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№801~900(2007/10/30~2009/01/26 )

 

wind1 №1~100(2002/01/22~2002/06/15)
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wind8  №701~800(2007/02/06~2007/10/30)
wind9 №801~900 (2007/10/30~2009/01/26)
wind10 №901~ (2009/01/26~)

№900(2009/01/26)  ドイツ王

№899(2009/01/10) オランジュ公国 その2

№898(2009/01/10) オランジュ公国 その1

№897(2009/01/01) 天空の橋

№896(2008/12/13) baseball world news

№895(2008/12/07) カロリング朝フランク王国 2

№894(2008/11/26) カロリング朝フランク王国

№893(2008/11/25) 南仏の歴史

№892(2008/11/24) 成田市、ロッテVパレード誘致へ

№891(2008/11/23) NPB、株式会社設立へ

№890(2008/11/16) アキテーヌのライオン紋章

№889(2008/11/15) アジアシリーズ2008のスリーライオンズ

№888(2008/11/11) メロヴィング朝フランク王国

№887(2008/10/26) ラグビーとワインと南フランスの関係(3)

№886(2008/10/25) ラグビーとワインと南フランスの関係(2)

№885(2008/10/25) ラグビーとワインと南フランスの関係(1)

№884(2008/10/10) フランク支配前夜のガリア

№883(2008/10/08) セナトール貴族とセネタース

№882(2008/10/05) 西ローマ帝国滅亡史

№881(2008/10/04) カエサルに征服されたガリア

№880(2008/10/03) ガリア・ナルボネンシス

№879(2008/09/23) ブルグント王国

№878(2008/09/14) 国名となったアレマン族、地名になったスエビ族

№877(2008/09/13) 中世ヨーロッパの影の立役者 アラン人

№876(2008/09/07) フランク王国の誕生

№875(2008/09/02) 東西対決 フン族対西欧連合軍

№874(2008/09/01) 二つのフランク人 サリー人とリプアリ人

№873(2008/09/01) フランク人の遺物 サリカ法

№872(2008/09/01) フランク人登場

№871(2008/08/20) ゲルマン語諸族

№870(2008/08/19) ゲルマン人の大移動

№869(2008/08/18) ゲルマニア

№868(2008/08/16) スカンジナビア十字

№867(2008/06/08) 植田三昧

№866(2008/06/08) 関西独立リーグ

№865(2008/06/03) The Old Firm

№864(2008/06/02) グラスゴー・レンジャーズ

№863(2008/05/31) ボストン・セルティックス

№862(2008/05/30) スコットランド・グラスゴー

№861(2008/05/29) セルティック

№860(2008/05/27) アイルランドのサッカー代表

№859(2008/05/26) The Four Provinces Flag

№858(2008/05/25) タラの丘

№857(2008/05/24) アイリッシュ・ハープとパトリック・ブルー

№856(2008/05/17) シャムロックの三つ葉

№855(2008/05/15) 青アザミのトゲ


№854(2008/05/14) レッド・ドラゴンズ

№853(2008/05/13) スリーライオンズとレッド・アンド・ホワイツ

№852(2008/05/06) ヨーロッパの紋章(3)

№851(2008/05/02) 英王室の紋章 連合王国の誕生

№850(2008/05/01) 英王室の紋章 同君連合の誕生

№849(2008/04/30) 英王室の紋章 百年戦争後期・薔薇戦争

№848(2008/04/29) 英王室の紋章 百年戦争前期

№847(2008/04/27) 英王室の紋章

№846(2008/04/26) ウェールズの赤い竜

№845(2008/04/25) ユニオン・フラッグ

№844(2008/04/24) 聖ジョージ・クロス

№843(2008/04/23) イタリア空軍旗と四つ葉のクローバー

№842(2008/04/22) 花の女神とカルチョ

№841(2008/04/21) つかの間の海上共和国 フィレンツェ

№840(2008/04/20) ヴェネツィア共和国(2)

№839(2008/04/19) ヴェネツィアとジェノヴァの覇権競争(2)

№838(2008/04/18) ヴェネツィアとジェノヴァの覇権競争(1)

№837(2008/04/17) 第4回十字軍(1202年~1204年)

№836(2008/04/16) 第3回十字軍(1189年~1192年)

№835(2008/04/15) 第1回十字軍

№834(2008/04/14) ジェノヴァ共和国

№833(2008/04/13) トゥールーズ十字

№832(2008/04/12) オクシタニア十字

№831(2008/04/11) ピサ共和国

№830(2008/04/10) テンプル騎士団の運命

№829(2008/04/09) テンプル騎士団とエルサレム王国

№828(2008/04/08) 騎士修道会と聖ヨハネ騎士団

№827(2008/04/07) アマルフィ共和国

№826(2008/04/06) ヴェネツィア共和国

№825(2008/04/05) イタリア 中世4大海上共和国

№824(2008/03/16) ミラノ

№823(2008/03/15) アズーリ

№822(2008/03/14) 後ろ足で立つライオン

№821(2008/03/13) ヨーロッパの紋章(2)

№820(2008/03/12) ヨーロッパの紋章(1)

№819(2008/03/11) 三色旗 トリコロール

№818(2008/03/10)  ニューヨークのオランダの影

№817(2008/03/09)  オレンジ色が消えたオランダ国旗

№816(2008/03/08)  南アフリカのオレンジ色の影

№815(2008/01/14) 人種融合としての南アフリカ・ラグビー

№814(2008/01/14) RWC2007 南アフリカ優勝

№813(2007/11/17) 第3章(追補)第13節 二つのナショナリズム

№812(2007/11/17) 第3章(追補)参考資料④ 大英帝国と帝国主義

№811(2007/11/17) 第3章(追補)参考資料④ 大英帝国と帝国主義

№810(2007/11/17) 第3章(追補)第12節 ANA

№809(2007/11/17) 第3章(追補)第11節 白い先住民とアボリジナル

№808(2007/09/22) 11 サッカーはハロウ校の卒業生が創った

№807(2007/09/15) 10 ラグビー校VSイートン校、ハロウ校

№806(2007/09/05) 9 野蛮なフットボール

№805(2007/09/01) 8 それでは他のホームカントリーではどうだったか

№804(2007/08/31) 7 オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由

№803(2007/08/27) 6 サッカーとプロ化

№802(2007/08/26) 5 ユニオンとリーグとの分離

№801(2007/08/25) 4 サッカーとラグビーの誕生

№813(2007/11/17) 第3章(追補)第13節 二つのナショナリズム

オーストラリアの国家建設の時代にあたる19世紀末から第二次世界大戦にかけての国家意識、国民意識という観点から捉えると、オーストラリアには「連邦国家を建設・発展させていく過程でみられた内向きのナショナリズムとこれとは逆に英国との一体化を求めていく外向きのナショナリズムの、一見相反する(アンビバレンスな)二つのナショナリズム」が共存していた。

それはつまり、対外関係(外向き)におけるオーストラリアとしての自我の意識と、植民地内部(内向き)での統合を進めようとする意識が、英国との関係を軸にそれぞれ異なる形で体現された。この内と外に向けたアンビバレンスな国家意識と国民意識、さらには英国に対する関係は、英国に対する依存(英女王を冠する立憲君主国)と反発(2000年の共和制を巡る国民投票)という形で現代においても続いているものであるが、この時代の白人オーストラリア人にとっては、コミットしたものであった。

白豪主義は、中国人を初めとする非白人系労働者の排斥という内向けのナショナリズムであったが、ANAの運動でみてきたように白人優性説においてブリティッシュネスとホワイトネスは不可分の関係にあった。

外向けのナショナリズムとしては、スーダン戦役(1885年)やボーア戦争(1899-1902年)、さらには第一次世界大戦といった帝国主義戦争に、大英帝国の一員として兵力を派遣したことが挙げられる。1880年代以降英本国では、ドイツ帝国の台頭により「世界の工場」の地位を脅かされていたが、ドイツが植民地を求め太平洋地域に進出するようなると、長い間「対蹠地」として対外的脅威がなかったオーストラリアにとっても、ドイツは直接の脅威となっていた。

内向きのナショナリズムは、英国に対するオーストラリアの自立を促すものであったが、オーストラリアの国家生存のためには、英国の軍事力に依存しなければならなかった。英国の戦争への積極的な協力も、自国の安全保障の対英依存という現実からみれば、必要不可欠であった。

また、対英協力をを通じて英国に対する影響力と交渉力を強化し、英国をオーストラリアのために最大限に利用することも期待された。つまり、オーストラリアの自立性、独自性を語る場合、それは大英帝国という安全保障・経済的繁栄の枠組みの中でのみ可能であった。この体現されたナショナリズムが、ガリポリ・ナショナリズムでありアンザック神話であった。top


№812(2007/11/17) 第3章(追補)参考資料④ 大英帝国と帝国主義

70年代以降の帝国主義

だが、小英国主義の風潮は、60年代末期から70年代初頭にかけて急激に衰微し、帝国主義の風潮に席を譲るようになる。この世論転換の原因としては、対外的には、南北戦争後の米国の躍進、プロイセンの躍進にともなう北ドイツ連邦(1866年)、ついでドイツ帝国の成立(1871年)という国際情勢の変化が有力なものとして挙げられる。

国内的には、海外への巨額の資本輸出にともなう、利子生活者階級の成立が挙げられる。18世紀から社会資本の整備が進んだ英国では、19世紀の60年代半ばには鉄道建設ブームが一巡すると、産業イノベーションの停滞もあって、国内投資が停滞。代わって対外投資(資本輸出)が急増、土地所有者である上流階級と産業資本家である中産階級は、海外からの巨額の利子・配当収入を得る利子生活者階級として融合していった。70年代以降英国がアフリカ、アジア、中近東にわたって展開した帝国主義政策の究極の動機は、利子生活者階級の海外投資の安全を保証し、かつその利益を一層拡大することにほかならなかった。

1868年来、帝国の統合を標傍する「植民地協会」なる団体が結成されて活発な活動を展開していたが、世論転換の直接の契機となったのほ、69年にグラッドストン内閣が打ち出したニュージーランド駐留軍の引き上げ政策であった。この政策は、折からマオリ族の反乱に苦しんでいたニュージーランド当局をはじめ、植民地と本国の世論から猛反撃を受けたのである。

そしてこの世論の転換は、状況の変化を磯敏に察したデイズレーリが72年の演説で帝国の統合を保守党の政策として公約するにいたったとき、ついに確定的なものとなった。この演説は、世論に大きな感銘を与え、勢いに乗った保守党は、74年の総選挙に大勝して政権に復帰した。帝国主義の時代はこうして始まったのである。
(→植民地統治官として帝国主義の先兵役となったのが、パブリック・スクールの卒業生であるジェントルマンであった)(→英国では、植民地統治官である英国人顧問の厳しい監督の下、現地の王や族長を通じて支配する間接統治が採られた。これにより植民地の合法化と安価な植民地経営が可能となった。植民地統治官に必要なの資質(確固たるモラル、すなわちフェアプレイの精神、弱者保護の精神、ゲームの感覚)は、パブリックスクールで心身を鍛練され身につけられるとされた)

第二次デイズレーリ内閣(1874~80年)の帝国主義政策は、スエズ運河株の買収(1875年)、トルコ帝国の保全(たとえば1878年のベルリン会議)、第二次アフガン戦争(1878~79年)といった政策に見られるように、主としてインドとそれにいたる帝国ルートの確立をめざして展開された。

そして実際、経済的見地からいって、インドは英国のまさに生命線であった。というのも英国は、70年代以降、米国とドイツ帝国の世界市場進出
(→重化学工業化に後れをとった英国は、新興産業国家として台頭してきた米国とドイツ帝国の追い上げに直面する。特に鉄鋼業は深刻で、銑鉄生産高は、90年代には、米国とドイツに抜かれ第三位に転落した。)におされて、対米国、対ヨーロッパの国際収支においてしだいに膨大な赤字を計上するようになったのであるが、その赤字を補填してくれたのが、とりわけインドからの莫大な収入であったからである。インドは、そういう意味で大英帝国全体の要石であった。

さて、デイズレーリの後、80,90年代を代表した帝国主義者は、自由統一党のジョセフ・チェンバレンであった。彼は熱心な帝国統合論者で、自治領、白人植民地を保護・特恵関税で結びつけることの必要を力説した。この種の政策は、1887年以降数回に及んだ植民地会議の開催となって現われたが、帝国関税の実現をめざす保護貿易政策は、シティの金融資本家を先頭とする本国自由貿易論者の堅陣を抜くことができず、結局成立を見なかった。
(→この帝国連邦構想には白いネイティヴの組織ANAも反対した)

またチェンバレンは、95年に保守党と自由統一党が提携して統一党内閣が生まれると直ちに入閣し、植民地相として1899~1901のボーア戦争を指導した。この戦争は、南アフリカにたいする投資家階級の利益を擁護しておこなわれた代表的な帝国主義戦争であった。この戦争の結果、ボーア人
(→オランダのケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団、現アフリカーナーと呼ばれる)のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国は征服され、のち1910年に、ケープ植民地、ナタールとともに南アフリカ連邦に統合された。top


№811(2007/11/17) 第3章(追補)参考資料④ 大英帝国と帝国主義

自由主義時代の大英帝国

19世紀における大英帝国の帝国(植民地)政策は、70年代を境に大きく方向転換した。帝国政策の観点からすると60年代以前は反帝国主義の時代、70年代以降は帝国主義の時代であった。

60年代にいたる英国の植民地政策は、小英国主義のそれで、自由貿易の確立と表裏一体の関係にあった。英本国と植民地との関係は、ナポレオン戦争期にいたるまではなお従来からの重商主義政策によって規定されており、強大な海軍力を背景に航海法が施行されていた。

だが、産業革命以来の圧倒的な工業化の趨勢は、航海法、帝国内特恵通商といった諸規制をしだいに桎梏とするようになり、20年代の自由貿易政策によって航海法の重商主義規制は、相当程度緩和されるにいたった。またそれより先1813年には、東インド会社の貿易独占が打ち破られており
(→それまで、オーストラリア全域の交易も東インド会社に独占されており、独占権から除外されていた捕鯨とアザラシ猟がニューサウスウェールズ植民地の初期経済を支えていた)、33年には東インド会社の通商権そのものが剥奪されて中国貿易も自由化された。

ついで30,40年代になると、いわゆるマンチェスター派(産業資本家)が力を得、46年の穀物法廃止につづいて49年には、ついに航海法が廃止された。小英国主義の風潮は、ここにいたって決定的となり、50年代から多数党として政権を担当した自由党は、自由貿易の完成、帝国防衛費の削減、国際平和の維持をその政策目標とした。
(→この英国政府による自由放任主義政策により、ジャガイモ飢饉で苦しんでいたアイルランドの農民は切り捨てられた)(→切り捨てられたアイルランド農民は米国、カナダ、オーストラリア、英国本土への移住を余儀なくされた。)

一方、保守党も50年代以後は植民地を本国の「首にまつわる石臼」(デイズレーリの言)と見なすようになり、60年代には、ゴールドウイン・スミスらによって植民地分離論がひろく提唱されるにいたった。代表的な白人植民地であるカナダとオーストラリアには関税自主権が与えられ、カナダは67年に最初の自治領となった。
(→1850年に植民地政府法が制定され、オーストラリアの各植民地に議会と政府が設置された)

だが、このように、19世紀の60年代にいたる時期に自由貿易の確立とあいまって小英国主義の政策がとられたからといっても、そのことは、英本国ないし政府が植民地を無用の長物と見なすようになった、ということではなかった。ここで忘れてならないことは、植民地分離論が唱えられたこの時期に、植民地は放棄されるどころか、逆にインド、カナダ、オーストラリアとその周辺において絶えずその領域を拡大していたという事実である。
(→英国は、1830年代までにオーストラリア全域を植民地化すると、40年にはニュージーランドを植民地とし、さらに太平洋地域へと進出する)

この小英国主義の時代においてさえ、植民地は、工業化のための原料供給地
(→オーストラリアは、羊毛の生産地として、英本国の毛織物工業の発展に寄与した)として、また将来の市場として、さらには本国における過剰人口のはけ口として、むしろよく認識されていたというべきなのである。英国の歴代政府が望んでいたことは、英国の工業化をより拡大し、「世界の工場」としての地位を維持するために、英国が主導する世界経済のなかで植民地をよりいっそう有効なものに再編成することであった。

こうして白人植民地に対しては、移民の奨励、関税自主権や自治権の付与、帝国防衛費の自己負担化といった政策がとられる一方、大英帝国の将来にわたる要石と見なされたインドに対しては、より徹底的な隷属化政策が堆進された。

東インド会社は、その貿易権を剥奪されて以後はもっばら行政機関としてインドの支配を強化し、東インド会社軍を用いてその周辺に領土を拡大した。そして1857年にセポイの反乱が起こると、英国は軍隊を送ってこれを鋲圧し、58年からインドを直轄統治領(→これによりインド帝国が成立し、ヴィクトリア女王がインド帝国の女王となり、米国の独立で崩壊した旧帝国に代わって新帝国が完成)としたのである。

また中国に対しては、アヘン戦争(1840~42年)やアロー戦争(1856~60年、第二次アヘン戦争ともいわれる)に見られるように、武力に訴えて開港を強要する露骨な自由貿易政策が遂行されたのであった。
(→中国人労働者排斥の遠因となった)top


№810(2007/11/17) 第3章(追補)第12節 ANA

入植の初期には、植民地生まれの白人は、解放囚人エマンシピストと特権的なイクスクルーシヴズに分かれ対立した。彼らは自らをオーストラリア人と名乗った。19世紀の半ばまでにこの対立が解消され、「入植者(コロニスト)」という名称が全ての白人に用いられるようになったが、植民地生まれの白人に対するネイティヴという名称は残った。

これまでみてきたように、オーストラリアにある6つの植民地は、それぞれが当初から個性を持った政治体として存在していた。鉄道の軌道に始まり、産業政策や文化的伝統まで、それぞれ固有のものを持っていた。6つの植民地は、総体としてのオーストラリアである前に、個々の植民地としてのアイデンティティを強く持っていた。

一方、オーストラリアの植民地では、1861年ではアイルランドを含む英本国生まれが、人口(本来の先住民であるアボリジナルを除く)の半数以上を占めていたが、19世紀末には、オーストラリア生まれの白人ネイティヴが80%を超え多数派を形成するようになっていた。こうした中、連邦国家オーストラリアの誕生に重要な役割を果たしたのが、1871年ヴィクトリア植民地のメルボルンで、白人男性ネイティヴによって組織されたANA(オーストラリアン・ネイティヴズ・アソシエーション)であった。

ANAはオーストラリアのナショナリズムを高揚するために組織された団体として、連邦結成運動を推進したが、決して英国からの独立を標榜する反英主義、共和主義者の集まりではなかった。オーストラリア生まれが多数派になっても英国はホーム(故郷)であり続けた。

しかしながら、時として、ANAは大英帝国への不忠を疑われるほどであった。ANAは、英国的制度と自由を受け入れ、平等主義を唱えたが、英国とは有色人移民を制限する点と英国の階級社会を積極的に取り入れない点で、対立が生じたためである。この差異をあいまいにするため、「白人」としてのアイデンティティを共有することを前面に、国家形成を推し進めたのである。

これは人種関係の立場からも覗うことができる。アイルランド系移民は、ある程度の社会進出を成し遂げ、「白人男性としての労働者階級」に属すると認められたが、先住民アボリジナルはANAへの入会資格をもっていたにもかかわらず、白人の推薦を得ることができなかったため入会できなかった。また中国系移民も労働者としての立場を確立したにもかかわらず、オーストラリアでは支援対象にされることはなかった。つまり「労働者」=「白人男性」=「英国的自由・民主制・平等の享受」=「非白人系労働者の排斥」という構図が浮かび上がる。

1890年代までにオーストラリアでは、非白人に対するあらゆる嫌悪や恐怖を説明する人種差別理論が発展していった。その基礎をなす信念とは、白人系の人々は肉体的にも精神的にも優れているというものであった。さらに、英国文化の継承者を自負するアングロ・サクソン系の人々は、自分達は他の白人よりも優れていると信じ、オーストラリアが大英帝国に属することを誇りとしていた。このような態度は、人種差別理論、特に社会進化論によって助長されたが、それは近代化の名の下にヨーロッパ文明による世界支配が明らかな時代だったからでもある。

このような信念が、オーストラリアの白人を団結させる効果をもたらし、彼らの考えや行動に自信を与え、外国人に対する嫌悪をより増幅させた。歴史家のマックイーンは、「人種差別は、オーストラリアン・ナショナリズムの最も重要な構成要素だ」と主張している。
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№809(2007/11/17) 第3章(追補)第11節 白い先住民とアボリジナル

ネイティヴという言葉は普通先住民を意味する。ところが、オーストラリアでは、アボリジナルの人口が激減し、生き残った人々も入植者たちの目に触れる場所から社会の周縁部に追いやられると、1840年頃にはオーストラリア生まれの白人の呼称として定着した。白い先住民の誕生である。入植者によるネイティヴという言葉の流用は、先住民としてのアボリジナルが持つ権利の否定を象徴している。さらに、その存在の否定さえも象徴的に示していた。

アボリジナル

本来の先住民であるアボリジナルは、入植者によってもたらされた伝染病によって激減し、生活基盤である土地を暴力的に奪われ、19世紀半ばまでに、オーストラリア東南部の多くの言語集団は消滅した。アボリジナルは、19世紀末には死に行く人種のレッテルが貼られ、1788年英国の入植が始まった当初、約50万から100万人いた人口は、1920年頃には約7万人にまで減少した。

アボリジナルの文明化とキリスト教化を目指した宣教師たちは、キリスト教化の前提となる文明化の手段として、ジェントルマンのスポーツ、クリケットをアボリジナルに教えた。宣教師たちが試みた文明化の手段の殆どは、直ぐに大きな困難に直面したが、クリケットは例外であった。アボリジナルたちの多くが、喜んでクリケットに参加し、技術の向上に励んだ。ミッションのアボリジナルのチームは、ジェントルマンのチームや大学のチーム、その地方の入植者のチームと対戦し、好成績を収めた。

1868年には初めて英本国を訪れたオーストラリア・チームは、ヴィクトリア植民地のアボリジナルのチームであり、5ヶ月間英国を転戦し、五分の成績を収めた。ところが、19世紀の末に人種主義が優勢になると、クリケットは、アボリジナルと白人オーストラリア人との競争を助長し、彼らに本来の立場を忘れさせるとして、アボリジナルへの教育プログラムから消えていった。

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№808(2007/09/22) 11 サッカーはハロー校の卒業生が創った

11 サッカーはハロウ校の卒業生が創った

フットボールのサッカーとラグビーの分化には、ラグビー校とイートン校との確執が根底にはあったが、実際にサッカー、即ちアソシエーション・フットボールを創り上げたのはイートン校の兄弟校とされたハロー校の出身者たちであった。

1863年のFA(フットボール・アソシエーション)設立は、ハロー校の卒業生でフォレスト・クラブのキャプテンであったJ.F.オールコックらハロー校の卒業生を中心に、これに賛同する他校の卒業生によって結成されたものである。フォレスト・クラブ自体がハロー校の卒業生によって1860年に創立されている。

このFAに対し、その他の諸学校やクラブはそれぞれのフットボールに誇りを持っており、FAに加盟して自校とのものと異なるルールでプレーするのを望ましくないと考えていた。たとえば、イートン校は、このFAルールは「あまりにも締まりがなく単純」で、われわれのルールの方が「はるかに科学的で誠実な労作」であると批判している。

ハロー校自体も、「ルールの統一化」は乗り気ではなく、既述のようにハロー校では、ハロー校独自のフットボールをクリケット、ラグビーと並ぶ三つの主要なスポーツの一つとして現在も行っている。ハロー校自体はFAルールを正課に取り入れなかったが、ハロー校の卒業生たちは、手を使わないフットボールの普及に熱心だった。この点は、自分たちの独自な世界を誇りにしていたイートン校の卒業生とは異なっていた。

1870年代北部でFAに匹敵する組織を誇っていたシェフィールドFAやバーミンガム、ランカシャーなどの組織が加盟するまで、FAはロンドン中心の組織に過ぎなかった。FA当時加盟していた22クラブのうち20までがロンドンのクラブであり、地方のクラブはリンカーンとシェフィールドの2つだけだった。リンカーンは、3年間加盟しただけで脱退してしまう。

もう一つのシェフィールドFCは、次第に勢いを失っていったが、それに代わるようにしてシェフィールドでは、ウェンズデーFC(現シェフィールド・ウェンズデー)を初めとする十を超える数のクラブが活発に活動するようになり、それらのクラブがまとまってシェフィールドFAを1867年結成した。

シェフィールドFAは、ロンドンのFAルールとは異なるシェフィールド・ルールでプレーをし、1860年代後半にはかなりの影響力を持つ組織になっていた。そのために、ロンドンのFAにとっても無視できない厄介な存在であった。77年には、その後もシェフィールド・ルールで試合をすることもあるという条件を留保したうえでFAに加盟、翌78年になって漸くFAルールに統合することで合意、ロンドンを中心とした組織から全国的な組織への拡大・充実に重要な貢献果たした。

このようにFA初期に重要な貢献を果たすことになったシェフィールドFAは、世界最古のフットボール・クラブとされるシェフィールドFCの働きかけで生まれた近隣の地域や工場のクラブによって結成されたものであり、そこではシェフィールドFCが制定したシェフィールド・ルールと呼ばれる独自のルールでフットボールがプレーされていた。このシェフィールドFCを結成し、シェフィールド・ルールを制定したのが、ハロー校の卒業生たちであった。
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№807(2007/09/15) 10 ラグビー校VSイートン校、ハロー校

10 ラグビー校VSイートン校、ハロウ校

民俗フットボールや初期のパブリック・スクールのフットボールでは、平らな芝生の正式なグラウンドはなかったから、フットボールが行われる場所(スペース)が、プレーをする上での制約条件となり、そこで行われるフットボールのルールを決定する重要な要素となっていたが、球技においてその使用するボールそのものの形状・材質も競技の有り様を決める重要な要素であった。

ハンドボールやバット・アンド・ボールで使用されるボールは基本的には片手サイズの小さなボールである。これに対しフットボールは両手サイズの大きなボールを使用する。当時のフットボールの材質は、牛や豚の膀胱を膨らませた中空ボールを革で覆ったものか、動物の膀胱の変わりに草や布きれを詰め込んだものであり、弾力性に乏しかったため、19世紀末にできたバスケット・ボールやバレーボールのようなボールの弾力性を利用したプレーはできなかった。当然、ボールを手で抱えて走るか、ボールを蹴るかしかなかった。そして密集はまさにプレーの中心であった。

同じパブリック・スクールのフットボールといっても、ハロー校やイートン校で使用されていたものとラグビー校で使用されていたボールの材質が実は異なっていた。ハロー校やイートン校で使用されていたボールは、豚・山羊・羊など成牛より小さな膀胱を使用していたため、小さめで球形に近く、アソシエーション・フットボールの半分の大きさだったとされる。このため、ボールを手に抱えて走るには中途半端な大きさであり、自然とキッキングがプレーの中心となって行った。これに対しラグビー校で使用していたボールは、成牛の膀胱を用いていたために大きく、また、楕円球であったことから、手で持ちやすく、そのため「ボールを手で扱う」ことが認められて行った。

民俗フットボートは、農村社会における祭りであり、祭りは村民全員で楽しむものであり、ルールは単純なものでなければならなかった。そこで生まれたのが長時間享受の原則と一点先取の原則であった。ゴールが見えなかった民俗フットボールの時代に比べ、ゴールが互いに見えるパブリック・スクールのフットボールにおいても、初期にはこの原則が守られていた。この一点先取で勝敗が決まるフットボールをパブリック・スクールの狭いグラウンドで行う訳だから、自然と得点がし難いルールが暗黙のうちに形成されていくことになる。

その中で、民俗フットボールの時代には当然に認められていたボールを手に抱えて運ぶ行為は、認められないものとなって行くのは自然の成り行きだったろう。ラグビー校でも、手にボールを持ってゴールに向かって走るランニング・インが行われるようになったのは1820年代であり、1830年代になって漸く普通のプレーとして認められ定着していったのであり、19世紀初めの段階では、ランニング・インはルール違反であったのである。

ランニング・インが認められても、得点は困難なものであった。ラグビー校では、ボールをインゴールにタッチされないように百名にのぼる下級生がゴールキーパーズとしてゴールラインを守っていた。さらに、トライを決めてもそれが即得点になる訳ではなく、トライを決めた攻撃側の選手が相手ゴールラインからフィールド内にキックしてそれを攻撃側の別の選手がフェア・キャッチして初めてゴールキックの機会を得ることができたのである。このように、ランニング・インが認められても容易には得点できない仕組みが成立していたのである。

こうした中にあっラグビー校でなぜ、ランニング・インが認められて行ったのだろうか。ダニングによれば、イートン、ハロー、ラグビーなどの間で有名校争いが起こり、互いに異なる建学の精神、服装、カリキュラム、寮生活などを創出しようとしていた。その中でラグビー校の生徒たちは楕円球、H型ゴール、ボールを手に持ってゴールへ走るランニング・インなど他校と異なる特徴のフットボールを考え出して行ったのである。そして、1839年にアデレイド皇太后が同校をを訪問して観戦するということがあり、これによってラグビー校は他校よりも一歩先んじるとともに、ラグビー校式のフットボールの存在も広く知れ渡っていった。

これに対し、イートン校は中産階級の子弟が占めるラグビー校を成り上がりとみなし敵視し、1845年にラグビー校で校内ルールを成文化し、手の使用と上限のないH型ゴールを定めると、1847年イートン校は手の使用禁止と上限のある□型ゴールを定めるという具合であった。up

№806(2007/09/05) 9 野蛮なフットボール

9 野蛮なフットボール

フットボールがサッカーとラグビーに分裂した裏には、台頭しつつあった中産階級の子弟が通う新興のラグビー校と旧来の支配階級である上流階級の子弟が通う伝統校であるイートン校との確執が指摘されている。

中産階級の出身者が多いラグビー校が行っていた荒々しいフットボールを、イートン校の上流階級出身者は「野蛮だ」と軽蔑し、イートン校や盟友であるハロー校の卒業生は、1848年のケンブリッジ・ルールや1863年のFAルールの設定時、野蛮さの象徴である「ハッキング」の導入を却下している。しかしながら、そもそも、イートン校やハロー校では上品なフットボールが行われていたのだろうか。

トマス・アーノルドがラグビー校でパブリック・スクールの教育にフットボールを取り入れる以前から、パブリック・スクールでは、余暇にフットボールが行われていた。18世紀後半から19世紀初めにかけてパブリック・スクールで行われていたフットボールは、上級生による下級生いじめの手段となっていてかなり乱暴なものであった。アーノルドによるパブリック・スクール改革時において、上流階級の親は、子供たちはいずれ支配階級の一員になるのだからと、アーノルドによるパブリック・スクールの改革に反対し、乱暴なフットボールを擁護さえしている。

このころのフットボールは、イングランド各地の民俗フットボールが土地毎に異なっていたように、ゲームのやり方は学校によってまちまちであった。パブリック・スクールごとにフットボールのやり方が違っていたのは、まず何より、学校それぞれの違いによるところが大きかった。専用フットボール場がなかったこの時代、学校内でフットボールのために、どのようなスペースをとることができるかによって、それぞれの学校にゲームのやり方が決定された。

チャーターハウス校では、校内に広いグラウンドがなかったため、中世に建てられた修道院の狭い石畳の回廊がグラウンドであったことから、チャーターハウス校のフットボールは、必然的にドリブル中心のゲーム展開を見せた。同じように、ロンドンのウェストミンスター校でも、大聖堂に隣接する回廊がフットボールでは使われていたが、タッチライン70m、ゴールライン25mの縦長の狭いところでフットボールが行われていたため、ボールをキックしてドリブルするよりも、選手がひとかたまりになって押し合いながらボールを進めていくタイプのフットボールであった。

ハロー校のフットボールは、グラウンドは広さが十分であったが、丘の下の底のようなところにある水はけの悪い粘土質の土地にあったため、フットボールが行われる冬の時期には地面が非常にぬかるんでいた。したがって、ハロー校のフットボールではぬかるみで重くなったボールをドリブルし、キックすることがプレーの中心になっていて、相手のプレーヤーをタックすることは禁じられていた。しかしながら、キックされたボールを「ヤーズ」と叫びながら直接キャッチした選手は、三歩助走してボールをフリーキックすることが認められていた。ゴールライン上にある二本の柱がゴールで、この二本の間をボールが通過すると得点になった。ハロー校では、このフットボールはクリケット、ラグビーと並ぶ三つの主要なスポーツの一つとして現在も行われている(サッカーではないことに注目して欲しい)。

イートン校では、二種類のフットボールが行われていた。一つはイートン校独特のもので、ウォール・ゲームと呼ばれていた。このゲームは、ウォール・ゲームという呼び名のとおり、このフットボールは学校に敷地内にある高さ2.5mのレンガ塀の脇で行われた。この塀から5.5mのところに塀と平行に線が引いてあり、この線と塀との間がフィールドで、その両端がゴールとなった。ウォール・ゲームでは、塀に寄りかかるようにして組まれるスクラム(「ブリー」と呼ばれる)やキックによってボールを前進させてボールを目指す。

もう一つのフットボールは、もっと広いグラウンドで行われた単純なゲームであった。プレーの中心はロングキックとスクラムでありボールをゴールポストの間に蹴り込むと得点になった。また、ゴールラインの向こう側にボールを持ち込んで地面にタッチすると、タッチした時点を通り、タッチラインに平行した線上からゴールを狙ってボールを蹴ることができた。これなどは、まさに今のラグビーのトライ、ゴール(コンバージョン)キックと同じであった。そもそも、ラグビーのトライはゴールキックの権利を獲得するものであり、得点するものではなかった。

初期のパブリック・スクールのフットボールに共通していたのが、民俗フットボールから受け継いだ乱暴さ、荒っぽさであり、イートン校やハロー校でさえ、ハッキングは容認されていた。また、オーストラリアン・ルールズで危険だからと取り入れなかったスクラムは、パブリック・スクールのフットボールの特徴であった。このころのボールは、膨らませた豚や牛の膀胱を革で覆ったもので、弾力性に乏しく、ボールを奪い合っているうちに自然に密集が形成された。このため、スクラムといっても現在のラックやモールに近かった。

上流階級の子弟が多く通うイートン校やハロー校で行われていたフットボールも、もとは乱暴で荒々しかった。生まれながらのジェントルマンとされる貴族やジェントリーこそバーバリアン(蛮族)とされ、ややもすると野蛮で粗野で横柄な気風を持っていたのである。up
出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書

№805(2007/09/01) 8 それでは他のホームカントリーではどうだったか

8 それでは他のホームカントリーではどうだったか。

イングランドだけでなく、ラグビーにおいてイングランドとともにホームカントリーとされるスコットランド、ウェールズ、アイルランドではどうであったのだろうか。

スコットランドでは、イングランド以上に激しい「手を使う」民俗フットボールが(消滅することなく)数多く存在し、ラグビーの地盤ができていた。特に、イングランドとの国境地帯であるボーダー地方は今でもラグビーのマッド地帯として有名である。そもそも、1858年にエディンバラにスコットランドで最古のフットボールクラブが設立されているが、このクラブはラグビー校式のフットボールを行うクラブであった。

1870年スコットランドとイングランドとの間でフットボールの国際試合が行われスコットランドが敗れた。ところが、この試合は、FAルールでしかも、イングランド在住のスコットランド人がスコットランド代表としてて対戦したものであった。このため、スコットランド国内から今度は是非日頃プレーしているラグビー校式のルールで対戦したいという申し出がイングランド側にあった。

ところが、イングランドには、ラグビー校式のフットーボールの統括組織がなかった。これが、RFUが1871年に設立された契機にもなったのである。そして、1871年に行われたラグビー初の国際試合イングランドとスコットランドの対戦では、なんとスコットランドが勝利している。

ウェールズでは、手を使う荒々しいナッパンという民俗フットボールが古くからあり、ラグビーは広く受け入れられていった。1850年代にパブリック・スクールやオックスブリッジの卒業生がラグビーを持ち帰り拡がったとされている。いまでも、北半球では唯一ラグビー人気がサッカーを凌駕している国(地域)として知られている。

アイルランドでは、北部を除けば産業革命の恩恵を受けることはなかったので、手を使う民俗フットボールが消滅するということはなかった。このことは、1850年代ゴールドラッシュのオーストラリアに渡ったアイルランド人が行っていたフットボールが、オーストラリア独自のオーストラリアン・ルールズ・フットボールになったとされることでもわかる。もちろん、現代のゲーリック・フットボールも手を使うことが認められている。アイルランドには、このように、手を使うフットボール・ラグビーを受けいる下地があった。

アイルランド最古のフットボール・クラブは、1854年にできたダブリン大学フットボールクラブで、もちろん、ラグビー校式のフットボールであった。このクラブは、ケンブリッジ大学のフットボールクラブ(ケンブリッジ・ルール)よりも古くい。アイルランドとイングランドとの密接な関係により、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)にはラグビー校やラグビー校式フットボールを採用していたパブリック・スクールのOBが持ち込んだとされる。当初は、ダブリンを中心に近隣の大学対抗戦という形で行われていたが、1870年代前半には、北部のアルスター州にまで拡大され各地にクラブ・チームが結成された

1874年にはダブリンにアイリッシュ・フットボール・ユニオン、北部のベルファストに北部フットボール・ユニオンが設立されている。この二つのユニオンは1880年に統一され、国家の南北分裂後も統一ユニオンは維持されている。一方、アイルランドにサッカーをもたらしたのはジョン・マカラリーという商人で、1878年、新婚旅行で訪れたエディンバラ(スコットランド)でサッカーに出会ったマカラリーは、1879年ベルファストにクリフトンビルというクラブ・チームを設立し、1880年アイルランドサッカー協会がベルファストで発足した。
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№804(2007/08/31) 7 オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由

7 オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由

こうしてみると、19世紀後半、イングランドの労働者や一般大衆の間では、サッカーよりもラグビーの人気が高かった。少なくともイングランドの北部ではそうだった。当時のイングランド北部は、18世紀後半から続く産業革命により、石炭業、鉄鋼業、造船業などが発達しマンチェスター、リヴァプール、リーズ、ヨークなど英国屈指の工業地帯として大英帝国の繁栄を支えていた。また、労働者として地方やスコットランドから、多くの人口が流入し、イングランドで最も人口密度が高い地域となっていた。

農村部から流入してきた彼らは、産業革命により、前近代的な奉公人ではなく、規格化され専門化した近代的な労働者階級へと生まれ変わっていた。同じことが、フットボールにも起きた。農村社会にみられたルールらしいルールもない粗暴な民俗フットボールは、農村社会の喪失とともに消え去り、工業社会の誕生とともに、規格化され、専門化した近代フットボール、ラグビーとサッカーへと生まれ変わった。

では、なぜ、イングランド北部の工場労働者は、サッカーよりもラグビーを好んだのだろうか。考えられるのは、まず、手を使い人々がぶつかり合う荒々しい民俗フットボールの伝統がまだ労働者階級の間に残っており、手を使いコンタクト・プレーが多いラグビーの方が、手を使わずコンタクト・プレーが少ないサッカーよりも受け入れやすかったのではないだろうか。

また、イングランド北部の工場経営者の多くが中産階級で占められ、中産階級の子弟が多かったラグビー校出身者が、早くからマンチェスターやリヴァプールでラグビー・クラブを創立しており、サッカーよりもラグビーの方が普及が早かったとも考えられる。

ラグビー人気が高かったこの時代に、オーストラリアやニュージーランドにフットボールが伝わっており、このことが、オーストレイジア(オーストラリアとニュージーランド)において、サッカーがラグビーに遅れをとった理由かもしれない。
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№803(2007/08/27) 6 サッカーとプロ化

6 サッカーとプロ化

実はこの北部チームのプロ化に影響を与えたのはサッカーである。FAも発足当時は、RFU同様にパブリック・スクール出身のエリートが上層部を牽引していた。当然、RFUと同じく「アマチュアリズムこそ正義」という固定観念が確立されていた。しかし、発端はやはりイングランド北部からである。

北部のサッカー・クラブでも競技をすることにより日給が支払われるシステムが一般化していた。これは、この地域では人気のあったラグビーに選手を取られ、選手の絶対数の不足に悩んでいたサッカー・クラブが、報酬を払ってスコットランド人サッカー選手を「助っ人」として雇っていたという背景がある。

なぜスコット人かというと、彼らもスコットランドのボーダー地方ではやはり台頭するラグビーにより、競技生活の場を失っていたからである。その後もボーダー地方からの選手の流出は止まらず、その影響で現在でもこの地域はラグビーの方がサッカーよりも優勢というヨーロッパでは特異な地域になっている。

1884年FAは、北部のあるチームをプロ選手であるという認識を持ちながら当該選手を出場させたという理由で、FAカップから追放する。この処分に対して、同チームはもちろん、他の北部チームも激怒し、一時期は集団でFA脱退という最悪のシナリオになりかけた。最終的にFAが折れ、1885年FAはプロフェッショナルを承認する旨を競技規定に追加する。

この事件以降、FAはプロ化の道を邁進し、サッカーは世界一競技人口の多い人気スポーツへと発展する。確かにサッカーは、適当なスペースと球さえあればどこでもできる。ラグビーと比較するとコンタクト・プレーも少なく激しいケガも少ない。体格もラグビーに比べるとほとんど影響しない。サッカーにはそのようなアドバンテージとなる点も多いが、サッカーにはプロ化がサッカーの競技人口を低所得者層まで拡大したと言っても過言ではない。
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出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

№802(2007/08/26) 5 ユニオンとリーグとの分離

5 ユニオンとリーグとの分離

1880年代になると、ラグビーが全英各地に普及し、上流階級だけでなく労働者階級を含めたあらゆる階層が競技を行える環境が整えつつあった。特に工業地帯であったイングランド北部のヨークシャー近辺では、工場、炭坑に勤める労働者クラスにラグビーが受け入れられクラブ・チームの数が急速に増加する。選手だけでなく、1試合当たりの観客動員数も多く1万人を超えた試合も少なくなく、これは当時としては国際試合にも記録がないくらいの大きな数字であった。このことから北部地域全体にラグビーがいかいに一般大衆に定着していたか理解できる。

1880年代前半より、北部では試合毎の休業補償を供与していた。例えば多くの北部チームに在籍していた炭鉱労働者は試合ある土曜日は午後1時まで仕事に従事しなければならない。それもホームであればよいが、アウェイであれば時間的に試合に参加することができない。従って試合にベストメンバーを揃えるために休業補償制度が確立したのである。また、北部のラグビーは民俗フットボールに逆戻りしたかのように粗暴だったため、試合中のケガによる休職が日常茶飯事であり、弱い立場にあった労働者選手の救援策でもあった。さらに、当時イングランド南部のクラブが金銭による引き抜きを始めたことも影響している。

当初は、RFUも当時高い技術レベルでイングランド・ラグビーを牽引していた北部ラグビーを刺激しないため、休業補償制度を黙認していたが、当時のRFUの上層部、管理部門はパブリック・スクール出身のエリートが占めており、アマチュアリズムが一種の信仰のように尊ばれ、スポーツで金(カネ)を得るという行為は最低なこととさ、ケガのための休業補償と言えども容認できる雰囲気ではなかった。1886年RFUは、最終的にこの北部での習慣を抑止するためアマチュアリズムを固守する、つまりラグビーを通じた金銭の受け渡しを禁止する規定を施行する。

1887、88年に北部側の主張が有利になる事件が起きる。1887年に名門ブラックヒースがブラッドフォードとの試合で選手1人当たり4ポンドの試合給金を受け取った。翌88年には、現在のライオンズに相当するブリティッシュ・マイルズが初めてオーストラリア、ニュージーランドに遠征した。しかし、その遠征メンバー全員がそのツアーを裏で画策していた企業家から、選手全員にユニフォームや給与が贈られていた。

この一連の事件に対し、アマチュア規定施行後、選手の流出が続いていた北部側は憤慨し、RFUに強く抗議する。1893年北部側は、RFU会議に休業補償制度を公式に承認してくれるよう多数決による決裁を求めた。結果的にその提案は「プロフェッショナルに通じる」という理由で否決された。

これに対し、北部側の代表は「フットボールはパブリック・スクールや上流階級だけの娯楽ではない。フットボールはこの工業地帯の偉大な労働者たちを含む一般大衆のスポーツとなっている。パブリック・スクール出身の人間が提唱する「アマチュアリズム」を労働者階級が実践することは難しい。労働者階級は休業補償なしでフットボールを続けなければならないことは極めて不公平である。」とコメントした。確かに、一部の富裕層は無給で休職・休業してもなんら問題はないが、当時時給ベースであた労働者階級からすると生活の糧が無くなり死活問題であった。

そして、1895年8月ハダースフィールドのジョージホテルにおいて、ヨークシャー、ランカシャーなど北部地域にある21の主要クラブがRFUを脱退し、新たな北部協会(ノーザン・ユニオン;NU)、後のラグビー・リーグになる組織を設立した。その後、イングランド北部を中心に250以上のクラブがNUに同調しRFUを脱退した。ラグビー・リーグによれば、北部リーグに所属するチームは1904年にはRFUに所属するチームよりも多くなったとされる。

NUは、その後北部数チームにより開発されていた13人制ルールをさらに改良し、よりスピーディーな試合展開ができるようにスクラム、ラインアウト、モール・ラックなどプレーが止まる要素を極力削った。ユニオンで禁止されている派手な色・デザインのジャージなども積極的に着用する。

このように選手が楽しむだけでなく、観客に「見せるプロ競技」を創り、イングランド北部を中心に急速にファン層を拡大し、1922年NUはラグビー・リーグと名称を改称し、ユニオンと同じく英連邦を中心に世界へと広がっていく。その後、ユニオンとリーグは絶縁状態が続き、再び交流が始まるのは1995年、ユニオンのプロ化以降のことである。
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出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

№801(2007/08/25) 4 サッカーとラグビーの誕生

4 サッカーとラグビーの誕生

さて、フットボールが普及したこと自体はよいが、一つ問題が提議される。ケンブリッジ大学と同じく統一ルールがないため、毎回、試合前には両チームのルール調整が必要であった。既にこの時代は鉄道網が英国中に敷かれ、各地区からの移動が比較的容易になってきており、当然、遠隔地にあるチームとの試合が組めるような状況に進歩したのである。

1863年にロンドン近郊の11の地域、学校、職場のクラブ・チームが市内のレストランに集まり、フットボール競技を統括する母体組織の設立と統一ルールの策定についての話し合いが行われた。そして、その場でフットボール・アソシエーション(FA)の設立を決定する。

組織が決まれば、次は統一ルールである。元々11チーム中、ラグビー校式ルールを支持していたのはブラックヒースのみであったが、当初は、ランニング・イン、ハッキングなどのラグビーの特徴とする規定は大方認められていた。しかし、参考資料として「ケンブリッジ・ルール」が会議に提出されると、会議に参加していた多くのクラブの代表がこのルールを基盤に統一ルールを作成する意向を示す。

ケンブリッジ・ルールは手にボールを持って走ることを禁じており、ハッキングは反則である。ブラックヒース代表がこの採決に際し異議に及んだのは当然であるが、結果的にはケンブリッジ・ルールを基本とするルールが採択される。そして、ブラックヒース代表は、「ハッキングを廃止すれば、ゲームにおける勇気と面白みをなくしてしまう」という言葉を残し、会議から退席し、ブラックヒースはその後FAから正式に脱退する。

この日、ローマ帝国時代から数えると2000年以上「フットボール」という器の中で共存してきたラグビーとサッカーは分離し、その後、交わることなくそれぞれの発展を遂げていくのである。

一方、団結したFAに対し、少し取り残された感じのするラグビーであるが、その後もブラックヒースが中心となり賛同する約50のクラブ・チームがラグビー校式ルールで競技を続けた。しかし、1845年にラグビー校にて策定されたラグビー・ルールは、競技の詳細な部分まで規定しておらず、各チームは他チームとの他流試合ではその時点でも独自のルールをお互い事前調整し試合に臨んだ。しかし、ラグビーのようなコンタクト・プレーを伴う競技を行うに際してルールの解釈が違うことは相当の危険を伴った。

1870年にリッチモンドの選手が練習試合で死亡したのをきっかけにラグビー・クラブ間においてもその統括・管理団体と統一ルールの必要性が論じられるようになる。1871年、FAルールとは別の統一ルールをラグビー校式ルールの支持クラブで作成するため、21チームの代表がロンドンのペルメル街のレストランに参集した。

その場でFAに遅れること8年にしてラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)の設立が決定され、半年後59条からなる統一ルールの草案が完成し採択された。意外なことにその統一ルールでは、ブラックヒースが FA設立の場であれほど主張したハッキングは禁止されていた。

ラグビーの試合中に死亡事故が発生し、その安全性が問われ始めていたからである。なかでもハッキングはケガの原因となることが多く、特に成長期における選手の脛周辺の骨折は、その後障害が残るとの指摘が医学界からもあり、世論の圧力も徐々に強まっていた。結果的には、ブラックヒースもラグビー継続、そして発展のためやむを得ないとハッキングの禁止に賛同する。こうして、ラグビーは再びラグビーと同じ土俵に乗ることになった。

出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社
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