委員に今回の経緯を説明し、楽天のTBS株取得や経営統合の妥当性などについて、個別に助言を求める方針だ。TBSは防衛策として、日興プリンシパル・インベストメンツに最大800億円規模の新株予約権を発行した。だが、実際に発動できるのは特定の買収者による株の保有割合が20%を超えた時と定めており、楽天の取得比率は今のところ発動条件を満たしていない。
【口出ししないはずの会長の口出し】巨人・渡辺恒雄球団会長(79)が13日、楽天のTBS株大量取得に絡み、新たな球界再編を“予告”した。今回の問題について「1つの法人が2つの球団を持つことは厳禁。三木谷君にも言ってある」と事前に接触したことを示唆。その上で球団の統廃合の可能性に「それを恐れている。オーナー会議の最大の議題」と打ち明けた。現時点で楽天ないし横浜球団の売却の可能性が浮上しているが、渡辺会長は「村上氏の背後に宮内さん(オリックスオーナー)がいる。そうするとオリックスと阪神はキャピタル(資本)が一緒だよな」と指摘。さらにライブドアの堀江社長が広島球団買収に動いているとし「財界、政界の大物がホリエモンを後押しして、カープを買わせようとしているからオレは怒ってるんだ。大阪と広島、それから東日本で、また例のような(再編)問題が起きちゃ、たまったもんじゃない」と語気を強めた。昨年は1リーグ制導入など球界再編で主導的な立場だったが「もう今回は責任取らんから。一切口出ししないし、表に出ない」と強調した。
【当の楽天・三木谷オーナー】三木谷オーナーは今後について「コミッショナー、オーナー会議と相談して検討しなければならない」と明言を避けたがTBSとの経営統合を優先すれば、楽天球団売却の可能性もあるが、25億円の預かり保証金を支払って新規参入したばかり。最低10年間の継続保有も確約しているだけに、TBSとの話し合いで横浜球団の方を売却する選択肢も存在する。三木谷社長は「先方(TBS)と相談する事項」と含みを持たせており、複数の構想が存在するようだ。
【横浜ベイスターズ】TBSは井上社長、城所取締役が午後9時半から緊急会見した。楽天との最初の接点については「プロ野球を一緒にやるということで面識を得た」と説明。また横浜球団については、城所取締役が「きょうの三木谷さんとの会談では何も話をしていない。TBSとしては三木谷さんが(球団を)2つ持てないからという理由で売るつもりはない」と球団を手放す考えがないと明言した。
【広島東洋カープ】プロ野球広島の松田元オーナーは14日、巨人の渡辺恒雄会長が13日にライブドア(堀江貴文社長)が広島の買収に動いていると発言し、一部で同様の報道があったことを受け「球団売却などあり得ない」と強い口調で否定した。同オーナーは「堀江社長と会ったことも、話をしたこともないし、一方的に出されている話。わけが分からないし、いい迷惑だ」と不快感を示した。2009年開場を目指す広島市民球場の建て替えで、7日に事業コンペ費など約1500万円を盛り込んだ予算が広島市議会で可決されたばかり。ライブドアが新球場を証券化し、買収資金を調達するとした報道に、同オーナーは「あまりにも広島の新球場や球団の事情を知らなすぎる。広島市が予算をつけて、公共事業として建設しようとしていることもリサーチしていないのではないか」と批判した。
【阪神タイガース】プロ野球阪神の牧田俊洋球団社長は14日、一部でオリックスと球団統合の可能性が報じられたことに「あり得ないというしかない。われわれとしたら何の根拠もない」と否定した。球界再編の動きが再燃するのではとの見方には「(2リーグ制維持の球団の方針は)これまでと変わっていない」と話した。巨人の渡辺恒雄球団会長が13日に「オリックスと阪神、キャピタル(資本)が一緒。二つの球団を持つことはできない」と発言したことが発端となったが、阪神の手塚昌利オーナーは広報を通じて「渡辺会長のご指摘については、具体的な内容が不明なのでコメントは控えさせていただきますが、統合の可能性については、全く考えられないことです」とコメントした。
【プロ野球選手会】労組日本プロ野球選手会の古田敦也会長(ヤクルト)は14日、阪神、横浜などのオーナー企業の株の取得が問題となっていることについて、「一番大事なのは、オーナー企業が変わるとしても球団をなくさないこと。そのために全力を尽くしてほしい」などと述べた。株の上場については、私見とした上で「去年の近鉄のようなことは起こり得る。(親会社が球団を)手放したいというときに買いたいところがあれば、オーナーチェンジが(より容易に)できる。そういうチャンスは残した方がいい」と容認する姿勢を示した。
【まだコミッショナーだった人】楽天イーグルスを所有している楽天が子会社を通じて横浜ベイスターズの親会社であるTBSの筆頭株主となったことに関し、根来泰周コミッショナーは14日、野球協約で縛ることができない親会社について「何らかの形で取り組むことが必要。野球協約とは別に協約的なものを結ぶことも必要だと思う」と述べた。野球協約は公正な試合確保のために第183条の(他球団の株式所有)で一企業体が複数の球団の株式を所有、あるいは経営に関与することは原則的に禁じられており、今回の楽天、TBS問題は21日の実行委員会や11月4日のオーナー会議で協議される。根来コミッショナーは「野球協約に沿う形で解決策を考えてほしい」と要望した。また阪神タイガースの親会社である阪神電鉄の筆頭株主となった村上ファンドがTBSなど球団の親会社の株式を保有しているとされることについても触れ、「看過できない由々しき問題。十分討論してもらいたい」と語った。
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インターネット商店街最大手の楽天は13日、民放キー局のTBSに対し、共同持ち株会社の設立による経営統合を提案した、と発表した。楽天のネット運営のノウハウとTBSが持つ番組などのコンテンツ(情報内容)を組み合わせ、ネットと放送の融合による高収益の企業グループ構築が狙いとみられる。楽天の三木谷浩史社長は会見で、TBSの発行済み株式の15.46%(2938万株)を約880億円で取得し筆頭株主となったことも明らかにした。(毎日新聞)20051014k0000m020023000c.html へのリンク
野球協約は、公正な試合を確保する目的で第183条に「球団、オーナー、事実上の支配権を有するとみなされる株主は直接間接を問わず他の球団の株式を所有することはできない」などと、特定球団の親会社が同時に二つの球団にかかわることを禁じている。楽天が横浜ベイスターズのオーナー企業であるTBS株を大量保有したことが、この条文に抵触すると指摘されている。しかし、条文には「他の球団の間接所有については、他の球団との利害関係が客観的に認められないと実行委員会およびオーナー会議が判断した場合は、この限りでない」とも規定しており、NPB側の解釈が注目される。(毎日新聞) 20051014k0000m050104000c.html へのリンク
※ 経営統合となれば、もちろん、183条に抵触するでしょう。ただ、現段階では抵触するとはいえないでしょう。楽天としても、プロ野球の参入にあたっては、長期保有を表明していたはずであり、統合すれば、どちらかの球団を手放さなければならないことは分かっている筈であり、信義則に反する。ただし、球団問題を除けば、統合は面白いかもしれない。
※ 村上ファンドの7%については、明日(14日)明らかになるそうだ。村上ファンドの株を楽天に売って15%になったのか。それとも、楽天とは別に7%を保有しているのか。そもそも、村上ファンドと楽天は関係がある。
ということで、「オーナー会議では、阪神タイガースの親会社である阪神電鉄株を約40%保有し、今回TBS株を約7%取得したとされる村上ファンドの問題、ヤクルト株を直接保有し、横浜球団株を保有するニッポン放送株を持っているフジテレビの問題も協議される見通し」(毎日新聞)だそうだ。
※ ニッポン放送が、フジテレビの完全子会社になったことで、ニッポン放送のベイスターズ株も問題になってくる。ということは、ベイスターズの株主がいなくなる、てか。
巨人の渡辺恒雄会長は13日、楽天とTBSの共同持ち株会社が設立された場合について「野球協約では一つの法人が二つの球団を持つことは厳禁されている」と述べ、共同持ち株会社が楽天と横浜の2球団を保有することになるのは野球協約違反との考えを示した。楽天の三木谷浩史オーナーから事前に相談があったかについては「二人だけの話だから」と言葉を濁したが、「一法人が二つの球団を持てないことは三木谷君もよく知っている」と話した。(毎日新聞)20051014k0000m050122000c.html へのリンク
※ こういうときには、必ず吠える某球団の会長だが、事前に相談があったことは否定しなかった。
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宗教改革の時代、ルターやウィクリフがドイツ語や英語の聖書を出版し、聖書に基づく神と人の直接の関係を説き、教会と対立したのは、カトリック教会の力の源泉である「知識の独占」、「教会および聖職者の神秘性」を脅かすこととなった。
この宗教改革にも大きな影響を与えたのが1423年フィレンツェの東西公会議とグーテンベルクの活版印刷の発明(1440年頃)であった。
1423年のメディチ家の招待で行われたフィレンツェの「東西公会議」は当時のヨーロッパ世界に“計り知れぬほど大きな衝撃”を与えた。それは、ギリシア語で書かれた膨大なギリシア古典の文献・資料類が「東西公会議」へ参加したビザンツ会議一行とともにフィレンツェ(ヨーロッパ)へ怒涛のごとく流入したからである。それが、やがて、フィレンツェに始まるイタリア・ルネサンスを導く導火線となった。
更に、1440年頃、ドイツのグーテンベルグが発明した「活版印刷技術」がこの知的興奮の坩堝と化していたフィレンツェにもたらされ、火に油を注ぐ。1480年には、グーテンベルグの活版印刷技術を導入してイタリアで最初の印刷本『十五世紀有名人列伝』を出版され、これが契機に、瞬く間に印刷術がヨーロッパ中に広がり始めた。
豪華本や愛蔵本もさることながら、ギリシア語やラテン語の古写本の活版印刷化が急速に広がり始めると、ヨーロッパの学者や聖職者たちは望みさえすれば、いつでもギリシア語で聖書やキリスト教の研究書を読むことができるようになった。
やがて、フィレンツェを中心地としたギリシア語による古典文献の研究が進むにつれて、従来のラテン語聖書の定訳に含まれるおびただしいい数の誤訳が発見・指摘されるようになった。しかも、これらの誤訳の中には「ローマ・カトリック教会にとって都合がよい意図的な意訳」が含まれていたことが明らかになってくる。
このため、ヨーロッパの人々の信仰の原点である「ローマ・カトリック教会の聖書解釈」に対する信頼が音を立てて崩れ始め、カトリック教会とローマ教皇の権威も大きくぐらつき始めた。いわば、イタリア・ルネサンスを準備した「知の精密化」によって、ローマ教会の「正統とカトリシズム(普遍性)」が崩壊し始めたのであった。やがて、この出来事は、全ヨーロッパに隈なく拡大し、それが「宗教改革」の起爆剤を準備することとなった。
16世紀に入ると「人は 信仰によってのみ救われるのであり、信仰のよりどころは聖書である」と言う有名な言葉を生んだマルティン・ルターが登場、従来ラテン語であった聖書をドイツ語に翻訳し、幅広い層の読者を急激に増やし、印刷技術が社会の上層部だけではなく広く一般的な技術となる突破口を開いたのだ。そして、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教改革を精力的に推し進めることとなった。
参考サイト
20050504 へのリンク 17139.html へのリンク
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西ローマ帝国の後ろ盾を失い、周囲をゲルマンという蛮族に囲まれたローマ教会は、ゲルマンへの布教に力を注ぐことになる。ゲルマン人は、豊饒神、地母神、太母神といった異教の自然神を信仰していた。
急速な布教に熱心な初代教皇グレゴリウス1世は、異教の儀式をキリスト教の儀式として採用することにした。布教の初期、キリスト教はわりあい異教にも寛大であり、民衆の信仰と融合する方針であった。そのため、表面はキリスト教であっても、異教の神々は、根強く民衆の間に残った。
このため、民衆の間に呪術が生きていたので、民衆がキリスト教に引きつけられたのは、カトリック教会が行う呪術的な儀式(秘蹟)の魅力が大きく、「教会および聖職者の神秘性」に繋がっていった。
また、教会側も、聖書を教会の奥に隠し、信者には祈祷書を読ませ賛美歌を歌わせるだけであった。聖書もラテン語で書かれ民衆は読むことさえできなかった。結果としてそれは民衆がキリスト教の本質的な内容を理解できない「知識の独占」となった。
聖書が民衆の間で広く読まれるようになったのは、宗教改革が進み、聖書の各国語訳(ジェームス1世の英欽定訳、ルターによるドイツ語訳、カルヴァンのいとこによるフランス語訳)が出た後であった。
ところで、中世カトリック教会は、階層的秩序を整備した宗教的特権階級であるともに、各地に大土地を所有する領主として封建社会の中に組み込まれていた。そして秘蹟を介して民衆の冠婚葬祭をつかさどるなど、行政的な役割も担っていた。
参考文献
「資本主義のための革新」小室直樹著 日経BP
参考サイト
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古代アッシリア語で、日没転じて西を意味する「エレブ ereb」がギリシャに渡り、「エウロパEuropa」となり「ヨーロッパ」の語源となった。紀元前5世紀の古代ギリシアでは、地中海を囲むアジア、ヨーロッパ、リビア(アフリカ)の3大陸が認識されており、インドは東の果ての国で、中国はなかった。この地図世界は、ローマにも受け継がれた。地中海世界を支配したローマ帝国は、まさに世界帝国であった。
4世紀前半ローマ帝国は、キリスト教を公認するとともに、ローマからコンスタンチノープルに遷都、東方政策をとった。兵力も東に重点的に配備され、蛮族であったゲルマン民族の帝国内への流入が激しくなった4世紀後半ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は、実質的に切り捨てられた。ゲルマン民族により、5世紀西ローマ帝国は滅亡、古代は終わり、中世が始まる。
7世紀に興ったイスラム勢力により、古代ローマ時代からの地中海世界は崩壊、ヨーロッパは、イスラムに囲まれ、ヨーロッパ世界に封じ込められる。ヨーロッパ東部では東ローマ帝国を中心とした東ヨーロッパ世界が形成されていく。東ローマ帝国の基調は、ギリシア文化と東方正教(ギリシア正教)となり、ビザンツ帝国として15世紀まで続いた。
ヨーロッパ西部に成立したゲルマン民族の諸王国の多くは滅亡した西ローマ帝国に替わって東ローマ帝国の宗主権を仰ぎ、東ローマ皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。8世紀イスラム勢力の侵入からヨーロッパを守ったフランク王国による統一が進められ、800年カール大帝の西ローマ帝国復興によって、ローマ皇帝とローマ教皇による楕円ヨーロッパ=西ヨーロッパ世界が成立。
中世西ヨーロッパ世界は、世俗世界をゲルマンのローマ皇帝が支配し、精神世界をカトリックのローマ教皇が指導する構造となった。ゲルマンは世界帝国ローマの後裔として、西ヨーロッパ世界の世俗界の支配者としての正統性と正当性を担保された。
ゲルマンは、ローマ帝国というもはや架空に過ぎないフレームを継承することにより、蛮族ではなく、ローマ文化の後継者であり、ヨーロッパの一員であることを証明する必要があった。そして、その正統性と正当性は、ゲルマンのローマ支配によってのみ担保されると考えられた。
ゲルマンの皇帝は、フランク王国分裂後は、ドイツ王によって継承されてきた。それが、神聖ローマ帝国であった。中世ヨーロッパは、ドイツの皇帝とイタリアの教皇という二つの中心を持った楕円世界であったが、帝権と教権の衰退後、王権の伸張によって16~18世紀の近世絶対王政時代へと移行していった。だが、中世世界のレガシーとなった神聖ローマ帝国は、19世紀、近代の皇帝ナポレオンによって、史上から抹殺されるまで続いた。
参考文献
「世界史とヨーロッパ」岡崎勝世著 講談社現代新書
「神聖ローマ帝国」菊池良生著 講談社現代新書
参考サイト
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西フランク王国は、ゲルマンや先住のケルト人がローマ化した地域で、言語はローマの公用語だったラテン語がゲルマン語の影響を受けたロマンス語系(フランス語)の地域であった。ここでも10世紀後半にカロリング家は途絶えると、987年に西フランク王ロベール1世の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝が始まる。
カペー朝は、1328年まで14代の王を輩出し、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。つまり、フランス国王は、ヨーロッパの原型を創ったシャルルマーニュ(カール大帝)の子孫。また、フランスの語源は、フランク王国のフランクだ。
だが、カペー朝が成立した時点でフランスは各地に伯(コメス)と呼ばれる諸侯たちが割拠する典型的な封建社会で、国王はパリを中心とするイル・ド・フランスを抑えるのみで、王としての権威の他にはほとんど実効的な権力をもたなかった。
しかし、12世紀前半のルイ6世の時代から王権の強化が始まり、同世紀末から13世紀前半にかけてのフィリップ2世とその子ルイ9世の時代に王権が諸侯・貴族を圧倒して国家統一を進め、官僚機構の萌芽がみられるようになる。国家統一は14世紀初頭のフィリップ4世の時代にほぼ完了し、三部会の創設、アナーニ事件による教会の抑制、テンプル騎士団の解散など様々な強硬政策を打ち出せるほどになっていた。
こうしてカペー朝は絶対主義への道筋を開いたが、フィリップ4世の死から14年後に男系の相続人が断絶し、ヴァロア朝に道を譲った。ヴァロア朝初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成され始め、戦争の結果イギリスの領土はカレーを除いてフランスから駆逐された。 王権が弱体であったカペー朝に比べ、ヴァロア朝は国王権力の強化への階段を登り始めた。
ルイ9世の第6子であるロベールの子がブルボン公を称し、ヴァロア家断絶の後を受けて、アントワーヌがナバーラ王位を得て、その子アンリ4世のときフランス王位を継承した。ルイ14世のとき絶対君主制を確立し、フランス革命で一時中断、復古王政ののち1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失った。
フランク王国分割後、小都市国家に分裂した北イタリアや諸侯が群雄割拠したドイツと異なり、フランスは、当初こそ封建社会の典型で王権は弱体であったが、次第に王権が強化され、いち早く封建勢力と市民勢力の均衡の上に、専制君主の絶対王政を確立し、16~18世紀の近世ヨーロッパの中心となった。
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ドイツが国民国家として統一されるのは、イタリアと同じく19世紀後半になってからだ。ドイツの辺境、即ち、ヨーロッパの辺境からドイツの強国が生まれた。
ドイツ北東部にフランク王国第2代皇帝ロタールのとき、東の辺境の防衛のため、ブランデンブルグ辺境伯領が今のベルリン一帯におかれた。12世紀にはいるとさらに東のバルト海沿岸部にあったバルト系のプロシアを、十字軍の遠征で誕生したドイツ騎士団がキリスト教の布教を兼ねた軍事的な植民活動を行い、プロシアはドイツ化し、プロイセンとなった。
プロイセンはその後、東西に分裂し、飛び地となった東プロイセン(西プロイセンはポーランド領)は、1618年、ベルリンを首都とするホーエンツォレルン家の「ブランデンブルク侯国」と同君連合後、統合され1701年プロイセン王国となる。東プロイセンは帝国外にあったため、神聖ローマ皇帝を世襲していたオーストリアのハプスブルグ家に王国として認められた。後に、ポーランド領となっていた西プロイセンも統合し、北ドイツの強国となる。
一方、初代神聖ローマ皇帝となったオットー1世のとき、マジャール人によって荒廃させられた帝国南東部の再建と防衛のために、辺境伯領(マルク)が設置され、その一つがオーストリア辺境伯領となった。1273年ハプスブルク家のルドルフがドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出されたとき、オーストリア大公領(1156年辺境伯領から格上げ)をボヘミアから奪い、以後、拠点としたハプスブルク家は、次第に勢力を拡大し、巨大な帝国を築き上げていった。
ハプスブルク家は一度神聖ローマ帝国の帝位を失うが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、1438年に再び帝位ついてからは完全に世襲化する。16世紀には、婚姻関係からハプスプルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国、ナポリ王国、ハンガリー王国、ボヘミア王国を継承し、皇帝カール5世のもとでヨーロッパの大領土を実現した。1804年、オーストリア帝国となる。
19世紀、オーストリア帝国とプロイセン王国はドイツ統一を争い、1866年の普墺戦争でプロイセンがオーストリアに勝利すると、ドイツ統一はプロイセン中心で進められた。1870年の普仏戦争でフランスに勝利すると、1871年プロイセン王がドイツ皇帝となった。
2005年9月25、アテネ・オリンピック金メダリストの野口みずきが、2時間20分の壁を破りアジア新で優勝したベルリン・マラソンのスタート地点となったのが、ドイツ統一の象徴となったブランデンブルグ門からであった。
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東フランク王国の地域は、多くのゲルマン民族が小部族単位で居住し、ローマ化されることなく、ゲルマン語系のドイツ語が話されていた。このため、カロリング朝の血統が絶えると、この地域はドイツと呼ばれ、小部族国家の乱立状態が特徴となった。この特徴は2006年FIFAワールドカップを開催する今日のドイツ「連邦」共和国でも見られる。
だが、当時、ドイツはヨーロッパの東の辺境に位置し、異民族(マジャール人など)の侵入に対抗するため、強力な王権が必要とされ、919年、ザクセン公のハインリヒ1世が諸侯による選挙で王に選べれた。
2代目オットー1世のとき、キリスト教による強力な中央集権化を目指し、これまた分立状態にあったイタリアに遠征、ローマ教皇の後ろ盾となり、962年、空位となっていたローマ皇帝の位を授かる。
これにより、オットー1世は形式的にはヨーロッパの王の中で最も偉大な王となり、以後、ドイツは、ローマ皇帝を事実上独占したことから、「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」等の呼称の後、1245年には「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。
ところが、神聖「ローマ皇帝」となった歴代のドイツ王は、本国ドイツの統治よりもローマ教皇のいるイタリア支配に熱中し、ドイツ国内は分裂状態に陥っていく。この歴代の神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ぶ。
13世紀ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。やがて、「帝国」は、形骸化し、「神聖ではないし、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない」状態になり1806年ナポレオンによって解体された。
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南北問題とは、豊かな北の先進国と貧しい南の発展途上国の経済格差やそこから生じる主問題をいう。イタリアは、EUで唯一南北問題があると国とされ、ミラノ・ジェノヴァ・トリノを中心とする北部の重工業地域(北イタリア)と一次産業を中心とする南部(南イタリア)の格差が問題となっている。南北で異なる歴史を持ち、経済的格差以外にも民族・言語・風習などに差異が見られ、問題を複雑にしている。
南部の失業率は北部の4倍とも言われ、現在でも北部やドイツなどへ出稼ぎに行く農民も多い。一方北部では南部に税金を吸い上げられているという意識もあり、北部同盟のような南北の分離を唱える勢力を生み出すにいたっている。%E5%8D%97%E5%8C%97%E5%95%8F%E9%A1%8C へのリンク
イタリアの南北問題は、サッカー界にも深刻な影響を与えている。2005-2006年シーズンのセリエA20チーム中、南イタリアのチームは、メッシーナ、レッジーナ、レッチェ、パレルモ、 カリアリの5チームに過ぎず、しかも、2005年10月2日現在7位のパレルモを除き4チームが降格争いを演じる15位以下に低迷している。italy.html へのリンク serie_club.html#A へのリンク
しかも、1990年のナポリの2度目の優勝を最後に、南イタリアのチームはすっかり優勝から遠ざかっている。この15年、セリエAで優勝した南部の唯一のチームがマラドーナのいたナポリだった。マラドーナが入団して、ナポリは初めてリーグ優勝することが出来た、それも2回。マラドーナ、ナポリでは「サン(聖なる)・ディエゴ」って言われ、英雄になった。sc_0014.html へのリンク
そして1990年イタリア・ワールドカップ、マラドーナのアルゼンチンは準決勝でイタリアと対戦。会場はナポリであった。準々決勝の後、マラドーナはテレビカメラを通して「愛する」ナポリの人々に言った。「みんなイタリアを応援しなきゃだめだよ」。「どうせ、あとの364日はあなたたちはイタリア人だと思われていないのだから」と続けた。国中で大議論が巻き起こった。
イタリア代表はそれまでの5試合をすべて首都ローマで戦っていた。主将のベルゴミら各選手は「まさか。ナポリだってイタリアだろ」と気にとめなかった。しかし、ナポリ入りし間違いに気づく。「空港に降りた瞬間、自分たちを応援していない空気を感じた」
スタンドは満員。しかし「そこはイタリアではないみたいだった」(ベルゴミ)。カロテヌーロ記者は「マラドーナは北に対する南の勝利のシンボルだった。特にナポリのサポーターはアルゼンチンを応援した」。試合は、。結局PK戦にもつれ込み、アルゼンチンの勝利。その夜、ナポリに限らずイタリア中が泣いた。ナポリにあるマラドーナの邸宅には投石があり、脅迫電話も後を絶たなかった。それまで自分を熱狂的に支えてくれたナポリ市民のそんな仕打ちに、マラドーナは苦しむ。
決勝はローマ、そこにイタリア代表の姿はなかった。アルゼンチン国歌に対するすさまじいブーイングが起きた。巨大スクリーンには涙でほおをぬらし侮辱的な言葉を吐くマラドーナの顔が映った。マラドーナによって引き裂かれたイタリアは、ゆがんだ形でその気持ちを表現した。マラドーナの転落の始まりだった。
11-italia.html へのリンク
優勝したのは西ドイツ。西ドイツとしては、最後の大会となった。来年、2006年は、ドイツでワールドカップが開かれる。
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阪神電鉄の38%超の株式を取得した村上ファンドは、阪神電気鉄道に対し、子会社の阪神タイガースの株式上場を提案していた。だが、阪神電鉄側は、タイガースの上場は否定した。関係者の話では先月末まで、阪神電鉄が100%保有する球団会社の株式の8割程度を、一般の投資家に放出する内容について書面で提案があったという。hl?a=20051005-00000025-san-bus_all へのリンク
阪神電鉄は危機感を深め、大和証券SMBCと協力して対抗策を探る。だが、村上ファンドはすでに経営上の重要案件に関する特別決議の拒否権を握っており、株主総会の決議が必要な対抗策を阪神電鉄が講じても覆される。hl?a=20051005-00000122-mai-bus_all へのリンク
2003年10月当時の大和インベスター・リレーションズの記事にこんなことが書かれている。日本や米国にない例だが、欧州では株式を公開上場するサッカークラブは少なくない。日本でも知られる英プレミアリーグでは、20のサッカークラブのうち半数が上場し、欧州大陸でもイタリアのユベントス(トリノ)やラツィオ(ローマ)のように株式上場している。
しかし、一般にクラブが上場しているからといっても、「株式価値を正面から捉えるファンは多くない」といわれ、「こうしたファンはチームにコミットして株式を保有している」「中には、プレスティージのために購入する人もいる」という見方が大半だ。多くは、チームの株式保有に熱心ではあっても、その株価に関心がないというのだ。本当にそうなのか。topics-old.cgi?filename=20031017&num=195 へのリンク
1998年ラツィオは、セリエAのチームとして初めて、株式をミラノ株式市場に上場し、その年、市場から資金を調達する事によって、総額150億円以上もの移籍金を用意、次々にスター選手をかき集め、ついに99-00シーズンにはスクデットを獲得した。ところが、株の半分近くを所有している親会社の経済的破綻によって、ラツィオは一挙に窮地に陥る。sc_0135.html へのリンク
そもそもラツィオは、市場から巨額の資金を調達したが、選手の獲得にかけた多額の費用負担、ペイ・パー・ビューの視聴者数の伸び悩みによるテレビ放映権料の低下のため万年赤字で、累積債務は1億4000万ユーロ(約195億円)にのぼった。結局、2004年8月31日ラツィオは、税務当局と累積債務を今後23年に渡って、分割して返済し続けることで合意し土壇場で破産を免れた。?cid=3 へのリンク
2005年夏前には、あのマンチェスター・ユナイテッドが、NFLのタンパベイ・バッカニアーズのオーナーでもあるグレイザー氏に株式の76%を取得され、クラブの実権を握ぎられた。阪神ファン以上に、チームを愛して止まないサポーターは、「Not
For Sale」デモを行ったが、それも空しく、チームはグレイザーの手に落ちた。 へのリンク
しかも、グレイザー氏の買収計画は外部資金を利用して、つまり、借金で実行され、しかも、彼の負債は、すべてマンチェスター・ユナイテッドの負債として処理できるという。ちなみ、買収資金は1600億円。
glazermanu569.html へのリンク
article.php?storyid=3608 へのリンク
post_f755.html へのリンク
村上ファンド側が、プロ球団の株式公開の成功例として、マンUの例を上げて、阪神側に説明したことに対し、江戸川大学講師の広瀬一郎氏が自身のブログで怒っていた。
index.html へのリンク
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関東財務局へ届け出た株式大量保有報告書によると、村上ファンドは転換社債分を含め阪神電気鉄道株の26・67%を取得して筆頭株主となり、阪神百貨店株も18・19%を取得し、阪神電鉄に次ぐ第2位の株主となった。総投資額は約1000億円とみられている。
ファンド側は27日深夜、ホームページで「事業内容が極めて健全で、保有資産も豊富な優良な会社」と投資の理由を公表。「私どもは株主として経営陣と緊密に協力し、企業価値・株主価値向上のお手伝いをしたいと考えている」と今後の方針を明らかにした。01.html へのリンク
また、阪神球団について「『阪神タイガース』という球団名称、ホームグラウンドである『甲子園球場』、『縦縞のユニフォーム』のすべての面について、私どもも強い愛着を感じております」としたうえで、「同社経営陣におかれましては、この偉大な球団とそのブランドの価値を、ファンの皆様や選手をはじめとする球団関係者各位のご理解・ご協力を得ながら、更に高めてくださるものと期待しています」としている。050927_PR(J).pdf へのリンク
『阪神ファンの経済効果』などの著書で知られる国定浩一・大阪学院大企業情報学部教授(経済学)によると、阪神電鉄は凋落(ちょうらく)が著しい関西私鉄界の中で唯一、堅実な経営を続け、国内でも有数の優良企業という高い評価を集めているという。t2005092801.html へのリンク
同ファンドは多くの内部留保を持つが、低配当の企業などの株主となって、配当増や企業価値向上にむけた取り組みを経営者に要求してきた。阪神電鉄がキャッシュ(手持ち資金)リッチ企業と評価されることは少なく、これまでのパターンからすると、同ファンドのターゲットになる会社ではない。200509280014a.nwc へのリンク
このため、市場関係者の間では、中長期的に経営権を握る狙いというよりも、「株価が上昇した段階で、売り抜ける可能性がある」(岩井証券の有沢正一氏)との見方が強まっている。 20050928mh09.htm へのリンク
しかし、売り抜けるにせよ、電鉄に買わせるにせよ1000億円という投資額は大きくすぎる。そこででてくるのが、「土地ではないか」(新光証券エクイティストラテジストの瀬川剛氏)とみる。キャッシュを豊富に持つ割安株に投資してきた村上氏だが、「これだけ株が上昇すると投資対象は減ってくる。
そこで最近は、優良な土地を持つ企業を狙っているようだ。その典型が(銀座で百貨店を展開する)松屋への投資」(新光証券エクイティストラテジストの瀬川剛氏)という。魅力的な土地を保有しているという点で「市場関係者の間でも関西の電鉄株は注目されつつあった」(同)というが、その中で村上氏が阪神株に絞った理由はどこにあるのか。
瀬川氏は「阪神の場合、熱狂的なファンが多いので、エグジット(投資の回収)の段階で村上氏と会社側との話がこじれた場合、阪神ファンが『村上ファンドに会社を渡すな』と、会社側に譲歩を迫ることも考えられる。大株主のまま、放っておかれるのが村上氏としては困ること」と指摘する。t2005092720.html へのリンク
ところで、村上ファンドの村上世彰氏が、通産省を退職して1999年投資会社エム・エイ・シー(MAC)を設立するが、そのとき後ろ盾になって資金を提供してくれたのがオリックス社長(当時)の宮内義彦氏であったという。40億円で始まった村上ファンドの運用資産もいまや2000億円近いとされる。MACの資金は、海外の投資銀行のHSBCの仲介で、年金基金やヘッジファンドの出資を受けているというが、国内はオリックスなどの事業法人や金融機関が融資しているという。また、オリックス証券に村上ファンドへの投資の受付を行っているという。TKY200507070145.html へのリンク
オリックスは、昨年、近鉄と合併し、大阪と神戸のダブルフランチャイズや交流戦を実現させたが、入場者数は目論見どおりには伸びなかった。関西は、3年連続300万人を突破した阪神タイガースが存在し、阪神がいる限り、関西での球団経営に限界を感じた(日刊ゲンダイ)はず。オリックスの宮内オーナーは、昨年のオリ近合併に懲りず、新たな球界再編を示唆していた。村上ファンドの後ろに、オリックス宮内オーナーの存在を考えておく必要があるかもしれない。
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(9/27)村上ファンド、阪神電鉄株大量取得・持ち株比率27%に(日経)20050927NT000Y81327092005.html へのリンク
旧通産省(現・経済産業省)OBの村上世彰M&Aコンサルティング(東京・港)代表が率いる投資ファンドが、プロ野球球団の阪神タイガースを傘下に持つ阪神電気鉄道の株式を大量取得したことが27日、明らかになった。持ち株比率は転換社債分も含めて約27%に達する。阪神電鉄が10月に完全子会社化する阪神百貨店の株式も約18%取得した。
村上ファンドは今月に入り市場で阪神電鉄株を大量取得したほか、同社の転換社債も取得。大量保有報告書を提出した。総投資額は約1000億円とみられる。
阪神電鉄は4月、発行済み株式の52.4%を保有する阪神百貨店を10月1日付で完全子会社化すると発表。阪神百との株式交換に伴い新株を発行し、発行済み株式数は9.7%増えて3億7718万9090株となる予定。阪神タイガースは阪神電鉄の完全子会社が運営している。27日午前、阪神株は一時は前日比98円高の945円と値幅制限いっぱいまで上昇。4月以降の株価上昇率は5割に達している。
(8/15)西武グループ再建策 村上ファンド反対表明(読売)20050815mh04.htm へのリンク
西武鉄道の大株主で、経済産業省OBの村上世彰氏が代表を務める投資顧問会社「M&Aコンサルティング」(村上ファンド)は12日、西武鉄道が10日発表した純粋持ち株会社方式による西武グループ再建策を「透明性と公平性を欠く」と批判し、反対する書簡を後藤高志・西武鉄道社長に送り、内容を公表した。
村上ファンドは書簡で、持ち株会社に移行する際の株式移転比率を検証するために、コクドとプリンスホテルの情報開示を要求。また、西武グループの一体再生自体について、西武鉄道株主の権利が希薄化することで「コクド等の救済」になると指摘した。さらに、「ホテル・レジャー事業で、土地・建物などの資産と運営主体が分離している問題は賃貸契約や譲渡契約で対応できる」などと疑義を示した。
(7/14)TBS買収策を検討 (AERA7月4日号)TKY200507070145.html へのリンク
ライブドア騒動が激しかった今年春のことである。堀江貴文ライブドア社長の「陰の軍師」とみられてきた元通産官僚、村上世彰は、主宰するM&Aコンサルティング(村上ファンド)の次なる標的として、ひそかにTBSに照準を合わせていた。
TBSは、株価が割安なのに、東京・赤坂の一等地をはじめ、世界的な半導体製造装置メーカー、東京エレクトロン(時価総額約1兆円)の株式を5.6%保有するなど優良資産を数多く持つ。しかも、新聞社による株式支配が色濃い放送界にあって、TBSには特定の大株主が存在しない。
村上をよく知る関係者が、こんな打ち明け話をしてくれた。「村上さんが用意する資金で、TBS経営陣がTBSを買収するマネジメント・バイアウトを検討していました。でも、堀江さんが4月、投資家セミナーで『次はTBSが狙い目』とぺらぺら話し、一般に知れ渡るようになったこともあって、断念したようです」
TBSは5月、日興プリンシパル・インベストメンツに最大800億円の新株予約権を発行するという、買収防衛策を発表した。TBS広報部は「ライブドア問題以前から検討していた」と強調するが、この防衛策づくりに携わった日興グループ幹部は、「TBSから話があった時点で、村上さんの噂を聞いていました」と、「村上対抗策」の一面があったことを示唆する。
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フランク王国は、カール大帝の孫ロタールのとき、分割相続による内紛により三分割される。834年にヴェルダン条約が結ばれ、現在のドイツを中心とする東フランク王国(ルードヴィッヒ王)、フランス地域である西フランク王国(シャルル王)、イタリア・中部フランスの、中部フランク王国(ロタール1世)に分割されます。さらにロタールが死去すると、中部フランス地域は東と西で分割された(870年、メルセン条約)。このまま、3国は結合することなく、ドイツ、フランス、イタリアの原形となった。
北イタリアの中部フランク王国は、9世紀にはカロリング家の血統が途絶え、以後、諸侯によって分割され都市国家的な面積の国家群の乱立状態になっていった。北イタリアは、十字軍遠征以後、東方貿易で栄え、ルネサンスの舞台となるが、大航海時代以降、東方貿易の衰退とともに、衰え、神聖ローマ帝国やフランスの政争の舞台となった。中部は、教皇領で、南イタリアは、東ローマ・イスラム・ノルマンなど、さまざまな国家の支配下におかれた。
このため、イタリア半島は、1861年サルデーニャ王がイタリア王に就くまで、統一されることなく、北部・中部・南部は別々の歴史を辿り、今日の南北問題にまで尾を引くことになる。1870年の普仏戦争に乗じて、フランスの後ろ盾を失ったローマ教皇領を統合し、イタリア統一は完成する。
イタリア語はトスカーナ地方とイタリア南部の中間をベースにしてイタリア王国成立時に作られた一種の人工言語。ラテン語から進化したイタリア各部に残る言葉(方言)とはそれぞれ違いがある。イタリアでは日常会話はその地方の言葉(方言やドイツ語、フランス語など)であるため、標準イタリア語を母語とする人は少数である。
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小ピピンの子カール大帝(仏語でシャルルマーニュ:位768-814)は、ロンバルディア王国を滅ぼし、800年には、ローマ教皇から西ローマ皇帝として戴冠を受け(カールの戴冠)、西ローマ帝国皇帝(位800-814)となった。彼は、アジア系のアヴァール族討伐し、文化面でもアルクィンを始めとする学者を招き、教育・文化の発展に尽力し、カロリング=ルネサンスと呼ばれた。
カール大帝のフランク王国は、現在のEUの前身であるEC原加盟国(フランス・ドイツ・イタリア及びベネルクス三国)と一致する領域を支配下に治め、当時の年代記には彼を「ヨーロッパの父」と記している。ところが、大帝の死後、三分割された帝国は「ヨーロッパ」と呼ばれなくなり、「ヨーロッパ」という言葉そのものもほとんど使用されなくなった。
このことは、当時、「ヨーロッパ」という枠組みがある一定規模以上の領域という「国家」を超えた地理的概念を指すけれども、何らかの「社会」を形成する母胎としてはまだ存在していなかったことを意味していると言えよう。
ヨーロッパは、地理的には、ウラル山脈、バルカン半島より西の部分を指す。元々この地域は「キリスト教世界」と言う言葉を使って自らをさしてたが、宗教対立などで使いづらくなったため14世紀頃から「ヨーロッパ」と言う概念が産まれて取って変わったと言われている。この概念が完全に定着したのは1700年前後とされる。
ところで、この時代、地理的な西ヨーロッパは、東ローマ帝国=ビサンツ帝国の影響下から脱し、政治面ではゲルマン人の皇帝が支配し、精神面はローマ・カトリックの教皇が指導するという新勢力による秩序が形成され、中世へと移行していくことになる。一方、文化面では、それまでのローマ・ギリシャ精神とキリスト教精神の文化にゲルマン人の精神が融合したヨーロッパ文化圏の原型が形作られていった。
また、宗教面ではローマとコンスタンチノープルの決裂ともいえ、11世紀にはキリスト教世界は、ローマ教会を中心とするカトリック(普遍教会)とコンスタンチノープル教会(ビザンツ帝国)を中心とする東方正教会(オーソドクス、正統教会)に完全に分裂する。
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8世紀(732年)、ゲルマン系のフランク王国宮宰のカール=マルテルは、スペインを占領していたイスラム教国家ウマイヤ朝のヨーロッパ本土侵攻をトゥール・ポアティエ間の戦いで破り、以後、イスラム教徒はピレネー山脈を越えることはなかった。このトゥール・ポアティエ間の戦いを記した『イシドルス・パケンシス』にはイスラム教徒との対比で「ヨーロッパ人(europeenses)」という語が用いられた。
ところで、ローマ教会は、コンスタンティノープルなどと並ぶキリスト教五本山のひとつだが、 第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であることから、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張していた。
ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後コンスタンチノープル以外の他の三教会がイスラム教徒の支配下にはいると、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後も、西ヨーロッパにおいて精神的権威を持つことになったが、教皇(ローマ教皇、ローマ=カトリック教会の最高首長で初代のペテロを継ぐ者)の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だったし、東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。
しかも、西ローマ帝国の滅亡後は異端とされたアリウス派を信仰するゲルマン諸族に周りを囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。こうした状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていた。
一方、フランク王国は、ゲルマン民族のフランク族の王国であったが、他のゲルマン諸族が異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、いち早く正統のアタナシウス派に改宗し(496)、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を築いた。だが、フランク族の間では分割相続の習慣があったので、国情は安定せず、しだいに「宮宰」(家政の長官の意味)の力が強くなり、行政・財政の実権を握るようになっていった。
そんな中、宮宰マルテルの子小ピピンは、ローマ教皇に接近し751年、自らフランク国王となりカロリング朝(751~987年)を興す。当時、聖像禁止令で東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会と対立していたローマ教皇は、強い後ろ盾を必要としていた。小ピピンは、754年異端のアリウス派を信仰し教皇と敵対していた同じゲルマン系のロンバルディア王からラヴェンナの地を奪還、教皇に献上した(ピピンの寄進 教皇領の始まり)。
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フランス普遍主義がスポーツの普遍化に大きな影響を与えた点を見てきたが、現スポーツ総合研究所の広瀬一郎氏によれば、
イデオロギーを理解するためには、その概念の歴史的な形成過程を知る必要がある。第一に理解すべきは、「近代」。今更ではあるが、我々は近代スポーツを前提にしている。第二は、ヨーロッパ。「近代」とはそもそも「欧州」で誕生した概念だ。つまり、「近代スポーツ」を理解するためには、スポーツの中にビルトインされている「欧州の近代」という要素を理解しておく必要がある。index.html へのリンク
ということでまずは、欧州-ヨーロッパとは何かについて
古代アッシリア語(アッカド語、最古のセム語)で、日没転じて西を意味する「エレブ ereb」がギリシャに渡り、「エウロパEuropa」となり「ヨーロッパ」の語源となった。アジアの語源もアッシリア語の日の出あるいは東を意味する「アッスasu」に由来する。アッシリアとは日本と同じ「日出づる国」のことで、古代メソポタミアで勢力を振るった王国・世界帝国。アッシリアはシリアの語源でもある。ヨーロッパが西、アジアが東という概念は、古代メソポタミアのアッシリアから見た太陽の昇る方角、沈む方角によって位置づけられた、ともいえる。
Europa.html へのリンク kokumei.htm へのリンク
しかし、8世紀のイスラム教徒の侵攻時を除けば、「ヨーロッパ」という地名が用いられるようになったのはようやく14世紀のことだという。kaler1.htm へのリンク
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加盟国の大半は欧州の国だったFIFAに、欧州以外の国が加盟したのは、1912年の南米アルゼンチンとチリが最初だった。しかし、南米の強国ブラジルとウルグアイが加盟したのは1923年になってからだ。
当時のサッカー強国ウルグアイは、欧州に偏ったFIFAに反発し、ブラジル、チリ、アルゼンチンとともに南米サッカー連盟(CONMEBOL)を結成し対抗しようする。1917年CONMEBOLは独自の選手権である「コパ・アメリカ」を組織し、加盟国を増やしていった。CONMEBOLが初の地域連盟であった。地域連盟(UEFA)が欧州にできるのは、第二次大戦後の1954年であった。それまでは、欧州中心だったFIFAには欧州の地域連盟は不要であった。
CONMEBOLの結成にもかかわらず、FIFAが国際組織として機能し得たのは、オリンピックの出場権を握っていたからだ。世界選手権を開けなかったFIFAにとってオリンピックはそれに代わるものであった。反発していたウルグアイがFIFAに加盟したの1924年のオリンピック・パリ大会に参加するためであった。サッカーは、ワールドカップが実施されるまでは、オリンピックにより普遍化の途を進んでいた。
ところが、プロ化の進んだサッカーにとって、アマチュア規定のあるオリンピックは世界選手権とは言えなかった。1928年「自らが真の世界の王者を決定する大会を開こう」と第3代会長のフランス人ジュール・リメがFIFA総会で提唱し、これを受け、1930年に建国100周年を迎えた南米のウルグアイで記念すべき第1回大会が開かれた。
ウルグアイは最近こそ優勝から遠ざかっているが、当時は、オリンピックでも2連覇中というサッカー強国であった。
第1回のワールドカップの欧州出場国は、フランスとベルギー、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国で、英国4協会は参加していない。他にペルー、チリ、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルの南米7カ国、北米の米国、中米のメキシコの計13カ国が参加した。
イングランドがワールドカップに出場したのは、1950年の第4回ブラジル大会から。サッカーの母国イングランドがワールドカップに参加し、ワールドカップは、やっと、世界一を決める大会となった。
参考サイト index.cfm?i=20030203ca000ca へのリンク index.cfm?i=20030210ca000ca へのリンク
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FIFA国際サッカー連盟(Fédération Internationale de Football Association)は、サッカーの国際統括団体として、フランスが提唱し1904年、フランスのほかベルギー、スイス、スペインなど欧州8カ国が参加して結成された。FIFAはフランス語の略で、パリに本部が置かれた。ルールの統一と世界選手権の開催を目的に設立されたが、サッカーの母国英国4協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)は結成時には参加していない。
サッカーが近代スポーツとして誕生したのは、ロンドンで「The Football Association」(FA)が設立された1863年のことだった。イングランド全域のサッカーを統括する組織である。その後、この新しいスポーツはまたたく間に広まり、10年後の1873年にはスコットランド、76年にはウェールズ、そして80年には、アイルランドにもサッカー協会が設立されている。
英国内で盛んに行われていたサッカーが外に出ていったのが19世紀の終わり。欧州各国で盛んに行われるようになり、1904年、フランスの主導でFIFAが誕生した。FIFAはFAより41歳も歴史が浅く、しかも、財政基盤は脆弱であった。
普遍主義の国フランスの伝統となった、国別対抗の世界選手権では、一国一代表が原則である。ところが、サッカーの母国英国には既に4協会が存在し、実力的にも、財政的にも後塵を配していたFIFAは、英国4協会の存在を無視することはできなかった。
当時は、ラグビーのように英国内での4カ国対抗戦が盛り上がりをみせ、英国にとってはこの4カ国対抗戦こそ最強を決める戦いだとされていた。実力もFIFA加盟国を圧倒していた。
英国4協会は、FIFAの加入・脱退を繰り返し、1928年オリンピック参加選手の休業補償の問題で、2回目の脱退をすると、復帰は1946年まで待つことになる。このとき4協会はFIFA復帰を条件に、FIFA副会長を英国4協会から出すことが決められた。普遍化されたサッカーにおいても、サッカーの母国英国の特権を認めらている。
参考サイト
index.cfm?i=20030203ca000ca へのリンク
index.cfm?i=20030210ca000ca へのリンク
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近代オリンピックは、フランス人ピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱し、1894年国際オリンピック委員会(IOC))が組織され、1896年アテネで第一回オリンピック大会が開催され、現在に至っている。初代会長こそ第一回大会の開催地ギリシャ出身のデメトリウス・ビケラスに譲ったクーベルタンであったが、第二回大会(1900年)は地元パリで開催され1896年~1925年まで第2代会長を務めた。
いわゆる国粋的右翼思想の持ち主だったクーベルタンは、普仏(独仏)戦争(1870年~71年)でフランスがドイツに敗れたのはフランス青年の軟弱振りによるとして、この問題解決策を模索するために周辺諸国視察を頻繁に行った。そして最も感銘を受けたのが大英帝国のパブリックスクールのスポーツ教育であった。
クーベルタンは、国民の士気を高め、青少年の肉体を鍛錬し、健全な成長を促すにはスポーツ教育しないと考えるようになる。これが英国やドイツではスポーツを専ら自国の繁栄に繋げようとし実績をあげていたのに対し、クーベルタンはフランス流の普遍主義の方向を意識的に目指していった。
クーベルタンは、万国博覧会を模倣した国際競技大会を、当時のロマン主義の流行に乗せた古代オリンピックの復活という理念によって、国際オリンピックとして成功に導く。国際オリンピックの競技は近代スポーツに限られ、オリンピック競技となった近代スポーツは、国際化=普遍化=世界化していくことになる。
参考サイト
index.html へのリンク
nb0501-olympic01.htm へのリンク
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1894年自動車レースはフランスで始まった。史上初の国際レースもグランプリレースも、フランスが舞台だった。F1を主催するFIAの本部も、パリにある。フランスこそがモータースポーツのルーツであり、国際化の担い手であった。
近代スポーツの多くが、英国で生まれ、英国人によって世界中に広まっていった。しかし、近代スポーツを国際化し、世界化したのはフランス人であった。フランスで生まれたスポーツは、ほとんどないといっていい。モータースポーツは、例外ともいえる。モータースポーツはガソリン車の競走として始まったが、そのガソリン車を発明したのはドイツ人であった。自動車レースも馬車から自動車に変わったくらいで独創性があったとは言えない。だが、フランス人は、スポーツの普遍化に長けていた。
そもそも、19世紀、大英帝国の植民地政策を担う人材を養成する機関として、パブリック・スクールやオックスフォード、ケンブリッジ大学が位置づけられ、植民地経営に必要な強靱な肉体と健全な精神を鍛える教育手段として近代スポーツ(特にフットボール)が生まれた。植民地経営のため世界中に送られたフィジカルエリートたちが着任地でスポーツを愛好したことから近代スポーツは世界中に広がっていった。
ところが近代スポーツといえども、母国の風土風習の上に生まれたものであり、土着性をもっている。英国生まれのラグビー・フットボールやクリケットの普及は旧英連邦内に留まっており、米国生まれのアメリカン・フットボールとベースボールのそれは米国周辺国に留まっている。
スポーツを国際化し、世界化するには、スポーツの土着性を消す普遍化という過程を経る必要がある。スポーツの普遍化はフランスを透すことによって行われてきた。現在、オリンピック競技か否かによって国際スポーツかマイナースポーツかに分から、また、世界で一番のメジャースポーツはサッカーとされる。そして、IOCとオリンピック、FIFAとワールドカップを創ったのはフランス人であった。
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F1は「世界選手権」の名を掲げているが、米国国内においては、過去いくつかのサーキットにおいて開催するも、ナスカーやインディカーなどのカテゴリーに比べ、マイナーな存在であり、定着しきれないでいた。
1950年のF1世界選手権開始時からインディ500が選手権に組み込まれていたが、GPを冠さず異質なものでもあったため1960年限りでF1のカレンダーから姿を消した。
しかし1950年代初め頃からフロリダ州の飛行場跡地にサーキットを設置、セブリング(Sebring)と称して国際スポーツカーレースで利用されていたので、これを利用して1959年に米国GPを開催したのが始まりである。
1960年にはカリフォルニア州のリバーサイドにて開催されたあと、翌1961年から1980年までワトキンズ・グレンで行われた。当地では徐々にF1が知られるようになり、米国での商業的観点からスポーツが重視されるようになると1976年からは1年に2回以上開催されるようになる。
1982年は実に3回もの開催があったが、仮設サーキットばかりでレースが行われる際の安全性確保や興行的問題、米国内でのCART人気向上等様々な問題から開催が減少、1991年にアリゾナ州のフェニックス市街地サーキットで行われた米国GPを最後に、一旦は米国内でF1が開催されなくなる。
こうした事態を打破する為、インディ500の行われている、米国モータースポーツ界の聖地、インディアナポリス・モーター・スピードウェイにて多くの観客を集めることが考えられた。
開催にあたっては、F1マシンはオーバルコースが想定されていないことから、F1専用のロードコースがインフィールド内に作られた。オーバルコースのバンクも一部利用使用するコースであった。こうして、2000年シーズンよりF1カレンダーに、9年ぶりにアメリカGPが復活することとなった。
「レース中のタイヤ交換禁止」を決められた2005年には、オーバルの経験の浅いミシュランタイヤのトラブルが発生し、ミシュランタイヤ装着全7チーム14台が、フォーメーションラップのみでリタイアするという異常事態になった。
参考サイト
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FIA主催によるF1が世界選手権として始まったのが、第二次世界大戦後の1950年であったが、それ以前に単発イベントとして欧州ではグランプリレースが各地で開催されていた。その後、レースの規格(レギュレーション)が次第に整えられ、通称 グランプリカーという、純粋にグランプリを戦うために作られたレーシングカーによるレースへと発展、その後様々なレギュレーションの改正・変更を経て第二次大戦直後までグランプリは開催された。
ただ、各国自動車クラブの統括団体であったAIACR(Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus)には、各国のグランプリレースを規制する権限はなく、レースごとにフォーミュラが異なっていたり、曖昧であったため、各メーカーの優劣を決する場とはいえなかった。
そこで、第二次大戦後の1946年、フランス自動車クラブ(ACF)が中心になって自動車レースを統括管理する国際的な組織FIA(Federation Internationale del' Automobile:国際自動車連盟)がAIACRを前身として設立された。FIAは、1947年にフォーミュラを統一し、1950年からF1が始まる。
F1は、正式には「FIA Formula 1 World Championship」といい、F1規格の自動車世界選手権のことである。F1グランプリは俗称。フォーミュラ(Formula)とは「公式」という意味であり、統一規格のこと。レースのために決められた規格に従って、レース専用に作られた車を使用することから、フォーミュラカーレースと呼称している。なお、米国では、フォーミュラーカーをオープンホイールカーという。
1950年F1による世界選手権が英国シルバーストーン・サーキットから始まった。世界選手権とはうたわれてはいたが、当初は、実質的にはヨーロッパ圏内に限定されていた。アメリカGPとしてインディ500も含まれていたが、実際の所は両者はまったくルーツが違う別物だったので、11年ほどでアメリカから撤退してしまう。
参考サイト
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/andfia.htm
../motorracingspecial/newpage10.htm
http://sports.yahoo.co.jp/f1/1950/
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ヒトラーは、「国民車構想」を提唱しながら、一方では自動車レースをプロパガンダとして利用した。ヒトラーは、国威発揚策として工業力を重視した。その工業の中でも自動車産業に力を入れようと考えた。この考え方は、イタリアのファシスト党、ムッソリーニに習ったものだ。例えば、アルファロメオがグランプリに勝利を収め、世界にイタリアの工業力を誇示したのを大いに参考にしたと思われる。
1934~39年にかけて、まさにメルセデス・ベンツとアウトウニオン(ポルシェ社のかつてのレーシング部門)の2大ドイツ・メーカーがサーキットを蹂躙した。
1934年のフォーミュラ(車両規制)は、ドライバー、燃料、冷却水、タイヤを除いた規定重量が750kg、ボディ幅は850mm以上というもので、排気量の制限はなかった。このため、排気量は年々マンモス化し、1937年の、ベンツ・グランプリ・マシン「W125」は、9メイン・ベアリング採用の直列8気筒5660ccエンジンは、出力は646ps/5800rpmで、最高速は実に時速380kmをマークしたと言われている。
1938年、排気量は3リッターとなり、ベンツはニューマシンの「W154」を投入。一方、3リッターでは勝てないと見て取ったイタリア勢は、1939年の、地元トリポリ・グランプリの規定を1.5リッターに変更。それにもかかわらず、急造マシン「W165」に乗ったヘルマン・ランクとカラチオラは1~2位を独占し、王者ぶりを見せつけることになる。
このトリポリ・グランプリから3ヶ月後に第2次世界大戦が勃発。戦前の自動車レース史は、車好きが集まってのクラブ的なイベントから始まり、ついには軍事力へ転化されたナショナリズムの対決に至る。1940年前後はつまり、レースどころではなくなってしまった。
参考サイト
../motorracingspecial/newpage10.htm
http://www.ozora-net.co.jp/indy/indy500/basicdate/index_h.html
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/ms/circuit/hayashi022.htm
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米国では1907年にT型フォードが発明され、自動車の大衆化が始まったが、欧州では、まだまだ、自動車は、高価で貴族や金持ちの持ち物であった。欧州でも1910年ごろに、大衆の自動車に対する欲求を満たすように、二輪車の部品や技術を用いて製造された小型軽量車、いわゆるサイクルカーが普及していった。
1920年代、フォードと同様の生産方法を用いたフランスのシトロエン・5CVや英国のオースチン・セブンなどの小型大衆車が発売され、欧州においても、本格的に自動車が普及していく事になった。また、それに伴いサイクルカーは姿を消していく事になる。
「フランスのフォードでありたい」アンドレ・シトロエンの言葉である。彼は創業当時から量産方式を採用、大衆車メーカーを目指して生産を開始した。1922年、大型車の機能と構造をそのままスケールダウンしたヒット作であるタイプC、通称5CVを送り出す。個性的なボートテールからわが国ではセミと呼ばれ、翌’23年にはホイールベースを延長して3人乗りのC3に発展。さらに実用的なものとなったのである。この5CVがフランス大衆車の母体であることはいうまでもない。
必要なものはすべて揃っているが、それ以外のものは何もない。つまりサイズこそ小さいが大型の実用車と同じ装備や機構を備えたオースチン・セブンこそ英国人にとってのフォードであり、まさに大衆のための自動車であった。1923年から39年までの17年間に約25万台も量産されたロングセラーとしてその信頼性が高く、わが国へも上陸。戦前のオールドダットサンとともに親しまれた。
ドイツではヒトラーが1930年代中期に提唱した大衆車国民車(フォルクスワーゲン)計画によって、フェルディナンド・ポルシェの設計でリアエンジンの流線型小型車「KdF(後のフォルクスワーゲン)」(1938年完成)が開発された。これを量産化するために新たな工業都市「KdF市」が建設されたが、第二次世界大戦突入で軍需生産に移行し、国民車生産は頓挫した。
参考サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_05_3.html
http://www.ozora-net.co.jp/indy/indy500/basicdate/index_h.html
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/ms/circuit/hayashi022.htm
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1904年、各国に割り当てられた3台の出場車では、自動車メーカーの多いフランスは、自動車メーカーの宣伝に不利だとして、ACFは出場台数を各国の生産台数に比例した数にすることを提案するが、他の自動車クラブに猛反対にあう。
1905年ACFは、レースがどういう結果になろうと、1906年以降はゴードン・ベネット・トロフィー・レースを無視し、グランプリを開催すると宣言。翌1906年6月最初のグランプリレースがル・マンで開催され、ゴードン・ベネット・トロフィーレースが発展的に解消する形でグランプリレースが始まった。
グランプリは自動車メーカーの宣伝媒体として始まった。参加国はフランス、イタリア、ドイツの3国で、実際に出場したのは28台。コースは、ル・マン近郊の公道を閉鎖して作ったクローズド・コースで、本格的なもの。出場車種はフィアット、ルノー、デートリッヒ、クレマン・バヤール、オッチキス、パナール、ブラジア、メルセデス、イタラ、ダラッラなど、当時としては最高峰のマシン群であった。
こうして、公道レース禁止後、ACFは、ゴードン・ベネット・トロフィーレースを基盤に、米国のレースを参考にしたクローズドなコースとフォーミュラ(車両1000kg以下)というシステムを欧州で成功させた。こうして、欧州のレースは自動車メーカー間の競争の場となっていった。
第一次世界大戦後の20年代にグランプリレースは欧州諸国へと広まり、23年イタリア、スペイン、25年ベルギー、トリポリ、26年英国、ドイツ、29年モナコなどで相次いで開催されていくことになる。
自動車メーカーも、それまでのフィアット、プジョーなどに代わってアルファロメオ、サンビーム、ブガッティなどが勢いをつけてきていた。メカニズム面では、1.5リッターの時代(1926~27年)にはスーパーチャージャー(過給器)やアルミ・ピストン、高性能タイヤなど、技術的進歩は著しいものがあった。
参考サイト
../motorracingspecial/newpage10.htm
http://www.belbel.or.jp/~takatsukasa/gp_021.htm
http://homepage1.nifty.com/c_field/before.html
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1904年、世界各国の自動車クラブ代表をまとめた国際的な組織AIACR(Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus。国際自動車公認クラブ協会)が誕生した。パリに本部が置かれた。当初の加盟国はフランス/ベルギー/オーストリア/米国/英国/スイス/イタリア/ドイツ。
前年に起きた死亡事故が、制限のない大型化競争によるという反省から、各国の車両規定を統一するため、AIACRが結成された。AIACRが定めた最初のフォーミュラ(規定)が、米国にならった最大重量1000kgまでというものであった。2004年の大会はこのフォーミュラに則って開催された。
AIACR結成にあたっては、国別対抗レースとして、各国の自動車クラブがエントリー資格であったゴードン・ベネット・トロフィー・レースが大きな働きをしたと考えられる。
ゴードン・ベネット・トロフィー・レースは、欧州の自動車レースに影響を与えただけでなく、米国のレースにも大きな影響を与えた。
1905年、第6回ゴードン・ベネット・トロフィー・レースに参加した米国人実業家カール・フィッシャーは、欧州車の優秀性を痛感して米国に戻り、一念発起、米国車の性能を向上させるための本格的なコースを作ろうと決心する。それが、1909年に完成したインディアナポリス・モーター・スピードウェイであった。
参考サイト
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/ms/circuit/20040319vi61.htm
http://www.belbel.or.jp/~takatsukasa/gp_021.htm
http://www.honda.co.jp/IRL/spcontents2003/john/07a/
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1899年、米国ニューヨーク・ヘラルド社の社主であったゴードン・ベネットは、フランス自動車連盟(ACF)に国別対抗の自動車レースを提案する。1900年ゴードン・ベネットがトロフィーを寄贈し、ゴードン・ベネット・トロフィーレースとして、史上初の国際レースがパリ~リヨン間で行われた。
このレースは、国別対抗レースで、各国のエントリー資格は各国自動車クラブとし、各国の出場車は3台までとされた。このとき、出場するマシンがどこの国に属しているかを識別するために、国別に車の色を塗り分けられた。そしてレースに優勝すると、次回は優勝した国の自動車クラブがレースを開催することとされた。
このゴードン・ベネット・トロフィーレースは、欧州と米国の自動車レースに大きな影響を与えた。都市間レースが禁止された欧州では、1903年公道を閉鎖したサーキット(アイルランドで開催)で行われた第4回ゴードン・ベネット・トロフィーレースが注目を集めた。米国の新聞社をスポンサーとする同レースは、観客席が設けられるなど、米国の影響をうけていた。
米国では既にクローズドな(閉鎖された)コース(多くは競馬場)でレースを行い、観衆から観戦料金を徴収していた。また、参加車両の重量を1000kgに制限して大型化を防いでいた。欧州の自動車レース運営の中心を担っていたフランス自動車クラブ(ACF)は、米国のレース運営に注目していた。
参考サイト
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/ms/circuit/20040319vi61.htm
http://homepage1.nifty.com/c_field/before.html
http://www.belbel.or.jp/~takatsukasa/gp_021.htm
http://gold-river.web.infoseek.co.jp/dumans001.html
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1894年に世界で最初の自動車レースがパリ~ルアン間で行なわれたが、その翌年にACFにより最初の本格的な自動車レースがパリ~ボルドー間で開催された。いずれもフランスのパリを起点としたものだった。
その後毎年のようにパリを基点として、アムステルダムやベルリンを終点とする千数百キロの公道を走る都市間(シティ)レースが盛んに行なわれた。当時の参加車にはまだ何の制限もなくエンジンは次第に巨大化し、時速100kmを越えるようになった。一方で道路、ブレーキ、操縦性は不十分なままだった。その上人気が高まり大観衆が道路を埋め、猛スピードで車が通る時だけ群衆がさっと道を開ける状態であった。
このような中で1903年のパリ~マドリード・レースで悲劇が起きた。ルノーもこのレースに4台の車を参加した。前車の砂塵で前が見えないタイトコーナーで、マルセルのルノー車はオーバーペースで溝に突っ込んで死亡、また観客にも死傷者が出て、フランス政府はレースをボルドーで中止させ、それ以降公道レースを禁止した。
以後、閉鎖された周回路での競争を促すこととなった。「サーキット」という考え方がここで芽生える。ただし本格的なレース専用サーキットの誕生は1907年のブルックランズ(英国)が最初で、それまでは、公道や広大な広場を閉鎖しての臨時コースといった趣だった。
参考サイト
http://www.ozora-net.co.jp/indy/indy500/basicdate/index_h.html
http://gold-river.web.infoseek.co.jp/dumans001.html
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/ms/circuit/20040319vi61.htm
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一方、米国では、米国でガソリン自動車の開発が始まってから3年後の1895年11月、その性能を試すべく初めてレースが開催される。シカゴからエバンストンまでの往復54.36マイル(約87km)を競い、フランク・デュリエが優勝。平均時速は7.5マイル(12km)だった。
翌1896年には競馬場を改装した全長1マイルの周回コースで、初のオーバルレースが行われ、5マイル(8km)のレースを電気自動車が制した。当時米国の道路事情は、欧州に比べ粗雑で整備が行き届いておらず、市街地コースはレースには適していなかった。そこで現在の米国の自動車レースに代表される、オーバルコースでのレースが主流となっていった。
1907年には、フォードがフォード・T型を発売し、自動車の大衆化が世界に先駆けて始まった。フォードは、流れ作業による大量生産方式を採用し自動車の価格を引き下げることに成功した。これにより富裕層の所有物であった自動車を、大衆が所有することが可能となり自動車産業は巨大なものとなっていった。
競馬場を改造した円周1マイルのショートオーバルでレースが行われていた中、1909年、実業家のカール・フィッシャーによって一周2.5マイルの本格的なレース場、インディアナポリス・モーター・スピードウェイが建設された。できあがったコースの表面には、当初細かい砕石が敷かれていた。初めてのレースは、1909年8月19日に300マイルレースとして開催された。しかし、事故で6名が死亡する大惨事となり、レースは235マイルを終えた時点で中断された。
コース表面の砕石が事故の原因とみなされ、コースは10ポンド(約4.53kg)の重さのレンガ320万個によって舗装し直された。新しく舗装されたコースは、翌年のレースで予想通りの効果を発揮し、3年目の1911年からは500マイルという距離で行われ、40台が参加、レイ・ハロウンが優勝した。このときの平均時速は74.59マイル(約120km)、所要時間は6時間42分だった。
参考サイト
http://www.ozora-net.co.jp/indy/indy500/basicdate/index_h.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%87%aa%e5%8b%95%e8%bb%8a
http://www.honda.co.jp/IRL/spcontents2003/john/07a/
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1890年のパリ博に展示された、カール・ベンツ発明のガソリン自動車を見て、非常な関心を寄せたフランス政府が、1894年7月にその性能を試すため開催したのが、世界で最初の自動車レースと言われる。フランス最大の日刊紙パティ・ジャーナルが新聞販売策とし主催し、パリからルーアンまで78マイル(約125km)の距離を、21台が競った。
最初にゴールしたのは、平均時速18.6kmのスピードを誇るドデオンという蒸気自動車だったが、メカニックも同乗していたという理由で2位に。1位は、平均時速17kmのプジョーとパナール・ルパソールが同順で選ばれた。(一説には、パナール・ルパソールが単独1位で賞金200ポンドを受け取ったという話もある)
ラリー終了後の夕食会で、自然発生的に「フランス自動車クラブ」(ACF)が誕生し、以後の自動車スポーツ史で、フランスが大きな力を持つよりどころとなった。
翌1895年にはACF主催による世界初の本格的な自動車レースがパリ~ボルドー間往復(1,179km)で行われ、参加22台中、完走9台、そのうち蒸気機関車はビリの1台のみ。あとはすべてガソリン車であった。以後自動車レースはガソリン自動車の発展に大きく寄与していった。なお、このレースの資金援助を行ったのがニューヨーク・ヘラルド紙の社主ゴードン・ベネットであった。
初期の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、貴族や大金持ちだけが所有できるものであった。そして彼らが持っている自動車で競走を行ったのが自動車レースの始まりだった。このため、レース場は、貴族や金持ちの社交の場であり、主催団体といっても金持ちクラブに過ぎなかった。なお、このころに行われた初期の自動車レースで活躍したのが、ルノー、プジョー、パナールのフランス勢であった。
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ガソリン自動車は1885年、ベンツの創始者、カール・ベンツと、ゴットリーブ・ダイムラーによって製作された。1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)を発明すると、ダイムラーがこれを改良。二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1885年にダイムラーによる特許が出されている。
1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良。車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人は夫の隙を狙いこの自動車を自力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。ベンツは最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売した。また、ダイムラーも自動車会社を興した。現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両人とされることが多い。
なお、ガソリン自動車が発明される、50年ほど前の1830年代には、すでに電気自動車が作られており、実はガソリン自動車より古くから開発が続けられていた。ガソリン車登場当時は蒸気自動車、電気自動車ともに開発が進んでおり、既に市場に広く出回っていた。1896年米国初の本格的な自動車レースは、競馬場のダートコースを使って行われたが、このレースを制したのはなんと電気自動車であった。
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自動車の発明は、産業革命が始まった1760年代の英国へさかのぼる。1765年にジェームズ・ワットが発明した蒸気機関によって、英国の産業が飛躍的な発展を遂げた。
この蒸気機関という動力は世界中から注目を集め、そのわずか4年後の1769年にフランス人のニコラス・ジョセフによって、蒸気自動車が作られた。初めは荷車に蒸気機関を乗せただけの簡単なものだった。
その後、蒸気自動車は、英国では1827年ごろから定期バスとして都市部及び、都市間で広く用いられ、1860年ごろにはフランスでも用いられるようになった。1900年ごろには米国で、石炭の代わりに石油を使った蒸気自動車が作られ、さらに普及していった。米国では、1920年代後半まで蒸気自動車が販売されていた。
1865年、英国で赤旗法が施行され、当時普及しはじめた蒸気自動車は、道路を傷め馬を驚かすと、郊外では4マイル(6.4km)/h、市内では2マイル(3.2km)/hに速度を制限され、人や動物に警告する為に、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。
このため、英国での蒸気自動車の製造、開発は、この赤旗法が廃止される1896年まで停滞することになり、それに続くガソリン自動車の開発においても、ドイツやフランスが先行する事になる。
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米国伝統のオーバルと言われるが、実際、米国にある1320ヶ所のレース場のうちの78%がオーバルといわれる。
オーバルは、基本的に楕円形をしたコースだが、「ツインリンクもてぎ」のようなタマゴ形(EGG SHAPED OVAL)、「インディアナポリス」のような長方形に近いもの(SQUARE OVAL)、D字形をしたもの(D SHAPED OVAL)、三角オムスビ形のもの(TRI-OVAL)などがある。
また、全長1.5マイル(約2.4km)以上の高速オーバルを「スーパースピードウェイ」と呼び、1.5マイル以下のコースは「ショート・オーバル」と呼んでいる。
左回りの一方向へ高速走行となり、コーナーにはバンクがある。このため、マシンは左に曲がることだけを踏まえて設計されているため必然的に左側に重心が偏っている。ちなみに、マシンに装着しているリヤタイヤの外径には、内輪(左側)よりも外輪(右側)の方を大きくする”スタッガー”と呼ばれるセッティングが施されている。
これは、コーナリング中のマシンの安定性を確保するため。これも左回りのオーバルコースで争われるレースならではの特徴。したがって、常にマシンは内側方向へと向こうという習性を持つため、直線走行時は、ハンドルを軽く外側に切ることになる。
今年のF1は、ローコスト化の一環として、「レース中のタイヤ交換禁止」を決めらていた。ところが、インディアナポリスのオーバルコースの一部を使って行われた米国F1グランプリでは、ミシュラン製のタイヤがオーバルのバンクに対応できず、ミシュラン製のタイヤを使用していた7チーム14台が決勝戦を棄権し、結局、ブリジストンの3チーム6台のみで決勝戦が行わる異常事態となった。
参考サイト
race1.html へのリンク
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米国の自動車レースの主流は、オーバルレースであり、見る者はレースの進行をすべて見渡すことができる。これに対し、欧州の自動車レースの主流は、ロードレースやモナコGPのような市街地コースであり、レース全体を見渡すことがほとんど困難である。
競馬や自動車レース以外にも、観る者の視点において、英国のスポーツと米国のスポーツでは異なった特徴を持っている。英国のスポーツの代表ともいえるサッカーやラグビーでは試合時間はレフェリーが管理しており、観衆は、試合時間が後何分残っているのかを正確には知ることができない。近年は、ロスタイムの目安を公表しているが、正確な時間がスタジアムに刻まれることはない。ところが、NFLやNBAでは、残り時間が電光表示され、観ている者が残り時間を正確にカウントすることができる。
競馬や自動車レースだけでなく、英国を含めた階級社会の欧州では、スポーツは王侯貴族や資本家といったパトロンの支援により成り立ってきた経緯があり、必ずしも観衆に考慮する必要はなかった。これに対し、階級としてパトロンが成立し得ない米国では、スポーツは、入場料と引き替えに参加するスペクテイター(観衆)としての大衆の支持を得なければ成立し得なかった。
つまり、欧州のスポーツはパトロン文化であり、米国のスポーツはスペクテイター文化ということができる。米国マスターズ・ゴルフでは、観衆であるギャラリーをパトロンと呼ぶ。米国では、スペクテイターがパトロンである。
参考サイト
CART.htm へのリンク
p49-53.pdf へのリンク
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競馬発祥の地である英国の競馬が階級制に根ざして「Sports of Kings(王侯貴族のスポーツ)」として発展していったのと対照的に、米国競馬は、大衆に根差し、「草競馬(Camptown Races)」として発展してきた。
英国の競馬場は、天然の地形を利用した、起伏に富み、深い芝の広大なコースを有するが、一方では自然の地形をそのままに用いるために、観客の観戦には適さないコースが見受けられる。これに対し、米国の競馬場は、競馬がレジャーとしての側面を持つことから、平坦で見晴らしの利く小回りコース(オーバル)を用いることで、観客にとっても見やすいコースとなっている。
この違いは、自動車レースについても見て取ることができる。例えば、F1のロードレース(サーキット)では、周回数は55周前後、つまりマシンが目の前を通り過ぎるのは55回程度。一度通り過ぎると車は1分30秒ほど戻ってこないし、その間どこでどうなっているか、観客には見えない。
その点オーバルコースは、競馬場と同じくどこの席に座っても、コースが全て見渡すことができる。例えば、インディ500では、コースが2.5マイル(4km)、マシンのスピードが平均360kmで一周40秒程度で目の前に戻ってくる、周回数200周なので目の前をマシンが200回通る。
参考サイト
CART.htm へのリンク
p49-53.pdf へのリンク
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米国レーシング、伝統のオーバル・コースとは、楕円型の円周コースのことで、レースは、その円周コースを周回し競い合う。いまやIRLを上回る人気を得ているNASCARもまた、オーバルで行われる。オーバルは、米国のクローズドコースを使った初めて(1897年)のレースが競馬場のダートコースを利用して行われたことによる。
例えば、1876年に競馬場として開設された“ミルウォーキー・マイル”は、1903年に初の自動車レースが開催された、現役レース場としては、世界一の歴史を誇るオーバルコースとして知られている。もちろんその頃はダートと呼ばれる土の路面で、インディスタイルのレースが初めて行なわれたのは1911年、その後1954年にコンクリート舗装がされ現在に至っている。しかしその後もインフィールドにおいては1/4マイルのダートレースが1960年代まで行なわれていた。
ところで。米国の競馬場は、1周1マイルの左回りのオーバルコースが一般的であり、このため、米国の自動車レースも左回りが基本となっている。
参考サイト
07.html へのリンク
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milw00_1.html へのリンク
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1996年IRL主催となったインディ500は例年と変わらぬ40万人近い観客の動員に成功し、オーバルコースを中心とする米国伝統の「興行としてのレース」展開を志すIRLはいよいよ自信を強め、97年以降大幅なレギュレーションの変更を進めるなど、独自の路線を歩き始めた。
2003年からインディカーという名称を復活させ、インディカー・シリーズとして、あくまでもアメリカ国内のオーバルコースに固執しながら低コストのフォーミュラシリーズを展開していった。
発足当初はCARTに比べマイナーなカテゴリーであったが、2003年よりホンダ、トヨタが揃ってCARTよりIRLへ移籍表明を行ってからはそれまでの有力CART参戦ドライバー、チームも挙って移籍に追随し、一気に北米フォーミュラーレースのメジャーへと取って変わった。
日本でもそれまで1998年よりツインリンクもてぎで開催されてきたCARTのレースは2003年からIRLに変更し、インディ・ジャパン300として開催。これがIRLの初の米国以外での開催進出となった。
参考サイト
№498(2005/08/14)と同じ
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分裂後も、主力選手やチームが参加しているCART側が、圧倒的に強いと思われていた。98年以降、CART側は、インディライツ (2002年以降廃止)、フォーミュラ・アトランティックを買収し、ドライバー育成のための独自の「ラダーシステム」が完成。また、もてぎ(日本)やリオ(ブラジル)でのレース開催を実現させたほか、メキシコやヨーロッパでのレース開催など、国際化への積極的な動きがあった。このあたりの数年間がCARTの隆盛のピークとなった。
2000年あたりから、あまりに急激な国際化戦略や年間レース数の増加についてのチーム側の不満が表面化。これを受けて、2000年シーズン途中にCEOのA.クレイグが辞任、2001年にロングビーチGP創始者でもあるクリストファー・プークがCEOとなり、チーム代表からなる "Board of Directors" が運営を掌握するという体制がとられた。
また、コンペティションが激しくなるとともにエントリー費用も膨大なものとなり、豊富な資金力を持つチームでないとエントリーすること自体が困難となってきていたところに、ネットバブルの崩壊による米国経済の不振が追い討ちをかけた。
米国国内でのマーケットを睨んだスポンサーやチームがインディ500を擁するIRLへの鞍替えを検討するようになった。2002年にはCARTの老舗チームであり、2001年のCARTチャンピオンドライバーを擁するペンスキーがIRLへ転向。チップ・ガナッシもIRLにも自らのチームをエントリーさせるなど、CARTからIRLへという流れが出てくる。
さらに2002年中旬以降、レギュレーション改訂のもつれなどから、トヨタ、ホンダの両エンジンサプライヤーが2003年にはIRLへ転向することを発表すると、一気にCART離れの傾向が強まる。これまでCARTの顔ともいうべき立場だったベテランのマイケル・アンドレッティがIRLへ、そしてチップ・ガナッシも完全にIRLへ転向していった。
CARTは2003年からはフォードエンジンによるワンメイクのシリーズとして、コストなどを大幅に削減して生き残りをかけての戦いを余儀なくされた。2003年9月に OWRS (Open Wheel Racing Series) というグループが CART を買収する契約が合意に達し、現在、再建中である。
CARTは、常にF1を意識しながらハイパフォーマンスなマシンと独特のコースコンビネーションを売り物に世界のトップカテゴリーを目指し、その結果、参戦費用の高騰という副次的現象に悩まされ、経済の低迷とともに勢いを失っていった。
しかしながら、参戦費用の高騰はF1においても起きている問題であり、ネットバブルの崩壊による米国経済の低迷は、ライバルであるIRLにおいても同じ条件であり、CARTの破綻は、伝統のオーバル・レースの減少という米国らしさの喪失が主因ではなかったか。
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№498(2005/08/14)と同じ
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ところが、この国際化路線により、CARTに参戦する米国人ドライバーの減少と米国国内のレース数の減少、何よりアメリカンレーシングそのものであるオーバルレースの減少にインディ500主催者であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)が不満を持ち、1994年にはUSACの支援を受けたIMS(Indianapolis Motor Speedway)が1996年より新しいカテゴリーを発足させる旨の発表。
その後1995年までにCARTとIMSとの間で何度か交渉が持たれたが話がまとまらず、96年USACとIMSはIRL(Indy Racing League)を設立し、CARTとは別の、インディカー・シリーズを展開することになった。
1996年、CART側はインディ500をシリーズカレンダーから除き、それまでのレギュレーションのレースを維持する一方、IRL(Indy Racing League)側は、インディ500を中心としたオーバルレース専門のレースを運営開催することになった。
1996年、以後6年間CART及びIRLの双方ともシリーズ名に「インディカー」を使わないこととなる。これは、IRL側の「インディ500に出場していないチームがインディカーシリーズを名乗る資格はない」という発言にCART側が反発し、逆にインディカーの名称使用に関しては、契約上2002年までCARTが所有すると主張したため。
このため、CART側は、1997年以降CARTワールドシリーズ、1998年以降はFedExを冠スポンサーにFedExチャンピオンシップ・シリーズと改め、また、今までインディ・カーとよばれていたCART用のマシンはチャンプ・カー(Champ Car)と呼ぶように変更された。チャンプ・カーとは1909年から続いている米国国内チャンピオンシップを走る車、即ちチャンプ・カーのこと。
参考サイト
№498(2005/08/14)と同じ
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CARTは、シリーズ一本化以降、オーバル中心だったシリーズに、ヨーロピアンタイプのロードコースや観客が見に来やすいストリートコースを加えるなど、F1をお手本に米国的な発想を加えた近代的なレース・シリーズを作り上げていった。
その名もインディカー・ワールドシリーズと銘打たれたCARTのシリーズは国際的にも注目を集めるようになり、F1を主催するFIAは、F1を脅かす存在として非常に警戒心を持ったと言われる。
事実、1980年代後半からマイケル・アンドレッティ、アル・アンサーJr.という2世ドライバー2人の活躍もあってCART人気が急上昇し、それが原因となってFIAと対立。FIA側はCARTならびにインディカー関係者のライセンス剥奪などで圧力をかけた。しかし、CART側はこれを無視、1991年にはオーストラリアで初めて北米大陸外でのレース開催を強行する。
FIA側も91年オフに「世界オーバル選手権」構想を発表してCARTに対抗するが、結局「北米大陸外でのCART管轄レースは、オーバルコースでの開催に限る」ということで決着。
1990年代に入ると、93年にヨーロッパから現役F1チャンプのナイジェル・マンセルが参戦、日本からはファイヤストン(≒ブリヂストン)、ホンダが参戦と順調に発展、と思われた。
参考サイト
№498(2005/08/14)と同じ
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