天上の楽園 2




 私が生まれ育ったのは、地中海に浮かぶヴェネツィアの植民地クレタ島だった。
 ヴェネツィアは地中海貿易で豊かになった世界一の海運国で、その植民地はクレタ島のほかにも地中海中に散らばっていた。
 父はこの国からクレタ島にやってきて、貿易の仕事に就き、成功し、この島に大きな館を建てた。そしてギリシャ人の母を迎え、私が生まれた。
 私はこの美しい南の島で、島に伝わる古人いにしえびとの物語を子守歌にオレンジの木々や小鳥たちに囲まれて、十六の年まで幸せな日々を送っていた。
「可愛いイレーネのために、早く素敵なお婿さんを探してやらなくてはな」
 これが最近の父の口癖だった。
「やはり嫁に行くのなら、こんな田舎じゃなくて、ヴェネツィアが良いだろうな。でもイレーネはとびきりの美人だから、求婚者も多くて困ってしまうよ。しっかりと吟味せんとな」
「ええお願いしますわ、お父様。でも、この間いらした軟弱そうな気障男は嫌よ。あんなのと一生一緒に暮らすくらいなら、海月くらげと暮らした方がましだわ」
 私は、父が本命にと押していた男の名をわざと挙げ、父の切っ先を制してしまう。父が選ぶ男は、家柄を誇ることしか能がないつまらない男ばかりだから。
「またこれだ。あの方は名家の嫡子様なのだぞ。良いか、私は娘を海月くらげや孔雀に嫁にやるつもりはないのだからな。まったく、良い話を全て蹴ってしまって。売れ残っても知らんぞ」
 ぶつぶつと小言を言う父に、母は幼い弟のマルコを膝の上であやしながら、おかしそうに口をはさむ。
「頬がゆるんでいらっしゃるわ。本当は、イレーネを手放すのが寂しくて仕方がないでしょう?」
 母の鋭い一言に父は急いで頬を引き締めようとしたけれど、結局、咳払いをして向こうを向いてしまった。
 母と私が、顔を見合わせてくすくすと笑う。母と姉の楽しそうな様子に、訳も分からずにマルコが手を打ってはしゃぐ。
 こんな平和な光景の中に私が居たのは、ほんの二ヶ月ほど前だった。
 そして私の運命が変わってしまったのは、それからいくらもしない風が強い夜だった。

 突然、大きな音が鳴り響いた。
 どすんという音と共に、木が弾ける音。
 ばきっ!
もう夜も更けていたので、私はベットに肘をつき今日一日の恵みを神に感謝しているところだった。神様について深く考えたことはないけれど、習慣になっている一日の締めくくりだった。
 私は音に驚いて、すぐに廊下に飛び出した。
 何度か断続的に同じような音が鳴り響いた。そして、めりめりと厚い板が破壊される音。
 それは、玄関のドアがたたき壊された音だった。
 階下から人の争う音や、悲鳴が聞こえてくる。
 何かが起こっている。
 たぶんそれは、もっとも起こって欲しくない『何か』だった。その『何か』を現実のものとしいて受け止めかねていた私は、呆然とその場に立ちすくんだ。
 母が廊下の奥から走り寄ってきた。母の胸に抱きかかえられているマルコが、怯えて母の胸にしがみつき泣き叫んでいた。
 そして母は無言で、私の身体を突き飛ばすように父の部屋へと導いた。
 父は、慣れない手つきで防具の紐を締めていた。小刻みに震える手は、なかなか思うように仕事をしてはくれない。
 父は忌々しそうに一度乱暴に手を振ると、最後の結び目にぎゅっと指が白くなるまで力を込めた。
 簡単な防具を着け終わると、父は立ち上がり、壁に掛けてあった剣を手に取った。そしてその剣を、祈りを込めるようにそっと撫でた。
 初めて見る勇ましい姿の父が、何故か小さく見えた。
 両親にはこれが、これから始まる恐怖劇の序幕だということがよく分かっていたらしい。
「良いか、ここから絶対に出るんじゃないぞ。兵士が来るまでの間持ちこたえれば助かるんだ。扉は固く封じておけ!」
 父は血走った目をしてそう言い残し、扉の向こうに消えていった。
 父が出ていくと、母が大きな箪笥の向こうにまわり力任せにそれを押し始めた。
 大きな樫の木の箪笥。それで扉を塞ごうとしているのだった。
 もし扉を塞いでしまえば、扉の向こうにいる父はもう部屋へは入って来られない。母にもそれは分かっているはずだ。
 それでも母は、細い腕で歯を食いしばって重い箪笥を押している。
 私とマルコを守るために。
 私は母の横に駆け込んで手伝う。ようやく自分たちの身に何が起こったのかを受け止められたのだ。
 母が箪笥の重さに喘ぎながら、絞り出すように言った。
「トルコ軍よ。とうとうこのクレタにもやって来たんだわ」

 扉の向こうから物が壊れる音や、悲鳴が立て続けに聞こえる。そして、突然扉ががガチャガチャと鳴った。
 扉は箪笥で塞がれて開かない。
 いきなり、箪笥を押さえていた私たちに大きな衝撃が走った。
 体当たりが始まったのだ。
 獣のような唸り声と一緒にドスンドスンと大きな音がする度に、箪笥が軋み、私たちは弾き飛ばされそうになるのを必死に堪える。
 ベッドの上では、怯えたマルコが泣きながら母を呼んでいる。
 そのうちに、箪笥と扉の間に小さな隙間ができた。母はそれを見ると、窓の方を振り返り、押し殺した声で言った。
「イレーネ、その窓から木を伝って逃げなさい。あなたならできるわ」
「お母様!」
「早く!」
「マルコを背負って逃げるわ。それなら、お母様も一緒に行けるでしょう!?」
「駄目よ、この子を連れて行ったら逃げ切れないわ。あなた一人なら逃げ延びられるかも知れない。せめて、あなただけでも……。さあ、早く行きなさい!」
「おいで、マルコ。大丈夫よ。怖がらないで」
 母は柔らかな笑顔でマルコを呼び寄せると、その胸にしっかりと抱きとめ、私の背中を押した。
 私は心を決めて、泣きながら窓を開け木の枝をつかんだ。
「主よ、どうかイレーネをお守りください」
 母のか細い声が背中越しに聞こえ、私は涙が止まらなかった。こんな時に母やマルコと別れることは身を切るように辛かった。
 トルコ軍に捕まったら、母はどうなるの?
 マルコは?
 扉の向こうから聞こえてきた悲鳴の中に、父のものが混じっていたことは間違いなかった。
 悲しみで胸が張り裂けそうだった。
 でもここに残っていても、待っているのは残酷な運命と母の悲しみだけ。
 逃げなければ!

 私が室内の母を振り返って頷くと、母は、マルコの頭を撫でながら涙に濡れた微笑みを私に返した。
 私は、枝を伝って木に飛び移った。
 スカートの裾が枝に引っ掛かり、裂けた。
 半ばずり落ちるようにして、地面に足が着いたとき、窓の方から大きな音が聞こえた。
 そして、母の叫び声とマルコの引きつるような泣き声が混じり、母の悲鳴が響き渡った後はもう二人の声は聞こえなくなった。
 私の足は、凍りついてしまった。
 一瞬の間をおかずに、星明かりの下ターバンを巻いた頭が窓から飛び出る。
 その頭は、野太い声で何かを叫び私を指さす。
 それが合図のように、私は地面を蹴った。

 家のまわりに転がっていた無惨な死体を飛び越え、私は行くあてもなくただがむしゃらに走った。
 通りには人の姿は見当たらなかった。
 街を守っているはずの兵士はどうしたの?
 どこに駆け込めば、彼らに会えるの? 
 息が苦しい。
 スカートが足にまとわりつき、思うように走れない。
 力強い男の足音が、後ろからどんどん迫ってくる。
 不意に腕をわしづかみにされ、足がもつれ倒れ込んだ。追っ手は、そのまま私の腕を引き寄せ馬乗りになった。
 奇妙な服を着たその男のシルエットが星明かりに浮かび上がり、ターバンの白色だけが仄かに見える。
 激しい息づかいが耳元で聞こえた。
「いやぁぁっ!」
 私は身をよじり、足で地面を蹴りつけ力の限り抵抗する。
 突然、頬に平手が飛んできて意識が遠のく。
 朦朧とする意識の中で、服を引き裂こうと伸びてきた手が、鈍い音と共に身体ごと私の上から消えるのを感じた。
「商品に手を出すなと言ったろう!」
 激しい叱責の声がすぐそばで聞こえたけれど、商品とは何のことを指しているのか私にはまだ分からなかった。
 もう手足も動かない。
 諦めと一緒に闇が視界を閉ざしていった。

     ◇◇◇

 すえた臭気が鼻を衝き、目が覚めるとそこは船の中だった。私は足枷をはめられ粗末な部屋の床に転がされていた。
 海が荒れているのか、床が何度もふわふわと揺れている。
 周りを見回すと、侍女達が何人か同じ足枷をはめられて床の上にうずくまっていた。小間使いのナタリーに、台所の下働きのマリア……。
 みな虚ろな目をして一言も口をきかない。
 時々私たちが繋がれている部屋に食事を持ってきては、そのついでに好色そうな目つきで私たちを舐めまわすようにしていく男達の格好は、やはり母の言ったとおりオスマン=トルコ軍のものだった。
 彼らは、頭を白いターバンで覆い前袷の長い上位とゆったりとした足通しを身に着け、腰に幅の広い帯を巻いていた。鼻の下や顎に強い髭を生やし、帯には恐ろしい三日月形の短刀を差している。
 実際に目にするのは初めてだったけれど、前に絵で見たことは何度かあったから間違いない。

 オスマン=トルコ
 それは、地中海世界では知らぬ者はない恐怖の帝国の名だった。
 トルコ人は、遠い東方からやってきてオリエントを中心に勢力を伸ばしてきた、イスラム教を信仰する野蛮人だ。
 オリエントやバルカンのキリスト教諸国の領土は彼らの侵略を受け続け、とうとう二年前にはあの堅固な城壁で有名なコンスタンチノープルでさえ彼らの手に落ちてしまった。そのころから彼らの軍費集めのための海賊行為の噂が立ち始め、何度となく両親の眉をひそめさせていた。
 彼らは、地中海の島々や沿岸の街に夜密かに上陸しては、街を守っている壁を巧みに乗り越えて略奪の限りを尽くす。少年と女は奴隷として売るために連れて行かれ、生き残った男達はガレー船の漕ぎ手として一生異教徒の元で蟻のように働かされる。
 こんな恐ろしい噂だった。
 でも父はいつも
「どんなに残虐な異教徒共でもクレタ島はヴェネツィアの軍事基地だ。世界最強のヴェネツィア艦隊に幾重にも守られているこの島にまでは上陸できないだろうよ。心配するには及ばないさ」
 という言葉でこの話を締めくくっていた。
 お父様、あなたの期待していた兵士は一人も来なかったわ。
 世界最強の艦隊が何なの?
 あなたの娘は、鎖に繋がれて異教徒の船の中よ。
「もう、どうなってもいいわ」
 私は投げやりな気持ちでそう呟いた。
 船の中には父はもちろん、母やマルコの姿もなかった。奴隷として売るにはマルコは幼すぎ、母はマルコを最後まで庇い通したために命を失ってしまったのだろう。

 船を降ろされた私が連れて行かれたのは、奴隷市場だった。
 奇妙な木が茂り見知らぬ言葉が飛び交う異国の風景の中で、一糸纏わぬ姿で人前に曝されても、家畜のように値踏みする目でじろじろと眺めまわされても、もう私の心は何も感じなくなっていた。
 私はオスマン=トルコ帝国の高官に買われた。
 遠く離れたこんなところまで奴隷を買いに来るなどよほどの暇人だろう。それも、わざわざ自分の国の海賊から買うなんて。
 要領の悪い馬鹿な男に違いない。
 彼の様子をぼんやりと見つめながら、私の主人となったこの男を皮肉な気持ちでせせら笑った。
 彼は私を船に乗せながら、耳障りな言葉でいそいそと何かを囁いたけれど、私に通じないことに気づくと訛りの多いギリシャ語で言い直した。
「おまえは最高に幸運な娘だぞ。おまえは何と、オスマン帝国の皇帝スルタンの元に上がれるのだ。これ以上の幸運は有るまい? よいか、もし皇帝スルタンの寵愛を受ける機会に恵まれたら、忘れずに私のことを奏上するのだぞ」

 オスマン帝国の皇帝スルタン

 この名が、惚けてしまった私の心に小さな炎を呼び起こした。
 それは私をこんな境遇に陥れたその者の名だった。
 心の中でマルコの泣き声と母の悲鳴がこだましていた。
 血走った父の目が私を見つめていた。
 憎しみという感情がこの時初めて芽生えた。
 赦せない。あなただけは。
 復讐してやる!
 私の幸福を奪い去ったあなたに。
 私は心の中で、まだ見ぬ皇帝スルタンに向かって叫んでいた。
 私の頬が上気し瞳が狂おしく輝いていることに気付き、私を買ったトルコ人が勝手に誤解してはしゃいでいる。
「おまえは稀に見る美しい娘だ。きっと皇帝スルタンもお気に召すだろうよ。しっかりお仕えするのだぞ」

 私は心の中を読まれないように、彼を無視してそっと目を閉じた。