Wind Back Number
8
wind1 №1~100(2002/01/22~2002/06/15)
wind2 №101~200(2002/07/11~2003/03/02)
wind3 №201~300(2003/03/08~2004/02/07)
wind4 №301~400(2004/02/08~2004/11/27)
wind5 №401~500(2004/11/30~2005/08/16)
wind6 №501~600(2005/08/17~2006/02/18)
wind7 №601~700(2006/02/19~2007/02/05)
wind8 №701~800(2007/02/06~2007/10/30)
wind9 №801~(2007/10/30~ )
![]()
№800(2007/08/18) 3 クラブの出現
№799(2007/08/14) 2 ケンブリッジ・ルール
№798(2007/08/13) 特集 フットボールの分化
1 パブリック・スクールとジェントルマン階級
№797(2007/10/08) 第5章第13節 キウィズ
№796(2007/10/08) 第5章第12節 ニュージーランドにおけるラグビー・リーグ
№795(2007/10/08) 第5章第11節 オールゴールズ
№794(2007/09/30) 第5章第10節 スーパー・ラグビー前史
№793(2007/09/29) 第5章第9節 スーパー・ラグビー
№792(2007/09/24) 第5章第8節 ニュージーランド航空カップ
№791(2007/08/15) 映像資料⑦ ニュージーランド・ラグビー
№790(2007/08/12) 参考④ 中産階級とジェントルマン階級
№789(2007/08/11) 第5章第7節 オールブラックス
№788(2007/08/10) 第5章第6節 無敵(Invincible)のラグビー
№787(2007/08/09) 第5章第5節 キウィ・イングリッシュ
№786(2007/08/08) 第5章第4節 ニュージーランドの独立
№785(2007/08/07) 第5章第3節 マオリ戦争とゴールドラッシュ
№784(2007/08/06) 第5章第2節 ウェイクフィールド計画
№783(2007/08/05) 第5章 ニュージーランド編
第5章第1節 ニュージーランドのはじまり
№782(2007/07/23) 第4章第5節 オーストラリア編あとがき
№781(2007/07/22) 参考映像⑥ ラグビーユニオンとサッカー
№780(2007/07/21) 第4章第4節 エスニックスポーツとしてのサッカー
№779(2007/07/20) 第4章第3節 アソシエーション・フットボールの到来
№778(2007/07/19) 第4章第2節 ラグビー・ユニオンの新時代
№777(2007/07/18) 第4章 オーストラリアのラグビーとサッカー
第4章第1節 大分裂後のラグビー・ユニオン
№776(2007/07/17) 参考映像⑤ ラグビー・リーグ
№775(2007/07/16) 第3章第10節 ナショナル・ラグビー・リーグ(NRL)
№774(2007/07/15) 第3章第9節 スーパー・リーグ戦争
№773(2007/07/14) 第3章第8節 オーストラリアン・ラグビー・リーグ(ARL)
№772(2007/07/12) 第3章第7節 ラグビー・リーグ
№771(2007/07/11) 第3章第6節 「大分裂」前のラグビー・フットボール
№770(2007/07/10) 第3章第5節 アンビバレンスなオーストラリア
№769(2007/07/09) 第3章第4節 白豪主義から文化多元主義へ
№768(2007/07/08) 第3章第3節 ガリポリ・ナショナリズム
№767(2007/07/07) 第3章第2節 シドニーとメルボルン
№766(2007/07/06) 第3章第1節 オーストラリア連邦の成り立ち
№765(2007/07/06) 第3章 オーストラリアン・ラグビー・リーグ
№764(2007/10/21追補) 第2章第12節 オーストラリアにおける近代スポーツの誕生
№763(2007/10/21追補) 第2章第11節 オーストラリアの階級社会
№762(2007/10/21追補) 第2章第10節 州都への人口集中と郊外の形成
№761(2007/07/05) 参考資料③ 大英帝国の支配階級 ジェントルマン
№760(2007/06/27) 参考映像④ インターナショナル・ルールズ・フットボール
№759(2007/06/26) 参考映像③ これがオーストラリアン・ルールズ・フットボールだ
№758(2007/06/25) 第2章第9節 オーストラリアン・ルールズの全豪的な熱狂
№757(2007/06/24) 第2章第8節 VFLからAFLへ
№756(2007/06/23) 第2章第7節 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
№755(2007/06/22) 第2章第6節 オーストラリアのフットボール事情
№754(2007/06/21) 第2章第5節 マイトシップとフロンティア・スピリットの違い
№753(2007/06/20) 第2章第4節 マイトシップ
№752(2007/06/19) 第2章第3節 流刑植民地
№751(2007/06/18) 第2章第2節 オーストラリアの歴史
№750(2007/06/17) 第2章 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
第1節 ゴールドラッシュとジャガイモ飢饉
№749(2007/06/16) 参考資料② 交通革命と通信革命
№748(2007/06/12) 参考映像② これがハーリングだ!!
№747(2007/06/11) 参考映像① これがゲーリック・フットボールだ!!
№746(2007/06/10) 第11節 アイリッシュネスとゲーリック・ゲームス
№745(2007/06/09) 第10節 英国とアイルランドのつながり その他
№744(2007/06/08) 第9節 英国とアイルランドのつながり アスレティシズム
№743(2007/06/07) 第8節 英国とアイルランドのつながり 上層階級
№742(2007/06/06) 第7節 アイリッシュ・ナショナリズム
№741(2007/06/05) 第6節 GAAとクロークパーク
№740(2007/06/04) 第5節 ゲーリック・ゲームス
№739(2007/06/03) 第4節 ジャガイモ飢饉
№738(2007/06/02) 第3節 英国によるアイルランド併合
№737(2007/06/01) 第2節 ケルトとカトリック
№736(2007/05/31) 第1章 ゲーリック・ゲームス 第1節 聖パトリック・デー
№735(2007/05/30) 参考① 英国の近代小史
№734(2007/05/28) 第3節 WASPとアイルランド
№733(2007/05/27) 第2節 英米産のスポーツ
№732(2007/05/26) 白人移住植民地を通してみた英米スポーツ
プロローグ 第1節 欧米か
№731(2007/03/23) 希望枠自粛の動きと選手会のCS拒否
№730(2007/03/22) 紛糾の種
№729(2007/03/21) アマの反発
№728(2007/03/21) NPBよ! 池井先生の思いを聞け
№727(2007/03/21) 来年のドラフトから希望枠撤廃って、何?
№726(2007/03/19) 聖パトリック・デー
№725(2007/03/18) 野球統制令と学生野球憲章
№724(2007/03/17) プロアマ会議
№723(2007/03/16) baseball wind today
№722(2007/03/15) さまよえるドラフト改革(7) 口止め
№721(2007/03/14) さまよえるドラフト改革(6) 白紙へ
№720(2007/03/13) さまよえるドラフト改革(5) その後の動き
№719(2007/03/12) 四国アイランドリーグの石毛社長退任
№718(2007/03/11) さまよえるドラフト改革(4) 西武球団の裏金供与
№717(2007/03/09) 欧米か(3) 「足と脚のフットボール」
№716(2007/03/08) 長崎県民球団「長崎セインツ」
№715(2007/03/04) 欧米化(2)
№714(2007/02/27) さまよえるドラフト改革(3)
№713(2007/02/26) 欧米か
№712(2007/02/25) さまよえるドラフト改革(2)
№711(2007/02/22) 消えた球場巡りツアー(3)
№710(2007/02/21) アフ友通信(1)
№709(2007/02/18) 消えた球場巡りツアー(2)
№708(2007/02/15) 消えた球場巡りツアー(1)
№707(2007/02/14) フリードマンの罠
№706(2007/02/13) 少子化の原因
№705(2007/02/12) ハケン会社の品格
№704(2007/02/11) 温暖化のなかの氷河期
№703(2007/02/10) 自由の鳥を探せ
№702(2007/02/09) さまようドラフト改革
№701(2007/02/06) ロストジェネレーションの数字マジック
![]()
№800(2007/08/18) 3 クラブの出現 |
|||
|
3 クラブの出現
1850年代から60年代、この時期には鉄道を始めとする交通機関が発達したこともあり、フットボールはパブリック・スクールや大学を卒業した人たちによって全英各地に広められ、各地の地方都市では学校以外でも地域、職場、教会のクラブチームが設立され、急速に一般大衆レベルまで競技が普及する。民俗フットボールの時代以来、競技が少し形を変えて、一般大衆の元に回帰してきた。 この時期は、いわゆる第二次産業革命とも言われ、産業が紡績などの軽工業から重工業に移行する時期で、労働者の労働条件は劣悪なものがあった。しかし、余暇に行うスポーツという概念が人々に徐々に芽生え、それまで基本的に富裕層のものだったフットボールが大衆レベルに浸透し始める。 1843年、ロンドンにある医療学校ガイ・ホスピタルに世界で最初のフットボール・クラブが設立されたが、このクラブはラグビー校式のフットボールを行う職場のクラブだった。1854年には、アイルランドにあるダブリン大学で世界最初の大学フットボール・クラブが設立されているが、これもラグビー・クラブであった。 その後、1858年ブラックヒース、リヴァプール、1860年マンチェスター、1861年リッチモンドと、地域のラグビー・クラブが続々と設立され、1864年のブラックヒースとリッチモンドによる試合が現存するラグビー・クラブが行った最古の公式試合とされている。 また、初期のラグビー・クラブで中心的な役割を担ったのが、現存する最古のラグビー・クラブと言われるブラックヒースであった。ブラックヒースは、ロンドン南東部にあったブラックヒース職業学校の卒業生と地元の住人たちによって結成された。このクラブは、11条からなる独自のルールに則ったフットボールをしていたが、これはラグビー校のフットボールに類似したものであった。 ルールの10条では、スクラムの中で相手選手の首を絞めることが禁止されていたが、わざわざこのようなプレーを禁止するということ自体、このクラブのフットボールがかなり荒っぽいことを示している。ハッキングは、背後からのもの、膝から上へのもの、またボールを持っていない選手に対するものは禁止されていたが、それ以外は認められていた。この点からもブラックヒースのフットボールが相当乱暴なものであったことが分かる。そして、この点が、後のフットボール・アソシエーション設立の際に大きな問題となる。 一方、ハロー校やイートン校やケンブリッジ大学の系統に属するフットボール、つまり、ランニング・インを認めないタイプのフットボールを行うクラブでは、1857年にシェフィールド・クラブが設立されたが、このクラブは、パブリック・スクールや大学と直接の関係を持たずに作られた最初のクラブとされ、また、シェフィールド・ルールと呼ばれる独自のルールを作ったことでも知られている。 11条からなるシェフィールド・ルールは、ハッキングとランニング・インを禁止しており、明らかにラグビー校式のフットボールとは対立するものであったが、ボールを手で叩いたり押しながら前に進めていくことは認められていた。 ロンドンでは、1860年ハロー校の卒業生によりフォレスト・クラブが設立され、1862年に設立されたバーンズ・クラブとよく試合をした。1861年には、クリスタル・パレスというクラブが設立されたが、これは、1851年の万博でハイドパークに建設され、その後、ロンドン南郊シグナムに移築された水晶宮(クリスタル・パレス)の従業員が作ったクラブである。 出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社 ところで、フットボール・クラブの設立年の確認のために利用したウィキペディアの「最古のフットボール」の一覧表をみれば分かるように、オーストラリアン・ルールズ・フットボールを行うメルボルン・フットボール・クラブが1858年に設立されているが、このクラブは世界最古のフットボールに数えられるものであり、オーストラリアン・ルールズの先駆性は評価されるべきである。その後、1859年にはジロング、メルボルン大学、1860年には金鉱で有名なバララットと、オーストラリアン・ルールズのクラブが続々と設立されていった。up http://en.wikipedia.org/wiki/Oldest_football_club |
|||
№799(2007/08/14) 2 ケンブリッジ・ルール |
|||
|
2 ケンブリッジ・ルール
アーノルドは、中産階級の子弟を積極的に受け入れ、貴族や上流階級の子弟の受け入れを減らしていった。結果的に、ラグビー校はブルジョア、中産階級の子弟の学校となり、イートン、ハローなどの伝統校は、貴族、上流階級の子弟の学校という区分けができてしまった。 この異なった2つのタイプのパブリック・スクールを出た生徒たちは、次のステージ、大学でフットボールの大論争を交わすことになる。この論争での主役は、ランニング・インを認めるラグビー校式ルールを主張するラグビー校派とランニング・インを認めず、足を使ったドリブルによる現在のサッカーに近いルールを提唱するイートン校派である。 特にイートン校の卒業生は、完全にランニング・インを否定するルールでフットボールを行っていたためにラグビー校派と真っ向から対立することとなった。技術的な争点以外に、この論争にはラグビー校を筆頭とする新興パブリック・スクールと、イートン校、ハロー校などの伝統校とのプライドをかけた一戦という局面があったことは否めない。 パブリック・スクールの中でも新参者で、中産階級出身者が多いラグビー校が行っていた荒々しいフットボールは、貴族や上流階級出身者が多く占めるイートン校の卒業生たちからは野蛮であると軽蔑されていた。 ところで、現在の英国では、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの地域に約100校の大学があるが、多くは第二次世界大戦後に創設された大学であり、19世紀の英国にはごく少数の大学しかなかった。19世紀初頭の時点で具体的に見てみると、イングランドには数百年の歴史を誇るオックスフォード(11世紀頃創始)、ケンブリッジ(1290年創始)の二大学があるだけで、他にはスコットランドにセント・アンドリューズ大学(1411年創始)、グラスゴー大学(1451年創始)、アバディーン大学(1495年創始)、エディンバラ大学の4大学を数えるのみであった。19世紀の間にダラム大学、ロンドン大学、マンチェスター大学、リヴァプール大学、リーズ大学といった大学が成立していくが、19世紀松の時点でも大学の数は、10校ほどしかなかった。 なお、この当時英国に併合されていたアイルランドには、1592年にイングランド女王エリザベス1世の勅令によって設立されたダブリン大学(トリニティ・カレッジ)がある。 結局、19世紀にしばしばオックスブリッジと呼ばれる、中世以来の古い大学オックスフォードとケンブリッジが、新興の大学とは比較にならない圧倒的な力と権威をもっていたのであり、エリートの卵であるパブリック・スクールの生徒たちのなかにも、卒業後この二つの大学に進学した者が少なくなかった。その結果、オックスフォード、ケンブリッジの両大学で、パブリック・スクール出身の学生たちがフットボールをするようになったのであるが、フットボールの歴史にとって特に重要な舞台となったのはケンブリッジ大学であった。 ケンブリッジ大学では、1839年にラグビー校の卒業生たちによる最初のフットボール・クラブが組織された。これに対し、イートン校出身の学生は、ハロー校出身の学生と共同戦線をはって、いろいろな学校の卒業生が一緒にプレーするするためには統一ルールを作るべきだと主張した。それに対して、ラグビー校の卒業生は、ランニング・インを認めないイートン校やハロー校の卒業生と一緒にプレーをすること望まず、反対に自分たちのルールに従うことを要求したため、両派の折り合いはつかなかった。 しかし、ついに1848年、有力パブリック・スクール出身者の代表が集まり、学内で行うフットボールのルールに関する会議が開催された。当然両者の激論が続き、8時間にも及ぶ長い会議になったが、非パブリック・スクール出身者の仲裁が功を奏し、ケンブリッジ・ルールなる学内統一ルールが作成された。 ラグビー校出身者にとして残念なことに、このケンブリッジ・ルールでは、彼らの主張したランニング・イン(ボールを手に持ってゴーに向かって走ること)、ハッキング(脛蹴り;相手選手の向こうずねを蹴ること)、トリッピング(躓かす行為;足で相手選手をひっかけてつまずかすこと)などの導入は全て却下された。結果的には、イートン校、ハロー校側の提唱するドリブルによるゲーム形式が採用され、伝統校派が押し切った形で会議は終了した。もちろん、この会議の出席者がその重要性に気づく術はなかったが、この会議は、ラグビーとサッカーが袂を分かつことになった歴史的な分岐点となったである。 ただし、ケンブリッジ・ルールではまだ、フェア・キャッチ(相手キックによるフライボールをノーバウンドでダイレクトキャッチすることで、フリーキックの権利を得る)が認められていたし、ラグビー校派は引き続き自分たちが信奉するルールでフットボールを行った。ところで、フライボールをダイレクトキャッチすることにより攻守が入れ替わるというルールは、クリケットやベースボールのような「バット・アンド・ボール」ゲームとの共通性が垣間見られ、スポーツ史的にもっと注目されていい点である。 出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社up |
|||
№798(2007/08/13) 特集 フットボールの分化
|
|||
|
1 パブリック・スクールとジェントルマン階級
パブリック・スクールは、中世にできたウィンチェスターとイートンは別格として、ラグビー、ハローなど古典的有名校の大部分は16世紀に創立された。当初は、所在地の地域の貧しい家庭の子供たちに開かれた、月謝の払う必要のないフリー・スクール(無月謝学校)として、また、奨学金が給付されて勉強する給費生を多く持つ学校として出発した。いずれの学校も寄付による基本財産を基金としてもっており、学校の運営は授業料に依存していなかった(基金立学校)。 ところが、基金立学校は、インフレが起こると教師の給料は著しく低くなった。そこで教師の低給料を改善するために、授業料や寮費を自己負担する自費生を受け入れるようになり、次第に自費生が増えていった。また、寄宿学校の場合には、次第に学校が所在する地域だけでなく、全国各地から生徒を集めるようになっていった。さらに、17世紀には、それまで家庭教師を雇って教育していた上流階級で子弟をこれらの学校に行かせ始めた。こうしてパブリック・スクールは、18世紀後半には上流階級の子弟の学校になっていった。 ところが、そこでの教育を受け持つ校長や教師は、上流階級の子弟である生徒たちよりも低い階級に属する人々であった。そのため、生徒たちの教育やしつけに関して問題が生じるようになった。生徒たちは、自分よりも低い階級に属する校長や教師に指導されることを嫌がり、彼らを見くびって馬鹿にし、指導に従おうとしなかった。 当時のパブリック・スクールは、プリーフェクトと呼ばれる監督生を中心とした最上級生が、校長や教師を凌ぐ大きな力を持ち、他の生徒たちの上に君臨していた。また、上級生がファッグと呼ばれる下級生に私的な雑用をさせる慣習があり、上級生は下級生を相手に日常的にいじめや乱暴な悪ふざけを行っていた。そのような状況で、フットボールは上級生が下級生に権力をふるうための一つの手段になっていた。 このような中、1828年にラグビー校の校長に就任したトマス・アーノルドは、1842年に急逝するまでパブリック・スクールの抜本的改革を断行する。 アーノルドは荒れた生徒たちに対し、まず「筋肉的キリスト教」を通じて、レベルの高い道徳意識を説き、真のジェントルマンとしての人格教育を行う。毎週日曜日に彼は生徒たちに辛抱強く説教を説き、徐々に生徒たちの支持を得ていく。 次に、以前より問題視されていたプリーフェクト・ファッグ制を逆に改革に利用するため、正式に認め制度化した。上級生の代表者が下級生を正しく指導する組織を作り、この代表という役職に名誉を与える。代表になった者は、皆からエリートとみなされ、統率力、リーダーシップを期待される。そして、教師たちはこの代表を管理することで、生徒たちの生活態度を改善することができた。 仕上げはフットボールである。アーノルドはそれまでパブリック・スクール全般に行われていた狩猟や射撃のような主に上流階級が好んだ個人スポーツを嫌い、生徒たちにはフットボールなどの団体スポーツを積極的に取り入れた。集団で行うスポーツは学生同士が助け合い、尊敬し合う中で競技が行われ、彼の提唱するジェントルマン養成という目的にも好影響を与えると考えられたからである。 アーノルドは当時、資本主義の発達で徐々に層を拡大してきたブルジョア階級、つまり、第二階級と呼ばれた商工業に従事している中産階級の子弟を積極的に受け入れ、貴族の子供の受け入れを断った。そのため、ラグビー校は、中産階級の子弟の学校という色彩を強め、依然として貴族や上流階級の子弟の多かったイートン校やハロー校とは対照的な位置にいた。 中産階級の親たちは、きちんとした教育、規律を学校に求めたため、アーノルドの改革を支持した。それとは対照的に、貴族や上流階級の親たちは、従来のプリーフェクト・ファッグ制は、いずれは支配階級の一員となる子供たちを訓練するための絶好のものであるとし改革の必要を認めなかった。 しかし、1830年代のパブリック・スクールでは、社会的に力を増してきた中産階級からの要求が強まったため、保守的な上流階級も譲歩を余儀なくされ、イートン校やハロー校でも他のパブリック・スクール同様に、プリーフェクト・ファッグ制の改革がなされていった。 ところで、パブリック・スクールは、1830年代300年のブランクをおいて急増期を迎える。1930年代以降、中産階級の子弟が大挙してパブリック・スクールに殺到するようになる。目的は言うまでもなくジェントルマンになるための教養を身につけるためであった。その結果、この時期パブリック・スクールの増加ぶりは史上空前で、40校から50校が新設、あるいはグラマー・スクールからの格上げされた。 19世紀の中頃になると、アーノルドの教え子や部下の中から、これら新設校の校長に招かれる人が次々にでて、その人たちのラグビー校式の学校運営が成果をあげたために他校の校長たちもアーノルドを模範とするようになった。そして、この英国全土に広がった改革は同時にラグビー校式ルールのフットボールの普及という別の効果をもたらすこととなった。 出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社up |
|||
№797(2007/10/08) 第5章第13節 キウィズ |
|||
|
13 キウィズ
1926年、NZRU(ユニオン)は、NZRL(リーグ)が代表チームなどに「オールブラックス」を名乗ることを禁止する法的措置をとった。リーグ側は、オールブラックスを放棄する気は無かったが、この時までに、リーグ代表チームのジャージのキウィのエンブレムから、新聞紙上では、リーグ代表チームのニックネームに「キウィズ」という名前が使用されており、リーグ側が、その使用を阻もうとしたのにも関わらず、「キウィズ」の名は、それ以降定着した。 キウィズは、1948年から1951年までどんなテスト・シリーズでも不敗で、9試合で6勝した。1961年から63年の間は、10回の国際マッチに7つの勝利(世界一ラグビーリーグ国英国戦での2連勝を含む)し、1962年には、英国を19-0の記録的な勝利を飾っている。 オーストラリアには、国際大会で1987年7月13-6で勝利したが、この頃は、オーストラリア・カンガルーズには珍しく低迷期で、その後のニュージーランドで行われた4回の国際大会全てにオーストラリアが勝利している。 キウィズは、ラグビー・リーグ・ワールドカップに、1度も優勝していないが、これまでに2度決勝戦に進出している。1988年は、英国を押しやって決勝戦に進出し、オークランドのエデン・パークで、ニュージーランド・ラグビー・リーグ史上最大の、47,363人の大観衆を集めたが、結局はカンガルーズの勝利に終わった。キウィズは、2000年に再び、ワールドカップ決勝に進出したが、40-12でカンガルーズに再度敗れた。 2002年以降、『ニュージーランドA』チームは、国内大会から選出されるようになったが、ニュージーランドAチームは、2002と2003年の英国、フランス、米国に遠征。2004年には、ニューサウスウェールズのチームを迎えた。 2005年キウィズは、ニュージーランド、オーストラリア、英国の三国間で競われるトライ・ネイションズのタイトルを獲得し、事実上の世界チャンピオンとなった。2005年はキウィズにとっても最も偉大な年になった。キウィズは、半世紀で初めてシドニーでカンガルーズを破り、ロンドンでは英国を最高得点で破った。決勝戦は、英国リードで、カンガルーズと対戦し24-0と完封で勝利した。 そう、2007年はニュージーランドのラグビー・リーグ誕生百年祭なのである。 ところで、オールブラックスは、IRBラグビー・ワールドカップ準々決勝でフランスに敗れた。up |
|||
№796(2007/10/08) 第5章第12節 ニュージーランドにおけるラグビー・リーグ |
|||
| 12 ニュージーランドにおけるラグビー・リーグ プロ・オールブラックスの英国遠征の発起人であるバスカービルは、なんとオーストラリアの地で肺炎で客死してしまう。このため、バスカービルの追悼試合が、ニュージーランド初のラグビー・リーグの試合となった。7,000の観衆を前に1908年6月13日にウエリントンで、帰国した遠征チームが二つチームに分かれ、NRUのルールで試合を行った。バスカービルの貢献に対し、今日、バスカービル・シールド(楯)として英国とニュージーランドの間で対抗戦が行われている。 ラグビー・リーグはしっかりとニュージーランドの地に根を下ろした。ところがニュージーランド・ラグビー・ユニオン(NZRU)は、ニュージーランド社会のあらゆる面で強固に結びついており、ラグビー・リーグは、オーストラリアや英国よりも厳しい状況におかれていた。 NZRUは、ラグビー・リーグへの転向者がでる余地を少しでも与えないよう、選手や当局、スポンサー、オーナーに圧力をかけたが、ラグビー・リーグの浸透は止まることはなかった。ニュージーランド・ラグビーリーグ(NZRL)が1909年に設立され、1910年までに、オークランド、タラナキ、ロトルア、ネルソン、サウスランド、ワンガヌイ、マールボロ、インバーカーギル、ホークス・ベイそして南オークランドでクラブが設立された。さらに、他州で多くのクラブがリーグに加わった。 その後の1912年、オークランド・ラグビー・リーグが、エデンパークに本部をおき、定期大会を開催、フルシーズンを戦った。同年、ウエリントンではラグビー・リーグの地方大会が行われた。 ニュージーランドのラグビー・リーグは、1918~1939年の間に確立され、第二次世界大戦以降大きな進歩を遂げた。しかしながら、第二次大戦中の1939~1945年には、ロトルア、オタゴ、ノースランドなど多くの強豪チームが休止に追い込まれ、その後復活しないか、多くの選手を失い大打撃を受けた。 皮肉にも、ニュージーランドは国際的ラグビー・リーグを設立し、英国のプロ・ラグビーを強化する役割を果たし、オーストラリアのプロ・ラグビーに援助を与え、ニューサウスウェールズ・ラグビーユニオンの設立に貢献した。しかし、ニュージーランド国内では、海の向こうでの成功を再現することはできなかった。 ニュージーランドのクラブ・チーム(オークランド・ウォリアーズ)は、1995年にオーストラリアのトップリーグであるARLラグビーに参加。オーストラリアのラグビー・リーグ界を根底から揺り動かしたスーパーリーグ戦争では、NZTLは、英国と同様、スーパーリーグに同調した。ウォリアーズは、スーパー・リーグとARLの統合時、多くの拡張チームが切り捨てられるなか、NRLに参加し続けた。2001年には、クラブ名をニュージーランド・ウォリアーズに変更された。 国内では、NZRLがニュージーランドでラグビーリーグの統括組織とされるが、その中でも、オークランド・ラグビーリーグが、NZRLのパートナーとして、ラグビー・リーグの中心地であるオークランド地域を統括している。 NZRLのトップ・リーグとして、バーターカード・カップが2000年から2007年まで8季続いていたが、NZRLは来季(2008)は、バーターカード・カップを実施せず、代わりに国内クラブ・トーナメントを開くと発表。バーターカード・カップと同様の大会として、1994~6年にかけて、ライオン・レッド・カップがある。なお、2007年のバーターカード・カップのチーム数はオークランドなど10チーム。 ニュージーランドには、このほかにもオークランド地域をはじめ、ベイ・オブ・プレンティ、カンタベリー、コーストライン、ギスボーン、ホークス・ベイ、マナワツ、ネルソン/マールボロ、ノースランド、オタゴ、サウスランド、タラナキ、ワイカト、ウエリントンそしてウェスト・コースト等と小さな大会が数多く存在している。up |
|||
№795(2007/10/08) 第5章第11節 オールゴールズ |
|||
|
11 オールゴールズ
南太平洋選手権、さらにはスーパー12へと南半球のラグビー・ユニオンを動かした裏にはいつもオーストラリアのラグビー・リーグの存在があった。オーストラリアでは、ラグビー・リーグがオーストラリアン・ルールズ・フットボールと人気を二分し、ラグビー・ユニオンは長い間に第三のフットボールの地位に甘んじていた。ところで、このラグビー・リーグをオーストラリアにもたらしたのは他でもないニュージーランドのプロチームであった。 1905年ニュージーランド・ラグビーが世界のトップであることを知らしめたオールブラックスの英国遠征で、選手たちは、英国でノン・アマチュアであるノーザン・ユニオン(NRU)のラグビーが発展し人気を得つつあるのを目の当たりにした。1906年ニュージーランドへの帰路の途中、オールブラックスの一員であったジョージ・スミスはオーストラリアの実業家J.J.ギルティマンと出会い、オーストラリア・ニュージーランドにおけるプロ・ラグビーの可能性について話し合った。 一方、ニュージーランドでは、元ラグビー選手のアルバート・ヘンリー・バスカービルが、英国遠征の準備を進めていた。ウェリントンの郵便局に勤めていたバスカービルが、同僚の落とした英国の新聞に、4万人以上の大観衆で埋まるNRUの試合の記事が載っていたことに触発されたと言われている。 バスカービルは、ニュージーランド・プロチームの英国遠征をNRUに打診。NRU側は、1905年のオールブラックスの衝撃が未だ記憶に新しく、NRUにとっても、NRU式のラグビー(ラグビー・リーグ)の普及と財源を確保する絶好の機会であるとして受け入れることにした。NRUは、条件として、遠征メンバーの中に1905年のオールブラックスのメンバーを何人が含めることを挙げた。こうした中、帰国したジョージ・スミスは、バスカービルの計画に賛同し、二人は協力して選手との契約を進めた。 ニュージーランド・ラグビー・ユニオン(NZRU)は、バスカービルの遠征計画に気づくと、オールブラックスのメンバーにその遠征には参加しないよう圧力を掛けるとともに、ロンドンのニュージーランド政府代表部を通して英国の新聞に遠征計画の中傷記事を載せた。ところが、これらNZRUの妨害工作は、ほとんど影響を与えることはなかった。そして、その頃までには、プロフェッショナル・オールブラックスは、英国に向け出航していた。それは、オーストラリアに最初のプロラグビーの洗礼を与えるべく船出でもあった。1907年であった。 プロ・オールブラックスは英国遠征の途中、オーストラリアに立ち寄り、3試合を行っている。対戦したのは、スミスの仲介により実業家ギルティマンによって組織されたプロのニューサウスウェールズ・チームであった。試合そのものはほとんど関心を呼ばなかったが、オーストラリアにおけるプロ・ラグビーリーグとしての最初の第一歩として大成功をおさめた。こうして、南半球のプロラグビーが始まった。 ところで、バスカービルの遠征チームは、プロのオールブラックスを名乗ったが、ニュージーランドやオーストラリアの新聞でオールゴールズ(All Golds)と揶揄されたことから、オールゴールズとして知られている。 オールゴールズは、1907年の暮れ、漸く英国に到着したが、当時、NRU(ラグビーリーグ)は、13人制やモール・ラックの廃止など独自のルール変更が初めて行われたばかりで、NRUの新ルールには不慣れだった。このため、オールゴールズは、1週間の特訓と数試合の練習試合の後、1908年1月1日NRUルールの下でウェールズと初めて対戦し、8-9で負けたが、その後全英代表(イングランド&ウェールズ)と3試合行い、2勝1敗で雪辱を果たした。 バスカービルの英国遠征は、ニュージーランドにとっては必ずしも成功とは言えなかったが、サッカーとの人気競争に直面していたNRUにとって、プロ・オールブラックスとの対戦に、有力諸州が参加したことは、まさに天の恵みであり、翌年には、NRUの会員数は倍増した。また、この遠征が、市民を興奮させ、ラグビー・リーグの人気を定着・拡大させる契機ともなった。 英国からの帰路、オールゴールズはオーストラリアに立ち寄ったが、そこで彼らが見たものは、NRUルールの下、組織されたニューサウスウェールズ・ラグビーユニオン(NSWRL)の存在であった。オールゴールズは、オーストラリアでNSWRLやクィーンズランドなどと10試合を行い、創設されたばかりのNSWRLを財政的に押し上げるとともに、オーストラリアにおけるラグビーリーグの定着と発展に大きく貢献したのである。up |
|||
№794(2007/09/30) 第5章第10節 スーパー・ラグビー前史 |
|||
|
10 スーパー・ラグビー前史
1990年代半ばにスーパー12が誕生した背景には、ラグビー・ユニオンのプロ化以外に、ライバル関係にあったラグビー・リーグの脅威があった。ラグビー・リーグが盛んなオーストラリアとニュージーランドにとってそれは重要なことであった。 同じ頃、ラグビー・リーグ界では、従来のARL(オーストラリアン・ラグビー・リーグ)に対し、新たにスーパー・リーグが出現し、いわゆるスーパー・リーグ・ウォーが勃発、選手年俸が高騰し、ユニオンの選手に対する高額年俸での勧誘という脅威に、ユニオン側はさらされていた。このため、ラグビー・ユニオンもプロ化し、ラグビー・リーグに対抗する必要があった。といっても、リーグもユニオンも仕掛け人は、どちらもオーストラリア生まれのメディア王ルパート・マードック率いるニューズ社であった。 スーパー12誕生のもう一つの大きな理由に、特にオーストラリアでは、有料テレビ放送の開始があった。ニューズ社系列のファックステル・ペイTVは、地上波(無料)では観戦できないラグビー・ユニオンの試合を独占放送することによって視聴者を獲得しようとしていた。スーパー12の設立によって、ラグビー・ユニオン側は、10年間の独占放映権と引き替えに555百万ドルを獲得し、スーパー12の財政的裏付けと放送媒体を確保したのである。 http://www.nichigo.com.au/column/news/0608.htm そもそもスーパー12は、1986年に始まった南太平洋選手権が始まりであった。南太平洋選手権は、当時全豪への拡大路線を取り始めていたラグビー・リーグ(NSWRL)とオーストラリアン・ルールズ・フットボール(AFL)の挟撃にあっていたニューサウスウェールズのラグビー・ユニオンが、ニューサウスウェールズとクイーンズランド両チームへの対戦相手を求める形で始まった。ニューサウスウェールズとクイーンズランドは、昔から繋がりのあるニュージーランドのカンタベリーとオークランドを真っ先に誘い入れ、これにニュージーランド第三の都市で国際空港もあるウェリントンを加え、さらに当時太平洋諸国の最強国であったフィジーを加え、スーパー6として1991年のシーズンまで行われた。 1993年から1995年にかけては、1991年のアパルトヘイト廃止宣言後、国際社会に復帰した南アフリカのチームを加えたスーパー10として催された。オーストラリアのニューサウスウェールズとクィーンズランドの2チーム、ニュージーランドは前年のNPC(国内州代表選手権)上位4チーム、南アフリカは前年のカーリーカップ上位3チーム、これに前年のフィジー、西サモア、トンガによる太平洋三カ国大会の勝者を加えた10チームにより競われた。up |
|||
№793(2007/09/29) 第5章第9節 スーパー・ラグビー |
|||
|
9 スーパー・ラグビー
http://en.wikipedia.org/wiki/Super_14 スーパー14(Super 14)はニュージーランド(5チーム)・オーストラリア(4チーム)・南アフリカ(5チーム)の地域代表合計14チームで行うラグビー・ユニオンの国際プロ・リーグ戦である。 1995年のワールドカップ・南アフリカ大会で成功とラグビー・ユニオンのプロ容認を受け、ラグビー最強国(※)であることが証明された南半球三カ国はSANZAR (South African, New Zealand and Australian Rugby) を結成し、12の地域代表チームによる対抗戦スーパー12と三カ国対抗戦トライ・ネイションズの開催を決定した。 ※ワールドカップ第1大会はニュージーランド、第2回大会はオーストラリア、第3回大会は南アフリカが優勝している。 2006年のシーズンからオーストラリアと南アフリカの各1チームが新規参入したため、1996年に始まったスーパー12から名称が変更された。2月初旬に開幕して5月中旬にかけて14チームが1回戦総当りでリーグ戦を行い、上位4チームがプレーオフに進み、優勝チームが決定される。その年のラグビーシーズン到来を告げるシリーズで、どの国のチームが強いかによってその年の代表の成績を占うカギとなる。 ニュージーランドは、ブルーズ、チーフス、ハリケーンズ、クルセイダーズ、ハイランダーズの5チームが1996年のスーパー12時代から参加。1996から2007年までの12シーズンでニュージーランド勢はクルセイダーズが6回、ブルーズが3回の計9回優勝を飾っている。 ブルーズ(オークランド・ブルーズ)は、ニュージーランド最大の都市オークランドを基盤とし、北島オークランド半島部のノースランド、ノース・ハーバーそしてオークランドを加えた3ユニオン連合。スーパー・ラグビー(スーパー12、14)12シーズンで3度の優勝を飾る。 http://en.wikipedia.org/wiki/Blues_%28Super_rugby_franchise%29 スーパー12のスタートした90年代オールブラックスのメンバーは、オークランド広域都市圏のユニオン(オークランド、ノース・ハーバー、ノースランド、ベイ・オブ・プレンティ)が占め、オークランド・ブルーズの設立にあたっては、オールブラックスのジャージの色が黒から青に変わるだけとされた。このため、NZRFUは、オークランドから北オークランドといわれるノース・ハーバー、ノースランドを分離し、オークランドより遠いハミルトンを基盤とするワイカト・チーフスの管轄とした。 一方、ブルーズは、南オークランドといわれるカウンティ・マヌカウとオークランドよりもチーフスの本拠地ハミルトンに近いテームズ・バレーからなっており、ブルーズがチーフスのフランチャイズを分断する形になっていた。ところが、ブルーズは、スーパー12がスタートした1996年と翌97年と連覇し強さを示した。 このため、NZRFUは、1999年ブルーズのカウンティ・マヌカウ、テームズ・バレーとチーフスのノース・ハーバー、ノースランドの各ユニオンを入れ替えた。ブルーズは、北オークランドを取り戻したが、南オークランドを失いオークランドのチームとは言えなかった。結局、2000年からニュージーランド・スーパー・ラグビーのチーム名から地域名が外された。毎年優勝候補には挙げられるが、1999年の入れ替え後は、2003年に1度優勝したのみ。 チーフス(ワイカト・チーフス)は、ハミルトンを基盤にした北島中部・東部のカウンティ・マヌカウ、ワイカト、テームズ・バレー、キング・カントリーそしてベイ・オブ・プレンティの5ユニオン連合チーム。ワイカト川はマオリ族の聖地であり、ワイカト・マオリの首長(チーフ)ポータタウ・テ・フェロフェロ王が1858年6月初代マオリ王となった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Chiefs_%28Super_rugby_franchise%29 ハリケーンズ(ウェリントン・ハリケーンズ)は、ウェリントンを中心にした北島南部・南西部のイーストコースト、ポバティ・ベイ、ホークス・ベイ、タラナキ、ワンガヌイ、マナワツ、ワイララパ・ブッシュ、ホロウェヌア・カプチ、そしてウェリントンを加えた9ユニオン連合のチームである。 http://en.wikipedia.org/wiki/Hurricanes_%28Super_rugby_franchise%29 クルセイダーズ(カンタベリー・クルセイダーズ)は、クライストチャーチに基盤をおいた南島北部・中部のバラー、カンタベリー、ミッド・カンタベリー、サウス・カンタベリー、タスマンにウェストコーストを加えた6ユニオンの連合チーム。スーパー・ラグビーで6回優勝し、最も成功したチームとされる。ニックネームのクルセイダーとは十字軍の戦士のことであるが、これはウェークフィールド計画でカンタベリーが英国国教徒の入植地として発展したことに由来する。 http://en.wikipedia.org/wiki/Crusaders_%28rugby%29 ハイランダーズ(オタゴ・ハイランダーズ)がダニーデンを基盤とする南島南部のオタゴ、サウス・オタゴ、サウスランドの3ユニオン連合チーム。ハイランダーとは、スコットランド高地の戦士のことだが、オタゴもまたウェークフィールド計画でスコットランド長老派の入植地として発展したことに由来する。 http://en.wikipedia.org/wiki/Highlanders_%28Super_rugby_franchise%29 スーパー・ラグビーが終わると、活躍していた選手たちは、オールブラックの選手として、6月、7月初旬までは主に北半球のチームとテストマッチを行い、7月中旬から8月下旬まではニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの3カ国によるトライ・ネイションズを戦う。オーストラリアとの定期戦、ブレディスローカップも同時進行される。その後、オールブラックスの選手たちは、既に7月下旬から始まっているNPCに復帰し地元のクラブでプレーすることになる。up |
|||
№792(2007/09/24) 第5章第8節 ニュージーランド航空カップ |
|||
|
8 ニュージーランド航空カップ
今までニュージーランドの強さを支えてきたのは、国内試合における州レベルの厳しく激しい競争である。ニュージーランド自体人口が400万人程度、地理的にもラグビー強国としてオーストラリア以外にとは近い国もなく、特に船での移動が一般的だった時代などは、なかなか北半球との交流も容易ではなかった。 従って、決してニュージーランドもラグビーをする環境としては恵まれているわけではないが、南アフリカと同様、逆に海外との交流が少ない分、レベルの高い国内リーグにおいて選手が「集中して」技術を磨き、独自のスタイルを開発し、強くなるための工夫をしてきたと言える。 ランファリー・シールド 1870年代前半より州同士の対抗戦は始まっていたが、1901年ニュージーランド総督ランファリー卿が州選手権の勝者にとトロフィーを寄贈したことから、ランファリー・シールド(盾)と呼ばれる国内選手権が始まる。1976年から始まるNPC(National Provincial Championship;ニュージーランド国内州代表選手権)に繋がる国内大会である。正式には1904年から現在のような選手権が行われウェリントンが初代チャンピオンに輝いた。しかし、全体的にみれば強豪オークランドの勝率が最も高い。 ランファリー・シールドは、NPCができて権威が落ちることも懸念されたが心配は無用だったようで、今でもこの盾が懸かるとシールド・ホルダーのファンもチャレンジャーのファンも大挙してスタジアムへ集まる。シールドを持つチームのホームゲームがNPCとのダブルタイトル戦となる。 NPC ニュージーランドのラグビー選手は全員クラブ・ラグビーのチームに所属しており、そこから上位カテゴリーのチームに選ばれるシステムとなっている。クラブチームで活躍した選手はオークランドやカンタベリーなどの州代表であるNPC代表に選ばれる。その中でも優れた選手がその上のスーパー14のメンバーに選ばれる。そしてさらにそのスーパー14の中でもっとも活躍した選手がニュージーランド代表、オールブラックスに選ばれる。明日のNPC州代表入りを目指し練習に励む選手達や草ラグビーを楽しむ者が混在しているクラブチームが、ニュージーランド・ラグビーの土台になっているのだ。 ニュージーランド・ラブビー・フットボール・ユニオン(NZRFU)は、現在北島の17州、南島の9州、計26の州ユニオンからなり、2006年からNPCはプロのエア・ニュージーランド・カップ(ニュージーランド航空カップ)とアマチュアのハートランド選手権に改編された。 http://en.wikipedia.org/wiki/Air_New_Zealand_Cup http://en.wikipedia.org/wiki/Heartland_Championship 1995年のラグビー・ユニオンのプロ化以後も、プロは96年から始まったニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ三カ国のスーパー12のみで、ニュージーランドの国内大会であるNPCはアマチュアのままだった。スーパー12やトライ・ネイションズでプロとして活躍した選手が国内の各クラブに戻ってきたとき、ニュージーランド国内にはプロの受け皿がなかった。このため、2006年NPCのトップ・リーグがプロ・リーグとして改編された。 NPCは2005年までは一部10、二部9、三部8からなる27州代表チームによる三部制がとられていたが、上位リーグのエア・ニュージーランド・カップは、NPC一部のオークランド、ベイ・オブ・プレンティ、カンタベリー、ノース・ハーバー、ノースランド、オタゴ、サウスランド、タラナキ、ワイカト、ウェリントンの10チームに二部のカウンティーズ・マヌカウ、ホークス・ベイ、マナワツの3チーム、マルボロとネルソン・ベイが統合しタスマンを加えた14チームから構成される。 2007年のシーズンは、7月下旬から9月にかけて10週間にわたり総当たり戦(ただし、相手チームが13チームだが、10試合しか行われないため、うち3チームは対戦なしとなる。対戦はホーム&アウェイではなく1試合のみ。)を戦い、上位8チームが10月のプレーオフに進出する。ハートランド選手権は、二部の残り4チームと三部の8チームを加えた12チームで構成される。 NPCは、3月下旬から7月下旬位まで続く各州ユニオンのクラブ選手権の中から選ばれたメンバーを中心に構成される。最初はその年のクラブで活躍した選手や新鋭選手が中心で、多くのニューヒーローが生まれる。中盤から終盤にかけてはオールブラックスの選手が各地区の代表に戻り、熱戦が繰り広げられる。up |
|||
№791(2007/08/15) 映像資料⑦ ニュージーランド・ラグビー |
|||
|
New
Zealand All Blacks
|
|||
№790(2007/08/12) 参考④ 中産階級とジェントルマン階級 |
|||
|
参考④ 中産階級とジェントルマン階級
ジェントルマンの先祖は、16世紀の農村のジェントリーである。ジェントリーとは、準男爵(バロット)、勲爵士(ナイト)、郷士(スクワイア)、紳士(狭義のジェントルマン)などに分かれる最下層の地主の総称である。村に貴族がいることは稀だった。フランスなど違ってイングランドは貴族の数が少なかったことで有名で、19世紀後半でも訳400家にすぎなかった。 それに対し、貴族の次のジェントリー階層の人間は村に何人かいて、教会の牧師と並んで、無給で治安判事として行政、司法、警察など村の生活のあらゆる分野に影響を持ち、地元の殿様として農民達の尊敬を集めていた。その結果ジェントリーは全国的に貴族とともに「ジェントルマン階級」を構成し、少なくとも産業革命期まで、考えようによっては1870年代にいたるまで、英国全土に家父長的な支配を及ぼし続けた。 しかし、時代の移り変わりとともに、ジェントルマン階級の構成メンバーは徐々に変化して行く。この「徐々」というところが、18-19世紀の英国社会に安定をもたらした一因でもある。時代の移り変わりとは具体的にいうと、農村中心から都市中心の社会へ、土地所有から産業資本家(ブルジョアジー)へ、有閑階級(レジャー・クラス)から知的専門職(プロフェッション)へということであり、新しい人種が少しずつジェントルマン階層に参入してくる。問題は、その新規参入のしかたにある。 既に18世紀のころからロンドンの大商人や知的職業人(プロフェッション)、産業資本家などは、蓄えた富を土地に投資して退職後は地代生活者の仲間入りをする、あるいは所領(エステート)を購入して広壮な屋敷(マンション)を建てて狩猟などジェントルマンにふさわしい生活をするといった風習があった。こうして、新興階級が成功のゴールとして、ジェントルマンの資格である家紋を買い取って土地を購入して支配階級の一員となる、既成支配階級から言えば、血統だけでなく、富、教養、生活様式などによってジェントルマンになれる、とすることによって階級の活力を維持できる、ということになったのである。 また、医者、弁護士、牧師というような大学を出て専門教育を受けなければならない知的専門職業人(プロフェッション)は昔からジェントルマンと認められていた。このプロフェッションの枠を少しずつ広げることによって、ジェントルマンと認められる上層中産階級(アッパー・ミドルクラス)が次第に増えていった。これは教育を通じてジェントルマンの身分に参入することが可能であることを意味すると同時に、長子相続制のため所領を相続できない、貴族の次・三男が地主以外の職業に従事することを可能にした。 1850年代になると地価が高騰して、中産階級が所領購入によってジェントルマンになれる見込みがなくなると、彼らが次に選んだ道は、子弟への教育投資、つまり子供をパブリック・スクールからオックスフォードかケンブリッジ大学に入れることであった。このような時代の流れの中で、トマス・アーノルドのパブリックスクール改革の歴史的・社会的役割とはどのようなものだっただろうか。 それは、ただ単に身なりや礼儀作法のより小さな紳士生み出したというだけでなく、古くからの家柄の上流階級(彼らは、ややもすると野蛮で粗野で横柄な気風を持っていた)と成り上がりの上層中産階級の(産業資本家の露骨な搾取への衝動を受けた)子弟とが互いに混じり合って、それこそ俗にいう「同じ飯を食う」ことによって、彼らを通して二つの階級の融合が達成されたという点に意義がある。いわば、パブリックスクールという教育の場において、双方の血統(毛並)と能力が一体化されて「ジェントルマン」という名の新エリートともいうべき人材の養成が始められた。 up 出典 「英国パブリック・スクール物語」 井村元道著 丸善ライブラリー |
|||
№789(2007/08/11) 第5章第7節 オールブラックス |
|||
|
7 オールブラックス
万を持して1905年にヨーロッパ(英仏)・北米遠征を行い、英国では32試合中31勝を挙げた。唯一の敗戦は有名な「B.ディーンズ幻のトライ」で有名なウェールズ戦であった。因みにこの遠征からニュージーランド代表は「オールブラックス」と名付けられ、この遠征チームは「オリジナル」と言われ、名実ともにニュージーランド・ラグビーのレベルの高さを世界に知らしめた。 オールブラックスの語源に関しては幾つかの説がある。一つは、遠征チームが英国入りした際に、デイリー・ミラー紙の記者が(それまでニュージーランド代表のジャージの色がよく変更されたので)、「今回は何色のジャージを着るのか?」と尋ねた所、「オールブラック」という答えが返ってきた、というもの。一つは、やはり、デイリー・ミラー紙の記者「皆、バックスのようだ(All played like backs) 」と書きたかったところ、BacksをBlacksとスペルを誤記してしまったためとも言われている。 1924~5年の第2回目の英仏遠征チームも30試合全勝という素晴らしい戦績を挙げ、「無敵」と形容された。トラブルがありテストマッチが組めなかったスコットランド戦を除く他の4カ国(イングランド、ウェールズ、アイルランド、フランス)とのテストマッチは全勝した。その後も数少ない例外を除いては、北半球の単独チーム相手ではほとんど歯が立たなかった。そのような実力差もあってか、実に1961年にフランスが遠征するまで、北半球のチームは単独ではニュージーランド遠征はしていない。 ブリティッシュ・ライオンズをもってしても結果は変わらず、この時期から現在に至るまでライオンズがニュージーランドとのテストシリーズで勝ち越したことはない。ニュージーランドとしても、北半球チームは既に敵ではないと認識し、標的を南アフリカに変える。実際、戦績から判断しても南アフリカがアパルトヘイト問題で一切のスポーツ交流を断たれるまで、この二国が事実上トップであったことは誰もが認めるところである。 1960年代に入りニュージーランドはグランドスラム(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドとのテストマッチに全勝)を達成すべく1963~4年、1967年と2回北半球遠征するが、いずれも後一歩のところで星を取りこぼす。結局、悲願のグランドスラム達成は1978年まで待たねばならない。 IRBワールドカップにおいては第1回の地元開催大会では危なげなく優勝し、事実上世界一であることを証明した。しかし、その後第2回、3回大会と決勝戦でオーストラリア、南アフリカに敗れ、第4回大会では準決勝で再びオーストラリアに敗れ、その実力低下が懸念された。第5回大会でも直前のトライ・ネイションズでオーストラリア、南アフリカに圧勝したため、イングランドとともに優勝候補の筆頭であったが、準決勝でオーストラリアにまさかの敗退を喫し、3位に終わった。 この時期、国内市場が小さいことからプロスポーツ化の流れに乗り遅れ、実力の低下が言われ。ところが、2004年にグレアム・ヘンリーが監督に就任してから2006年までのテストマッチの成績は33勝4敗、なかんずく2004年11月以降は27勝2敗と、圧倒的な強さを取り戻している。 2005年11月の遠征ではチーム史上27年ぶり2度目のグランドスラムを達成したが、その初戦のウェールズ戦と続くアイルランド戦とで先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝するなど、選手層の厚さも抜きん出ており、2007年IRBワールドカップ・フランス大会の大本命と衆目が一致している。 up 出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社 参考サイト フリー百科事典 ウィキペディアhttp://en.wikipedia.org/wiki/All_Blacks |
|||
№788(2007/08/10) 第5章第6節 無敵(Invincible)のラグビー |
|||
|
6 無敵(Invincible)のラグビー
ラグビー界では「無敵(Invincible)」という称号を持つニュージーランド・ラグビーであるが、ラグビーのスタート地点はやはり英国からの移住が多かった1860年代と言われている。もちろん、その時期はオーストラリア同様に様々な種類のフットボールがニュージーランドでも行われており、ラグビー校のルールに従ったフットボールが行われたのがは、1870年に南島の北端ネルソンという町のネルソン・クラブと同じ町のネルソン・カレッジとの試合であった。 ネルソン・クラブには、父親の仕事の関係で英国に滞在していた当時19歳のチャールズ・モンローなる青年が所属していた。この青年のニュージーランドのラグビー創世記における貢献度はこれだけに留まらず、首都ウェリントンを奔走し、周辺のフットボール・クラブをまとめるラグビー・ルールに則ったフットボールの国内選手権を企画する。結果的には、ネルソン・クラブが記録的な初優勝を飾る。 その後も英国からの移民は増加し、中にはイングランド代表経験者などの逸材も含まれており、ラグビーは早くも1870年代後半には国民スポーツとしての地位を築く。1879年にはカンタベリーに初めて州のユニオンが設立され、同年にはウェリントン、81年にオタゴ、83年にオークランド、87年にはワイカトが続く。 1892年についに7つのユニオンが集まりニュージーランド・ラグビー協会(New Zealand Rugby Football Union:NZRFU)を設立するが、カンタベリー、オタゴ、サウスランドはこの協会がウェリントンに優先権を与えるとして最初の数年間は参加しなかった。 ニュージーランドには「もう一つの歴史」がある。マオリ・ラグビーである。ニュージーランドの先住民マオリ族はがっしりとした体格、高い身体能力を持ち、白人のスポーツだったラグビーに順応する。1872年の州対抗試合でマオリ選手の名前が記録されているので、かなり初期の段階からマオリ選手は白人選手とともにプレーしていたと推察される。 1888~89年にはニュージーランド・ネイティブ代表で英国遠征を実施しており、本家オール・ブラックスよりも早く北半球遠征を敢行している。ちなみにこの遠征の全行程は14ヶ月という長期に亘るものであり、その間に107試合をこなし、テストマッチとしてアイルランドから勝利を挙げている。 この遠征で英国人を驚かせたのが、試合前の戦いの踊り「ハカ」である。この伝統は、オールブラックスが後を引き継ぎ今日に至る。しかし、意外とニュージーランド国内外の評判は良くない。 ところで、ニュージーランド代表が初めて編成されたのは1882年のサザン・ユニオン(後のニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・ユニオン:NSWFU)のニュージーランド遠征を迎えたときであった。そして1884年には逆にニューサウスウェールズへ遠征する。前述のとおり、この時点では全ての州にユニオンが設立されていなかったため、厳密な意味では国代表ではなかった。オーストラリア代表も同様に正式代表と呼べるチームではなかったが、8戦全勝で初遠征を飾る。因みに、この時は「オールブラックス」ではなく、藍色に金色の刺繍でシダのエンブレムというデザインのジャージだった。 その後もオーストラリアとの交流は続くが、この当時、オーストラリアはニュージーランドと比較するとかなり実力が劣り、標的は北半球に向ける。1904年ブリティッシュ・アイルズがニュージーランドに遠征し、テストマッチに2連敗する。当時、ニュージーランドの実力を低く見ていた英国勢に衝撃を与える。 up 出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社 参考サイト フリー百科事典 ウィキペディアhttp://en.wikipedia.org/wiki/All_Blacks |
|||
№787(2007/08/09) 第5章第5節 キウィ・イングリッシュ |
|||
|
5 キウィ・イングリッシュ
2006年の国勢調査(混血も進んでいるので合計は100%以上)では、人口の約80%がヨーロッパ系(その多くが英国系とされる)で、次に多いのが、先住民族マオリ人で約15%。次に多いアジア系は9.2%で、2001年の国勢調査では、6.6%であったのに対して急増している。太平洋諸島系は6.9%である。 ニュージーランドの英国系移民は、アングロサクソン系が中心で、アイルランド系の比率がオーストラリアに比べて少ない。また、マオリ人との混血も進んでいる。オーストラリアのアングロサクソンが下町出身者や労働者階級が多かったのに対し、ニュージーランドでは、中産階級の出身者が多かったともいわれる。 オーストラリアの英語(オージー・イングリッシュ)が、コックニーと呼ばれるロンドンの下町英語とアイルランド訛りの英語が混ざって出来たものに対し、ニュージーランドの英語(キウィ・イングリッシュ)は、比較的クィーンズ・イングリッシュに近いとされている。ただし、キーウィ・イングリッシュも「エイ」を「アイ」と発音する。 自由植民地として始まったニュージーランドの人々は、流刑植民地として始まったオーストラリアに対し優越意識を持っているといわれるが、このことが逆にコンプレックスにもなっている。 ニュージーランドは、常にオーストラリアから大きな影響を受け続け、オーストラリアの後を追いかけてきた。1840年以前ニュージーランドの移民社会は、オーストラリアからの移民で始まり、40~41年にかけては、オーストラリアの一部であった。 1840年代、50年代ウェイクフィールド計画による英国からの移民が増大しても、オークランドはオーストラリアからの移民で溢れ、南島ではオーストラリアからのスクォターによる羊で溢れていた。60年代、北島では、オーストラリアからの義勇軍が、ニュージーランドの入植者とともにマオリと戦った。南島では、オーストラリアの金鉱夫が鉱山に殺到した。 70年代、ニュージーランドの道路・鉄道・港湾など社会資本整備したのは、オーストラリアの会社だった。80年代、ニュージーランドを襲った大不況は、ニュージーランドに多額の投資を行っていたオーストラリアの銀行の破産が原因だった。90年代、一度はオーストラリア6植民地とともにオーストラレイジアの一員として連邦を築くことを決めている。 結局は、ニュージーランドはオーストラリア連邦に参加せず、1907年独立した自治領になったが、オーストラリアは、つねにニュージーランドを自国の一部との認識を持っていたし、現在でも、オーストラリアの憲法では、ニュージーランドが希望すればオーストラリアの一州になれるとの規定が存在する。 現在、ニュージーランドにとって隣国オーストラリアは歴史的にも経済的にも重要なパートナーとなっているが、1973年英本国がEEC(後のEC)に加盟するまでは必ずしもそうではなかった。 第一次世界大戦ではオーストラリアと連合しアンザック軍団として英本国とともに戦っい、第二次世界大戦後の1951年には英国の軍事力低下を受け、オーストラリアとともに、米国との軍事同盟を結んだ。しかし、経済的には、オーストラリア、ニュージーランドはともに英国の食料供給基地として、特恵優遇貿易制度の恩恵化にあったため、1966年に締結されたニュージーランド・オーストラリア自由貿易協定(NAFTA)は、両国間の貿易の促進ではなく、英国と円滑な貿易関係を円滑化する意味合いがあった。 ところが、英本国のEEC加盟により、特恵優遇貿易制度の恩恵を受けられなくなると、両国は新たな市場開拓を迫られることになり、ニュージーランドは隣国オーストラリアとの経済統合を目指し、オーストラリア・ニュージーランド経済緊密化協定(CER)1983年締結する。これに基づき農産物やサービスを含め関税が撤廃されており、基準認証や税制の統一化が進んだ。 1970年代初め、ニュージーランドの輸出先は、英国が35%以上だったのに対し、オーストラリアは8%に満たなかった。ところが、現在では、オーストラリアが輸出入とも20%を超える最大の貿易相手国にまで拡大している。また、ちょっと前まで、ニュージーランドの消費者にとってオーストラリアは「物が豊富で、自国で買うよりクオリティーが高く、その上値段が安い」と考えられていたので、ニュージーランドからオーストラリアに遊びに行くと、みんなスーツケースいっぱいに様々な生活用品をどっさりとお土産として持って帰ってきた時代があった。 ニュージーランドの人たちは、「キウィ」の愛称で呼ばれる。第一次世界大戦に参加したニュージーランド兵士がキーウィと呼ばれたことから始まったともいわれる。キーウィはニュージーランドの国鳥で、飛ぶことができない。ニュージーランドには、ヘビや獣がいないので飛ぶ必要がないため羽が退化したといわれる。平和なニュージーランドの象徴として存在するキーウイと、そこに住む国民性をダブらせて生まれたぴったりの呼び名とされる。ニュージーランド人は、素朴で人がいい。また、シャイで親切心と親しみやすさがあるので、ひとたび友だちになると、積極的に心を開いてくれる、という。ところが、オーストラリアの人々は、ニュージーランドの人々を「あか抜けない田舎者」と映る。 up 参考文献 「オセアニア史」山本真鳥著 山川出版社 「ニュージーランド植民の歴史―イギリス帝国史の一環として」沢井淳弘著 昭和堂 参考サイト http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/007002 http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/history/ |
|||
№786(2007/08/08) 第5章第4節 ニュージーランドの独立 |
|||
|
4 ニュージーランドの独立
ニュージーランドは、19世紀末から20世紀初頭にかけて行われたオーストラリア連邦(ニュージーランドを加えた場合はオーストラレイシア)結成に関する会議の多くに参加したが、結局は1901年のオーストラリア連邦には加わることなく、1907年大英帝国内の自治領として事実上独立した。 第一次世界大戦では、アンザック軍団(オーストラリア・ニュージーランド軍団)を結成してガリポリの戦いに参加し、激戦を経験した。ガリポリの戦いは、オーストラリアと同様、国民意識を高める契機になった。 一方、英国がニュージーランドの産する余剰の食肉と酪農品を買い取るという戦時協定が結ばれ、戦後もこの協定が存続したことから、ニュージーランドは市場開拓を迫られることはなかった。このため、政府は、英国とのつながりを重視する動きが主流になり、1939年に当時の首相であったマイケル・サベッジは「我々は英国と共に歩む〜where she goes, we go, where she stands, we stand」とコメントした。 1945年、第二次世界大戦が終結。大戦によって傷ついたヨーロッパでままならない肉・羊毛・バターの生産を補うべくニュージーランドの生産品が重宝された。特に朝鮮戦争中は、羊毛が高騰。ニュージーランド経済を大いに潤した。 1950年代から、戦争で疲弊したヨーロッパ大陸から若く希望に満ちた移民が流入してきた。しかし、ヨーロッパが復興期を迎えると移民が減少し、その労働力不足を補うために西サモア、トンガ、クック諸島、ニウエなど南太平洋諸国からの移民を受け入れた。彼らの多くは農業部門での単純作業に携わったが、今やニュージーランド総人口の6%を超えるまでになり、オークランドは、現在世界で最もポリネシア人の多い都市となった。 一方、英国との関係は、時代と共に徐々に変化をした。1931年英国議会は、ウェストミンスター憲章を定め、自治領の完全独立を認めた。カナダ、南アフリカ、アイルランド自由国が直ちに批准、オーストラリアも第二次世界大戦中の1942年に批准したが、ニュージーランドが完全独立を決断したのは、戦後の1947年11月だった。しかし大戦後しばらくは、逆に英国とのつながりは以前より強くなった。農業生産品を優先的に購入してもらえるという地位は、ニュージーランドの生活水準を世界でも有数のレベルに押し上げた。 しかし、1967年から翌年にかけて、ニュージーランドで産出される農業製品の価格が下落。そして英国がEEC(現在のEU)に加盟すると、農業製品を優遇的に販売出来るという関係を継続出来なくなった。ニュージーランド政治・経済において英国一辺倒の政策を改め、アジア、太平洋に目を向けざるを得なくなった。さらに、2度にわたるオイルショックも加わって、 ニュージーランド経済は深刻な打撃を受け、国家財政は破綻の危機に瀕した。 1984年に政権を獲得した、ロンギ率いる労働党は、高度福祉国家への道を修正し、「小さな政府」を目指した大胆な私有化政策を打ち出し、 国民に自助努力を求めた。 この経済社会改革政策は、バブル崩壊後の経済立て直しに苦慮する日本を始め、世界の注目を集めたことは記憶に新しい。 その後、政権は代ったものの、小幅な修正を加えつつ、改革が進められている。 また、忘れてならないのは、この労働党政権で打ち出された、非核政策である。核兵器を積んでいないことを明確にしない限り、 アンザス同盟で認められた米国艦船の寄港を拒否するというこの政策は、アメリカだけでなく、隣国オーストラリア他の激しい抵抗にあったが、現在まで貫いている。 経済的利益を犠牲にしてまでも、大義を貫くと言う姿勢は、ワイタンギ条約以来の先住民マオリに対する政策の誤りを正そうとする和解政策にも如実に表れている。不当に取り上げられたマオリの土地・権益の回復の訴えを吟味、勧告するワイタンギトライビューナルの制度化、政府による勧告の実施、言葉を含むマオリ文化の保存や経済的地位向上のための諸施策などが、進められている。 建国後160余年を経て、ニュージーランドは、親元英国を離れ、よりよい民族共存・太平洋国家としての道を歩みつつある。 up 参考文献 「オセアニア史」山本真鳥著 山川出版社 「ニュージーランド植民の歴史―イギリス帝国史の一環として」沢井淳弘著 昭和堂 参考サイト http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/007002 http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/history/ |
|||
№785(2007/08/07) 第5章第3節 マオリ戦争とゴールドラッシュ |
|||
|
3 マオリ戦争とゴールドラッシュ
1839年当時マオリからパケハと呼ばれていたヨーロッパ人は、2000人程度に過ぎなかったが、ワイタンギ条約以降英国からの移民が激増した。1840年から1860年の間に英国からは4万人もの人々が移住してきた。このため、1858年までには、マオリとパケハの人口比はほぼ半々になっていた。移民の激増は、マオリが保有する土地の需要を激しくさせた。 人口の希薄な南島は、マオリの抵抗も少なかっためか、1844年から64までの20年間に殆ど全ての土地がマオリの手から離れてしまった。マオリが保有する北島のオークランド、ワイカト、タラナキといった肥沃な土地は、移住者にとってさらに魅力的であった。 ところで、農耕に関しては、マオリは移住者と直にはりあった。マオリは、北島の肥沃な土地の大半を所有し、耕作は共同体で行うため労働者への賃金もいらなかった。1860年代に至るまではマオリが、ニュージーランドで消費され、オーストラリアに輸出される食用作物の大半を生産していた。 北島のマオリは、自分たちの土地を容易には売らなかった。このため、北島では、移住者が、マオリの土地を強引に武力で摂取する事態が頻発し、マオリもこれに武力で対抗。やがて、移住者は兵力を持って強引に土地の搾取をはじめた。1860年には戦争状態(マオリ戦争)となった。 土地争いにおいてマオリは数多くの場において勝利を治めた。北島の“オハエワイ要塞”の防御体制にも見られるようにマオリ軍隊の戦力水準は高く、時には英国軍(英本国軍と現地政府との連合軍)よりも優れていた。マオリ戦争はその後12年(1872年まで)続いたが、英国軍の軍事力とその圧倒的な数の多さゆえ最終的にマオリが敗北する結果となった。こうして、ニュージーランドにおける英国の支配が確立していった。 敗れたマオリは、北島の肥沃な農業地帯であるワイカト、タラナキをも奪われる事となった。その結果、マオリ人は生活苦や疫病に影響され、人口が減少してしまう。資料によれば、1800年当時で約10万人あったマオリ人は1896年には42,113人にまでなってしまった。 マオリ戦争が起こった同じころ(1861年)、南島のオタゴで金鉱が発見されると、空前のコールド・ラッシュが巻き起こり、1860年代前半には、オーストラリアからオタゴに渡った金鉱夫は64,000人に及んだ。また後には中国本土から多くの中国人労働者がやってきた。このブームは3年ほどで終結してしまうが、南島と北島の経済格差の縮小に大きく役立った。さらに、ウェストランドで新たに金鉱が発見される、65年から67年にかけて、15,800人がオーストラリアから移住してきた。 南島に比べて圧倒的優位にあった北島も、ゴールドラッシュによって起こった南への人口流出、マオリ戦争による荒廃などによって政治の中心として存在し得なくなってきた。そこで南北両島のバランスをとるべく、1865年、マオリ戦争によって荒廃したオークランドから、北島最南端のウェリントンヘ首都が移された。このとき、北島と南島を仲介したのが、オーストラリアのニューサウスウェールズ植民地政府であった。 産業は徐々に発達してきたが、当時のニュージーランドの国内交通は未整備状態で、陸路は馬、海路は沿岸航行というのが手段だった。1870年、財務大臣のジュリアス・ボーガルが、大規模な借款(600万ポンド)を行い、道路・鉄道・港湾を整備するという計画を発表し、70年代の終わりまでにニュージーランド全土に鉄道網が張り巡らされ、道路、橋が建設れた。この間、1876年州政府が廃止され、ウェリントンが政治の中心となった。 この事業が刺激となって、19世紀後半にはニュージーランド国内の労働力が不足してしまった。対策として、英国、アイルランド、その他ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れた。その数、約10万人。彼らのほとんどは、ニュージーランド政府の招へいであった。この結果20世紀初頭には、白人の人口は50万人を超えた。 これを境に政党政治・議会政治の体制を整えられ、1890年の総選挙で自由党が圧勝して政権を手中に収め、次々と政治改革を行った。1893年には、世界で初めて女性の参政権が認められ、老齢年金法の制定などにより、高福祉国家へと歩み始めた。マオリとの紛争の火種だった土地改革も行われた。 そして安定した政権下で経済も急速に成長していき、冷凍運搬技術が確立とともに、チーズやバターなどの乳製品がヨーロッパヘ大量に輸出されるようになり、ニュージーランドは英国の食料基地のひとつとなり、全土で農地の開拓が行われるようになっていった。 そして20世紀に入る頃、ニュージーランドは酪農国としての地位を固める。肥沃な北島・タラナキ、ワイカト、ベイ・オブ・プレンティー地域の農地を求める人々の流れが生じた。この結果、南北島の人口が逆転する。ゴールド・ラッシュ以来、南島の人口過多であったが、1901年には北島の人口が南島を上回った。1911年にはオークランドは国内最大の都市、人口102,626人となり、ダニーデンから最重要都市の座を奪う事になった。 up 参考文献 「オセアニア史」山本真鳥著 山川出版社 「ニュージーランド植民の歴史―イギリス帝国史の一環として」沢井淳弘著 昭和堂 参考サイト http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/7001 http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/history/ |
|||
№784(2007/08/06) 第5章第2節 ウェイクフィールド計画 |
|||
|
2 ウェイクフィールド計画
ウェイクフィールド計画とは、植民地改革主義者エドワード・ギボン・ウェイクフィールドが提唱した組織的植民論を、自らニュージーランドで実践した移住計画のことで、計画自体は必ずしも成功とは言えなかったが、ニュージーランドの政治的経済的基盤を形成するものとなった。 組織的植民論とは、富裕な資本家だけが土地を購入できるように、植民地の公有地売却価格を十分に高く設定すれば、労働者がすぐに独立した農民になることはなく、資本家はこの労働力を利用することができる。他方、土地売却で得た資金を移民導入に用いれば、より多くの労働力を英本国から植民地へ移動させることができる。労働者が資金を貯めて土地を購入すれば、さらに移民が入ってくるので、労働力は枯渇することはない。こうして植民地は発展し、最終的には自治領になることが可能となる。ウェイクフィールドは、英国の階級社会を植民地社会に移植しようした。 理論的には、このシステムは自動的に調節され、本国にとっても植民地にとっても有益であったため、英国政府は、1831年にオーストラリアとニュージーランドの植民地に適用することを決定した。公有地の売却収入によって移民を導入するという基本政策がこのときに確立した。1831年から50年の間に、オーストラリアでは、補助移民が囚人に代わって移民の最大の集団になり、流刑植民地から自由植民地に転換した。組織的植民論に基づく新しい植民地として、1836年南オーストラリア植民地が建設されたが、売却された土地が、投機の対象となり、事実上失敗する。 すると、ウェイクフィールドは、ニュージーランドに目を転じ、1837年自宅でニュージーランド協会を設立。マオリ族との軋轢を懸念した英国政府から支援を得る事ができなかったが、翌38年組織を株式会社化(ニュージーランド土地会社、後ニュージーランド会社)すると、土地購入資金が急速に集まりだした。翌39年弟ウィリアムを土地買付けのためニュージーランドに送り出した。 ウェリントン近辺に到着した一行を、現地マオリ人が好意的に出迎えた結果、土地の測量と買付けは容易に進んだ。これを受け、最初の移民船が1840年1月ウェリントンに到着、その後続々と入植者が送り込まれた。同年ワンガヌイ、41年ニュー・プリマス、42年ネルソンへ入植(ここまでが中部植民地)。1848年オタゴ(ダニーデン:スコットランド長老派の拠点)、51年カンタベリー(クライストチャーチ:英国国教会の拠点)では教会進出をも支援した。 ウェイクフィールドは、開拓者に、能力があり信頼でき健康で勤勉であることが求めた。このため、ニュージーランドの開拓者になったのは、貧しいけれども、上級労働者もしくは下層の中産階級出身者だった(「背伸びする階級」とウェイクフィールドがよぶ)人々で、資金や野心を失ってはいなかった。 ところで、ウェイクフィールド計画は、土地購入者を資本家に限定することが成功したが、実際は投機的な不在地主が多かったため、土地が遊休化し、人口分散が起こり、道路などの社会基盤の建設などの事業が興らず、労働者の職が払拭したため、ニュージーランド会社は、労働者に土地を売り耕作させることにした。こうして、ウェイクフィールドが意図した階級制植民は破綻し、ニュージーランドの国民性である「平等主義」が育って行った。 最大の誤算が、牧羊業がニュージーランドに適した産業だったことである。牧羊は、オーストラリアからやってきたが、乾燥の激しいオーストラリアより気候条件が適していたこともあって、急速に拡大した。牧羊業の興隆も人口の分散を引き起こし、集約的な農業社会を前提とするウェイクフィールド計画は挫折した。 1854年のニュージーランドのヨーロッパ系の人口は、32,500人で、そのうちウェイクフィールド植民地への移民の数は15,612人に過ぎなかったが、ウェイクフィールド植民地は、オークランドを除くニュージーランド全域に渡っており、この国の政治的経済的基盤を形成していった。1852年基本法でニュージーランドは、オークランド、ニュープリマス(後のタラナキ)、ウェリントン、ネルソン、カンタベリー、オタゴの6州に分けられたが、うち5つまでがウェイクフィールドの植民地であった。 ニュージーランド会社は、1840年代後半には、財政が悪化し、英国政府の支援を求めたが上手くいかず、1858年に会社解散した。解散後移住計画は、ニュージーランド政府によって受け継がれた。 ところで、オークランドは、他の入植地と異なり、自然発生的に生まれた。1841年ニュージーランドの首都となった当時のヨーロッパ人の人口は2,000人足らずであったが、54年には12,000人に膨れあがっていた。町の人口の31%がアイルランド系で、半数がオーストラリアから移ってきた人々であった。オークランドはシドニーの町の苗を一部移植したに過ぎなかった。 up 参考文献 「オセアニア史」山本真鳥著 山川出版社 「ニュージーランド植民の歴史―イギリス帝国史の一環として」沢井淳弘著 昭和堂 参考サイト http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/7001 http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/history/ |
|||
№783(2007/08/05) 第5章 ニュージーランド編
|
|||
ニュージーランド諸島の地図1 ニュージーランドのはじまり
ニュージーランドは、南太平洋西部、タスマン海をへだててオーストラリアの南東に位置する。正式国名はニュージーランド、先住民マオリの言葉では「アオテアロア(白く長い雲のたなびく地)」という。英連邦に加盟する。大きな2つの島、北島と南島、および南島の南にうかぶスチュアート島などの小島群からなる。先住民マオリ族は、9世紀から10世紀頃までにポリネシアから移り住み、1800年頃には10万人を超える人々が暮らしていたと言われる。 1642年、オランダ人船長のアペル・タスマンがヨーロッパ人として初めてこの島を発見し、タスマンの故郷であるオランダのジーランド州に因んで、ニュージーランドと名付けた。1769年、英国人船長ジェームズ・クックが、島全体および周辺の調査を行った。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征が始まり、その後ヨーロッパからの移民が始まった。 1788年英国がオーストラリア(ニューサウスウェールズ植民地)に流刑植民地を建設すると、シドニーが、ニュージーランドとの交易拠点となった。シドニーの貿易業者は、マオリと亜麻や木材の交易を行った。代わりにマオリには銃が伝えられ、マオリ部族間の戦争が激化した。1840年まで、宣教師を初めとする移住者の多くはオーストラリアからの渡来者であったこともあり、シドニーを経由して英本国に渡るマオリも現れた。こうした経験からマオリは英国人にある種の親近感を持つようになった。 1830年代ヨーロッパにおけるニュージーランドへの関心が高まると、シドニーの不動産業者によるマオリの土地の買占めが行われ、39年には、ニューサウスウェールズ植民地は、ニュージーランドを自領地とした。一方、1838年、エドワード・ギボン・ウェイクフィールドが植民会社ニュージーランド土地会社をロンドンで組織し、英国からの本格的な移民が始まった。1840年2月6日、英国は、マオリ族との間にワイタンギ条約を締結し、ニュージーランドを正式に英領植民地とした。翌41年ニューサウスウェールズ植民地から分離独立、52年に自治政府を獲得した。 ワイタンギ条約 1 全てのマオリ族は英国女王の臣民となりニュージーランドの主権を王冠に譲る。 2 マオリの土地保有権は保障されるが、それらの土地は全て英国政府へのみ売却される。 3 マオリは英国民としての権利を認められる。 このように、ワイタンギ条約は前文と三条からなる簡単なものであったが、英語とマオリ語の翻訳が異なっていたことから、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」、英国側は「ニュージーランドは英国の植民地である」と捉えていたため、その後のマオリ戦争を招く原因となった。 その一方で、先住民に対し、土地の保有と英国民としての権利を認めたことは、先住民アボリジニーから土地を取り上げ放逐し、反抗者は(時には反抗しない者も)殺害したオーストラリアの扱いに比して画期的なことであった。 当初、英国政府は、他の植民地(カナダ、南アフリカ、西インド諸島など)運営にエネルギーを費やしていたため、ニュージーランドへの関与に消極的だった。むしろ、先住民マオリ族による間接統治を目論んでいた。ところがニュージーランド会社(ウェイクフィールド計画)の独走、フランスの脅威、マオリ部族間戦争の激化など様々な点を考慮して、英国は植民地化を急いだ。 up 参考文献 「オセアニア史」山本真鳥著 山川出版社 「ニュージーランド植民の歴史―イギリス帝国史の一環として」沢井淳弘著 昭和堂 参考サイト http://plaza.rakuten.co.jp/hypergdatm/7001 http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/history/ |
|||
№782(2007/07/23) 第4章第5節 オーストラリア編あとがき |
|||
| 5 オーストラリア編あとがき 英国では、18世紀から人口爆発(急激な増加)が続き、囚人を含めた移民先としての白人移住植民地が求められていた。当初は、それを米国が担っていたが、米国の独立後は、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、そして南アフリカに求められた。 1931年のウェストミンスター憲章以後、フランス系のケベック州を抱えたカナダとオランダ系のアフリカーナを抱えた南アフリカは、比較的早く独自の道を歩み始めたが、ガリポリ・ナショナリズムに見られるように英国人以上に英国人であろうする意識が働くオーストラリアとニュージーランドにとって、本国英国からの分離独立は耐え難いことであった。 そんなオーストラリアにおいても、母国英国とは異なった歴史と風土から生まれた独自のオーストラリアン・ルールズ・フットボールと、独自の発展を遂げたラグビーリーグが普及し、英国を母国とし世界的に普及しているラグビー(ユニオン)とサッカーは、第三と第四のフットボールに過ぎない。サッカーなどは、エスニック・スポーツとして外国人のスポーツの感さえあった。 そんなアンビバレンス(二律相反)な国オーストラリアにおいて、インターナショナル・ゲームではない独自のフットボールに全豪が熱狂する一方で、インターナショナル・ゲームとなったラグビー(ユニオン)とサッカーは、オーストラリアに新しい時代をもたらそうとしている。 第2章から第4章にかけてのオーストラリア編はひとまず終了。 up |
|||
№781(2007/07/22) 参考映像⑥ ラグビーユニオンとサッカー |
|||
|
参考映像 ラグビー・ユニオン
2006 Super 14 Rugby Playoffs Video スーパー14 Rugby World Cup 2007 Preview ラグビー・ワールドカップ South Africa v Australia - Tri Nations Highlights - 19/06/07 トライネーションズ 参考映像 サッカーAリーグ A-league Showboat (Round 11-Finals) 0506 Hyundai A-League Grand Final |
|||
№780(2007/07/21) 第4章第4節 エスニックスポーツとしてのサッカー |
|||
|
4 エスニックスポーツとしてのサッカー
オーストラリアの国家政策となった白豪主義は、第二次世界大戦中においても継続された。この白豪主義の変化の嚆矢となったのが、戦後の1947 年労働党政府が立てた大量移民計画であった。戦後復興とオーストラリア経済の自立化を目的として、大陸防衛と内陸開発のための人口増加策、経済復興の基盤としての工業化のために必要な労働力の供給策、国内市場拡大策など具体的な射程が設定された。 この移民計画は当初、英語系ヨーロッパ人の移民を想定していたが、現実には、ヨーロッパ地域の戦後復興が進みオーストラリア移住への求心力が低下したこともあり、英語系移民の確保が困難となった。その結果、南ヨーロッパ地域(イタリア、マルタ、ギリシャ、ユーゴスラビア等)からの移民が増大した。その後、人道主義的立場からの難民(戦争、内戦、革命等)の受け入れもあり、さらなる地域、民族の拡大がもたらされた。この過程において白豪主義は融解し始めたといえる。 「オーストラリアでは、ギリシャ人やイタリア人、その他のエスニック・コミュニティが大がかりなスポーツやリクレーション・クラブなどの社会的アソシエーションをつくり、各々の集団のためだけのミーティング場所を提供している。これらはしばしば、文化的・政治的機能も十分果たすのである」と指摘されるように、移民にとってスポーツクラブは重要な意味を持っていた。 とくに、サッカーの盛んなイタリア、ギリシャ、マケドニア、クロアチアなどからの人々によってサッカー・クラブがオーストラリアの各所で設立された。特に1950-60年代頃、サッカーは、エスニシティ間の対立の象徴ともいえる存在になった。移民が中心となって組織したオーストラリア・サッカー連盟(The Australian Soccer Federation)が結成され、英国系オーストラリア人(Anglo-Australian )のオーストラリア・サッカー協会(The Australian Soccer Football Association)に対抗するようになり、1961年にはこれに取って代わったのである。 オーストラリア社会の中での移民は、英国系オーストラリア人が主流のホスト社会にあってはエスニック・マイノリティとして位置づけられる。そうした状況の中で、エスニック・コミュニティを形成し、内部での結びつきを強めることで、自己防衛、相互扶助、そして、伝統文化、生活様式の維持(次世代への継承)をはかることは必要な対応であった。 その後、1974年にFIFAワールドカップ西ドイツ大会への出場を果たし、これを契機にマスメディアにおいてもサッカーが大きく取り上げられるようになるとともに、1977年にはナショナル・サッカー・リーグ(NSL)も発足した。1980年代には、少年を中心に競技人口も増加し、オーストラリアン・ルールズ・フットボールと並ぶほどの人気を有するようになったと主張されたが、プロの試合における観客は減少した。 これは、ヨーロッパからの移民の減少により、エスニシティを単位とする各クラブの支持基盤が揺らいできた一方で、各クラブの成り立ちがエスニシティを基礎としてきたために、一般の支持を得ることが難しかったためである。このようにオーストラリアにおけるサッカーは、移民あるいはエスニシティの問題と深い関係をもっている。 オーストラリアは、長年、オセアニアサッカー連盟(OFC)の強豪として名を馳せるものの、ワールドカップでは大陸代表になっても、現在のシステムでは大陸間プレーオフを勝ち上がらないと出場できないことになっているため、1974年の西ドイツ大会を最後に出場から遠ざかっていた。2006年のドイツ大会でようやく出場を果たしたが、対クロアチア戦では、オーストラリア代表には7人のクロアチア系の選手、クロアチア代表には3人のクロアチア系オーストラリア人がいた。 これはまさに、エスニック・スポーツとしてのオーストラリアのサッカー界を象徴しているものとなった。オーストラリアは、世界中から移民を受け入れてきたが、移民出身またはその子孫は、祖先の出身国におけるサッカー代表チームへも参加が認められており、多くの優秀な選手が他国ナショナルチームへと流出してきた。 オーストラリアは、アジアサッカー連盟(AFC)に移籍することとなり、それより早く国内サッカーのレベルアップを図ることを目指し、2005-06年シーズンの大会から参加チームを8チームに厳選して「Aリーグ」と組織改変して、韓国のヒュンダイ・モーターズ(現代自動車)をメインスポンサーにヒュンダイAリーグとして運営することになり、完全プロリーグを目指すことになった。なお、Aリーグには、ニュージーランドが1チーム含まれている。Aリーグのシーズンは、他の3つのフットボールと異なり8月~翌年1月までのオーストラリアでは、初春から夏にかけて行われる。 参考サイト http://en.wikipedia.org/wiki/A-league http://www.rdche.hit-u.ac.jp/~sports/2005ozaki.pdf |
|||
№779(2007/07/20) 第4章第3節 アソシエーション・フットボールの到来 |
|||
|
3 アソシエーション・フットボールの到来
足と脚を使うフットボールは、民俗フットボールからパブリック・スクールのフットボールを経て、ハロウ校、イートン校を代表とするランニング(脚)派とラグビー校を代表とするキッキング(足)派に分化する。 1863年キッキング派のクラブがロンドンでフットボール・アソシエーション(FA)を設立し、近代スポーツとしてのアソシエーション・フットボール(サッカー)のルールが統一化された。このとき、ラグビーの特徴であるボールを手に持って走るランニング・インが禁止された。 一方、ランニング派のラグビー校式フットボールを行うクラブも、ようやく1871年ロンドンでラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)を設立し、ラグビー・フットボールのルールを統一化した。 アソシエーション・フットボール(サッカー)は、世界で最も広く行われているフットボールであり、かつ最も人気のあるスポーツのひとつであるが、オーストラリアにおいては、オーストラリアン・ルールズ・フットボールやラグビーほどの地位は獲得していない。 ところで、サッカーの語源は、フットボール・アソシエーションのAssociationのsocという部分と名詞を短縮するerを結びつけたもので、1880年代に使われ始めたといわれる。サッカーという単語は、英国では死語であり、現在この言葉を使っているのは、日本、米国の他数カ国に過ぎないといわれる。 オーストラリアでもサッカーという名称を長く使ってきたが、2006年オーストラリア・サッカー連盟(The Australian Soccer Federation)からフットボール連盟・オーストラリア(Football Federation Australia)と改称した。ただし、オーストラリア・ナショナル・チームは「サッカルーズ」というサッカーとカンガルーの合成語となっている。ここではサッカーという言葉を使用する。 サッカーは、オーストラリアに1870年代になってやっと到来したされるが、記録に残っているオーストラリア最初の試合は、1880年8月14日とされ、この試合を含めて、オーストラリアにおけるサッカーの萌芽期は、パブリックスクールのOBたちによって主導されたもので、あまり一般には普及しなかった。 20世紀に入るころには、ラグビー・ユニオン(15人制)やラグビー・リーグ(13人制)のほうが人気となり、オーストラリアのどの州においても、サッカーは第2、第3のスポーツでしかなかった。その後サッカーは、1920年代に移民(このころの移民は英国系中でもスコッチ系)の流入が増加した時期に人気が高まったが、大恐慌によって移民が減少すると下火になった。 ※スコッチ系 スコットランド人は、ケルト系で、アングロサクソン系のイングランド人とは異なるが、宗教的には同じプロテスタントで、英語を話し、イングランドと連合王国を形成するスコットランド人は、英国系に含まれる。 第二次世界大戦後は、再び移民の流入増加に呼応するかたちでサッカー人気が高まったが、戦前とはその性質が異なったものであった。つまり、英国のみならず、全欧州地域から移民が流入するようになったことで、戦前にもまして、移民の出身地あるいはエスニシティと結びついたかたちで、クラブチームや競技団体が組織されるようになったのである。 参考サイト http://en.wikipedia.org/wiki/A-league http://www.rdche.hit-u.ac.jp/~sports/2005ozaki.pdf up |
|||
№778(2007/07/19) 第4章第2節 ラグビー・ユニオンの新時代 |
|||
|
2 ラグビー・ユニオンの新時代
過去2回ワールドカップで優勝しているオーストラリアは、その実績からは現在世界一の座にあるといえる。国内には、ラグビー・リーグ、オーストラリアン・ルールズ・フットボールといった類似するプロ・スポーツの存在が大きく、その中で唯一アマチュアのラグビー・ユニオンの人気は3番目に位置していた。しかし、1991年のワールドカップの優勝により国民にユニオンの存在をアピールすることができ、若干状況が変化する。 以前は地元新聞のスポーツ欄などでもリーグとオーストラリアン・ルールズの記事にはそれぞれ数ページ割かれるのにユニオンに関しては1ページあるかないか程度の扱いでしかなかった。それがワールドカップの優勝、さらに1995年のプロ化容認以降、この二つのプロスポーツと肩を並べるまでにそのステイタスが上がる。実際、プロ化直後の1996年のARUの年間収入は日本円に換算して15億円、それが2002年度には44億円と約3倍に増加している。もちろん主たる収入源はテレビの放映権料や大手企業からのスポンサー料である。 ARUの潤沢な資金は、国内プロスポーツの選手層にも影響を及ぼしている。特に最近増加の一途をたどるリーグ選手のユニオンへの流出はリーグ側からすると深刻な問題となっている。サラリーキャップ制のあるリーグ(NRL)よりも、財政的に豊かなユニオンのチームが提示する契約条件は魅力的で、当然ユニオンに移籍する有力選手が増加した。 第5回ワールドカップのオーストラリア準優勝の原動力となったバックスリー(両WTB、FB)、L.トゥキリ、W.セイラー、M.ロジャースはもともとラグビー・リーグでのキャップ保持者(代表経験者)であり、まさに象徴的存在である。それ以前は逆にユニオンは自らが抱える有望選手がリーグへ自発的に転向すること、そしてリーグのクラブによるユニオン選手の引き抜きに戦々恐々としていたのである。 また、観る方からしても、国際試合という観点からすると、基本的に国内で終わってしまうオーストラリアン・ルールズ・フットボール、限られた対戦相手しかいないラグビー・リーグからすると、ユニオンは世界との比較が楽しめる。しかも、2回もワールドカップを制した強さもあり、国民のユニオンに対する支持も年々高まりつつある。 ※スーパー14 1996年、マードックは、スーパー12というニュージーランド・オーストラリア・南アフリカの地域代表合計12チームからなるラグビーの国際リーグ戦「スーパー12」を組織化、放映権を獲得する。2006年シーズンに2チームが新規参入したため、スーパー14に名称変更された。スーパー12の内訳は、ニュージーランド5、南アフリカ4、オーストラリア3。これに2006年から南アフリカとオーストラリアの各1チームが加わり、スーパー14となった。14チームが1回戦総当りでリーグ戦を行う。そして、上位4チームがプレーオフに進み、優勝チームが決定される。シーズンは2月から5月。オーストラリアの4チームは、クィーンランド・レッズ、ニューサウスウェールズ・ワラタス、ブランビーズ、ウェスタン・フォース(2006年参入)。 http://www.jsports.co.jp/tv/rugby/super14.html http://en.wikipedia.org/wiki/Super_14 ※ARC オーストラリアでは、2007年の今年、8月からオーストラリアン・ラグビー・チャンピオンシップ(ARC)というラグビー・ユニオンのプロ・リーグが立ち上がる。ARCは、スーパー14とアマチュアのクラブチームとのギャップを埋めるために、クラブチームのシーズン(3月から7月まで)が終わる8月から9月にかけて8週間戦い、プラス2週間で上位4チームがプレイオフを行い優勝者を決める。チームの内訳は、ニューサウスウェールズ州3、クィーンズランド州2、首都特別区(ACT)1、ヴィクトリア1、西オーストラリア1。 参考文献 「500年前のラグビーに学ぶ」杉谷健一郎著 文芸社up |
|||
№777(2007/07/18) 第4章 オーストラリアのラグビーとサッカー
|
|||
|
1 大分裂後のラグビー・ユニオン
前章第6節から続く。第一次世界大戦の影響で、クィーンズランド州におけるラグビー・ユニオンが壊滅状態になる。そして、この時代からしばらくはニューサウスウェールズ州代表チーム「ワラタズ」がほぼオーストラリア代表となり、ヴィクトリア州のラグビー・ユニオンも一時的に興隆期を迎え、数名の代表選手を輩出する。1927-28年の名将J・ウォーレス率いるワラタズはの英仏遠征は、イングランド、スコットランドに惜敗するが、他のテストマッチには全て快勝し高い評価を得る。 第二次世界大戦後の1947-48年の英国・北米遠征でもオーストラリアは35試合行って、負けはウェールズのテストマッチ、カーディフ千、及びバーバリアンズ千のみで、他のホームユニオンにはトライを一つも許さなかったという素晴らしい戦績を残す。 1949年、ようやく復興してきたクィーンズランド・ラグビー・ユニオンとニューサウスウェールズ・ラグビー・ユニオンが合併し、オーストラリアン・ラグビー・フットボール・ユニオン(ARU)が設立される。しかし、その後1950年代から60年代前半にかけて、若干の低迷期を迎え、北半球とのテストマッチも勝てない時代が続く。 1967年の英国遠征でウェールズ初勝利を含む、テストマッチ3連勝を挙げ、復活の狼煙(のろし)を上げる。また、当時のオーストラリアはなぜかウェールズと相性が悪く、テストマッチには連敗が続いたがこの遠征で念願の初勝利を遂げる。 1970年代に入りARUは、ラグビー指導要領を各チームに配布し、特に小中高校生レベルに対して段階的にかつ計画的に統一されたラグビー技術を指導していった。つまり、選手がどこのチームに移っても戸惑うことなく、ほとんど同じ戦術・戦略で試合が行えるのである。この地道な努力が開花するのが1980年代である。 1977-78年のオーストラリア高校代表は世界遠征を実施し、無敗の記録を打ち立てる。その時に中心選手であったM.エラそして知将A.ジョーンズ率いるワラビーズ(ユニオンのナショナル・チーム)が1984年欧州遠征で初めてグランド・スラムを達成する。このチームにはエラのみならず、N.F.ジョーンズ、S.ポイデヴィン、D.キャンピージ、S.カトラー等、その後10年以上世界のラグビーを牽引する役者が揃っていた。 1987年の第1回IRBワールドカップもニュージーランドと共に優勝候補の一角に上げられたが、準優勝でフランスとの歴史的名勝負に惜敗した。しかし、1991年、1999年の第2回、第4回ワールドカップでは見事優勝を飾り、名実ともに世界一のラグビー大国として君臨する。2003年第5回大会を地元で迎えるにあたり、直前のトライ・ネイションズではニュージーランドに21-50と記録的大敗を喫し、本番での戦いが危惧された。 ※IRBワールドカップ 国際ラグビー評議会主催によるラグビーユニオンの国・地域別対抗の国際大会。1987年以降4年に1回開催されている。2007年の今年は第6回フランス大会がフランスと英国で9月から10月にかけて行われる。これまで5回の大会で優勝国は、ニュージーランド、南アフリカ、イングランドが各1回、表記のようにオーストラリアが2回の優勝を飾っている。 http://en.wikipedia.org/wiki/Rugby_World_Cup ※トライ・ネーションズ 1996年から始まった南半球の南アフリカ、オーストアリア、ニュージーランドのホーム&アウェイによるラグビーユニオンの三カ国対抗戦、主に6月から8月にかけて行われる。1996-2006の11シーズンで優勝は南アフリカ2回、オーストラリア2回、ニュージーランド7回 http://en.wikipedia.org/wiki/Rugby_Union_Tri_Nations しかし、逆にその結果がチームの結束力を生み、その4ヶ月後、ワールドカップ準決勝においてニュージーランドと再戦し、双方ほとんど同じメンバーでありながら22-10で宿敵を下す。残念ながら決勝ではイングランドとの死闘の末17-20で敗れるが、誰が見ても納得できる敗戦だっただけに、翌日の地元新聞でも批判の記事は珍しく少なかった。いずれにしても決勝、準決勝ともワールドカップ最多記録となる82,000人以上を動員し、オーストラリア国民の関心がさらにユニオンに注がれたことを証明した。 参考文献 「500年前のラグビーに学ぶ」杉谷健一郎著 文芸社up |
|||
|
参考映像⑤ ラグビー・リーグ
Rugby League Big Hits 2005 & 2006 Season NRL sonny bill williams highlights NRL State of Origin 25 Years - Part1 ステート・オブ・オリジン State of Origin 25 Years - Part2 ステート・オブ・オリジン rugby league tries イングランド・スーパーリーグ up |
|||
№775(2007/07/16) 第3章第10節 ナショナル・ラグビー・リーグ(NRL) |
|||
|
10 ナショナル・ラグビー・リーグ(NRL)
スーパー・リーグに加わった10チームのうち、パース(ウェスタン・レッズ)、アデレード、ハンターの3チームが短命のうちに消滅したが、マードックに靡(なび)いたARL既存チームの中で消滅したのは、1995年に加入したばかりのウェスタン・レッズだけであった。 1998年にヴィクトリア州初のチームとして、メルボルン・ストームが創設された一方、懲罰的な再編成が、マードックにさからったクラブに加えられた。サウス・クィーンズランドとゴールドコーストが消滅し、在シドニークラブが再編成の中心となった。 シドニー郊外の南部では、1921年創設で過去15回の優勝を誇るセントジョージ・ドラゴンズが、イラワラ・スティーラーズと合併し、セントジョージ・イラワラ・ドラゴンズ(1999~)となった。このチームは、シドニーとウロンゴンとのダブル・フランチャイズである。 シドニー郊外西方では、ARLの創設クラブ(1908~)で、優勝11回を誇るバルメイン・タイガーズが、同じ創設以来のクラブであるウェスタン・サバーブズ・マグピーズと合併し、ウェスツ・タイガーズ(2000~)となった。 創設1908年というARLの創設クラブの中でもサウス・シドニー・ラトビーズは、過去20回の優勝、そして国際試合のためにチーム横断的に編成するカンガルーズに過去60名の選手を送りだしてきた名門であったが、スーパー・リーグに靡かなかったばかりに、1999年を最後に二分割されそれぞれシドニー・ルースターズ(1935~)とブルドッグス(カンタベリー・バンクスタウン)に吸収された。 マンリー・ワリンガーはリーグ最強チームで、近年こそ財政難だったが、かつてはシドニーで一番豊かだった。そのマンリーは創設クラブ、ノース・シドニーと統合されノーザン・イーグルズ(2000~)に変わった。こうした制裁的な再編成により、NFLは予定どおり2000年のシーズン前には、14チームとなった。この時点における地域別のクラブ数は、ニュージーランド1、ヴィクトリア州1、ACT1、クィーンズランド州2、ニューサウスウェールズ州9(うち、ニューカッスル1、ウロンゴン0.5、シドニーとその近郊が7.5)。 サウス・シドニーとマンリーの二つの名門チームは、やがて、ファンの後押しと法廷闘争により復活する。サウス・シドニー・ラビトーズは2002年に復活し、このため、同年からNRLは15チーム制となった。マンリーは2003年ノーザン・イーグルズから改称する形で復活を遂げた。また、2007年からゴールドコーストがタイタンズとして復活、16チーム体制に至っている。 NRLのレギュラー・シーズンは、オーストラリアの初秋から冬に当たる3月中旬から9月初頭にかけて、各チームは、25週の間に24試合を戦う。このうち上位8チームが、ファイナル・シリーズに進出し、ノックアウト方式に敗者復活を加味したMcIntyre Final Eight Systemでグランド・ファイナルを目指し戦う。NRLのグランド・ファイナルは、9月の最終日曜日又は10月の第一日曜日にシドニーのテレストラ・スタジアム(前オリンピック・スタジアム)で行われる。 NRLとAFLのシーズンは、時期もプレイ・オフも似たようなものだが、異なるのが、NRLには、英国スーパー・リーグのチャンピオンとの対決・ワールド・クラブ・チャレンジがある。リニューアルした2000年以降の対戦成績をみると、NRLは2勝6敗である。 ※英国スーパー・リーグ ルパート・マードックが、オーストラリアと同様、1996年に英国ラグビー・リーグを再編成し、英国11、フランス1チーム、計12チームによるラグビー・リーグのトップ・リーグ。設立時からユニオンとの競合を避けるため、冬から夏にシーズンが変更になった。結果的にNRLとシーズンが同じになった。http://en.wikipedia.org/wiki/Super_League_%28Europe%29 ※ワールド・クラブ・チャレンジ http://en.wikipedia.org/wiki/World_Club_Challenge 現在のNRL 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店 参考サイトWikipedia, the free encyclopedia http://en.wikipedia.org/wiki/National_Rugby_League up |
|||
№774(2007/07/15) 第3章第9節 スーパー・リーグ戦争 |
|||
|
9 スーパー・リーグ戦争
ARLの背後には、チャンネル9を擁するマードックの宿敵、パッカー一族の当主ケリー・パッカーが控えていた。彼は、電話会社オプタス社傘下の有料テレビ局オプタス・ヴィジョンとともに2000年まで有料テレビを含めた試合の放映権を独占していた。この牙城を破るには、マードック側はARLを分裂させ、競合リーグを創出するしかなかった。 1995年3月ブリスベン・ブロンコスを筆頭に8チームがスーパー・リーグと署名、イラワラもその予定だったが、情報がパッカー側に漏れ、八方から圧力の手が伸び思い止まった。 パッカーとオプタス・ヴィジョンの支援を背景に、ARLはニュース社を訴え、11ヶ月後の1996年2月、勝訴した。これでスーパー・リーグ開設は、2000年まで先送りされたが、離反選手らは判決に従わず、ニュース社に支援のFAXを送りつけ、騒動は、泥沼状態に陥った。2006年のシーズンは、辛うじてARLの20チーム体制が維持されたが、2007年は、ARLからスーパー・リーグ勢が分離独立し、分裂したシーズンとなった。 スーパー・リーグには、ブリスベン、クロヌラ、キャンベラ、カンタベリー、ペンリス、オークランド、パース(ウェスタン・レッズ)、ノースクィーンズランドのARL既存8チームに新チーム・アデレード・ラムズ、ハンター・マリナーズを加え10チームが参加。このうちシドニー勢は4チーム。アデレードは、南オーストラリア州初のプレミアチームとなる。 ARL側に残った12チームはマンリー、ニューカッスル、パラマッタ、ノース・シドニー、シドニー・シティ、イラワラ、ゴールドコースト、バルメイン、ウェスタン・サバーブズ、セントジョージ、サウス・シドニー、サウス・クィーンズランドで、うちシドニー勢は8チームであった。 ラグビーリーグの分裂は、深刻なファン離れと各クラブの財政難をもたらすととなった。この状況から、ARL側は直ちに離反選手はもとより、ニュース社にも柔軟な姿勢をとった。企業規模では到底かなわないケリー・パッカーもニュース社の責任者ケン・カウリーに他意はないとエールを送った。 ARLは、1997年12月、離反選手を含み込めるようスーパー・リーグとARLを対等の立場で合体させてNRL(ナショナル・ラグビー・リーグ)に改組、95年から3年に及んだ闘いに終止符が打たれた。しかし、1914年以来、シドニー都心のフィリップ・ストリートに置いてきたARL本部をマードック側の用意したシドニー・ショーグラウンド内に移し、資金的にもニュース社におんぶに抱っこ、完全にマードックの軍門に下った形である。しかも、このとき、NRLは、2000年までに22に膨らんだチームを合同させ、地域に分散させて14に絞り込むことも決められた。 スーパー・リーグ戦争の前から、ARLは年俸上限を180万ドルと決めたが、マードック側は、400万ドルという声も出した。この流れが選手を浮き足立たせ、従来のチームでは運営不可能になっていた。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店 参考サイトWikipedia, the free encyclopedia http://en.wikipedia.org/wiki/National_Rugby_League up |
|||
№773(2007/07/14) 第3章第8節 オーストラリアン・ラグビー・リーグ(ARL) |
|||
|
8 オーストラリアン・ラグビー・リーグ(ARL)
1980年代になるとテレビ時代を迎え、VFLが全豪化を目指したように、NSWRLも広域化を図った。1982年には、首都特別区のキャンベラ・ライダースとニューサウスウェールズ州第三の都市ウロンゴンのイラワラ・スティーラーズが加わり14チーム体制となる。その一方で、シドニー一極への過度の集中は、クラブの財政悪化を招き、NSWRL創設クラブのひとつであるニュータウンが脱退し13チームとなる。この時代から在シドニー・クラブの整理統合が課題となっていた。 1988年には、ニューサウスウェールズ州第二の都市ニューカッスル・ナイツとクィーンズランド州のブリスベン・ブロンコス、ゴールドコースト・ジャイアンツが加わり、16チーム体制とクィーンズランド州への進出を果たした。 クィーンズランド州は、ニューサウスウェールズ州と並び、ラグビーリーグの盛んな州で、長い間、NSWRLへの選手供給基地の立場にあった。いってみれば、オーストラリアン・ルールズにおけるヴィクトリア州と南オーストラリア州と同じ関係にあった。89年、ゴールドコーストがジャイアンツからシーガルズに改称。94年、イースタン・サバーブスが、シドニー・シティ・ルースターズ(2000年からシドニー・ルースターズ)と改称した。 1995年、シドニー近郊から広域化したとは言っても、ラグビー・リーグの牙城であるニューサウスウェールズ州(キャンベラを含む)とクィーンズランド州に限定されていた。プレミアシップ(トップ・リーグ)を全豪に拡大するため、プレミアシップの統轄機関をNSWRLからARLに移管、ニュージーランド初のオークランド・ウォリアーズ、西オーストラリア州初のウェスタン・レッズ、クィーンズランド州のノース・クィーンズランド・カウボーイズ、サウス・クィーンズランド・クラッシャーズの4チームが加わり20チーム制となる。 AFLがメルボルン主導なのに対して、ARLは昔からシドニー主導だった。しかし、双方とも別の州のチームが強くなり、昔ながらの体制に反抗し始めていたのと、各リーグも互いの観客を奪わなければ収入増が望めないので、メルボルンやシドニーに集中しすぎたチームを他州に移すなどして、自リーグの他州への展開を実行に移し始めていた。その矢先に事件が起こった。 1994年11月、オーストラリア出身の世界的メディア王ルパート・マードックは、オーストラリアに拠点を置くニューズ社の責任者ケン・カウリーを指揮官として、隠密裡にARLを分裂させ、スーパー・リーグを創出しようとした。また、同時にAKU(オーストラリアン・ラグビー・ユニオン)にも8億豪ドルを投下して、アマチュアからプロに転向させ、スーパー12というリーグを出現させた。マードックの狙いは、フォックステル・ペイなど有料テレビのソフトにスーパー・リーグを活用することだった。 ARLの場合、クィーンズランド州のブリズベン・ブロンコスは、近年戦績でシドニー勢を圧倒してきていたので、シドニー主導に強い不満を抱いていたところへ、マードック側から個々の選手に対して従来の平均年俸15万豪ドルを50万豪ドルにすること、ニューズ社の有料テレビ網を通して世界に放映する、さらにはイングランド、オーストラリア、ニュージーランドの勝者同士で争うスーパー・スーパー・リーグも実現させるなどの好条件を餌にスーパー・リーグ創出の核になることを要請された。 ニュース社は、ニュージーランドも視野に入れていたから、オークランド・ウォリアーズも取り込んだ。このチームはARLに参加したばかりのくせに、あっという間にスーパー・リーグに乗り換えたのである。むろん、ARLは紛糾に紛糾を重ね、膨大な数のファンが離れ、代わって他州への拡張期にあったオーストラリアン・ルールズのAFL、特にメルボルンからシドニーに送り込まれたスワンズがおびただしい観客を集めて漁夫の利を占めた。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店 参考サイトWikipedia, the free encyclopedia http://en.wikipedia.org/wiki/National_Rugby_League up |
|||
№772(2007/07/12) 第3章第7節 ラグビー・リーグ |
|||
|
7 ラグビー・リーグ
1895年の「大分裂」の当初は、ラグビー・リーグも、ユニオンと同じルールであったが、既にイングランド北部の数チームで試行されていた13人制はさらに改良され、危険防止のため廃止されたラック・モール・ラインアウトの廃止は、止まるプレーの要素を削ったことになり、よりスピーディーな試合展開ができるようになっていった。 さらに、シンビン(退場の代わりに5分か10分間出場が停止される制度)の制定の他、特にニューサウスウェールズで制限タックル・ルールが設けられ、6タックル後にはスクラムを組まずに、攻撃側から相手チームにボールが渡されることになった。テレビの発達にともない、ラグビー・リーグのルールも試合の動の部分を強調するようになったのである。 ※ラグビー・リーグのルール../japaneserugbyleague/rule.html なお、アマチュアのユニオンに対し、プロフェッショナルのリーグというイメージが強いが、ラグビー・リーグでプロ・リーグがあるのはイングランドとオーストラリア(あとニュージーランド)ぐらいで、他の国は、プロ・リーグとしては規模が小さいため、せいぜいセミプロに過ぎない。 ところで、ニューサウスウェールズでは、NSWRLが、1908年グリーブ、サウス・シドニー、ニュータウン、イースタン・サバーブズ、ノース・シドニー、バルメイン、ウェスタン・サバーブズ、ニューカッスルにカンバーランドを加えた9チームで戦い、サウス・シドニーがラグビー・リーグの初代優勝を飾った。1908年でカンバーランドは去り、翌09年~19年まで8チーム制。1910年には脱退したニューカッスルに代わり、アナンデイルが参加。1920年にシドニー大学が加わり9チームに戻り、翌21年にはアナンデイルに代わりセント・ジョージが参加。 ※1908年のhttp://en.wikipedia.org/wiki/New_South_Wales_Rugby_Football_League_season_1908 1929年まででグリーブが去り、8チームに戻る。1935年にカンタベリーが参加し、9チーム制となるも、37年まででシドニー大学が去り、8チーム制が第二次大戦後まで続く。戦後の1947年マンリー・ワリンガ・シーイーグルズとパラマッタ・イールスが参加し、10チーム制となる。1967年クロヌラ・シャークスとペンリス・パンサーズが参加12チーム制となった。 NSWRLがシドニー近郊に止まっていた時代、NSWRL初代チャンピオンとなったサウス・シドニーは、1920年代後半及び1950年代に最強のチームとなった。イースタン・サバーブズ(1930年代)やセント・ジョージ(1956年から1966年)も一時期黄金期を迎えた。 クィーンズランドでは、1909年以降、ブリスベンで組織化された試合が行われるようになった。また地方でもトゥウンバやイプスウィッチなどのチームが優勢な時代があった。しかし経済的な理由から、クィーンズランドからシドニーのクラブチームへ移るものも多く、優秀な選手不足に悩まされてきた。しかし、ステート・オブ・オリジンの試合の導入(1980年)以後は、クィーンズランドとニューサウスウェールズの対抗戦での力は均衡している。 ラグビー・リーグでは、ニュージーランドのキウィズとの定期戦が特徴となっている。また英国へのナショナル・チーム「カンガルーズ」の遠征も、ラグビー・リーグの重要な特徴であり、1963年から64年のカンガルーズの遠征以降両者の力は均衡している。オーストラリアへの英国のチームの遠征も1910年から定期的に行われている。1950年には、20年の唯一の勝利以来、オーストラリアは初めて英国を破った。その後何度か英国を破り、オーストラリアでは国際試合への関心が高まった。フランスとの定期戦、1954年からのワールドカップはその表れである。 ※ラグビー・リーグ・ワールドカップ 1948年英国、フランス、オーストラリア、ニュージーランドにより設立されたラグビーリーグ国際連盟(RLIF)(本部はオーストラリア・シドニー)により1954年から開かれているラグビーリーグの国別・地域別対抗の国際大会。ワールドカップは、ラグビーユニオンよりも長い歴史を持つ。南半球のラグビー・リーグ100周年を記念して第13回大会が2008年10月~11月オーストラリアで開催される。12回の大会で英国が3回、オーストラリアが9回優勝を飾っている。特に、オーストラリアは、6連勝中。 http://en.wikipedia.org/wiki/Rugby_League_World_Cup ラグビー・リーグは、初期の頃は多くの論争があり不安定だったが、1910年以降安定期を迎えた。 1924年にはARL全国評議会が設立され、1940年代からダーウィンや西オーストラリアでも試合が行われるようになった。1960年から1973年のW.G.バックリーが議長の頃、リーグの人気は1つのピークを迎えた。もちろん、評議会はNSWRLの支配下にあった。 他方、クィーンズランドでは組織内で分裂があった。1970年代には一時期人気にかげりが見えたが、改革が行われ、1980年代にはテレビの影響などから再びラグビー・リーグへの関心が復活してきた。ラグビー・リーグは時代に常に適応しようとした結果、ニューサウスウェールズとクィーンズランドで最も人気のある冬のスポーツになっていった。 参考文献 「500年前のラグビーに学ぶ」杉谷健一郎著 文芸社 参考サイトAustralian History Dictionary - Index http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/RugbyUnion.html http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/RugbyLeague.html Wikipedia, the free encyclopedia http://en.wikipedia.org/wiki/National_Rugby_League |
|||
№771(2007/07/11) 第3章第6節 「大分裂」前のラグビー・フットボール |
|||
|
6 「大分裂」前のラグビー・フットボール
オーストラリアは、南半球で最も早くラグビーが行われた国である。記録では、1859年にメルボルンのメルボルン・グラマースクールとセント・ギルダ・グラマースクールとの間でラグビー校式のフットボールが実施された。 ところがメルボルンでは、ラグビー校の留学経験を持つ英国系のトーマス・ウィルズが「ラグビーは家業を持つおとなにはむりな競技だから」とゲーリック・フットボールに似た独自のフットボール(後のオーストラリアン・ルールズ・フットボール)を作り、1859年には最初のメルボルン・クラブを創設するなど早くから組織化されたため、ヴィクトリア州はラグビー不毛の地となった。 その後、ラグビーの発展の地は、ニューサウスウェールズ州のシドニーに移される。1864年にはシドニー大学、そしてシドニー・クラブが設立されている。この2チームの発足をきっかけに、その後の10年間で約100のクラブチームがシドニー及び周辺地域に設立される。ちなみに、ラグビー・フットボールが正式に誕生したのは1871年のラグビー・フットボール・ユニオンの設立によるので、それ以前はラグビー校式のフットボールということになる。1874年にはシドニー内の9チームが集まり、サザン・ユニオン(南部協会)を設立、1892年にはその活動範囲が拡大したことから名称を、ニューサウスウェールズ・ラグビー・ユニオンに変更する。 また、同時期もう一つのラグビー人気地域であるクィーンズランドでも、ラグビー・クラブが1867年に設立されている。1878年にはエクセルシャー・クラブの発足により、本格的にラグビー競技が開始された。1883年には、北部協会(ノーザン・ユニオン)が南部協会の援助を受け設立され、1892年南部同様名称をクィーンズランド・ラグビー・ユニオンに改名する。他の州でもラグビーは広がるが、人口が少ないこともあり、この2州以外では現在の首都特別区(ACT)しかラグビーのレベルは高くない。 1880年代に入ると本格的なラグビーの拡大が起こり、1882年にはニューサウスウェールズとクィーンズランドとの対抗戦も行われるようになった。しかし、大衆的なスポーツとしてのラグビーの発展は、シドニーの郊外化を反映する郊外地域間の対抗戦の拡大が、さらなる発展には必要であった。世紀転換期には、郊外地域を基盤とするチームが結成されるようになった。 シドニー及びオーストラリアにおけるラグビーの大分裂は、1907年にニュージーランドのプロチームが、英本国への途上訪問した際に生じた。英本国におけるラグビー・ユニオンとラグビー・リーグの分裂と同じようなことが、オーストラリアでも起こったのである。ラグビーは、もはや学生や上流階級・中産階級だけのゲームではなく、労働者階級も試合に出場し、賃金の損失の補償や、傷害の治療費を要求するようになっていた。 ジェントルマン的な支配に反発した人々は、1907年ラグビー・ユニオンに対抗するラグビー・リーグ(ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグ(NSWRL))を設立した。1908年4月から、このリーグのもとで9チームが試合を始めた。他方、クィーンズランドでも同年3月に、ラグビー・リーグ連盟が設立されていた。 ラグビー・ユニオンは、1908年から翌年にかけてオーストラリアのナショナル・チーム、ワラビーズを英国に送り出したが、1909年のシーズンの後半期において、この選手たちがアマチュアリズムの規範を犯したことが分かった際、シドニーにおける分裂は決定的となる。妥協は成立せず、ユニオンも安易な解決を望まなかったので、優れた選手たちはラグビー・リーグに移って、プレイをすることになった。シドニーの主要なグラウンドはリーグが押さえ、ユニオンは停滞を余儀なくされた。 第1次世界大戦の間、ニューサウスウェールズとクィーンズランドのラグビー・リーグは中断せずに繁栄を続けたが、ラグビー・ユニオンは試合を中止し、その影響力はさらに低下した。 参考文献 「500年前のラグビーに学ぶ」杉谷健一郎著 文芸社 参考サイトAustralian History Dictionary - Index http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/RugbyUnion.html http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/RugbyLeague.html up |
|||
№770(2007/07/10) 第3章第5節 アンビバレンスなオーストラリア |
|||
|
5 アンビバレンスなオーストラリア
オーストラリアは、未だに英国王をオーストラリア国王とする立憲君主国である。1999年11月共和制移行の国民投票が行われたが小差で否決され立憲君主制が維持されることとなった。共和制運動は19世紀の中頃から既にあって、その中心となってきたのが、イングランドに800年に渡って祖国を支配されてきたアイルランド系移民とその子孫たちであった。英国からの独立は彼らの悲願であった。 一方、オーストラリア国民の多数派を占めてきた英国系の感情は複雑だ。オーストラリア人は、白人種といっても他の英語圏(米国や英国など)の人々からは強い訛りのため差別的な扱いを受けることが多かった。そのため、概して差別に対して敏感であり、公私を問わず差別的な発言がなされることが滅多にない。また、差別的発言を行った者には、しばしば強い非難が浴びせられる。 オーストラリア訛りについて、よく言われるのは「エイ」の発音が「アイ」に聞こえる(前章第4節参照)というもので、それは映画「マイフェアレディ」にも出てきたロンドン下町の労働者階級で使われている「コックニー」と呼ばれるアクセントが定着したためと言われている。流刑囚人のうち、当初はロンドンの下町出身者が多かったし、その後はオーストラリアに渡ってきた英国系の多くが、労働者階級の出身者であった。 米国やオーストラリアのような英語圏の新世界国家は、英国に対して依存(憧れ)と反発を同時に感じてきた。この二律背反的かつ両面価値的感情は、米国のように対英独立戦争で母国との絆を断った国の国民ですら未だには完全に払拭できてない。米国人の中にも英国に帰化する者の流れが跡を絶たない。ましてや、独立戦争で母国との絆を切り損ねた英国系オーストラリア人の場合、依存と反発の矛盾の深刻さは米国人の比ではない。 800年に渡ってイングランドに抑圧されてきたアイルランド人は、民族意識は高いが国家意識は乏しいとされる。内なるアイルランドを構築するためにゲーリック・ゲームスが位置づけられた。オーストラリア人は、オーストラリアという国家意識が高い訳でもなく(他国の元首を自国の元首にまつっている)、かといって民族意識が高いというわけでもない(なにせ文化多元主義が国是なのだから)。オーストラリアには、英国人であることを忘れられないオーストラリア人がいた。up |
|||
№769(2007/07/09) 第3章第4節 白豪主義から文化多元主義へ |
|||
|
4 白豪主義から文化多元主義へ
英国の植民地としてスタートしたオーストラリアの住民は、初期には英国本土とアイルランドからの移民がほとんどであった19世紀後半は、白人の優越を原則とする「白豪主義 (White Australia policy) 」が台頭した時代でもあった。 その大きな要因はゴールド・ラッシュである。前章の通り、中国人が金鉱採掘のため大量に流入し、競争相手たる白人採掘者との間に摩擦が生じた。白人の反感は中国人の移住制限となって現れた。対象は砂糖黍生産のため連れて来られたオセアニア諸国の人々(カナカ人)や真珠採取のための労働力となった日本人など、他の有色人種にも拡大し、大英帝国の一員であるはずのインド人にまで規制が加えられた。 その手段として用いられたのが、「ナタール方式(南アフリカのナタールで行われた方式)」と呼ばれる語学試験であった。これは、担当官が読み上げるヨーロッパの言語による文章を移住希望者に書き取らせるというもので、これによって非欧米系の移住希望者は軒並み排除された。他方で、英国本土やアイルランドからの移民は積極的に受容された。 こうした動きと並行して、法制の整備も進んだ。植民地政府は1855年、中国人がヴィクトリアに入国する際に課税をする移住制限を実施。この動きは周辺の植民地にも拡大し、クイーンズランドでは1877年に「中国人移民制限法」が、ニュー・サウス・ウェールズでは1896年に「有色人種制限及び取締法」が制定された。1901年に制定された連邦憲法の第51条には、移民を制限する権利や、有色人種を対象とする特別法を制定する権利を連邦が持つことが明記された。これを根拠に「連邦移民制限法」が成り、有色人種の移住制限が全土に適用されることとなった。 こうしてオーストラリアは、世界で初めて人種差別を国是として法制化した国家となった。1940年頃にその有色人種の国内人口に占める割合はもっとも小さくなった。第二次世界大戦中には米国の黒人部隊の上陸を拒否したほどである。 第二次大戦で日本の侵攻に怯えた結果、大戦後、オーストラリアは人口増を目指して、人口2500万人を目標にした大量移民計画を発表した。これはアジアに対する開放ではなく、あくまで英国人やアイルランド人をさらに大量に受け入れることで白豪主義を完成させるためのものであった。しかし実際には、東欧からの移民が多数派を占め、その後イタリア、ギリシャを中心とした南欧諸国、トルコ、中近東、東アジアからの移民が増えていきオーストラリアの労働力を支えるようになると、従来の人種差別政策は撤回していかざるを得なくなっていった。 これが「オーストラリアは文化多元主義(マルタイカルチュライズム)を国是」とするフレーザー政権の当然の帰結となった。文化多元主義とは、マイトシップの輪を英国系やアイルランド系以外の民族集団に広げることを意味し、白豪主義の廃棄につながったといえる。いまでは、2000万人の人口のうち4分の1は外国生まれとされている。up |
|||
№768(2007/07/08) 第3章第3節 ガリポリ・ナショナリズム |
|||
|
3 ガリポリ・ナショナリズム
そのようなオーストラリアの人々にナショナリズムを高揚させる「ネイション」の神話は、第一次世界大戦に派兵することによって創造された。第一次世界大戦で、アンザック軍(ANZAC)と呼ばれるオーストラリア、 ニュージーランド連合軍は1915年4月25日、トルコのガリポリ半島においてトルコ軍と激戦を交え多数の犠牲者を出した。オーストラリアにとって敗戦であったにもかかわらず、ガリポリ戦はオーストラリア人のナショナリズムを大きく刺激する事件となり、アンザック・デイとして記念されることになる。 当時のオーストラリアは、総人口が500万人に満たなかったが、第一次世界大戦で33万人の兵士を投入し、6万人の命をなくした。その代償とし得たものは国際連盟への加入であった。これにより、オーストラリアは国際社会において独立国として認められることになる。しかしながら、白豪主義を国是とするオーストラリアは、国民国家としてのナショナリズムを高揚させるよりも、本国英国との人種的連帯をより多くの人々に強く意識させた。オーストラリアの人々は、オーストラリア人としてのアイデンティティと英国人としてのアイデンティティを同時に持ち続けたのである。 大英帝国のうち、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは長年自国の軍隊と外務省を持たず、国防と外交を大英帝国に任せていた。これらの国々は1931年のウェストミンスター憲章によって、自治領の立法権が英国と完全に同権とみなされ、自国の国防軍と外務省を持つこととなった。フランス語圏のケベック州を抱えるカナダは、ナショナリズムの高揚、実質的な独立として同憲章を高く評価するが、ホームである英国との関係が絶ちがたいオーストラリアが同憲章を承認したのは、第二次世界大戦(1942年)になってからであった。オーストラリア人は、国民国家としての独自性を追求していたが、大英帝国の解体も望んでいなかった。 なお、同憲章は、カトリックのアイルランド自由国、アフリカーナーを抱える南アフリカ連邦は、直ちに批准し、オーストラリア以上に英本国との関係を絶ちがたかったニュージーランドが同憲章を承認したのは、戦後の1947年になってからであった。また、同憲章の発布された1931年をもって大英帝国から英連邦の移行とされる。 1941年第二次世界大戦が勃発し、オーストラリアは米国、英国を中心とする連合軍として参戦した。翌42年2月には、北部ダーウィンを中心とする一帯を日本軍に攻撃され、町は壊滅状態になった。この戦争により、オーストラリア人の国民意識は高揚し、独立国家としての明確な国民意識を持ち始めた。本土の危機に直面したオーストラリアは、中東の兵を回収した。苦戦を強いられる英国はオーストラリアに満足な支援を行う余裕を持たず、失望したオーストラリア国民の間からは、米国を頼る声が高まった。 1942年3月、フィリピンから脱出したダグラス・マッカーサーがオーストラリアに赴き、西南太平洋連合軍最高司令官として戦争を指揮した。1942年は、オーストラリアの対外政策の主軸が英国から米国に転換する画期となった。 戦後の米ソが対立する冷戦下において、米国の太平洋における影響力をもって、アジアの共産主義の脅威に対抗する道をとる必要から、オーストラリアは、1951年米国・ニュージーランドとの間で通称アンザス同盟と呼ばれる軍事同盟を結んだ。第二次世界大戦後に英国の軍事的な影響力が低下したため、同じ価値観の資本主義国である米国の軍事的な傘の元に入ることを望んだ。1966年には、英ポンドに代わる10進法に基づく、オーストラリア・ドルが導入され、対英依存の弱まりが次第に鮮明になっていった。up |
|||
№767(2007/07/07) 第3章第2節 シドニーとメルボルン |
|||
|
2 シドニーとメルボルン
乾燥大地が広がるオーストラリア大陸だが、南東部は降水量が適度にある温帯性気候で、人口はこの地域に集中し、オーストラリア本土最高峰のコジオスコ山を挟んで東側にオーストラリア最大の都市シドニー、南側に第二の都市メルボルンがある。 近年では、海洋文化の発展によりクィーンズランド州の人口増が著しいが、長年に渡ってオーストラリアの中心は、シドニーを州都とするニューサウスウェールズ州とメルボルンがあるヴィクトリア州であった。現在でも、合わせても国土の13%ほどの面積に過ぎないこの二州に、全国総人口の86%が集中している。 また、大都市への人口集中が著しいのもオーストラリアの特徴で、ニューサウスウェールズ州に占めるシドニーの人口の割合は6割、同じくヴィクトリア州におけるメルボルンのそれは、なんと7割を超える。そして、この二大都市だけで、全国の4割にあたる人口が集中している。オーストラリアを代表するシドニー(ニューサウスウェールズ州)とメルボルン(ヴィクトリア州)は、ライバル関係にあった。※オーストラリアの人口ついてはhttp://discover.australia.or.jp/chapter01/004.html参照 シドニーは、1770年キャプテンクックが上陸した地であり、1788年アーサー・フィリップ提督率いる第1船団が入植を開始した地でもある。シドニーはオーストラリア生誕の地であり、シドニーのあるニューサウスウェールズ州は母なる州といわれる。実際、西オーストラリアを除くタスマニア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランド、ノーザンテリトリーは、全て19世紀半ばにかけてニューサウスウェールズ植民地から分離独立してできたものである。ニュージーランドでさえ、一時的に属していた。オーストラリアに入植が始まって以来、ニューサウスウェールズ植民地と首府シドニーは、オーストラリアの中心であった。 ところが、そのシドニーとニューサウスウェールズ植民地を上回る発展を遂げたのが、1851年のゴールドラッシュ以降のヴィクトリア植民地とその首都メルボルンであった。なんとメルボルンは大英帝国第二の都市、南半球では最大の都市となり、1880年には南半球で初の万国博覧会が開催されている。しかし、資源と地の利に恵まれたシドニーとニューサウスウェールズ植民地は、順調な発展を遂げ、1890年代の前半にはオーストラリアで最も人口の多い植民地に再びなった。その10年後には、シドニーもメルボルンを抜き再びオーストラリア最大の都市となった。 連邦化に当たっては、全ての植民地が統一関税を望ましいとされたが、その内容をめぐってヴィクトリア植民地(保護関税派)とニューサウスウェールズ植民地(自由貿易派)が対立し連邦化は10年間先送りされた。そもそも、ニューサウスウェールズとヴィクトリアは、伝統的な対抗意識だけでなく、商業や輸出産業に依存し、潤沢な財政収入を頼りに自由貿易政策をとるニューサウスウェールズと工業が発達し、保護貿易政策をとるヴィクトリアはかねてから対立関係にあった。連邦の結成によって予想される保護関税の導入に対し、その税の負担増を懸念するニューサウスウェールズでは反対派が強く、工業製品の市場拡大を予想するヴィクトリアでは賛成が圧倒的であった。 このため、ニューサウスウェールズは連邦化の交換条件として、連邦首都をシドニーに置くことを要求した。これに対し、ヴィクトリアを筆頭に他の植民地が強く反発し、最終的には、シドニーとメルボルンの中間地点にあたるニューサウスウェールズ内に首都特別区(ACT)を設けることになり、1911年に新たな連邦首都としてACTが分離され、そこにキャンベラが建設されることになった。キャンベラが1927年に完成するまでメルボルンに仮の首都が置かれた。 さらに驚くのは、シドニー・メルボルン間を結ぶ直行列車が走るようになったのは1962年で、なんと80年に渡ってオールバリーでの折返し運転が行われていた。また、同年にはシドニー、キャンベラ、メルボルンを結ぶ最初の電話線がやっと開通している。 ところで、流刑植民地として出発したことは、ニューサウスウェールズの大きな特徴をなしているが、他の流刑植民地と異なり、シドニーでは元囚人の入植者も早くから収入を得て、定職につき、市民としての責任を負うようになった。また、その子孫は高い社会的地位を獲得した。ところが、19世紀に自由移民によって作られたヴィクトリアや南オーストラリアにとっては、流刑植民地という起源は好ましいものではなかった。初期の流刑囚についての歴史は、オーストラリア人にとって重大な関心事となっている。up |
|||
№766(2007/07/06) 第3章第1節 オーストラリア連邦の成り立ち |
|||
|
1 オーストラリア連邦の成り立ち
オーストラリアの人々は、米国のように母国英国から戦争によって独立を勝ち取るという体験を経ないまま、1901年にオーストラリア連邦を結成し、大英帝国の自治領として独立への道を歩み始めた。しかし、オーストラリアには英国から自立するだけの国力は備わっておらず軍事と外交は英国に依存していた。そのため、連邦結成当初から、自分自身が州や地域の枠組みを超えたオーストラリア人であるという意識は比較的希薄であった。 オーストラリアは、移民の国である。人口の実に98%が1788年以降の移民とその子孫であった。しかし、オーストラリア人が自国を移民の国だと自覚するようになるのは、漸く第二次世界大戦後のことである。オーストラリアに来た移民は、ブリテン諸島の住人、即ちイングランド人、アイルランド人、スコットランド人が圧倒的だったので、その多くは、別の国に移住するというよりも、オーストラリアに第二の英国を生み出しているのだと感じてきた。 オーストラリアは、地球上最もヨーロッパから遠い位置にあった。それゆえ、十分な資金を持たない移民は、高い渡航費が自弁できず、オーストラリアに移動することは事実上不可能であった。これを可能にしたのが初期の流刑制度であり、後の補助移民制度であった。植民地の最初の半世紀の移民労働力は、その殆ど全てが囚人によって提供された。 また、その後の移民の3分の2は渡航費の全額あるいはその多くを政府から援助された補助移民であった。移民への補助は、基本的にブリテン諸島の出身者に対して行われたので、移民が増えることで、オーストラリアは均質化した。他方、白豪主義政策は、人為的な補助を必要としない、隣接したアジアからの移民を禁止したので、オーストラリアの社会は自発的な移民によって多様化することはなかった。 白人オーストラリアの住民の多くが、その短い歴史のほとんどの間、オーストラリアが大英帝国の一部であることを自覚し、そのことを誇りに抱いていた事実を消すことはできない。ホームという言葉ほど、オーストラリア人の気持ちを表す自然な表現はない。オーストラリア生まれが増加し、英国からの移民が少数派に転落しても、英国は長らくホーム(故郷)であり続けたのである。本当の意味でオーストラリアを移民の国にしたは、第二次世界大戦後のヨーロッパ大陸諸国からの移民と1970年代以後のアジアからの移民たちが来てからである。 そもそも、19世紀が終わるまで、オーストラリアという政治的領域は存在しなかった。ニューサウスウェールズ植民地が建設されて以来、ヴァンディーメンズランド(タスマニアの旧称)、西オーストラリア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランドの各植民地は、1850年代に自治権が認められたのちも、母国英国と直接結びついていた。地理的距離を除けば、ニューサウスウェールズ植民地とヴィクトリア植民地の関係は、西オーストラリア植民地と南アフリカのケープ植民地との関係はなんら変わらなかった。植民地間には、共通の政治的問題を討議するような機関もなかった。 19世紀後半の経済発展を象徴するのが鉄道である。1860年に総延長500㎞程度であった鉄道は、世紀の末までに1万7千㎞に達する。オーストラリアの鉄道は公有であり、その資金は主にロンドン金融市場で調達された。ところが、この鉄道さえも、各植民地の首府から放射状に敷かれ、植民地間の対抗意識のために軌道の幅も統一されなかったので、オーストラリアの経済統合には役立たなかった。 一方、英本国よりも半世紀以上早く男子普通選挙を実施、民主化は進んでいた。男子普通選挙が英本国で実施されたのは1918年なのに対し、オーストラリアでは1850年代後半にはタスマニアと西オーストラリアを除く各植民地で実施され、女性の選挙権も19世紀末から20世紀初頭にかけて次々と導入された(女性参政権は英本国では1928年から)。up |
|||
№765(2007/07/06) 第3章 オーストラリアン・ラグビー・リーグ |
|||
| オーストラリア大陸の地図 オーストラリアン・ルールズ・フットボールは、オーストラリア独自のフットボールとされるが、1980年代になるまでは、ヴィクトリアン・フットボールに止まり、オーストラリアで最大の人口を抱えるニューサウスウェールズ州ではマイナー・スポーツに過ぎなかった。ニューサウスウェールズ州で一番盛んなスポーツはラグビー、といっても、ラグビー・ユニオンではなくラグビー・リーグであった。アマのユニオン、プロのリーグと区別されてきたが、ラグビー・リーグでプロ・リーグがあるのは、イングランドとオーストラリアぐらいで他はせいぜいセミプロに過ぎない。 日本で言うラグビーといえば、もちろんラグビー・ユニオンのことを指し、オーストラリアといえばラグビーの強豪国として古くから知られていた。ところが、ラグビー・ユニオンは、オーストラリアでは長い間、三番目のフットボールに過ぎなかった。それでも、オーストラリアのラグビー・ユニオンは強く、1987年に始まったIRBラグビー・ワールドカップで、オーストラリアは91年、99年の2回優勝を飾っている。 ラグビーでは、日本はオーストラリアに歯が立たず、日本代表が豪州遠征を行ったとき、必ずヴィクトリア州との試合が組まれるという。なぜなら、ヴィクトリア州ではオーストラリアン・ルールズの人気が高く、ラグビー不毛の地とされ、ヴィクトリア州のラグビー(ユニオン)・チームなら日本チームでも、勝つ可能性があったからである。 ヴィクトリア州(メルボルン)のオーストラリアン・ルールズとニューサウスウェールズ州(シドニー)のラグビー・リーグという対比は、なぜ生まれたのだろうか。それは前章の第4節と第5節でみてきたマイトシップという国民性だけなく、オーストラリアという国家の生い立ちにもよっている。up |
|||
№764(2007/10/21追補) 第2章第12節 オーストラリアにおける近代スポーツの誕生 |
|||
|
12 オーストラリアにおける近代スポーツの誕生
英本国と同じように、オーストラリアにおけるスポーツも階級の刻印を受けて始まった。ジェントリーや上流層が中心になって、クラブを拠点に18世紀に生まれた近代スポーツであるクリケット、競馬などを組織する一方で、労働者はパブが提供する賭博と一体化したボクシングや闘鶏、徒競走に参加した。そして、英本国と同様、19世紀後半には、中・上流階級の支持のもとアマチュアリズムが支配的になると、パブを中心とするスポーツは衰退する。 ところで、本国の中産階級が子弟をパブリック・スクールに入れてジェントルマン階級の一員に成り上がろうとしたように、オーストラリアの支配層を成り上がった大土地所有者の多くも、ジェントルマン階級への仲間入りを果たすべく、子弟を英本国のパブリック・スクールに留学させることが流行った。 オーストラリアン・ルールズ・フットボールのルールを創ったトーマス・ウィルズも牧場主(スクウォッター)の息子でラグビー校に留学し、近代フットボール(まだ、パブリック・スクールのフットボールの段階ではあったが)をオーストラリアに持ち込んだ。19世紀に新たに本国英国で誕生した近代スポーツは、これら英本国への留学生や英本国に見切りをつけたパブリックスクールのOBである中産階級の移民たちによって、オーストラリアにもたらされた。 スポーツの組織・運営は、特定のイデオロギーを持つ階層に独占されたが、人々の生活水準の向上とともに、スポーツに競技者あるいは観客として参加する人々は爆発的に増加し、スポーツは大衆的な、国民的な文化として定着する。19世紀後半、数万人の観客を集めるスポーツは珍しくなくなり、競馬のメルボルン・カップには10万人を超える観客が集まるようになった。 19世紀末になると、スポーツは男性としてのアイデンティティ、ナショナル・アイデンティティとしても、極めて大きな意味を持つようになる。スポーツなど屋外活動は、マイトシップ、ブッシュという観念と結びつき、男性的、オーストラリア的なものとみなされ、屋内における文化的な活動、女性的、英国的な活動と対比されるようになる。もちろん、ほとんどのスポーツが英国に起源を持つことを考えれば、このような分類は意味を持たなかった。 しかし、米国のような武力による独立戦争のなかったオーストラリアにとって、スポーツの競技場は本国に独自性を主張する象徴的な戦場であった。このようななかで、テストマッチという言葉が生まれた。現在、テストマッチは、ラグビーなどナショナルチームとの対戦という意味で用いられるが、本来は、オーストラリアのクリケット代表チームが英国代表に対してその能力をためす試合という意味であった。 オーストラリア人にとって、文化の中でスポーツの持つ比重は大きい。現在の英連邦競技会における圧倒的な強さ、ラグビーの世界選手権やテニスのデビスカップでの活躍を見れば、それはすぐに分かる。これに較べれば、文学や絵画などは低調である。音楽についていえば、中・上流層に広くピアノが行き渡り、ダンスが一般的なマナーの一つになったが、独自な音楽は生まれなかった。 up |
|||
№763(2007/10/21追補) 第2章第11節 オーストラリアの階級社会 |
|||
|
11 オーストラリアの階級社会
オーストラリア大陸は、世界で最も乾燥した大陸であり、年間降水量は460mmと少なく、土地も痩せているため、自然環境は必ずしも農業に適したものとはいえなかったが、1813年大分水嶺山脈の一部であるブルーマウンテンを越えて大平原が発見されると事情は一変した。 当時、イクスクルーシヴズ(独占主義者)と呼ばれた支配層(植民ジェントリーや軍人とその子孫)は、権利の拡大を求めるエマンシピスト(自由主義者;解放囚人とその子孫)と対立していたが、エマンシピスト同様、政府が決めた境界を越え、違法に公有地を占拠(スクウォティング)し牧畜し始めた。 その結果、本来「公有地の不法占拠者」を意味したスクウォッターは、大陸内陸部の大規模牧畜業者を意味する単語となり、イクスクルーシヴズとエマンシピストはスクウォッターとして融合し、植民地の保守的支配層を形成した。 1830年代中期までに、大規模経営による牧羊業が発展し、羊毛はオーストラリア最大の輸出産業になった。羊毛の最大輸出先は母国英国であり、産業革命期における毛織物工業の発展に寄付した。1840年代にはオーストラリアの土地で、農業や牧畜に適していると見られた土地の大部分は、スクウォッターに独占され、新たな移民が、牧羊業に進出することは困難となっていた。支配層となったスクウォッターは、1847年には土地保有権の保証及び先買権を獲得し不法占拠を正当化した。 また、オーストラリア唯一の大水系であるマレー・ダーリング川水系に沿って南オーストラリアやヴィクトリアが19世紀中葉に、後半からはニューサウスウェールズが小麦の主産地として台頭する。オーストラリアでは、強い日差しと空気の乾燥によって圃場(ほじょう)乾燥されるため、乾燥工程が省け、大規模で効率的な小麦生産が行われた。このように、19世紀のオーストラリアの産業は、大分水嶺山脈の西側に位置する小麦・羊地帯を中心に、大規模で効率的な第一次産業が発展し、今日まで続いている。 19世紀、オーストラリアは、流刑植民地から大英帝国の原材料供給基地、食糧供給基地として資本の投資場所となっていた。 大規模経営による牧畜業の成長という方向とは別に、小規模自営農家(小農)を育成するため、スクウォッターが占有していた土地を、自由に選択し購入する権利を与える土地選択法(セレクション法)が施行されたが、第4節にあるように、土地のやせたオーストラリアでは自活は難しく、スクウォッターの妨害と併せ、この計画は至る所で頓挫していた。 こうして、過酷な自然環境と政治的・経済的側面から、自営小農経営の発展に期待できないまま、ゴールドラッシュの終焉とともに、人々は職を求めて金鉱から都市に流入していった。 1850年代以降の急速な人口増加と人口の都市集中は、大都市の発展とさらには国内産業の発展をもたらし、羊毛や金の輸出などと相まって、経済成長は、人々の生活水準を急速に上げ、19世紀末までに1人当たりの所得は世界のトップ水準に躍り出た。オーストラリアは中産階級社会でるというイメージが一般的にもたれるようになった。 これには、ウェイクフィールドの組織的植民論でも指摘されるように「広大な土地に対する過少労働力」といった慢性的な労働力不足と、マイトシップから派生する平等意識と相まって高まった労働運動が背景にあった。 1850年代ゴールドラッシュによって高い賃金を獲得した職人を中心に労働運動が活発になり、1860年代から80年代、順調な経済発展の時代を迎え、労働者の賃金は上昇した。1880年代、白人オーストラリア人の1人当たりの名目収入は、カナダの3倍、英国の2倍以上、米国の1.5倍に達した。実質的な収入における優位は、高価なサービスや家賃のために、これよりも低かったと思われる。ただし、どのような推計をおこなっても、オーストラリアの生活水準が世界で最も高かったと考えられる。 労働者にとって、高価なサービスは単純労働に対する高賃金を意味しており、食料品が安価であったことを考慮すれば、オーストラリアの労働者が当時の水準からすれば、豊かな生活をおくっていたことは間違いなかった。 |
|||
№762(2007/10/21追補) 第2章第10節 州都への人口集中と郊外の形成 |
|||
|
10 州都への人口集中と郊外の形成
ここまで、ゴールドラッシュからオーストラリア独自のオーストラリアン・ルールズ・フットボールまでみてきたが、AFLの本拠地(下図参照)は、全豪化した今でも、16チーム中9チームがヴィクトリア州の州都メルボルンに集中している。1980年代以前は12チーム中ヴィクトリア州第二の都市ジロングを除く11チームがメルボルンに集中していた。 ![]() この傾向は、次章で取り扱うラグビー・リーグにもあって、ラグビー・リーグのプレミアシップであるNRL-ARLは、現16チーム中10チームがニューサウスウェールズ州を本拠地とし、うち8.5チームが在シドニーであり、1980年代以前は、NSWRLとして全12チームがシドニーにあった。 これは、何もプロチームだけが偏在していた訳ではなく、オーストラリアでは、人口そのものが、州都(州の首府)に集中する傾向があった。2006年現在、メルボルンの都市圏人口が370万人になのに対し、ヴィクトリア州第二の都市ジロングは16万、第三のバララットは8万人に過ぎない。ニューサウスウェールズ州では、412万人のシドニー都市圏に対して、第二の都市ニューカッスル32万人、第三のウロンゴンで26万人となっている。 このため、オーストラリアの州都の都市圏全体の行政は、州政府の直轄となり、都市圏全体を管轄する地方自治体は存在しない。また、オーストラリア全体でみれば、州レベルでは、ニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州へ人口集中が大きいことから、必然的にシドニーとメルボルンへの人口集中が大きいことになる。 この州都への人口集中は、なにも、近年の出来事ではなく、19世紀オーストラリアの植民地時代に遡る。白人オーストラリアは植民地として始まったので、最初は沿岸部の小都市に人口が集中していたが、19世紀前半には牧畜業の発展とともに地方への人口の拡散が起こる。植民のプロセスとして、これは驚くべき事実ではないが、オーストラリアでは、都市がとりわけ植民地の首府が、人口の多くが集中する場所であり続けた。 ニューサウスウェールズでは、牧畜業発展の最盛期である1830年代前半でも、首府シドニーの人口は総人口の25%、都市人口は総人口の4割を占めたと推定されている。同様のことがほかの植民地についてもあてはまる。人口拡散に貢献したもう一つの要因、ゴールドラッシュが終わった1861年でも、人口の約5分の1は各植民地の首府に住んでいた。 その後、人口の植民地首府への集中はさらに強まっていく。20世紀の前半にメルボルンやシドニーはそれぞれ州人口の半数近くを擁するようになり、現在では、州人口に占める割合はシドニーが6割、メルボルンはなんと7割を超える。 ところで、この人口の州都への集中は、オーストラリアの歴史的事情がもたらしたものであった。これらの都市は、決して工業化によって発展したものではない。これらの都市は、世界で最も生産性の高い第一次産業と鉱山業にサービスを提供する商業都市として、政治・貿易・金融を牛耳る中核都市として、あらゆる都市機能を収斂することにより、ほかの都市の犠牲の下に成長してきたのである。 人口の増大は、それ自体が州都への人口の集中を加速した。人口の増大に対応する都市の基盤整備、住宅建設、都市住民を対象にするサービスの拡大は、人口の流入をさらに促したのである。オーストラリア連邦は、巨大な各州都と人口のまばらなその後背地からなる、州の連合体のようなものだともいえる。 都市のもう一つの顕著な特徴は、郊外の発達である。19世紀の工業都市や20世紀のアジアの都市では、人口の増大はスラムと呼ばれる人口の密集地を生み出したが、オーストラリアの都市はこれとは異なったコースを辿(たど)った。他の都市では人口の増加に対応して、都市の中心に近い宅地の区画は二分割、四分割、八分割と細分化されたが、オーストラリアでは、宅地が分割されずに同規模の宅地の区画が外に拡大した。 19世紀の後半に世界で最も高い賃金水準を達成したオーストラリアの労働者の多くは、都市の郊外に庭付きの一戸建ての住宅を建てることができた。その結果、オーストラリアの各州都は、驚異的なスプロール現象を経験し、人口密度の低い低層の住宅地が外へ外へと際限なく拡散した。都市の郊外に4分の1エーカーの区画の家を所有することは、オーストラリアの勤労者の夢とされ、表象のうえでも、現実においても、その生活に大きく影響するようになった。 この郊外の発達が、メルボルンあるいはシドニーという単一都市圏のなかで中心区と郊外との対抗軸を形成し、単一都市圏に集中したオーストラリアン・ルールズ・フットボールとラグビー・リーグを長い間保ち続けたのである。 http://web3.incl.ne.jp/matsuura/sydney_population01.pdf http://web3.incl.ne.jp/matsuura/sydney_population02.pdf |
|||
№761(2007/07/05) 参考③ 大英帝国の支配階級 ジェントルマン |
|||
|
参考③ 大英帝国の支配階級 ジェントルマン
19世紀までのイングランド(ウェールズを含む)において爵位を持つ貴族の家門は他の(欧州)大陸諸国と比べ極めて少なかった。この貴族と並んでイングランドの支配階級(上流階級)として16世紀に躍り出た新興支配勢力が、ジェントリーであった。 ジェントリーとは、中世における最下層の領主身分の総称で、ジェントリーと貴族の間には称号以外の特権において大きな差は存在しなかった。イングランドの貴族の多くはウィリアム1世によるノルマン・コンクエストの際にイングランド各地に封じられたノルマン人を起源に持つが、彼らの下に位置するジェントリーはそれ以前からの、在地のアングロサクソン系有力者・領主たちであった。 15世紀にかけてジェントリーは有力貴族の家臣となる事が多かったが、百年戦争とそれに続くバラ戦争(内乱)を境に貴族の勢力が減ずるとその庇護下を離れ、16世紀には領主から地主への転化が始まった。 16世紀から17世紀前半にかけて、財政の窮乏に悩む君主が王領地の大規模な売却を行った。また、宗教改革と称してヘンリー8世によって没収された修道院領の大半も結局売却され、売却された王領地・教会領の大半がジェントリーの手中となり、ジェントリーの土地所有は、イングランド全体のおよそ25%から50%へと一挙に倍増させている。 ところが、17世紀後半から18世紀初頭になると、農業生産物価格の下落が続き、中小ジェントリーやヨーマン(自営農)が没落していく一方、貴族・大ジェントリー層は、直営地経営を放棄し、小作農に耕地を貸し出す地主へと本格的に歩み出していった。こうして、貴族と大ジェントリーは「地主貴族層」として一つの伝統的エリート層を形成し、スクワイアラーキーと呼ばれる地主支配体制を構築していった。 こうして、ジェントリーは、その後も単なる地代取得者とは見なされず、治安判事などの役職について地方政治を担い、貴族とともにジェントルマン階級として一定の尊敬を集め、社会への影響力を保持し続けた。 ところで、ジェントリーが、貴族と異なるのは、彼らが名門の出自とは限らなかった点にある。いったん、ジェントリーの地位に達した家系は、生まれながらの支配者として自らの血統を誇ることができたが、ジェントリーの要件とされた所領や家紋、官職などは金銭で購入することができたから、十分な資産を持つ者であればそれらを購入してジェントリーの地位に参入することができた。 このため、ジェントリーは、絶対主義的なくびきからは自由であったが、他方では、四季裁判所など以外に固有な権力装置を持たないまま、地域の司法並びに行政を担わなければならなかった。その意味で、ジェントリーがクリケットやフットボールといった伝統的な民衆娯楽を庇護することは、平穏な社会関係と地代収入を確保するための重要な手段であった。 |
|||
№760(2007/06/27) 参考映像④ インターナショナル・ルールズ・フットボール |
|||
|
参考映像④ インターナショナル・ルールズ・フットボール
オーストラリアン・ルールズは、アイルランド移民がもたらしたゲーリック・フットボールから生まれたといわれているが、今ではインターナショナル・ルールズという、オーストラリアン・ルールズとゲーリック・フットボールを合わせたゲームまであり、それぞれの統括組織であるGAAとAFLとの間で、毎年インターナショナル・ルールズ・シリーズとして2国間でプレーされている。ただし、2007年は、ルールの違いによるトラブルが絶えないため中止となっている。 International Rules Fights AFL V GAA Fight Scenes 2006 - Croke Park International Rules Second Test 2006 |
|||
№759(2007/06/26) 参考映像③ これがオーストラリアン・ルールズ・フットボールだ |
|||
|
参考映像③ これがオーストラリアン・ルールズ・フットボールだ」
afl Australian Football League Aussie Rules Football Promo The Best AFL Marks The Best AFL Goals AFL -- at its best (REMAKE) up |
|||
№758(2007/06/25) 第2章第9節 オーストラリアン・ルールズの全豪的な熱狂 |
|||
|
9 オーストラリアン・ルールズの全豪的な熱狂
ところが、拡大されたAFLのなかで、しだいにヴィクトリア勢以外のチームがAFLの覇権争いに加わり始めた。これが、オージールールズの全豪的な熱狂の契機となった。ウェスト・コースト・イーグルズは1992年に初めて、94年には二度目に、AFLの覇権をヴィクトリア州から奪った。相手はジロング・キャッツで、あのウィルズが創立した由緒あるクラブの一つである。イーグルズは2006年には3度目の優勝を飾っている。 1997年アデレイド・クロウズは人口100万強のアデレイド市民の半数が観戦し、しかも、新クラブのポート・アデレイドも年間39万415人が観戦したから、総人口が両クラブの試合に押し寄せたことになる。そして、両クラブのシーズン半ばの対戦を競技場とテレビで観た者が53万人だった。長年、ヴィクトリア州のクラブに優秀な選手を引き抜かれてきた南オーストラリア州民には、ヴィクトリア州への怨念があり、これがブームに拍車をかけた。その年、クロウズは初優勝を飾り、98年と連覇、一方のポート・アデレイドは2005年に初優勝を遂げた。 1990年代後半、ラグビーリーグは分裂騒ぎのため、膨大な数のファンが離れ、代わって他州への拡張期にあったAFL、特にメルボルンからシドニーに送り込まれていたスワンズが、ラグビーリーグの牙城シドニーでおびただしい数の観客を集めるようになっていた。スワンズは、2005年に初優勝を飾り、シドニーっ子を熱狂させた。ラグビーリーグのもう一つの牙城、クィーンズランド州のブリズベン・ライオンズは、2001~3年まで三連覇を飾っている。 このように、1991年以降の16年間でヴィクトリア勢以外のチームがグランドファイナルを11回制し、最近3年間は、ヴィクトリア勢以外のチームで争われた。オーストラリアン・ルールズの人気は拡大の一途を辿り、2006年のプレミアシップ・シーズンだけで、総人口2000万人のうち延べ620万人、1試合平均35000人の観客を動員する。AFLは、米国型のクローズド・リーグで16チームは固定しており、ドラフト制とサラリーキャップ制もある。 オーストラリアン・ルールズのシーズンは、ウィルズのときから冬の競技であり、AFLのシーズンは、3月から9月、つまり、オーストラリアでは初秋から冬にあたる季節である。レギュラーシーズンにあたるプレミアシップ・シーズンは3月末から始まり9月の初めにかけて、16チームがホーム&アウェイ方式を基本に22試合戦う。ということは総当たり戦ではなく、長かった12チーム制のときの試合数を受け継いでいる。プレミアシップ・シーズンの上位8チームが、9月の4週間に渡って繰り広げられるプレイ・オフ、トヨタAFLファイナルシリーズに進出する。 トヨタAFLファイナルシリーズは、ホーム&アウェイ方式のトーナメントで、敗者復活戦が加味されているのが特徴で、AFLファイナル・システムと呼ばれる。ファイナル・シリーズを勝ち進んだ2チームが9月の最終土曜日にAFLの聖地、メルボルン・クリケット・グラウンドでグランドファイナルを戦う。2006年のファイナルシリーズでは、平均6万人、延べ54万人を超える観客を集めた。特に、イーグルズVSクロウズという非ヴィクトリア勢同士に試合にもかかわらず、メルボルンで行われたグランドファイナルには10万人近い人がつめかけた。 なお、近年、ヴィクトリア勢のチームは、1試合25万豪ドルの保証を受け、AFLのチームがないタスマニアのローセストン、ノーザンテリトリーのダーウィン、首都キャンベラやラグビーリーグの聖地であるシドニーとブリスベンでも試合を開催している。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店 http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/ http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_Football_League |
|||
№757(2007/06/24) 第2章第8節 VFLからAFLへ |
|||
|
8 VFLからAFLへ
オーストラリアン・ルールズは、1859年から1877年の間は、ヴィクトリアのルールで行われ、1880年代まではヴィクトリアン・フットボール、もしくはメルボルン・フットボールとして知られていた。 1877年5月にはヴィクトリアの7つのクラブ、メルボルン、カールトン、セント・キルダ、ホサム、アルバート・パーク、ジロング、バーワンがゲームの振興をはかるためにヴィクトリアン・フットボール協会(VFA)を設立した。しかし、VFAのもとではチームの運営が経済的に困難になったため、クラブ8チーム(メルボルン、エッセンドン、ジロング、コリンウッド、サウス・メルボルン、フィッツロイ、カールトン、セント・キルダ)はVFAとの関係を絶ち、1897年ヴィクトリアン・フットボール・リーグ(VFL)を設立した。 VFLの目的は、試合をより商業的なものにすることであった。試合をスピーディーにするために様々なルールの改正を行った。このとき、人が密集し過ぎないようにチームの人数も20人から18人に減らされた。また、ボールをマークできる距離が延長され、キックの距離が飛躍的に拡大した。 VFA もこの後存続するが、ゲームの運営の主導権は完全にVFLに移り、南オーストラリア、西オーストラリアやタスマニアなどの州もVFLに従った。1906年にはオーストラリアン・ナショナル・フットボール会議(ANFC)が設立されるが、ANFCもその後作られた組織もVFLの管理下にあった。 最初の州間全国決勝戦は1908年に戦われ、本家本元のヴィクトリアが優勝した。選手の有給化は1911年。チーム単位の全国大会は1976年が最初で、やはりヴィクトリアのクラブ、ホーソーンが優勝した。 VFLは、1897年の創設8チームに、1908年リッチモンドとメルボルン大学が加わり、10チームとなる。メルボルン大学は1915年、第一次世界大戦による選手の入隊のためチームが解散、大戦後の1919年にチームは復興したがVFLには再加入することはなかった。1925年になるとウェスタン・ブルドッグス、ホーソーン、ノースメルボルンが参加し、12チームとなる。この体制が、1980年代まで続いた。 1980年代になると、テレビ時代を迎え、ヴィクトリア州メルボルンに止まっていたVFLを全豪化すべく、1982年にサウス・メルボルン・クラブ(愛称スワンズ)がシドニー・スワンズとしてニューサウスウェールズ州に進出した。1987年にはチーム数の拡大が行われ、クィーンズランドのブリスベン・ベアーズと西オーストラリアのウェスト・コースト・イーグルズが加わった。こうしてVFLは14チームに拡大し、1990年にはその名称をオーストラリアン・フットボール・リーグ(AFL)に改称した。 さらに1991年にはヴィクトリア州に次いでオージー・ルールズが盛んな南オーストラリアのアデレイド・クロウズが参加、1995年には西オーストラリアで二チーム目のフリーマントル・ドッカーズ、1997年には南オーストラリアで二チームめのポート・アデレイド・パワーが参加、また、この年、メルボルンにあったフィッツロイ・ライオンズがブリスベン・ベアーズと合併し、ブリスベン・ライオンズとなった。 現在のチーム数は16で、ヴィクトリア勢は10チームに落ち着いた。うち、メルボルンが9でジロングが1。他の6チームの内訳は南オーストラリア2、西オーストラリア2、クィーンズランド1、ニューサウスウェールズ1。こうみると全豪化といっても、ラグビー・リーグが盛んなクィーンランドとニューサウスウェールズは各1チームに留まっている、かのように思えた。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店 http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/ http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_Football_League |
|||
№756(2007/06/23) 第2章第7節 オーストラリアン・ルールズ・フットボール |
|||
|
7 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
1850年代、この国最初のゴールドラッシュ時代に遡る。代表的金鉱地バララットとベンディゴーの金鉱夫らが気晴らしにフットボールをやっていたが、金鉱夫らは大半がアイルランド系だったので、ゲーリック・フットボールの趣があった。とにかくここに、オーストラリアン・ルールズの人気の元となる民族的な味付けが施されていた。ほとんどルールもなく、線引きもいい加減で、いかにもアイルランド風だった。 記録に残っている最初のゲームは、1858年、メルボルンのスコッチカレッジVSメルボルン・グラマースクールだった。後者は、オーストラリアで、一番権威のある私立学校で、マルカム・フレーザー初め何名かの首相もここを出ている。ルールと線引きのいい加減さは、ゴール間が1マイルも離れ、1チームの選手が40名だった点にも表れている。試合は延々3週間も続き、双方ヘトヘトになったあげく勝負なしという結果となった。この時点では、まだ、近代以前のフットボールと言っても良かった。 ところで、今日のオーストラリアン・ルールズを整備したのは、英国系だった。ヴィクトリア植民地へ冒険的な開拓入植を行った大牧場主(スクォッタ)の息子トーマス・ウィルズが英国屈指のパブリック・スクール、ラグビー校留学から帰国、「ラグビーは稼業を持つおとなにはむりな競技だから」と従兄弟で義弟のヘンリー・ハリスンと1856年、ゲーリック・フットボールからはキックとマーキング(ハイジャンプでボールをとる)、ラグビーからはボールの形と肉弾相打つぶつかり合い、サッカー(ただし、この時点では存在しないが)からは守備位置名を借用するなど、いわば各種フットボールの合成をやってのけた。 ウィルズらは、クリケットをやらない冬季のゲームとしてこれを開発したので、メルボルンと近郊のジロングに幾つかクラブを作らせて互いに試合を行ったが、場所はシーズンオフで使わないクリケット・グラウンドだった。このため、いまでも、オーストラリアン・ルールズは原則としてクリケット・グラウンドでプレーされる。ウィルズは、1859年、メルボルン・フットボール・クラブ(MFC)を作ってキャプテンに納まるが、このチームは後に最も伝統のあるチームとなり、デーモンズと呼ばれるようになる。 1チームは40人から20人に減り、今日では16~18人、補欠2人、交替選手は試合に復帰できないことになった。1マイルも離れていたゴール間は、135~185メートルになり、横幅は110~155メートルになった。6.4メートル間隔で立つゴールポストは、高さ6メートル、それぞれから6.4メートル後ろに、より低いビハインド・ポストが立つ。ゴール・ポストが6点、ビハインドは1点である。 延々、3週間も戦ったこの競技も、100分を四つに区分、25分ずつ連続プレーを小休止を挟んで4回と定められた。また、家族持ちにはむりというウィルズの意向が残って、危険極まりないスクラム、ラインアウト、オフサイドはない。 一番の見所は、主にフルフォワードがみせるハイジャンプで、これを「フライング・フォア・マークス」という。これはゲーリックフットボールから借用した特徴である。ラグビー選手らはこれを見て、「空中ピンポン」と嘲ったが、スペクタクル的な大技はテレビ時代にうってつけで、タイトルには「アンド・ザ・ビッグ・メン・フライ」という文句が使われた。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店up |
|||
№755(2007/06/22) 第2章第6節 オーストラリアのフットボール事情 |
|||
|
6 オーストラリアのフットボール事情
オーストラリアのフットボールは、オーストラリアン・ルールズ、ラグビー・ユニオン、ラグビー・リーグ、そしてサッカー(アソシエーション)の4種類に分かれる。オーストラリアでは、最初の三つは元来からアングロ=ケルティックスのスポーツであり、サッカーは、ヨーロッパ移民がもたらしたものとしてエスニック・ゲームと見なされている。 ラグビー・リーグは、1895年休業補償問題をきっかけにイングランド北部のラグビーチームがラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)を離脱してノーザン・ユニオン(NFU)を結成したことに始まる。NFU結成時点ではラグビーリーグとラグビーユニオンのルールは全く同一のものであったが、NFUの選手のほとんどが日曜日以外の平日に出勤する必要のあった、今日的な意味でのアマチュア選手がほとんどであったことから、ラック、モール、ラインアウトなどの負傷の可能性が高いルールが廃止され、現在の13人制ラグビーリーグのルールが確立されていった。リーグとユニオンは、オーストラリアでは1907年に分裂した。 ラグビー・ユニオンVSラグビー・リーグは、イングランドでは、上流階級(中産階級も含む)VS労働者階級という構図であった歴史を持つが、オーストラリアでは、「アマチュアリズムVSスポーツエンターテイメント」という若干異なる対立関係にあった。いずれにせよ、敵対関係にあった点では一致していた。ところが、リーグ憎しでアマチュアリズムに固執していたユニオンもコマーシャリズムの波に押し流され、ついに1995年IRB(国際ラグビー評議会)がアマチュアリズムを棄てた。 ラグビー・ユニオンは、アマチュア時代3千人も入ればいいとこだった観客が、たちまち2万、3万と増えた(それでも、2003年のオーストラリア連邦統計局資料によれば、1999年における15歳以上のスポーツ観戦者の割合が、リーグ派が10.0%なのに対し、ユニオン派が3.0%だった。ちなみにサッカー派は、4.2%で南欧や東欧移民を中心に人気が高かまっている。) http://discover.australia.or.jp/chapter06/004.html ラグビー・ユニオンは、ワールドカップのほかにも、ニュージーランドと南アフリカ、それにオーストラリアから合計12の強豪を集めて催すスーパー12(2006年からは14チームによるスーパー14)などの企画を実施、折から内紛(スーパーリーグ戦争)で意気が上がらなかったラグビー・リーグを食い始めている。 ユニオンもリーグも国際試合を行い、オーストラリアは何度もワールドカップを手にしている。しかし、オーストラリアで最も人気があるフットボールが、オーストラリアン・ルールズ・フットボールである。国際試合もないのに、16.8%(1999年における15歳以上のスポーツ観戦者の割合)と異様な人気を博している。 オーストラリアン・ルールズ・フットボールは、日本では、オージー・フットボールの名で知られるが、オーストラリアでは、一般的には、オージールールズと呼ばれる。アイルランドにおけるゲーリック・フットボール同様、オーストラリア(といっても長い間ヴィクトリア州と南オーストラリア州の一部に限られていたが)特有のフットボールであるが、実際、オーストラリアン・ルールズは、アイルランド移民が行っていたゲーリック・フットボールが起源とされる。 ただし、1850年代のゲーリック・フットボールは、サッカーとラグビーの中間型だったと思われるが、1895年にGAAがルール化したゲーリック・フットボールとは明らかに異なっていたはずであり、さらにいえば、サッカーもラグビーもなかった。あったのは、ラグビー校やイートン校、ハロー校といったパブリックスクールのフットボールであった。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店up |
|||
№754(2007/06/21) 第2章第5節 マイトシップとフロンティア・スピリットの違い |
|||
|
5 マイトシップとフロンティア・スピリッツの違い
大英帝国の植民地は二つのタイプに分かれる。第一のタイプは、先住民が圧倒的多数で、少数の英国の支配層がその上に乗っかっている植民地で、その典型がインドとマラヤである。第二のタイプは、先住民が圧倒的少数のいわゆる白人植民地で、典型はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドである。南アフリカは、英国系とオランダ系(アフリカーナ)を合わせて400万強と圧倒的少数でも多数でもない点で、二つのタイプの中間にあたる。 米国も、この二番目のタイプで先住民が圧倒的少数である。米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの四カ国のうち、最も明確な国家的・国民的特徴を打ち出してきたのが、対英独立戦争によって母国との絆を断ち切った米国だった。カナダは、その米国と国境を接しているため、アメリカナイゼーションの影響が大きく、特徴的な文化を育みにくかった。 これに対し、はるか太平洋を隔てたオーストラリアは、明確に米国とは異なる特徴を培養してきた。他方、ニュージーランドは、米国に対するカナダと同じく、オーストラリアの影響下にアイデンティティを際だたせることは困難であった(1891年には、オーストラレイジアとしてオーストラリア6植民地と連邦を組む話もあったくらいである)。 いずれにしても、先住民が圧倒的少数である、これらの新世界国家の特徴は、開拓期に培われる辺境エートスが背骨となり、四カ国のなかで米国とオーストラリアが一番明確なエートスを育て上げた。米国はフロンティア・スピリッツ、オーストラリアはマイトシップである。 フロンティア・スピリッツは、米国人らが東から西に押し寄せた攻撃的な運動律が特徴で、あっという間に西海岸に達すると、太平洋を越えてアジアへと突き進んだ。 ※この運動律の典型のひとりが、野球の父アレクザンダー・カートライトである。ニューヨークでビジネスマンをしていたカートライトは、1845年野球を考案し、最初の野球チーム「ニッカー・ボッカーズ・クラブ」を結成したものの、1849年には、折からのゴールドラッシュの熱気に煽られてカリフォルニアの金鉱を目指して、幌馬車で西に向かった。カートライトは、西進の途中においても、常にバットとボールを忘れることなく、西部に野球を伝導していった。半年をかけ苦労の末、カリフォルニアに到着するが、同年早くもゴールドラッシュの現実に見切りをつけ、さらに海を越え西に進み、米国に併合される前のハワイを目指した。カートライト自身は、その後、中国の広東に渡り、事業をするつもりだったようだが、船酔いのため断念、ハワイに定住することとなり、ハワイにも野球を広めたのである。これこそまさに、フロンティア・スピリッツの典型ではないか。 一方、マイトシップは流刑囚が官憲から身を守る気質(かたぎ)が原型だったから受動的で、その最大の外延が世界の人口の半数が集中するアジアから有色人種が流入することを防ぐ白豪主義となった。 二つの辺境エートスの違いは、両国の鉄道建設のダイナミズムの差に如実に表れている。米国の東西横断鉄道開通は1869年なのに対して、オーストラリアの東西横断鉄道開通は実に1970年と、100年余りも遅れている。しかも、アジアをニア・ノース(近北)に控えるオーストラリアでは、大事なのは東西ではなく、南北縦断鉄道なのだが、これの全線開通はつい最近のことだった。 ※西オーストラリアが連邦に参加する条件としたシドニーからパースまでの東西横断鉄道は、1917年に開通していたにもかかわらず、1,435 mm、1,600 mm、1,067 mm の3種類の軌間が混在し、1,435 mmの標準軌に統一されたのは、1969年であった。これは、オーストラリアの鉄道は各州が独自の企画で敷設を始めたためであった。さらに、横断列車インディアンパシフィックが運行を開始したのは、1970年2月23日になってからであった。途中のナラバー平原を通る部分は、世界の鉄道で最も長い直線区間とされている。因みに、オーストラリア縦断鉄道が完成し、ダーウィンからアデレードまでオーストラリア大陸を南北に縦断できるようになったのは、2004年であった。 この差は、二つの辺境エートスの差だけではなく、米国では大金鉱が西海岸で発見されたのに対して、オーストラリアではメルボルンのすぐ北部で発見されたことにも起因している。オーストラリアに押し寄せた金鉱夫たちは、大陸北端のダーウィンまでの長い旅を経る必要がなかった。 英国や欧州と大西洋を隔てただけの米国に比べて、はるか大西洋とインド洋を隔てたオーストラリアへは、移民の到来がぐんと少なく、アラスカを除く米国とほぼ同じほどの面積(日本の21倍)の国土に、いまだ、東京都の人口より700万余を上回る程度の人間しか住んでいない。米国は3億人弱である。人口密集地帯アジアのそのすぐ南に人口的空白を抱えてうずくまるオーストラリアには、常に脆弱感があり、それが彼らの受動性を一層強めた。その脆弱感から白豪主義がはびこり、1970年代半ば、保守のフレーザー政権が公式に廃棄を宣言するまで続いた。 しかし、マイトシップは相互扶助、平等主義の精神の祖型を作り、最初はそれらが英国系同士の間にに広がり、さらには差別されていたアイルランド系が英国系に抗議する形で彼らの間にも広がっていった(アングロ=ケルティックス)。マイトシップと並んで有名なのがフェア・ゴーだが、これは「公平にやれ」という要求である。当然この気質(かたぎ)は、この国の労働組合、刑務所、軍隊など男性だけが集合する場所で強く育まれた。オーストラリアの労組と軍隊の結束力は世界に冠たるものがある。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店up |
|||
№753(2007/06/20) 第2章第4節 マイトシップ |
|||
|
4
マイトシップ
オーストラリア人の国民性を考えるときに、よく使われる表現にメイトシップ(仲間意識、オーストラリア訛りでマイトシップという、以下「マイトシップ」)という言葉がある。 メイトシップhttp://www.retirementaustralia.net/bunka_20031101.htm マイトシップは、英国の流刑植民地として出発した土地で、流刑囚が官憲から身を守る気質(かたぎ)を原型に、英本国の社会的不平等に不満をいだいて渡ってきたプチブルジョアや労働者など自由移民が、過酷な植民地生活の中で、無理解な英本国の支配階級に対する憤りから生まれた反権力者意識を土台にしたもので、「被支配者同士」つまりふつうの国民の対等な同胞意識のこと。そこから平等意識の概念も生まれた。 平等意識の例としては、オーストラリアでは、タクシーに一人で乗る時、普通は後部席には座らずに助手席に乗ることが挙げられる。これは、後ろの席に乗るのは運転手を見下げていることになるからだという。(※ネットで確認すると「一般的に一人で乗車するときは助手席に乗るが、若い女性が一人で乗る場合は安全のため後部座席に乗るほうがよい」とある。また、元ネタよれば「首相でさえ、公用車の助手席に席をとる。後ろの席でふんぞり返るのは、お高くとまっている証拠とみなされ、政治的にはおおいにマイナス」なのだという。) 反権力者意識と言えば、オーストラリア国民歌の「Waltzing Matilda」の歌詞は、羊を盗み警官に追われて溺れ死んだ不幸な労働者の話だ。ユリーカの反乱のピーター・レイラーと同様、オーストラリア人の伝説的英雄ネッド・ケリーの反抗も「Waltzing Matilda」の歌詞と酷似している。 Waltzing Matilda(http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/matiljp.htm) ※これまたネットで確認したら、本当に「羊を盗み警官に追われて溺れ死んだ不幸な労働者の話だった。 ケリーの父親はアイルランド系の流刑囚で、メルボルンの北でセレクターをしていた。セレクターとは、植民地政府が小農育成のためただ同然で提供した区画地(セレクション)への入植者を指す。土地がやせたオーストラリアでは、小区画の土地では自活が難しく、この計画は至る所で頓挫していた。 セレクション計画自体は、ネッド・ケリーとは正反対の方向にあるアングロ=ケルティックスという異民族融合に向かった幸運なアイルランド系自身が実施したもので、本国では小作農の身にあったアイルランド系にとって小なりと言えども自営地を持つことは夢であった。 ところが、セレクションは行き詰まり、セレクターは貧困のあまり、最下層の白人スワッグマン(渡り牧童のことでWaltzing Matildaの歌詞に出てくる。)同様、裕福な大牧場主スクウォッター(元々官有地に居座った者を指し、彼らが牧場主として成功した。Waltzing Matildaの歌詞に出てくる。)から家畜を盗んだので官憲から怪しい目で見られていた。 ケリー一家も同じで、そういう目で見られていれば容易にそういう人間になっていくしかない道理で、官憲に追われる身となり、徒党を組んでブッシュに籠もり、追跡してくる警官を殺害したり(悲惨なことに警官もアイルランド系が多かった。この傾向は米国でも同様である)、銀行を襲ったりして、ついに膨大な警官隊相手に、鍬の刃を焼き延ばして作った防弾兜と防弾鎧をつけ、実に24時間を超える銃撃戦を演じたあげく逮捕され、絞首刑に処せられた。 ネッド・ケリーの反抗は、アイルランド系ばかりか、流刑囚の子孫全員に感動を呼び起こし、未だに彼は、反権力のシンボルであり続けている。 ところで、マイトシップを仲間意識とか同胞意識、相棒意識と訳すと曖昧になるが、実際にはアウトバックの酷薄な風土の影響を受けて、相互にかなり酷薄な覚悟を基礎に成り立つ人間関係であり、そこには愛想の欠片もない。 参考文献 「オーストラリアを知るための55章 第2版」越智道雄著 明石書店up |
|||
№752(2007/06/19) 第2章第3節 流刑植民地 |
|||
|
オーストラリアという国は、独立戦争を起こしたこともなく、内戦になったこともありません。2つだけ、小さな反乱があっただけです。小さいといっても、戦乱のないオーストラリアでは、大事件だったようです。小さな反乱の一つが第1節にでてきた1854年のユリーカの反乱。これは、ユリイカ・ストケードの反乱といわれる金鉱夫の反乱ですが、金鉱夫の大半はアイルランド系で、反乱の首謀者ピーター・レイラーもアイルランド系でした。レイラーの兄は、1848年にアイルランドで起こった青年アイルランド党の反乱の首謀者で、他の青年アイルランド党の首謀者たちはいまのタスマニア島に流刑されています。
もう一つが、今日第3節で出てきた1804年のキャッスル・ヒルの反乱で、これはアイルランド系囚人の反乱ですが、これはアイルランド本土で1798年に起きたユナイテッド・アイリッシュメンの反乱の影響を受けているといわれています。 18・19世紀のアイルランドで反乱と言えるのが、ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱と青年アイルランド党の反乱ぐらいですから、明らかにアイルランドの影響が読みとれます。根底にあったのが、やっぱり、イングランド対アイルランドの対立なんでしょうね。 3 流刑植民地 オーストラリアへの流刑は、開始(1788年)から廃止(1868年)までの期間で、約16万人にのぼり、その多くがオーストラリアに留まった。囚人のおよそ半分をニューサウスウェールズが受け入れ、タスマニアの42%でこれに続く。西オーストラリアが6%でヴィクトリアが2%であった。囚人は1859年までに、ニューサウスウェールズの一部としてのクィーンズランドへも送られた。 ヴィクトリアとサウスオーストラリアは「自由植民地」とされた。ヴィクトリアはタスマニアからの囚人を何人か受け入れたが、両方とも流刑地となることはなかった。西オーストラリアは当初「自由植民地」とされたが、深刻な労働力不足のため、1850年代に囚人の移送を受け入れた。オーストラリアへの流刑は1840年から1868年の間に段階的に廃止された。 ニューサウスウェールズにたどり着いた者の大部分は、1815-40年の間の期間に到着した。タスマニアに送られた69,000人の総計のうち半分以上は、1841年と東部植民地への輸送が終わった1853年の間に上陸していた(青年アイルランド党の反乱の首謀者たちが送られてきたのもこの時期)。 流刑囚の出身地は、イングランドが最も多かった。アイルランドがそれに次ぎ、全囚人のおよそ30%がアイルランド人であった。また、初期はロンドンとその周辺、しかし後にはランカシャーやアイルランドのダブリンような他の人口密集地域が、男性でも女性でも、出身地となる傾向が強かった。 ところで、1830年代までは、植民地人口の約70%が流刑囚として送られた人々であり、彼らこそ白人オーストラリアをの土台を築いた人々であった。犯罪者による国造りは、多くの社会問題の発生や労働の非効率性を想像させる。しかし、英国の監獄から送られた囚人たちは、全体として質に高い労働力であった。英国政府は、若くて健康な囚人をオーストラリアに送った。流刑囚の8割が16歳から35歳で、いかなる移民集団よりも移民として最適とされる年齢に属する割合が高かった。男性の囚人が多く、女性は全体の15%であったことは、初期の労働需要を考えると好都合であった。 囚人たちの職業をみると、都市的な傾向を除けば、熟練労働者の割合は、英国の一般的な労働者とほぼ同じか、それよりも高く、識字率も英本国の約58%に対し、約4分の3とかなり高かった。流刑囚の犯罪をみると、約8割が窃盗犯であり、約半数が初犯であった。流刑囚は犯罪集団というよりも、むしろ、一般的な英国の労働者と異なることはなかった。 英国政府は、囚人の輸送に細心の注意を払い、当時世界で最も長い航海は最も安全な航海でもあった。植民地は壁のない開放監獄であり、囚人たちは必要な労働を済ませば、残る時間は自由に使うことができた。また、その労働時間は、英国の平均的な労働者のそれよりも短かった。しかしながら、囚人たちにも制約があった。規律に従わない男性の囚人は毎年、6人に1人が平均35回の鞭打ちを受けていた。多くの囚人は、個人の雇い主へと割り当てられたが、その待遇はその雇い主に依存する、くじ引きのようなものであった。植民地で再び重い罪を犯すと、彼らは辺境の開拓地に送られ、鎖に繋がれ、肉体労働に従事させられた。現在のニューカッスル、ポートマクウォーリ、ブルスベンへの入植はこれら囚人によって始められた。 オーストラリアで起こった、唯一と言ってもよい囚人による反乱といわれるのが1804年におきたキャッスル・ヒルの反乱である。アイルランド系の囚人を中心とする反乱で、すぐに鎮圧されたが、後々までもアイルランド系カトリックに対するエスタブリッシュメント(プロテスタント系イングランド人)の猜疑心のもとになる。他方、アイルランド系の移民にとっては、英国系移民による抑圧の象徴となった。 この反乱はアイルランド人のイングランド人への伝統的な抵抗以上のものを表していた。即ち、強制労働と屈辱から生じた植民地での憤慨も重要な要素であった。しかしながら、アイルランドでの1798年のユナイテッド・アイリッシュメンの反乱に関わった者が流刑にされてから、アイルランド人の囚人数は増加しており、彼らの影響は間違いなく大きかった。ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱の場所にちなみ、植民地当局が反乱の主力部隊を倒した場所は、ヴィネガー・ヒルと呼ばれた。このため、この囚人の反乱はヴィネガー・ヒルの反乱と呼ばれる。up |
|||
№751(2007/06/18) 第2章第2節 オーストラリアの歴史 |
|||
|
2 オーストラリアの歴史
1770年、英国人船長ジェームズ・クックが、シドニーの南方に位置するボタニー湾に上陸し、英国によるオーストラリア大陸の東海岸一帯の領有を宣言し、この地を「ニューサウスウェールズ」と命名した。 18世紀後半、英国はこの地の開発を本格的に進めるようになる。その主な目的は、囚人対策であった。1780年代の英国は、人口爆発による人口増大を背景にエンクロージャーによる土地喪失者、産業革命による失業者などが都市に集まって犯罪者の数が激増していた。微罪に問われた者でも収監する法制度もあいまって国内の監獄は満員となり、囚人を収容しようにも余裕がなくなる事態が出来した。加えて1776年の米国独立は、巨大な流刑地の喪失を意味していた。流刑地の確保は、英国にとって重要課題となっていた。 当初は、比較的英国に近いカナダや西アフリカが候補地として挙がっていたが、カナダは寒冷地であるため、また西アフリカは疫病に罹患する恐れがあるため対象から外され、その結果ニューサウスウェールズが流刑地に選定された。 初代総督アーサー・フィリップ率いる第1船団11隻は、1500名弱の人員(うち流刑囚約780名)を乗せ、1788年ボタニー湾に到着、シドニー入り江に上陸し、入植を開始した。この上陸した1月26日は「オーストラリアの日 (Australia Day) 」と呼ばれる祝日となっている。 1803年ヴァンディーメンズランド(1855年タスマニアと改称)は、英国による領有が宣言され、1825年にはニューサウスウェールズ植民地から分離独立し流刑植民地とされた。1826年には、大陸の反対側の西オーストラリアへ入植が始まり、1829年に正式に英国植民地となり、英国による全オーストラリアの領有が完成した。 ※18世紀後半から19前半にかけて、オーストラリアを含めた南太平洋における英国の植民地化に動きには、植民地を探し求めるフランスの脅威がつねにあった。七年戦争(1756-63)後北米大陸でカナダを失ったフランスは、南太平洋にあるといわれた南方大陸(テラ・アウストラリス)に関心を持っていた。ニュージーランドもオーストラリアも南方大陸の一部といわれた。オーストラリアの地名は、この南方大陸に由来する。 1830年までには、東部植民地では、人口の70%以上が囚人か元囚人だったが、民間主導の西オーストラリアの入植が失敗すると、ウェイクフィールドら植民地改革主義者が、公有地の売却収入によって移民を導入するという組織的植民地論を主張し、英国政府は、この理論を1831年にオーストラリアとニュージーランドの植民地に適用することを決定した。 1831年から50年の間に、補助移民(=自由移民)が囚人(=流刑移民)に代わって移民の最大の集団になり、オーストラリアは囚人植民地から普通の植民地に転換した。さらに植民地改革主義者は、全く新しい植民地を建設することを英国政府に求め、その結果、1836年にマレー川河口に南オーストラリア植民地(形式上はニューサウスウェールズ植民地からの分離独立)が建設された。 しかし、囚人に依存しない植民地建設の試みは、順調には進まなかった。1841年までに売却された29万9,000エーカーのうち、耕作されたのはわずかに2,500エーカーにすぎず、土地は耕作の対象というよりも、投機の対象となった。植民地財政は破綻し、組織的植民は事実上失敗した。オーストラリア全体では、牧羊産業や銅の発見などにより経済が刺激され、やがて、南オーストラリア植民地活動も回復していく。 流刑植民地としての大陸の性格にも変化が現れた。1850年に英本国で制定された植民地政府法により、ニューサウスウェールズから、ヴィクトリア、クィーンズランドが、それぞれ独立し、これと並行して、総督による統治権の制限や、立法機関や行政機関の設置を要求する声が強まり、各植民地に議会が設置された。 ニューサウスウェールズ、タスマニアに続く西オーストラリア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランド植民地の誕生(一部分離独立)は、ほぼ1830年代から50年代にかけての20-30年間になされた。オーストラリアの人口は、入植以後20万人に達するのに半世紀かかったのが、19世紀半ばまでの10年間で2倍以上に膨れあがり、さらに次の10年間で100万人の大台にのり、新世紀を迎える頃には370万人、最大のニューサウスウェールズ植民地は100万人を擁するまでに増加した。 人口増加の要因は、牧羊業の発展に伴う流刑植民地から自治植民地への変身を契機とした自由移民の増加であるが、さらにそれを拍車にかけたのが世界中から60万人を越える人々が流入したゴールドラッシュであった。 ゴールドラッシュが終焉すると、人々は職を求めて都市に流入し、今日の人口の州都・近郊都市及び東海岸への集中は、この時を境に著しくなった。人口の都市集中は、都市化による建設業、製造業、金融・不動産業などの都市サービス産業に加え、軽工業に従事する労働者層を生み、さらに住宅・土地ブームを継続させ、国内産業発達の大きな要因となった。ヴィクトリアでは、機械・金属産業、ニューサウスウェールズでは衣服・織物産業が発達し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズは保護貿易と自由貿易で真っ向から対立することになる。 19世紀半ば自治植民地化以降のオーストラリア各植民地は、人口の急増と人口の都市集中、国内産業の発達と続き、さらには産業の発展が続き、各植民地間にある境界の存在がもたらす不都合さ、不便さ(郵便、交通、通信、鉄道等のインフラの不統一など)を次第に認識するようになり、連邦政府の樹立の機運が高まっていった。1891年、オーストラリアの6植民地代表にニュージーランド代表を加えて行われた「オーストラレイジア国民協議会」では、各植民地の一般投票において連邦化を決定するという決議を採択した。しかし、ニューサウスウェールズ議会がこの決議を認めなかったため、連邦化への道は挫折した。 その後10年にわたり、幾多の議論が交わされ、1901年1月1日、ニュージーランドを除く6植民地が、ついにオーストラリアとして発足することとなった。up |
|||
№750(2007/06/17) 第2章 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
|
|||
|
第2章 オーストラリアン・ルールズ・フットボール
第2章では越智道雄氏の「オーストラリアを知るための55章」(第2版 明石書店)と豪日交流基金の「Australian History Dictionary」をもとに構成しています。 Australian History Dictionary - Index http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/ オーストラリアの地図 1 ゴールドラッシュとジャガイモ飢饉 1851年ニューサウスウェールズのバサースト近くでジョン・リスターとトム兄弟が採算の取れるほどの量の金を発見し、エドワード・ハモンド・ハーグレイヴズがこれを広く宣伝して、米国に次ぐゴールドラッシュが始まった。ただし、このゴールドラッシュの中心は、ニューサウスウェールズから分離独立したばかりのヴィクトリアであった。 ※ヴィクトリアはもとはニューサウスウェールズの一部であり、ポートフィリップ地区と呼ばれていた。英国政府の承認なしに始まった唯一の植民地で、1830年代、牧羊業の発展とともに、タスマニアからの入植者やニューサウスウェールズの入植者によって開発が推進され、1840年代にはポートフィリップの3分の2の地域に羊が入り、1851年にはニューサウスウェールズから分離し、ヴィクトリア植民地となった。 大量の労働者がニューサウスウェールズの金鉱地へ流出したメルボルンでは市の機能がマヒしかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に報奨金を与える」と布告した。報奨金の結果、メルボルン近郊のバララット、ベンディゴーで大規模な金鉱が発見され、世界の3分の1以上の金がヴィクトリアで採掘されるまでになった。そのため、60万人ほどの移民が流入した。そのうちの半数以上は英国本土とアイルランドからであったが、その他の国のヨーロッパ人、米国人、中国人などの外国人も多く含まれていた。特に中国人は4万人もの人が流入し、最大の外国人集団を形成した。 そんな中、1854年ユリーカの反乱がバララットで勃発した。ゴールドラッシュで膨張した予算の調達に苦しんだメルボルン政府が、採掘税を不当に値上げしたため、反発した金鉱夫約150名が、紺地に白の「南十字星旗」の下でユリーカ砦に籠城した。12月、軍と警察が砦を攻撃し、約15分で反乱は鎮圧されたが、米国での失敗に懲りていた英国政府は、首謀者を放免し、鉱夫への待遇の改善も図られた。また、この反乱が成年男子全員への投票権授与など民主化の直接の契機となったされている。 反乱の首謀者ピーター・レイラーは、アイルランド系移民で、放免後ヴィクトリア植民地のアイルランド系の英雄として植民地議会の議員に選ばれている。レイラーの長兄ジェームズは、ジャガイモ飢饉が起きた1848年、指導者としてアイルランドで反乱(青年アイルランド党の反乱)を起こしたが、収監され釈放後、翌年死亡したが、その仲間たちは重犯罪用の流刑地ヴァン・ディーメン・ランド(現在のタスマニア)へ流されていた。 レイラーがユリーカで反乱を起こしたのは、採掘税だけが原因ではなく、亡き兄の仇討ちでもあった。また、レイラーは飢饉の故国では将来が絶望的なので、膨大な同胞とともにゴールドラッシュに沸くオーストラリアに流れてきたのである。金鉱夫の大半は、ジャガイモ飢饉から逃れてきたアイルランド移民であった。ただし、金鉱夫の多くは政府に積極的に抵抗した訳ではなかった。また、ユーレカの反乱が政治改革の直接の原因もならなかった。しかし、のちの労働運動やアイルランド系カトリックは、これを圧政に輝かしい民主的伝統として伝説化した。 アイルランド系の移民は、1788年の入植初期(主に囚人だったが)から3分の1を占めていたが、1829年のカトリック解放令までは被支配民族でマイノリティであった。解放令後、自由移民(補助移民)移民が主流になっても、カトリックのアイルランド系の地位は低く、プロテスタントであるアングロサクソン系から差別を受けていた。 ところが、ゴールドラッシュで大挙して渡ってきた中国人に対する排斥運動が起こると、白豪主義が台頭し、むしろ英語を話すアイルランド系移民は歓迎されるようになり、20世紀初頭オーストラリアでは、アングロ=ケルティックスというアングロサクソン系とアイルランド系の異民族融合を示す言葉が生まれ、現在では、オーストラリア人の30%がアイルランド系を自認し、オーストラリアはアイルランド本国を除けば世界で最もアイルランド的な国といわれている。 ところで、ヴィクトリア植民地のゴールドラッシュは、地表面付近の金が急速になくなると、金の採掘は大型機械を必要とし、個人や集団の採掘は減少した。それにつれて倒産や失業も増加し、鉱夫は都市に戻り定住していった。 |
|||
№749(2007/06/16) 参考資料② 交通革命と通信革命 |
|||
|
参考② 交通革命と通信革命
鉄道網の普及 1814年にスティーブンソンが発明した蒸気機関車は、1825年に至ってストックトン・ダーリントン間で主に石炭輸送用に実用化された。1830年にはリヴァプール・マンチェスター鉄道が完成、以後英国は鉄道時代を迎える。英国内では、のべ距離数にして6,000~7,000マイルに達した1850年代にはほぼ全国的な鉄道網が完成する。 時刻の統一 鉄道が現われると、正確な時刻表を発行するために、国中の時計を一貫して合わせることが必要になってきた。19世紀に入っても英国では、地方ごとに時刻が異なっていたのだ。1847年までには英国の鉄道会社のほとんどはグリニッジ時間(ロンドン時間)を使うようになった。このグリニッジ時間は1880年には公的な時間、すなわちグリニッジ標準時として英国で制定された。 郵便制度の発達 鉄道時代を迎えると、鉄道を利用した郵便物の輸送が行われ、しだいに主力となっていった。さらに専用の郵便車両が登場すると、車両内での郵便物の区分が可能となり、作業はよりスピード化していった。1840年にローランド・ヒルの改革により、世界にさきがけて近代郵便制度を実施されると、郵便取扱量は、前年の8,247万通から1億6,877万通へと倍増した。この制度は、切手による料金前納と均一料金制によって誰もが低料金で簡単に利用できるものであった。 新聞の企業化 18世紀を通じ、英国はヨーロッパで最も早く新聞が発展したが、19世紀に入って輪転機の開発や鉄道による輸送の発達により、大量印刷・大量輸送と価格軽減がもたらされ、新聞の発行量は着実に増加した。ちなみに1780年の英国では、日刊紙はロンドンに18、イングランド地方全体で96、ウェールズに4、スコットランドに21、アイルランドに7という具合だったが、1821年には英国全体で367紙に増え、1861年には1102紙を数えるまでになっていた。19紀後半~末頃にかけて新聞の企業化が進んだ。 電信網と海底ケーブル網 英国で1837年ウィリアム・F・クークとチャールズ・ウィートストーンによる電信特許が認められ、1843年には、ロンドンに最初の公共電信が導入され、電信網が英国内で急速に普及していった。1851年には、英仏海峡に海底ケーブルが敷設され、1880年代になると電信ケーブル、海底電信ケーブルは世界中に拡がっていった。大英帝国は世界の大半の電信線、海底電信線を保有し、これが大英帝国の統治を支えた。例えば、植民地で反乱が起きると、すぐにロンドンに情報が伝えられ、本国の指示がすぐに電信で送られるということもあった。 |
|||
№748(2007/06/12) 参考映像② これがハーリングだ!! |
|||
ハーリングとはなんだ(3の1)
|
|||
№747(2007/06/11) 参考映像① これがゲーリック・フットボールだ!! |
|||
|
ゲーリックフットボールとはなんだ?(3の1) |
|||
№746(2007/06/10) 第11節 アイリッシュネスとゲーリック・ゲームス |
|||
|
アイルランド編の最後として20世紀におけるアイルランド共和国の独立への道のりをみる。パーネルの死後、10年間アイルランドの政治運動は沈滞化するが、1913年パーネルが目指したアイルランド自治法案の成立が必至になると、法案に反対する北のユニオニストはアルスター義勇軍を組織し、南のナショナリストはアイルランド義勇軍を組織し対抗した。1914年自治法案が可決されると、アイルランドは内乱の危機に直面した。しかし、両者の衝突は第1次世界大戦の勃発によって回避され、自治問題もいったん棚上げされた。 |
|||
№745(2007/06/09) 第10節 英国とアイルランドのつながり その他 |
|||
|
ところで、ゲーリック・スポーツ自体に英国産スポーツとの類似性がみられ、近代スポーツ以前では、イングランドと同じスポーツ文化圏にあったようにみえる。ゲーリック・フットボールは、サッカーとラグビーの中間の様なフットボールで、起源は16世紀から17世紀頃と古く、フットボールが発祥した当時の形に一番近い競技であると言われている。すなわち、イングランドでは、産業革命により、1830年代には消滅した民俗フットボールが、産業革命を経験しなかったアイルランド(北アイルランドを除く)では、19世紀後半においても村々で行われ、それがゲーリック・フットボールへとつながったとも考えられる。 |
|||
№744(2007/06/08) 第9節 英国とアイルランドのつながり アスレティシズム |
|||
|
ラグビーやサッカーは、GAA設立当時既に人気があり、GAAの後援者のひとりであるクローク大司教は、工業製品の輸入と同じように英国から悪しき文化が輸入され、アイルランドの民衆娯楽が衰退していくこと、即ち、英国化していくことを憂い、アイルランドの伝統的娯楽の復活を目指すGAAの運動を支援した。 |
|||
№743(2007/06/07) 第8節 英国とアイルランドのつながり 上層階級 |
|||
|
ところで、GAAが伝統的娯楽の復活を目指したとはいっても、他のアイルランド文化と同様、スポーツにおいて非英国的なものを区別することは簡単ではない。アイルランドは、近代スポーツの母国である英国に近接し、19世紀を通じてはその一部でさえあった。このため、スポーツをめぐる他の植民地との大きな違いに、この地理的近接性と、その近接性による上層階級の重なりが指摘されている。 |
|||
№742(2007/06/06) 第7節 アイリッシュ・ナショナリズム |
|||
|
アイルランドにおいて、ナショナリズムとか「国家」とか言われるようになるのは近年になってからに過ぎない。アイルランドでは、民族としての感覚は強いが、国家についての感覚は弱かった、といわれる。 |
|||
№741(2007/06/05) 第6節 GAAとクロークパーク |
|||
|
GAAは、1884年アイルランドの伝統的な娯楽(pastime)=ゲーリックゲームスを守るため、ティぺラリー州のサールスで設立された。翌1885年ゲーリック・フットボールとハーリングのルールが作られ、1887年に初のゲーリック・フットボールとハーリングのオールアイルランド大会が行なわれた。GAAは、驚くべき人気となり、アイルランドの全ての教区でまもなく設立された。 |
|||
№740(2007/06/04) 第5節 ゲーリック・ゲームス |
|||
|
英国による併合以降、アイルランド国内では、英国との連合をベースに英国人としてのアイデンティティを重視するユニオニストと、英国からの分離独立と共和主義をベースに自由なアイルランド人の創造を戦略的目標とするナショナリストの対立という構図が生まれた。ただし、この対立の構図が真の意味での北アイルランド問題、つまり、アイルランドの南北二つの地域への分化・両極化として発生したのは、1880年代英国議会でアイルランドの自治問題が取り上げられるようになってからであった。 |
|||
№739(2007/06/03) 第4節 ジャガイモ飢饉 |
|||
|
19世紀はじめのアイルランドは、「不在地主」のプロテスタントが支配する一方で、その国土には自ら食す分もままならないような面積の農地しか持たないカトリックの貧農たちであふれかえっていた。そのなかで、主に麦を栽培していた小作農家たちは、地主に納めなくてもよく、荒れた土地でも栽培できるジャガイモの栽培を始めた。ジャガイモの栽培は急速に普及し、農民たちの主食となっていった。 |
|||
№738(2007/06/02) 第3節 英国によるアイルランド併合 |
|||
|
18世紀になると英国による抑圧政策への不満から、プロテスタントの特権階級(アイリッシュ・プロテスタント)の間でアイルランド人としての意識が芽生え始める。さらに1775年に勃発した米国独立戦争の対処に追われた英国は、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった。 |
|||
№737(2007/06/01) 第2節 ケルトとカトリック |
|||
|
ケルト(ゲール)人の国アイルランドに、キリスト教を伝えたのが、432年にローマ教皇の命を受けた聖パトリックで、彼はアイルランドに元々存在したケルトの宗教観を改宗させるのではなく、キリスト教と融和させる形を取りキリスト教を布教した。その際シャムロック(三つ葉の植物)を手に『三位一体』を説いたためシャムロックは彼のシンボルとなったといわれる。 |
|||
№736(2007/05/31) 第1章 ゲーリック・ゲームス 第1節 聖パトリック・デー |
|||
|
3月17日は、聖パトリックデー。アイルランドにキリスト教を伝えた聖人・聖パトリックの命日で、 カトリックにおける祭日であり、アイルランドの祝祭日。聖パトリック・デーのメイン・イベントといえば、各都市で行われる大パレード。シャムロック(三つ葉の植物)を服につけたり、緑色の物を身につけて祝う日で、「緑の日」とも呼ばれる。アイルランド系やカトリック教徒以外の者も参加することが多い。北米のニューヨークやボストン、オーストラリアの各都市など、アイルランド系移民の多い地域・都市で盛大に祝われる。 |
|||
| №735(2007/05/30) 参考① 英国の近代小史 | |||
| 太陽の沈まない国 現在の英国の正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。1707年国教会派のイングランド王国と長老会派のスコットランド王国が合併し、グレートブリテン王国となった。新王国のナショナル・アイデンティティ、即ちブリティッシュネスは、プロテスタンティズムであり、カトリックの雄フランスとの間で、世界の覇権を争った。 これが第二次英仏百年戦争といわれるもので、最終的に七年戦争で英国側が勝利し、1763年パリ条約で終結した。これにより、フランスは北米植民地とインドでの拠点を失い、英国は、世界の覇権を確立した。北米・カリブ海植民地を中心とした第一次大英帝国(旧帝国)が成立した。植民地が世界中に広がっていたことから「太陽の沈まない国」と呼ばれた。 ところが、七年戦争の局地戦であるフレンチ・インディアン戦争に動員された北米13植民地が、英国の圧政に不満を抱き、独立戦争(独立革命)(1775-1783年)を起しアメリカ合衆国として独立。また、海外植民地を失い度重なる外征の戦費と王家の豪奢な生活などによって財政事情が悪化したフランスでは、1789年フランス革命が勃発し、絶対王朝(旧体制)が打ち倒された。 米国の独立により、英国は植民地政策の転換が迫られ、以後、インドと白人植民地(カナダ、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド)を中心とした新帝国へと移行していく。また、二つの革命から独立機運の高まっていた植民地アイルランドを抑えるため、英国は1801年カトリックのアイルランドを併合し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となった。これにより、プロテスタントの国にカトリックを内包するという矛盾を抱えることになった。 ところで、マックス・ウェーバーによれば、プロテスタンティズムの禁欲的エートスが資本主義の発展に作用したとされるが、イングランド以上に激しいプロテスタンティズムの洗礼を受けたスコットランドでは、18世紀中葉、アダム・スミスが、レッセ・フェール(神の見えざる手、自由放任主義)を唱え、当時発展しつつあった資本主義を体系化した。19世紀中頃になると、英国ではアダム・スミスの自由放任主義が主流となり、穀物法と航海法が廃止され、ジャガイモ飢饉ではアイルランドの人々を見殺しにすることとなった。 世界の工場 英国では世界に先駆けて産業革命が進展し、世界の工場と呼ばれた。英国では、18世紀ダービーによるコークス製鉄法の開発、ワットによる蒸気機関の開発、改良を契機にして工場制機械工業の発達が促され、18世紀中頃から木綿工業をはじめ、機械製造工業、その原料の鉄の精錬業、さらに鉄の溶解や蒸気機関の燃料に用いられる石炭採掘など、労働集約的な工業部門が飛躍的に発達した。 大規模な機械工業が発達すると、大量の原料・製品・鉄鉱石・石炭などを輸送する必要から、18世紀後半には英国内に運河が張り巡らされたが、19世紀に入ると、1814年スコットランド人スチーブンソンが蒸気機関車を発明し、これ以降、公共の陸上輸送機関として鉄道が普及した。また1807年に米国人フルトンが試作した蒸気船は河川や海上における運輸・交通に新時代をもたらした(交通革命)。 英国では、イングランド北部やスコットランドに石炭と鉄鉱石の大鉱脈がありこれらの産地、もしくは、綿花・鉄鉱石の輸入と工業製品の輸出の基地として港湾都市が工業都市として発展した。また、安価な労働力が大量に工業都市に集中する事によって都市化が進展した。こうして、産業革命により人口が爆発的に増加した都市として、イングランドのリバプール、マンチェスター、バーミンガム、スコットランドのグラスゴー、ウェールズのカーディフ、アイルランドのベルファストなどがある。 こうした社会的な変動は、社会制度そのものに大きな変化をもたらした。都市化は、かねてから進行していた囲い込みと連動して従来の農村のコミュニティを崩して、新しい都市のコミュニティの形成が行われた。なお、英国では、18世紀から人口爆発(急激な増加)が続き、移民先としての白人植民地が求められていた。up |
|||
№734(2007/05/28) 第3節 WASPとアイルランド |
|||
| アイルランドは、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が支配する英米諸国の中で唯一、ケルト・カトリックの国である。WASPとは、米国での白人のエリート支配層を指す語として造られ、当初は彼らと主に競争関係にあったアイルランド系カトリックにより使われていた。現在では、アイルランドと同じケルト系でも、プロテスタントの北アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人はWASPに含まれることが多い。 アイルランドは、人口約390万人の小国であるが、全世界7000万人以上(米国に4200万人、その他英国、オーストラリア、ニュージーランド等いわゆる英米諸国を中心に分布)のアイルランド系移民がいるといわれ、各国で大きな影響力を持っている。 近代スポーツを育んだアングロサクソン諸国(英米諸国)のなかで、ケルト・カトリックという特異な歴史を持ち、全世界に本国人口の20倍近い移民を有するアイルランド。近代スポーツの母国である英国に隣接し、800年に渡って英国の支配された歴史を持ち、19世紀を通じては、英国ですらあったアイルランド。そこで、英米諸国におけるナショナル・アイデンティティとしての近代スポーツの歴史とその意義について、アイルランドとアイルランド移民を中心にした白人移住植民地を通してみていきたい。up |
|||
№733(2007/05/27) 第2節 英米産のスポーツ |
|||
| なんで欧米を英米と大陸欧州に二分する話をするのかといえば、近代スポーツを考えるとき、不可欠だからである。近代スポーツは、英国で誕生し、多くのスポーツが英国と米国で生まれた。主なボールゲームだけをみても、クリケット・ゴルフ・サッカー・ラグビー・テニス・ホッケーは英国産であり、ベースボール・アメリカンフットボール・バスケットボール・バレーボールは米国産である。因みに、アイスホッケーはカナダ産。
これに対し、大陸欧州産のボールゲームは、デンマークとドイツで生まれたハンドボールぐらいである。ただし、近代スポーツは英国で生まれたといっても、その多くは大陸欧州から伝えられた言われている。近代テニスは、ローン・テニスといわれ、芝生のコートで行うゲームとして、19世紀後半に誕生したが、起源は、フランスのジュ・ド・ポームという掌でひとつのボールを打ち合うゲームで、教会の中庭で盛んに行われていた。いまでも、全英(ウィンブルドン)は芝生だが、全仏は土のコートである。 サッカーやラグビーのルーツであるフットボールに似たゲームは、中世(大陸)ヨーロッパの各地にあり、それが英国に伝わったともいわれる。また、カルチョというラグビーに似たゲームがいまでも、イタリア・フィレンツェで行われており、サッカー発祥の地はイタリアだと、地元では信じられている。さらに、クリケットという言葉は、フランス語のボールを打つ棒(クリケ、クリッケ)に由来するとも言われている。 しかしながら、近代スポーツとしてのテニス、サッカー・ラグビー、クリケットは英国産には違いない。近代スポーツの成立条件(スポーツの近代化)とは、全国統一ルール、全国組織、全国大会とされるが、これには国民国家の成立と産業革命という条件が必要だった。全国の単位は国であり、国という単位がなければ、一地方のゲームで終わってしまう。 産業革命は単なる工業だけの革命ではなく、通信革命(新聞)や交通革命(鉄道)をともなっていた。新聞や鉄道の普及無くしては、ルールの統一化や全国的な組織の維持と全国大会の実現は困難であった。鉄道網の普及は、対外試合を増加・広域化させ、ルール統一化の機運を高め、ルールの統一は競技の普及を促進させた。新聞の普及も、スポーツの近代化に貢献した。新聞が前日の試合結果を、載せることにより、誰もが、試合を見なくてもその結果を知ることができるようになり、ルールの周知と競技への関心を高める結果となった。 国民国家の成立と産業革命が英米で先行したことが、英米で多くの近代スポーツが誕生した理由かもしれないが、英米で誕生した近代スポーツの多くが、未だに英米中心で行われ、世界的に普及していない点を見過ごしてはならない。英国で生まれたクリケットやラグビーが盛んな国は、未だに旧英連邦諸国が中心であり、米国で生まれたベースボールとアメリカン・フットボールが盛んな国は、米国の周辺国に限られている。 また、同じ英米諸国のなかにあっても、手を使うフットボールは、各国の歴史と国民性を反映した独自のフットボールが人気がある。もちろん米国にはアメリカン・フットボールがあり、それに似たカナディアン・フットボールがカナダにはある。アイルランドには、サッカーとラグビーの中間ともいえるゲーリック・フットボールがあり、これに似たオーストラリアン・ルールズ・フットボール(オージー・ルールズ)が、オーストラリアにある。オージー・ルールズの方が先にルールが整備されたが、メルボルンにアイルランド系移民が多かったことから、彼らの母国で行われていたフットボールを基に発達したと言われている。なお、本家である英国のラグビー(ユニオン)は、プロ化を巡って、プロ側が脱退し結局、15人制のユニオン・ラグビーと13人制のリーグ・ラグビーに分かれていった。 近代スポーツは、ルールが統一化、洗練化されいっても、競技自体がその国の土着的な風土や文化の中から生まれてきたものにおいては、競技自体に土着的な風土や文化が組み込まれ、ナショナル・アイデンティティの反映の場になっているように思う。up |
|||
№732(2007/05/26) 白人移住植民地を通してみた英米スポーツ
|
|||
| ブリテン諸島 欧米か 「欧米か」という突っ込みがタカandトシのギャグで流行っているが、「欧米か」といわれると、思わず「欧米といっても、英米と大陸欧州(ヨーロッパ)は違うよ」と突っ込みを入れたくなる。「欧米か」と一口に言っても、実はアングロサクソン系の英米と大陸欧州に二分されるのだ。 大陸欧州とは、欧州のうち英国を除く諸国、いわゆる欧州大陸の諸国を指す。英国の政治・経済・社会はいずれも大陸欧州諸国とは乖離し、むしろ米国をはじめカナダ、オーストラリア、ニュージーランドと似通った性質を持つ。国際比較にはまとめてアングロサクソン諸国(英米諸国)として、大陸欧州とは別ものとして扱われる。 例えば、近代法は、判例主義に基づく英米法と成文法を中心とした大陸法に分かれる。英米法は、イングランドのコモンローに由来し、英米のほか、旧英領だったアングロサクソン諸国で主に採用されている。これに対し、大陸法の起源は、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス帝が編纂したローマ法大全を元にしたローマ法で、大陸欧州諸国で広く採用され、日本をはじめ世界の多くの国で採用されている。 英国は、欧州大陸北西部の周縁部に位置する島国で、大陸欧州とは異なる独自の文化圏を有している。ただし、英国と大陸を隔てるドーバー海峡の幅は、35~40㎞しかないため、大陸から隔絶してるわけではなく、ローマ軍の侵攻、ノルマン・コンクウェスト、英仏百年戦争と絶えず直接的な影響を受けてきた。このため、英国と大陸欧州との関係は、つきず離れずの関係にあり、現在も、英国はEU(欧州連合)に加盟しているが、欧州通貨であるユーロへの通貨統合が未だに見送られている。 現代ヨーロッパの起源は、800年のフランク王国カール大帝による西ローマ皇帝戴冠にある。カール大帝に戴冠により、ゲルマン世界とキリスト教世界とギリシア・ローマ文明の融合による中世西ヨーロッパ世界が成立する。このときのフランク王国の領域が、現代ヨーロッパの基礎となった。カール大帝のフランク王国の領域が、EUの母胎となったEEC原6カ国の領域と重なることはよく知られた事実であり、英国のあるブリテン諸島は、旧フランク王国の領域に含まれない。up |
|||
№731(2007/03/23) 希望枠自粛の動きと選手会のCS拒否 |
|||
|
宮本選手会会長「クライマックス」拒否も(2007年3月23日 日刊スポーツ) |
|||
№730(2007/03/22) 紛糾の種 |
|||
|
希望枠撤廃を来年からとしたNPB代表者会議の翌日、朝日新聞に根来コミッショナー代行を批判する記事が出ていた。いまいち、経緯が分からなかったが、スポニチの記事でわかった。代表者会議で、希望枠即時撤廃派の8球団とFA短縮を絡めようとする読売が対立し、多数決に持ち込まれそうになったとき、読売に助け船を出したのが、根来コミッショナー代行。それが混迷の始まりだったのだ。 |
|||
№729(2007/03/21) アマの反発 |
|||
| 希望枠の撤廃が来年からになったことに対し、アマ側の反発が強まっている。 プロ野球:希望枠即時撤廃のアマ球界は反発 http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20070322k0000m050099000c.html 希望枠の即時撤廃を強く求めていたアマ球界側は驚きと反発を隠さなかった。日本野球連盟、全日本大学野球連盟、日本高校野球連盟の3団体はプロ側の結論を受けて電話で協議し、引き続き即時撤廃を求めていく方針を確認するとともに、プロ側に強く抗議した。 16日に行われたプロ側との意見交換会で、アマ側は「希望枠があるから、アマ側にもつけ込もうという動きが出てくる。不正の温床」として、即時撤廃を要望していた。 日本野球連盟の松田昌士会長は「アマ側の総意として希望した。中途半端な決定には失望している」と表明。後勝・専務理事は「遺憾。3団体で再度意見確認をし、強く申し入れていく」と話した。鈴木義信副会長も「プロ・アマ関係を根本から崩しかねない」と強い口調で話した。 全日本大学野球連盟の内藤雅之・常任理事は「現時点で決定されなかったことに非常に驚いている。今後の協議の中で撤廃になっていくことを望む」と話した。 アマ側は、仮に即時撤廃が受け入れられなかった場合、ドラフトへの協力を見直す可能性も示唆するなど、プロ・アマの協調関係への悪影響は避けられそうにない。【山本亮子】 プロ野球:希望枠撤廃に結論出ず 高野連が断固抗議 http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20070322k0000m050100000c.html アマチュア3団体として希望入団枠の撤廃を求めていた日本高校野球連盟の田名部和裕参事は21日、大阪市内で記者会見し、「希望入団枠の即時撤廃を申し入れていたのに、なぜ結論が出なかったのか。信じられない思いだ。アマ3団体として受け入れられない」と述べ、電話でプロ側に抗議した。 日本高野連は04年1月にプロ側と「ドラフト制度を変更する場合は高野連の同意を必要とする」などとする覚書を交わしており、田名部参事は「われわれは希望入団枠の撤廃をすでに求めているわけで、現行制度が維持される場合も覚書に定める高野連の同意は必要だ。アマ側の協力なくしてドラフトは成り立たないという意識がプロ側にあるのか」との見解を示した。 日本高野連は22日に全国理事会を開くが、早大の清水勝仁選手(退部処分)が在籍していた岩手・専大北上が加盟校にふさわしいかどうかも協議する。同校では04年に当時の監督が別の選手のプロ入団をめぐる金銭供与で無期の謹慎処分を受けている。相次ぐ金銭授受の発覚に、田名部参事は「最終的な処分は日本学生野球協会で決まるが、加盟校として除名に値するぐらい悪質だと考えている」と語った。【滝口隆司】 up |
|||
№728(2007/03/21) NPBよ! 池井先生の思いを聞け |
|||
|
NPBよ! 池井先生の思いを聞け |
|||
№727(2007/03/21) 来年のドラフトから希望枠撤廃って、何? |
|||
|
NPBは何をやっているんだ |
|||
№726(2007/03/19) 聖パトリック・デー |
|||
|
3月17日は、聖パトリックデー。アイルランドにキリスト教を伝えた聖人・聖パトリックの命日で、 カトリックにおける祭日であり、アイルランドの祝祭日。聖パトリック・デーのメイン・イベントといえば、各都市で行われる大パレード。シャムロック(三つ葉の植物)を服につけたり、緑色の物を身につけて祝う日で、「緑の日」とも呼ばれる。アイルランド系やカトリック教徒以外の者も参加することが多い。北米のニューヨークやボストン、豪州の各都市など、アイルランド系移民の多い地域・都市で盛大に祝われる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070318-05100907-jijp-spo.view-001 |
|||
№725(2007/03/18) 野球統制令と学生野球憲章 |
|||
|
西武の金銭供与問題は、プロ側にとってはドラフト破りの買収であり、アマ側にとっては学生野球憲章違反となる。アマ側の危機意識は高い。 |
|||
№724(2007/03/17) プロアマ会議 |
|||
|
危機感を抱くアマチュア三団体と危機意識の乏しいプロ |
|||
№723(2007/03/16) baseball wind today |
|||
|
巨人などの若手混成チームは「フューチャーズ」 |
|||
№722(2007/03/15) さまよえるドラフト改革(7) 口止め |
|||
|
西武の裏金発覚で守勢たたされた読売は、13日の代表者会議で「日本版ウェーバー制」とか「クロスウエーバー方式」とか言われる改革試案と、FA取得までの年数を現行の一律9年から大学生・社会人は5年、高校生は6年に短縮する、セット案を発表し反転攻勢出た。 |
|||
№721(2007/03/14) さまよえるドラフト改革(6) 白紙へ |
|||
| 希望枠存続か、撤廃か。結論は先送りされた。選手会(宮本慎也会長=ヤクルト)は13日に開かれた球団側との拡大選手関係委員会で「スカウト不正の温床といわれる希望枠撤廃を」と主張したが、球団側は現行制度維持の合意を白紙撤回する、と回答するにとどまった。 選手会からは宮本会長のほか、西武の赤田選手会長、佐藤副会長も出席した。宮本会長は「アマ選手の人生を狂わせるような問題が起きたのだから、フリーエージェント(FA)やポスティングなどの問題よりもドラフト制度改革を最優先すべきだ」と主張し、希望枠の撤廃を訴えた。 球団側の「フリーエージェント(FA)権取得期間の短縮とリンクさせるのが目的か」との勘ぐりには、「ファンの信頼が落ちている中で、第一に話すべきはドラフト。FAの話はしないでいい」とくぎを刺したという。 選手会との交渉の前に開かれた球団代表者会議でも撤廃論が大勢を占めた。ロッテの瀬戸山代表は「希望枠制度は裏金などの温床になりやすい」と問題点を指摘。ヤクルトの倉島専務は「明らかにプロ側の行為がアマ側に迷惑をかけたのだから。白紙撤回しかない」と、「けじめ」に言及した。 一方、ソフトバンクの角田代表は「(ドラフト制度問題には)メジャー流出の問題、職業選択の自由、アマの要望など、いろんなことが含まれる。撤廃反対、というわけではないが、不正行為と制度は別に考えたい」、読売の清武代表は、「ドラフト制度は選手の自由を確保しなければいけない」と話すなど、一部の球団が、即時の撤廃決定に疑問を示し、16日アマチュア球界の意見も聞いてから判断するということで、「現行制度維持の合意を白紙撤回する」に止まった。 とは言っても、希望枠存続の中心だった読売が希望枠を廃止した場合の代案を出すなど軟化。同じくソフトバンクの角田代表も「アマがダメというなら撤廃でいい」と語った。 そのアマチュア側は、希望枠撤廃で足並みがそろっている。「不正の元凶は希望枠。撤廃を求める」というのは、日本高野連の田名部和彦参事。2004年に大学生だった一場投手(現、楽天)が金銭を受けていたのとは違い、今回の当該選手は高校時代から金銭供与を受けていることが判明した。 それだけに高野連がアマ側の結束を呼びかけた。全日本大学野球連盟の内藤理事も「希望入団枠の撤廃には賛同する」。日本野球連盟の鈴木副会長も「今回の裏金問題はドラフト制度そのものに問題がある」と話す。 ただし、選手会側が「結論はスピーディーに出すべきだ」と主張したことに対して、球団側も同意。21日の球団代表者会議では具体的な新ドラフト制度の骨子を決める方針となった。 以上、新聞及びネット記事からまとめup |
|||
№720(2007/03/13) さまよえるドラフト改革(5) その後の動き |
|||
|
西武のアマチュア2選手への金銭授与は、高校時代から始まっていることが判明した。10日の東京ガス・木村雄太投手の記者会見で、高校3年1月から毎月30万円を受領したことが発覚していたが、当該選手の一人である早大の野手も、高校時代から金銭の供与を受けており、当時西武と選手側が交わした覚書に高校の指導者(当時)もサインしていたことが13日、分かった。 |
|||
№719(2007/03/12) 四国アイランドリーグの石毛社長退任 |
|||
|
四国アイランドリーグの石毛社長が退任した。 |
|||
№718(2007/03/11) さまよえるドラフト改革(4) 西武球団の裏金供与 |
|||
|
西武ライオンズの太田秀和球団社長(オーナー代行)は3月9日、埼玉県所沢市の球団事務所で会見し、学生と社会人のアマチュア選手2人のスカウト活動に際して、合わせて1300万円近くの金銭を学費や栄養補給費として渡していた、と発表した。
NPBでは2004年に読売、横浜、阪神が明治大学の一場靖弘投手(現、楽天)に裏金を渡した問題が発覚。NPBはスカウト活動の倫理規定を見直したが、それ以降も西武は早大選手に西武入団への誓約事項の条件として定めた1025万円余りの全額を支払い続けた。一方で、東京ガス投手の関係者には、計1050万円を支払う予定だったが、一場問題を受けて支払いを打ち切ったという。 http://www.asahi.com/national/update/0309/TKY200703090347.html NPBでは、2004年の裏金発覚以後、スカウト活動の倫理規定の見直しの他、実行委員会にドラフト制度検討委員会(委員長=横浜・山中正竹球団専務)を設け、2年間の暫定試行(希望枠1・分離ドラフト)期間を経て、2007年度から新たなドラフト制度を発足させることになっていた。同委員会は、スカウト関係者へのヒアリングを経て3月5日の代表者会議で一定の結論を得た。そして、同月13日の選手会との協議を経て正式決定されることになっていた。 ドラフト制度改革については、検討委員会のメンバーのひとりで、読売の清武英利球団代表は2月7日の代表者会議後、報道関係者らに、スカウトからは「現行制度で透明性や公平性が確保できるようになった」「高校、大学、社会人の指導者への調査で、58%が現行制度を続けるべきとしている」と話し、希望枠・分離ドラフトの存続を図る読売の主張の正当性を図ろうとした。 ところが、これに対し、日本学生野球協会、全日本大学野球連盟、日本高校野球連盟のアマチュア三団体が、NPBがアマ側団体の同意がないまま、アマチュア野球指導者にアンケート調査を実施したとして、根来コミッショナー代行に抗議を行い、コミッショナー事務局の長谷川事務局長は、「ドラフト制度検討委員会では、アンケートは行わないと決めた。アマ側には『申し訳ない』と伝えた」と話した。 読売の勇み足を受け、契約金の高騰を理由に「高校生」と「大学・社会人その他」を分離ドラフトを9月に再統一する案が浮上し、これには選手会側も賛同の意向を示していたが、再統一案では日程上希望枠の存続が難しいことから、暫定試行された現行ドラフトの存続を主張する意見も出て伯仲。 結局5日の代表者会議では、「制度はうまくつくったと思う。何を変える必要があるのか」という読売の主張のとおり、暫定試行された希望枠1・分離ドラフトという現行制度を存続することでまとめられたという。ただし、正式決定は13日の選手会との協議を経てからということで、合意内容は発表されなかった。 こうした中で、突然、アマチュア2選手へ金銭授与の事実が西武球団から発表された。 西武ライオンズの太田社長は、2006年2月に就任した際、星野好男前社長から栄養費供与の事実を引き継いでいた。そのため、球団編成部に2選手を指名しないよう指示したという。しかし、球団が調査を始めたのは昨年8月。しかも、外部からの情報提供がきっかけだったという。にもかかわらず公表が大幅に遅れたことについて明確な理由を示していない。 裏金疑惑が明るみに出そうになって、慌てて公表したように思われていることに対し、「(公表に)関係ない(西武)」としていが、13日にもドラフト改革が決着するかという矢先に、西武球団の太田社長兼オーナー代行が、裏金供与の事実を知ってから1年以上、調査を始めて半年がたってから発表したのはなぜか。これは、反読売の朝日新聞社がその事実を把握し報道しようとしたからとちまたでは言われている。 西武球団の金銭供与が悪質なのは、東京ガス投手と早大野手への金銭支払いが、一場投手への「栄養費」供与が明るみでてからも続けられたこと、さらに早大野手には、2005年6月の倫理行動宣言後の同年10月に金銭の支払いを行っていたという事実である。 ■倫理行動宣言(2007/03/11 サンスポ) 2004年に一場(明大)への裏金問題が発覚し、巨人、阪神、横浜のオーナー辞任に発展したプロ野球界が再発防止を目的に2005年6月に採択した。(1)新人獲得活動において利益供与は一切しない(2)日本学生野球憲章の尊重(3)違反の疑いがある場合は調査委員会を設置(4)違反した場合はコミッショナーが制裁-を定めた。日本プロ野球選手会はペナルティーの厳罰化や第三者機関による調査などを求めている。 http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200703/bt2007031103.html この事実を受け、同日、選手会の松原徹事務局長は、西武の金銭供与発覚により、倫理行動宣言と2年間の暫定ドラフトが「失敗だったことが、これで分かった」と訴えた。宮本会長も怒っているそうで、13日のNPBとの事務折衝では、改めてドラフト制度改革を訴える方向。「NPBは(今秋のドラフトを)同じ方法でやるとは言えないでしょう。ファンが納得しない」と話した。(2007/03/10報知) また、翌10日には、NPB側もあらためて、12球団代表者会議を13日に緊急招集することとなった。この日、ドラフト制度検討委員会の山中委員長(横浜球団専務)は「(5日の代表者会議の)合意が(不正が)“何もない”を前提にしている以上、もう一度話し合わなければならない」と話し、再検討の可能性を示した。(2007/03/11 サンスポ) さらに、多くの球団首脳から「合意内容を白紙に戻し再討議すると選手会に回答すべき」との声も上がっており、山中委員長は「野球の神様から雷を落とされた、と考えるべきだ。一度は合意した制度も再考の声が上がるだろう。社会問題とも言えるプロ野球の体質を変えるんだ、との姿勢を示したい」と話した。(2007/03/11 スポニチ) NPBは、明日12日に西武の詳細報告を受け、根来コミッショナー代行が対策を協議する。13日には12球団の緊急代表者会議を開き、同日選手会側と協議を行う。本来はこの日の選手会との協議で、新ドラフト制度を決定し、16日の高校、大学、社会人のアマチュア各団体とプロとの懇談会でアマ側に説明し了解を得る段取りになっていたが、16日は、アマ側からの糾弾とプロ側の事情説明、謝罪の場となるのは必至。大学球界関係者からは「このような状態で希望枠を残すことはあってはならない」との声もある。(2007/03/11 スポニチ) 希望枠存廃では読売、ソフトバンク、広島らが海外流出の歯止めなどを理由に存続を主張。撤廃ならばFA権取得期間の短縮が迫られることもあり、2004年当時から論議は堂々巡りを繰り返している。(2007/03/11 スポニチ) こんな動きの中、ソフトバンクの角田雅司球団代表は10日、選抜高校野球大会開幕前の20日すぎにスカウトを集め、改めて注意喚起する方針を示したが、不正の温床として、ドラフト制度の希望入団枠を指摘する声もあるが、角田代表は「スカウトのモラルと倫理観の問題。希望枠=不正とは思わない」と語り、ドラフト制度改革については「メジャーへの選手流出に対抗するためにも選手側にもある程度、行きたい球団に行ける制度であるべきだ」と語り、希望入団枠を肯定する姿勢に変わりないことを示した。(2007/03/10 毎日新聞)up |
|||
№717(2007/03/09) 欧米か(3) 「足と脚のフットボール」 |
|||
|
ラグビーは手を使うのになんでフットボールというのか。英国においてフットボールとは、掌サイズのボールを掌で1対1か2対2で、打ち合うハンドボール(近代スポーツとしてのハンドボールとは別)に対比した言葉で、大勢の人々が、両手で持つ大きなボールを足と脚を使って相手ゴールに入れるゲームのこと。 |
|||
№716(2007/03/08) 長崎県民球団「長崎セインツ」 |
|||
|
県民球団のチーム名、「長崎セインツ」に決まる。 |
|||
№715(2007/03/04) 欧米化(2) |
|||
|
なんで欧米を英米と大陸欧州に二分する話をするのかといえば、近代スポーツを考えるとき、不可欠だからである。近代スポーツは、英国で誕生し、多くのスポーツが英国と米国で生まれた。主なボールゲームだけをみても、クリケット・ゴルフ・サッカー・ラグビー・テニス・ホッケーは英国産であり、ベースボール・アメリカンフットボール・バスケットボール・バレーボールは米国産である。因みに、アイスホッケーはカナダ産。
|
|||
№714(2007/02/27) さまよえるドラフト改革(3) |
|||
|
選手会は、希望枠撤廃と9月統一開催案を支持。今回は、報知は選手会の希望枠撤廃支持を載せましたが、これも牽制球か。 |
|||
№713(2007/02/26) 欧米か |
|||
|
「欧米か」という突っ込みがタカandトシのギャグで流行っているが、「欧米か」といわれると、思わず「欧米といっても、英米と大陸欧州(ヨーロッパ)は違うよ」と突っ込みを入れたくなる。「欧米か」と一口に言っても、実はアングロサクソン系の英米と大陸ヨーロッパに二分されるのだ。 |
|||
№712(2007/02/25) さまよえるドラフト改革(2) |
|||
|
ドラフト改革では、分割ドラフト支持派の読売がフライングを犯し、アマチュア団体からの抗議を受けた。このため、再統一派の力が増したのか、2月19日には日刊スポーツに「ドラフト再統一検討、9月開催も」という記事がでた。翌日20日には同じく日刊スポーツから「大学側はドラフト希望枠撤廃を望む」と希望枠の撤廃なら、秋季リーグ戦中でのドラフト指名も問題ない、という。ところが、23日のスポーツ報知は9月の再統一暗に対し、大学側が「希望枠獲得は不可能」という記事を載せている。希望枠については、再統一案よりも、球団間で意見が分かれており、読売側は、「希望枠」で他球団を牽制し、分離ドラフト維持を狙っていると見られる。 |
|||
№711(2007/02/24) 消えた球場巡りツアー(3) |
|||
|
2006年ゴールデンウィーク某日 今日は、きんぐさんにお世話になり待望の「消えた球場巡りツアー」です。甲子園球場で待ち合わせ。甲子園球場は、ゴールデンウィークなのでチケットは既に完売。と言っても、目的は消えた球場、なのですが、甲子園球場は始めてなので、興味津々。本編はこちらへ甲子園球場編 up |
|||
№710(2007/02/21) アフ友通信(1) |
|||
|
「アフリカ野球友の会」の記事が、2月19日の朝日新聞夕刊に載りました。 |
|||
№709(2007/02/18) 消えた球場巡りツアー(2) |
|||
| 2006年ゴールデンウィーク某日 広島の帰り、神戸で一泊し、明日は念願の「球場巡りツアー」だ。その前に、スカイマークスタジアムで、オリックスVS西武戦を観戦する。オリックスの2枚看板のひとり、清原は戦列を離脱していた。 本編はこちらへ スカイマークスタジアム編 up |
|||
№708(2007/02/15) 消えた球場巡りツアー(1) |
|||
№707(2007/02/14) フリードマンの罠 |
|||
|
日本では1990年代初めにバブル崩壊によって景気低迷が続いた際に、当初は旧来型のケインズ型経済政策にもとづき、財政政策による景気刺激が試みられたが、景気への効果は悉く数年しか保たなかった。日米構造協議や経済のグローバル化のなか、規制緩和、所得税の大幅減税とフラット化、ゼロ金利、金融ビッグバン、など新自由主義経済政策もとられたが、政策に一貫性が見られず、1997年の消費税の引き上げとアジア通貨危機、2000年春の米国ITバブルの崩壊により、日本経済は巨額の財政赤字と不良債権を抱え、バブル崩壊後最悪の状況を迎える。 |
|||
№706(2007/02/13) 少子化の原因 |
|||
|
派遣社員の年齢階級別割合をみると、20~24歳10%、25~29歳25.5%、30~34歳24.5%、35~39歳13.2%、すなわちいわゆる就職氷河期時代の25~34歳の階層が50%に達する。 ここでも、25~34歳の階層の非正社員化が定着していることが分かる。それでは、派遣社員の賃金水準はどの位なのだろうか。 |
|||
№705(2007/02/12) ハケン会社の品格 |
|||
|
規制緩和の波はその後も続き、2004年労働者派遣法が改正され、政令26業務は期間が無制限となり、適用除外7業務のうち物の製造への労働者派遣が認められることとなった(期間は当初は1年、2007年3月から3年に延長)。また、その他の業務については、派遣期間が1年から3年に延長された。 |
|||
№704(2007/02/11) 温暖化のなかの氷河期 |
|||
|
18年平求人倍率 14年ぶり1倍台 失業率は4・1%に改善 |
|||
№703(2007/02/10) 自由の鳥を探せ |
|||
|
フリーターとは、ドイツ語のアルバイトの前後に、英語のフリー(free)と~する人のerをつけた造語フリーアルバイターの略称が定着したもの。1980年代後半のバブル経済の時期に、ミュージシャンや俳優になるという夢を持ちながら、日々の生活はアルバイトでつなぐという若者に対し、プータローと蔑視するのではなく、人生を真剣に考える若者として応援したいという意味からフリーターという言葉が生まれた。近年は、野球界も独立リーグやクラブチームが増え、プロ野球選手を夢見るフリーターも増えている。 |
|||
№702(2007/02/09) さまようドラフト改革 |
|||
|
プロ野球実行委員会のドラフト制度検討委員会(委員長=横浜・山中正竹球団専務)が2月7日、那覇市内のホテルで開かれ、2年間の暫定試行期間を終えた現行のドラフト制度について、12球団のスカウト責任者からヒアリングを行った。 |
|||
№701(2007/02/06) ロストジェネレーションの数字マジック |
|||
|
朝日新聞は、格差社会の主役として、「就職氷河期」に社会に出た25歳から35歳の層をさしてロストジェネレーションと称し年頭の特集記事を組んでいたが、この世代を数字でロストジェネレーションとして把握するのは実は難しい。 |