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「キャンプインに際し、コミッショーからのメッセージ」・・・
http://www.iblj.co.jp/news/pdf/newsrelease070201.pdf
あれ、コミッショナーは辞めて代行になったんじゃないのと思ったら、四国アイランドリーグ(IL)の石毛コミッショナーのメッセージでした。石毛氏は、四国IL社長という意識でしたが、球団を分社化したので、コミッショナーということですよね。いままでそんなに意識していなかったのですが、NPBがコミッショナー不在になったので、石毛コミッショナーというとなんか偉く感じちゃいますね。
四国ILも、NPBと同じく、香川オリーブガイナーズ(OG)・愛媛マンダリンパイレーツ(MP)・徳島インディゴソックス(IS)の3球団が2月1日(木)から、高知ファイティングドッグス(FD)が2月3日(土)から、それぞれキャンプインしております。
ILは、球界再編で揺れた2004年石毛宏典がリーグ運営会社IBLJを設立し、「野球熱が高い」「交通の便がよい」などの理由で四国に独立リーグを置くことにしたそうですが、実際は見通しが甘かった。
四国には、プロ野球の試合ができるナイター施設を持った球場は、愛媛県の坊っちゃんスタジアムと香川県のオリーブスタジアムの2ヶ所しかないことが判明。徳島県内の硬式球場のナイター設備は軟式用の照度で、高知県内にいたってはナイター設備のある硬式球場は1ヵ所もないといった貧弱さでありました。
高知と言えば、昔は阪神、西武、ダイエー、近鉄などプロ野球キャンプのメッカでしたが、近年では、暖かさと設備の整った沖縄にその地位を奪われ、現在は阪神が安芸市、オリックスが高知市に二次キャンプをはる程度です。いくらキャンプにはナイターは必要ないといっても、プロ野球のできるナイター設備ぐらいプロ野球キャンプのメッカであったらあって当然だと思うんですが。球団が去るのもうなずけます。
そんなわけで、高知と徳島はナイターなしでスタート。やっぱり、客がはいらねえー。初年度の2005年度はなんと2億8千万円を超える赤字。確か、最初は資本金1千万円だったはずだから3億円の増資かな。その大半というか半分を出資したらしいのが、2005年9月に専務取締役となり、昨年7月代表取締役専務となった鍵山誠氏が経営する株式会社S.R.D.。株式会社S.R.D.は、インターネットカフェ「funky
time」を、徳島県、香川県を基盤に西日本へ店舗展開している。鍵山氏はその代表取締役。2005年3月に四国アイランドリーグのオフィシャルスポンサーになったのが縁。てなもんで、ILの実権は、代表取締役となった鍵山誠氏に移った。
2006年に4球団をIBLJ100%子会社として分社化し、同年7月末までに香川、愛媛、徳島の全株式を売却。香川OGのオーナーになったのが、鍵山氏の株式会社S.R.D.。愛媛MPは、広告代理店の星企画、徳島ISは、ユーセイ・ホールディングスがオーナー会社。スポンサーのみつからなかった高知FDは、リーグ運営会社のIBLJがそのまま運営することになり、社長に鍵山氏が就任し、経営にあたっている。高知球団はスポンサーもなく、球場もなくといった苦しい状況が続いている。
一方、ILとしては、2006年度の収支は、入場者数は千人を切り800人そこそこでしたが、赤字額は1億5千万円に半減。2007年の傾向は、分社化により球団間に格差が生じ独立の機運が高まってきたこと。
香川OGの小崎貴紀社長(36)は、読売新聞の四国アイランドリーグ「正念場 3年目始動…4球団社長に聞く」のなかで、「昨年は年間優勝し、投手2人がNPB(日本プロ野球組織)入りした。オフは積極的に補強に動いた。今後のネットワーク作りも視野に海外選手を探しているほか、球団単独でプロ一軍との練習試合ができるようアプローチしている。リーグから突出しても構わない。強いチームを作りたい。運営面でも追い風を受けている。チームスポンサーは3、4倍に増えそうだ。職員を増やし、年間チケットを昨年の2倍以上売りたい。」と述べています。
実際、香川OGは、単独で阪神タイガース二軍とサーパス(オリックス二軍)との試合を行うことを決めています。
四国アイランドリーグ関連サイト
http://osaka.yomiuri.co.jp/sl-baseball/index.htm
http://ameblo.jp/zinomarc/entry-10024414224.html
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MLBのスモール代表が「メジャーリーガーの北京オリンピックへの参加は難しい」と北京で話した同じ日(1月30日)の同じ北京で、ヤンキースのランディ・レビン(レイバン)社長と中国野球協会(CBA)の胡建国主席は、協力関係を締結することで合意し、覚書に調印した。CBLも、2003年にMLBと提携関係を結んでいるが、単独チームとは初めての提携となる。中国市場への進出を企図するヤンキースと、北京オリンピックに向けて競技力の向上を目指す中国側の思惑が一致した。
レビン社長は北京での共同記者会見で「中国の市場には非常に大きな潜在力がある。選手の潜在力にも期待している」と述べたが、中国選手を対象とした野球アカデミーの設立するなど、「野球先進国の日本とは異なるタイプの連携」(ヤンキース関係者)を目指すとしている。一方、中国側の胡主席は「世界とのレベルの差をできるだけ早く縮めたい」と抱負を語った。
訪中していたヤンキースのレビン社長とキャッシュマンGMは、その足で来日、2月1日提携関係にある読売ジャイアンツを訪問、2日・3日は阪神タイガースのキャンプ地を訪れたが、ヤンキースのアジア訪問の狙いは、アカデミーの設立を目指して6カ月以上も交渉してきたCBAとの提携にあるという。
「日本とは異なるタイプの連携」とは、プロバスケットボールのNBAで活躍する中国選手、姚明(26)=ロケッツ=のような野球選手を発掘することだという。具体的には、コーチやスカウト、トレーナーなどを派遣して選手育成を図る一方、キャンプ地のフロリダ州タンパに中国の選手やコーチを受け入れる。
中国では姚明がアジアから初の一流選手となったことでNBA人気が急上昇。市場拡大に成功した。ヤンキースも30球団最初の「野球アカデミー」を設立することで有能な選手を集め、中国での知名度も高めたい考え。「中南米の国々と同じ。どの球団にも接触のチャンスがあるなら、少しでも先に進めたいだけだ」と、キャッシュマンGMも中国出身選手の獲得を否定しなかった。全世界にスカウト網と市場を拡大するヤンキースに中国の選手が入団するのは、それほど先の話ではないかもしれない。
以上は、ヤンキースと中国の提携記事をネット検索でまとめたものです。出典は主に、
http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200701/mt2007012700.html
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/01/31/10.html
http://www.sankei.co.jp/sports/baseball/070131/bbl070131001.htm
なお、読売ジャイアンツ訪問は上原投手、阪神タイガース訪問は藤川投手の獲得にあるという話もでていいました。
日本、台湾だけでなく中国への進出を目論むヤンキースだが、なんと、ヤンキースの前売り入場券が空前の売れ行きを上げていることが2日(日本時間3日)、明らかになった。
米大リーグ、ヤンキースの前売り入場券が、発売3日目の2日で300万枚を超えたと、公式ホームページ(HP)が伝えた。昨年は3月2日に300万枚に達したそうで、トロスト最高執行責任者(COO)は「昨年より1カ月も早いなんて驚きだ」と話している。 一方、ライバルのレッドソックスも1月末の時点で前売りが227万枚を超えた。本拠地のフェンウェイ・パークは、7年連続で入場者記録を更新中で、昨年は約293万人が入った。(2007/02/03
サンケイ新聞)
http://www.sankei.co.jp/sports/baseball/070203/bbl070203001.htm
MLBが市場拡大へアフリカ進出(2007年02月03日スポニチ紙面記事)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/02/03/12.html
世界にマーケットを広げている大リーグが今度はアフリカ進出に乗り出す。メッツのミナヤGM、元カブスのベーカー監督らの一行が1日、野球普及のためにガーナに出発。現地では4日間滞在し、野球用具などを寄贈する。ガーナ訪問のきっかけとなったのは、昨年6月のサッカーW杯。米国を2-1で下した試合を見た同GMは「驚くべき身体能力。野球ができないはずがない」と、将来の“メジャーリーガー供給国”として高い興味を示した。up
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星野ジャパン、メジャー組参加困難に(2007年01月31日)
http://news.livedoor.com/article/detail/3005439/
北京五輪で金メダルを目指す星野ジャパンは、国内組だけで構成される可能性が高まった。米大リーグ機構(MLB)ジャパンのジム・スモール代表は30日、訪問先の北京で開かれた記者会見で、大リーグに所属する日本人選手が来年の北京五輪に参加できる可能性について言及。「大リーグのシーズンとぶつかってしまうため、五輪は難しい」と、実現は困難との見通しを明かした。
なぜか北京にいたMLBの代表の話ですが、本大会(シーズン中)への参加は従来から認めてこなかったので、別にニュースで取り上げるような話ではありませんが、今シーズン終了後に行われるアジア予選については言及していたかったそうで、そちらのほうがニューズバリューがあります。
北京オリンピックのアジア予選枠は一位通過の1枠のみで、ライバルとなる韓国・台湾もあなどれない力を持っている。6人のメジャー投手陣で固めた韓国は、WBCで対日本を2勝1敗と苦しめました。特に台湾は、地元開催ということもあり、「ヤンキースの王建民を含めたメジャー選手や日本プロ野球の投手陣を揃えられれば強力なチーム編成が可能だ。そんな中で、仮に日本代表チームがアジア予選でメジャーリーガー抜きの編成で臨んだとすれば、他国のドリームチームに苦しい闘いを強いられるだろう。イチローをはじめ、2大会に参加してきた日本のエース松坂など、WBCの代表メンバーや、前回アテネ五輪代表メンバーから考えると、数人は欠けてしまうからだ。(All
About 野球ガイド コモエスタ坂本氏)」http://allabout.co.jp/sports/baseball/closeup/CU20070122A/index3.htm
既に、デビルレイズに移籍した岩村は星野ジャパン入りを表明していますし、レッドソックスに移籍した松坂も契約上は支障がないことを代理人のボラス氏が明らかにしています。ただ、イチローはオリンピック代表入りは早々に辞退表明しています。この、アジア予選にのみメジャーリーガーが参加する案について、星野日本代表監督が、WBC優勝監督の王ソフトバンク監督をキャンプ地に尋ねたとき・・・
王監督が私見としながら闘将に提言したのがチーム編成だ。「(予選で)メジャーリーガーを連れて来ても、本戦で彼らが抜けた場合にそれを補う選手のモチベーションを高めるのが非常に難しい。WBCは予選、本戦と同じメンバーだった」――。
換言すれば、北京五輪で悲願の金メダル獲得に向け、WBCで主役を務めた松坂、イチロー抜きで戦うことを意味する。現時点で日本人メジャーリーガーはアジア予選の参加は可能性が残されているものの、08年8月に行われる本戦への出場は極めて難しい状況だ。このため仮に松坂らが予選に出場できても、本戦では代替選手が必要となる。王監督は戦力低下よりメンバーが大幅に刷新された場合の“チームの和”に及ぼす影響を懸念しており、予選から国内組のみでのチーム編成を提言したものと思われる。
一方で星野監督は「ドリームチームという視点から行けばメジャーリーガーに参戦してもらいたいが、彼らがいなくても十分に戦えるメンバー、みんなが面白いと感じるメンバーは組めると思っている」と話している。イチロー、松坂には頼らない。闘将の決断が注目される。(2007年02月03日付 スポニチ紙面記事)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/02/03/01.html
王監督の言い分も分かるけど、まずはアジア予選を一位通過することが先決。来年3月の世界最終予選は日程的にも・チーム編成上も問題がありすぎる。とすれば、アジア予選は総力戦(ドリームチーム)で臨む必要があるのではないでしょうか。かといって、ドリームチームでアジア予選を通過できなかった場合、世界最終予選には、アジア予選時よりメジャーリーガーの参加は困難と思われるので、王監督が指摘した選手のモチベーションの問題が出てくると思われます。やはり最後は「闘将の決断が注目される」ことになります。up
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日韓シリーズ07年秋から隔年開催(2006年7月4日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20060704-OHT1T00044.htm
日本と韓国プロ野球による「日韓シリーズ」が来秋から2年ごとに行われることになった。3日、プロ野球実行委員会で日本プロ野球機構(NPB)側から提案され、正式に承認された。07年11月中旬に5試合を実施。主催はNPB、読売新聞社となる予定。第2回大会は09年秋、韓国での開催を計画。日米野球同様、オールプロの選抜チームで臨む。
昨年の実行委員会で日韓シリーズが承認されたが、2007年11月というのは、11月11日までアジアシリーズを行い、11月26日からは台湾で北京オリンピックアジア予選が始まる。しかも、日本代表の集合が11月20日で、24,25日には壮行試合も予定されているという。NPB選手会の宮本会長は、「その間に5試合やるのは無理がある」「来オフの最重要な試合は五輪予選。日程的に難しいと感じている」と述べている。ただし、宮本会長「手の内を見せるデメリットはあるが、壮行試合が日韓戦ならまだ考えられる」と付け加えた。http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20061208-OHT1T00046.htm
WBC第1回大会の日本代表には、前年日本シリーズとアジアシリーズを制した千葉ロッテマリーンズから8選手が選ばれている。北京オリンピック日本代表もその時点で調子の良い選手を選出するとしていることから、日本シリーズ・アジアシリーズに進出したチームから大量に選ばれる公算が大きい。
また、日韓シリーズは、日本と韓国プロ野球の選抜チーム同士の試合となるが、多くの選手がオリンピック代表選手と重複した選出になると思われる。オリンピック日本代表以外で選抜チームを組んでも、日韓シリーズを行う意味がないし、興行的に期待できない。
日本シリーズ又はアジアシリーズに進出したチームの選手は選抜しないという方法もある。チームによっては、アジア予選までの1ヶ月以上実践から遠のく選手もいるので、場合によっては、実践練習の場としては有効かもしれない。しかし、大事なアジア予選の前に相手に手の内をさらすような試合を、強行日程の中で組み必要があるのだろうか。
ところで、そもそも日韓シリーズは、トップ選手同士による戦いであっても興行的に成り立つのか疑問視されている。以前、中日新聞が、日韓シリーズが主催したことがあるが、収益が上がらず取りやめになった経緯がある。
日韓シリーズは、昨年のWBCの盛り上がりのなかで、韓国が日本に2勝1敗で勝ち越しながら、準決勝で敗退したくやしさから、思いつきで出てきたような話であり、日程上も興行上も厳しいものがある。もし、実施するのであれば、2008年11月に2009年3月に予定されているWBC第2回大会を盛り上げる前哨戦として、実施したほうがよいのではないか。
韓国でやれば人が入るという話がありますが(いまの案でも、2009年秋は韓国で開催予定)、ドーム球場のない韓国の11月は寒くて試合できないんじゃないかな・・・。up
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■北京プレオリンピック大会(2007年8月18日~23日:北京)
同大会には日本、中国のほか、五輪出場を決めている米国、キューバが出場予定。球場も来年本大会の会場(7月完成予定)を使用する。日本代表編成委では同大会に星野監督以下コーチ3人の五輪スタッフで臨むことを確認。また、チーム編成はプロが公式戦中のためプロ2軍とアマの混合チームで臨む予定で、星野監督は「都市対抗と重なり社会人は難しい。2軍の元気な選手と(大)学生になる」と説明。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/01/26/02.html
10月27日~11月4日 日本シリーズ
11月8日~11月11日 アジアシリーズ
?日韓シリーズ(いつやるの?)
■ 第24回アジア野球選手権大会兼北京オリンピック野球競技アジア地区予選(11月26日~12月2日:台湾)
・出場チームは4チームで、シードの日本・韓国・台湾の他に予備予選を通過した1チームが加わる。残りの1チームは、タイまたはフィリピンが濃厚。
・アジア地区予選の出場決定枠は、中国が開催国枠で既に出場が決まっているため、1位通過の1枠のみ。2位、3位は、2008年3月台湾で開かれる最終予選にまわる。
・予選リーグは、前回の3日間1回戦総当たり戦と異なり、7日間2回戦総当たり戦。MLBのシーズンオフのため、韓国、台湾はメジャー・リーガーの出場も噂されている。
・日本代表の集合は、11月20日で、24,25日に壮行試合が予定されている。
■北京オリンピック野球競技世界最終予選(2008年3月:台湾)
・世界最終予選出場8チーム。内訳は、
アジア=2 地区予選2位・3位チーム
米大陸=2 地区予選3位・4位チーム(メキシコ・カナダ決定)
欧州=2 地区予選2位・3位チーム
オセアニア=1 地区予選1位チーム(たぶんオーストラリア)
アフリカ=1 地区予選1位チーム
・世界最終予選の詳細はまだ決定していないが、出場チームは8チームと決まっている。この8チームが最終の3枠を巡って争う。
・3月はシーズン直前で、WBCで経験したように選手の調整も難しく、シーズン、8月の本大会に影響を与えかねない。アジア大会で1位通過しないと、最終予選で出場枠を獲得しても大きなハンデを負うことになる。
■北京オリンピック野球競技(2008年8月13日~23日:北京)
・8チームを2つのリーグに分け、それぞれの上位2チームにより決勝トーナメントを行う。アテネまでは、各チームが予選リーグを7試合戦ったが、北京では3試合となる。世界最終予選の結果次第では、アジアと米大陸で7枠などという組み合わせも起こり得るシビアな予選リーグだ。比較的楽な相手である欧州枠が、アテネでは3だったのに対して、北京では限りなく1になる公算が高く、決勝トーナメント出場もこれまでになくハードルが高い。
・出場枠8チームの内訳は、出場枠中国(開催国)=1、アジア=1、米大陸=2(アメリカ・キューバが決定)、欧州=1、世界予選=3。
参考サイト All About Japan http://allabout.co.jp/sports/baseball/closeup/CU20070122A/
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2008年北京五輪野球の星野仙一監督(60)は29日、東京都内のホテルで、田淵幸一氏(60)、山本浩二氏(60)、大野豊氏(51)の代表コーチ就任を発表した。担当は、田淵氏がヘッド兼打撃、山本氏は守備走塁、大野氏が投手に決まった。星野監督は「4人でジャパンを率いて北京に乗り込みたい」と話した。(2007年1月29日日刊スポーツ)
http://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20070129-148756.html
これ以降は敬称を略す。田淵、山本は、星野監督と六大学・プロ野球の同期。大野は、アテネ・オリンピックの投手コーチ。田淵・山本は、富田勝とともに法政三羽ガラスと呼ばれ法政大学の黄金時代を築いた。星野はライバルの明治大学のエースで、黄金時代の法大に苦汁をなめ、一度もリーグ優勝を経験していない。星野は、田淵・山本と同学年だったが、星野は早生まれの1947年生まれで団塊の世代に属する。
星野ジャパンの誕生は、球界の勢力図が、野村・長嶋・王の名球会世代から星野を筆頭とした団塊世代にようやく世代交代劇の観がある。球界では、団塊世代といえども、野村・長嶋・王の名球会世代には頭が上がらない。といっても、田淵と山本は、1946年生まれのプレ団塊世代だが・・・。
田淵・山本のいた法政大学黄金時代のエースが、一学年下で正真正銘の団塊世代である山中正竹。現、横浜ベイスターズ・連盟担当取締役。選手としてはプロ入りせず、社会人・大学監督を経て、50代で球団役員として”プロ入り”した。当初、編成担当として迎えられたが、成績がふるわず、連盟担当となる。バルセロナオリンピック日本代表監督、法政大学教授という経歴を持ち、日本プロ野球組織のなかでは貴重な存在である。
山中に替わって、昨秋、横浜ベイスターズの編成担当に迎えられたのがこれまたアマチュア出身の村上忠則。村上は、前日産自動車野球部監督で、1949年生まれの団塊世代、山中に引き続き50を過ぎての”プロ入り”。高校卒業後、大昭和製紙北海道に入り、その後休部により日産自動車に転籍。現役引退後、野球部監督となり、1998年には都市対抗で優勝を飾る。1999年に監督を勇退。2003年にはIBAFワールドカップ日本代表監督に就任。ベイスターズ入り前は、神奈川日産自動車法人事業部長だった。山中の後任も団塊世代であり、日本代表監督を経験していた。
村上を編成部門のトップ、チーム運営統括に迎えたのが、昨年から球団社長となっていた前東京日産モーター社長・佐々木邦昭。佐々木邦昭は、村上が日産自動車野球部監督をしていたとき、野球部の部長であった。この佐々木も1947年の団塊世代であった。
横浜ベイスターズの球団社長、運営統括、連盟担当というフロント陣は団塊の世代で占められていた。さらに、2007年から指揮を執る大矢明彦も、1947年生まれの団塊世代であり、ベイスターズはフロントも現場も団塊パワーに頼ることになる。up
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アジア枠といっても、サッカーのワールドカップのアジア枠ではなく、NPBの外国人選手枠4人のほかにアジア人枠1人を設けようというもの。韓国の李承燁(イスンヨプ)、台湾の姜建銘(ジャンチェンミン)がいる読売ジャイアンツが積極的。
「アジア枠」実現へ、台湾・韓国を訪問(2006/12/12 日刊スポーツ)
http://www.nikkansports.com/baseball/p-bb-tp0-20061212-129292.html
事業委員会(清武英利委員長=巨人球団代表)が(12月)11日、東京・内幸町のコミッショナー事務局で行われ、来季からの導入を目指すアジア枠について検討された。従来の外国人枠に加え、アジア出身選手を別枠とする制度で、12球団ではおおよその合意に至っている。ただ、過去には台湾や韓国から反対された経緯があるため、22日に清武委員長と西武黒岩代表が台湾を訪れ、日本球界の考え方を説明することになった。年明けには韓国へも出向く。
「アジア枠」協議まとまらず…NPB代表団が台湾から帰国(2006/12/24サンスポ)
http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200612/bt2006122407.html
巨人・清武、西武・黒岩両球団代表らは(12月)22日に台北市内でCPBL(台湾の中華職棒大連盟)首脳と会談し、従来の外国人枠(出場選手登録中4人以内)のほか、アジア出身選手を1人登録できるアジア枠について理解を求めた。しかし台湾側は「国内選手の大量流出につながる」と強く反対し、日本球団がCPBL所属4年以内の選手の獲得を見合わせることなどを要望した。
韓国から「アジア枠」同意得られず…国内の衰退を不安視(2007/01/22 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070122-OHT1T00199.htm
巨人の清武英利球団代表とロッテの瀬戸山隆三球団社長は(1月)22日、ソウルで韓国野球委員会(KBO)の河日成事務総長と会談し、日本プロ野球組織(NPB)が導入を目指す「アジア枠」について説明したが、同意は得られなかった。
アジア枠は、1軍の外国人枠とは別にNPBが新設を目指しているシステム。今回は、韓国の育成レベルの選手獲得枠である点を強調して理解を求めたが、河事務総長は韓国球界の衰退などを理由に、アジア枠構想を受け付けなかった。羽田着の航空機で帰国した瀬戸山社長は「もうちょっと検討、分析しないと厳しい」と話した。
その一方、清武代表によるとKBO側からは韓国選手が数年間だけ日本でプレーするレンタル移籍制度の導入を持ち掛けられたことを明かした。
結局、台湾、韓国の理解が得られず、アジア枠は断念。1月23日の実行委員会で1軍の4人の外国人枠とは別にアジア出身選手を1人加える「アジア枠」は、今季からの導入が困難との認識でまとまった。(参考2007/01/23 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070123-OHT1T00191.htm
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韓国に続いて、台湾の野球事情を同じく朝日新聞の特集からみてみよう。親日的といわれる台湾だが・・・
「以球会友 アジアベースボール事情③」(2007年1月16日 朝日新聞夕刊)
日米に流出、兵役も要因
「3千ドルから!」のかけ声でオークションは始まった。昨年11月、台北市の福林小学校の運動会のイベント。今年から福岡ソフトバンクホークスでプレーする李秉諺(18)=プロ登録名は杜軒=のサイン入りバットは結局、6500台湾㌦(約2万4千円)で落札された。
出席した李選手と米マイナーリーグの林彦峰選手(21)は同小学校のOBだ。2人のサインボールは1個200台湾㌦。同小チームの活動資金となる収益金はこの日、3万4千台湾ドル(約12万5千円)にのばった。「プロの先輩は袴りです」と話す6年の荘英可君(12)は、日本でプレーするのが夢。「ソフトバンクの王貞治監督も知っている」という。
福林小時代、台湾最強を誇った同小チームで活躍した李選手は現在、岡山県共生高校3年。父の李杜宏さん(47)は台湾プロ野球の元選手で今は2軍監督。「日本語も学びながら野球を」との父の勧めで日本に渡った。
同校の野球部では、森下雄一監督(43)が「呼び込んで右に流しても長打になる」とたたえるセンスで、練習試合も含めて通算53本塁打を量産。チームは秋の県大会ベスト8が最高だったが、昨年の高校生ドラフトでソフトバンクから4巡目に指名された。王監督同席の入団会見では、日本語で「4番を打ちたい」と意気込んだ。
台湾では若い人材の海外流出が相次ぐ。昨秋には中学を卒業したばかりの林羿豪投手(16)が読売巨人軍へ。188㌢で、140㌔台後半の速球が魅力だ。米大リーグも獲得に動いたが、林選手は「巨人が約束した良い環境を選んだ」。巨人は日本の高校の通信教育など、手厚い集件を示していた。
日米のスカウトは人材発掘を競い合う。昨年11月、台中市で8カ国・地域が参加したインターコンチネンタルカップ。台湾対キューバ戦のバックネット裏には球速測定器を持つ姿が目立った。始球式には米大リーグ・ヤンキースの王建民投手(26)が登場した。台湾の大学を中退してマイナー契約で渡米し、昨年19勝でスター選手にのし上がった英雄だ。球場全体が騒然となった。
だが、歓迎の声ばかりではない。台湾代表チームの監督を務めた林華韋・台湾体育学院教授(48)は「人材流出は台湾野球に影響を及ばす」と心配顔だ。野球は台湾が世界に誇れる数少ない競技だ。90年発足のプロ野球は、詐欺事件に発展した96年の八百長事件や97年のリーグ分裂を経験。03年に6球団の1リーグになり、ようやく低迷から脱しようとしている。
それだけに、大リーグヘの一流選手流出が続く日本球界以上に、日米両国から選手獲得の手が伸びる台湾球界の空洞化は深刻だ。今オフも、昨春のワールド・ベースボール・クラシック台湾代表の林恩宇投手(25)を東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得した。
中華プロ野球連盟の李文彬事務局長は「選手の給料が、せいぜい庶民の6、7倍だから」と背景を指摘する。成人男子に1年数カ月義務づけられる兵役も大きな要因。兵役前には台湾でプロ入りできないからだ。国際大会で活躍すると兵役期間が大幅に短縮される特例もあり、海外に出て機会を狙う傾向が強まる。
留学先の福岡第一高校から北港道日本ハムファイターズに入団した陽仲寿選手(19)は、昨年のアジア大会で優勝した台湾代表チームの一員で、兵役短縮の見込み。ソフトバンクの李選手はいったん台湾に戻ると兵役後でないと出られないため、当面は帰らない。「陽選手のように代表入りしたい。父からもそう激励された」
李事務局長によれは、破格の安い金額のマイナー契約で涯米し、実績もないまま戻ってくる選手も少なくない。「そんな選手でも、台湾でなら一線で活躍できるのに」。兵役前でもプロ入りできるよう当局に申し入れているというが、模索は続きそうだ。(飯竹恒一)up
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北京オリンピック日本代表監督に星野仙一・阪神SDの就任が正式に決定したが、ライバルとなるのが韓国と台湾。№690,691で、韓国野球は日本仕込みと紹介したが、近年、この韓国野球は、脱日本の動きにある。以下は、朝日新聞のアジアベースボール事情から。
「以球会友 アジアベースボール事情④」(2007年1月17日 朝日新聞夕刊)
「野球の法律は日本からの丸写しでなく、『正しい言葉』でなけれはいけない」韓国野球委員会(KBO)の許亀淵・野球用語委員会委員長は、3月に予定する用語委会議室別に気を引き締める。KBOは韓国プロ野球の統括団体。野球伝来100周年の記念事業の柱として、05年10月から、日本語からの直訳が多い野球規則を改定する作業を進めている。
野球解説者やアナウンサーら8人の委員が10回以上重ねた会議は、時に5時間を超えた。適当でない訳語をチェックし、別の表現を考える。「防御率」は「平均自責」に、「遠征試合」は「訪問試合」に-。 「日本でしか通用しない用語が、韓国でも使われるのは不適切だ」
野球が朝鮮半島に伝わったのは1905年。米国人宣教師の手によってだった。ただ、実際に広めたのは日本人だ。「韓国野球史」には「日本人が集団で住む地域で野球は盛んだった。韓国人はその模様を見よう見まねで覚えた」とある。
82年に韓国プロ野球が発足したときも、野球規則は日本の言葉をコピーした。「フォアボール」や「犠牲バント」は、韓国語でも発音、意味ともほば同じ。日本のプロで活躍した選手たちが海峡を越え、「野球先進国」の技術や戦術を伝えた。阪神タイガースを退団後、83年に韓国のへテ・タイガース(現・起亜タイガース)に進んだ宇田東植さんは、韓国語ができなかったが、野球は日本語でかなり用が足りた。「日本で野球を学んだ指導者も多かったからではないか」と言う。
82年は、日本の高校歴史教科書の検定をめぐって、日本軍の「侵略」が「『進出』に書き換えれた」との報道をきっかけに、中国や韓国が反発する問題が起きた年でもある。野球解説者としての道を歩み始めた許さんはこのニュースを聞き、投手だった学生時代の米
国遠征で、「和製英語」の野球用語がまったく通じず、ショックを受けたことを思い出した。
「言葉は何より重要。韓国が発祥のテコンドーは、韓国語の用語がそのまま世界で使われている。だから、野球も本場の英語を基にすべきだ」解説ではできるだけ、英語からの用語をそのまま使うよう心がけた。当初は理解されず、「今のヒット・パイ・ピッチは…」と言うと、アナウンサーが「はい、死球(サグ)ですね」と言葉をつなげる場面が多かった。新聞では「定着している言葉を、なぜわざわざ分かりづらくするのか」と批判された。
しかし、韓国選手が米大リーグで活躍し始めた90年代後半になると、周囲が変わり始める。テレビなどで米国の情報が多く入り、「本場の野球」に触れる機会が多くなったためだ。ソウルが本拠のLGツインズを咋季途中から監督として率いた梁承虎さんも、日本式の用語を使わなくなった一人。「大リーグに親しんだ若い選手の反応がよかった」と話す。
韓国球界には、旧来の用語になじんでいるとの理由で、改定に反対する意見もある。しかしKBOの鄭今祚・広報部シニアマネジャーは「日本から離れ、韓国の野球を確立したい。野球をさらに根付かせるためには、適切な言葉が必要だ」と説明する。改定作業は「1次段階」と位置づけた昨年2月までで「方向性が固まった」という。今春からは細部を見直し、11月にも発表する予定になっている。
「ベースボール」を日本語に訳した「野球」という単語は、韓国でもそのまま「野球(ヤグ)」として使われてきた。用語委員会は、この言葉そのものも変えるのだろうか。許さんは言う。「『野球』という言葉は長年使われており、急に変えると混乱すると個人的には思う。ただ、議論を提起するのは国語学者の先生方だ」。どこまで自国流にこだわるか。「脱日本」への取り組みは続く。(阿久津篤史)up
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2月1日のキャンプインを控え、1月23日にNPB実行委員会、24日に同オーナー会議、同代表者会議、25日には全日本野球会議・日本代表編成委員会、加えて北信越BCリーグのドラフト会議が開かれた。球団の発表も含めて、野球ビズの記事を集めてみました。
■ドラフト検討委を設置…12球団代表者会議(2007年1月24日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070124-OHT1T00191.htm
プロ野球の12球団代表者会議が24日、東京都内で行われ、ドラフト制度について集中討議し、2月上旬に12球団のスカウト担当者を集めて「ドラフト検討委員会」を開くことを決めた。検討委では2005年から2年間行った分離ドラフトで公正性や透明性が保たれたかなど10項目を検証。委員長を務める横浜・山中球団専務は「より事実を正確にとらえる狙いでスカウト部長クラスに話を聞く」と語った。今後は大学、社会人の監督にもアンケートを実施して調査する。
■楽天が小、中学生対象野球教室4月開講(2007年1月25日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070125-OHT1T00179.htm
楽天は25日、地元での野球の普及と発展を目指し、野球教室「楽天イーグルス・BASEBALL SCHOOL」を4月に開講すると発表した。小中学生を対象に、年齢や軟式・硬式の違いに応じて5コースを設定。フルスタ宮城の室内練習場で年間37回の講習を開き、安部理ジュニアコーチらが指導する。受講には年会費1万円と受講料12万9500円が必要となる。問い合わせは「東北プロジェクト スクール事務局」。
■ロッテが3つの新サービス開始(2007年1月24日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070124-OHT1T00174.htm
ロッテが今季から千葉マリンスタジアムで3つのファンサービスを始めることが24日、分かった。いずれもバレンタイン監督の発案によるもので、土、日、祝日の試合は従来より開門時間を1時間早め、ファンがロッテの打撃練習を見学できるようにする。また、試合を観戦しながら客席で肩と足のマッサージを受けられるサービスの導入や、スタジアム2階コンコースにある「キッズゾーン」を改修する。
■根来氏「代行」で11月まで続投(2007年1月25日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070125-OHT1T00068.htm
今月末で任期満了となる根来コミッショナーが暫定的に「コミッショナー代行」という立場で職務を継続する。オーナー会議は退任する意向の根来氏に対し、代行職としての残留を要請。根来氏も自らが委員長として取り組んでいる野球協約の改定作業があるため、代行就任を了承した。
協約改定はコミッショナーの権限の強化や、3つに分かれているコミッショナー、セ・パ両リーグの事務局統合を含めた改正が軸となる。特に組織では大幅な改編を目指しており、事務局を統合した後は「行政組織」と「司法組織」に分け、親会社を含めた最高経営会議のような議決機関も設置する。根来コミッショナー代行は11月のオーナー会議での改定承認を目指し、それまでは代行職を務める。
根来氏の代行就任によりコミッショナーが空席となるのは8代目の竹内寿平氏が1988年6月に辞任後、吉国一郎氏が89年3月に就任するまでの約8か月間以来となる。
■自ら追いつめた!星野日本代表監督「金しかいらん」…“最後”の五輪最強布陣(2007年1月26日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/japan/news/20070126-OHT1T00109.htm
金メダルしかいらん!! 全日本野球会議・日本代表編成委員会が25日、都内のホテルで行われ、2008年北京五輪の日本代表監督に阪神・星野仙一オーナー付シニアディレクター(60)が正式決定した。星野監督は、04年のアテネ五輪日本代表監督を務めた長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督(70)にもアドバイスを仰ぎ、ミスターとの“最強タッグ”で金メダル獲得を宣言。今年11月のアジア予選を前に、ライバルの台湾、韓国を直接視察する意向も明らかにした。
無数のカメラのフラッシュに照らされて、笑顔を浮かべた。穏やかな表情の下に、燃える男は闘志をみなぎらせていた。「金メダル? この(会見の)壇上にいる以上はね。(日本代表オフィシャルスポンサーの新日本石油)ENEOSさんも金メダル以外はいらないと、いうことでいいでしょう」そう言い切って、詰め掛けた約220人の報道陣の前で、契約書にペンを走らせた。
それほどまでに自らを追い込んだのには理由がある。12球団代表者会議、オーナー会議で相次いで五輪への「全面協力」を確認。プロ野球界を挙げて、最強JAPAN結成へバックアップを約束された。「感謝するとともに、ますますプレッシャーがかかってくるな」と気を引き締めた。
■ヤクルトが2社とスポンサー契約(2007年1月25日 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070125-OHT1T00197.htm
ヤクルトは25日、米半導体最大手インテル、中国のパソコンメーカー聯想(レノボ)グループのレノボ・ジャパンの2社とオフィシャルスポンサー契約を結んだと発表した。今季の主催試合ではヘルメットにレノボ、ユニホームの腰部分にインテルのロゴが入る。記者会見に出席した古田監督は「力強いパートナーを得た。あとは現場で僕が選手の尻をたたいて日本一にならないと」と話した。
■北信越リーグにアサヒが協賛 (2007年1月25日 スポーツニッポン)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20070125031.html
4月下旬に開幕予定の野球の独立リーグ、北信越ベースボール・チャレンジ(BC)リーグは25日、アサヒビールが同リーグ初のスポンサーに決まり、協賛を受けると発表した。この日は東京都内のホテルでドラフト会議が開かれた。昨年の入団テスト合格者98人のうち、辞退者を除く95人が対象で、新潟、長野、富山、石川各県に在住する選手らが「地元枠」として当該県の球団への入団が決まったほか、ポジションごとの指名によって選手が振り分けられた。up
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「韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」(大島裕史著 2006年10月30日初版 新幹社)」については、朝日新聞の書評を紹介する。
■ 韓国野球の源流 大島裕史著 (朝日新聞書評 野村進(ジャーナリスト))
「日本仕込み」から大成長、新時代へ
日本のプロ野球には、今後破る者が出ないのではないかと言われる記録がある。たとえは大投手・金田正一の400勝、たとえばル安打製造機~張本勲の3000本安打。二人のルーツは朝鮮半島で、ともに異邦人の親を持つ者が打ち立てた大記録なのだ。
日本チームが世界一に輝いたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は記憶に新しいが、イチローが感情を剥き出しにするはど日本を窮地に追い込んだのは韓国チームであった。そこまでのレベルに達した韓国の野球史と、戦前からの日本との関わりを軸に描いた本書は、いま書き残しておかねば歴史の闇に消えてしまうにちがいない、貴重な証言に満ちている。
振り返れは、三つの時代があった。戦前、日本で野球を学んだ金永祥(キムヨンジョ)らが、朝鮮半島に野球を根づかせた1940年代と50年代から、在日コリアンが実業団野球を盛り上げた60年代を経て、ついにプロ野球が誕生した80年代へと至る流れである。そこに、むろん多難な歴史が絡む。ある在日の選手は、”帰国運動”で両親が北朝鮮に渡ったため、韓国の公安から凄まじい拷問を受け、日本に戻ったあと酒浸りになって早世してしまう。「韓国でも外人、日本でも外人」の彼らが、それでも野球を続けたい一心で懸命に生き抜いてゆく姿を、著者は淡々と描出する。その安易な感傷を排した文体が潔い。
意外なことに、日米よりも「代表チームを築いてきた歴史は韓国のほうが断然長いと著者は記す。代表監督になった金永祥は、チームを悲願のアジア選手権優勝に導くが、病に倒れ、五十八歳の若さで帰らぬ人となる。その土饅頭に、東京の帝京商業(当時)で一年後輩の、フォークボールで一世を風靡した杉下茂が手を合わせ、戦前からの友情を懐かしむ揚面は感動的だ。
WBCの韓国チームは、在日が育てた監督やコーチが率い、日本で首位打者になった白仁天(ペクインチョン)によって素質を開花させられた巨人の李承燁(イスンヨプ)らを主力として勝ち進んだチームであった。アジアの野球が新しい時代に入ったことを、この労作は静かに告げている。up
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「対談 硬論軟論 21世紀の新野球」は、元中日でNPO法人「谷沢野球コミュニティ千葉(YBC)」理事長の谷沢健一氏とベースボールマガジン社社長・池田哲雄氏との対談集。
話を脱線すると、YBCの役員の中にあの小林至くんがいる。また、池田哲雄氏は、北信越BCリーグの運営会社「株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング」の取締役でもある。そして、前号で復刻した「二人のアイク」のひとり・池田郁雄氏の弟である。
その「硬論軟論」から、WBC(ワールドベースボールクラシック)における日韓戦の盛り上がりを受けて「第2章 野球を世界に普及させよう」から
谷沢 韓国も、野球はバスケットかサッカーの次ぐらい、第三位くらいに認知されている。残念だけど、反日感情が強い。日本の学校の留学している韓国人の女子学生が「1万円札は好きだが、福沢諭吉は嫌いだ」と言う。それを払拭するためにも、文化的な活動は絶対必要だ。
池田 1万円札に対する価値観を持っていても、福沢諭吉に対するマイナスイメージはものもの凄くある。1万円札が豊臣秀吉だったらもっとひどいことになるだろう。そういうことを細かく見ている日本人ってあまりいない。(略)
谷沢 韓国の学生に、福沢諭吉の「脱亜論」の話をしたら、議論になりやすい。なったら、彼らは一歩も引かない。「日本は欧米ばかり見やがっって」なんてね。
池田 伊藤博文にしても、福沢諭吉と同様に否定的に言われるかもしれない。
谷沢 融和というのは、1年や2年でおいそれと短期的に解決するわけにいかない。
池田 難しいですよね。アメリカ人と日本人は「野球は世界の合い言葉」と簡単に言いすぎる。
※「脱亜論」=「時事新報」(1885年3月16日付)に掲載された社説で、福沢諭吉が記した。この社説の評価は定まっていないが、「脱亜入欧」(亜細亜を抜け出して西欧の仲間入りをする)という中国・朝鮮への蔑視が露骨であると非難する人々も少なくない。確かに「(中国と朝鮮には)実際は心理・法則の知識がないばかりか、道徳までもまったく無くて残酷破廉恥であり、おごりたかぶって反省がないようだ。」という一節(原文は文語)もある。
韓国の反日感情は、一朝一夕ではなくならない、ということだが、同じスポーツでもサッカーと野球とでは、日韓関係は異なるという話をWBCのとき聞いた。この野球における日韓関係については、「韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」(大島裕史著 2006年10月30日初版 新幹社)」が詳しい。「韓国野球の源流」序章 101年目の快挙 P11から
どの時代でも、そしてどのスポーツでも、日韓戦、あるいは日朝戦は、プライドをかけた激しい戦いが繰り広げられる。特に武力によって押さえつけられていた植民地時代、朝鮮の人たちにとって、公平なルールの下で正面から戦うことのできるスポーツの存在は重要であった。ただし、その戦いの持つ意味は、競技種目によって違いがあった。
今日と違い、日本ではマイナースポーツであったけれども、朝鮮半島では早くから「民族のスポーツ」と言われるほどさかんであったサッカーの場合、朝鮮人だけで構成されたチームは、日本の全国大会に出場しても、圧倒的な強さを誇っていた。
日本の植民地支配に伴い、朝鮮で暮らす日本人は、1910年末に約17万人、20年に約35万人、30年に約53万人と増加していった。そうした日本人は、サッカーでは現地の朝鮮人にまったく歯が立たなかった。しかし日本では、「国技」と呼べるほど普及していた野球は違った。したがって、朝鮮の野球人にとっては、在朝鮮日本人を倒すことが、最大の目標であった。ある意味、サッカー以上に身近なところで、日本と朝鮮の決戦が繰り広げられていたことになる。
つまり、サッカーと異なり、韓国の野球は、日本仕込みとして発展してきた経緯があり、韓国の野球関係者にとって、WBCの対日2勝1敗という戦績は、反日ではなく、野球の先進国に追いつき追い越したという意識が強いのだという。
二次リーグで韓国が日本に勝利し準決勝進出を決めたとき、マウンドに国旗を突き刺す行為があったが、あれは、日本に勝ったナショナリズムの象徴として国旗を刺したのではなく、日本に勝って兵役を免除され、兵役を課していた国家に勝ったことを象徴しているんだという。韓国の野球選手には、2年間の兵営義務という問題があって、韓国政府がWBC準決勝に進出した韓国チーム全員に対し、2年間の兵役を免除するとしていた。up
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野球日本代表監督に星野仙一阪神SDが就任するが、野球にとって、北京が最後のオリンピックになるかもしれない。しかし、野球のオリンピック競技化に尽力した日本人がいたことを忘れてはならない。その男たちについて綴ったのが、「二人のアイク」。復刻版です。
№40 (2002/2/25) 二人のアイク
ベースボール・マガジン社会長池田恒雄氏が2月9日亡くなられました。週刊ベースボール3.4号の「オレが許さん!」で豊田泰光さんが,恒雄会長の死を悼む言葉を寄せられていました。
私がプロ野球に興味を持ち始めたのは,巨人の九連覇と巨人の星の時代ですから,巨人全盛時代でした。ですから,ご多分に漏れず最初はプロ野球ファンというよりも巨人ファンでした。それが,プロ野球全体に興味を持つようになったのは,越智正典さんのミユキ野球教室と週刊ベースボールでした。週刊ベースボールは,私のプロ野球の原点でもあります。改めて,池田恒雄ベースボールマガジン社会長に深く感謝いたします。
日本テレビのアナウンサーだった越智正典さんが,アメリカのメジャー見聞録「野球王国光と影 この目で見た大リーグ」を出版されました。その中に「ドジャースの日本人職員」としてアイク生原氏を紹介しています。
アイク生原氏こと生原昭宏さんは,早稲田大学卒業後,社会人野球を経て当時東都の三部だった亜細亜大学の監督に迎えられ一部昇格を果たすと,大リーグ勉強の夢が芽生え,鈴木惣太郎さんの門をたたき,渡米されました。渡米後はドジャースのファームで下積みをつみ,やがてドジャースのオーナー補佐としてピーター・オマリー氏にとってなくてはならない人になりました。
越智さんは著書で,アイク生原氏について「・・・これからの日本野球をになうのはこのような男ではないか-野球に己のすべてを賭けられる男ではではないか-と思えてくる」と述べてきます。そのアイク生原氏も日本球界で活躍する場もなく,1992年10月26日55歳で亡くなられました。
その生原氏の生涯を奥様の生原喜美子さんが著しています。「ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯」,生原氏が亡くなられてから5年後の1997年ベースボールマガジン社から出版されました。そのときの発行人が池田郁雄氏。池田恒雄会長の御子息で当時恒雄氏の後を受け社長を務めていました。愛称はアイクだったそうです。その郁雄氏も1998年11月24日58歳で亡くなられました。(ですから,恒雄会長の葬儀の喪主は三男の哲雄現社長でした。)
マーティ・キーナート氏は,1998年の著書「スター選手はなぜ亡命するのか」でコミッショナーについてもその地位にふさわしい能力と行動力を持った人物として池田郁雄氏を上げていました。その年に郁雄氏は亡くなられたことになります。
インターネットで池田郁雄氏の記事を検索してでてきた産経新聞の記事によれば,郁雄氏は,二十代半ばを米国で暮らし,ピーター・オマリー前ドジャース会長とは「二十五年来の,そして,最後の旅を共にした親友だった。」といいます。
ピーター・オマリー氏と池田郁雄氏は野球がオリンピック競技になるように尽力され,「野球のこと,オリンピックのこと…いろんなことを二人で,時を忘れて話したよ。いつものように『また会おう』と別れたのが七月九日だった」そうです。そして,オマリー氏の代理として,野球のオリンピック競技化のため世界中を飛び回っていたのがアイク生原氏でした。
産経新聞の記事は最後,次のような文書で結んでいます。「惜しまれる志半ばの死。スポーツ評論家のマーティー・キーナートさんは『それでもアイク(池田氏の愛称)は治ると信じて挑戦を続けていた』と遠くを見やった。」これはアイク生原氏にも共通した思いだとおもいます。
ここに,故人のご冥福を心からお祈りいたします。
1月末で退任を表明している根来コミッショナーの後任人事が不調で、コミッショナーの空位・根来コミッショナー代行が取りざたされるなか、球界にとって貴重な人材を失っていたことに今更ながら、残念に思う。野球日本代表を協議する場でも、NPBの代表は、根来コミッショナーであり、本来、コミッショナー職は代行で済む問題ではない。
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オリンピックの野球競技は、2012年のロンドン大会以降、オリンピック種目から外れることが決まっており、今回一区切りとなる北京オリンピックは、野球人気の盛り上げのためにも、ベストメンバーで野球の面白さをアピールしてもらいたい。
オリンピックの日本代表とワールドベースボールクラシックの日本代表は、編成者が異なるので、別個のチームということになるが、どちらもオールプロで編成されることには変わりなく、筆者的には、北京オリンピックを2009年WBCの前哨戦と考えている。WBCの監督候補にしても、王・長嶋の両氏は、健康上の理由からも困難であり、星野氏が最有力であることには変わりない。
オリンピックは、8月のシーズン中故、メジャーリーガーの参加は困難であるが、NPB選手による日本代表チームとしての継続的な取り組みが必要であり、オリンピックからWBCまで一貫した体制を敷くことが重要である。これには、NPBだけでなく各球団、選手会の協力が不可欠である。
このためにも、北京オリンピックの野球競技が行われる間は、NPB公式戦を中断し、オリンピック日本代表が、NPBのベストメンバーを組めるようにする必要がある。さらに、NPBにしても、野球の普及発展のため、WBCの前哨戦として、オリンピックの野球競技への関心を高めるためにも、NPB公式戦を中断は不可欠だ。
巨人・滝鼻オーナーが五輪全面協力サポートを宣言
http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20070120-OHT1T00066.htm
巨人・滝鼻卓雄オーナー(67)が19日、北京五輪への全面サポートを宣言した。五輪野球が開催される08年8月13日から23日までの11日間、公式戦の中断を主張。「4年に一度のオリンピックでひょっとしたら今度が最後になるかもしれないし、ぜひ金メダルをとりたい。日本プロ野球の決断の時だと思う。前後の親善試合とかは別にして、本番の期間は中断せざるをえないんじゃないか。開幕を少し早めれば、何とか(試合は)消化できるんじゃないかな。これからオーナー会議でも意見するつもりです」と語った。
また、アテネ五輪時には「1球団2人以内」だった供出枠についても「ドリームチーム実現のための体制作りをしないといけない。2人ではなく柔軟にしなくてはいけないでしょう」と最強JAPAN実現に向け、協力していく考えを示した。この日は「ニッポン放送ショウアップナイターネクスト」に生出演し、巨人から球界全体の話題まで幅広く語った。
(2007年1月20日06時04分
スポーツ報知)
最後に、全日本野球会議には、日本プロ野球OBクラブも加わっており、NPB選手会も、同会議に参加すべきこと、WBCには、NPBとNPB選手会も主催者に名を連ねるべきと考える。
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NPO法人「横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ」で、横浜ベイスターズのパートナーとなった新日本石油は、野球日本代表のスポンサーでもある。このため、新日本石油ENEOS野球部は、日本代表チームの練習相手になるなど密接な関係にあるという。
今回のプロとアマとのパートナーシップは、新日本製油側にしても、企業チームの廃部・休部が増えるなか、新日本石油という企業が、新日本石油ENEOS野球部という企業チームを維持していくため、社会的意義を高めるという必要があったのではないかと思う。これは、新日本石油が、野球日本代表のスポンサーとなっていることの正当性にも結びつくことである。
今回、この野球日本代表の監督に、星野仙一・阪神シニアディレクター(SD)が就任することが決まった。25日に都内で開かれる日本代表編成委員会で正式決定される。今回、決定されたのは、2008年の北京オリンピックに向けた日本代表チームの監督だが、今年(2007年)8月北京で開かれるプレ・オリンピック大会から指揮をとり、11月~12月台湾で行われるアジア予選に臨む。
野球日本代表は、全日本野球会議・日本代表編成委員会で決定されるが、全日本野球会議とは、プロを含めた日本国内に存在する全野球組織の横断的統一組織。
日本の野球界には球界全体を統括する組織がなく、プロ、社会人、学生がみなバラバラに組織されている。これらの団体の統括組織でなく、全団体の話し合う場として「全日本野球会議」が1994年結成された。
ところが、1998年国際野球連盟(IBAF)が国際大会へのプロの参加が認めると、アマだけではオリンピックの予選の通過さえ危ぶまれるようになり、プロ・アマ統一代表チームを作る必要が生じ、全日本野球会議が2001年から日本代表の編成を行うこととなった。
プロ・アマ合同チームは、1999年のシドニー・オリンピック予選から、アマチュア側がプロに要請する形で始まったが、2000年のシドニー・オリンピックでは、三位決定戦で、オールプロの韓国代表に敗れ史上初めてメダルを逃した。
このため、2004年のアテネ・オリンピックはオール・プロで臨むことになり、初めて真の意味での日本代表チーム(長嶋ジャパン)が結成された。その結果、2003年の予選を優勝で通過したが、翌2004年のアテネ・オリンピック本選では、「各球団2名」と言う中途半端な編成で、オールプロでありながら銅メダルに終った。しかし野球の日本代表チームが(バレー代表やサッカー代表のように)商業ベースに考えられたのはこの時が初めてであった。
日本の野球は、そもそも、明治期に学生野球として普及・発展し、その後、社会人、プロとそれぞれ独立して組織され、戦後もそれぞれが独立して運営・発展してきたという歴史的な経緯があり、別の組織に干渉されることを過度に嫌っている。プロ・アマの対立はよく知られているが、アマチュアの学生と社会人も決して、一枚岩ではなかった。そのため、従来は野球界を統一して代表する団体を作ろうという動きにはなりにくかった。
1954年、アジア野球選手権開催にあたり、代表チーム編成のため、 学生野球と社会人野球が共同で「日本アマチュア野球協会」を結成するも、「日本アマチュア野球協会」を、アマチュア野球の統括組織にしようとする社会人側の動きに学生側が反発し、1966年学生協会が脱退。アマチュア協会は空中分解し解散。
しかし、国際試合に代表を送りこむための組織は必要だったため、よりゆるやかなアマチュア球界組織として、両協会の付属機関として1967年「日本アマチュア野球国際委員会」を設立し、ソウル・オリンピックまで日本代表チームを送り込んだ。
バルセロナ・オリンピックから、野球がオリンピックの正式競技となることが決定すると、国際野球連盟(IBAF)にアマチュア球界を統合して加盟する必要が出てきた。それまで、野球の代表組織として日本体育協会(体協)、国際野球連盟に加盟していたのは日本社会人野球協会だった。
このため、日本学生野球協会と日本野球連盟(旧、日本社会人野球協会)は、上部組織でない「屋上屋」の組織として1990年「全日本アマチュア野球連盟」を結成し、この組織が国際野球連盟、アジア野球連盟、日本オリンピック委員会(JOC)に加盟し、バルセロナ・オリンピック以降代表選手派遣を行っていた。
2006年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、国際野球連盟(IBAF)のアンチドーピング規定をMLBが飲むと言う条件で、WBCはIBAF主催ではないが公認の世界大会と位置付けられた。しかし、このWBC日本代表を送りこんだ組織は全日本野球会議ではなく、プロの日本野球機構(NPB)であった。
このため、アテネ・オリンピック代表チームとWBC日本代表チームの間には引き継ぎ連絡が一切なかったとアテネ・オリンピック代表コーチの高木豊は証言している。全日本野球会議は、プロ・アマ合同の組織だが、日本代表編成委員長は、アマチュア代表に占められている。アテネ・オリンピック代表は選手はオール・プロであったが、役員はアマチュアで占められていた。
新日本石油がスポンサーなのは、全日本野球会議の日本代表チーム。アサヒビール、ミズノとともに4年で10億円のスポンサー契約(2008年12月末まで)。一方、WBCのスポンサーだったのは、アサヒビールとコナミ。アサヒビールは、WBCと全日本野球会議共通のスポンサーということになる。
ウィキペディアup
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2002年のシーズンからオーナー企業がマルハからTBSに替わったが、本格的に経営に乗り出したのは翌年の2003年から。2002年は、大堀隆社長がマルハ時代から引き続いて経営にあたっていた。ところが、前年Aクラスから最下位に転落、森監督ともども、大堀社長も更迭となった。
2003年、大堀社長の後任に「8時だよ!全員集合」を手がけた伝説の元TBSプロデューサー峰岸進氏が就任。編成部門には、住友金属・法政大学で監督を務め、法政大学教授だった山中正竹氏が球団専務として就任。ただし、山中専務が、編成部門の責任者になったのは、2004年から。
2年連続最下位の責任をとり、生え抜きの野口善男取締役(編成担当)と笹川博史チーム運営部長を左遷し、山中専務が編成部門トップの、チーム運営統括となった。また、スカウト部長に元明大監督の荒井信久氏(当時47)を迎えた。荒井氏は、バルセロナ・オリンピックのとき、山中監督の下でコーチを務めた。2004年以降、ベイスターズのスカウトは、アマチュア出身の2人がトップを務めることになった。
山中正竹は、法政大学出身で、東京六大学48勝という最多記録を持ち、田淵幸一とバッテリーを組み、山本浩二、富田勝らと黄金時代を形成した。当時の控え投手に江本孟紀がいた。ライバルには、明大の星野仙一がいた。山中・江本は、1947年生まれで団塊の世代に属する。田淵・山本・富田・星野は一学年上で、プレ団塊世代ということになる。ただし、星野は早生まれのため1947年生まれで団塊の世代となる。
山中は、卒業後は、小柄(身長169cm)だったためかプロ入りせず、住友金属で活躍、アマチュア野球界最高の投手として知られた。引退後は、住友金属の監督として、チームを都市対抗・全日本選手権優勝に導く。日本代表のコーチ・監督も務め、1988年ソウル・オリンピックはコーチで銀メダル、1992年のバルセロナ・オリンピックでは、監督として銅メダルを獲得した。
1994年、母校法政大学の監督に就任。9年18季でリーグ優勝7度、全日本選手権優勝1度。黄金時代を形成した。また、2002年まで法大工学部教授を務めた。2003年、教授の籍をなげうって、プロ球界に飛び込んだが、2004年運営部門総括になってから、ベイスターズは2004年最下位、2005年に3位で久し振りにAクラスになるも、2006年再び最下位に沈む。
ところで、2006年3月東京日産モーター社長だった佐々木邦昭氏が峰岸社長に替わって、球団社長に就任。峰岸氏は、TBSの関連会社である緑山スタジオ・シティ会長に就任。
球界では異例の人事だ。親会社でなく、外部からの社長就任。若林オーナーは「(TBSも)関連会社が増え適材適所の人材が不足している。スポーツの気持ちが分かってくれる人という思いがあった」と説明した。紹介者もあって社外からの起用を決めたという。
佐々木氏は日産自動車で広報部長、常務などを歴任し、東大時代は野球部に所属。日産野球部でも7年間野球部長を任され、96年から2年間は神奈川社会人野球協会の理事長も務めた。日産自動車は2010年までに本社を東京から横浜に移す。地元密着を進めたい球団にはうってつけの人材といえよう。資本提携については同オーナーが否定した。
チームは昨年、3位になったものの、観客動員は100万人に届かず、15億円といわれる赤字になった。若林オーナーは「経営の面で苦戦しているのは事実。立て直しを急がないといけない」と話し、早急な業績改善に期待をこめた。
[2006/3/10/07:26 日刊スポーツ紙面から]
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-060310-0012.html
因みに、佐々木新社長は1947生まれの団塊の世代。山中専務と同年代ということになる。この新社長がとった策が、運営統括に身内の元日産自動車野球部監督の村上忠則氏を招聘することであった。
横浜初GMに村上氏招へい…元日産自動車監督
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20061011-OHT1T00066.htm
横浜が日産自動車野球部監督を務めたこともある神奈川日産自動車取締役の村上忠則氏(57)をGMとして招へいすることが10日、明らかになった。球団は大矢明彦新監督を迎えると同時に、フロント強化の核となるGM制導入を視野に入れ、人選を進めてきた。村上氏は、日産自動車監督として98年都市対抗野球で優勝。佐々木邦昭球団社長(59)が当時、同チームの野球部長を務めていた関係もあり、白羽の矢を立てた。シーズン終了後、大矢新体制とともに発表され、11月1日付でフロント入りする見込みだ。
これにより、これまで運営部門統括を担当していた山中正竹球団専務は事実上更迭となり、連盟担当を務める。山中専務は、アマ時代の指導者としての国際大会での輝かしい実績を持ち、WBC日本代表の技術顧問を務めており、「連盟担当としてWBC全日本チームの強化、オリンピックの野球正式種目復活に力を注いでもらいたい。」と期待されている。
http://orange.ap.teacup.com/applet/yamato1915/20061010/archive
ところで、横浜ベイスターズの二軍・湘南シーレックスの本拠地である横須賀スタジアムに隣接して、日産の横須賀工場があり、日産自動車野球部も横須賀市を本拠としていることから、湘南シーレックスと日産野球部との親交が深く、2001年8月15日には、柳川事件以後初めてとなるプロアマ交流試合が行われ、毎年8月半ばにはシーレックスと日産野球部とのの交流戦が行われている。
この横浜ベイスターズ(湘南シーレックス)と日産自動車野球部との関係が、ベイスターズの球団社長とチーム運営統括という重要部門に日産自動車野球部関係者(野球部長だった佐々木球団社長、野球部監督だった村上運営統括)の招聘に繋がったとも考えられる。
そうすると、監督に大久保前シーレックス打撃コーチを送り込み、NPO法人「横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ」ではパートナーを組む、新日本石油との関係はどうなるのだろう。まあ、どちらも友好関係が保たれれば問題ないが。因みに、2006年のドラフト1位は、日産自動車の高崎健太郎。
また、横浜市を本拠とする新日本石油ENEOS野球部の練習場は、川崎市等々力。他方、横須賀市を本拠とする日産自動車野球部の練習場は、横浜市旭区。そして、横浜市を本拠とする横浜ベイスターズの練習場は、横須賀市にある。なんてこっちゃ。up
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横浜、地域貢献へNPO法人=神奈川県が設立を認証-プロ野球
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/other/headlines/20060406-00000086-jij-spo.html
プロ野球の横浜は6日、野球教室などの開催を通じて地元に貢献することを目的とする民間非営利団体(NPO)法人「横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ」の設立が、神奈川県に認証されたと発表した。
県内に社会人野球チームの拠点がある新日本石油も、今回のNPO活動に協力。横浜OBや新日本石油の現役選手が、野球教室などを開くほか病院や養護施設を訪問し、野球振興と地域貢献に寄与していくという。
NPOの理事長は横浜、新日本石油の両OBで、プロ通算201勝を挙げた元エースの平松政次氏が務める。平松氏は「地元に貢献できるのはうれしい。子どもたちが(野球に)興味を持てるよう、全力を尽くしていきたい」と語った。
[ 時事通信 2006年4月6日 18:00 ]
昨年4月、NPO法人が、ホエールズ・ベイスターズOBの技術と経験を生かし、プロ野球団としての野球振興と地域貢献を図ることを目的に設立・認証された。特徴的なのが地元社会人チームとパートナーシップを組むこと。TBSが横浜ベイスターズのオーナー企業になったとき、地元財界を無視して営業を行ったため、総スカンを食った経験からか、地元横浜市に本拠をおく新日本石油と協力して行くことになった。
横浜市の社会人チームというのは意外に少なく、日本鋼管が川崎市に移転してからは日本石油-新日本石油の天下であった。一方、川崎市は、日本鋼管のほかに東芝、三菱自動車川崎、いすゞ自動車など強敵がひしめいて激戦を繰り広げていた。社会人野球のための川崎球場ができた所以である。
この新日本石油ENEOS野球部の監督には、今回の提携に合わせるように、湘南シーレックスの打撃コーチだった大久保英昭が、新日本石油の要請により2006年から就任。
新日本石油監督に湘南大久保打撃コーチ
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/amateur/p-bb-tp5-051022-0004.html
プロアマの垣根を越える以上に、大きな意味を持つ人事だ。プロの指導経験者がアマチュア野球の監督となることは、(略)野村克也氏のように前例はあるが、企業の宣伝効果を狙う側面もある。しかし今回は、横浜の「地域密着」という球団理念が背景にある。
関係者は「県民の財産を伝承して欲しい。野球界の頂点にあるプロ球団として、果たすべき使命だ」。神奈川・桐蔭学園出身で、チームのOB。神奈川県に本拠を置く新日本石油の監督就任は適任といえる。
◆新日本石油ENEOS 1950年、日本石油野球部として創部。99年に企業合併により日石三菱野球部となる。企業名の変更に伴い、02年シーズン途中に新日本石油野球部。都市対抗野球優勝8度の名門で、OBに藤田元司氏(巨人監督)、平松政次氏(大洋)ら。本拠地は横浜市。[2005/10/22/10:21 紙面から]
主な活動内容は、野球教室・指導者講習会。野球教室では、横浜ベイスターズOBおよび新日本石油ENEOS野球部(現役・OB)が講師をつとめる。小学生野球教室では、少年野球の各連盟・協会の協力のもと実施。地元の根回しは怠りないというわけです。
活動内容http://www.baystars-npo.jp/activity/index.html
活動記録http://www.baystars-npo.jp/record/index.html
面白いのが、家族イベント。小学校低学年の子どもを中心とした家族キャッチボール教室で、これは今まで余り無かったんじゃないかな。最近は、キャッチボールをしたことがない親もいますからね。http://www.baystars-npo.jp/record/061007.html
因みに、上の会場は、横浜市西区みなとみらいスポーツパーク、つまりサッカー場。同施設に隣接する61街区(敷地面積45,600平方メートル)には、横浜マリノス本社が移転、「横浜F・マリノス」の拠点施設となる、グラウンド4面を備えるトレーニングセンターやクラブハウスがオープンする。ここいら辺は、横浜ドーム球場の建設想定地だった。
NPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティHP
http://www.baystars-npo.jp/
新日本石油ENEOS野球部HP
http://www.eneos.co.jp/company/baseball/community/e71_cobaco_060410.html
みなとみらいスポーツパーク
http://www.mmsp.jp/
“横浜みなとみらいマリノス”の野望
http://www.sponichi.co.jp/wsplus/column_j/01693.html
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横浜ベイスターズと産能大が提携、07年度から共同授業
http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20070115c3b1504a15.html
横浜ベイスターズ(横浜市、佐々木邦昭社長)と産業能率大学(神奈川県伊勢原市、原田雅顕学長)はスポーツビジネスを経営できる人材育成で業務提携した。共同で授業を開発するのが柱で、学生が2軍公式戦運営にもかかわるなど実践的な教育内容となる。ベイスターズとしては地域貢献を通じて県央地域のファンづくりも狙う。
実施する共同授業はベイスターズの2軍「湘南シーレックス」を教材として使う。大学教員や球団職員、シーレックスの監督・マネジャーが特別講師となるほか、教室で得た知識をシーレックスの公式戦で実際に体験して球団経営のノウハウを学ぶ。学生が提案した企画も活用して、試合の集客にも生かす。
4月から始まる2007年度に開講する。科目名は「スポーツ企画プロジェクト」。前後期通年で全13回実施、初年度の受講者は20人程度を見込む。
この記事は、2007年1月16日日経のものです。産業能率大学は、既に湘南ベルマーレとの提携実績があり、最近では、大学側がベルマーレに出資し、役員まで送り込んでいる。さらに、大学側が、ベルマーレのU-18選手の推薦入試による受け入れにまで発展している。
産業能率大学のキャンパスが、神奈川県伊勢原市にあり、ベルマーレの本拠地が平塚競技場という縁から2004年から業務提携を行っていた。湘南シーレックスは、湘南といっても、本拠地は横須賀スタジアムで、平塚球場は準本拠地。平塚球場では、公式戦を概ね月1試合開催(年間5~10試合)している、そうだ。この準本拠地である平塚球場が、今回のプロジェクトの舞台となる。
そもそも、湘南シーレックスは、横浜ベイスターズが、2000年1月、二軍の独立採算化と、一軍との差別化を目的に、ファームに独自の球団名を採用したもの。同時にベイスターズ内に「シーレックス事業部」を開設し、若手選手の意識向上を促すとともに、観客へのサービス向上などを通じた地域密着を目指した。
ところが、シーレックス事業部は、地元を中心に独自のスポンサーを募るなど独立採算の道を探ってきたものの、毎年2億円前後の赤字を計上するなど採算割れを解消することができず、2004年に解散。球団営業部内の一部署となった。イースタン・リーグでの観客動員も1試合平均809人と低迷している。
イースタン・リーグで観客動員がトップだったのが、山形の楽天で1785人、次いで、川崎のジャイアンツ1748人、鎌ヶ谷の日本ハムが924人。つまり、シーレックスの観客動員力はイースタン・リーグで最下位。ヤクルトの戸田球場、西武の第二球場、ロッテの浦和球場は、球場にスタンドがなく無料のため問題外。
因みに、四国アイランドリーグの1試合平均の観客数が806人だから、シーレックスの方が3人ほど上回ったことにはなるが、四国でも愛媛と香川は1000人を超えている。シーレックスもNPBの端くれなのだから、独立リーグに負けているようじゃ困る。
そもそも、命名時から、なんで湘南を名乗りながら、本拠地が横須賀なのか、という疑問が呈されてきたので、この際、本拠地を平塚に移転したらどうだろう。問題になるのが、平塚球場は両翼が91mと狭く、設備も陳腐化していること。後は、プロジェクトに期待することにしよう。
産業能率大学HPhttp://www.sanno.ac.jp/new/20070115.html
http://www.sanno.ac.jp/new/20061005.html
横浜ベイスターズHPhttp://www.baystars.co.jp/newscolumn/detail.php?in_id=1147
ウィキペディアup
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2007年といえば、団塊の世代の定年退職が始まる年で、以前から2007年問題といわれていた。この問題の発端は、金融機関等企業の根幹業務を支えるメインフレームコンピュータの保守を団塊の世代が主に行っているため、定年退職後保守を行える技能を持つ人間が企業に存在しなくなり、業務が滞って経済に重大な悪影響が出るのではないかという懸念から生じたものである。いわば、西暦2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた2000年問題に引っ掛けて、2007年問題といわれるようになった。
しかしこれは上記に限ったものでないことが明らかになるにつれ、他分野においても、マニュアル化しづらい現場固有の技術の継承が困難になる恐れのみならず、それによって企業活動自体が停滞する恐れがあると認識されるようになった。特に、製造業では、職人的作業や機械化が困難な作業の多い企業において、特に危機感が強い。(以上ウィキペディア2007年問題より)
団塊の世代とは、一般には第一次ブーマー世代と同義語として使われ、狭義には1947年から49年の3年間に毎年約270万人が生まれた806万人を指すが、広義には、1945年から52年あたりまでに生まれた人々を指すこともある。要するに終戦直後の数年に生まれた人々である。仮に1947年から51年生まれとすると、出生数は1253万人、現在でも1087万人が存在する。(以上、三浦展著「下流社会 新たな階層集団の出現」(光文社新書)
2007年年初から朝日新聞が特集しているのが「ロストジェネレーション 25~35歳」。朝日新聞によれば、ロストジェネレーションとは、
今、25歳から35歳にあたる約2千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。「第2の敗戦」と呼ばれたバブル崩壊を年少期に迎え、「失われた10年」に大人になった若者たち。「ロストジェネレーション」。米国で第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代。日本社会は、彼らとともに生きていく。(朝日新聞2007年1月1日)
25~35歳というと1972年から82年生まれということになるが、この世代と重なるのが、団塊ジュニア世代。団塊ジュニア世代とは、第二次ベビーブーマー世代と同義語として一般に使われ、1971年から74年に毎年200満員、4年間で800万人が生まれた世代を指す。(三浦展同著)
つまり、「ロストジェネレーション」の前半世代が団塊ジュニア世代ということになるが、「下流社会」の著者三浦氏は、団塊ジュニア世代について別の見方を提案している。そもそも、団塊ジュニア世代とは、その名前から団塊世代の子どもであると誤解されるが、第二次ベビーブーマー世代の親には必ずしも団塊世代が多くないことを厚生労働省の「人口動態統計」から立証し、この世代を「ニセ団塊ジュニア世代」と名付けた。
そして、三浦氏は、同統計から団塊世代が実際に産んだ子供の比率が最も多い世代を探り出し、出生数50%以上が団塊世代の子供である世代という意味で、1973年から80年生まれを「真性団塊ジュニア世代」と名付けている。特に、団塊世代の男性の子供が多いことに注目すると、1975から79年生まれあたりが最も真性団塊ジュニア世代と言える世代であるとしている。
すなわち、三浦氏がいうところの真性団塊ジュニア世代こそ、朝日新聞の今回定義した「ロストジェネレーション」のコア世代ということになる。
ところで、スポーツ観戦者のマーケット構造は人口構造の変化に影響を受ける。プロ野球ファンとJリーグファンを比較すると、プロ野球の主要マーケットは団塊世代を中心とする中高年であり、一方、Jリーグファンは「団塊ジュニア(ここでは1972年から77年まれ)」を中心とする若い世代といわれている。
「スポーツ経営学(山下秋二・畑孜・冨田幸博編」によれば、プロ野球ファンとJリーグファンとでは、他のスポーツとの系統的な関連が示唆されている。プロ野球の観戦者は、大相撲、バレーボール、マラソン・駅伝への関心が高く、一方、Jリーグの観戦者は、バスケットボール、F1、アメリカンフットボール、テニスへの関心が高く。つまり、同じ「見るスポーツ」であっても、基本的な客層が異なっている。すなわち、プロ野球を中心とした伝統的なスポーツと、Jリーグを中心とした新しく開放的なイメージのスポーツというように、二つの系統の特徴的なタイプが示されている。
他スポーツへの関心度の結果からも、プロ野球ファンの中心が団塊世代で、Jリーグファンの中心が団塊ジュニア(ここでは1972年から77年まれ)世代であることがわかる。up
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<北京五輪>野球の日本代表監督、星野仙一氏の就任確実に
2007年1月6日(土) 19時16分 毎日新聞 hl?c=npb&a=20070106-00000064-mai-spo へのリンク
08年北京五輪出場を目指す野球の日本代表監督に、阪神前監督の星野仙一氏(59)=阪神シニアディレクター=の就任が確実になった。23日に開くプロ野球実行委員会で確認し、翌24日のオーナー会議に報告する。今月末に予定されているプロ、アマ合同の全日本野球会議・日本代表編成委員会で正式決定する見通しだ。
代表監督選任をめぐっては、同編成委の長船騏郎委員長(当時)が昨年秋、星野氏へ非公式に就任を打診。星野氏も前向きの意向を示したとされ、有力視されていた。その後、長船氏は昨年12月に高齢を理由に委員長を辞任。後任の委員長となった全日本アマチュア野球連盟の松田昌士会長は「白紙の状態から考えていきたい」と話していた。
プロで編成した日本代表では、04年アテネ五輪は長嶋茂雄氏(70)、昨春のワールド・ベースボール・クラシックは王貞治氏(66)=ソフトバンク監督=が監督を務めた。昨年7月に早期胃がんで胃を全摘出する手術を受けた王氏は代表監督再任には辞退の意向を示し、脳梗塞(こうそく)からリハビリ中の長嶋氏も体調面で不安を抱えることから、プロ側も、阪神再建に手腕を発揮した星野氏を候補として調整していた。
五輪アジア地区予選は今年11~12月に台湾で行われ、1位が五輪出場権を獲得し、2、3位は世界最終予選に回る。 [ 1月6日 19時54分 更新
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北京オリンピックのアジア地区予選が今年(2007年)11月~12月にかけて台湾で開催される。オリンピックの本番は、2008年8月(8月8日から8月24日)中国の北京で開催。最後の五輪野球となる北京オリンピック。プロ野球のシーズンと重なるが、NPBトップ選手の参加する日本フル代表としての取り組みが望まれる。それは、2009年春には第二回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が迫っているからである。up
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エモやんの巨人軍再建論は、「プロ野球をダメにする致命的構造」の巨人版ですね。ところで、フレッシュ・リーグですが、リーグではないので、「イースタン・リーグが若手育成試合の名称募集」てなことになっています。チーム名ではなくゲーム名なんですね。とすれば、安直なところでは、フレッシュ・ゲームかチャレンジゲームかな。
ポストシーズンゲームは、チャレンジ何とかと予想したら外れ、「クライマックス・シリーズ」になりました。なので、今度も外れるでしょうけどね。
チーム「フレッシュ・リーグ(仮称)」は、フレッシュ・リーグ構想に賛同した読売ジャイアンツと千葉ロッテ・マリーンズから計12~14人程度選手を出すことになっています。読売の選手は去年と今年の2年間で獲得した育成選手が中心になるようですが、千葉ロッテには育成選手がいないので、支配下選手が中心になります。それで「なんでかな?」と思って調べたら、今年の6月10日付けのボビーズウェイが発端。
ボビーズウェイとは、おわかりのとおり千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督のブログのこと。6月10日付けのボビーズウェイには、日本とアメリカのマイナーリーグの違いについて書かれていました。
アメリカでは、それぞれのチームにつき、5つのマイナーリーグチームがあるのに、日本プロ野球は、二軍が一つしかない。現状の二軍システムでは若い選手とベテラン選手が混在することで若手の出場機会や自信が失われ、プレーを通じた育成機会が確保できていない。また、若い選手のみならず若い監督を育てることにも成功しているとは言えない。
各球団において2つのマイナーリーグチームが最低限用意されているべきだ。1つのチームは一軍でプレイしたことのない若い選手で構成されていて、他の若い選手と対戦し、そしてもしシーズン中でも能力が認められれば、次のレベルのリーグでプレイすることができる。
もう1つのチームは、若い選手に比べて経験もあってベテランの選手達で構成されていて、シーズン中は一軍でプレイするために調整をするためのもの。そして彼らの試合は一軍が通常プレイするスタジアムで、一軍の試合前に行うこともできる。そうすることで監督やコーチは一軍以外のチームにいる選手達の試合を見ることもできて、選手が一軍でプレイできる状態になっていればその選手の手助けもできる。
そうなれば、一軍にいる何人かのコーチが、この二軍のベテラン選手チームの指導も担当することも可能であり、そうすることで実際に一軍の監督が直接二軍の若い監督をも同時に育てることも可能になると、ボビー・バレンタイン監督は指摘しています。
この指摘を受けて千葉ロッテ・瀬戸山球団代表が、プロ野球各球団の二軍を「調整」と「育成」に分割し、それぞれでリーグ戦を行うという私案を実行委員会に提示していた。
参照サイト コモエスタ坂本さんの「All Aboutコラム」index.htm へのリンク
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検索していたらサンスポにエモやんこと江本孟紀氏の【巨人再建論】「二軍を切り離し独立リーグに」(2006年12月21日)が載っていた。ということでbt2006122117.html へのリンク
『マイナービジネスを起こせ!!』。サンケイスポーツ専属評論家の江本孟紀氏(59)は「巨人は二軍を切り離し、マイナー球団を多く立ち上げて独立リーグを作るべきだ」と力説する。選手が闘争心を持って強化され、監督・コーチやGMに人材を供給し、さらに地方を活性化するビジネスモデルを先頭切って作り出せるのは、巨人において他にないのだ、と。
巨人は11月21日の育成選手ドラフトで、大量7人を指名した。支配下選手のドラフトと合わせ16人の若者が、来季巨人のユニホームを身にまとう。清武球団代表は「これからは育成の巨人、とも呼ばれたい」と胸を張った。だが、江本氏は疑問を投げかける。
「底辺拡大につながると言うけど、ホンマにそうなんか。いまの二軍を、誰が支えているのか。一軍や。70人、80人と選手を抱えても、メシを食わせているのは28人の一軍登録枠の中の、ごく一部の選手の力や」
一軍で商売する12球団が「育成のため」の選手を同じ組織の中に抱えるのは無意味だ。現状の二軍公式戦は、球団経営にまったく寄与していないからだ。つまり経費ばかりかかって、運営に合理性がない。江本氏はいう。
「育成という言葉はカッコいいけど、一銭にもならない二軍は、プロではなく“道場”でしかない。二軍も“球団”だというなら、稼がなくてはいけない。巨人はもっと、プロ野球の『夢のある理想像』を、ファンに提供するべきや」
G改革案は、ズバリ『マイナービジネスを起こせ』だ。
育成選手を7人も指名した巨人だが、現在のシステムでは出場の機会が限られている二軍を切り離し、傘下に数球団を独立させる。「ジャイアンツ」の名前はコンビニ同様、フランチャイズ制とし、選手年俸(基本給)だけを巨人が支払う。選手人件費にはサラリーキャップ制を導入。例えば選手25人で試合が行われる5カ月間だけ月22万円の給料を支払えば、1チームあたり2750万円。江本案では巨人は水戸、宇都宮、前橋、甲府、八王子…など関東圏にマイナー球団を6チーム創設するが、巨人が6球団に払う総額は1億6500万円。一軍レギュラー級1人分の年俸で済む。
「スタッフにOBの雇用が広がる。巨人や阪神、中日のような伝統球団が優秀なOBを埋もれさせていないか。選手としてダメでも、監督、コーチ、GMなどの適性はあるかもしれない。人材育成の場になる。日本ハムのヒルマン監督のように、マイナーからたたき上げる一軍監督も生まれる。いまの巨人のような、コーチ人材難にも陥らなくて済む」
OBを多く雇用するスタッフの給料ほか運営費は、各チームが負担する。球団オーナーも含めてプロ野球に必要な、すべて人的資源について、底辺拡大するのが目的だからだ。その先鞭をつけられるのは巨人以外になく、江本氏はそうすることで、強い巨人が復活する基盤が築けると力説する。
「一、二軍しかない現行のプロ野球球団で致命的なのは、闘争心の欠如や。本来プロとは競い合って、はい上がっていくべきもの。アマチュア的な“道場”の二軍から脱却できれば、本当に生え抜き中心の強い巨人が復活できるはずや」
選手、ビジネス、セカンドキャリア-。すべてを復活させられる可能性が、巨人独立リーグには秘められているのだ。
★日本の独立リーグ、来年4県で
四国4県に「四国アイランドリーグ」が昨年発足。今秋の大学生・社会人ドラフトで深沢和帆投手(香川)が巨人5巡目、角中勝也外野手(高知)がロッテ7巡目指名された。今季は1試合平均観客数806人で、約1億5000万円赤字の見通し。また来年は長野、新潟、富山、石川4県で「北信越ベースボールチャレンジリーグ」が発足予定。米国にはMLB傘下の200を超えるマイナー球団以外に、06年は独立リーグ7リーグ、57球団が存在した。
★日本全体で7リーグ全42球団を
江本氏は米独立リーグに「サムライベアーズ」で参戦し、クラブチームの「京都ファイアーバーズ」の発足に尽力するなど、マイナー球団運営に実地で携わってきた。実地の経験をもとに、近著「プロ野球をダメにする致命的構造」(PHP研究所)で、NPB傘下に独立リーグを作る構想を具体的に論じている。
その中で巨人は首都圏に6球団を持ち、ジャイアンツのブランドと運営ノウハウを、1000万円のフランチャイズ料で売る。監督はじめ球団スタッフの給料、選手の基本給以外の出場給はマイナー側が負担。放映権、入場料、グッズ、広告料、地元からの出資金などでまかなう。成功すれば、オーナーは初期投資の1000万円を、球団売却で回収できる。
日本全体では7リーグ全42球団を作ろうというもの。「米国ではマイナー球団のオーナーは地元の名士。成功すれば名誉と富を同時に手に入れる」と江本氏。地方の活性化につながる税制改正なども含め、新ビジネスを提案している。up
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二軍とマイナーリーグの決定的な違い-エモやんの「プロ野球をダメにする致命的構造」から-
日本の二軍とアメリカのマイナーリーグにも歴然とした違いがある。日本の二軍はほとんど稼がず、一軍の25人に食わせてもらっている。
アメリカは違う。メジャーリーグ(MLB)というのはあくまでも一軍の40人だけで、たとえドラフトで指名されたとしても、いきなりメジャーでデビューなどということは、まず考えられない。・・・・
しかし、二軍とマイナーリーグのいちばん大きな違いはそのシステムにある。各リーグに所属するチームは、一応MLB球団の参加ではあるが、基本的には独立採算、つまり、それぞれのリーグで自分の食い扶持を自分で稼がなければならないのだ。
より正確にいえば、ケンタッキーフライドチキンやスターバックスのようなフランチャイズ方式に近いといえる。メジャーリーグのチームが基本的な資金は出資するのだが、あとのやりくりはそれぞれのチームに託されているのである。各チームには、地域でのフランチャイズの運営に協力してくれる人たちがいて、独立リーグと同じようなシステムになっている。・・・・
アメリカとは違って自分たちで食えない二軍を抱えている日本のプロ野球チームが赤字になるのもある意味当然だといえる。
一つのチームのなかに支配下選手である一軍と二軍の70人、これに準支配下の育成選手と研修生が加わり、さらにバッティングピッチャーやトレーニングコーチ、その他多くの球団職員、そのすべてを合わせると120~130人くらいになる。彼らの人件費はどこから出ているのかといったら、それは一軍のわずかな25人が稼いでいるのだ。その他の諸経費や新人の契約料だって、すべて一軍選手の稼ぎのなかから賄われている。
その意味では、今季から採用された、支配下選手のほかに準支配下選手を認める「育成選手制度」というのは、完璧に時代に逆行しているといわざるをえない(注 育成選手とは、一般の支配下選手とは別に、育成を目的として二次ドラフトにより獲得される選手を指す。一軍の試合には出場できないが、二軍の試合には出場できる。育成選手から支配下選手への昇格も可能。ただし、昇格期限は6月末となっている。)
フレッシュリーグというのは、育成選手を中心とした育成のためのリーグ(とりあえずはチーム)で、稼ぎの方は考えていないようだ。読売ジャイアンツの清武代表も「育成の巨人」といわれたいそうだが。up
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NPBは、ポストシーズンゲームの名称を募集していたが、11月14日「クライマックスシリーズ」に決定 。この「クライマックス・シリーズ」はアドバンテージなしで合意!したそうな。次は、22日サンスポ記事。
プロ野球12球団代表者会議が21日、都内で開かれ、日本シリーズ出場球団を決めるクライマックス・シリーズ(CS)について、シーズン上位球団へのアドバンテージはなしとすることで合意した。また、主催権は第1ステージ(S)は2位球団、第2Sは優勝球団が全試合独占することも決まった。
今季のパ・プレーオフでは、1位球団に無条件で1勝を与えるアドバンテージが採用され、日本ハムは第2Sを2連勝して優勝を決めた。パはCSでも無条件またはシーズン5ゲーム差で1勝などを主張したが、セはアドバンテージなしで一致していた。しかしアドバンテージが導入されれば総試合数が減り、冠協賛や放映料などに影響が出ることも指摘され、この日の会議では「全体的に歩調を合わせる」(パ理事長の日本ハム・小嶋球団オーナー代行)と、パ側もアドバンテージなしを了承した。
その上でCSの主催権を全試合上位球団に与えることとし、入場料、放映料などの収入は上位球団が独占する。下位球団の本拠地では試合が行われないが、小嶋理事長は「これも一種のアドバンテージ」と強調した。
北信越BCリーグ トライアウト、98人が合格(2006.12.23毎日新聞)
新潟、長野、富山、石川の4県を本拠地に来春発足するプロ野球独立リーグ、北信越BCリーグは22日、トライアウト合格者98人と補欠合格者21人を発表した。元ソフトバンクの宮地克彦(富山)、米マイナーリーグ出身の根鈴雄次(新潟)を加えた100人が4球団に振り分けられる。
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といっても、新リーグができるのはなく、読売ジャイアンツと千葉ロッテ・マリーンズを中心とした混成チームが、2007年からイースタン・リーグに参加するというもの。
2006年から育成選手制度ができたが、これまで出場の場が限られており、育成選手制度創設時から、育成選手を中心としたフレッシュ・リーグの構想を、読売ジャイアンツの清武代表が持っていた。ただ、育成選手制度自体に消極的な球団も多く、フレッシュ・リーグに賛同する球団も少なかった。
このため、読売ジャイアンツは、フレッシュ・リーグに賛同した千葉ロッテと合同して1チームをつくり、現在7球団という奇数でリーグ戦の編成に支障をきたしているイースタン・リーグの各球団と対戦することとし、12月21日イースタン・リーグ運営委員会で「フレッシュ・リーグ」が正式に決定されました。
「フレッシュ・リーグ」は、読売新聞によると、二軍で出場機会の少ない若手や育成選手、研修生の鍛錬が目的となる。来季は読売、千葉ロッテの2球団が調整役となってチーム編成を担当。チームは18~20人で編成し、読売と千葉ロッテから計12~14人程度、他の5球団から2人程度を派遣して混成チームを作り、山形に二軍本拠地を置く楽天以外の6球団と、その本拠地で、最大6試合ずつ、同36試合を行う。監督は読売または千葉ロッテのコーチから選出。また、審判員2、3人は配置するが、記録員は置かない方針。
スポーツ報知によれば、非公式戦のためイースタンと区別する「フレッシュ・リーグ」とし、将来的には育成選手を中心とした3軍のリーグへと発展させるプランもある。「四国リーグや北信越リーグと交流して規模を広げられる夢も出てくる」と関係者。野球の底辺拡大を視野に入れながら、来年度からの実施に踏み切ることになった、としている。
因みに、千葉ロッテには、育成選手はいません。
20061221-OHT1T00086.htm へのリンク
20061221ie33.htm へのリンク
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「60億円」はファンへ還元 西武が使途の概要を発表(サンスポ 2006.12.20)1220sokuho020.html へのリンク
プロ野球の西武は20日、ポスティングシステム(入札制度)で松坂大輔投手の独占交渉権を落札した米大リーグのレッドソックスから落札額5111万1111ドル11セント(約60億円)が入金されたことを確認したと発表し、文字通り大金を手にした。
西武はこの日、松坂に入金の事実を報告するとともに、60億円の使途について広報文を発表し、有効活用を約束した。あくまでも「幅広くファンのため」という前提で、(1)野球・スポーツを通じて青少年の健全な育成をサポート(2)戦力の補強(3)ファンサービス・ファンクラブ充実によるファンへの還元や新たなファン獲得のためのプロモーション活動-を挙げた。
(2)は新外国人選手、(3)では球場の改修などを検討中という。太田秀和オーナー代行は「税金などのこともあり、すべてを使えるわけではないが、使える範囲内でこの三つにバランスよく効果的に使っていきたい。すぐに取り組めるものはすぐにでも、継続的に取り組むべきものは2、3年かけて使っていく」と話し、西武ホールディングスグループの再建費用などには充てないことを明言した。
松坂マネーについて続報。60億円がどうやら振り込まれたようです。親会社である西武HDの再建費用には充てないことを明言したそうです。入札金はいわば移籍金なのですから、球団が得た利益であり、球団、しいては野球のために使うのは当然のことではありますが、エモやんのダメ構造のNPBでは、画期的なことと言えます。60億円という巨額マネーが逆に世間の注目を浴びたことが幸いしたともいえます。
日本を代表する松坂の流出は、球団だけでなく、球界全体にとって損失ですが、60億円という巨額マネーが日本プロ野球界へのショック療法となることを期待するばかりです。本サイトでも、今後も関心を持ってみていきたいと思います。
松坂以外にも、阪神タイガースのエースだった井川慶投手(27)は、入札金2600万ドル(約30億6800万円)、年俸・5年総額2000万ドル(約23億6000万円)であのニューヨーク・ヤンキースに移籍。東京ヤクルト・スワローズの岩村明憲内野手(27)は、入札金約450万ドル(5億3000万円)、年俸3年総額770万ドル(約9億円)で、タンパベイ・デビルレイズと契約。と、ポスティングによるMLB流出が続いています。
特に、松坂・井川の総額90億円にのぼる入札金は、日本の球界にも、サッカーと同様の移籍金ビジネスの始まりを告げようとしているようにも思えます。因みに、松坂の約60億円は、フランス代表の中心だったジダンが01年にイタリア1部リーグ(セリエA)のユベントスからスペイン1部リーグのレアル・マドリードに移った際の5億フラン(約82億4000万円)には及ばないが、ウクライナ代表のシェフチェンコの約63億円とほぼ同額で、イングランド代表ベッカムの約49億円をしのぐ。日本選手では、中田英寿が01年にセリエAのローマからパルマに移籍した際の約32億円が過去最高とされている。(選手所属やチームのリーグ、金額換算は移籍当時)(NIKKEI NET)
ポスティングによる移籍金ビジネスについて、千葉ロッテ・マリーンズのボビー・バレンタイン監督は警鐘を鳴らしています。
「日本で最高の打者であるイチローに続き、最高の投手である松坂も米国に行くのは、悲観すべきことだ」「日本の野球を運営している人たちにとって、恥ずべき状況だ。球界トップが集まる会議で、もっと対策を話し合ってもらいたい」「(対策として)できるだけ多くの試合を中継するなどして、財源を確保し、選手が最高レベルの野球を日本でできるようにすべき」「今回(松坂のメジャー挑戦)が、最後の警告になればと思う」(スポーツ報知 2006.11.2)20061102-OHT1T00074.htm へのリンク
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1 北信越BCリーグ
(1)「NPB行ける選手を」 北信越BCリーグ 監督ら会見 2006.12.19信濃毎日新聞
野球の北信越BC(ベースボール・チャレンジ)リーグに加盟する長野、石川、富山、新潟県の4チームの監督らが18日、都内で記者会見し、来年4月下旬に開幕する同リーグに向けて抱負を語った。4監督が一堂に会したのは初めて。
リーグ運営会社の村山哲二代表は「一生懸命に野球をする姿を北信越で展開することで、子どもたちに感動や夢を与えたい」とあいさつ。信濃グランセローズの木田勇監督は「われわれが学んだ技術を若い選手に注入し、1日も早く(セ、パ12球団の)NPBに行ける選手を育てたい」と述べた。
出身地で指揮を執ることになった石川ミリオンスターズの金森栄治監督は「地域に密着した新しい野球をやり、地元に恩返しをしたい」。富山サンダーバーズの鈴木康友監督は「育てて勝つのが方針。初年度から優勝を狙う」、新潟アルビレックスの後藤孝志監督は「自分の引き出しを全部見せて選手をサポートしたい」と話した。
また、選手に給料が支払われないオフシーズン(11-3月)の生活基盤を整えるため、リーグ運営会社が人材派遣大手の「フルキャスト」(東京)と契約したことを報告。オフシーズンのみを前提とした就業先を仲介し、選手引退後には派遣先の企業に正社員として採用してもらう道筋をつける支援なども行う。
同リーグは4月から10月にかけて、1チーム72試合(ホーム、アウエー各36試合)を行い、優勝を争う。
(2)応援キャラクターを発表
漫画家の水島新司さん(67)が18日、都内で行われた北信越BC(ベースボール・チャレンジ)リーグの記者会見で、代表作「ドカベン」の登場人物をつかった応援キャラクターを発表した。新潟市出身の水島さんはBCリーグのアドバイザー。「野球に対する熱い思いがあって40年間、野球漫画を描いてきた。北信越の野球を盛んにするチャンスに協力していきたい」と、来春から始まるリーグに期待を込めた
(3)球春へ最後の関門 北信越BCリーグ170人 入団テストに全力プレー 北國新聞社2006.12.19
プロ野球独立リーグ・北信越BCリーグの合同トライアウト(入団テスト)の二次テストは十九日、埼玉県所沢市のインボイス西武ドームで行われ、全国四会場で行われた一次テストの合格者百六十八人と元プロ野球選手二人の合わせて百七十人が来春のプレーボールへ最後の関門に挑んだ。
リーグ運営会社ジャパン・ベースボール・マーケティングの村山哲二社長らが激励を込めてあいさつをした後、テストに移り、石川ミリオンスターズの金森栄治監督、長冨浩志、中居殉也両コーチをはじめ各球団のスタッフらが審査にあたった。テストは外野守備から始まり、シートノック、投手のテストを兼ねたシート打撃の順に行われ、クラブチーム・茨城ゴールデンゴールズの山出芳敬選手(金沢市出身)、社会人野球・バイタルネットの筒井裕人投手(小松市出身)らが新天地での活躍を期して懸命なプレーをみせた。二次テストでは、最終的に百人が合格し、来年一月中旬のドラフトで石川、富山、新潟、長野の各球団に二十五人ずつに振り分けられる。
2 九州独立リーグ
第一回トライアウト結果発表 2006/12/18(ドリーマープロジェクトから)
前回12月10日実施しましたトライアウトの結果を発表します。
応募者20名、参加者18名のうち今回合格者はなし。
ただし、一次合格者として9名を選出しました。(次回再度挑戦してもらいたい) 次回トライアウトは他のリーグを受験した九州出身の選手と合同トライアウトで1月中から末に開催いたします。 日程が決まり次第報告します。
今回合格者を出せなかったのは本気で強いチームにしたいからです。up
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ポスティングシステム(入札制度)によるMLB移籍を目指していた西武ライオンズの松坂大輔投手と、5111万1111ドル11セント(約60億円)で落札したボストン・レッドソックスとの契約が12月14日(日本時間12月15日)正式発表された。契約内容は、6年契約で総額5200万ドル(約61億円)。
ところで、西武ライオンズが松坂の入札金約60億円の使い道だが、松坂の入団決定を受け、西武の太田秀和球団社長が、同日(12月15日)埼玉県所沢市内の球団事務所で開かれた記者会見で「球団の赤字補てんには使わない。必ずファンのために使いたい」(読売新聞)と述べ、読売新聞によれば「球場改修と補強に使うとみられている」としている。
ところが、ポスティング前、西武側はそんなことは考えていなかったようだ。以下は、ZAKZAK 2006/11/09のもの
本来なら、エース松坂の代償で獲得した「移籍金」でビッグネームを補強するのが筋。だが、そう簡単にはいかない西武の台所事情がある。
04年近鉄・オリックスの合併問題から火を噴いた「球界再編問題」で、次に身売りされるのは、「西武」と言われた。球団の売値を約200億円と設定、ホリエモン全盛期のライブドアなどに打診。しかし「あまりに法外な値段」とあっさり蹴られてしまった。また日本一になった一昨年、「おめでとう! と言われても、内心球団のことを思うと心の底から喜べなかった」と、伊東監督以下、現場から数多く聞かれたほど。
今回の松坂マネーが、「球団に入るということは聞いていません」と証言するのは、あるテレビ局関係者。その行方は親会社である西武ホールディングスに入り、全額グループの赤字補填にあてられるというのだ。
その代わり、松坂の移籍金でビッグネームは獲得できないが、「球団の身売りはなくなった」という。松坂が「是が非でも今オフの移籍」にこだわったのは、そういう球団事情も知ってのこと。松坂マネーのおかげで来季も西武は存続する。
現に、松坂に破られるまで、入札金の最高額は、2000年にオリックス・ブルーウェーブ(当時)からシアトル・マリナーズへ移籍したイチローの1312万5000ドル(約14億円)とされているが、この約14億円は、オリックス球団には入らず、親会社オリックスの球団赤字補填に当てられてしまった。このオリックスと同じことを西武も考えていたようだ。ところが、あまりにも松坂の巨額な入札金額が世間に衝撃を与えたため、「球団の赤字補てんには使わない。必ずファンのために使いたい」と言わざるを得なかったのではないか。
松坂大輔をボストン・レッドソックスが約60億円で落札したことが発表された11月15日、西武の太田秀和球団社長が、埼玉県所沢市内の球団事務所で開かれた記者会見で、「選手の補強やファンのために使いたいと思っている」(asahi.com)と話した、とされこの時点では「球団の赤字補てんには使わない」と言葉は聞かれず、「使い道はまだ決まっていない」としていた。
この時点では、「この資金をファンサービス、補強に使うと強調しているが、西武グループ全体の連結決算に組み込まれ、一部が球団への運営費に回されることが濃厚。60億円すべてが球団で使えるわけではなさそう」という見方が強かった。実際、11月23日にはasahi.comに次のような記事もでていた。
西武HDは当期黒字に 本業が好調
2006年11月23日08時56分http://www.asahi.com/business/update/1123/014.html(今は消えている)
3月に西武鉄道、コクド、プリンスホテルの3社を経営統合した西武ホールディングス(HD)が22日発表した06年9月中間連結決算は60億円の当期黒字になった。西武HDの中核会社、西武鉄道の中間決算は00年から05年まで6年連続で当期赤字だったが、今期は本業の鉄道やホテルが好調で、運輸、レジャー、不動産などほぼすべての部門で黒字を達成した。1株当たり2.5円を配当する。
売上高は3380億円で、営業利益が276億円、経常利益が182億円。不良資産のリストラでは、ニセコのスキー場などレジャー関連の約40カ所の施設売却を年内に完了させる。
通期の営業利益予想は450億円から460億円に上方修正した。ただ当期利益は、資産売却や松坂大輔選手の大リーグ移籍に伴う約60億円などの特別利益が見込まれ、「現段階では未定」という。 up
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エモやんの「プロ野球をダメにする致命的構造」のつづき。次に面白かったのがP52の「根来さん、もっと頑張ってれ!」。エモやんが根来コミッショナーにあって、「このままじゃ日本の野球界に将来はない、球界改革のためにこうことをやったらどうかと提案し、コミッショナーがリーダーシップをとって改革を行うべきだと話させてもらった」。
ところが、根来コミッショナー、ピンとこず、「いや、僕もコミッショナーとして、球界改革のことはそれなりに考えてるんですよ。有識者会議で張本さんたちから意見を聞いたり、それから小林君にいろいろ助言をしてもらったり・・・」と言い出したんだとさ。
すると、今度はエモやんが「小林君」について、ピンとこなかったようで「小林君とは誰なのだろうと思ったそうな」。千葉ロッテ・マリーンズの元選手で「いまはソフトバンクの職員になっている小林至のことだった」ことは分かったそうですが、なんで、「球界の経験の少ないまま引退選手の話を、コミッショナーがありがたがって拝聴するのはどうも腑に落ちない」とエモやんには分からなかった。それに、至君がテレビで話しているのを聞いてもどうも素人っぽい、ってエモやんは感じていたそうな。
それで、帰り際ににコミッショナー事務局の人にそれとなく尋ねてみると「東大だからですよ」という返事にエモやんは、ガクッときたとさ。
京大出の根来さんには東大出の小林至君に頭が上がらないのかな?(B_wind談)up
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北信越BCリーグでなぜ、福井が外されたのかといえば、単に、新潟から遠かったからということと、5球団のリーグ戦だと1球団が余って運営上効率が悪いからという二つの理由かららしい。
そもそもBCリーグは、サッカーJリーグ・アルビレックス新潟の関係者が中心となって設立したもので、経費を抑えるため、日帰りのバス移動を基本と考えているBCリーグにとって、福井を入れると移動の負担が増えすぎるという。リーグ運営会社株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング(JBM)の幹部は「福井は遠すぎる。試合球場は各県複数の都市の球場を予定しているから、例えば敦賀まで行ったとすると、
その日のうちに帰ってこられなくなる」と話す。 JBM社には福井の野球関係者や県民から「なんで、野球の盛んな福井を外したんだ」という相当数の抗議や質問があったという。
BCリーグは将来6チームにするという案があるような、ないような話が2チャンネルで出ている。群馬と福井を加えてとか、群馬なら福井は遠いから加えるなら福島だとか、長野から松本を分離して福井を加えてとか、の話だけど、どちらにしても、まずは4球団で軌道に乗せることが大事かな?!
5球団は、奇数でリーグ運営上支障があってダメ、なはずだが、奇数のリーグが実はある。それが皆さんご存じのNPB二軍のウェスタン・リーグ(福岡ソフトバンク、広島、阪神、オリックス、中日の5球団)とイースタン・リーグ(湘南、西武、読売、千葉ロッテ、東京ヤクルト、東北楽天の7球団)だ。大阪の近鉄がオリックスに吸収消滅し、楽天が宮城県仙台市に本拠地を新たに構えたため、それまで各6球団だったものが、2005年から5球団と7球団の奇数になってしまった。
実は、ライオンズが埼玉県所沢市に移転してくる前は、ウェスタンが7球団で、イースタンが5球団だったんだけど、やっぱり、奇数じゃリーグ戦が組みにくいということで、去今年7名の育成選手を指名した読売ジャイアンツが、千葉ロッテと組んで1チームを作り、イースタンに参加させようかという話が出ている。
ドラフト会議後、報道陣を囲んで巨人・清武英利球団代表が「フレッシュリーグ(仮称)」の構想について語った。以下は、二宮清順のarticle.php?storyid=6115 へのリンクから
「事務レベルでの運営委員の承諾は基本的に得ている。今は、監督やコーチ、審判といった人や費用について検討しているところ」とまだ解決しなければならない問題があるとしながらも、「来年にはできると思うよ」とリーグ設立の実現が近いことも示唆した。この設立には、現在ロッテも賛同しており、まずは2球団での連合チームからスタートする予定だ。
巨人とロッテの連合チームには育成選手だけでなく、イースタンリーグの試合に出場することができない2軍の選手も含まれる。また、巨人とロッテ以外の球団からも1~2名の参加も見込まれているという。対戦相手は、イースタンリーグの7チーム。ただし、イースタンリーグの公式戦には組み込まず、1年目は非公式試合とするようだ。
フレッシュリーグは育成制度ができたときから、清武球団代表の頭には既に構想が出来上がっていたという。「うち(巨人)がやって成功すれば、他の球団も追随するでしょうし、失敗すればそれまで。お金がかかることだからね」と清武球団代表。
ということで、福井はウェスタンに加わわれという話が2チャンネルででていた。up
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北信越BCリーグの新潟アルビレックスBCに、あの根鈴雄次が打撃コーチ兼選手に就任することが12月14日球団から発表された。今回は根鈴自ら経験を生かしたいとオファーしてきたとのこと。それだけ、北信越BCリーグへの期待の大きさが分かる。06.12.14niigata.pdf へのリンク
根鈴雄次打撃コーチ兼選手は、経歴だけみても、すごい。2005年には、あのサムライ・ベアーズにも在籍していた。今年はなんとオランダでプレー。
【経歴】法政大学―モントリオール・エクスポズ野球アカデミー―ケープフィア・クロックス―ハリスバーグ・セネターズ―オタワ・リンクス―セントポール・セインツ(独立リーグ)―エバンスビル・オッタース(独立リーグ)―プエブロ・バロッツ(メキシカン・リーグ)―ジャクソン・セネタース(独立リーグ)―ロンドンモナークス(カナダ)―Elmira Pioneers(IND)―Samurai Bears(独立リーグ)―DOOR Neptunus
他の選手はというと、先週の12月9日(土)の関西会場(近大生駒総合グランウンド)での合同トライアウトをもって第一次テストを終了。4会場で、459人がトライし168人が第一次テストに合格した。ポジションの内訳は、投手64名、捕手20名、内野手50名、外野手34名で、合格者は、12月19日(火)にインボイスSEIBUドーム(来年からグッドウィル・ドーム)で実施される第二次テストに臨む。06.12.11jbm.pdf へのリンク 06.12.12jbm.pdf へのリンク
独立リーグ「九州リーグ」を提唱したあの佐世保ドリームスターズが12月10日解散した。独立リーグ設立に向け、「長崎県民球団」(仮称)に再編成するため。同日、佐世保市の佐世保野球場でトライアウトがあり、長崎県内から18~28歳の18人が参加。
同球団の古賀豪紀監督は「プロというからには強いチームを目指さなければならない。厳しく採点し、実力のある選手がそろうまでは妥協しない」と述べ、必要な戦力が確保できるまでトライアウトを繰り返し実施する考えを明らかにした。18日には長崎県庁で古賀監督らが、一次合格者を発表する。次回は長崎市内で実施する(予定)。
地元のハウステンボス株式会社が選手のキャリアサポートに協力する。キャリアサポートとは、オフシーズンの選手の雇用機会を提供するとともに職業人としてのキャリアアップをサポートし、野球に専念できる環境を生活面からサポートする。
また、チーム強化策として、長崎県出身でロッテ・阪神で活躍した池辺巖が強化コーチに就任、佐世保ドリームスターズ出身で徳島インディゴソックスでレギュラーだった松原祐樹が選手として参加。
ただ、このチームプロといっても、九州リーグができても2008年からで、その間、日本野球連盟(JABA)のクラブ・チームになるか、加盟しないで独立クラブで行くか、はっきりしていない。
実は九州のクラブチームに不穏な動きがあるという。九州はアマ球界でも規制が厳しく、軟式の選手は硬式をしてはいけないなど、クラブチームの維持を難しくさせる規約が多く、佐世保ドリームスターズの解散を機に、九州のクラブチームがJABA脱退を表明するのでは?というもの。blog-date-20061214.html へのリンク
そいえば、長崎県民球団(仮称)のサポート企業エバーグリーンの地頭薗氏が、セントポール・セインツを招聘したときも、クラブチームとの有料試合は、JABAに禁止されたため、無料試合となった。up
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久し振りに野球本を3冊購入。そのうちの1冊目が、江本孟紀(通称エモやん)の「プロ野球をダメにする致命的構造-それでも、変革の芽は出ている」、米国独立リーグ・ゴールデンベースボール・リーグ(GBL)の副コミッショナーとなり、日本人だけのプロチーム・サムライ・ベアーズに係わった1年間(2005年)の経験を踏まえ、日本プロ野球への警鐘と悲願とする日本版独立リーグへの思いが綴られています。これは、PHPから本年(2006年)6月5日発行、千円(税別)です。
売り出された当時は、野球ビジネス書にも飽きてきてたので(2004年の球界再編以来、野球だけでなくスポーツビジネス本が増えた)、またその類かと思って見もしなかったのですが、北信越BCリーグから独立リーグについて調べてきて、日本独立リーグのところで、エモやんの思いが分かったので、あの本はあのサムライ・ベアーズの経験に基づいて書かれたのかと思い購入。
最初は、サムライ・ベアーズのエピソードを綴った「月給12万のヒーロー」(津川晋一著・竹書房)を買おうと思って本屋に行ったのですがなく、代わりに「プロ野球をダメにする・・・」があったからというのもあります。
プロ野球をダメにする致命的構造は、要するにCOOLTALKのMBさんがいうところの「カイシャ・フランチャイズ制」ですので、特に目新しさはありません。また、改革案についても、本人が書いているように、とりたててオリジナリティがあるものではありません。改革案にしても、複数の企業で球団を所有したとき、球団の赤字を複数の株主企業の損金に算入するという税法上の特例措置についても、既にMBさんが主張されているものです。
30分もあれば読めてしまうボリューム的には軽いものですが、実際に米国で経験してきた裏付けがあって、結構説得力があります。
誘致という発想ではダメ
その中で、興味深かったのがP106の「○誘致という発想ではダメ」。これは、少し前に、北陸のある地方都市の商工会議所から、今度、我が街にプロ野球チームを誕生させる会を立ち上げて、シンポジウムを行うということで、エモやんに声がかかった、そうな。地方は景気が悪いといいながら、お金持ちもいるもんだと思いながら行ってみると、どうも様子が違った、そうな。
エモやんはてっきり、球場はどうするとか、球団運営にはどれくらい費用がかかるかとかいった具体的なこと知りたいのだろうと思い、それ用の資料をいろいろ準備していったのに、彼らは別に自分たちでお金を出して球団を持ちたいわけではなく、早い話が、どこかのお金持ちがプロ野球球団を買って、自分たちの地元を本拠地にしてほしいという無視のいいことを夢想していただけだったのだ、そうな。
そこで、エモやん、「いまある12球団にセパ2チームずつ新たに加えて合計16球団にしようという流れになっいるのならいざ知らず、10球団にしようとしているとき、こんな計画を立てても実現するはずがない。それに、ただ本拠地を提供するだけでは、地元にとってそれほどメリットがないことは、既存のプロ野球チームの現状を見ても明らかだ」という話を懇切丁寧して、さらにもし本当にプロ野球チームを持ちたいのなら、独立リーグを作ったらどうかという提案をしてみた、そうな。
そして、福井、石川、富山の主要都市がそれぞれチームを持って日本海リーグ結成するのだ。あるいはそこに新潟と長野も加えて北信越リーグでもいい。そのほうがよっぽど可能性を感じるし、現実味がある。彼らにとっては雲をつかむような話だったのか、そのときはあまりいい反応は返ってこなかった。でも、本気でやる気があるなら、私が独立リーグのノウハウを提供したいと、いまでも思っている、とエモやんは書いています。
この北陸のある地方都市のシンポジウムというのは、2004年12月石川県金沢市で開かれた「金沢に来まっしプロ野球の会(金沢カモンズ)」の決起集会のことだと思います。エモやんも出席していますから。金沢カモンズの公式サイトはこちら。 百万石ドームの建設運動がメインみたいですね。
同じ頃、新潟の「新潟に県民(プロ野球)球団を創る会」(代表・藤橋公一アルビレックス新潟後援会専務理事)が発足しています。wind№655にあるように、この「・・・創る会」が、北信越BCリーグのルーツです。北信越BCリーグは、エモやんが書いた福井、石川、富山、新潟、長野のうち福井を除いた4県でその名も「北信越」BCリーグ。この北信越BCリーグに石川県民球団も参加し、その名も加賀百万石に由来した石川ミリオンスターズ。金沢カモンズのホームページを見ていると、カモンズは、BCリーグを「活動の延長線上の1つとして、精神的にも物理的にも支援・応援していきます」としています。
つまり、2004年12月のエモやんの独立リーグの提案は、新潟と金沢の球団誘致運動が下地になって、北信越BCリーグとして現実化することになったということであり、北信越BCリーグというのは、2004年の球界再編以降でてきた日本独立リーグ構想、フルキャスト・リーグ構想と新潟・金沢の球団誘致運動から生み出されたひとつの答えではないでしょうか。up
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マスターズリーグ・札幌アンビシャスのユニフォーム・スポンサーだった株式会社近未來通信は、実は投資詐欺会社だった。11月20日 には本社、東北支社が閉鎖され、12月4日には警視庁などが詐欺容疑で本社などを家宅捜索、11日には警視庁が大規模な捜査本部を設置している。
近未來通信は、国内外に独自の中継局を設置し、他社の電話網とネットをつないで格安 料金で通話サービスを提供。アパートの一室などに設ける中継局の通信用サーバーの設置費用を出資した「オーナー」には、電話利用者が払う利用料から配当を払うとしていた。
多くの新聞に「オーナー」募集の全面広告が度々掲載され、法人・個人、さらにはどこに住んでいるかに関係なく参加できるとして、「オーナー」から、加盟金などを含め1件あたり最低約1100万円を集め、3年~3年半で資金回収が可能としていた。
ところが、2006年8月以降、配当の大半を他の投資家の資金で賄っていたと報道され、営業役員が還元金から配当しないで、投資家から集めた資金から経費を差し引いた上で、適当な数字をでっちあげて配当金を支払っていたと報じられた。
こうした報道の影響で11月以降は配当金の支給がストップ。11月30日朝日新聞により、国内外の中継局2466台の内、実際に稼動しているのは僅かに7台(その後総務省が確認したところ2台だった。)に過ぎず、2005年7月期売上高(151億円)の中で通信業務による収入は3億円、固定電話の契約者数は587人のみという惨憺たる状態、自転車操業であったことが明らかになった。
札幌アンビシャスは、マスターズリーグ開幕時から、ユニフォーム・スポンサーをIP電話販売会社のadomoに変更したが、このadomoは、近未來通信の関連会社。このHPにアクセスすると今では貴重となった元巨人の宮本和知が登場する。一瞬なので注意。
12月2日から札幌アンビシャスのスポンサーになったのが、パチンコ・チェーンを展開するアミューズメント総合企業の「マルハン」。
マルハンの会社規模は既に上場基準に達し、マルハン創業者の韓国系日本人の韓昌祐会長は東京証券取引所への上場を目指しているが、パチンコは明らかに反社会的賭博であるとして近年パチンコに対する社会の視線が厳しくなりつつあり、パチンコホールの上場を問題視する見方も強く、2006年には同業のピーアーク、ダイナムの上場申請が却下されている(なぜか、パチンコ台製造メーカーはOK)。
このため、業界の社会的地位向上を目指すパチンコ・パチスロ運営委員会が、「これからの遊戯業界は、射幸性を抑え、より多くの人に親しまれるように各種の取り組みを行っている事を知って貰うためのイベント」を開催し、また社会貢献的なとりくみとしては、財団法人アイメイト協会をサポートし、盲導犬の育成に貢献している、とのこと。これに、マスターズリーグがチャリティ・オークションに協力した縁で、今回、札幌アンビシャスの救世主として「マルハン」が登場した。
このマルハン、Jリーグでも、2005年6月、前ユニフォーム胸スポンサーのトライバルキックス(小室哲哉が代表を務めるレコードレーベル・企画会社)のスポンサー料未払い問題をきっかけに、経営危機に直面した大分トリニータのユニフォーム胸スポンサーになっている。ところが、「パチンコは反社会的賭博」というJリーグの規定により、2007年以降のユニフォーム胸スポンサーは断念(ただし、チームスポンサーは続行)している。up
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四国アイランドリーグ、北信越BCリーグに刺激されて、佐世保市を拠点とする社会人硬式野球クラブチーム「佐世保ドリームスターズ(ドリスタ)」の古賀豪紀監督は11月20日、九州・山口各県の7クラブに参加を呼びかけ、2008年4月にプロ野球独立リーグ「九州リーグ」を最低4チームで設立する構想を発表した。
長崎県内全域に足場を広げようとチーム名も来年、長崎ドリームスターズ(仮称)に変更する予定。新チームの入団テストを12月10日、佐世保市の佐世保野球場で、主に県内の選手を対象に開催。
古賀監督によると、九州・山口に社会人クラブチームは8球団(※)あり、いずれも選手の多くはアルバイト中心の生活でプロを目指せる状態ではないという。その打開策として6月に佐賀県内で開かれたクラブチーム監督会議で九州リーグ開設を提案。「一定の理解は得られた」という。
しかし、監督の多くが資金確保やリーグ運営への不安を抱いているため、他チームに先駆けて、九州・山口のクラブチームとしては最も早い2000年1月に発足したドリスタが、12月10日に長崎地区トライアウトを実施し、スポンサー獲得、球場確保などの交渉を本格化させることで構想実現へ主導する構え。
※山口きららマウントG(池永正明監督=元西鉄、山本譲二総監督=歌手)、福岡ブラッサムズ(香川伸行監督=元南海)、佐世保ドリームスターズ(古賀豪紀監督=元オリックス)、佐賀スピリッツ(新谷博監督=元西武)、大分ソーリンズ(中村国昭監督=元ヤクルト)、熊本レッドスター、鹿児島薩摩(定岡正二監督=元巨人)、宮崎ゴールデンゴールズ(片岡光宏監督=元広島、萩本欽一総監督)
このドリスタを支援しているのが、元佐世保消防局職員という地頭薗哲郎代表のドリーマープロジェクト。
10月に米国独立リーグの人気球団「セントポール・セインツ」を日本に招聘したのも、このプロジェクトでした。10月4日から13日まで滞在し、九州のクラブチームと3試合、四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスとは、日米初の独立リーグ交流戦となりました。
九州のクラブチームとの試合は、日本野球連盟が入場料をとっての海外チームとの試合はまかりならぬとのお達しがあり、無料試合。ドリスタとの対戦はなく、福岡ブラッサム、佐賀スピリッツ、宮崎ゴールデンゴールズと対戦。GG戦では、欽ちゃんのマイクパフォーマンスもあったそうです。
セインツは米国ミネソタ州都セントポール市に拠点を置き、米国に7つある独立リーグの一つ「アメリカンアソシエーションリーグ」(10チーム)に所属。徹底したファンサービスで知られ、独立リーグとしては全米屈指の人気を誇る。市営ミッドウエー球場(6039席)でのホームゲームはいつも満員。年間約50試合で30万人を集める。up
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Uリーグ沖縄
2006年10月からの開幕を計画、沖縄本島を4つの地域に分けそれぞれにチームを作り、4チームでリーグ戦を行う。1チームは選手25人で、毎年10月から3月まで年間80試合を実施して優勝球団を決定する、という独立リーグ構想のひとつで、トライアウトで選手まで集めたのに・・・・
Uリーグから選手への報酬の支払いは無く、逆に選手が月8万円(寮費5万円、選手管理費3万円)を支払って参加する。また選手は野球の試合だけでなく平日は人材派遣会社の斡旋により仕事をこなす、これでもプロなのかよ、という状態・・・・
てなもんだったので、やっぱり、選手はとんずら。2006年5月18日に所属選手全20人のうち16人が金銭面を理由に退会届を提出、残りの4人も沖縄を離れている事が琉球新報により報道、ちなみに4チームなのに2人しか監督が決まらず、それもプロ経験者じゃなく誰だか知らない人、その1人も夏には退団・・・・
となったけど、その後もトライアウトを実施し選手を集める方針とかで、なんと求人サイトに求人広告を今でも載せている・・・
ほかになんと、Uリーグモールスタジアムというネットショップもあって、野球と関係ない商品を売っている。Uリーググッズも売っているけど・・・・
てすごいことをやってるのが、Uリーグの代表、松川英明なる人物。沖縄の人じゃないようですが・・・・
それから、公式サイトはこちら。まだまだやる気があるそうです。皆様、くれぐれも引っかからないようにお願いします。
日本アカデミーリーグ
柴岡三千夫・タイケン学園理事長が2004年に独立リーグ構想として華々しく発表したけど、結局は、学校法人タイケン学園が運営するスポーツ専門学校を中心にしたリーグ、といいながらリーグ戦は行われず、トーナメント大会が年一回開かれているだけ。2005年5月設立され、去年8月と今年の8月大会が開催されている。どうみても、独立リーグとはいえたものではありませんが、「日本アカデミーリーグ」というダイケンの内部組織は一応あるようです。これが、公式サイト。
日本アカデミーリーグで、面白かったのが、新潟県魚沼市でオーストラリアのナショナルチームをそっくりそのまま、日本の社会人クラブチームにしてしまおうというもの。このオーストラリア人球団・ウェルネス魚沼(ニックネームはカンガルーズ?だったけな)は、都市対抗の予選敗退で、一行が帰国。その後、日本野球連盟の規約が変わって、外国人が大勢を占めるチームの加盟できなくなったので、自然消滅。まあ、豪州版サムライ・ベアーズてなものか!?
参照サイト ウィキペディアup
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元プロ野球選手(東映→南海→阪神投手)、参議院議員でもあった江本孟紀が、米国独立リーグの一つ、ノーザンリーグに2005年度から加盟する「カルガリー・フォース」の特別顧問就任を発表した2004年10月の記者会見の席上で、日本独立リーグの構想を発表した。
具体的には江本がコミッショナーに就任し、日本全国に8球団参加させて4月~9月にかけて公式戦を展開。社会人やプロ経験者など幅広い人材を参加させて米国の独立リーグなどとの連携を図って選手の移籍なども活発に行っていく。また本拠地も地方の中小の都市を中心にして採算の合う自治体に本拠地になってもらい、2006年4月からの開幕を目指しているとした。ただし、この記者会見後、一切の進展がなかった。
実は、米国独立リーグとのコネクションになるはずだった「カルガリー・フォース」そのものの立ち上げがうまくいかなかった。このため、江本は、2005年にスタートするゴールデンベースボールリーグ(GBL)に活路を求め、同リーグの副コミッショナーに就任し、球団不足だった同リーグに日本人だけのチーム、ジャパン・サムライ・ベアーズを加盟させた。
GBLは8球団が、カリフォルニア州とアリゾナ州の2地区に分かれ、最初の年となる2005年シーズンは5月に開幕し、8月までの4ヶ月間で各チーム90試合を戦うというものであったが、サムライ・ベアーズは本拠地を持たないトラベリング・チームという位置づけにされた。
ベアーズは、将来プロ野球選手を目指したり、あるいは過去にプロ野球選手経験がありながら解雇された選手などによるトライアウトの合格者や、江本の人脈などを中心に24人程度の選手が参加し、初代の監督には読売ジャイアンツの主力選手として活躍したウォーレン・クロマティが就任してスタートした。選手の賃金は最低700ドル 。
選手には、元ヤクルトスワローズの五十嵐貴章や元広島東洋カープの青木智史、エクスポズ傘下の3Aオタワでのプレー経験がある根鈴雄次らがいた。投手コーチには元横浜ベイスターズの堀井恒雄を迎えている。
チームは、レベル不足を指摘され、甲子園で松井秀喜を5打席連続敬遠した経験がある河野和洋(専修大学-ヤマハ)ら当初の選手の半分以上に戦力外通告し、選手が入れ替えられた。しかし、監督のクロマティはファンや選手、審判とのトラブルが続き、シーズン終了間際に解雇され、2005年のシーズン成績は33勝57敗でリーグ最下位に終わった。観客動員数が伸び悩んでいたため、サムライベアーズはリーグ再編によるチーム削減対象に選ばれてしまいわずか一年でアメリカ独立リーグから撤退することとなった。
ベアーズは、帰国後、サムライ・ファイヤーバーズとして、江本孟紀監督のもとプロ野球二軍やNOMOベースボール・クラブ、四国アイランドリーグの球団と練習試合を重ねたが、結局解散し、日本で社会人野球のクラブチーム「京都ファイヤーバーズ」の名で再スタートを切ることになった。監督には引き続き江本が就任し、現行メンバーに新たにオーディションで選ぶ選手を加え、2006年京都ファイアーバーズがスタートした。
京都ファイアーバーズは、サムライベアーズとは別のチームと考えた方がいいようですが、江本の思いは同じようです。江本は、ファイアーバーズが軌道に乗ったことを確かめると、8月には監督を元阪神の榊原良行に譲り、新たな行動を目指しているようです。
最後に、江本のブログをご覧下さい。日本版独立リーグの創設が悲願であることが述べられています。
参照サイト ウィキペディアup
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宮城県チームとの東北ベースボールアカデミーリーグ参戦を撤回した岩手県の野球チーム「カウボーイズ岩手21」は、チーム名を「岩手21赤べこ野球軍団」と変更して日本野球連盟(社会人)に加盟した。
赤べこ軍団は、カウボーイズを脱退した村松孝彦監督サイドのチームで、村松監督は健康上の理由などから部長に就き、代わって元阪神の木立章成コーチが選手兼任で監督に就任。
連盟加盟の初年度からクラブチーム激戦区の岩手県で都市対抗野球の県1次予選を圧倒的な強さで突破、また全日本クラブ野球選手権大会本大会への出場を決めた。都市対抗野球東北2次予選でも無敗で第1代表決定戦に駒を進めたが、そこから2連敗し、「加盟初年度の都市対抗野球本大会初出場」の偉業は達成できなかった。しかし、その強さは東北の他の企業チームをも震撼させた。その後エースの関連太郎(24)と4番の高倉啓司(27)はTDKの補強選手として都市対抗野球に出場、優勝を経験している。
強いのは当然で、エース関と4番で主将の高倉は、あの在米初の日本人だけのプロ球団「サムライ・ベアーズ」の出身で、特に、関は、ベアーズで日本人最高の10勝を挙げている。また、監督の木立章成(33)ほか、休部した野球専門学校アスピア学園の出身者も参加しており、中でも、前田勝宏投手(34)は、元西武で野茂英雄に続く日本人として鳴り物入りでニューヨーク・ヤンキースに入団した強者である。
実は、赤べこ軍団、岩手県のチームといいながら、選手に岩手県出身者がほとんどいない多国籍軍団であったのだ。運営会社もタカハシ・プランニングという埼玉県所沢市の人材派遣会社。高橋正明社長が、岩手県盛岡市の出身という縁で、運営会社となり、岩手県に支店を開設という話もある。本拠地は、岩手県花巻市で、矢巾町民球場を練習グラウンドに使う。運営会社のある埼玉県所沢市を準本拠地にしている。
東北独立リーグの落とし子、赤べこ軍団は、「全員がメジャー・日本のプロ野球を目指す」プロ予備軍であった。
参照文献 ウィキペディアほかup
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2004年の球界再編以降、日本全国各地でいくつもの独立リーグ構想が計画されているが、現在リーグ運営がなされているのは四国アイランドリーグのみに留まっており、多くは実現にこぎつけていない。
独立リーグ構想の中で、四国アイランドリーグに次いで期待されたのが、宮城県の市民団体「仙台市民球団企業組合」(鈴木悟理事長)が中心となって設立を目指していた東北ベースボールアカデミーリーグであった。
東北各県全域を対象としたリーグ戦で、1部、2部などの上位クラスリーグと各県リーグ、市町村リーグなどで構成し、上位クラス・成績下位の球団とその次のクラスの成績上位球団等とで入れ替え戦を行うなど、計画は壮大であった。
仙台市民球団企業組合は、仙台にドーム球場を建設し、市民球団を設立するという夢を実現するため2002年に宮城県知事認可の組合法人として設立された。2004年の球界再編により、楽天とライブドアが宮城県仙台市を本拠地に、NPBに新規加盟を申請したことから、同年10月4日同組合は、地元野球選手の育成と、野球による町おこしを目指し、野球の底辺拡大に努めるとして、東北独立リーグ構想を打ち出した。
宮城以外の東北5県の中で、この独立リーグ構想に参加を表明したのは、岩手県のみであった。このため、四国アイランドリーグとは異なり、社会人のクラブチームとして、まず岩手県と宮城県の2球団で2006年4月からの開始を目指し、2009年までに残り4県でも球団を結成することになった。
岩手県では、「岩手プロ野球OB振興会」(横山国夫代表)が、マイナー、ルーキーの2クラスに分け2005年秋に新球団を結成した。チームの名称は「カウボーイズ岩手21」。監督に村松孝彦、野手担当コーチに元阪神タイガースの木立章成が就任。
ところが、仙台市民球団企業組合が設立準備を進めていた肝心の宮城県で、スポンサーが見つからず、選手選考も2005年10月に予定していたが実施できなかったなど、資金面・人材面での準備が進まなかった。
この宮城県側の準備の遅れから、2005年末頃、先に結成された岩手県チームで、監督と一部選手が離脱。2006年3月、宮城県側のチームの結成の遅れやそのためにリーグ運営の準備も進まない事から「先行き不透明」との判断により東北ベースボールアカデミーリーグ参戦の白紙撤回を表明した。その後チームは「岩手21赤べこ野球軍団」に改称し、日本野球連盟(社会人)に加盟した。
仙台市民球企業組合の鈴木悟理事長は「人、物、金とうちの体制が遅れ、4月スタートは無理」と計画の遅れを認め、「(リーグは)やるのが前提。ただ、どういう形でやれるかは現段階では分からない」と、計画を一旦、白紙に戻し再度計画を練ることとなった。
参照文献 ウィキペディアほかup
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人材派遣業でグッドウィルのライバルなのが、フルキャストスタジアム宮城で有名になった株式会社フルキャスト。
県営宮城球場が楽天イーグルスの本拠地となるにあたり、球場を管理する宮城県は名称に「宮城」と入れることを条件に、球場のネーミングライツ導入を検討。2005年1月に募集を行った結果、フルキャスト(東京都渋谷区)1社が応募。楽天球団と宮城県などによる審査の結果、年間2億円の3年契約で命名権取引が成立。同年3月20日付で球場名を「フルキャストスタジアム宮城」に改称した。
ということで、ウィキペディアで「フルキャスト」を調べてみましょう。
株式会社フルキャストは東京都渋谷区に本社を持つ人材派遣会社で、代表取締役社長は平野岳史。東証1部上場。渋谷駅近くに自社ビルを所有。軽作業派遣においては、グッドウィルと並んで2強とされている。
派遣スタッフは「キャスト」という。日払いの給与支払いで、基本的に直接登録した支店にまで給与を取りに行く必要がある。月15日以上働くとミニボーナスが支給される。仕事の難易度は支店によりA,B,C作業の3段階またはA,B作業の2段階に分かれている。
例えば、引越しや搬入出は大体がA作業であり、食品工場や倉庫関連はBまたはC作業。近年では女性のキャストもふえている。支店にはナビゲーター(時給800円 通称「内勤」)がおり、PCを駆使してキャストとの架け橋的な役割を担っている。また、24時間、営業と共に働いている。キャストとは異なり給与は月払いで、給料日に給与が支給される。
最近では、容姿などの情報収集は労働者派遣法で禁止されている、登録スタッフの個人情報に容姿などを無断でデータ上に記していたことが発覚。これは、労働組合「派遣業関連労働者ユニオン」(派遣ユニオン)の調べで明らかになったものであるが、問題を告発した派遣ユニオンの組合員が働いている関連企業でフルキャスト100%出資で昨年10月設立されたばかりの「ネオパートナーズ」(横浜市)を11月末で閉鎖。
ユニオン側は「組合つぶしとしか考えられない」と反発している。また、「組合員はすでに解雇を通告された。組合を結成して要求書を出した直後の決定であり、不当労働行為だ」と抗議している。
というところですが、人材派遣業は、所詮はピンハネ業なのです。それを、社会的認知を受けようとスポーツの力を借りたがるんですね。
フルキャスト・リーグ
2005年11月23日、フルキャストの平野岳史社長が、独立リーグ創設の構想を持っていることが判明。フルキャスト・リーグは、関東での展開を構想。始めは1都3県に4チームを置き、2007年春の開幕を予定。選手はフルキャストで人材派遣の仕事などをしながら野球をし、仕事と野球の両立を目指す、というものであった。ただし、この話は、話だけで立ち消えになったのかと思ったら・・・・
キャリアサポーター制度
2006年10月25日、北信越BCリーグを運営するジャパン・ベースボール・マーケティング(新潟市、村山哲二社長)は、フルキャストと連携して選手のオフシーズンの就業を支援するキャリアサポーター制度を始めると発表した。仕事を通じて地域住民との交流を深めリーグの活性化にもつなげるとした。
キャリアサポーター制度は新潟、長野、富山、石川の四県の球団が参加する北信越BCリーグのオフシーズン(11月~3月)の間に選手が生活費を稼げるよう、人材派遣で実績のあるフルキャストが各球団の地元で就業支援するシステム。フルキャストは各球団と契約を結び、①オフシーズン中の就業先企業様との契約・賃金の支払などの実施。②就業体験や社員登用への紹介などセカンドキャリア設計の支援、を行う。
フルキャスト・リーグは、関東ではなく北信越で、予定どおり、2007年春から開幕するというワケです。
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楽天イーグルスの本拠地・フルキャストスタジアム宮城のネーミングライツ(命名権)を持つ人材派遣会社フルキャストに続き、グッドウィルが西武ドームと西武二軍の命名権を5年間25億円で取得しましたが、内訳は、年間で西武ドーム3億円、二軍2億円だそうです。
現在、命名権を持っているインボイス(企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としている)によると、命名契約は球場が2005年4月から2007年3月まで、球団二軍が2008年3月までだったが、今年に入り西武側から「球場命名権の更新はしない」との通告を受けたため、両方の契約を12月末で解除することで合意したとの話。
ところで、インボイスの木村育生社長は、昨年11月親交のある新潟アルビレックス・池田弘社長にリーグ設立を依頼され、、bjリーグ初代会長に就任している。西武ドームの命名権取得時、プロ野球参入の興味も示していた木村社長だったが、旧態依然のプロ野球に嫌気がさし、最近では、バスケ経験者の木村社長は、bjリーグに夢中という話を以前聞いたことがあります。
そんなこんなで、ドームを管理する西武鉄道が中心となって新スポンサーを探していたが、一時有力候補だった流通グループ『セブン&アイ・ホールディングス』に代わり『グッドウィル・グループ』が名乗りを挙げたということです。
そこで、グッドウィルについて、ウィキペディアで調べてみましょう。キーワードは、「グッドウィル・グループ」と「折口雅博」。
グッドウィル・グループの折口雅博代表取締役兼CEOは、日商岩井時代、東京・芝浦の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」の仕掛け人として名を馳せる。1992年に日商岩井を退社し独立、1994年にはジュリアナ立ち上げの経験を生かし六本木にディスコ「ヴェルファーレ」をオープン。翌1995年に「株式会社グッドウィル」を設立、その後「グッドウィル・グループ株式会社」に社名を変更。
1996年にはヴェルファーレの経営から退く一方、1997年には在宅介護サービス会社のコムスンを買収し本格的に介護事業に参入。2004年8月に「グッドウィル・グループ」は持株会社に移行し、人材派遣の「グッドウィル」を持株会社から分離。
「株式会社グッドウィル」は、人材派遣企業の中では230万人の登録スタッフ数を誇り、1,100箇所の支店ネットワークで日本最大であり、急成長企業である。「コムスン」と並んでグッドウィル・グループの売り上高・経常利益共に中核を担っている。
CAS(軽作業派遣)、エクスプレス(ドライバー派遣)、PE(製造業請負・派遣)、SP(セールスプロモーション)、OS(事務派遣)、TS(IT軽作業)、FC(外食産業派遣)、AM(パチンコ業界派遣)、MEDI(医療関連派遣)、シニア(高年齢者派遣)、流通(流通小売業界派遣)など、労働者派遣法の自由化に伴いカテゴリーを増やし、売り上げ拡大している模様である。軽作業派遣においては、フルキャストと並んで2強とされている。
2006年7月18日にフジオーネ・テクノ・ソリューションズの買収を発表。さらに2006年11月17日に系列投資ファンドを通じ、事実上業界最大手といわれていたクリスタルグループを約880億円で買収した。 この買収により業界最大手になるのは確実と見られるが、クリスタルは数々の問題を抱えていただけにどのような処理がなされるかが注目される。
と、言ったところですが、あの請負事件のクリスタルを買収したのがグッドウィルだったんですね。
ところで、折口会長が、「ジュリアナ東京」や「ヴェルファーレ」の仕掛け人ということから、3日のスポーツ報知によれば、
(折口会長)集客術に自信を持っており「ノウハウが役立つなら応用して発展させたい」と西武の観客動員増をアシストする考えを示した。観戦者用エレベーターの不備、冬場の寒さなどに触れ、「介護専門家を派遣して(改善法を)検討したい」と明言。費用についても「松坂選手の入札金、命名権(売却金)の一部を球場に使ってもらえれば」とリクエストした。
「野球には底力、歴史の重さがある。あとはファンサービスをどう戦略的にやるのか」と話した折口会長に対し、太田球団社長は「ぜひアドバイスをいただきたい」と歓迎。時代を席巻した“ジュリアナ方式”の集客術で西武が観客動員アップを狙う。
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大リーグ機構のバド・セリグ・コミッショナー(72)は30日、日米間で取り決めたポスティングシステム(入札制度)の見直しを明らかにした。西武松坂大輔投手(26)に5111万ドル(約60億円)、阪神井川慶投手(27)には2600万ドル(約30億円)の破格値で独占交渉権が落札されたことが引き金になった。過熱する入札合戦には全米中でも疑問の声が上がっており、同コミッショナーは制度再考の必要と相場の暴騰を憂慮する声明を発表した。(日刊スポーツ2006年12月2日)
経営再建中の三洋電機は1日、プロ野球オールスターゲームの冠スポンサー契約を終了すると発表した。同日、広告代理店を通じて日本野球機構に正式に申し入れ、了承を受けた。88年から19年間、「サンヨーオールスターゲーム」として協賛してきたが、経費削減を図る。サンヨーの特別協賛金は3億4000万円。仲介の広告代理店との契約があと1年残っており、来年の協賛金は保証されいるため「当面、影響はない」という。(毎日新聞2006年12月1日)
西武鉄道および西武球団は2日、本拠地と2軍の命名権(ネーミングライツ)をグッドウィル・グループ株式会社(折口雅博会長)に売却することで基本合意したと発表した。新名称は球場が「グッドウィルドーム」、2軍が「グッドウィル」となり、07年1月1日から使用される。契約期間は5年間。グッドウィル・グループの折口会長は会見し「インボイスとの契約が切れると聞いてアプローチさせていただいた。14万人の従業員、250万人のスタッフ全員で応援していきたい」と話した。(日刊スポーツ2006年12月2日)
日本プロ野球組織(NPB)と労組日本プロ野球選手会(宮本慎也会長)による構造改革協議会が30日、東京都内のホテルで開かれた。来季からのポストシーズンゲーム「クライマックスシリーズ」導入に伴う試合数増加に関連し、選手会側が要求していた負担増への救済策について、故障選手の一部に登録日数を加算する特例措置を導入することで合意した。フリーエージェント(FA)権取得で不利が生じないための配慮。(毎日新聞2006年11月30日)
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まずは、11月17日のasahi.comの記事から
フランス社会党幹部が、サッカー仏代表チームについて「黒人ばかりで恥ずかしい」と発言し、波紋が広がっている。シラク大統領が「民族や宗教にかかわりなく、共和国は市民の平等を保障している」と批判するなど、各界が非難。来春の大統領選を意識する社会党内部にも衝撃が広がり、幹部の除名を求める声が出ている。
・・・・そういえば、2日の世界バレーボールのフランスチームも黒人が多かった。国技といえる、日本の大相撲や米国のMLBも外国人が多いけどね。
ということで、フランス普遍主義と啓蒙主義について考える。
フランス革命は、自由と平等という人類共通の価値観を掲げた普遍主義の革命であった。フランス革命は、イギリス革命(清教徒革命と名誉革命)、アメリカ独立革命に次ぐ、市民革命として知られるが、英米の革命が一国の出来事であったのに対し、普遍主義の革命であるフランス革命こそ真の革命であり、真の革命を成し遂げたフランスは、普遍主義を世界に広める責務があると考えられた。これがフランス普遍主義の始まり。実際、普遍主義は、ナポレオン率いるフランス軍によって、ヨーロッパ大陸全土に広げられた。
ところで、「フランス普遍主義」と、普遍主義に一国の名を冠することは本来矛盾している。それを正当化したのが、啓蒙主義。啓蒙主義とは、合理主義的批判精神に基づいて、政治・社会・宗教などの不合理な伝統や権威の打破をめざす思想運動で、17世紀市民革命(清教徒革命と名誉革命)を経験したイングランドで、ジョン・ロックが、ホッブスの考えを批判的に展開し、理論化。18世紀前半ロックの思想を、英国に亡命していたモンテスキューとヴォルテールが旧体制(アンシャン・レジューム)下のフランスに持ち込み広がった。18世紀後半、ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論によって大成化した。
啓蒙主義は、当時資本家として台頭しつつあったブルジョワジーの中心思想となり、フランス革命に大きな影響を与えた。ブルジョワジーとは、もともと「都市城壁内に住む人」、つまり中世都市の自由市民を意味し、革命当時、旧体制の権力主体であった貴族階級、聖職者と都市の労働者、民衆、農民との間に位置付けられ、裕福な都市の商工業者を指して、ブルジョワジーというようになった。語源は、ドイツ語のブルク(Burg,城塞、城)に由来。
ブルジョワジーは、裕福であったが、政治的には、都市の労働者や民衆、農民と同じ平民とされ、特権階級である聖職者や貴族を養うための重税に苦しんでいた。フランス革命は、市民革命とされるが、ここでいう市民とは現在の「市民」の概念とは異なり、ブルジョワジーのことを指した。フランス革命は、ブルジョワジーである市民が、貴族・聖職者という中世特権階級の支配から無知蒙昧な労働者、民衆、農民を解放し近代へと啓蒙したブルジョワ革命であった。
ところで、西欧語の市民「citizen(英語)」の語源は、古代ギリシア・ローマ時代の都市国家(ポリス)の市民を意味する「civitas」に由来する。ポリスの市民は、男性の自由民で、投票権を持って政治に参画するとともに、兵士として共同体の防衛義務を果たした。この古代の市民「civitas」と、中世都市の市民であるブルジョワジーとの間には、直接的な繋がりはないが、ロックやルソーら当時の啓蒙思想家は、ポリスの市民を近代的市民の理想とした。
市民革命によって政治的な参加権を得たブルジョワジーの中には同時に進行していた産業革命と結びついて「産業資本家」になる者が現れた。これによってブルジョワジーは
19世紀中頃から資本家階級を指す言葉として転化した。up
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四国アイランドリーグの2年目は、1試合平均の入場者は806人と伸び悩み、1億5千万円の赤字が見込まれるということだが、ここで視点を少し変える。
2年目の2006年度は6万円に半減し、これに1試合当たり3千円の出場給をプラス(年間全90試合に出て27万円)する形としている。(この他に食事手当として出る月額10万円は従来額を維持) 、ということなので、ここでは仮に選手一人当たりの人件費を240万円としよう。
すると、リーグの選手数を100人として、リーグ全体の人件費は、2億4千万円。ということは、人件費を除くと、差し引き9千万円の黒字ということになる。人件費を2億円としても5千万円の利益がある。
ということは、もし、NPBがMLBのようにマイナー球団選手の人件費を育成費として負担してくれたら、四国アイランドリーグも、現状で利益が出るということになる。NPBにしても12球団で均等に負担することにすれば、1球団当たりの負担は2千万円で済むことになる。
また、NPBの1球団が、アイランドリーグに二軍の運営を委託した場合、人件費だけを負担するだけで、運営費はゼロということになる。これは、なかなか魅力的ではないか。
なにも、1球団まるまる委託する必要はない。2軍でもなかなか出場に恵まれない選手は、アイランドリーグに育成を委託してもよい。年間90試合も魅力的なのだ。
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マスターズリーグが、プロ野球(NPB)選手のOBリーグなのに対し、四国アイランドリーグは、育成リーグとして位置づけられる。このため、選手は、NPBのプロ野球選手を目指す野球経験者(2006年5月から元NPB所属選手も受け付けることになった)に限られしかも、採用時には、原則として17歳から24歳までという年齢制限がある。
西武ライオンズで活躍した石毛宏典は、長引く不況の影響から、社会人野球の多くが休・廃部になり、プロ野球選手の夢を目指してきたたくさんの若者が夢を諦めざるを得ない状況を憂い、日本版独立リーグを作り、プロ野球を目指す若者に、チャレンジの場を提供しようと 2004年4月23日、独立リーグ運営会社として株式会社IBLJを設立。IBLJは、Independent Baseball League of Japanの略。
独立リーグの候補地として、東北なども検討されたが、四国が野球王国として野球熱の高い地域であり、多くのプロ野球選手を輩出していること、また4県の間の交通整備されており、どの地域への移動も概ね2時間内で可能というインフラにめぐまれていることなどから、四国での独立リーグが計画された。
四国各県から1球団ずつ(計4球団)が参加し、四国旅客鉄道(JR四国)、四国コカ・コーラボトリングなどの地元企業がスポンサーとして支援。IBLJ本社は、2005年6月1日東京都目黒区から香川県高松市に移転。
リーグと各球団の愛称は地元で一般公募され、2005年1月28日リーグの愛称を四国アイランドリーグ、愛媛マンダリンパイレーツ(愛媛県松山市)、香川オリーブガイナーズ(香川県高松市)、高知ファイティングドッグス(高知県高知市)、徳島インディゴソックス(徳島県徳島市)と決定された。
試合は、ホーム・アンド・アウェーによるリーグ戦で、ホーム45試合、ビジター45試合の計90試合。原則として毎週金曜~日曜の週3試合ペース(2005年は毎週木曜~日曜の週4試合ペース)で開催。今季から前期、後期の2シーズン制とし、それぞれの優勝チームが年間決勝大会(チャンピオンシップ)を戦う。(前期、後期とも同じチームが優勝の場合は年間勝率2位のチームとチャンピオンシップを戦う)
2005年4月29日初シーズンが開幕し、10月10日高知が、アイランドリーグの初代優勝球団となる。2006年度は、10月15日後期優勝の香川が、前期優勝の高知を破り、リーグチャンピオンシップを制してリーグ優勝を飾った。
IBLJの構想では当初、各県庁所在地にフランチャイズを置き、リーグ戦は主にナイトゲームで開催する予定だったが、四国でプロ野球のナイトゲームを開催できる球場は、愛媛県の坊っちゃんスタジアムと香川県のオリーブスタジアムの2ヶ所しかなかった。徳島県内の硬式球場のナイター設備は軟式用の照度で、高知県内にいたってはナイター設備のある硬式球場は1ヵ所もない。
そこで、IBLJは各県の事情を考慮して、リーグ戦開催球場を確保している。1年目の2005年度リーグ戦では、高知県内での開催球場は8ヶ所に分散してデーゲームを行い、徳島県内では主にトワイライトゲーム(夕方開始、試合途中から照明を入れる)を行い、愛媛県と香川県では主にナイトゲームを開催している。2006年度リーグ戦は徳島県内の開催球場のうち、鳴門球場では主にナイトゲーム(午後6時開始)を行っている。
2005年度の公式戦180試合の総観客動員数は19万1194人(1試合平均1068人)で、開幕前に目標とした14万4000人(1試合平均800人)を上回ったが、無料券での入場者が全体の約6割を占めたことで売り上げが伸びなかった。このため、2005年度の収支は当初計画では8167万円の黒字を予定していたが、決算は3億1497万円の赤字となった。
2006年度は、無料券を大幅に減らし、有料の入場者数を増やす事で売り上げを増やす方針をとった。また、各球団の独立採算性を高めるため、3月、IBLJの事業部門だった各球団をIBLJの100%出資により資本金1000万円の子会社として法人化し、各球団に興行権を委譲。
2006年度のリーグ戦180試合の平均入場者数は806人、当年より新規に開催されるリーグチャンピオンシップ4試合の平均観客数は1835人であった。シーズン閉幕後の10月24日、香川県庁で行われた記者会見で2006年度の収支が約1億5000万の赤字となる見通しである事が発表された。
プロ野球(NPB)選手の育成という点では、2005年結果的にドラフト指名を受けた選手は0人だったが、2次ドラフト=育成選手ドラフト=で西山道隆(愛媛)が福岡ソフトバンクホークスの、中谷翼(同)が広島東洋カープの指名を受け事実上のプロ選手が誕生した。西山は2006年5月に支配下登録され一軍での登板も果たしている。翌年の2006年のドラフト会議では、深沢和帆(香川)が読売ジャイアンツから、角中勝也(高知)が千葉ロッテマリーンズからそれぞれ指名を受け、また、伊藤秀範(香川)が東京ヤクルトスワローズから育成ドラフトの指名を受けた。
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日本で独立リーグといえば、日本プロ野球組織(NPB)に加盟していない独立したプロ野球リーグのことで、この定義で言えば、マスターズリーグもれっきとした独立リーグであり、昨年スタートした四国アイランドリーグよりも早い2001年にスタートしている。
マスターズリーグは、株式会社エンジェル(代表:一木良文)が2000年に企画・立案し、社団法人全国野球振興会(理事長:大沢啓二)に提案したことに始まる。同会の全面的な支持、協力のもと、翌2001年、日本プロ野球OBクラブへ「プロ野球マスターズリーグ設立」企画を提案、プロ野球OBの人材活用と球界の活性化を模索していた同団体にとってタイムリーな申し出となり、「新リーグ設立」企画に賛同し人材の提供を約束する事となる。
同年4月、株式会社スカイパーフェクト・コミュニケーションズに「新リーグ設立」企画を提案、メインスポンサー契約を交わす。11月1日、東京ドームで行われた東京ドリームス対札幌アンビシャス戦で開幕スタートした。
マスターズリーグのシーズンは、11月から翌年1月までで、NPBのシーズンオフ、空いているドーム球場を活用する形をとっている。株式会社スカイパーフェクト・コミュニケーションズは、運営するスカパー!のプロ野球パックが好評だったことから、シーズンオフによる解約を防ぐための企画として、メインスポンサーとなり、全試合が中継された。
6年目の今シーズンからスカイパーフェクト・コミュニケーションズが撤退、ソフトバンク・モバイルがメインスポンサーとなった。このため、スカパー!のスカイ・A、J SPORTS、BS-i他地上波ローカルいずれかで一部のカードが中継されるのみとなった。
球団は、札幌アンビシャス、東京ドリームス、名古屋80D'sers(エイティー・デイザーズ)、大阪ロマンズ、福岡ドンタクズ の5球団。 2回総当り(ホーム・アンド・アウェー方式で各1試合ずつ 1チーム8試合)の成績で順位を決定する。
昨シーズンは各ドーム球場で最高入場者数を記録し、また、昨年度より京都議定書に基づくCO2削減活動の一つ、農林水産省の「木づかい運動」のイメージキャラクターにも選ばれ07年度までの3年間「木づかい運動」を応援している。他にも各試合前に野球教室を開催するなど、社会貢献活動も積極的に行っている、とのこと。
それにしても、OBリーグが独立リーグというのはおかしな話です。NPBの歴史軽視とOB選手へのリスペクトのなさ、由々しき物ですね。それから、札幌アンビシャスのユニホームスポンサーである近未来通信との関係は、どうなっているのだろう。早く縁を切らないと。
マスターズリーグ へのリンク
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北信越BCリーグは、そもそも、2004年10月5日サッカー・Jリーグで成功したアルビレックス新潟の池田弘会長らが、2008年完成予定だった新潟県立野球場をホームグラウンドにプロ野球(NPB)への新規参入を企図したことによる。
新規参入のための準備団体設立を発表した直後の10月23日新潟県中越地震が発生、その前7月の新潟水害の復興作業を優先するため新潟県の財政が厳しくなったことから、県立野球場の2008年度完成はもとより本格的な着工のメドが立たなくなってしまった。
新潟市営鳥屋野野球場の老朽化が激しいことから、地元経済界や新潟県高等学校野球連盟、新潟県硬式野球連盟、新潟県野球連盟(軟式)の野球3団体を中心として「県立野球場建設促進委員会」が設立され、2005年4月には13万人の署名が集まった。
2006年6月22日新潟県の泉田裕彦知事が、新潟県立野球場を2006年度内に着工し、2009年までに完成させると発表。これにより、新潟国体に間に合うことになり、なおかつプロ野球新球団結成に向けた土壌が整うことになる。
それに先立つ5月15日北信越を拠点とする独立リーグ構想の詳細が新潟市内で発表される。開設準備室の村山哲二代表とアルビレックス新潟の池田弘会長と漫画家の水島新司が出席。また、四国アイランドリーグの石毛宏典コミッショナーも出席し、将来的には交流戦を行いたい意思を表明。
7月3日にリーグ運営会社・株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティングを設立、代表取締役に開設準備室の村山代表が就任。もともと野球少年だった村山代表は、昨年春、広告代理店でアルビレックス新潟の後援企業のを担当していたとき、「野球でも、サッカーと同じような盛り上がりをつくれないものか」とアルビの後援会関係者から相談を受け、アルビレックスの池田弘会長と構想を練り上げていた。
8月1日、この独立リーグに参戦するための球団運営法人として株式会社新潟アルビレックス・ベースボール・クラブが設立され、新潟のプロ野球構想が、独立リーグという形になって実現する運びとなった。なお、リーグ運営会社である株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティングの取締役には、ベースボール・マガジン社の池田哲雄社長も名を連ねている。
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読売新聞46.htm へのリンク
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マスターズリーグ、四国アイランドリーグに続く、日本で三つ目の(現存する)独立リーグを目指す北信越BC(Baseball challenge)リーグが具体化してきた。既に、リーグ運営会社(株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング(代表取締役 : 村山哲二))と新潟、長野、富山、石川の県民球団は設立され、4球団の愛称と監督も決定。一次テストが25日(土)石川県金沢市の星陵高校グラウンド(61人参加、59人説もあり)、26日(日)には愛知県名古屋市のナゴヤ球場で実施された。(ただし、ナゴヤについては未確認。)
一次テストはこの後、12月3日に西武所沢第二球場、同9日に近大野球部生駒総合グラウンドで行われ、合格者が同19日に埼玉県所沢市のインボイスSEIBUドームで行われる二次テストに進む。最終的に100人が合格し、来年1月中旬のドラフトで新潟、長野、富山、石川の各球団に25人ずつに振り分けられる。
各球団は、4月から10月の金・土・日・祝祭日に、ホーム・ビジター各36試合の計72試合を行う。選手は全員プロ契約で、給料は4月~10月まで月15万円、オフシーズンは人材派遣会社と提携して県内企業で就業する「キャリアサポーター」制度を導入。構想では、1試合当たり5000人、うち有料入場者1600人の動員を見込む。2、3年目はさらに1割増、そして4年目での黒字を達成するという。
新潟県民球団は、新潟アルビレックスBC(baseball club)。サッカーJリーグ、チアリーディング、バスケットbjリーグ、スキー・スノボーチーム、陸上競技に次ぐ6番目のアルビとして誕生。監督は、元読売ジャイアンツの後藤孝志。2005年に引退し、今年はヤンキースのマイナーでコーチ留学を経験。投手コーチは元ヤクルトで新潟出身の本間忠。
長野県民球団は、長野ではなく、信濃グランセローズ。愛称は、県獣カモシカから、気高いカモシカという意味の造語。代表は、元東映-日本ハムで2005年までファイターズ社長補佐だった三沢今朝治。GMに元大洋・横浜で今年の11月までベイスターズ・チーム運営部・記録査定業務担当だった今久留主成幸、監督に元日本ハム・横浜の木田勇。
富山県民球団は、富山サンダーバーズ・ベースボール・クラブ。愛称は、県鳥の雷鳥に因む。監督は、元読売ジャイアンツで、欽ちゃんの茨城ゴールデンゴールズコーチだった鈴木康友。
石川県民球団は、加賀百万石に由来し、県民100万人の夢と希望をのせて輝けるチームになってほしいという願いから石川ミリオンスターズ。監督は、石川県金沢市出身で、元西武で打撃コーチも経験した金森栄治。
ホーム球場は特に持たず、各県内の球場を巡業する方針だが、新潟アルビレックスBCは、2009年竣工予定で3万人収容の新潟県営球場をメイン球場に予定。それまでは老朽化した鳥屋野球場を使用することになる。長野には、3万5千人収容の長野オリンピックスタジアムをはじめ松本市野球場、諏訪湖スタジアムなど新しい球場が県内各地にある。富山は、3万人収容の富山アルペンスタジアム。石川には、2万人収容の石川県立野球場がある。
北信越BCリーグ へのリンク
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高校の未履修問題が全国的に明らかになったが、特に地理歴史の履修漏れが目立つ。歴史地理の場合、センター試験で受験できるのは一科目なのに、指導要領は世界史と、もう一科目、日本史か地理を選択しなければならない。「当たり前に二科目の授業を受けていたら入試に勝てない」と教師や生徒が考えても不思議でない。さらに、必修の世界史も、暗記項目が多いことから受験生には不人気で、世界史の授業を行っていなかった高校が続出した。全国的に世界史の未履修が目立った。
根っこにあるのは、高校が受験指導偏重にならざるを得ない状況に追い込まれていることだろう。「学力が低下した」と圧力が一段と強まり、文科省や教育委員会は現場に「学力向上」を求める。保護者からも「何とか有名大学に」とプレッシャーがかかる。高校側も少子化時代の生き残りをかけ、進学率アップに躍起になっている、という図式である。
以上は、ネットの記事を整理したものだが、歴史を軽視する風潮が気になる。プロ野球の世界でも、過去の歴史や記録を軽視する傾向がある。特に、ホークスの南海時代、オリックスの阪急時代など、親会社が変わった場合、過去の記録が消されたり、尊重されない場合が多い。ただし、オリックスは、バファローズになって、近鉄や阪急時代のスタープレーヤーがスカイマークスタジアムの壁面を飾っていた。
始球式にしても、アメリカでは往年のスタープレーヤーが登場し、ファンの喝采を浴びることが多いが、日本では野球とは全く関係のない芸能タレントが番組宣伝のためとか登場し話題になるといった具合である。
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世論の圧倒的な人気を背景に成立した小泉前内閣で、「政府と国民との対話」として鳴り物入りで導入されたタウンミーティングで「やらせ」が発覚した。まず明らかになったのは、
教育改革に関する5回のタウンミーティング。政府が事前に用意した質問案は、「新しい時代にふさわしい教育基本法となるよう改正が必要」(04年5月、松山市)、「義務教育の財源が地方に移ると公教育に地域格差が生まれることが懸念される」(同年10月、和歌山市)など文部科学省の意向を反映させたものだった。「できるだけ自分の言葉で」「『依頼されて』とは言わないでください」といった注意事項を付けたケースもあった。(11月10日毎日新聞)
これだけでなく、大半のタウンミーティングでやらせがあったいわれている。小泉劇場の舞台装置といわれたタウンミーティングであるが、予想どおり世論操作の場でしかなかったことが明らかになったのである。
ネットを検索していると、次のような話が出てきた。
「タウンミーティングやらせ問題」
このニュースが流れた時、ついにバレたかと思った。
昨年、某大手広告代理店の営業から聞いた話。
「タウンミーティングでは、政府が言いたい事を予め決めてあり、その答に合った質問を数人に依頼している。そうでなければ、とんでもない質問が出て答えられない」というものだった。
「そりゃそうだよね」と、このブログ氏は書いているけど、政府の側からみれば、多額の税金と時間を使って、「とんでもない質問が出て答えられない」のでは、タウンミーティングを開く意味がない。世論の高い支持率を背景に議会の抵抗勢力と対峙していた小泉内閣は、小泉内閣は「民意を反映しているんだ。世論の支持を得ているんだ」というパフォーマンスのためにタウンミーティングを採用した。それが「とんでもない質問が出て答えられない」のでは「とんでもない」ことなのであり、「やらせ」は「そりゃそうだよね」なのである。
ところが、議会重視の安倍内閣が登場し、タウンミーティングのやらせ問題が、国会で追及されると、それまでの「タウンミーティングで、教育基本法改正の国民的な理解が深まった」としてきたものが、
「タウンミーティングをこれから新たにやり直して、その中で審議を続けていくべきではないですか」(民主党・松本大輔議員)
「私は、そうは思いません。一番の民意は何でしょうか。それは日本国憲法によれば、国会の議論こそ民意の最大の集積の場所です」(伊吹文明文科相)
「決めるのはやっぱり、国民の代弁者である政治家なんだと。なら聞きおくだけですよと。(タウンミーティングは)アリバイ作りだと私は聞こえました」(民主党・松本大輔議員)11月10日TBSニュース
ところで、タウンミーティングは、アメリカのニューイングランド地方で行われていた住民による直接民主主義の制度であり、アメリカ民主主義の原点ともいわれています。ベースボールの前身であるタウンボールの語源ともなったものです。
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守備のベストナイン。ベテランの記者の投票によって今月8日(水)セ・パ各リーグでポジションごとに9名が選ばれた。今年は、セパ優勝球団が各5名ずつ選出されたが、特にパ・リーグの外野は日本一になった北海道日本ハムファイターズの森本、新庄、稲葉の3選手が独占した。
1972年に、アメリカ・メジャーリーグの「ゴールドグラブ賞」にならって、「ダイヤモンドグラブ賞」として創設され1986年から現在の名称となる。正式名称は三井ゴールデン・グラブ賞。三井グループ広報委員会協賛(当初は三井物産スポーツ販売が協賛していた)。セ・パ各連盟の公式表彰に準じて、特別賞として位置付けられている。
本家の「ゴールドグラブ賞」は、バットメーカーのヒレリッチ&ブラズビーが表彰を行っていた「シルバースラッガー賞」に対抗して、1957年グラブメーカーのローリングスが、守備を評価するための賞として設立。
ところで、日本のスポーツ新聞は、このゴールドグラブ賞をゴールデングラブ賞と間違えることが多かった。ゴールデンとは、「黄金のように価値のある」という意味で、金そのものはささない。ところが、ゴールドグラブ賞は、受賞者には実際にグラブをかたどった金色のトロフィー(ゴールドグラブ)が贈られる。ゴールドグラブ賞は、本当にゴールドであったのである。
1972年、ローリングスの代理店だった三井物産スポーツ用品販売がセ・パ両リーグに申し入れ、ダイヤモンド・グラブ賞の名称でスタート。ゴールドグラブ賞の名称使用は、ローリングス社の了解がとれなかったため、「それならば、ゴールドより価値のあるダイヤモンドだ」ということで「ダイヤモンドグラブ賞」になったかと記憶している。因みに、内野のダイヤモンドにかけている。トロフィーは、ゴールドグラブの使用が許されたらしく、受賞者には、ダイヤモンドではなく、ゴールドのグラブが贈呈される。
1986年、三井グループが受け継ぎ、三井グループ広報委員会協賛による「三井ゴールデングラブ賞」に改称、今日に至る。名称の変更については、三井グループがスポンサーになり、三井の冠をつけるのに、ライバルの「三菱」の象徴である「ダイヤモンド」では「まずい」ということで、誤ってよく使用されていた「ゴールデン」グラブ賞に変更したものと思われる。「嘘から出た誠」といったところか。
ちなみに、Jリーグ浦和レッズの正式名称は、浦和レッドダイヤモンズだが、由来はもちろん、親会社だった三菱自動車の赤いスリーダイヤ。また、三菱電機社製のケータイの型番が「D」なのも、同じ理由。
ところで、ローリングスの代理店が、三井物産スポーツからアシックスに変わっているが、それが、1986年のスポンサー変更の時期かは不明。
三井ゴールデングラブ賞オフィシャルサイト
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| こまったいぞうくんのページを作ったので、削除 |
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ポストシーズンゲーム(PSG)のネーミング案を募集しています。はやりでいえば、「チャレンジ」という名称が予想されます。つけばSHINZOくんが喜ぶでしょう。
それと、スポンサー名はどうするのか?
因みに、NPBの公式スポンサー(パートナー)は、KONAMI、新日本石油、第一生命、三洋電機の4社だけ。
三洋電機は、オールスター。第一生命は、交流戦。KONAMIは、アジアシリーズの冠スポンサー。
新日本石油は、ジュニア・トーナメントの冠スポンサーで地味だけど、日本代表の唯一の公式スポンサーでもあります。
日本シリーズには、いまのところ、冠スポンサーはついていません。
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ポストシーズンゲーム(PSG)ネーミング案募集について
日本プロフェッショナル野球組織(NPB)は来シーズン、日本プロ野球史上初めてセ、パ両リーグ統一でポストシーズンゲーム(PSG)を開催いたします。
今回、NPBは日本シリーズの出場権を争うゲームのネーミング案を、ファンの方々から下記の通り募集することとなりました。ネーミングの選定におきましてはファンの皆さまの声を広くお聞きし、寄せられたネーミング案を参考にさせていただいた上で、最終的に「PSGネーミング選考委員会」で決定いたします。
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| 10月21日 |
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日本シリーズ 第1戦 (ナゴヤドーム18:10) |
| 10月22日 |
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日本シリーズ 第2戦 (ナゴヤドーム18:10) |
| 10月23日 |
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| 10月24日 |
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日本シリーズ 第3戦 (札幌ドーム18:10) |
| 10月25日 |
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日本シリーズ 第4戦 (札幌ドーム18:10) |
| 10月26日 |
木 |
日本シリーズ 第5戦 (札幌ドーム18:10) |
| 10月27日 |
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| 10月28日 |
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日本シリーズ 第6戦 (ナゴヤドーム18:10) |
| 10月29日 |
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日本シリーズ 第7戦 (ナゴヤドーム18:10) |
| 10月30日 |
月 |
| 10月31日 |
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| 11月1日 |
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| 11月2日 |
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| 11月3日 |
金 |
イオン日米野球2006 第1戦 (東京ドーム18:00) |
| 11月4日 |
土 |
イオン日米野球2006 第2戦 (東京ドーム18:30) |
| 11月5日 |
日 |
イオン日米野球2006 第3戦 (東京ドーム18:30)
パ・リーグ 東西対抗 (静岡12:00)
第3回 NPB CUP 選抜学童軟式野球大会 準決勝・決勝 (インボイス) |
| 11月6日 |
月 |
| 11月7日 |
火 |
イオン日米野球2006 第4戦 (京セラD大阪18:00) |
| 11月8日 |
水 |
イオン日米野球2006 第5戦 (ヤフードーム18:00) |
| 11月9日 |
木 |
KONAMI CUP アジアシリーズ2006 予選リーグ 初日 (東京ドーム) |
| 11月10日 |
金 |
KONAMI CUP アジアシリーズ2006 予選リーグ 2日目 (東京ドーム) |
| 11月11日 |
土 |
KONAMI CUP アジアシリーズ2006 予選リーグ 3日目 (東京ドーム) |
| 11月12日 |
日 |
KONAMI CUP アジアシリーズ2006 優勝決定戦 (東京ドーム) |
| 11月13日 |
月 |
| 11月14日 |
火 |
プロ野球コンベンション (東京) |
| 11月15日 |
水 |
| 11月16日 |
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| 11月17日 |
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| 11月18日 |
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| 11月19日 |
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| 11月20日 |
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ドラフト会議(大学生・社会人ほか選択会議)up |
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四国アイランドリーグに次ぐ日本で二つめの独立リーグを目指す北信越リーグ(仮称)は、正式名称も決まり、先に法人組織が設立された新潟につづき、富山・石川・長野の三県でも準備室が創設されるなどここにきてようやく具体化してきました。東北や沖縄など各地の独立リーグ構想が頓挫するなか、うれしい話です。
9月13日スポーツナビの記事です。
「BC」来春開幕へ=北信越の野球独立リーグ
新潟、長野、富山、石川の4県でプロ野球独立リーグの創設を目指す株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティングの村山哲二代表取締役らは(9月)13日、長野市内で記者会見し、リーグの名称を「BC(ベースボールチャレンジ)リーグ」とすることなどを発表した。来年4月末から10月まで北信越4県で全144試合を行う。
監督、コーチにはプロのOBを起用。11月から東京、名古屋、大阪でトライアウトを行い、100人を集める。所属選手は、シーズンオフに人材派遣会社があっせんした企業で働くなど、セカンドキャリアへの準備も制度化されており、プロ野球選手の育成を目的とする四国アイランドリーグとの違いを強調した。
リーグのHPはここ。
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メジャーが駄目でも再チャレンジ
多田野が四国ILに参加 アスレチックス側も了解
米大リーグ、アスレチックス傘下3Aサクラメントの多田野数人投手が四国アイランドリーグの徳島にスポット加入することになった。四国アイランドリーグ事務局が9月21日に発表した。契約期間は22日から10月12日まで。多田野投手は3Aのレギュラーシーズンの日程を終えたが、実戦登板したい意向があり、保有権を持つアスレチックス側も了解し決定した。
野茂 ドミニカ共和国Wリーグ参加へ
来季のメジャー復帰を目指す野茂英雄投手(38)が今オフ、ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討していることが9月21日(日本時間22日)分かった。野茂は今季、ホワイトソックス傘下の3Aシャーロットと契約したがメジャー昇格はならず。6月には右ひじの手術を受けた。現在は米ロサンゼルスで練習を行っており、渡米12年目で初のウインターリーグ参加は来季へ向けて背水の決意といえる。
タイガースも再チャレンジ
阪神の30億円、再検討も=日本野球機構理事会
プロ野球の根来コミッショナーは25日、日本野球機構の理事会を10月2日に開き、阪神球団が要請していた預かり保証金など30億円の減免問題について再検討するかどうか話し合うことを明らかにした。阪神は、親会社の阪神電気鉄道が10月1日に阪急ホールディングスと経営統合することが球団保有者の変更に当たると判断され、球団譲渡時と同様に30億円の支払いを求められていた。
桑田も再チャレンジ
巨人・桑田真澄が9月24日、イースタンリーグ・湘南戦に今季6試合目の登板。試合後の記者会見で、来年も現役続行を希望し、球団の戦力外なら他球団の一軍で投げたいという意志を訴えた。
SHINJOも再チャレンジ
今季限りで現役引退を表明している日本ハム新庄剛志外野手(34=SHINJO)が、来夏の参議院選挙の出馬を要請されていることが14日、明らかになった。仰天オファーを出しているのは自民党と民主党の2大政党で、抜群の人気と知名度に着目。すでに新庄サイドへ申し入れている。新庄は現在、シーズン中のため正式な返答を保留している状態だ。引退後、注目される「第2の人生」の転身先として予想される球界や芸能界ではなく、政治家転身というサプライズが浮上してきた。
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さらばジダン
1998年のワールドカップでの優勝で、ジダンは、フランス社会における移民の成功者となったが、フランス社会が、移民のコミュニティに暮らす若者にとって将来に希望が持ちにくい社会であることは何ら変わることがなかった。
2005年、大都市の郊外に封じら、特定の才能を持たない移民の若者たちの鬱積した不満が暴発し、暴動はフランス全土に広がった。公教育の場でのスカーフ禁止やマホメット風刺画事件など、ライシテの危機はいまも続いている。
頭突き事件の当初、マテラッツィはジダンに「テロリスト」と挑発したのではないかとされた。テロリスト発言は、テロリスト=イスラム過激派=イスラム教徒=アルジェリア移民の子=ジダンという図式となり、差別発言となる。フランスは、ジダンの頭突きを擁護する。テロリスト発言は、フランス移民政策に対する挑発であり、フランスの国是であるライシテへの侮辱である。
7月11日付のフランス大衆紙ル・パリジャンによると802人を対象にした世論調査では、61%がジダン選手を「許す」と回答した。同選手は記者投票によりワールドカップのMVP(最優秀選手)賞を受賞したが、調査でも大会の中で最高の選手だったとする見方が78%に達していた。
地方紙ニース・マタンは、歴史上の人物ジャンヌ・ダルクになぞらえ1面の見出しで「ジダンは火刑に処せられるべきか?」と問いかけ、同選手の愛称を使い「ジズー、私たちはあなたに同情する」と全面支援の姿勢を示した。
10日付の紙面で「スポーツの最も基本的な規則を破った」などとこきおろしたスポーツ紙レキップも、翌日には態度を一変。同紙のクロード・ドローセント論説委員が11日付の1面で「我々の記事があなたを傷つけたとしたら、謝罪します」とコメントした。
ジダン擁護はマスコミにとどまらない。フランスのイスラム教指導者、ダリル・ブバクル師は、両親がイスラム教国アルジェリアからの移民であるジダン選手を支持する声明を発表した。ブバクル師は、「ジダン選手の長年の素晴らしい実績が人種間の調和と成功の不滅の成功例として後世に伝えられる」と賞賛。ドミニク・ドビルパン仏首相は、頭突きは受け入れがたい行為としながらも、「スポーツに対する貢献や情熱を通じ、偉大な選手であり続けるだろう」と賛辞を贈った。
フランス国内の頭突き問題が沈静化するのは、イスラム団体が一転、ジダンの頭突き擁護に反対を表明したからである。国内で若者たちの暴動と暴力に反対を唱えているのに、頭突きの擁護は、暴力の擁護につながり、若者たちに言い訳ができない。
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移民のシンボル
フランスは、ワールドカップへは、ヨーロッパのナショナルチームとしては珍しく第1回大会から出場しているが、優勝回数は、地元開催となった1998年フランス大会での1回のみである。
フランスは、1998年のワールドカップに出場したチームから、見た目で分かる変化を遂げている。アフリカや、カリブ海などのフランスの海外県、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手が増えたのである。それまでのフランス代表は白人主体のチーム構成であったが、このチームを境にして有色系が混じり始めた。
地元開催の前回大会となる1994年アメリカ大会の出場を逃すと、フランスは危機感を強め代表監督にエメ・ジャケを据えた。ジャケはそれまでの伝統的な白人主体のチーム構成に、アフリカやカリブからの移民、その子孫を入れ始めた。その象徴となったのが、新フランス代表の中心選手となったアルジェリア移民(ベルベル人)の子ジネディーヌ・ジダンである。
フランス代表にはそれ以前に移民やその子孫が存在していなかったわけではなかったが、「将軍」とあだ名されたミシェル・プラティニはイタリア系の移民であったように他のヨーロッパ諸国からの移民であった。
しかしこの目に見えるフランス代表の変質はフランスの国粋主義者によって罵倒されることになった。この代表格である極右政党国民戦線のルペン党首は「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と発言して物議をかもした。またジャケのもとには彼等を代表から外すようにとの脅迫が舞い込んだ。
この批判をかわしたのが、1998年のワールドカップでの優勝であった。1998年7月12日、スタッド・ド・フランスで優勝を決めたフランス代表がシャンゼリゼ通りに凱旋すると、通りはトリコロールで埋め尽くされ、熱狂の渦と化した。
以降ジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになった。
参照サイト
ウィキぺディア
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政教分離(ライシテ)
英米の市民革命は、プロテスタントによる革命であり、英米ともに政教分離はあいまいなままであった。そもそも、イギリスは国教を持ち、アメリカは、国教は憲法で禁止されているが、歴代の大統領が、その就任演説に際し聖書に手を置いて宣誓する儀式など極めて宗教的である。
ところで、フランスの政教分離はライシテとよばれ、1789年のフランス革命以来、フランスの国是となったといわれるが、ライシテが法制化されたのは、フランス革命から100年以上たった1905年である。
ライシテは、革命で一夜にして国是となったのではなく、革命から100年以上をかけた共和国派による反聖職者闘争のうえ勝ち得たものであった。ライシテは、フランス共和制のアイデンティティそのもといってよかった。
ライシテを国是とするフランスでは、フランスへの同化を受け入れる限り、移民に対しては寛容であった。フランスでは国籍を取得した誰もが国民として、全て共通の権利を有するが、宗教、民族、地域に関する特権は与えない、という同化政策がとられ、マイノリティに特権を与える多文化主義は受け入れていない。移民もまた、ライシテを守ることを強要される。
フランスは、2004年には公教育の場でイスラム教の女子学生のスカーフはじめユダヤ教のキッパなど宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、イスラム教国から大きな反発を受けたが、このときは、国内のイスラム団体が内政干渉と非難し、沈静化した。
2005年暴動
ところが、2005年警察に追われていた若者二人が変電所に入り込んで感電死したパリ郊外での事件を発端として、移民出身者による暴動がフランス全土に波及し、とうとう死者が出るに及んだ。
移民に寛容な政策をとるフランスは、いまや国内に数百万人の移民を抱えるに至っている。特に、近年では、非ヨーロッパ系のフランスの旧植民地であるアフリカ地域、特にマグレブと呼ばれるアルジェリアやモロッコなどの北アフリカ地域からのイスラム系移民が急増しており、とりわけ2005年の暴動の発端となったパリ郊外やマルセイユなどでは、移民が住民の多数を占めてコミュニティを形成している地区が点在している。
ライシテのフランスでは、いまや人口の6%がイスラム教徒とされ、イスラムはカトリックに次ぐ第二の宗教勢力となっており、ヨーロッパでは最大とされる。これが2004年の公教育の場でイスラム教の女子学生のスカーフ禁止へとつながった。
移民には寛容なフランスだが、一方では、芸術やスポーツなどの特定の分野を除けば、移民にとって社会的な上昇の経路は少なく、移民のコミュニティに暮らす若者にとってフランスの社会は将来に希望が持ちにくい社会でもあった。さらに、景気低迷により、フランスの失業率は約10%とされるが、移民の多い地域では倍の20%近くに及ぶ。
社会に疎外感を抱き、将来に希望の持てない若者たちの鬱積した不満が暴動へと発展していった。移民出身の若者たちによる暴動は、フランス共和制の国是であるライシテの抱えている矛盾に対する楔でもあった。2005年の暴動は沈静化したが、ライシテが矛盾を抱えていることにはかわりがない。そもそも、フランス革命やライシテは、非ヨーロッパ系移民やイスラム教の存在は想定されていなかった。
参照サイト
JIIA フランスの暴動 ―欧州の移民社会とフランスのジレンマ―(小窪千早研究員)
スカーフ論争にみる政教分離の壁(レルネット主幹 三宅善信)
フランスの政教分離は、ちょっと厳格だぞ
toxandoriaの日記
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近代とは
近代とは、神の力によらず(=非宗教)、人間の理性に依拠した(=理性主義)世界観であり、歴史的普遍的概念。個人主義、進歩史観、啓蒙主義を特徴とする。この近代を実現し普遍化したのがフランス革命(1789)とされる。フランス人権宣言第1条の「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」における「人」とはフランス人のことではなく「人類」を指し、自由・平等の権利は「人類普遍の権利」とされた。
人類普遍の革命であるフランス革命こそが「真の革命」であり、フランスは、世界中に近代(=普遍主義)を広める責務がある(啓蒙主義)とされた。フランスに先立つイギリス革命(清教徒革命、名誉革命)やアメリカ独立革命は「真の革命」ではなく、フランス革命こそが、近代と前近代の歴史的転換点となった、とされている。
前近代は中世のことで、ギリシア・ローマ時代を古代とする古代・中世・近代という、ルネサンス以降のヨーロッパにおける伝統的歴史観である三区分法によっている。ただし、近年は、中世後期(絶対王制時代)を「近世」、現在の時代を「現代」とした五区分法が一般的である。
因みに、三区分法による歴史観は、前の時代を否定し、前々時代を肯定するというV字型歴史観であり、事実、近代が確立した19世紀、古代ギリシア・ローマへの回帰運動であるロマン主義が台頭し、ギリシアでは、オリンピア遺跡の発掘が進み、オリンピック復活の契機となった。
V字型歴史観は、現在の日本でもよく見られるもので、戦後の日本を否定すると戦前回帰となり、さらには古代日本への回帰となる。昨今の江戸ブームも、明治以降の日本の近代化への疑問の結果である。
近代の非宗教的側面
近代とは、神の力によらず、人間の理性に依拠した社会であるが、フランス革命において神とはキリスト教、それもカトリックであり、さらにいえばカトリック教会そのものを指していた。
前近代である中世とは、カトリック教会が世俗を支配した中世ヨーロッパ社会であり、近代とは、世俗世界におけるカトリック教会からの影響の離脱という側面をもっていた。
ところで、中世の始まりは、カール大帝による西ローマ皇帝戴冠(800年)とされ、これにより、ゲルマンとローマ・カトリックの融合による中世ヨーロッパ社会が確立されていくことになる。
革命前のフランスを支配していたのが旧体制(アンシャンレジューム)という中世の遺物であり、その一翼をカトリック教会が担っていた。アンシャン・レジーム下、フランス国民は三つの身分に分けられ、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
フランス革命自体は、ルイ14世以来の対外戦争やアメリカ独立戦争への援助、宮廷の浪費で巨額の財政赤字に苦しんだフランス政府が、聖職者(教会)や貴族にも課税しようとしたが失敗したことが原因。絶対王制下のフランスでさえカトリックの聖職者の力は依然として強固だったのである。
同じキリスト教であっても、神と人間が直接接することができると説くプロテスタントは、近代個人主義との共存が可能であり、マックス・ウェーバーによれば、プロテスタントこそが近代の担い手とされる。
ところが、カトリックでは、神と人間は教会(聖職者)を介して交わるとされ、教会は、精神世界だけでなく、世俗世界の支配機構ともなっていた。いわば、カトリックは、中世の担い手であった。フランス革命は、その中世の担い手であったカトリック教会を打倒するものであり、まさに中世ヨーロッパ社会を打ち倒す普遍的で歴史的転換点であった。
ところが、現在もそうだが、当時のフランス人の大半は熱心なカトリック信者であった。カトリック教会の支配機構を打倒しようとしたのは、熱心なカトリック信者でもあった。このフランス革命の矛盾を解決するのが、政教分離であった。
参照サイト
JIIA フランスの暴動 ―欧州の移民社会とフランスのジレンマ―(小窪千早研究員)
スカーフ論争にみる政教分離の壁(レルネット主幹 三宅善信)
フランスの政教分離は、ちょっと厳格だぞ
toxandoriaの日記
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ドイツ・ワールドカップの話題をさらったジダンの頭突きは、結局、ケンカ両成敗に近い形で決着した。頭突き歌や頭突きゲームがはやるなど、なぜ、ジダンの頭突きがこれほど大きな問題になったのか。
「加害者」のジダンは3試合の出場停止(引退のため、3日間の社会奉仕活動に振り替え)と罰金7500スイスフラン(約70万円)。一方、頭突きを受けたマテラッツィも、挑発する言葉を再三浴びせたとして、2試合の出場停止と、5000スイスフラン(約47万円)の罰金を受けた。
FIFAの懲罰規約では、選手が他の選手に侮辱的な発言をした場合は最低2試合、人種差別、宗教などにかかわる発言には最低5試合の出場停止を科している。しかし、これまで「言葉での挑発」に対し、厳格な適用はされてこなかった。
サッカーでは伝統的に、挑発に乗った選手が愚かで精神的に未熟という考え方がある、という。さらに「言葉の挑発」の事実行為を確認することは、難しい。今回は、マテラッツィが侮辱的な発言を認めたため、懲罰規約が適用されることになった。マテラッツィの発言に人種差別的な言葉は認められなかったが、今後、FIFAがどう対処するかは新たな課題とされる。
暴力行為としてのジダンの頭突きは、一応決着がついたが、実はジダンの頭突きはフランスそして近代ヨーロッパに対する衝撃的な一撃でもあったのである。
参考サイト 2006年07月24日asahi.com(既に消失)up
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そもそも、運動量が激しいフットボールは、寒い冬のスポーツです。近代スポーツは、19世紀のパブリックスクールで生まれましたが、そのパブリックスクールで、夏のクリケットに対し、冬のスポーツとしてフットボールが取り入れられ、近代スポーツとしてサッカーやラグビーが生まれました。
サッカーが日本に伝わったのは、比較的早く、明治6年(1873年)東京築地の海軍兵学校の教官イギリス海軍将校のアーチフォールド・ダグラス少佐とその部下によって伝えられたされています。
しかし、その後の広がりはゆったりしたもので,日本人だけによる最初のチームは明治32年(1899年)、日本人同士による最初の試合は明治40年(1907年)とされています。またプロチームの誕生となると1993年のJリーグの誕生まで待たねばなりません。
これに対しベースボールは明治5年(1872年)日本に伝わったとされており、サッカーと伝来時期はほとんど変わりません。ところが、明治11年(1878年)には日本人だけのチーム新橋アスレチック倶楽部ができ、19世紀中には日本各地に広がって行きました。1920年には日本初のプロ球団「日本運動協会」が生まれ、1936年にプロ・リーグが誕生しています。
この違いは、運動量の差から生まれたという指摘があります。佐山和夫氏が、「明治5年のプレーボール」で指摘していますが、これは、初期の米国でも実際起こったこととして、「学生に勧めるべきスポーツとして、まず野球を教師たちは挙げていることだ。フットボールの方は漸次、廃止の方向に受けようとの動きさえあった。理由ははっきりしている。フットボールはベースボールに比べてプレーヤーによる疲労が大きいからだ」
「フットボールの試合の翌日など、選手たちは授業を欠席することが多かった。スポーツをしたために学業を放擲(ほうてき;投げ出すこと)したのでは、元も子もない。その点、ベースボールでは、試合中といっても攻守交替で休む時間が多くある。フットボールほど肉体を酷使しないから、翌日の授業に差し支えることはなかった。だからこそ、フットボールよりも、ベースボールの方が、学校では望ましいという理屈であった」
「これは実際にアメリカにあった理論なのだから、より体力の少ない日本では、さらに当たっていたかもしれない。実際、当時の日本人の体格は、今とは比べものにならないくらい貧弱。学生たちにおいても、そうだった。連日のフットボールの練習と試合では、とても彼らの体力はもたなかった」
そもそも、ワールドカップは、ヨーロッパのサッカー・シーズンが終わったオフに行われるものです。つまり、暑い夏にです。決して、6月のヨーロッパが「最も凌ぎやすい時期」だからということではありません。このため、ワールドカップ対策には、はじめから暑さ対策が織り込まれていなければならないはずなのです。up
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2006年のドイツW杯も、ジダンの頭突きで幕を閉じました。5月末から始まった2002年の日韓大会に比べ開幕は2週間ほど遅く、さらにヨーロッパでの開催となったため、地元のヨーロッパ諸国は、リーグ戦終了後充分な調整期間がとることができました。
このため、ヨーロッパの強国が順当に勝ち残り、準決勝・決勝はまさにヨーロッパ選手権の再来となりました。2年前のヨーロッパ選手権は、ギリシアがフロックで優勝しており、ドイツW杯は、ヨーロッパ・サッカー強国によるリベンジとなりました。
ジーコが、日本の敗因のひとつに30度を超えた昼間の酷暑をあげていました。通常ならナイトゲームになるところ、日本の電通の働き掛けで、昼間の試合に変更されたといわれています。昼間に試合を行ってくれたため、日本では、豪州戦、クロアチア戦は夜の10時からみることができました。視聴率も、豪州戦は関東で49%だったのに対し、早朝の試合となったブラジル戦は、22%でした。
視聴者的には、歓迎なのですが、酷暑が日本代表の持ち味であるスピードを奪った、というのです。このジーコの主張に対し、日本代表を持ち上げていた責任はどこえやらで、戦犯探しに精を出していたマスコミが飛びつき、煽り立てていました。
これに対して、SportsAdvanntageで帝京大学経済学部教授の大坪正則氏は、「酷暑を言い募るのは、ヨーロッパ、特にドイツの気候に対する無知を露呈することである。「戦犯」探しのためのこじつけに過ぎない」と指摘しています。
6月のヨーロッパは最も凌ぎやすい時期で、晴天の日が続き、空気は乾燥していて非常に清々しい。ドイツ南部のミュンヘンでも札幌より緯度が5度高く、大西洋に暖流が流れているので、寒さが緩和され、6月頃のドイツの平均気温は東京よりも5度程度低い、といいます。col_otsubo.html へのリンク
「たまたま、第1戦と第2戦の時に気温が高くなっただけ」ということです。事実、大会前の日本対ドイツの親善試合は、ナイトゲームで行われましたが、吐く息が白く見えるほど気温の低い試合でした。
しかしです、最近のヨーロッパもご多分にもれず、異常気象で、サハラの熱波が地中海とアルプスを越えてくることが多くなっています。大坪氏は、マスコミに対し、「温度の変化は不可抗力だし、この程度の常識はメディアは知っておくべきではないだろうか。」と指摘していますが、近年の異常気象が、大坪氏の常識に通じるのか疑問な点もあります。
tp030826.html へのリンク
seasonal.html へのリンク
(つづく)
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フランスを「仏」と漢字で略すと、いろいろなおもしろネタができますが、yahooのスポーツナビの見出しもこれ「ジダン最後の仏か」。確かに近いけどネ。
サッカーの日本代表が、決勝トーナメントに進出できなかったことについて、遅ればせながら、書き込みします。
結果的に予想どおりの結果となりました。戦前の予想でも、決勝トーナメントに進出するには、ブラジルには●で、クロアチアは△、豪州に○の1勝1敗1分の得失点差でどうにかと言われていました。
勝てそうなチームが、豪州だったワケで、この豪州に負けたら、決勝トーナメント進出は絶望的とされていました。事実、後半の終了十分前までは、日本がリードしていたワケですから、勝つ可能性はあったわけです。
結局、ブラジル、クロアチア戦は、予想どおりの結果となったに過ぎず、やはり、豪州戦が天王山だったワケです。
その豪州戦は、どうだったのかと言えば、「点の取れないFW」「点を守れないDF」という従来から日本代表が言われていた欠点がなんらの改善が見られることなく、そのままでてしまったのです。
日本代表として多用された柳沢は、シュートよりもパスが得意な選手で、野球で言えば、バントの好きな4番打者です。簡単にいえば、MFになれなかった落ちこぼれFWです。
vol307-1_col_okazaki.html へのリンク
vol306-1_col_okazaki.html へのリンク
FWほど指摘はされていませんが、守備陣も、1-0という最少得点を守りけれず、引き分けや逆転されることがよくありました。守備の時間稼ぎのボール回しが単調で、逆に相手チームに簡単にボールを取られ、カウンターを浴びてしまうのです。
世界で一番最初にワールドカップ出場を決めたジーコ日本ですが、結局、これらの欠点に対しなんらの手を打つことができませんでした。
ジーコは、「技術、体の俊敏さ、知性を持つ日本人は、南米式のサッカーが合う」と個人重視で、選手に「Think」を求めました。ところが、ジーコの前任といえば、システム重視で選手には「Don't Think」を求めていました。日本代表監督としてまさに180度の方針転換です。
しかも、Sports Advantageの岡崎満義氏が指摘しているように「日本人の自我は強くない。自己主張もひかえ目だ。そういう弱い個を、組織力でカバーして戦うのが、これまでの日本流であった」。結局、ジーコの「Think」は実らなかった。
vol303-1_col_okazaki.html へのリンク
方針の定まらない日本代表の監督選び。監督を決めたのは、もちろん、キャプテン翼ならぬ川淵。ドイツから帰国し、責任が、自分に及びそうになると、ジーコの後任監督として、千葉のオシム監督の名を思わず口を滑らしたかのようにみせかけ、「 弱ったね。頭が整理されていなくて、つい出てしまった。ここで聞かなかった話に、ということにはならないだろうね」。
f-sc-tp4-20060624-0097.html へのリンク
いまや、「オシム」「オシム」でキャプテンの責任問題はどこえやら。
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一三後の阪急電鉄 2
しかし、バブル崩壊で梅田周辺の地上げは頓挫。再開発に時間がかかったことはもとより、中島の事業は2千億の不良債権を産み、阪急電鉄は、公平指揮の下、多額の評価損と有利子負債を抱えることになる。さらに、1995年の阪神・淡路大震災、長引く消費不況やJR西日本との激しい競合、少子化などの影響により輸送人員減少など、厳しい状態が続き、2003年6月には、バブル期に購入した土地の評価損の責任をとって、公平は会長職を退く。
2005年には阪急電鉄は、阪急電鉄・阪急ホテルマネジメント・阪急交通社の各社を直轄する持株会社阪急ホールディングスに移行するが、現在でも売上(4766億円)の倍にあたる9026億円の有利子負債を抱えている。逆に、ライバルの阪神電鉄は、売上こそ阪急HDの半分の売上(2990億円)だが、有利子負債は売上の7割(2191億円)に止まっており、関西私鉄のなかで唯一の優良資産といわれる。
ところで、ブレーブス球団のオリエント・リースへの譲渡金額は28億円で、それに2年間の西宮球場・室内練習場、ブレーブスの呼称の使用料32億の合計60億円の契約であった。2年後の更新時にも、阪急側はオリックスに同額の使用料を要求したため、オリックス側は、球団の神戸移転と「ブルーウェーブ」への名称変更を決定する。
主を失った西宮球場は、バブルの崩壊に伴い、再開発されることもなく、西宮スタジアムとして、2002年まで存続。公平が阪急を去ったあと、ようやく2004年9月から解体工事が始められ、跡地には2007年阪急百貨店を核とする複合商業施設の建設が予定されている。
なお、ブレーブスの呼称は今でも阪急グループの阪急共栄物産の所有になっており、公平は一三翁の遺言「私が死んでも宝塚とブレーブスだけは売るな」を守り、「ブレーブス」は売らなかった、ともいえる。
ところで、小林公平が阪急の実権を握っていたバブル期に、赤字だったプロ野球事業と宝塚歌劇団の両方を持つのは経営的に重荷であるからと、「他にもある」プロ野球を当時バブルのパートナーであった三和銀行の仲介で極秘裏に球団身売りの準備を進めた、と言われている。
また、阪急電鉄ファンの間では、バブル期にブレーブスを身売りし、タカラヅカを残したことは、何かと土地バブルに乗じて拡大経営を進め、その後の崩壊で多額の含み損・有利子負債を抱え込んでしまった小林公平の数少ない功績と言われている。
小林公平は、現在、阪急電鉄の相談役も辞し、宝塚音楽学校の校長を務めているが、彼は、宝塚歌劇の公演の脚本・原案も書くなど、宝塚歌劇を愛していたようで、バブル期のブレーブスを切りタカラヅカを残した選択は、単なる小林公平の好き嫌いによるものであったともいえる。
(敬称略)
参考文献
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一三後の阪急電鉄 1
「乗客は電車が創造する」として一三が開発した灘、西宮、芦屋、宝塚といった阪急沿線の住宅地は、いまでは日本有数の高級住宅地へと発展し、阪急宝塚本線・神戸本線・京都本線の起点となる阪急梅田駅は、ターミナル駅として、床面積および10面9線のホーム・線路数も私鉄(JR各社を除く)で日本最大規模を誇り、その姿は壮観でさえある。
現在の阪急梅田駅は、二代目米三のとき京都線の梅田乗り入れに伴い、東海道本線南側にあった旧梅田駅が手狭になったため、1966年から1973年にかけて東海道本線北側の現在地への移転したものである。
これを契機に、阪急は、従来駅裏であった東海道本線北側地区も含め、数々の商業施設を建設し、グループ一丸となり集客のための取り組みを行い、阪急村といわれる阪急ファイブ、阪急17 番街、ナビオ阪急、阪急イングス等の商業施設、阪急グランドビル、ターミナルビル等の業務施設など、ターミナルを中心とした現在の街が形成されていった。
小林家の二代目当主となった米三は、一三の三男であったが、長男富佐雄が早世し、二男辰郎が松岡家に養子に出たため、三男の米三が当主を継ぐこととなった。米三は、阪急電鉄社長として、梅田を起点とする三本線体制を確立し阪急電鉄の発展に尽力したが、阪急ブレーブスの名オーナーとしても知られ、1966年の西本信任投票事件では、西本監督を支持し、阪急黄金時代の礎を築いた。ところが、企業家一三の意思を就いた米三は、1969年急逝する。
米三は、子に恵まれなかったため、次兄辰郎の娘(一三の孫)を養女に迎え、「三菱の金庫番」と言われた三村家から婿養子公平を迎えた。公平は、1987年創業家三代目として阪急電鉄社長(1993年から会長)に就任する。世はまさに、バブルのまっただ中であった。
婿養子小林公平は、1987年阪急電鉄社長に就任すると、一三翁の呪縛から逃れるかのように突き進む。一三が「私が死んでも宝塚とブレーブスだけは売るな」と言い残した名門ブレーブスを、1988年オフ、「時代に合わなくなった。プロ野球球団は他にもある」という理由で、あっさりとオリエント・リース(現、オリックス)に売却してしまう。
オリエント・リースは、日本最初のリース会社だったが、1986年以降、他企業の買収による事業の多角化(リース部門だけでなく信託銀行・保険・証券・消費者金融)が進み、しかも、大手信販会社の「オリエント・ファイナンス(現在のオリエント・コーポレーション、略称オリコ)」と混同されることが多かったため、1989年にCI導入により社名をオリックス株式会社に改称することになっていた。オリックスにとって、球団買収は、新社名の知名度アップの絶好の機会であった。
同じ頃、阪急百貨店による神戸阪急や川西阪急などの拡張計画が進行しており、そのなかで西宮北口の再開発計画による西宮阪急の計画が何度も上がっていた。そこで目をつけられたのが、西宮球場の土地であった。そうなると、当然、そこを占有している球団は不要になる。
しかも、1988年、公平阪急は、大阪市西淀川区中島の工業団地建設計画を推進する。従前から持っていた淡路~新大阪~十三間の鉄道事業免許をさらに西淀川中島まで延伸する計画(JAN計画)が同時に進む。さらには旧OS劇場から茶屋町にかけての再開発(茶屋町再開発)にも阪急は関わった。その影響が地上げ屋の横行につながり、2年後には茶屋町は人の住む場所とは思えない様相に変わった。
(敬称略)
参考文献
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プロ野球北信越リーグ創設へ(asahi com 2006年05月10日)
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000605100003
サッカーやバスケットボールに続き、新潟から発信するスポーツの輪を野球にも広げていくことができるか。新潟を含む北信越の4県でプロ野球の独立リーグを立ち上げようという構想が9日、明らかになった。来春の開幕を実現させるには乗り越えるべき問題も多いが、野球人気の復活や地域の活性化への期待が込められている。新潟では、04年10月にアルビレックス新潟の池田弘社長(当時)らが、プロ野球チームを作る構想を発表するなど、独立リーグへの素地を固めてきた。関係者の話を総合すると、リーグ発足に向けて、まず新潟県で手本となるチームを作り、他の3県にもチーム設立を呼び掛けるという。
運営面では、すでに「四国アイランドリーグ」の関係者と接触し、準備を進めている。「NPB(日本野球機構)への登竜門」としての色合いを出している四国リーグと違い、北信越リーグでは、選手の育成、強化ばかりに重点を置かないのが特徴だ。
4県のチームそれぞれが、選手の顔が見える球団経営を目指す。選手との交流など魅力あふれた球場づくり、巡回型の野球教室、選手を地域振興イベントやボランティア活動にも積極的に参加させるという。その一方で、4県の商工会議所などからの支援を得て、シーズンオフには選手が契約社員として地域の企業で働き収入を補てんする考えだ。
四国リーグは初年度(05年度)に約5千万円の黒字を見込んでいた。しかし、実際は3億1千万円余りの赤字となった。北信越リーグが興業面でどのような計画を作るのか、事務局では「これから具体的な形を作っていきたい」と話している。
北陸信越地方に独立リーグ(2006年05月15日 速報記事)
KFullFlash20060515028.html へのリンク
北陸、信越地方に野球の独立リーグ「北信越リーグ」(仮称)を発足させようと、開設準備室の村山哲二代表や、アドバイザーとして参加する予定の新潟市出身の漫画家、水島新司さんらが15日、新潟市内で記者会見した。村山代表らによると、富山、石川、長野、新潟4県に一チームずつ置くという。来春の開幕を目指し、7月3日にはリーグ運営法人の設立を予定。現在はスポンサーを捜すなどの準備を進めている。実現すれば「四国アイランドリーグ」に次ぐ野球独立組織となる。野球漫画「ドカベン」で知られる水島さんは「雪国では育たないと言われる野球だが、漫画や人脈を生かしてできる限り協力していきたい」と語った。2005年に日本初の独立リーグとしてスタートした四国アイランドリーグの石毛宏典代表も記者会見に飛び入り参加し「いずれ、交流戦などもやりたい」と述べた。
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企業家・小林一三
小林一三は電鉄と野球以外の事業にも企業家としての力を発揮した。小林は梅田ターミナルでの商売に興味を抱く。「電車が運ぶ1日2,3万人の乗客が、ちょっとした買い物をしたとしても、巨額の売上高になる」というのがその発想の原点だ。まず、小林は、1920年に梅田に5階建てのビルを造り、1階は百貨店の白木屋に賃貸、2階は阪急直営の食堂とした。そして、白木屋の客の入り具合や売れ行きをつぶさに観察し、「これはいける」と踏むなり、2,3階に「阪急マーケット」をオープンして自ら日用雑貨の販売に乗り出した。
「阪急マーケット」は、成功を収め、1927年、地下2階・地上8階建ての新ターミナルビルに着手。1929年3月これが完工すると装いも新たに「阪急百貨店」が開業した。電鉄会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は海外にも無く、その前途に疑問を持つものも少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾が無くとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。
この不動産開発、流通、レジャーを三本柱とした事業展開は、のちに私鉄経営の手本ともなった。小林一三が私鉄事業の先駆者と言われる所以である。
長らく阪神急行電鉄専務取締役の地位にあった一三は、1927年に社長となるが、その少し前には、一三の巧みな経営手腕が東京でも認められるようになった。田園都市会社を起こした経済界の長老渋沢栄一らからも、同社の電鉄事業部門(後に目黒蒲田電鉄として独立)の経営いっさいを面倒見てはくれまいかと声がかかる。一三は多忙と関西在住を理由に渋沢の誘いは断るが、これが縁で目黒蒲田電鉄及び同系の東京横浜電鉄には監査役・取締役として関与を深めていく。
一三は、阪急社長を1934年に辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに東京電燈(現、東京電力)に招かれて副社長・社長を歴任。電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、昭和肥料(現、昭和電工)の設立にも関わった。その傍らで、興行にも手を広げ、1932年に東京宝塚劇場をを設立。さらに、1937年には東宝映画も設立し、阪急・東宝グループの礎を築いた。
その後、近衛文麿に接近し、第二次近衛内閣で商工大臣となる。近衛は当初岸信介を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らは次官にとどまることを希望したため一三が大臣となった。しかし統制経済論者の革新官僚である岸と自由主義的財界人である一三は強く対立し、一三は岸を「アカ」であると批判した。企画院事件で企画院の革新官僚がやはり「アカ」として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなる。しかし岸は軍部と結託し、一三が軍事機密を漏洩したとして反撃、一三も辞職、雑誌に『大臣落第記』を寄稿した。
終戦後幣原喜重郎内閣で国務大臣を務める。この閣僚経験が原因で戦後は1951年まで公職追放を受けてしまい、解除後は東宝の社長になるが、1957年に没した。私鉄主導による沿線開発を提言した小林一三であったが、当時から経営の自主性の不在など問題点が指摘されていた日本国有鉄道(国鉄)に関しても、すでにこの段階で「民営にすれば開発事業も可能で、資金調達も自由に行なえ、創意と責任のもと積極的な経営ができる」と民営化すべきという発言を行うなど、生涯、論客としても知られた。
小林一三が遺した娯楽事業は数多くあるが、一三は「私が死んでも宝塚とブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている。
(敬称略)
参考文献
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「図説私鉄全史」学研up
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旧通産省(現経済産業省)OBの村上世彰氏の投資ファンド(通称、村上ファンド)は昨年10月3日、阪神電気鉄道株の38.1%を取得したことを公表、保有株が全体の3分の1を超え、合併や定款変更など阪神電鉄の株主総会の重要案件への拒否権を確保した。村上氏側は「保有資産に比べ株価が低い銘柄への投資の一環。株主価値向上へ全面的にサポートしたい」とのコメントを公表。阪神電鉄はプロ野球球団阪神タイガースを傘下に抱えるほか、阪神甲子園球場などを保有しており、多額の含み益が投資の狙いとみられていた。
10月5日には、村上ファンドが、阪神タイガースの上場を提案したことが明らかになるが、これは世論の猛反発を受け、事実上立ち消えとなった。その後、阪神電鉄は「下手に動けば相手を利する」とし、徹底した「無策」を貫き、阪神電鉄株の約45%まで買い進め、1500億円を投じたと言われる村上ファンドと膠着状態が続いていた。
そんななか、4月13日朝日新聞が、村上ファンドの保有する阪神電鉄株の引受先として、ライバルの阪急ホールディングス(阪急HD:旧阪急電鉄)が浮上していることをスクープ。当初は、阪急側は否定したが、同月17日阪急HDが、同株の取得方針を正式決定することが判明する。
当初、阪神電鉄は大和證券SMBC主導でホワイトナイト探しを進めていたが、一株当り千円未満の額で村上ファンド側に売却を打診したところ「安い」という理由で拒否。次に、野村証券が、京阪、南海、近鉄などの関西私鉄や野村系の投資会社(野村プリンシパル・ファイナンス)などが出資する受け皿ファンド案が浮上するが、これまた、昨年3月末時点に比べ2倍以上に高騰した株価が障害となっていたが、最後に残ったのが阪急HDであった。
阪急HDと阪神電鉄は、阪急神戸線開業以前からの宿敵であった。阪急HDの前身である箕面有馬電気軌道(箕電)は、発足当初から阪神電鉄への吸収の話が進み、1913年には合併がほぼ決まっていたとされている。この合併話は、当時箕電の社長で阪神電鉄の取締役で北浜銀行頭取だった岩下の手により、阪急の創始者小林一三の知らないところで進んでいたが、その岩下が北浜銀行の破綻により失脚し、合併話は具体化しなかった。
当時の箕電は、できたばかりの小さな電鉄会社で、大企業の阪神電鉄にとっては、敵ではなかった。ところが、1916年その箕電が灘循環鉄道の株を買収し、神戸線の建設に動き出すと、そうも言っておれず、阪神対阪急の競争が勃発する。阪神は阪急に対しいろいろな嫌がらせをするが、その一つが、全国中等学校優勝野球大会の奪取であった。そもそも、全国中等学校優勝野球大会は、箕電の小林一三が朝日新聞に働きかけ、箕電所有の豊中球場で1915年から始まったものである。いまや、阪神を代表する甲子園の高校野球は、阪急が始まりであった。
阪急の小林一三は、阪神電鉄に対しライバル以上の敵愾心を抱いていた。「灘循環電鉄に対する交渉においても、実は不徳義から訴訟になって・・・今に見よ、という敵愾心が阪急の今日をなしえたものと信じている。・・・最新式の電車に乗って、旧式の阪神電車を眼下に見下したとき、実に愉快であった。」(小林一三)
阪神電鉄は、神戸や阪神間の地元資本家や資産家によって建設された鉄道会社で、経営的には慎重で保守的であった。言い換えれば、堅実ということになるが、阪急と阪神の関係はいまや逆転し、阪急は阪急HD(阪急電鉄)、東宝、阪急百貨店からなるナショナル企業となり、売上も1兆円(阪急HD単独では5千億円)を超える。対して、阪神電鉄は、阪神間のローカル企業に止まり売上も3千億円に満たない。
ただし、阪急の有利子負債は、阪急HD単独でも9千億円(売上の倍)に達するのに対し、阪神は2千億円(売上と同等)に過ぎない。阪急は、一三の孫娘婿にあたる公平社長のとき(バブル期)、不動産投資に失敗し、1兆円を超える有利子負債を抱え、昨年ようやく9千億円台に減らしたばかりである。
4月28日、阪神電鉄は「阪急ホールディングスに対して関係強化について申し入れを行い、経営統合に関する協議を進めている」と正式に発表。統合の手法については「対等の精神に基づき、両社グループの維持を図りながら関係強化を図る」としている。
5月2日、村上ファンド側が、阪神電鉄に対して村上氏本人や玉井英二阪神現取締役を含む9名の取締役選任を6月の定時株主総会の議案として提出したことが明らかになる。
これに対し、阪急は同日、村上ファンドが阪神電鉄に提出した株主提案について、村上ファンド側がこれまで阪神電鉄に対し鉄道事業と不動産事業の分離案などを提案してきたことに触れた上で「阪神の経営方針とは相いれないものだ」とのコメントを発表した。そのうえで「阪神の現経営陣の見解のとおり、(鉄道や不動産、流通事業など)一体的に事業運営することが最も望ましい」と、阪神電鉄と歩調を合わせる考えを改めて示した。
日経特集 阪神電鉄VS村上ファンド
hanshin_vs_murakami.cfm?i=2006050606577s3 へのリンク
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まずは、毎日新聞の大阪夕刊から(毎日新聞 2006年4月27日 大阪夕刊20060427ddf001020006000c.html へのリンク)
大阪ドーム再建:オリックスが90億円で買収決定--球団名に「大阪」
大阪ドームを運営する大阪市の第三セクター「大阪シティドーム」(会社更生手続き中)の再建問題で、オリックスグループが約90億円で球場を買収することを決めた。5月1日に発表される。また、同グループは球場買収に伴い、球団名を現在の「オリックス・バファローズ」から今後、「大阪オリックス・バファローズ」に改称する方針。
◇修繕費、さらに40億円
買収交渉は、市が昨年10月に今後20年間で99億円必要と試算した球場内の空調設備、エレベーターの改修など長期修繕費の負担先などを巡り、難航していた。オリックスは市の支援を求め、財政難にあえぐ市は議会の反発も念頭に新たな公費負担に反対していた。さらに長期修繕費について再試算したところ、当初は試算に入っていなかった大型スクリーンのデジタル化や球場敷地内の歩道補修などの費用が、99億円以外に約40億円必要なことも分かった。
管財人の更生計画案の提出期限が5月24日に迫る中、同グループは大阪と並ぶ本拠地である神戸との関係も重視し、慎重に協議を進めた。しかし、大都市の大阪では神戸以上の集客が見込める▽ドームを所有することで野球以外のイベントにも積極的に参入できる▽09年春に開業予定の阪神電鉄西大阪線の延伸事業で、阪神三宮-大阪ドーム前-近鉄難波-近鉄奈良間が直結し、さらなる集客が見込めると判断。当面の長期修繕費負担を受け入れた模様だ。同グループは系列の不動産関連会社が球場を買収することを前提に具体的作業に入っており、管財人側との合意文書の作成を進めている。
球団名の改称は、地元密着を強調する意味合いのほか、同グループは、阪急ホールディングスと阪神電鉄の統合問題を受け、「阪神タイガース」が1961年3月まで名乗っていた「大阪タイガース」に改称される可能性が将来的にあり得ると判断し、「大阪」の名称を先取りすることにしたとみられる。
次に日刊スポーツの記事(5月2日の紙面から)p-bb-tp0-20060502-26401.html へのリンク
オリックスは1日、大阪ドームの買い取りに関する「基本確認書」に合意したことを発表。さらに来季から大阪を本拠地とする方針を初めて公表した。07年シーズンまでは神戸、大阪のダブル本拠地制で臨むが「大阪移転」に大きくかじを切った形となった。球団の機谷(はたたに)俊夫取締役(43)はこの日、「本拠地は大阪ドームになるでしょう。買収した後に(同じダブル本拠地制の)阪神さんと話し合いたい」と話した。今季はスカイマーク(神戸)で34試合、大阪ドームで34試合を主催しているが、本拠を大阪ドームに決定した場合は神戸での開催は5試合程度になる見込み。神戸→大阪のフランチャイズ移転が完成に近づいた。up
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阪急ブレーブスと西宮球場
阪急ブレーブスは、1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。この時に捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。この年、戦時鉄道統制法で統合していた京阪線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線を京阪電気鉄道として再分離。新京阪線は京都本線として残った。このため、本社の社名は京阪神急行のままで、社名を「阪急電鉄」に正式に変更したのは1973年になってからである。
1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫、米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色の時代」と言われた。
1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝を飾る。1967年~1969年、1971年~1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツを倒すことができなかった。
1975年、2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となったが、日本シリーズでは、上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、そして福本豊らの活躍で初の日本一に輝き、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。球団の黄金期となる。
1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(中に入ったのは元選手の島野修)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは裏腹に、球団経営は悪化の一途を辿った。
1984年、ブーマー・ウェルズが打率.355、本塁打37、打点130の成績で外国人選手として初の三冠王に輝く。チームも75勝45敗10分で2位ロッテオリオンズに8.5ゲーム差を付けて優勝したが、これが「阪急」としての最後の優勝となった。1988年、シーズンオフに阪急電鉄がオリエント・リースに球団を譲渡し、黄金期を支えた阪急の顔・福本、山田らが引退した。この年、南海電鉄も球団をダイエーに手放しているが、実は、1980年代後半、在阪球団の観客数は軒並み増えており、活況を呈していた。
1978年、ライオンズを西武(コクド)が買収し、所沢に移転させ、その年100万人を超える観客を動員している。これを刺激を受けた関西の阪急、南海、近鉄三球団もファンサービスを積極的に行うようになり、次第に観客を増やしていった。特に、子どもファンクラブに入れば、子どもなら内外野無料で観戦できた。それも、三球団共通に使えた。このころの子ども達は、親から電車賃さえもらえば、毎日のようにタダでプロ野球を見ることができた。その子ども達が大きくなり、1990年代甲子園球場のスタンドを埋め尽くしていくことになる。
ところで、1936年、阪急軍は宝塚球場で発足したが、その年の暮れに西宮球場を着工し、1937年5月竣工した。西宮球場の建設に当たっては、小林一三自らいろいろなアイデアを出した。二階式にすること、すべての席が本塁を向いていること、内野席は全て背もたれ式の椅子。また、この時点でナイター設備をつけることも考えていた。さらに、阪神の妨害にあい土地の買収が上手くいかず実現しなかったが、西宮北口駅を組み込んだ球場を作る案もあった。
既に西宮市内には甲子園球場が存在していただけに、着工を疑問視する声も多かったが、この美しい球場が完成すると、当時小林一三の英断と賞された。現時点で考えてみると、当時の疑問が的中し、沿線の豊中、宝塚、あるいは神戸市内であれば阪急の人気も違っていたかもしれない、といわれる。
(敬称略)
参考文献
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思い出の西宮球場(猛虎歴研)http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/data/nisinomiya.htm
京阪電車青春電車物語http://www2.nkansai.ne.jp/users/mips/html/rwy)keihanhist.html up
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阪神タイガース
1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。戦力の確保を目指す新球団毎日は裏切られたことを口実として、タイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉、別当薫、土井垣、本堂保次ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳も阪神入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手・長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。
レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻で、1950年代吉田義男、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が育つも、水原率いる読売の第二次黄金時代の中、阪神は優勝から遠ざかることになった。しかも、人気面でも、パ・リーグの覇者となっていた南海の後塵を配するようになり、ナイター設備のない甲子園には人は来なかった。このため、1951年から1955年まではナイター設備のあった南海の本拠地大阪スタヂアムで多くの試合をこなしていた。1961年球団名を阪神タイガースに変更して、心機一転をはかるが低迷。
1962年、名将・藤本定義が監督に就任。藤本監督の下、小山、村山両エースの力投と遊撃吉田、三塁三宅、二塁鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たすが、日本シリーズでは、東映に敗退。1964年、エース小山と大毎の4番打者山内一弘との世紀のトレードを成立させて打撃を強化する一方、バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を飾る。しかし、東京オリンピックの影響で1964年の日本シリーズを早く行うという条件もあり、南海に3勝4敗で惜敗。
1970年、村山監督が就任。江夏・田淵の黄金バッテリーや吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王・長島ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年村山はこの年限りで引退。 しかし、このころから、テレビの普及による巨人人気の全国化とともに、その仇役球団(アンチ巨人の象徴)として地元関西を含め人気を獲得していく。このころのパ・リーグの覇者は、ライバルの阪急であったが、勝っても客が入らない不人気球団の象徴であった。逆に、阪神は、勝たなくても客が入る人気球団になっていく。
1978年オフ、小津球団社長が就任、低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番の田淵とエース級の古沢を西武ライオンズの竹之内、真弓、若菜との交換トレードで放出。さらに、江川事件では、巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、チーム成績は低迷が続いた。しかし、しだいに戦力が厚みを増し1985年の日本一につながっていく。1985年、吉田監督が復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たす。1番真弓、2番北村、3番バース、4番掛布、5番岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が当時のセ・リーグ記録となるシーズン219本塁打を記録し、中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し、3度目の日本シリーズ出場で初めて日本一を達成した。
日本一になった1985年からわずか2年後の1987年に最下位に沈むと、その後長期間にわたり成績不振がつづいた。2001年オフ、野村前監督、野崎球団社長の強い要請で、後任にはライバル球団・中日の星野監督を電撃招聘した。中日監督時代に2度のリーグ優勝を達成した星野は、ベテラン選手や実力のない選手を大量解雇し、片岡篤史、伊良部秀輝、金本知憲など大物選手の獲得を球団に認めさせ、積極的な補強を進めた。
2003年、今岡誠、赤星、金本、矢野、藤本、井川慶ら充実した戦力で開幕より快進撃を続け、稀にみる独走で18年ぶりのリーグ優勝を果たした。その後の日本シリーズでは福岡ダイエーホークスと戦い、10年ぶりに第7戦までもつれこむなどシリーズを盛り上げたが、惜しくも3勝4敗で敗れた。星野監督は体調不良のため勇退。後任監督には岡田が就任。2005年もセ・リーグを制した。
(敬称略)
参考文献
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「南海ホークスがあったころ」永井良和・橋爪紳也著 紀伊國屋書店
「阪神タイガースの正体」井上章一著 太田出版up |
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戦後1リーグ時代の阪神と阪急
戦後のプロ野球で、最初に優勝したのが1946年のグレートリング時代の南海であった。翌1947年には、タイガースが、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1948年は、南海ホークスがエース別所の26勝という活躍で2度目の優勝を飾り、戦後の3年間、関西の球団が優勝を独占し、関西では、南海とタイガースが人気を2分した。
1947年のニックネーム導入に際し、タイガースは、大阪タイガースのままで、唯一球団名を変更する必要がなかった。一方、阪急は、「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、Bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があって縁起でもないということで、早々と5月に阪急ブレーブスと改めた。
巨人は、読売新聞社が直接経営に乗り出し、1947年には読売ジャイアンツと称したが、戦後の再建には手間取り、戦後の3年間は優勝から遠ざかっていた。すると、1948年のオフ、南海ホークス優勝の立役者であるエース別所毅彦を強引に引き抜くという、いわゆる別所事件をおこす。別所は、2ヶ月の出場停止処分を受けるが、読売への移籍が認められる。1949年エースを失った南海は4位に沈み、読売は戦後初の優勝を飾った。読売は、別所を南海から引き抜いた前年、阪急から青田昇を引き抜いている。
1949年、コミッショナーとなった正力松太郎が、2リーグ制の創設を含むいわゆる三大声明を発表すると、プロ野球への参入を希望する企業等が近鉄、毎日、西鉄、広島と続々と名乗り出てきた。近鉄は、1944~46まで鉄道統制法により南海の親会社であった。毎日は、戦前阪急の小林一三とともに電鉄リーグの実現に取り組んでいた。西鉄は、戦時中球団を保有していたことがあった。
正力の狙いは、毎日にあったが、既存8球団は新規参入に反発する。漸く球団経営の採算がとれるようになってきた矢先のことであった。特に、正力のお膝元読売が、ライバル紙毎日の参入に猛反対した。しかし、読売の横暴に対する反発、毎日新聞への気兼ねから、1リーグを前提に関西電鉄系球団を中心に、毎日参入容認派が増えてくる。
毎日参入に反対する読売と毎日容認派との対立は次第に激化し、毎日容認派の阪急、南海、東急、大映、阪神の5球団は、リーグ分裂も辞さない構えをみせ、分裂後も統一行動をとるとした連判状をつくった。新規参入の申請が相次ぎ、毎日を含めた2球団に絞り込むのは困難になっていた。毎日容認派の中心になったのが大阪毎日新聞と深い関係にあり、読売に敵対意識を持っていた阪急、南海であった。
阪神も、選抜高校野球で大阪毎日新聞とは、浅からぬ関係にあったため、毎日参入は容認する。しかし、読売(巨人)戦は、阪神のドル箱であった。阪神は、毎日の参入は認めるが、分裂する場合は巨人側に残ることを選択する。親会社阪神電鉄の細野専務は、連判状に加わっていたが、肝心の阪神球団の社長富樫は、連判状に判を押していないという論理によって、読売側につくことになった。これを阪神の裏切りという。こうして、阪神はセ、阪急はパと袂を分かつことになった。
(敬称略)
参考文献
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「阪神タイガースの正体」井上章一著 太田出版
「プロ野球誕生前夜」東田一朔著 東海大学出版会
「プロ野球ユニフォーム物語」綱島理友著 ベースボールマガジン社
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阪神・阪急対抗戦
草創期の関西プロ野球界で最大の花形カードは、阪神・巨人戦はではなく、親会社がライバル関係にある阪神・阪急戦であった。まだ、大阪対東京という構図はうまれてはおらず、手本となったのが当時球界最高峰であった六大学の早慶戦であった。今風にいえば大阪ダービーマッチといったところだが、同一地域内のライバル球団同士の対決は、ライバル意識を高め、対抗意識をかき立てることになった。
1920年の阪急・神戸線の開通によって、阪神と阪急の路線は競合し、両社はまさにライバル関係にあったが、1934年東海道本線も電化されると、大阪神戸間の競争はさらに激化していった。その翌1935年、阪神が球団を設立し、さらにその翌1936年阪急が球団を作り、プロ野球がスタートする。
ところで、阪急の小林一三は、阪神に対しライバル以上の感情的な敵対意識を持っていた。「すなわち、阪神電鉄と合併ができたとせば、恐らく、今日の阪急に実現している模範的計画もなければ、阪神電鉄の現状から推察して、いいか加減食いつぶされた老大国のような会社となっていたかもしれない。灘循環電鉄に対する交渉においても、実は不徳義から訴訟になって・・・今に見よ、という敵愾心が阪急の今日をなしえたものと信じている。・・・最新式の電車に乗って、旧式の阪神電車を眼下に見下したとき、実に愉快であった。」(小林一三)
箕電による灘電買収を見過ごし、その後訴訟などの嫌がらせを行った阪神電鉄専務(当時、社長は空位)今西林三郎に対し、阪急の小林一三は、「全く先見の明がなかった」と表したが、大阪タイガース設立時、阪神電鉄の社長だったのが、林三郎の婿養子今西与三郎であった。1936年4月、海外視察から帰国した小林は、宝塚球場で、新生阪急軍に、「日本一強いチームを作ってくれ、大阪タイガースだけには絶対負けるな」と檄をとばした。これに対し、阪神電鉄の重役も、大阪タイガースの選手達に「絶対に、阪急だけには負けるな」と厳命した。
こうしたライバル関係に両球団が対抗戦を行えば、観客が集まると考えた阪神専務の細野躋と阪急専務の岩倉具光により阪神・阪急の定期戦が始まった。阪神・阪急の定期戦は、関西球界草創期の人気カードとなり、1988年阪急ブレーブスがオリエントリースに買収されるまで続いた。
戦前の阪急軍は、創立後すぐ阪急沿線の西宮北口に球場建設に取りかかり、後発のチームとは思えない早さで球団の基礎ができあがった。そして翌1937年5月には西宮球場が完成し、タイガースの甲子園球場にも負けずとも劣らないホームグラウンドを持つようになったものの、チーム力そのものはタイガースや巨人に押され気味であった。万年最下位のライオン軍ほど弱くはなかったものの、戦前は1度も優勝争いをすることなく終わってしまう。森弘太郎や天保義夫ら投手陣は揃っていたものの、打者陣が弱く打撃タイトルとはまったく縁がなかった。
これに対し、戦前のタイガースは、強かった。優勝回数でこそ巨人軍の方が多かったが、戦前の優勝チームは、巨人軍とタイガースの2球団だけであった。さらに、タイガースは、戦後の1リーグ時代は巨人軍との対戦成績は、互角である。このため、阪神・阪急の定期戦の人気は、最初の数年までで、その後は阪神・巨人戦の人気が上回っていった。
ところで、親会社の電鉄といえば、戦時体制になり、陸上交通統制法が施行されると並行区間を結ぶ、資本力が弱い私鉄は半ば強制的に合併させられた。関西では、1944年に南海鉄道と関西急行が統合して日本最大の私鉄となった近畿日本鉄道が誕生する。一方、阪急軍の親会社である阪急電鉄(阪神急行電鉄)は、京阪電鉄(京阪電気鉄道)を統合し1943年、京阪神急行電鉄となる。
当時の鉄道省の計画では、並行する阪急電鉄と阪神電鉄を合併させる予定だったが、直接競合区間のない京阪電鉄と合併することとなった。京阪電鉄は新京阪鉄道の開業、和歌山地域の開発などにより財務体質が極めて悪化していた。これに対し、阪神電鉄は財務体質も良く、沿線も軍事産業に属する企業等も多く、また関西財界、政界に大きなルートを持っていたこともあり単独で残存することができた。こうして、戦時下において、阪急軍と大阪タイガースの合併は免れたのであった。
(敬称略)
参考文献
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阪神間交通の発達http://homepage1.nifty.com/0705/hansinkankoutsu.htm
「阪神タイガースの正体」井上章一著 太田出版
「近代プロスポーツの歴史社会学」菊幸一著 不味堂出版
「プロ野球誕生前夜」東田一朔著 東海大学出版会 up
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日本職業野球連盟の誕生と阪神
阪神電鉄にとって、春と夏の中等学校野球大会以外の甲子園球場の恒久的な事業が課題となっていた。ライバルの阪急電鉄からプロ野球団の創設の誘いは既に受けていたが、プロ野球が営業的に成り立つのか、中等学校野球大会の開催に支障がでないか、阪神電鉄は慎重であった。
1935年、阪神電鉄は、読売新聞社の正力松太郎からプロ野球団創設の誘いを受ける。前年、読売が招聘した大リーグ選抜と全日本軍との試合で、甲子園は満杯となり、阪神電鉄は莫大な利益をあげていた。今度も阪神電鉄は慎重であったが、大リーグ選抜戦での盛況を受けて、今回は、全大阪を一時的に組織し、東京巨人軍と試験試合(同年10月17日)を行うことにした。大日本東京野球倶楽部は、同年2月の第1回米国遠征から東京ジャイアンツ(東京巨人軍)と称していた。この試験試合で5千人近くの観客を集まると、阪神電鉄専務の細野躋(のぼる)は、職業野球団の創設を決意する。
1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガースが発足した。日本運動協会、天勝野球団、宝塚運動協会、大日本東京野球倶楽部に続く日本で5番目のプロ野球チームであった。
外遊先のワシントンで小林は、大阪毎日新聞(大毎)から電報を受け取る。電報には、「阪神の球団創設が決まったが、阪急もそれを実行するならできるだけ大毎も尽力する」というものであった。小林は、地団駄を踏み憤慨すると、ただちに、「大毎に相談して」かねて計画して土地を買収済みの西宮北口に、球場を建設し、あわせて球団を作るよう指示した。阪急電鉄は、1936年かつて所有していた宝塚運動協会を母体に、大阪阪急野球協会を設立し阪急軍を発足する。宝塚運動協会当時のメンバーや、六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成した。本拠地を暫定的に宝塚球場とした。
当時、職業球団の創設は、東の読売と西の阪急、いってみれば東の正力松太郎と西の小林一三の争いと見られていた。ところが、読売の正力が、小林の渡米という間隙を縫って、阪神を誘い入れ、読売主導での職業野球創設へと動いていくこととなった。
1936年2月5日東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団により日本職業野球連盟が創設された。正力の思惑どおり、名古屋には新愛知新聞の名古屋軍と名古屋新聞の名古屋金鯱軍の2球団、大阪には阪神電鉄の大阪タイガースと阪急電鉄の阪急軍の2球団が参加した。東京は、巨人軍のほか、大東京軍と東京セネタースが参加。阪急軍を除く6球団は、全て都市名を名乗っており、阪急軍は初めて企業名を名乗る球団となった。
東京セネタースは、西武電鉄が40%、有馬頼寧が60%を保有していた。貴族院議員であった有馬が、正力に懇願され結成したもので、これは、東京で他の新聞社にプロ球団を結成させないことにより、読売新聞社の独占事業にしようという企みからであった。しかし、東京に、新聞社を親会社とする球団が、もう1球団結成された。
大東京軍の親会社は国民新聞であったが、正力の呼びかけに応じたものではなく、自ら参加してきたものであった。それは、国民新聞の親会社が名古屋軍の新愛知新聞だったという関係によるが、そもそも、国民新聞代表取締役で新愛知新聞主幹である田中齊は、正力や小林とは異なる大日本野球連盟というプロ野球リーグ構想を持っていた。田中は、名古屋、東京のほかに新潟と札幌などに本拠地権を与え、リーグ戦を行おうというものであったが、結局、失敗に終わり、作られた東京と名古屋の2球団が、日本職業野球連盟に加わることになったのだ。このため、名古屋軍の正式名称は、大日本野球連盟名古屋協会であり、大東京軍のそれは、大日本野球連盟東京協会であった。
こうして、阪神が読売と手を握ることによって、「もうけなくてもよい」日本のプロ野球が、読売主導で始まるとともに、電鉄会社としての利潤を充分に見通した採算のとれるプロ野球制度の確立を企図する阪急によって、日本のプロ野球を企業野球の方向に進ませる、悪しき前例を作った。
(敬称略)
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日本プロ野球史http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kyusi.htm
「阪神タイガースの正体」井上章一著 太田出版
「近代プロスポーツの歴史社会学」菊幸一著 不味堂出版
「プロ野球誕生前夜」東田一朔著 東海大学出版会
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職業野球団の創設 小林と正力
宝塚運動協会を解散し、プロ野球リーグ実現の夢が遠のいた小林一三であったが、1923年当時のものと同じ電鉄リーグ構想を1935年雑誌「改造」に「職業野球団の創設」と題し電鉄リーグ構想を、寄稿している。
電鉄リーグ構想は、プロ野球が設立後ビジネスとして成立するかを重視し、まず、第一歩として、既に沿線に球場を保有している阪急電鉄(宝塚球場)、阪神電鉄(甲子園球場)、京阪電鉄(京阪グラウンド)、大阪鉄道(藤井寺球場)が、春秋2季のリーグ戦を行い、最後に優勝決定戦を行う。関東にも同様のリーグができれば、東西優勝チームによる日本一決定戦を行う。収入面では、各電鉄会社は、乗客収入と入場料収入を得る、ただし、球場の収容人員に差があるため、収入を公平に救済する措置をとる。選手は、社員待遇で雇い身分を安定させ、野球に専念させる、というものであった。
経営の才に恵まれ「利用者へのサービス精神に徹した近代的な合理主義者」の小林らしく、東西両リーグ構想を含めたプロ野球経営の具体的構想は、電鉄会社としての利潤を充分に見通した採算のとれるプロ野球制度の確立を企図していた。
それでは、早くからプロ球団の結成やプロリーグ戦の成立を企図した小林の思惑は、どのようなものであったか。大和球士によれば、「狭い宝塚球場を活かすために、リーグ戦結成を計画したのではなく、リーグ結成したら、それを契機に沿線に新しく大球場をつくり、甲子園球場に対抗する腹だった。だから、新球団創立と併行して新球場を建設する計画であった」。
小林が、雑誌「改造」に寄稿した前年の1934年、東京では現在の読売ジャイアンツの前身である大日本東京野球倶楽部が設立されていた。正力は、小林とは別次元で、プロ野球リーグの構想を実現させようとしていた。
2度の大リーグ招聘を成功させ、三流紙だった読売新聞を一流紙にした正力松太郎は、1934年の大リーグ選抜と対戦した全日本軍を母体に、同年12月大日本東京野球倶楽部を設立していた。大日本東京野球倶楽部は、現在のプロ野球の系譜を持つ最古の球団であり、プロ野球チームとしては、日本運動協会(芝浦協会)、天勝野球団、宝塚運動協会に次ぐ日本で4番目の球団となる。
プロ野球団を創設した正力の狙いは、新聞社に対し永続的な宣伝の機会と記事の材料の提供を期待したものであった。これに対し、小林の電鉄リーグ構想では、新聞社が直接プロ野球団の保有するのではなく、新聞社(大阪毎日)は、リーグ全体の広報や運営面での協力が期待されていた。
1球団だけでは、プロ野球は成り立たない。これは過去の例からも明らかであった。正力は、大阪と名古屋にとりあえずプロ球団をつくることを企図した。まず、大阪は甲子園を背景にした阪神電鉄を動かせば、過去に宝塚協会の実績を持っている阪急電鉄も対抗上なんらかの手を打つだろうという判断があった。
また、名古屋に確固たる地盤を持つ新愛知新聞を動かせば、競争紙である名古屋新聞も手をこまねいて傍観的態度はとらないだろうという計算があった。各地域内の対抗心へ火をつけて、それぞれ二球団ずつつくらせる。それで、プロ野球リーグの結成に持ち込もうという算段であった。
ところが、正力にとって、プロ野球がビジネスとして成立するかは問題ではなかった。この点が小林一三との大きな違いである。元セントラルリーグ野球連盟会長鈴木龍二は、正力から、「プロ野球はもうけなくてもよい。国民一般が明るい娯楽として楽しんでくれて,勤労の意欲ともなれば,自分がプロ野球を作った意義が生かされる」という主旨の発言を聞いて鈴木自身がひどく感激したが、「もし、ほんとに正力が、そのように考えて、職業野球を作ったのであれば、それはたいへんな誤りではなかったかと思う。採算を考えない、職業、あるいは企業は、あり得ないことだから・・・」と述べている。
(敬称略)
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日本プロ野球史http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kyusi.htm
「阪神タイガースの正体」井上章一著 太田出版
「近代プロスポーツの歴史社会学」菊幸一著 不味堂出版
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小林一三のプロ野球リーグ構想
全国中等学校優勝野球大会が鳴尾に移された後も、豊中運動場は関西を代表するグラウンドとして野球や陸上競技の大会が開かれ、多くのスポーツファンを集めた。しかし、1918年箕電は阪神急行電鉄(阪急電鉄)と改称し、宝塚を一大レジャーゾーンとして拡充する計画が持ち上がり、1922年に規模も設備も豊中運動場を上回る宝塚運動場が完成すると、豊中運動場がそれまで果たしてきた役割が宝塚運動場に移され、閉鎖された。
阪急電鉄は1910年の宝塚線全線開業後、宝塚市を観光地として整備しようと新温泉、遊園地、動植物園を設置、また阪急直属の少女歌劇団(現、宝塚歌劇団)を結成していた。さらに1922年、この近接地に野球場、テニス場、陸上競技場を併設した大運動場をオープンさせた。
宝塚球場が完成した翌1923年小林一三は、電鉄リーグというプロ野球リーグ構想を提唱する。日本職業野球連盟が結成される13年前であった。候補企業に大阪電気軌道、京阪電気鉄道、阪神電気鉄道、京成電気軌道、東京横浜電鉄などの名を挙げ、手本を示す意味で、自身の阪神急行電鉄に宝塚運動協会を結成させたのだが、他社の賛同が得られなかった。
宝塚運動協会は、1924年、日本運動協会(芝浦協会)が関東大震災の影響で運営が困難になり解散したのを受けて、その選手の受け皿として河野安通志らを迎え結成された。宝塚運動協会は、宝塚球場を舞台に活動を行った。宝塚運動協会のライバルとなったのが、史上最強のセミプロチーム大毎野球団であった。大阪毎日新聞社が、大学出のスター選手を集め1920年5月結成、日本初のプロ野球チームである日本運動協会(早大OBの河野安通志、押川清、橋戸信が設立)よりも半年ほど早い。
各大学で鳴らした名選手が集結したこのチームはさすがに強く、周りの野球人からはプロ球団と見られていた。実際、選手たちも社員とは名ばかりで野球が仕事といった内情であった。その大毎野球団が、1925年米国遠征を終えて帰国すると宝塚運動協会との対抗戦が始まった。小林のプロ野球リーグ構想に対し、関係の深い大阪毎日新聞社もその可能性を模索していた。宝塚協会と大毎野球団の対抗戦は拮抗し、ファンの人気を集め、宝塚球場は二万余りの観客でふくれ上がったという。
当時、関西では、甲子園球場を持つ阪神電鉄や寝屋川球場を持つ京阪電鉄などはすでに実業団チームを持っており、その実業団が『とても歯が立たないセミ・プロ的』と評する早稲田OB主体のスター倶楽部と慶応OB主体のダイヤモンド倶楽部も存在していたので、プロ野球リーグ構想は現実味を帯びていた。そして、1928年10月、スター、ダイヤモンド両倶楽部を加えて関西四チーム野球連盟が発足し、毎年春秋のリーグ戦を実施すると発表、この月から各1回戦制のリーグ戦が行われた。
これが日本で初めてプロ野球チームが参加したリーグ戦である。翌年春は2月から3月にかけて各2回戦制のリーグ戦となり、首位打者表彰(規定打席10)も定められた。大毎はダイヤ、スターを連破し同じく2勝無敗の宝塚との試合に2-1で勝つとその勢いで5連勝、最終のダイヤ戦に敗れるも5勝1敗で優勝を飾った。これが大毎野球団最後の勇姿であった。この年、大毎野球団は突如解散する。
1927年から同じ毎日新聞による都市対抗野球が始まり、新聞宣伝の役割が低下してきた事、赤字を出した米国遠征をもう一度行おうという計画を巡って社内が対立した事などが引き金になったいう。大毎野球団の解散と共に、関西プロ野球リーグ構想は頓挫。有力な対戦相手をなくし、プロ野球リーグの夢が遠ざかり、遂に日本唯一のプロ球団、宝塚運動協会も1929年解散する。
(敬称略)
参考文献
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大毎野球団http://circlechange.net/BM/?p=155
日本プロ野球史http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/kyusi.htm
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甲子園球場
ちょうど工事が始まった1920年ごろから、阪神電鉄は沿線開発、とりわけ住宅地とレジャー施設の建設を計画し始めていた。候補地の物色を始めた矢先、タイミングよく動き出したのが武庫川改修工事であった。枝川と申川の廃川敷は広漠たるもので、注目するとてない土地だったが、阪神電鉄はそこに目をつけ、廃川敷の払い下げに飛びついた。1922年、総面積73万9200㎡の買収費は410万円。当時の阪神電鉄の資本金2500万円の区6分の1に当たる高価な買い物であった。
大都市と大都市を結ぶインターアーバンの先鞭をつけた阪神電鉄であったが、「乗客は電車が創造する」阪急電鉄が、1920年阪神間の山の手を走る神戸線を建設して、阪神電鉄の領域にまで進出してきた。老舗意識の強い阪神電鉄にとっては、新興勢力に攻め込まれた感じで、会社全体が危機感を募らせたいた。そこでなんとかライバルを突き放す大きな企画が欲しかった。そんな中始まったのが、武庫川の改修工事だった。スポーツ娯楽施設を建設したり、住宅開発をするにはうってつけであり、まさに渡りに船だった。
おまけに、阪神電鉄は1915年に阪急宝塚沿線の豊中球場で始まった全国中等学校野球優勝大会を第3回大会(1917)から阪神沿線の鳴尾グラウンドに移すことに成功し、野球熱が一気に盛り上がっていた。その鳴尾グラウンドの西約1キロほどの所を流れているのが枝川と申川である。そんな立地条件の偶然も廃川敷買収-甲子園球場誕生の布石となっている。
球場は、1924年完成し、この年が甲子年ということから甲子園大運動場と命名された。大運動場は、総面積1万坪ほど、東洋では最大のスタジアムであった。国内の球場では参考になるものがなく、米国ニューヨークにあったポログラウンドをモデルに設計されたといわれているが、当初は、野球だけでなく、外野でラグビーやサッカー、陸上競技も行えるよう多目的運動場として整備された。
内野席は、4階建て、50段ほどの鉄傘の下に3万人分の座席が用意された。20段の外野席は土塁のうえに木造で建設され、ここに1万5千人を収容した。1929年にアルプススタンド、1934年にスコアボードを新設、1936年に外野スタンドを改修する。家か、6万8千人から7万人を受け入れる巨大観覧席を見せることになる。
この甲子園球場は、完成した1924年の夏から全国中等学校優勝野球大会の主会場となり、翌1925年には大阪毎日新聞社主催の選抜中等学校野球大会(第2回)もここで開催されることとなった。
ところで、現在の全国高等学校ラグビーフットボール大会と全国高等学校サッカー選手権大会の前身である日本フートボール大会(第2回大会から日本フットボール大会)が、1918年以降、阪急の豊中運動場(6,7回は宝塚球場)で開催されていた。これは、大阪朝日新聞社の全国中等学校野球優勝大会に対抗するものとして、大阪毎日新聞社が主催したものであった。しかし、野球と同様、1925年の第8回から阪神電鉄の甲子園球場に舞台が移され、甲子園球場は、大運動場としての機能を発揮することとなった。1926年の第9回から全国大会となり全国中等学校蹴球大会となった(それまでは関西のみの大会)。
1929年、甲子園球場の南側に甲子園南運動場を開設、全国中等学校蹴球大会の舞台となった。東京に造られていた明治神宮外苑の競技場(現、国立競技場の前身)が400mのトラックの内側に、投てきやジャンプのピット、それにサッカー、ラグビーのフィールドを入れたため、球技場として最上とは言えなかったこともあって、南運動場のトラック1周は500m、コーナーはカーブを緩くし、球技場を収まりやすくした。第二次大戦中、陸軍に接収され甲子園南運動場は閉鎖された。
阪神電鉄の甲子園経営地は、野球場が先行した街づくりであったが、1928年には、球場の北側にサラリーマンを想定した郊外住宅地が建設され、1929年には、甲子園南運動場と阪神パーク、1930年には甲子園ホテルがオープン、さらに室内運動場、水族館、大プールが完成。1937年には、観客席のあるセンターコートを含む100面のコートを有する国際庭球場も建設され、阪神電鉄の住宅地とレジャー基地として整備されていった。
(敬称略)
参考文献
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「甲子園球場物語」玉置通夫著 文春新書
「南海ホークスがあったころ」永井良和・橋爪紳也著 紀伊國屋書店
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鳴尾球場
阪神電鉄にとって、全国中等学校優勝野球大会の沿線への誘致は、対阪急の攻めの一つだった。 また、野球により沿線に人を呼べば運賃収入を得る事もできる。豊中球場で行われていた中等学校野球大会は大盛況だった反面、問題もあった。弱小な箕面有馬電気軌道の輸送力の低さと、スタンドの定員が100人という豊中球場の狭さだった。第1回大会の観客は予想に反して盛況で6日間で延べ1万人だった。ここに目をつけて阪神は1916年鳴尾競馬場内にグランドを建設し、大阪朝日新聞に誘致を行った。第2回大会は結局豊中球場で開催されたものの参加校が12地区に増え、狭い豊中球場はさらに混乱を増していた。
関西(鳴尾)競馬場は仁川にある阪神競馬場の前身で、1907年に阪神競馬倶楽部がオープンさせた1周1845mの広大な競馬場だった。しかし、馬券売買の禁止と違法行為の取り締まりによって競馬場の経営は非常に苦しくなっていた。そのような背景から副業として競馬場内の土地の貸し出しを模索していた。
1913年、阪神電鉄は、閉鎖した香櫨園グラウンドの代わりに、年間800円、使用時毎に1日20円の条件で走路内の土地約16万5千㎡の借用を契約し、ここに一周800mの広大な陸上競技場を設置した。さらにテニスコートと、堀を改造したプールもあった。ちょうどその頃に第1回の全国中等学校優勝野球大会が開催されていた。陸上競技場では1916年の東西対抗陸上競技会を開催している。
陸上競技場の中の土地が余っていたので、2面の野球グラウンドを設置し、中等学校野球大会の開催を誘致した。競馬場開催の際には撤去しなければならないので固定のスタンドは設置できなかったが、仮設の木造スタンドで5~6千人収容できた。競馬場の観客を裁ききっていた阪神電鉄の輸送力は実証済みで問題はなかった。2面のグラウンドで敗者復活戦を行えるなど大会を効率的に運営する利点も大きかった。さらに、将来は新球場を設立するとの口約束も交わされていた。
中等学校野球大会の発案者でありながら、資金難の箕面電軌は対抗策を打てなかったので、大阪朝日新聞は1917年の第3回大会から、鳴尾球場への移転を承知した。しかし大会を観戦するファンが年々増加し、第1グラウンドのみであった仮設スタンドが、とうとう第2グラウンドの一部にも設置され、試合によってはその仮設席を客席に観客を乗せたままという状態で大会役員が座席を担いで移動させるという光景まで見られたという。
こうした事情から、大阪朝日新聞はこれに代る本格的な野球場を建設するように提案。また阪神電鉄も西宮市内の武庫川の埋立地に新球場を建設する計画を立てていたことから意見が一致。1924年に阪神甲子園球場完成とともに鳴尾球場の歴史も幕を下ろした。
「完成したばかりの世界一のヤンキースタジアムに匹敵するぐらいの大きな野球場を設計してみたまえ」
1923年、阪神電鉄の専務になっていた三崎省三は、前年京大から入社したばかりの技師野田誠三にこう命じた。当時社長がいなかった阪神電鉄を実質的に切り回していた三崎のツルの一声で甲子園球場建設の話が始まった。米国に留学し、インターアーバンという最新の鉄道技術を学んだ三崎は、米国でのスポーツ熱を目の当たりにして、日本にも、野球や陸上競技、フットボールなどが行える多目的なスタジアムの必要性を痛感していた。
結局、その夢が実現するきっかけは、1920年に始まった武庫川改修工事であった。武庫川は、尼崎と西宮を流れる大川で、江戸時代から暴れ川として名高く、支流と分流の枝川と申川も川幅が狭く洪水を繰り返していた。武庫川改修工事は、枝川と申川を廃川にして、武庫川本流だけを生かそうというものだった。
(敬称略)
参考文献
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「甲子園球場物語」玉置通夫著 文春新書
ライバル阪急と中学野球http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/rekisi/3.htm
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阪神VS阪急
ところで、第一次世界大戦による好景気を謳歌した資本家たちは、新たな投資先を有望視されつつあった電気軌道事業に向けつつあった。それは発展が見込まれ有望しされる阪神間に第三の鉄道を特許するよう、各社こぞって出願する結果を生みだした。しかし、特許がおりたのは、灘循環電気軌道(灘電)のみであった。
箕面有馬電気軌道(箕電)はその動きを座視せず灘電に連絡する形で、十三から園田、伊丹を経て特許を得ていた西宮線(1912年着工、宝塚・門戸・阪神香櫨園間)門戸までの十三線特許を受ける。しかし、灘電のメインバンクであった北浜銀行が1914年に破綻(北浜事件)したため、事業継続が困難となった。
北浜銀行の頭取は、小林一三の後ろ盾となっていた岩下清周。岩下は、同時に箕電の社長であり、阪神電鉄の取締役という関西私鉄の大功労者であり、実力者であったが、敵も多く、その岩下が北浜事件によって失脚してしまう。北浜銀行は反岩下派の新経営陣の手に渡り、岩下傘下の箕電も資金難に陥る。1915年、岩下は、箕電の社長と阪神電鉄の取締役を辞任。小林は自社株を買い戻し、箕電の難局を乗り切ると同時に、社長空位となった箕電を完全に支配する。
そもそも、岩下は箕電と阪神電鉄の合併論者であり、小林の知らないところで、岩下と阪神専務の今西林三郎との間で合併の仮調印がなされ、1913年には合併がほぼ決まっていた。この合併話は、岩下の失脚により、立ち消えになる。そんな中、1915年、岩下が所有していた灘電の株が動く。箕電が、権利を購入すれば大阪-神戸間に鉄道を引く事ができる。逆に、阪神電鉄にとって、平行する路線が他社の手に渡る事は大問題であった。
ところが、北浜銀行による灘電株の買取要求に対し、阪神の今西は「待てば値が下がる」と考え購入の意思がない事を表明する。箕電は、資金的に追い詰められ買取資金がないことは周知のことであり、そもそも、今西は、箕電をいずれ合併する気でいた。すると、小林は株主総会で灘電株の購入を決定し、神戸線の着工に手をつけた(1916)。阪神・阪急間競争の勃発である。驚いた今西は箕電に対して、訴訟や土地の買収防止など数々のいやがらせを試みるが、既に遅かった。阪神の今西に対し、阪急の小林一三は、「全く先見の明がなかった」と表した。灘電の特許を譲り受けた箕電は、1918年灘電を吸収合併し阪神急行電鉄(阪急電鉄)と改称する。
1920年阪急電鉄は梅田・神戸上筒井(現、王子公園の北西)、塚口・伊丹間を開通させた。これが阪急神戸線であり、これ以降、阪神VS阪急の競争が本格化していく。当初は阪急神戸線は、灘電との連絡もあり、現在の山陽新幹線のようなルートで検討された。特許譲受後は、藻川・猪名川に挟まれた水害多発した低湿地を避け、後発業者の特色としてスピードを売り込もうしたため、小林が十三から神戸に一直線で結ぶように用地買収を命じたという逸話がある。梅田~十三間は宝塚線に乗り入れていたが、後に同区間が高架化された際に宝塚線と分離された。1936年に高架線で三宮乗り入れを果たす。
阪急神戸線の開業時は大阪梅田~神戸上筒井間を「速くて空いている阪急電車」をキャッチコピーにして40分で結び、国鉄の大阪~三宮間51分、阪神の62分に対して優位に立つ。小林は、開業まもない時期の神戸線電車に試乗して、「眼下に阪神と国鉄を見下ろして高速で走るのは実に爽快であった」とも述べていたという。これに対し、阪神電鉄では危機感を強め、「待たずに乗れる阪神電車」をキャッチコピーとして電車の頻発運転(4分毎に急行と普通を運転)を行い対抗した。
阪神対阪急の対立は後々まで尾を引き、例えば阪急沿線の神社で祭事がある際に同社では臨時駅を設置して乗客に対処したが、当時阪神地域の電力事業も行っていた阪神電鉄では乗客をとられるのが面白くないのか、その臨時駅から神社までの街灯をすべて消してしまうといった、まるで子供の喧嘩のようなことも行ったという。阪急も仕返しとして、阪神による香枦園駅(現、香櫨園駅)~甲陽園間無軌条電車(トロリーバス)敷設計画を牽制する形で、甲陽線の建設を行ったりしている。
(敬称略)
参考文献
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白雪の明治・大正・昭和http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS03.html
ライバル阪急と中学野球http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/rekisi/3.htm
阪神間交通の発達http://homepage1.nifty.com/0705/hansinkankoutsu.htm
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阪急電鉄の始まり
官営鉄道を結び大阪と軍港舞鶴を結ぶ軍需鉄道として阪鶴鉄道が、1899年尼崎-福知山間が全通。この阪鶴鉄道は、1907年国有化されJR福知山線の原型となった。この国有化の直前の阪鶴鉄道に監査役として小林一三が就任する。
小林一三は、阪急商法で知られるように関西を代表する実業家であったが、甲府商人で知られる山梨県韮崎の商家に生まれた。福沢諭吉が学長をしていた慶應義塾を1892年卒業し、三井銀行で34歳まで勤め、かつての上司で北浜銀行を設立した岩下清周に誘われ、1907年に大阪へ赴任するが、予定していた証券会社設立話が、恐慌によって消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することとなった。
阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気鉄道は、阪鶴鉄道の関係者が、国有化で得る資金をもとに、福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、おりからの恐慌に見舞われて、全株式の半分も引き受け手が無いといった苦境に追い込まれていた。
阪鶴鉄道の監査役に収まっていた小林は、箕面有馬電気鉄道の話を聞き、同社には有望性があるとして岩下を説得し北浜銀行に株を引き受けさせることに成功。1907年箕面有馬電気軌道(箕電)として設立され、小林は同社の専務となり、実権を握った。そして1910年に現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業させるが、有馬への延伸は、有馬温泉のほうから宿泊客がいなくなるという反対があったことなどから断念。
箕電は、能勢街道、有馬道を沿うように走るものの阪神電鉄のように目立った集落も池田ぐらいしかなく、沿線には神社仏閣が点在するのみで、開業したものの乗客はあまり多くはなかった。そのことを逆手にとり、小林は沿線の土地を坪一円という考えられないような低価格で買収し、1910年住宅地「池田新市街」として分譲する。
この時すでに「大衆向け」の発想が小林にはあったのか、分譲に関してサラリーマンでも買えるよう、当時例が無かった月賦方式による販売を行い、成功を収めた。第一次世界大戦から続く経済成長は、大都市の人口集中を激化させ、サラリーマンを中心に住宅を郊外に求める人が激増していた。これ以降の私鉄事業は東京の東急電鉄の五島慶太、西武鉄道の堤康次郎に代表されるように不動産事業を組み込んだ事業スタイルを踏襲、サラリーマンへの住宅供給の主役となった。
小林は、有馬温泉への延伸を断念すると、終点となる箕面に同年動物園、宝塚には翌年大浴場、そして1914年には当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して、宝塚唱歌隊(後、宝塚歌劇団)を創り上げ、同地域を「阪急王国」と呼ばれるほど発展させていく。
沿線の大阪府豊能郡豊中村に豊中運動場を開設したのが1913年、総面積は約2万㎡の大きさであった。運動場の完成を記念して、小林の母校である慶應義塾大学とアメリカのスタンフォード大学の野球試合が行われている。
豊中運動場の利用策として、小林は、社員の吉岡重三郎(後の東宝社長)の発案から、大阪周辺の中等学校野球の大会を開催する案を大阪朝日新聞社に提案した。そのころの中等学校野球は著しく普及しており、すでに東海五県大会や関西大会といった地域的な大会が各地で開かれていた。大阪朝日新聞社では検討を重ねた結果、1915年ついに全国的な大会を催すこととなった。これが全国中等学校優勝野球大会の始まりである。
同じ頃、小林は、豊中運動場に冬季練習に来ていた早稲田野球部部員であった市岡忠男、浅沼誉夫、早稲田野球部OBの河野安通志らにプロ野球の可能性を打診したが、河野らはまだ時期尚早と答えたという。
(敬称略)
参考文献
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白雪の明治・大正・昭和http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS03.html
ライバル阪急と中学野球http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/rekisi/3.htm
阪神間交通の発達http://homepage1.nifty.com/0705/hansinkankoutsu.htm
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阪神電鉄の始まり
旧徳川幕府によって兵庫(現、神戸港)開港が行われ、当初首都に挙げられた大坂(大阪)との交通手段確保は、明治政府にとっても急務であり、天皇東遷後もその重要性は変わらず、1872(明治5)年の京浜間に続いて、早くも1874(明治7)年阪神間に官営鉄道が開設された。
明治時代後期、日清戦争(1894~1895)を経て、大阪は日本最大の経済都市となり、神戸は東洋最大の港湾都市へと発展し、大阪と神戸を結ぶ二本目の鉄道の敷設が、地元有力者によって画策された。1899年6月に当初の社名を、摂津電気鉄道株式会社として社長に外山脩造を迎えて設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称。
官営鉄道の監督官庁である逓信省鉄道監督局(後の鉄道省、戦後、運輸省→国土交通省)は、当然のことながら競争相手の出現を歓迎せず、免許申請を却下する。このため、当初から内務省(後、建設省→国土交通省)が許認可権を持つ「軌道条例」での特許(鉄道における免許)の取得を目指していたが、軌道条例は市街電車敷設を目的にしており、大阪と神戸を結ぶ都市間交通としては不適であった。社長の外山に請われて入社した技師長の三崎省三は、「広軌高速」を主張、鉄道条例で再出願するも、再却下となる。しかし、外山は三崎の主張を支持、結局、内務省が路線の一部が道路上に敷設されることを条件に特許を与えた。
1905年、阪神電気鉄道として、大阪出入橋・神戸雲井通(現、三宮)間を我国初のインターアーバン(都市間連絡電車)として開業した。三崎は米国での視察結果に基づいて建設・運営を行ったが、従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時建設ブームの真っ只中にあった米国のインターアーバンに範を採ったものであった。
在来の集落を結んだ阪神電鉄は停車駅が34と多く、頻繁に運転され、しかも、軌道法では最高時速が8マイル/時(12.9km)とされていたが、当時の車両に速度計が無いことを利用して、開業当初から評定時速20.4kmで走り出入橋~雲井通間を1時間半で結んだ。これにより、東海道本線列車による同区間の所要時間は50分と阪神電鉄はそれより遅かったものの、本数や運賃では格段の差があり、東海道本線の同区間の利用は激減した。1906年梅田~出入橋間が延伸開業し、大阪側の起点が梅田駅となる。
阪神電鉄はこうしてさい先のよいスタートを切った。一躍、株式は市場の花形株となった。これに刺激されて、関西では1910年ころには、箕面有馬電気軌道 (現、阪急電鉄)をはじめ、京阪電鉄、大阪電気軌道 (現、近鉄)、兵庫電気軌道 (現、山陽電鉄)などが開業して、電鉄ブームを招くのである。なお、南海電鉄は1907年にいちはやく電車に切り替えはじめている。1912年神戸側の終点が加納町(現、滝道)まで延伸され、神戸雲井通駅を三宮駅に改称。
沿線に遊園地や運動場など娯楽施設を設け、乗客誘致を行うことは、「乗客は電車が創造する」と述べた小林一三の阪急が有名だが、当時の私鉄では、広く行われていた。阪神も、開業した同年に打出海水浴場を開設。1907年には、遊園地香櫨園を開園、同時に香枦園駅を設置。香櫨園は、博物館、動物園、音楽堂、運動場など、当時としては珍しい施設が設けられ、関西で最大の遊園地となっていた。同年、海水浴場も打出から香枦園浜に移設された。
この香櫨園に野球場が作られたのが1910年。同年秋、シカゴ大学が早稲田大学の招きで来日していた。大阪毎日新聞社は両校を関西に呼んで国際試合をやらせようとしたが適当な運動場がなかったため、阪神電鉄に話を持ち込み、2週間で香櫨園内にグラウンドを急造した。グラウンドが不完全であったため、全3試合を一般に無料開放、3日間とも満員となり、阪神電鉄は野球試合を挙行することに大きな自信を得て、のちの全国中等学校優勝野球大会の開催につながることになる。
(敬称略)
参考文献
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪神間交通の発達http://homepage1.nifty.com/0705/hansinkankoutsu.htm
ゴムと電車とカツドウhttp://marute.co.jp/~hiroaki/uminaritamazu/gomu_dennsya.htm#-05
白雪の明治・大正・昭和http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS03.html
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2006/03/24 ぼーる通信より
WBC(ワールドベースボールクラシック)は、日本の優勝で幕を閉じました。WBCの話題いろいろです。まず、私にとって面白かったのが、準決勝に進出した4チームのうち3チーム(日本、キューバ、ドミニカ共和国)が島国だったことです。今回、WBCに参加した16チーム中、島国は他にプエルトリコと台湾のみであわせてもわずか5チームで、島国率は31%です。その5チームのうち3チームがベスト4に進出し、準決勝の島国率は75%。しかも、決勝戦は日本とキューバですから、なんと島国率100%です。偶然か、必然か、とにかく興味深い結果になりました。それに韓国は半島国で、大陸との間に北朝鮮があり、実質的に島国状態です。なお、オーストラリアは一応大陸なので、島国から除きました。
一次リーグ、二次リーグを全勝で準決勝に進出したのが、韓国でした。韓国は日本に2連勝し、球場には「テーハミングッ」の合唱が鳴り響きました。この韓国躍進の秘密に兵役免除があるといわれています。韓国では、2年間の兵役義務があり、スポーツで活躍すると、その義務が免除されことがあり、今回のWBCでも準決勝に進出すると、免除になると言われ、実際そうなりました。韓国では、1950年におきた朝鮮戦争が未だ終結しておらず、停戦の状態が続いているのです。戦争と野球といえば、戦前の話になりますが、職業野球と呼ばれたころのプロ野球は、世間から道楽者のやるものだと見下される対象でした。それでも、多くの若者が職業野球に身を投じています。それは、兵隊にとられるまでの短い間だけでも、好きな野球をやりたかったからだといいます。日本職業野球連盟ができた翌1937年には、すでに日中戦争が始まっており、兵隊に行くことは死に直面することでした。ニッポンはいま、平和です。(参考文献:「阪神タイガースの正体」井上章一著)
オリンピックやFIFAワールドカップの成功を見て、MLBが野球版W杯を夢見ることは必然でした。野球版W杯の権威付けられるのは、野球の唯一の国際組織IBAFだけです。そのIBAFから世界大会の認定をもらうには、世界大会の国際基準である、IOC基準のドーピング検査を採用する必要がありました。ところが、IOCで禁止された薬物がMLBでは禁止されておらず、多くのメジャーリーガーが、薬物を使用してきたといわれています。今回、MLBは、WBCを世界大会としての認定をもらうため、IOC基準のドーピング検査を受け入れました。そこで問題になったのが、IOCの禁止薬物を使用している(いた)選手たち。彼らが、ドーピング違反に問われてはかなわない、ということで、今回のWBCでは、最初から、メジャーリーガーの強制招集はできない相談だったいうことです。
(参考資料:フリージャーナリストの石川とらさんのブログ) |
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【日本アカデミーリーグ】独立リーグ構想にはもうひとつ、日本アカデミーリーグというのがありました。ウェルネス魚沼を立ち上げた学校法人タイケン学園が音頭取りになって、アマチュアのリーグ戦を行う構想でしたが、去年、専門学校の大会としてスタートしましたが、結局はタイケン学園グループ内のチームの大会として現存するか否かという状態になっています。一応、HPもありますが、更新はされていません。現在、タイケン学園のHPにTAIKENアカデミーリーグのロゴがありますが、TAIKENアカデミーリーグとは、学校法人タイケン学園の学校グループのことでした。
クラブチームも続々結成されています。
【沖縄】元阪神の中込さん 沖縄で野球チーム設立へ
元阪神投手で、2002年から昨年まで台湾でプレーした中込氏(35)が1月29日、兵庫県西宮市内で会見し、那覇市を本拠地に、自らが監督を務める野球のクラブチーム「サムライ那覇」を設立すると発表。「台湾でコーチを兼任し若い選手の成長に喜びを感じた。プロにいく選手を育てたい」と抱負を述べた。沖縄には現在、企業、クラブ合わせて5チームがあり、中込さんは「サムライ那覇を含めた6チームで3月下旬から年間40試合のリーグ戦を行いたい」と話し、将来的には四国アイランドリーグのような独立リーグを目指す構想を示した。
【広島】広島に野球クラブチーム 元カープ西田氏が監督
元広島カープ選手で、四国アイランドリーグで監督も務めた西田氏(45)らが2月10日、広島県庁で記者会見し、同県を拠点に活動する社会人野球のクラブチーム「広島レッドフェニックス」を設立すると発表した。都市対抗大会などへの出場を目指して4月から活動を本格化させる予定で、西田氏は「楽しく明るく地域に愛されるチームにして、街おこしにも貢献したい」と意気込んでいる。西田氏が監督に、同じく元広島カープの田中和博氏(46)がコーチに就任。チームは同県安芸太田町のグラウンドを「ホーム」とし、土日を中心に練習に励む。
【名古屋】「ドラHOTリューターズ」は大の中日ファンで名古屋の東海テレビでレギュラーを持つタレントの峰竜太が、愛知のアマチュア選手を集めて結成した。GMは、やはり中日ファンで知られるジャーナリスト大谷昭宏氏。鈴木孝政氏、藤波行雄氏、平野謙氏の中日OBがコーチを務める。名古屋初進出の欽ちゃん球団相手方として結成され、1月8日に試合を行い善戦した。この日の試合のみに結成されたが、続行は?
【鹿児島】2月23日日本野球連盟は、鹿児島ホワイトウェーブの新規加盟を承認した。昨年、地元民放の企画で欽ちゃん球団茨城ゴールデンゴールズと対戦するため結成されたチームが母体。1試合だけのチームではなく活動を続けようと有志で結成された。選手は22歳から37歳までの13人。企業の社会人野球チーム出身者や甲子園経験者もいる。監督は元広島カープで投手だった鵜狩道夫さん(69)、コーチは元ロッテで捕手や一塁手だった斎藤巧さん(48)が務める。練習は日置市の伊集院球場で毎週土曜日夕方から行う。都市対抗野球や全日本クラブ野球選手権などの大会出場を目指して活動する。県野球連盟理事長でチーム代表の国本正樹さん(35)は「スポンサーもなく手弁当のチームだが、硬式野球のすそ野を広げるため頑張りたい」と話している。3月25日に入団テストを行う。
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2004年の球界再編騒動の最中、今のNPBにこのまま任せてはおけないと、各地で独立リーグの構想が生まれました。2006年、現実はどうなっているでしょうか。
【四国独立リーグ】唯一実現し、1シーズンを乗り切ったのが石毛代表率いる四国独立リーグ。ただし、1年目は、創業費用が膨らんだ一方、無料券のばらまきで入場料収入が伸びず、3億1497万円の赤字。そこで運営会社であるIBLJは3億4千万円まで増資するなど財務基盤を強化。各チームは資本金1千万円(IBLJが全額出資)で分社化、各チームの独立性を高めて地域密着を深める、とのこと。http://www.shikoku-np.co.jp/news/island_league/200603/20060307000118.htm
【東北独立リーグ】東北アカデミーリーグとして、アマ野球として宮城、岩手の2チームで4月の開幕を目指してきたが、主導してきた仙台市民球団企業組合によると、スポンサーが見つからず、昨年10月に予定していた宮城のチームの選手選考が実施できず、「一度白紙に戻す」という。 岩手のチームは一時約30人の選手を集め、チーム名も決定している。http://www.nikkansports.com/ns/baseball/amateur/f-bb-tp5-060309-0024.html
【日本独立リーグ】もと参議院議員の江本孟紀氏をコミッショナーとし、米国独立リーグの支援を受けセミプロリーグとして今年からスタートする構想であったが具体化はしなかった。昨年、江本氏は日本人選手だけのチーム・サムライベアーズで米国の独立リーグに参加。今季は、NPO法人を立ち上げ、社会人クラブチームの京都ファイアーバーズとして再出発。その江本氏が「Club チャレンジニッポン!」(クラブチーム選抜による米国遠征)として3月13日から16日間、米アリゾナ州トゥーソンへの遠征を発表。ホワイトソックス傘下のマイナー混成チームと合同練習、オープン戦6試合を行う。メンバーは全国のクラブチームから約25人を選出。監督は江本氏、選手団団長を千葉熱血MAKINGの森田健作総監督が務める。スポンサーには人材派遣会社のフルキャストがついた。http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2006/02/07/15.html
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トリノ・オリンピックの日本選手団の目標メダル数を遅塚研一団長は「色に関係なく5個」とし、マスコミも、連日メダル、メダルと煽り立てていましたが、結果は荒川静香選手の金メダル1個となりました。
海外メディアの大会前の日本選手のメダル予想は、米国の専門誌「スポーツ・イラストレーテッド」が、フィギュアスケート女子の荒川静香選手とスピードスケート男子500メートルの加藤条治選手の「銅2」だけで、AP通信はさらに厳しく、荒川選手の銅1個だけ。荒川選手の金メダルは、ロシアのスルツカヤ選手とコーエン選手との熾烈な争いの結果ですから、AP通信の予想はほぼ当たってことになります。
もともと、長野オリンピック以降は組織だった選手強化策がとられていなかったため、この結果は、ある程度予想されたものです。選手のインタビューを聞いたり、コメントを読むと、「自分の持っている力を十分発揮できた」と満足している選手が多いように思えます。
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の出場を辞退したヤンキースの松井秀喜選手は、2月4日放送の日本テレビ「世界一受けたい授業 NYからゴジラ松井先生がやってきた!SP」で、手抜きの70%ではなく、しゃにむに120%を出そうとするのでもない、100%の力をそのまま発揮することの大切さを述べていました。つまり、トリノ・オリンピックの結果は、多くの選手が100%の力を出した結果ともいえるものなのです。
そこで、記憶が残るのが、出場資格問題に揺れ、直前まで出場が危ぶまれた女子ボブスレー陣。ボブスレーは、氷上のF1と言われる競技ですが、鋼鉄のそりは高価で、メダル争いをする国の最新式のそりは2000万円以上もします。しかも、F1と同じメカニックつきです。ところが、日本選手のそりは、数年前の中古(それでも400万円します)で、組み立てから調整まで選手本人がしなければならないのです。結果は、完走15チーム中の15位でした。桧野選手は「悔しいです」と述べていますが、長岡選手「力を出し切りました」と述べています。選手の「100%の力」には、困難な環境や状況も含まれています。
同じような状況にあるのが、本物のF1チームの「スーパーアグリ」です。スーパーアグリは、元F1ドライバーの鈴木亜久里がチーム代表を務め、ホンダが最新のV8エンジンを供給し、しかもドライバーが佐藤琢磨と井出有治ということで、話題と期待を集めています。しかし、現実は、川喜多研さんのコラムによれば、チームスタッフは、「元アロウズの人材を中心に大急ぎでかき集めたF1チームとしては最小規模の約90人程度」で、マシンは、「4シーズン前のアロウズそのままという状態」であり、まさに、日本のボブスレーの置かれた状況と同じです。
kawakita-top.html へのリンク
現在のF1界は、世界の大手自動車メーカーが積極的に関与するようになり、参戦には100億円以上の資金を必要とする世界です。そして、最後に川喜多さんは次のように締めくくっています。
「もちろん、実際にステアリングを握る琢磨や井出、そしてスーパーアグリF1のチームスタッフも、そんな厳しい現実は先刻承知のはず。むしろ心配なのは、期待に胸膨らませたファンの側が、新チームの厳しい現実にどこまで耐えられるか、ということだろう。メディアにさんざん「メダルの期待」をあおられたあげく、シビアな現実を突きつけられて「ガックリ」させられたトリノオリンピックじゃないけれど、しっかりと現実を見た上で期待したり、応援したりする心構えがファンの側にも必要だ。F1開幕戦、バーレーンGPに向けて、本当に「覚悟」が求められているのは、むしろ我々、ファンの方なのである。」
ファンや応援する側の人々も、選手の取り巻く環境を含めた現実の100%の力を知る覚悟が必要なのです。up |
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大阪ドームは、特定調停を諦め、競売へ。でも、入札は不調で、とりあえず、京セラにネーミングライツを売っちゃいました。
(2/16)大阪ドームに1社が入札
大阪市西区の大阪ドームを所有・運営し会社更生手続き中の大阪市の第3セクター「大阪シティドーム」の競争入札で、管財人の浦田和栄弁護士は16日、1社から入札があったと発表した。大阪ドームは総事業費約700億円で、不動産鑑定価格などから、最低入札価格は100億円。今後管財人が事業計画についてヒアリングなどを行い、来週後半にも落札の是非を決める。落札に当たっては、施設を一定期間保有することや、スポーツ・文化イベントの開催など公共的機能を維持することなどの条件があり、投資目的での買収は困難とみられる。
管財人は、不適格な企業だと判断した場合、大阪市にドーム施設の買い取りを要請する方針。市が拒否すれば、最低入札価格を引き下げて再度入札を行う。ドーム社は04年11月、経営難から大阪地裁に特定調停を申し立てた。調停委員会が提示したドーム施設の不動産鑑定額98億8000万円を参考に大阪市に施設を売却、金融機関に対する債務約410億円の一部を返済し、残りは債権放棄を求める方針だった。しかし金融機関側が市に追加負担を求めるなど反発したため、関淳一市長は調停を断念。同社は昨年10月、地裁に会社更生法の適用を申請した。(共同)
(2/18)大阪ドーム応札はエムケイ 市民球団構想の実現狙う
大阪ドーム(大阪市西区)を所有・運営する大阪市の第3セクター「大阪シティドーム」=会社更生手続き中=の競争入札で、応札した企業はタクシー大手、MKグループの大阪エムケイ(大阪市北区)だったことが18日、分かった。応札価格は最低入札価格の100億円という。同社は今後、事業計画に賛同する企業の中から出資を募るという。MKグループ創業者の青木定雄氏は昨年、大阪ドームを本拠地とする市民球団構想を提唱していた。同社関係者によると、大阪ドームを買い取り、数年後に構想を実現する狙いという。同社は「大阪ドームをにぎやかにして大阪の活性化に一役買いたい。管財人や(ドームを準本拠地にしている)オリックス・バファローズからも計画に理解を得たい」と話している。(共同通信)
(3/2)大阪ドーム改め「京セラドーム」 大阪市は買い取り否定
大阪市の大阪ドームが4月から京セラドームに名前を変える。同市の第三セクター「大阪シティドーム」(会社更生手続き中)の浦田和栄管財人と、電子部品大手の京セラ(本社・京都市)が2日、ネーミングライツ(命名権)の売買で合意した。契約は4月から5年間で、売却額は数億円とみられる。ドームの施設や営業権の売却先はまだ決まっておらず、大阪市の関淳一市長は2日の記者会見で市による買い取りを否定した。
ドーム社は収入確保のため命名権の販売先を探していた。ドームに看板広告を出していた京セラの子会社、京セラミタ(本社・大阪市)を通じて交渉を進めていた。
契約額は非公表だが、関係者は数億円とみている。国内の球場の命名権では、神戸市のスカイマークスタジアムが3年間で2億円、仙台市のフルキャストスタジアム宮城が年2億円となっている。
京セラは国内外で京都パープルサンガなどのサッカーチームを支援しており、プロ野球にも進出することで企業イメージの向上を図る狙いがあるとみられる。ただ、同社がドーム本体の買い取りに乗り出す可能性については、同社、管財人の双方とも否定している。
一方、関氏は会見で「市によるニューマネー投入は現状ではできない」と言明。「ドーム再建のため、管財人の要請に応じて、経済団体や関係企業に支援を要請していく」と述べ、支援企業探しに市として協力する考えを明らかにした。
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南海電気鉄道と南海ホークス
南海電鉄は、1960年代重大事故が相次ぎ経営が傾いた時期があった。1968年、外部重役から社長に招かれ再建にあたったのが川勝傳であった。川勝は、難波駅の大改装を初めとする事業を精力的に推進し、南海電鉄中興の祖といわれる。
同年、南海ホークスのオーナーとなり、死去するまで、ずっとオーナーでい続けた。野村克也監督兼任選手を大事にしていたことでも有名。同じ時期(1970)に監督となり、電鉄・球団ともに困難な時代に、野村が率いる南海ホークスが優勝(1973)したことで、川勝南海にも明るい希望が見えた。だが、その後、野村の監督解任(1977)を決めたのも川勝であった。
ホークスの売却の話は、社内外に少なくなかったが、グループの象徴としてホークスが活躍することを最後まで願っていたとされる。晩年、難波再開発に絡み球団売却の話が出たときでも「儂(わし)の目の黒い内は絶対に売らん!!」と頑なまでに球団を保有し続けた。しかし結局は目が白くなってから球団は身売りされた。
ところで、川勝が全く球団の売却を考えていなかった訳ではない。売却案、本拠地移転案、近鉄球団との合併案など様々な可能性が早くから検討されていた。売却の場合の引き受け企業としては、来島どっく、ダイエーなどの名前が挙げられていた。
ホークスの売却にあたっては、南海電鉄にとっては「関西国際空港の開港に向けての数々の大事業をやり遂げていかなければならず、特に新空港の玄関口にふさわしい難波周辺の街づくりを進めていくことが最重要課題」であるとされた。ところが、関西国際空港(関空)も難波の再開発も思惑どおりには進まなかった。ホークスが売却された1988年はバブルの最盛期だったが、関空が開港した1994年にはバブルはとっくに崩壊していた。
1990年前後、関空とスカイゲートブリッジで隔てた、泉佐野市の対岸地域に50棟を越す超高層ビルや百貨店などを建てる計画が立てられたが、バブル崩壊後、次々と計画が凍結され、広大な敷地(造成地)の大部分が空白地帯となった。
一方、難波駅の再開発もなかなか進まず、ホークスのいなくなった大阪球場は、かつて、本拠地としていた近鉄が準本拠地として年間10試合程度使用した。一応、関空の開港に備えて難波地区の再開発計画が持ち上がり1991年に野球場としての機能を終えるが、その外観をそのまま生かして住宅展示場「なんば大阪球場住宅博」として利用された。
大阪球場の解体が決まったのは1998年になってからで、2003年10月に商業施設「なんばパークス」がようやく完成。なんばパークス内にはかつて大阪球場のピッチャーズプレートとホームプレートであった位置に記念のモニュメントが設置され、上階に「南海ホークスメモリアルギャラリー」という展示コーナーが設置されている。
(敬称略)
参考文献
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南海電気鉄道
南海電気鉄道は、難波から和歌山・関西空港・高野山などを結ぶ関西大手5私鉄のひとつで、純民間資本としては現存する日本最古の私鉄とされる。1884年に大阪堺間鉄道として設立され、1885年に難波~大和川(のちに廃止)間を開業した阪堺鉄道を始まりとしている。1889年堺と和歌山を結ぶ紀泉鉄道が計画され、1891年紀阪鉄道が発足、両者が合併して、1895年南海鉄道となった。1898年に阪堺鉄道が南海鉄道に吸収合併され、1903年には難波~和歌山市間全通となる。これが南海本線である。
1922年大阪高野鉄道を合併し、南海鉄道高野線とする。堺から高野山を目指し、高野鉄道が1898年に大小路(現、堺東)~狭山間を開業、その後、南は長野(現、河内長野)駅まで延び、北は道頓堀(現、汐見橋)駅まで延伸され大阪市内乗り入れを果たすが、当初の経営は思わしくなく、事業を継承した高野登山鉄道の手で路線延長が図られることになった。
高野登山鉄道は、1915年に汐見橋~橋本間を開通させ大阪高野鉄道と社名変更。その後、南海鉄道に合併し、1925年に椎出(現、高野下)駅まで開通した。高野下駅以南は高野山電気鉄道によって建設され、1928年高野下~神谷(現、紀伊神谷)間が開業、翌年極楽橋駅まで開業し全通した。
1930年に南海本線に並行する形で京阪系の阪和電気鉄道(阪和電鉄)が開通すると、南海鉄道との間で列車のスピードアップ・割引切符による運賃のダンピングなど、激しい競争が繰りひろげられることになる。京阪が手を引くと阪和電鉄は1940年に南海鉄道に合併して山手線となり、1944年には戦時買収によって国有化され、阪和線となった。
南海鉄道は1944年に関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道となるが、終戦後の1947年、高野下~高野山間を運営していた高野山電気鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で南海電気鉄道が発足した。高野山電気鉄道が戦後、南海が分離独立する際の受け皿会社となった。
南海電鉄高野線は、真言宗の霊地高野山への足であり、終点の極楽橋駅からは鋼索線に連絡している。また大阪への通勤・通学路線でもある。かつては、本線である現在の南海本線に対して支線的存在だったが、泉北ニュータウンをはじめとする沿線の宅地開発が進むにつれ、南海本線と並ぶ路線となる。高野線の起点は汐見橋駅だが、現在は高野山方面へ行く全ての列車が難波駅から発着しており、本来の高野線である汐見橋~岸里玉出間・通称汐見橋線は支線扱いになっている。
一方、南海本線は、大阪・和歌山間の都市間輸送と関西国際空港へのアクセスを担っている路線で、 どちらもJR西日本とは競合関係にある。かつては、南海電気鉄道の「本線」として中心的路線だったが、現在では、1980年代に沿線の宅地開発で輸送量が伸びた「高野線」と同格扱いになっている。
(敬称略)
参考文献
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大阪スタヂアムと南海ホークス
1948年の戦後2度目の優勝を飾ったときGHQ経済科学局長・マーカット少将が南海球団の松浦竹松社長に「ホームタウン・ホームグラウンドはどこか」と問うと松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので、甲子園を使わせていただいている」と答え、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。
そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけて、南部の最大の繁華街である南海難波駅前にあった専売局の工場跡地に建設することになった。ちなみに同じ大阪を拠点とする大陽ロビンスも北区の旧関西相撲協会の国技館跡を建設候補地に上げていたこともあった。しかし、阪神や阪急の本拠地のある西宮市(兵庫県)と競合する恐れから断念した経緯もある。
2リーグ分立の1950年9月、工期わずか8ヶ月の突貫工事で完成した大阪球場は正式には大阪スタヂアムといわれる。戦災後の復興期にあり、粗末なバラック建物ばかりがひしめき合っていた大阪市内の中心部で本格的な鉄筋コンクリート造りの大規模建築として完成した大阪球場は当時「昭和の大阪城」とたたえられた。
建設当初はグラウンドの両翼83メートル、中堅115.8メートル。副収入を得るため、日本の球場では初めて観客席下に多数のテナントを入居させるスペースを設けた。この空間確保と、狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によってスタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われ、そそり立つスタンドにより打球音が独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。特に内野席の傾斜は酔っ払いが足を滑らせてスタンド下まで転げ落ちたという逸話まで残したほどである。
1951年に関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置し同年初ナイターを実施(南海×毎日戦)。また内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのもこの球場である。1950~60年代前半は鶴岡一人監督率いる南海の黄金期で、毎年のように優勝争いを繰り広げており、当時の関西では南海は阪神を凌ぐ人気球団であった。
しかしやがてテレビ野球中継が本格化すると、セ・リーグの巨人戦中心の中継ゆえ南海の人気は落ちて行き、大阪球場の観客動員数は低迷を極めるようになった。球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、大阪球場の年間観客動員の実数が球場創立以来、南海球団最終年の1988年まで一度も50万人を超えることがなかったことが記されている。(公式発表上では1988年の91万5千人が最多であった。)
大阪球場は、南海のメイン球場だったが、1957年までは近鉄も本拠地として使用した。また1979、1980年に近鉄がパ・リーグ連覇し日本シリーズに出場した際、当時主な本拠地であった日本生命球場の最大観客収容人数がシリーズ開催基準の3万人以上に満たず、もう一つの本拠地であった藤井寺球場も当時ナイター照明設備がなかったため近鉄はやむを得ず両年とも大阪球場を借りて開催した。
他に1953、54年にセ・リーグの洋松ロビンスの本拠地(1951,52年も準本拠地として使用)、また阪神も1956年甲子園にナイター照明設備が完成するまで準本拠地として使用した。また球場のスタンド部分にはウインズ難波(中央競馬の場外馬券売場)のほかアイススケートリンク、 卓球場、文化センター、などが設置されており、野球を核とした複合施設として利用された。
鶴岡監督が1968年を最後に勇退。 1969年は飯田徳治が監督に就任したが、投手陣にケガ人が続出したこともあって2リーグ分立後初の最下位に転落。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。
野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊・柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。1978年、広瀬叔功監督が就任。野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光のアキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。
1980年にはドカベン香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷、広瀬は退陣。1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落、さらにその年のオフにはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が急死するアクシデントもあり、長期低迷には歯止めがかからず、1988年にダイエーへの売却が決定した。
(敬称略)
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中百舌鳥と南海ホークス
京阪系の阪和電気鉄道と熾烈な乗客獲得競争を行っていた南海鉄道(南海)は、同じ関西の電鉄会社である阪急社長小林一三からの勧めがあり、さらにその後阪神電鉄からの後押しもあって、1938年春に球団を結成。1936年日本職業野球連盟が結成され、関西では阪神と阪急の電鉄2社が球団が参加したが、この2社は他の関西私鉄各社にも球団を作ってもらい、関西地区では電鉄対抗戦で職業野球を盛り上げていこうという考えであった。
そもそも南海には沿線開発の一環として、大阪堺市の中百舌鳥に大運動場をつくる計画があった。これは1936年の創業50年を記念した行事として持ち上がった計画で、テニスコートや野球場、陸上競技場などを建設しようというものでだった。いわば、関西の私鉄各社が沿線開発でそれぞれ手がけていた運動場建設の南海版なのだが、敷地面積が約3万坪と広大で、その規模は東洋一を目指していた。
しかしその後、日本の社会情勢が戦時体制に移行しはじめたため、この壮大な計画はテニスコートや野球場が一部完成しただけで、未完のままに終わっていた。南海が球団の設立に動いた動機のひとつには、やはりこの運動場計画があった。建設した大運動場の球場に本拠地球団をつくれば、球場というハードに球団というソフトが完備する。しかし実際に中百舌鳥に球場が完成したのは1939年、球団設立の1年後だった。
球団を結成した南海はすぐに日本職業野球連盟に加盟を申し込んだが、1938年の春季リーグはテスト参加、秋季からは正式に加盟し9球団総当たり戦に参加する。南海は戦前では最後に連盟に加盟した球団で、最初は「南海」軍と名のっていた。中百舌鳥球場が翌年6月完成。しかし、中百舌鳥球場での興行は観客動員が伸びず、南海の公式戦は西宮球場や甲子園で行われることが多かった。結局この球場は南海の練習用の球場としての意味合いが強くなっていく。
中百舌鳥球場はパッとしなかったが、同じ年、六大学のスター、法政大学の鶴岡一人が入団、即主将となり、ホームラン王を獲得。待望の花形選手であったが、翌年軍隊に入隊しまった。
1944年親会社南海鉄道が陸上交通事業調整法(鉄道統制令)により関西急行と合併、近畿日本鉄道となり、球団名が近畿日本と変更された。ところで、なぜ、「近鉄」ではなく「近畿日本」なのかといえば、近畿日本鉄道の発足直後は「近鉄」ではなく「近日」「近畿日本」と称していたことによる。これは、元々滋賀県の近江鉄道が「近鉄」(おうてつ)の略称を使用していたため、誤解を防ぐ観点から使用しにくかったためとされる。しかし「近鉄」の愛称が早くから使われるようになり、1949年に発足した近畿日本鉄道出資の球団は「近鉄パールス」を名乗った。
1944年10月職業野球は一旦活動を停止。翌年戦争が終了すると、職業野球連盟ははプロ野球という形で復活し、球団名を近畿グレート・リングと改称する。この球団名は、大いなる鉄輪という意味で、親会社近畿日本鉄道を意味していた。1946年プロ野球復活の最初のシーズン。颯爽と登場したグレート・リングは、観客の米兵たちに人気となった。グレート・リングは、当時の米兵のスラングで巨大な女性器を表す言葉だったのだ。
米兵たちに下品な意味で人気が出てしまったグレート・リングだが、試合は強かった。グレート・リングは、戦後の早い時期から球団の再建に着手していたため、当時の8球団の中では戦力が整っていた。鶴岡一人も、プレーイングマネージャーとして復帰、その結果、戦後最初の公式戦優勝を飾る。これは球団創設以来の初優勝であった。戦前は、後発球団のハンディがあったが、戦争で全球団がゼロからの出発となり、すんなり強豪球団の一角に納まった。1947年近畿日本鉄道から旧・南海鉄道が分かれ南海電気鉄道(南海電鉄)となったため、球団名を南海ホークスと改称。そして、1948年には2度目の優勝を飾った。
そしてその年のオフ、読売(巨人)によるエース別所の引き抜き事件がおこった。この事件をきっかけに南海は、反読売となり、2リーグ分立のときは、反読売にたち、近鉄を誘い阪急とともにパ・リーグに加盟している。
(敬称略)
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京阪電鉄と京阪グラウンド
阪和電気鉄道(阪和、阪和電鉄)は、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪-和歌山間に平行する新しい高速電気鉄道として1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1929年開業、1930年全通。京阪は、1922年電力会社として和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気(軌道事業も含む)を買収していたため、この延長線上で、阪和電鉄に資本参加、主導権を握った。ただし、京阪は、恐慌の影響による再建のため、1930年和歌山地区の電力事業と軌道事業を合同電気に譲渡している。
阪和電鉄は開業当初より、狭軌鉄道の電車としては当時日本最大級の、強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。大出力モーターを装備した大型電車によって線形の良好な高規格新線で高速運転を行う、という米国のハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトは、1928年に開業した新京阪と共通のものである。
米国のインターアーバンは自動車におされてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために、線形や車両規格の改善を図ったノースショアー線、サウスショアー線など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図るケースがあり、これを見習ったものと考えられる。
以後、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪-和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇を競ったが、和歌山は京都や神戸に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなり、結果的に後発の阪和電鉄は営業不振に陥り、京阪が資本撤退、1940年、阪和電鉄は南海に吸収合併され、同社「山手線」となり、1944年、戦時買収により国有化、国有鉄道阪和線となった。
一方、京阪電気鉄道本体も、第二次大戦中の1942年電力統合政策により電力事業を関西配電に譲渡(現在は関西電力が継承)。 さらに、1943年には陸上交通事業調整法に基づき、阪神急行電鉄(阪急)と合併、京阪神急行電鉄となる。戦後分離するが、このとき新京阪線は、阪急京都線として阪急に残ることとなり、京阪は、もとの淀川左岸の路線での再発足となった。これらの経験が、他の関西大手私鉄と比べて事業の多角化に慎重で、本業を重視する傾向につながったともいわれる。
ところで、京阪本線の沿線開発と旅客誘致のために、香里に住宅地を開発し、枚方には遊園地を開設したが、1922年には、沿線の寝屋川付近に、陸上競技場や野球場が併設された京阪グラウンド(地名から寝屋川グラウンドともいわれた)を完成させ、1924年の第10回全国中等学校野球大会の大阪大会はこの京阪グラウンドで開かれた。
この年の本大会は新しく完成した阪神甲子園球場で行われ、初の本格的野球場の出現に、京阪も、本格的野球場に改装することも考えられたが、運輸本業に関して建設拡張のさなかであったので、運動場に関する拡充整備の問題は見送られた。
京阪は、関西大手5私鉄の中で唯一プロ野球の球団を持ったことがないが、計画までには至らなかったものの、この京阪グラウンドを活用整備したプロ野球参入構想があったといわれる。日本職業野球連盟が生まれる前、阪急の小林一三が、構想した関西電鉄リーグには、阪急、阪神のほか京阪グラウンドを有するこの京阪電鉄と近鉄の前身のひとつで藤井寺球場を所有していた大阪鉄道の4社で、南海は含まれてはいなかった。
京阪グラウンドは、1942年日本住宅営団に宅地として売却されているため、京阪電鉄がプロ野球参入を構想したとしら、日本職業野球連盟ができる前の電鉄リーグ構想のときか、同連盟ができた前後のことと思われる。戦後の2リーグ分立時ではないことだけは確かである。
(敬称略)
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京阪電気鉄道
京阪電気鉄道(京阪、京阪電鉄)は、大阪府・京都府・滋賀県に路線網を持つ関西大手5私鉄のひとつだが、関西以外では知名度が低く、プロ野球ファンの間では、関西大手5私鉄の中で唯一プロ野球の球団を持ったことがないことで知られている。また、京阪自身は京都市営地下鉄東西線に乗り入れているが、関西大手5私鉄の中で唯一他の鉄道会社からの乗り入れがない会社でもある。しかし、一昔前まで日本初となる技術やサービスが多かったなど特徴のある私鉄でもあった。
第一次世界大戦から1920年代にかけ、京阪電鉄は、関西私鉄のなかで最も、野心に満ち溢れた巨大企業であった。京阪は、1910年に大阪と京都を結ぶインターアーバンとして始まるが、1920年代にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光凞(第4代)と2人の社長の下で、立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成していった。当時は、電力会社が戦時統制によってブロック化・専業化される以前であり、電鉄会社の電力事業経営、電力会社の電鉄事業経営が珍しくなかった。
鉄道事業においても、1920年代には、淀川右岸の新京阪鉄道(現、阪急京都本線)の建設や、奈良電気鉄道(現、近鉄京都線)・阪和電気鉄道(現、JR西日本阪和線)への関与、和歌山(和歌山軌道線)への進出など、積極的な拡張策を展開していた。京阪はまさに、関西を代表する巨大企業であった。
京阪本線は、1910年天満橋~五条間が開業。京都・大阪側ともに開業時は中心部に駅を設けることができず、後に延伸。京都側の五条~三条間は、1915年京都市が市電用に取得した特許を利用して建設され、京都市から京阪が借り入れる形で延伸したが、大阪側は開業から半世紀あまりを経た1963年ようやく淀屋橋への乗り入れを果たした。
ところで、京阪本線は、阪神と同様、軌道特許で開業したため、カーブが多く、線路の移設などによる改良が重ねられたが、「京阪電気鉄道カーブ式会社」と揶揄されるなど高速性に欠けていた。また、阪神間における阪神と阪急の激しい乗客獲得競争を見て、京阪本線に対して同じ事が起こらないよう、京阪自身で、淀川右岸に高速鉄道を敷設する計画をたて、当時鉄道院にいた五島慶太の介入もあり、免許が認められると、その敷設を行うための子会社として新京阪鉄道が設立された。
新京阪鉄道は、1928年に天神橋駅(現、天神橋筋六丁目駅)~西院駅間を開業。しかし、1929年に起きた世界恐慌は、既に金融恐慌のおかげで深刻な状態にあった日本経済に決定的な打撃を与え、好況を背景として社債や借入金で規模拡大を図ってきた新京阪鉄道とその親会社である京阪電気鉄道にも多大な影響を与え、京阪グループ全体の負債は当時の金額にして実に1億円(なお当時、省線電車の初乗り運賃が5銭であった)にも達するという、恐るべき状況を招く事となった。
特に新京阪鉄道は京阪間の新線建設に莫大な投資をした上、沿線が人口過疎地域であるため営業は芳しくなく、負債整理と人員削減の目的で京都地下線の工事を残したまま、1930年には京阪電気鉄道本体へ吸収合併され、新京阪線となった。新京阪鉄道は、将来名古屋方面までの路線延長を計画(名古屋急行電鉄)していたが、これも恐慌の影響で立ち消えとなった。
奈良電気鉄道(奈良電)は、京阪と大阪電気軌道(大軌、近鉄の前身)との合弁会社で、京都と奈良を結ぶインターアーバンとして1928年開業。全通時より大軌の奈良線・畝傍線(現、橿原線)と相互直通運転をしていた。京阪とは、1945年に奈良電が京阪に1947年ら京阪が奈良電に乗り入れ相互乗り入れとなった。1963年奈良電を近鉄が合併、近鉄京都線となるが、1968年架線の電圧変更にともない、京阪にとって他私鉄との唯一の乗入線である近鉄京都線との相互直通運転を廃止、他私鉄との乗り入れはなくなった。
(敬称略)
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民都大阪と関西私鉄の繁栄
第一次世界大戦後1920年代から1930年代初頭にかけ、高規格のインターアーバン路線が関西を中心に建設されていった。この時代は、いわば我が国初の大衆消費社会が大都市を中心に出現した時代であり、その中心が大阪であった。事実、大阪の繁栄は際だっていた。関東大震災(1923)と世界大恐慌(1929)の余波からなかなか立ち直れなかった東京の地盤沈下を尻目に、住友や鴻池といった大財閥と船場を中心とする一大繊維産業の隆盛、これに伴う活発な海外貿易と国内の流通、金融市場の活発化、さらに鉄鋼、鉄道、造船などの重工業の発展により、関西経済の力ははるかに東京を凌いでいた。
大阪市は、1925年の市域の拡大もあるが、1920年の125万人(東京同217万人)から10年後の1930年には245万人(東京同207万人)と倍増し、関東大震災の影響、市域拡大の遅れなどによって逆に人口減となった東京を抜いて日本一の巨大都市となっていた。
また、神戸から大阪南部の臨海地域に形成された阪神工業地帯は、大阪などの商業資本と大消費市場、水運を中心とした交通、淀川による用水を背景として日本で最も早く臨海工業地帯として発達し、第二次世界大戦直前に抜かれるまで、京浜工業地帯を上回る日本最大の工業地帯であった。戦後も、近年、中京工業地帯に抜かれるまで、京浜工業地帯に次ぐ規模を誇っていた。
このため大阪には早くから、混雑、公害、住宅問題などの都市問題がおきた。これに対し、大阪は、鉄道の建設、市域の拡張、街路の整備、地下鉄の建設によって対応したが、自治体だけでは対応できず、都市開発を担ったのがインターアーバンとして生まれた私鉄であった。私鉄は、郊外に路線を延ばし地域デベロッパーとして沿線の住宅開発を次々と行っていった。乗客を増やすため、住宅の分譲だけではなく、学校の建設、百貨店などの商業施設の開設などさまざまなアイデアを実行していった。特に、私鉄どうしの競合路線では、熾烈な乗客獲得競争が繰り広げられた。
その中で、スポーツ、なかでも野球への関心も高まっていった。野球人気はこのころ、庶民に定着し始めていた。阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)は、宝塚線の全線開業後、宝塚市を観光地として整備しようと新温泉、遊園地、動植物園を設置、また阪急直属の少女歌劇団(宝塚歌劇団の母体)を結成したが、1922年、この近接地に野球場、テニス場、陸上競技場を併設したスポーツセンターをオープンさせた。2年後の1924年、日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)が関東大震災の影響で運営が困難になり解散したのを受けて、その選手の受け皿として宝塚運動協会を結成。この球場を舞台に活動を行った。
阪神電気鉄道(阪神)は、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の会場であった鳴尾球場が手狭になると、沿線の西宮市武庫川の埋立地に、1924年東洋一の規模を誇る阪神電車甲子園大運動場(甲子園球場)を完成させ、その後、隣接地にスポーツ施設や娯楽施設を次々に整備していった。1929年には、甲子園南運動場と阪神パーク、1930年には甲子園ホテルがオープン、さらに室内運動場、水族館、代プールが完成、さらに1937年には、観客席のあるセンターコートを含む100面のコートを有する国際庭球場も建設している。また、球場付近の埋立地は、通勤客を想定した郊外住宅地が建設されていった。
一方、野球場と住宅地開発とうまく調和するように想定した開発が、近鉄の前身の一つである大阪鉄道が、沿線の藤井寺に住宅地と遊園地を併設した藤井寺球場であった。球場は、1927年に完成し、収容人員は7万人とうたわれた。この球場を挟んで周囲には、上下水道・電灯・電話等の「文化的施設」が完備した勤労者向けの新興住宅地が建設されていった。
ところで、郊外に延びた私鉄網は、大阪郊外の都市基盤を整備していったが、同時に、大阪市の人と富を大阪市の外に持ち出す装置にもなった。大阪郊外の高級住宅地は、灘、西宮、芦屋、宝塚など、ほとんどが大阪市外にある。これは23区内にも高級住宅地を持つ東京と大きく異なる。大阪は富だけでなく、1970年代以降人口を減少させていく。1970年に295万人あった人口が1999年には247万人となり1930年当時の人口に戻ってしまった。
(敬称略)
参考文献
「南海ホークスがあったころ( 野球ファンとパ・リーグの文化史)」永井良和氏・橋爪紳也共著 紀伊國屋書店
「都市の魅力学」 原田泰著 文春新書
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インターアーバンの独自的発展と関西私鉄
日露戦争(1904~5)後の工業化の進展などから、日本の経済成長は着実に進んでいた。そして、1914年に勃発した第一次世界大戦(~1918)によるさらなる経済成長は、大都市の人口集中を激化させた。これにより大都市の中心街はビジネス地域に再編成され、職住の場所的分離が進んでいった。このような背景から、中産階級を中心に住宅を郊外に求める人が激増、大都市と郊外とを結ぶ交通機関は通勤輸送が最重要任務となっていった。
その結果、インターアーバンは頻度、速度、輸送量の三つの点で、その能力を著しく向上させ、京浜・京阪神地区を中心に大発展を遂げるのであった。同時に大都市住民のレクリエーションに対する要求も大きくなり、郊外電車としての発達は彼らの行動範囲をさらに拡げることになった。
こうして1920年代から1930年代初頭にかけ、大都市と郊外を結ぶ我が国における第二世代のインターアーバン路線が阪神急行電鉄(現、阪急神戸本線)、新京阪鉄道(現、阪急京都本線)、阪和電気鉄道(現、JR阪和線)、小田原急行鉄道(現、小田急小田原線など)、東武鉄道(現、東武日光線など)、奈良電気鉄道(現、近鉄京都線)、参宮急行電鉄(現、近鉄大阪線ほか)など建設されていった。
いずれも概して高規格であり、そのなかでも新京阪・阪和・参急等の関西私鉄はレベルが高く、最高速度100km/hを容易に超える高速電車が運行されていた。阪和が運行した超特急に至っては、戦後も14年間破られない日本の表定速度記録をつくったほどである。
このようにインターアーバン的な私鉄路線が関西を中心に盛んに建設されたが、その性質は本家の米国のものとは徐々に乖離するようになっていった。米国のインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、1930年代まで新規路線の開業が続いた。もっとも大きな相違点と言える。第一次世界大戦以降は、日本のインターアーバンは米国のものとは別個に独自の発展を遂げる事になった。
建設時期や、専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴はロサンゼルスのパシフィック電鉄等にも共通した特徴であるが、日本では米国のように、電気鉄道の発展期に自動車の影響をほとんど受けなかった。モータリゼーションの遅れから1930年代までバスの影響を受けず、バスが普及した1930年代以降も道路整備が貧弱であったことから、零細規模な路線を除いてはバスより優位であった。さらに自家用車に至っては1960年代まで競争相手とはならず、路線の近代化などを後年まで継続しておこない得たのである。
さらに日本のインターアーバン各社は、輸送需要の喚起を兼ねた経営多角化に積極的に取り組んだ。電鉄会社が副業として不動産業や遊園地を経営する事例は米国でも多く見られ、駅に併設された市場(フィラデルフィアのレディングターミナルなど)や百貨店(クリーブランドユニオン駅など)も米国の事例が先行するが、長期間に渡って鉄道業と共に安定的な発展を成し遂げ、高い知名度を得るようになったという点で日本の事例は特異的である。
電鉄企業自体がディベロッパーとなった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、小林一三の率いる阪急によって先鞭が付けられたと一般に見なされているが、1930年代以降特に盛んとなり、鉄道事業本体と並んで私鉄企業の重要な収益部門へと成長していった。やがて大手電鉄企業各社は鉄道業のみに留まらず、半ばコングロマリット(多角化大企業)化するという特異な発達経過をたどる。
(敬称略)
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鉄道国有化とインターアーバン
19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本は著しい産業発展を遂げるとともに、鉄道も路線を延ばし、1906年には国有化が実現した。我が国の鉄道事業は、1872年の新橋~横浜間の開業でその幕を開けた。当初は官営鉄道による整備が進められたが、国の財政状況の悪化から、民間資本の導入による民営鉄道の整備に重点が置かれることとなった。その後、政府の富国強兵施策の下で全国的な鉄道網の敷設を促進する等の観点から、幹線鉄道の国有化が進められることとなった。
このころ、米国で発達したインターアーバン(都市間連絡電気鉄道)が日本にも伝わってきた。19世紀の最後の10年間に、米国の中西部(オハイオ、インディアナ、ミシガン、イリノイの各州)では、都市間を結ぶ電気鉄道が急速に発達した。こうした鉄道を「都市と都市を結ぶ電気鉄道」を意味する語「インターアーバン・エレクトリック・レイルウェイ」を略して「インターアーバン」と呼ぶようになった。インターアーバンは、初めから都市間を直結する高速通勤路線として建設され、市街地では路面電車の併用軌道を利用し、郊外では専用軌道を走行した。
インターアーバン路線は既存の鉄道と別個のシステムとして登場したため、既存鉄道の影響を受けることが少なく、経営状態がそれほど良くなかったために増収を図る必要もあって様々な新機軸を生み出し、後の鉄道に影響を与えた。
また、インターアーバンは運行指令において本格的に電話を採用した最初の鉄道システムであった。インターアーバンの建設を進められた時期はグラハム・ベルの電話機の特許が切れ、AT&T以外の長距離電話網が一時的に展開された時期にあたり、インターアーバンの建設を行った資本家や技術者も電話事業に強い関心を持っていたし、電話による運行指令は電信のように訓練された技術者を必要とせず、人件費の節減にも役立った。電話による運行指令は既存の鉄道各社にも広まる事になった。まさに、インターアーバンは当時のIT企業であった。
またインターアーバンのほとんどは、1時間ないしは2時間おきというように等間隔で列車を走らせてたが、ヨーロッパで類似のサービスがインターシティとして行われるようになったのは1934年で、米国のインターアーバンの等時間隔運転は先駆的なものであった。
この米国での成功を受け、最初にインターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道であった。阪神は1905年4月に大阪出入橋~神戸三宮間のインターアーバン路線を開業している。当時の阪神電鉄技師長であった三崎省三は米国での視察結果に基づいて建設・運営を行ったが、従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時建設ブームの真っ只中にあった米国のインターアーバンに範を採ったものであった。阪神と同年の1905年12月には京浜電気鉄道が神奈川まで延伸、品川(東京)~神奈川(横浜)間の都市間運行を行うようになった。
日本での初期のインターアーバンとしては、この他に、1910年の名古屋電気鉄道郡部線、京阪電気鉄道本線の事例などを挙げる事ができる。どちらも、米国のインターアーバンの影響を強く受けていた。特に、名古屋電気鉄道の郡部線は小型車による短距離運行であったが、やはり米国での視察結果をもとに建設され、米国の多くの事例と同じく、市街電車路線を利用して都心部に乗り入れていた。京阪電気鉄道も同様の計画をもっていたが、市街電車路線(大阪市電)への乗り入れは実現しなかった。
鉄道省の運営する国鉄線が、陸軍の方針で電化は砲艦攻撃や空襲を受けると運行が不可能になることを理由に積極的に行われておれなかったため、インターアーバンは、民営鉄道(私鉄)として発展することになる。
(敬称略)
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激震、再び ダイエーの再生機構入りと堤義明の失脚
2004年10月、球界に平穏と熱気が戻った。日本球界初めての選手会ストライキは収束し、来季向けた新規参入球団(ライブドア、楽天)の公開ヒアリングも進められていた。1リーグ制で揺れていたパ・リーグは、落合中日が早々と優勝を決めたセに対し、2シーズン制以来のプレーオフで2位の西武が、3位の北海道日本ハム、1位の福岡ダイエーをそれぞれ接戦の末に破るという熱闘を繰り広げ、ポストシーズンの盛り上がりを見せていた。
同月13日、日本シリーズ開幕を目前にした球界に再び激震が走った。それも数日前、プレーオフで熱戦を繰り広げていた西武とダイエーに球団身売りという経営危機が表面化したのだ。福岡ダイエーホークスの親会社であるダイエー本社の高木社長が、産業再生機構の活用を発表。同じ日、西武ライオンズのオーナーでコクド会長の堤義明が西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載の責任をとって西武グループの全役職を辞任し、オーナー職も日本シリーズ後辞任すると発表した。
ダイエー本社の産業再生機構入りは、1リーグ制を企図した堤、渡邉、宮内が待ち望んでいたものだったが、彼らにとっては遅すぎた。1リーグ化のシナリオは、ダイエー本社が再生機構の傘下にはいれば、税金で球団を経営できないから、ホークスを手放さざるを得なくなる、そのときに乗じて千葉ロッテと合併させようというものであったが、もうひとつの合併の期限とされた9月8日までに再生機構入りはなく、1リーグ化の思惑は消えていた。しかし、再生機構入りの発表によって、福岡ダイエーホークスの売却は時間の問題となった。
しかし、福岡ドームを毎試合満員にする九州唯一の人気球団は、再生機構が悪い条件で身売りするとは考えられなかった。むしろ、西武ライオンズのほうが事態はより深刻であった。西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載の問題は、構造的であり、堤義明による西武グループ支配の構造が崩れる可能性があった。また、西武ドームは、都心から離れ観客動員が伸び悩んでいた。
ホークスは、10月18日ソフトバンクが買収に名乗り出て、結局福岡ソフトバンクホークスとなったが、西武ライオンズは、親会社であるコクド(東京・渋谷、三上豊社長)が、いったん球団売却を決め、複数の企業に打診したことが11月5日明らかになるもまとまらず、同月8日なると一転、三上豊社長は、現時点で球団売却の意思はないと明言し、売却を打診したことも否定した。
実際は、楽天との新規参入争いに敗れたライブドアには香港の外資系証券会社を通じて提案があった。コクド側からは民放キー局テレビ朝日に打診。また、球団買収に意欲を示すCS放送スカイパーフェクト・コミュニケーションズにも話が持ちかけられたもようだ。さらには、サントリー、有線ブロードネットワークス、日産自動車、トヨタ自動車、日本コカコーラ、稲盛和夫最高顧問が堤前オーナーと親交が深い京セラなどにも話があったとされる。
激震はさらに続いた、10月22日明大一場投手への裏金問題が、阪神、横浜でも発覚し、阪神久万オーナー、横浜砂原オーナーも責任をとってオーナー職を辞任している。
10月25日堤義明最後の西武ライオンズが、中日ドラゴンズを4勝3敗で破り、日本シリーズを制した。翌日堤が正式にオーナー職を辞任し、日本一のパレードも行われることはなかった。その後、西武鉄道は12月18日東証一部上場廃止、翌2005年3月3日堤義明は、証券取引法違反(有価証券報告書虚偽記載並びに内部者取引)容疑で逮捕されている。
2004年の球界再編劇で、1リーグ制を企てた3人のオーナーのうち、渡邉と堤が球界から去った。さらに、3球団(大阪近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブ、福岡ダイエーホークス)が消え、3球団(オリックス・バファローズ、東北楽天ゴールデンイーグルス、福岡ソフトバンク・ホークス)が生まれた。オーナーも6人(読売、西武、阪神、横浜、楽天(近鉄)、ソフトバンク(ダイエー))替わった。
ところで、消えた3球団のうちダイエーは元阪急、ダイエーは元南海であり、本を正せば、近鉄を含めすべてパ・リーグ所属の関西私鉄球団であった。この3球団に、セ・リーグの阪神を加えた関西私鉄4球団時代が1950年の二リーグ分立から1988年までの49年間続いた。私鉄王国といわれた関西。近畿日本鉄道に続き、関西私鉄の企業と球団の興亡史を見ていくことにする。その前に、インターアーバンについて、もう少し見てみることにする。
(敬称略)
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新規参入 楽天とライブドア
9月22・23日、名古屋市内にて3度目の団体交渉が実施され、次に示す7項目の合意に達し、一連の球界再編問題に対して、ひとまず「終結宣言」が出された形となった。
①NPBは2005年シーズンにセ・パ12チームに戻すことを視野に入れて新規参加チームの参加審査を行う。
②①について、審査小委員会を設け、1ヶ月程度をメドとして答申に諮る。
③加盟料(新規60億円、譲渡30億円)を廃止し、代って預かり保証金制度を取り入れる。
④小委員会の審査過程を明らかにする(透明化を図る)。
⑤2005年度に新規参加が認められた場合はNPBはそれが円滑に実施できるように協力をする。
⑥選手分配ドラフトへの新規参加チームの参加を認めて、戦力を均衡できるように協力する。
⑦NPBと選手会との間で「プロ野球構造改革協議会」(仮称)を新設する
9月22日楽天の三木谷は、先にプロ野球への加入申請を行ったライブドアが本拠地として申請している宮城球場を本拠地として、「楽天野球団」として24日に加盟申請を行うことを表明。
9月27日の実行委員会で以下の決定がなされた。9月18・19日のストライキに伴う再試合を実施しない。これにより、今シーズンは当初予定されていたセ・140、パ・135からそれぞれ2試合未消化のセ・138、パ・133で打ち切ることになった。公式戦の記録もこれらの試合数を消化した時点のもので決定される。2005年からセ・パ交流試合(日本版インターリーグ)を開催することを正式に決定し、ホーム&ビジターで各3試合ずつの6回総当り(1チームあたり36試合)を実施する。
9月29日のオーナー会議では、27日に開かれた実行委員会の決定どおり、2005年度からの交流試合の開催(ホーム&ビジター各3試合ずつの6回総当り)を正式に承認した。また新規参加を希望する企業への審査小委員会の第1回会合を9月30日に実施し、楽天とライブドアから出されている新規参加計画についての審査を本格開始する。加盟料(新規60億円、譲渡30億円)撤廃後に新たにスタートする「預かり保証金制度」の内訳が決定した。総額30億円で、そのうちの25億円が預かり保証金そのもの。残りの5億円のうち1億円は加盟に際しての手数料、4億円は野球振興基金への寄付となっている。
10月6日、東京で楽天、ライブドアに対する第1回公開審査会(ヒアリング)が開かれた。このヒアリングは審査の公正さ、透明さを明確にするため一般(報道関係者ら)の会場への立ち入りを規制し、それらは別室のモニターテレビでチェックするという形が取られた。
この中で両社に対し、本拠地となる仙台宮城球場の改修に際しての対応、監督・フロント体制、経営面の資金調達などの質疑を交わした。中でも仙台宮城球場の改修については、「楽天:段階的に増改築を施して2005年開幕時には23,000人収容で暫定オープンし、将来的には3万人規模に拡大させる」「ライブドア:2005年のシーズン途中を目途に改修工事を完了させ、3万人収容でオープンさせる」という提案がなされた。改修工事費用についてはそれぞれ親会社が負担し、楽天は32億円程度、ライブドアも20-30億円程度を見込んでいるという。
10月14日に第2回の審査会が行われ、財政面での審議を行った。その中でアダルトサイトの扱いに関して討議され、ライブドアは「サイトは道路や広場を提供しているので何をしているかは監視できない」とし、一方の楽天は「本人確認はクレジットカードなど年齢確認が明確なものを使って厳正にやっているので青少年にはそれを利用できないようにしている」と説明した。
11月2日の実行委員会・オーナー会議で、楽天とライブドアから出されたNPB新規加盟申請の最終審査を行い、資金・財政面や将来性などで勝っている楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)が新規参入を認められライブドア(仙台ライブドアフェニックス)の新規参入はならなかった。これにより、1954年にパ・リーグに新規参入した高橋ユニオンズ以来、半世紀ぶりに新しいプロ野球チームが宮城県・仙台市に誕生することになった。企業の経営体質や将来へ向けた経営の安定性が認められてのプロ野球参入決定となる。
(敬称略)
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初のストライキ 経営者対選手会
8月27日、選手会は日本プロ野球組織を相手取って合併を行わないよう求める仮処分を東京地裁に申し立てた。8月31日、実行委員会は、訴訟の行方を見極める必要があるとして合併承認を見送った。9月3日、東京地裁は「すでに大阪近鉄とオリックスの合併は12球団の代表者会議で承認されている。特別委員会で議決に諮る事項ではない」として選手会側の申立を却下した。
選手会は却下を不服として即時抗告を東京高裁に行ったが、6日棄却された。しかし同時に「日本プロ野球選手会には団体交渉権がある」「団体交渉で誠実交渉義務を尽くさねば不当労働行為にもなる」「日本プロ野球組織の対応は誠意を欠いており、今後は誠実な交渉を求める」とも指摘した。
9月6日、実行委員会は両球団の合併を承認。9月8日、オーナー会議は、近鉄球団とオリックスの統合(合併ではなく、営業譲渡による球団統合に変更)を正式に決定・承認した。もう1つの争点であった「もうひとつの合併」については、堤から対象球団が千葉ロッテと福岡ダイエーであった事が明らかにされたものの、自主再建・球団単独保有に固執するダイエー本社の拒否で「何の進展もなかった」と、計画が頓挫した事が報告された。2005年シーズンは11球団(セ・6チーム、パ・5チーム)で開催されることが確認された。
また交流試合や加盟権料引き下げの問題などについては今後検討課題として話し合いが持たれることになった。選手会は8日の会議内容を受けて、ストライキの実行を示唆した。
このオーナー会議の結果を受けて 9月9・10日の両日、大阪市内にてプロ野球組織(NPB)・球団側と選手会との労使交渉(団体交渉)が行われた。この席で暫定合意点に申し合わせが行われ、これにより 9月11・12日に選手会が予定したストライキはひとまず回避された。しかし、交渉終了後に千葉ロッテ代表・瀬戸山隆三が「近鉄球団とオリックスの合併は覆らない」と、“交渉は形式だけだった”とも受け取れる発言をして選手会を失望させ、ファンとの溝を深めていくことになる(古田選手会長の瀬戸山代表との記者会見場での握手拒否はその象徴的事例)。
暫定合意の内容は、①オリ近合併の1年間の凍結については交流試合など2005年シーズンの日程のシミュレーションを立てた上で改めて検討する、②NPBは加盟料(新規参入60億円、譲渡の場合は30億円)を撤廃し保証金制度を設置する、③ファンの心配を払拭するため2005年度についてはセ:パ=6(以上):5(以上)のチーム数を確保する、④ドラフト制度改革などの専門委員会を設置する、⑤これらの回答期限を9月17日17時としそれによって合意がなされた場合には9月18日以降のストライキを中止する、というものであった。
一方、9月8日のオーナー会議でオリ近の球団合併が承認されたことで、ライブドアは近鉄球団の買収を断念。9月16日運営会社「ライブドアベースボール」を設立し、保護地域を宮城県、専用球場を県営宮城球場としてプロ野球組織に正式に参加申請を行ったことを表明した。一方、前日の9月15日、日本国内最大手のインターネットのショッピングモール「楽天市場」を運営する楽天が、球界参入を検討していることを公式に表明した。
9月16・17日、改めて球団側と選手会の団体交渉が東京で行われた。選手会は近鉄・オリックス両球団の合併の1年間凍結、あるいはライブドアや楽天からの申請(計画)による 2005年度シーズンからの加盟などを求めて話し合いを行ったが、球団側の姿勢(合併凍結は行わない、加盟申請の審査には時間がかかるなど)は変わらず、交渉は難航した。17日の17時までだった交渉期限を2時間延長しても合意には至らず、結果的に同日20時半頃交渉が決裂し、選手会・球団側の双方は21時10分頃より会見を行い選手会側は18・19日のストライキ決行を発表した。
公式戦ストライキはプロ野球70年の歴史で初めてとなった。ストライキ中、各球団選手会は独自にサイン会や握手会などのイベントを開催した。また日本プロ野球選手会は、9月19日に東京で「みんな野球が好きなんだ」をテーマとして「ファンと選手の集い」というイベントを開催した。プロスポーツでは相撲で、1911年、力士たちの待遇改善を要求するストライキが起こり(新橋抑楽部事件)、力士の退職金を支払う制度などができたことが知られている。
(敬称略)
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ライブドア登場ともうひとつの合併話と渡邉オーナーの辞任
6月29日のテレビ東京のニュース番組「ワールドビジネスサテライト」は、「インターネット関連企業のライブドアが大阪近鉄の買収を近鉄本社に申し入れる」と報じ、翌30日にライブドアは記者会見で報道内容を認めた。しかし近鉄・オリックス双方は「既に断っており、今後も申し入れは拒否する」と表明した。
ライブドアに近鉄球団買収を持ちかけたとされる人物が選手会の顧問弁護士であるとライブドアが明らかにしたことから、宮内が選手会会長の古田敦也を非難した。渡邉が「オレも知らないような人が入るわけにはいかんだろう」と、プロ野球組織加入に恣意的要素の存在を疑わせる発言するなど、波紋が拡がった。
7月5日、12球団代表者会議において「両球団の新球団への保有選手は25人とする」「大阪府と兵庫県のダブルフランチャイズを暫定的に2005-07年の3年間認める。阪神も同様に3年間両府県のダブルフランチャイズを認める」とした骨子をまとめた。
7月7日、オーナー会議は代表者会議でまとめられた骨子を大筋で了承したが未確定の条項があるため、正式承認は合併合意書への調印と実行委員会の承認を待って、9月に開催予定の臨時オーナー会議で行うとした。
しかし、オリ近の合併以上に、世間を震撼させたのが、「もうひとつの合併」であった。オーナー会議に、26年ぶりに出席した西武オーナー堤義明は記者会見の席上、「(他のパ)4球団間で新たな合併を模索している」と述べ、オリ近合併の背後で取り沙汰されていた「1リーグ10球団」構想が表面化する。
同日、広島オーナー松田元は「あまりにも話が早く進みすぎる。もっと慎重にすべきだ。あまりにも経営者サイドでものを見すぎだと思う」と警鐘を鳴らしたが、翌日には千葉ロッテオーナー代行の重光昭夫が「来季のパ・リーグを5球団で運営した場合、球団の赤字が5億~10億円程度増加する」との試算結果を明らかにし、1リーグ10球団化の必要性を強調するなど、「第1の合併は規定路線であり、第2の合併を強力に推進する」とのパ・リーグ側の立場は変わらなかった。
プロ野球改革と2リーグ12球団の維持を願う労組・日本プロ野球選手会の古田会長が、オーナー側との直接交渉を求めたことに対し、渡邉が記者に「無礼なこと言っちゃいかんよ、たかが選手が」と発言したことで事態は急転する。
この渡邉の失言は政界や労働組合などでも問題視され、読売新聞購読者から不買運動がネットを中心に起きた。公称では、読売新聞は前年に比べ売り上げ部数を伸ばしたが、実際には数十万部の解約があったとされる。この年、読売新聞は創刊130年という事で渡邉会長自らが新年の訓示で部数1030万部を目指すと発表し、結果は1020万部の伸びにとどまっている。
8月2日、選手会は近鉄とオリックスに対し、合併中止を求める警告書を送付するとともに、根来コミッショナーに対し、「違反行為の合併調印が行われないよう、協約第9条に基づく指令を出す旨」の要望書を送付した。その中で、近鉄が宮内を通じて行われていた身売り先候補との協議が、宮内自らの要請によって打ち切られ、オリックスと近鉄の球団合併へと進んだことが明らかになった。
8月10日オリ近両球団が合併基本合意書に調印、12日には選手会がスト権を確立するなど球界再編騒動の真っ只中の同月13日、明治大学の一場を巡る裏金事件が発覚。渡邉は土井誠球団社長、三山秀昭球団代表とともに責任をとって、滝鼻卓雄読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。この突然の辞任劇には右翼の陰があったことが後日報道された。
一方、近鉄本社・球団の予想以上の抵抗に遭ったライブドアは、近鉄球団を買収できない場合は新球団を設立してプロ野球に参加する方針を固め、8月19日、9月にもプロ野球に参入する姿勢を明かした。新球団は大阪府を保護地域、専用球場は大阪ドーム、球団名は『バファローズ』の名を取得できるよう交渉するとした。
(敬称略)
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大阪近鉄とオリックスの球団合併
1992年読売新聞社長に就任し読売グループを掌握した渡邉恒雄は、「巨人」改革に乗り出す。当時、巨人は、視聴率が低迷(といっても、藤田監督の1989-92年で20%)し、日本シリーズの優勝も1974-92年の19年間でわずか2回という惨状であった。渡邉は、1993年監督に長嶋を復帰させると、西武の堤義明と共闘し、「脱退・新リーグ結成」をてこに、FAとドラフト逆指名の導入に成功する。
西武鉄道グループの堤義明は、福岡野球株式会社からライオンズを買収し、1979年西武ライオンズをスタートさせ、巨人への闘いを挑む。この闘いは80年代終わりには常勝西武という形で達成されたかにみえたが、勝っても負けても巨人人気は、変らなかった。このため、西武は1リーグ制により巨人を直接倒すことが目標になっていた。
日本初のリース会社であるオリエント・リースの宮内は、1989年オリックスへの社名変更にあわせ、阪急ブレーブスを買収(1988)し、「オリックス・ブレーブス」(専用球場は西宮球場)で球界に参入。1991年から神戸に本拠地を移し、「オリックス・ブルーウェーブ」となる。渡邉や堤と異なり、少年時代からの野球好きを自認し、球団経営に意欲を見せたが、最近は赤字続きの球団経営に情熱がなくしたといわれる。
渡邉の策略によって導入されたFAと逆指名は、バブルの崩壊で失われた10年間といわれた時代にもかかわらず、選手年俸と新人の契約金を高騰させ、球団経営を圧迫することとなった。特に巨人戦のないパ・リーグへの打撃が大きかった。一方、巨人も、FA補強の失敗と若手育成の失敗という副作用を生み、さらに長嶋の監督引退、松井秀喜のメジャー流出によって人気低下は誰の目にも明らかであった。
人気続落傾向に歯止めをかけたい巨人、巨額の赤字に喘ぐパ・リーグ。球団数を減らして1球団当たりのファンを確保するとともに新鮮な対戦カードによる人気回復を図りたい渡邉、堤、宮内の思惑が球団合併による1リーグ化で一致した。
渡邉恒雄は、公称1千万部を誇る読売新聞主筆にして読売新聞グループ本社会長、政界にも隠然たる影響力を持つ言論界の重鎮。堤義明は、コクド会長で西武グループ総帥、JOC名誉会長・IOC名誉理事、財界とスポーツ界の重鎮である。宮内義彦は、オリックス会長で規制改革・民間開放推進会議議長も務める若手経済人のリーダーである。
各界の重責を担う三人に加え、法務事務次官や東京高等検察庁検事長を歴任し、1996-2002年まで公正取引委員会委員長を務めた法と経済の番人、根来泰周が2月1日第11代コミッショナーに就任。2004年、1リーグ化へ布陣としてこれ以上のものはない。
球団名売却事件を契機に1リーグ化のターゲットは、大阪近鉄バファローズに替わった。近鉄の身売り先を探していた宮内は、渡邉の1リーグ化の意を受けると、近鉄本社にオリックスとの球団合併を迫り、近鉄本社もまた球団合併に傾いていった。大阪市は、「大阪シティドーム」が6月にも、特定調停を申請する方針を市議会に示しており、近鉄にはタイムリミットが迫っていた。
6月13日近鉄・オリックス(オリ近)の球団合併が日経にスクープされ、近鉄本社と近鉄球団は同日記者会見を開いて交渉の事実を認める。赤字であれば身売りをすればいいのだが、近畿日本鉄道の山口社長は、「身売りを考えたが、買い手が見つからなかった」と合併を正当化しようとした。
パ・リーグは6月17日理事会を緊急招集。両球団から事実関係の説明を受けた他4球団は、合併に事実上の賛意を示した。一方、選手で組織する労組・日本プロ野球選手会は6月18日に声明を出し、「議論が十分尽くされていないにも関わらず、球団数減少止む無しとのムードが作られている。本当に大阪近鉄の買い手はいなかったのか」との危惧を明らかにした。
6月21日、合併承認への第1関門である実行委員会が開かれ、セ6球団を含めた10球団は合併を「了承」した。しかし、この時点では、選手に対する救済措置や保護地域をどこにするかなど未確定の部分が多く、合併に必要な手続である「承認」は得られなかった。また、大阪ドームの特定調停の話も、近鉄・オリックスの球団合併問題で延期されることとなった。
(敬称略)
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