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窓際の長椅子でうたた寝をしていたら、瞼に陽の光が差し込んで目が覚めた。
昨日から降り続いていた雨もようやく上がり、高く昇った太陽が雲の隙間から光の筋を落としていた。私は陽の光に誘われて中庭に足を向けた。
どこからか少女の歌が聞こえる。異国の民族音楽だろうか、聞き慣れない旋律だった。
歌詞も耳慣れないない言葉の羅列だったけれど、もの悲しい調べと歌っている少女の綺麗なソプラノが耳に心地よかった。
私はその声がする方へ何となく歩みを進めた。
ここは皇帝が手に入れたばかりの都コンスタンチノープルに建てられた宮殿だ。
宮殿という名にふさわしくない木造の粗雑な感じのする建物は、この街を都とすることに決めた皇帝がとりあえず宮殿と呼べる物を作ろうと急ごしらえで建てたものらしい。
何年か後には、東の岬に目の覚めるような宮殿が建つと侍女達がよく噂していた。
粗い造りの建物と豪華な部屋の内装とがアンバランスで居心地が悪いこの宮殿も、この中庭だけは私の好きな場所だった。
水仙、カーネーション、アイリスと私が後宮へ入ってから五ヶ月間、いつも美しい花で彩られるように心配りがされていたから。
そして今は赤い薔薇が咲き乱れていて、雨に濡れたそれは次第に力強くなってくる初夏の日差しにキラキラと輝いていた。
私は、咲き初めの蕾に顔を近づけてそっと息を吸い込んだ。若いさわやかな香りは、少女の声とともに憂鬱な私の心をすっと潤してくれた。
あの初めて皇帝の部屋を訪れた翌朝、私は皇帝から彼の服と大きな宝石を下賜された。 その贈り物の意味は、宦官長の態度の豹変ぶりからすぐに私にも解った。私はその日から、広い部屋と数人の侍女を与えられた。
私は、一夜にして皇帝の寵妃という地位を得たのだ。
皇帝の部屋を訪れるたびに増えていく宝石。私の元に届けられるきらびやかな皇帝からの贈り物。
今私が望めば、ヴェネツィア元首の妻よりも豪華な暮らしができるに違いない。
でも、そんなことは私にとって何の意味もなかった。私は未だに、復讐どころか皇帝に髪の毛一本ほどの傷も負わせることができなかったのだから。
この私がいる後宮には、刃物はもちろんその代わりになりそうな物は何一つ持ち込むことが許されない。これは、皇帝を暗殺から遠ざけるために厳しく守られている掟だった。
一片のナイフを手に入れるためどんなに苦労しようとも、それは叶わぬ望みだった。
皇帝の身体を傷つけることなど、私には初めからできないことだったのだ。身体の痛みを味あわせることができないのなら、せめて心を傷つけてやろうと思い直したのはつい最近のことだった。
でも、それだって……。
どうやったら、この氷のような男の心に傷を負わせることができるのだろう?
幾度となく重ねられる皇帝との夜。
彼から送られる美しい衣装や宝石。
周りの人から見れば、私は皇帝の愛を一身に受けた幸福な女に見えるだろう。でもあの男は、これっぽっちも私のことを愛してなどいなかった。
私を見つめる皇帝の底冷えするような瞳は、愛する女に向けるものなんかじゃない。
皇帝はいつも冷酷な目で私を見下ろし、口元には時折歪んだ笑みを落とすだけだった。
皇帝が気に入っているのは、この容貌だけだ。きっと私のことをこの花壇に植えられた薔薇のようにしか思っていないのだろう。
もしも皇帝が私を愛しているのなら、彼の心を傷つけることなど難しいことではなかった。
でも、私のことを人形でも見るように見つめるあの男を、どうやったら傷つけることなどできるのだろう?
もしかしたら、私は何もできずにこの美しい鳥籠の中で孤独な一生を終えるのかしら?
私はこの恐ろしい考えを頭から振り払うように小さく首を振ると、もう一度胸いっぱいに薔薇の香りを吸い込んだ。
「薔薇とイレーネか。美しい取り合わせだな。まるで楽園にいる天使の絵のようだ」
後ろから聞き慣れた声がした。宦官達のしわがれたかそうでなければ奇妙に甲高い声とは違い、張りのある若い男の声だった。
後宮に入ることができる男はただ一人、私の一番嫌いな人皇帝だけだった。
彼の言葉は、やはり私のことを飾り物の薔薇並みにしか見ていないと証明しているようなものだった。私は腹立たしい気分で振り返った。
昼間から皇帝を後宮で見かけるなんて滅多にないことだった。彼は政務の合間に立ち寄ったのだろうか、いつも部屋で見る短く刈った茶色の髪を金糸を織り込んだターバンで覆い、重そうな長衣をきっちりと着込んで立っていた。
珍しく機嫌が良いらしく笑顔を浮かべていたけれど、どちらにしても私は彼になど会いたくはなかった。
「そんなにお気に召したのなら絵を描かせたらよろしいわ。皇帝が良いとおっしゃるまで、何時間でもここに居ります。薔薇も私も逃げられませんから」
イスラムでは、絵を描くことは偶像崇拝を嫌う教えから禁止されている。それを知っていて、わざと使った言葉だった。
皇帝は馬鹿ではない。私の棘だらけの言葉にちょっと眉をひそめたけれど、別に咎めるでもなく私に応えた。
「おまえの反応は、いつも毛を逆立てた猫のようだな」
皇帝は視線を落とし、皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
そして、私がたった今顔を寄せていた蕾を手折り私に差し出した。
「わざわざ絵など描かせずとも、おまえも薔薇も常に余の傍に居てくれるではないか」
私は、彼のそんな無造作な仕草に怒りがこみ上げた。
皇帝は、何でもそうやって手折ってしまう。自分が欲しければ無造作に。手折られる者の気持ちなど、ほんの少しも考えたことなどないのだろう。
私はそんな腹立ちを隠すように目を伏せ、薔薇の枝を受け取った。
棘で傷つけたのか、皇帝の指に小さな血の玉が浮いていた。皇帝は指を口に持っていきながら唇の端を歪めた。
「どうやら、薔薇にもイレーネにも疎まれてしまったようだ」
解ってない。この男は、やはり何も解っていない!
体の中で怒りが火を噴いた。
「どうしてあなたを好きになれるの? 私は、無理矢理ここに連れてこられたのよ。私をどうしようとそれはあなたの自由だわ。でも、心だけは絶対にあげない。私の心はもう、主、イエス=キリストの御許に捧げてしまったわ。あなたにだって永久に手に入らない物もあるのよ」
この異教徒の嫌いな言葉くらいは解っていた。
私は、彼に嫌がらせをするためだけにキリストを利用したのだ。
皇帝の動きがふと止まり、笑顔が消えた。
「おまえ、まさかまだイエスを信仰しているわけではあるまいな?」
皇帝はこれだけを言うと、じっと私を見つめた。
声を荒立ててもいなければ怒りを顔に出しているわけでもなかったけれど、彼のそんな様子には凄味があった。
私は、唇を引き結んでからまた皇帝を見つめ返した。
「私の信じる神は、イエス=キリストただお一人です。他の神を信仰するつもりはありません」
「イエスは神ではない。預言者の一人に過ぎぬ」
「いいえ、主は神です」
私は、頑強に首を横に振り続けた。
「預言者は神ではあらぬ。神は唯一絶対神、アッラーが居られるのみだ」
皇帝はため息と一緒に張りつめていた空気を吐きだした。
「おまえもここに来たからには、イエスを信仰することは許さぬ。つまらぬ意地を張らずにただちに改宗しろ。良いな」
つまらぬ意地。
皇帝は私の態度をこう決めつけると、わざと噛んで含めるように言って私の顔を覗き込んだ。そしてきびすを返した。
確かに意地は張っている。
でも、決してつまらぬ意地なんかじゃないわ。
「絶対に、改宗などしないわ!」
私は、小さくなっていく皇帝の背中に怒鳴った。
皇帝は、私の言葉など聞こえなかったように、
「今日中に改宗するのだ。解ったな」
と良く通る声で言うと、また歩いていってしまった。
「嫌よ! 絶対に、いや!」
今度は完全に無視をされ、皇帝の姿は建物の影に消えていった。
皇帝が憎い。
彼を傷つけてやりたい。
でも、どうやって?
さっきの自問を心の中で繰り返す。
方法がないなんて絶対に認めない。認めたら私は生きていけないから。
私は、そっと手折られた薔薇を見つめた。
一度折られてしまった薔薇は、もう二度と住み慣れた花壇に戻ることはできない。どんなに美しい花瓶に生けられても、それで薔薇が幸福になるはずがない。
まるで、今の私のように。
私はそれを投げ捨てたら、自分自身の境遇も捨ててしまえるような気持ちに駆られた。
そして、薔薇を持った右手を大きく振り上げた。
「あら、捨ててしまうの? かわいそうに」
不意に声がした。
振り返ると、花壇の後ろの窓枠に肘をついて私を見つめる少女がいた。口元に笑みを掃いているが、大きな瞳は私を挑戦的に見つめていた。
十四、五くらいだろうか? 愛らしい黒髪の少女だった。
この声は……。
さっきの歌声の主だろうか? 歌声はいつの間にか消えていた。
「そうやって、罪もないお花に八つ当たりするわけね」
八つ当たりね……。
彼女は、私たちの話を聞いていたらしい。
「立ち聞き? よい趣味じゃないわね」
「だったら、他人の部屋の前で大声を出さないことね。迷惑よ」
少女の言うことはもっともだった。私は素直に謝罪した。
「ごめんなさい。歌の邪魔をしてしまったようね」
「聞いてたの?」
「ええ、綺麗な歌声だったわ」
少女は、おかしそうにふふふと笑うと唇をつり上げた。
「賞賛してくれるなら、ご褒美にその薔薇を下さらないかしら?」
「これ? これが欲しいの?」
私は、右手の薔薇をみつめてこう言った。
「そうよ。救ってあげたいの、あなたに散らされてしまう前に」
棘のある言葉だ。彼女は私に敵意を持っているようだった。
理由は考えるまでもない。彼女は、見るからに侍女などではなく皇帝の妃のひとりだったから。
「花壇があって手が届かないわ。欲しければ取りに来たら?」
「届けてくださったら、お礼にさっきの歌をもう一度歌ってあげるわ。それに飲み物ぐらい差し上げてよ」
私は黙って肩をすくめた。
「入口は右へ回った所よ」
なぜ、私は足を運んだのだろう?
捨てていってしまったら薔薇がかわいそうだから?
少女の歌がもう一度聴きたかったから?
私がため息をついて右へ向かうと、また綺麗な旋律が流れ始めた。淡々としていて、時折問いかけるような節回し。そんな、不思議な調べを聞きながら私は少女の部屋をめざした。
そこは、日当たりの良い明るい部屋だった。侍女に連れられ控えの間を通りぬけた私の目に、窓際の少女の姿が映った。
私を認めた少女が、歌いながら目元だけをほころばせる。長椅子の背もたれに肘をつき、組んだ足がダマスクス織りのゆったりとした足通しに覆われ床に流れている。ターバンを真似ているのか銀糸の刺繍が施された布が緩く頭に巻き付けられ黒く美しい巻き毛を覆っている。
オリエント風の服装はこのエキゾチックな少女にとても似合っていて、窓からこぼれ入る光も相まってまるで美術品のようだった。
金の耳飾りが彼女の歌に併せて揺れている。
そして、問いかけるような節回しで歌が終わった。
「どう、お気に召して?」
突っ立っている私に少女が問いかけた。
「この歌、本当はお葬式の時にしか歌わないのだけれど」
「……」
「鎮魂歌よ」
楽しそうに言う少女の言葉に、背筋に嫌なものが走った。
「お好きなようだから、機会があればあなたにも歌ってさしあげるわね」
私は、ささくれだった気分のまま少女に薔薇を手渡した。そして、そのまま帰ってしまおうか一瞬だけ迷った。
この少女の言うことはいちいち癇に障る。でも、それは彼女が私を挑発しているから。腹を立てて帰ってしまえば、彼女の思惑通りになるのだろう。
彼女の意図通りに踊らされるのは嫌だった。
「どうぞ座って。イレーネ」
少女はもたれかかっていた長椅子から床に移動すると、その前の空間を私に勧めた。
この国では、あまりテーブルを使わない。
私の向かいに座った少女との間に、侍女が持ってきた冷たく甘いシロップの盆が直接置かれた。
厚い絨毯が敷き詰められた床は、盆の重みをふわりと受け止めた。
侍女は少女から薔薇の枝を受け取ると、銅細工の一輪挿しに活け窓辺に置いた。
「初めてお会いするのよね?」
やけに親しげに、棘だらけの言葉を投げつけ続ける少女に牽制の意味を込め尋ねた。
「ええ。私、ここに来たばかりですもの」
悪びれもせず少女は応えた。
「それで、あなたのお名前も聞いても良いのかしら?」
「私の名は、カラ=エルマス。トルコ語で『黒いダイヤ』という意味。皇帝から戴いた名前よ」
皇帝から戴いたと言ったとき、カラ=エルマスの黒い瞳が誇らしげに輝いた。
『黒いダイヤ』という名は、彼女のそんな瞳と美しい黒髪から由来しているのだろう。
「イレーネというのは、トルコ語ではないわね。あなたはお名前を賜らなかったの?」
「ええ、お断りしたの。新しい名前なんか要らないわ」
初めて皇帝の寝所を訪れた翌朝、皇帝が『おまえの名は何とするかな?』と私の髪を掻き上げながら発した言葉に、ぴしりと言い返したのだ。
『新しい名前は要りません。私はイレーネです』と。
後宮の女達は、皇帝から名前をもらえることが大きな誇りとなっているらしい。
そんなことも私にとっては煩わしいことだった。
「皇帝からお名前を戴ける名誉を、わざわざお断りしたって言うの?」
からかうような口調で、カラ=エルマスが言った。私が負け惜しみを言ってると思いこんでいるのだろう。
「いけないかしら? 言ったでしょう、新しい名前なんか要らないって。あなたは信じないかも知れないけれど、私、皇帝が大っ嫌いなの。あんな男がつけた汚らわしい名前なんかで呼ばれたくないわ」
カラ=エルマスがしつこいから、つい激しい調子で言い返してしまった。
でも、カラ=エルマスは私のそんな口調よりも、私の言葉の中に皇帝への憎しみを感じ取って驚いているようだった。彼女の表情から嘲りが消え、開きかけた口に手を持っていってぽつりと言った。
「さっきのあれは、皇帝の関心を惹くお芝居ではなかったの?」
誰がそんな面倒なことを……。
「そんなこと、するわけないじゃない」
「あなた、本当に皇帝を愛してはいないの?」
「あなたは皇帝を愛しているの!?」
答えるより先に聞き返してしまった。
皇帝の妃は全員彼の奴隷だった。
彼に征服された街の女。さもなければ私のように売られてきた女。
どちらにしてもそんな境遇の中で、打算以外の目的であの男に近づくなんて考えられなかったから。
でも、カラ=エルマスの答えは明確だった。
「ええ、もちろんよ」
「どうして?」
「何故って……」
「あなたも奴隷として無理矢理ここに連れてこられたのでしょう? あなたを物のようにして手に入れた皇帝が憎くないの?」
カラ=エルマスは片眉を上げ再びせせら笑いを取り戻すと、ふっーっとため息をつき、薔薇色の長椅子に肘をついた。
「そういうことなの。くだらないわ」
「何がくだらないの?」
「だってそうでしょう? いつまでもそんなことにこだわっているのだもの」
「そんなこと? あなたにとってそんなことで片づけてしまえるようなことなの?」
──彼女に踊らされては駄目──
こんな言葉が心の隅で警告した。
でも、どうしようもなかった。
相手のペースにはまってしまっていることに気付いていたけれど、感情が高ぶって口を閉ざすことができなくなっていた。
「当ててみましょうか? あなたはただ売られてきたというわけではないわね、イレーネ。おあいにく様、私もそうよ。私がいた街は皇帝に攻め落とされたの。でも、もし私の国がもっと力を持っていたら、きっとオスマン帝国を滅ぼしているわ。あなたの国だってそうでしょう? 何が違うの? 力の差だけじゃないの。そんなことは皇帝を憎む理由にはならない。私の国が何をしてくれたと言うの? 何もしてくれなかったわ。皇帝は私に優しくしてくれた。それだけで皇帝を愛する理由は十分でしょう?」
彼女の言うのは正論だった。
カラ=エルマスの言っていることが、感情で理解できないまま頭で納得してしまっている。
それに気付かない振りをして、何も考えずに言葉を紡いだ。
「私の家はね、海賊に侵略されたの。闇に紛れてこっそりやってきて、私の家族を殺し私の全てを奪っていった卑怯者たちよ。それを指示したのが皇帝よ。私たちは、皇帝を怒らせるようなことは何もしなかったわ。それなのに……」
あのときに光景がまたよみがえった。
両手でつかんでいた薄物の長衣にぎゅっとしわが寄り、ぶるぶると震えた。
「あなたが知らないだけで、あなたの祖国が何かしていたのよ。そしてあなたが襲われたときに助けてくれなかった。それだけのこと。海賊なんてオスマン帝国だけがやっていることではないわ。あなたがどこの国の人かは知らないけれど、キリスト教国だって海賊をやらせている国はたくさんあるわ」
認めたくない。
でも、彼女は間違っていない。
このあどけない少女に対する敗北感だけが、暗く私の心に染み込んできた。
「これが、皇帝のお気に入りのイレーネとはね。皇帝もつまらない女を愛されたものね。こんなことぐらいで逆恨みをするあなたなんかを。もっと良い女ならいくらでもいるのに」
私に勝利したカラ=エルマスの口から滑り出る言葉は、意気揚々としていた。そして、それは私の中で空回りしてどこかへ消えていた。
どうしようもない怒りだけを抱え私は立ち上がった。
「帰るわ」
足早にその場を去ろうとした私の背中に、鋭い声が飛んできた。
「待って!」
振り返ると、カラ=エルマスの顔からはすっかり嘲りの色は消ていた。
彼女は私を睨みつけてきっぱりと言った。
「それでも皇帝を嫌うのなら勝手にすればいいわ。でも、皇帝にひどいことをしたら私が赦さない。よく覚えておいてね」
「私が皇帝をどう思おうとあなたには関係のないことよ。それでも口を挟みたいのなら、あなたこそ勝手にして」
私はそう言って部屋を走り出た。ただの捨て台詞だ。
なぜカラ=エルマスに敗北したのか私には解っていた。
彼女は、一途に皇帝を愛していた。
迷いもなく。
彼女なら言うに違いない。父親の血に濡れた剣を持つ皇帝に向い、あなたを愛していると。
カラ=エルマスに嫉妬している自分に気付き愕然とした。
まだ幼さが残る顔で、愛する男のために彼を傷つけるなら私を赦さないとまで言い切った彼女。
そんなことが言えるほど愛せる相手がいるカラ=エルマスは、私よりずっと幸せな生き方をしている。
それにひきかえ、私は何をしているのだろう?
焦りと不安がまた背後から襲ってきた。そして、その場にしゃがみ込みそうになるのを必死に堪えた。
何もできずにここで朽ちていく。
両手で顔を覆い小さく首を振った。
頭がおかしくなりそうだった。
部屋へ帰る気にはなれなかった。
広場からざわめきが聞こえる。私は気持ちを紛らす何かを求めて、そっちへと足を向けた。
◇◇◇
広間には商人が来て市を開いていた。
いろいろな肌の色をした女商人が床に座り込み、目の前に広げた大きな布の上に様々な商品を並べて威勢のよい声で呼び込みをしていた。
商品の前ではハレムで働く女や宦官たちが、目を輝かせて品定めをしている。
商人は前に立った客に合わせていくつもの言葉を巧みに使い分けるから、広間はまるで港の市場のようだった。
遠く窓際で私の侍女が銀色の首飾りを手に取って、同じ年頃の少女と笑いながら何かを話してる。
私は広間の喧噪に気圧され、入口のところに立ちつくしていた。
「ほら御覧よ、いい髪飾りだろ? あんたの髪の色によく似合うよ」
すぐ足元から声がした。
見ると浅黒い肌に茶髪の老女が、手に持ったサファイアの髪飾りを私にかざしていた。
どこで見分けるのか、老女の言葉はベネッィアのものだった。
「ごめんなさい。せっかくだけど」
私は久しく口にしなかった懐かしい言葉でこう応えた。いまさら髪飾りなど買う気にはなれなかったから。
老女はふーっとため息をついて皺深い首を左右に振った。
「そうだろうね。あんたのその髪に着けている白銀細工。それでこんなのが十も買えるよ。まったく見事なもんだね。皇帝に貰ったのかい?」
彼女がこう言うまで、私は自分の髪にそんな物が飾ってあることさえ忘れていた。今朝、髪を整えるときに侍女が着けてくれた物だった。
私は黙って頷いた。
「そりゃあ大したもんだ。こんなのが貰えるなんて、あんた皇帝にずいぶん気に入られてるんだね」
老女は目元に皺を寄せ、人なつっこそうににんまりと笑った。そうするとまるで皺の中に目が埋まってしまいそうだった。
私はわざわざ違うと説明するのも億劫で、曖昧な笑みを返した。老女はそれを肯定と決めつけてますます目元の皺を深くした。
「そうかい、そりゃあ何よりなこった。しかし困ったよ。今日は侍女や宦官達のための市だからね。あんたの目に適うような物があるかな?」
言われてみれば、周りには身分の高そうな女の姿はなかった。せいぜい高位の宦官がちらほらといるくらいだ。
欲しい物などなかったっけれど、老女の言葉に誘われるように膝を折り貴金属や宝石の山を指でなぞっていった。
もしクレタに居たころなら、目を見張り何時間もかけて選んだであろう装飾品が折り重なるように並んでいた。
追憶に浸りながら指先を滑らしていくと大きな首飾りの影から、何の装飾もない銅の棒が突き出していた。
つまんで引っ張り出すと、それは中指と小指を交差させたくらいの小さな十字架だった。
「あんた、それ!」
老女は、私の手から慌ててそれをひったくった。
「いやだな。変な物が混ざってたようだね。選り分けるときにきっと間違えたんだよ。あんた、見なかったことにしとくれよ」
色をなくし小声でささやく老女の手を、気がつくと私は十字架ごと握りしめていた。
「ねえお願い。これを私に売って!」
「何言うんだよ! ここはイスラム教徒の宮殿だよ。こんなのを持ってたら大変じゃないか」
「お願い!」
「あんた、皇帝のお気に入りだろ? 悪いことは言わないから止めときなよ」
老女が親切で言ってくれているのはよく分かった。でも私はこのとき、狂おしいほどにその十字架が欲しかった。
どうしてか自分でも分からないままに、私は必死に食い下がった。
「私、それが要るの。代わりに何でもあげるわ。この髪飾りが良い? それとも別の物?」
老女はため息をついてまわりを見回した。
「仕方がないね。うちから買ったってことは内緒にしとくれ。……ああ、いいっ、いいよ! そんなの外さなくても。そんな髪飾りなんかと引き替えたら足がついちまう。そっちの指輪をおくれよ。これだけでも十分にお釣りがくるよ」
外した銀の指輪を渡すと、老女はさっと私の手のひらに十字架を押しつけ指を握らせた。
「さぁ、見つからないうちに早くどっかへ持って行っとくれ。まったく、困ったお姫さんだよ。もっと役に立つ物はいくらでもあるだろうに」
「ありがとう」
泣きそうな顔をしていたのだと思う。
老女はあきれ顔をして私を見つめたあと、ふっと鼻から息を漏らし、しっしっと追い払うように軽く手を振った。
私は十字架を握りしめた手をおし抱くようにして駆けだした。
◇◇◇
中庭を抜け暗い廊下を走る。部屋に帰るころには息が弾んで苦しかった。
心配して駆け寄ってきた侍女に、用がないから市に行ってもよいと告げると大喜びで部屋を飛び出していった。
きっと、一人だけ当番で残されて寂しい思いをしていたのだろう。
侍女の足音が十分に遠ざかるのを待って、私は握りしめた掌を目の前にかざしそっと指を開いた。指の間から光がこぼれ出るような感覚に襲われ、胸が熱くなった。
掌に載っているのは、青錆の浮いている粗末な銅の十字架だった。
今までのいらいらとした焦りや無力感はいつの間にか消え、懐かしい家族に再会したような暖かな喜びが胸を埋め尽くしていた。
こんな物ひとつで、自分の気持ちがこんなに変わろうとは思ってもみなかった。
さっきも神の名を口にしたけれど、それはイスラム教徒に対する当てつけのためだった。
私は神を愛していたのかしら?
いいえ、私はこのとき何でも良いからすがりつく物が欲しかったのだ。
その時にこの十字架を手に入れた。それだけのこと。
でも、なんだか苦しんでいる私のところに神が救いの手を差し伸べに来てくれたようで嬉しかった。
「神様、私の元にいらしてくださったのですね」
小声でそっとこう呟くと十字架がにじんだ。慌てて頬をこすったら、手の甲が涙で濡れていた。
泣いたのは後宮に来てから初めてだった。
私は逃げているのかもしれない。何もかも、いっさいのことから。
でも、どうせ何もできずにあの男に飼われていくのなら、神のそばで平穏な気持ちで日々を過ごしたかった。
侍女が戻ってきたら大変だ。
私は大急ぎで指の先で涙をぬぐい、十字架をそっと絹の小布で包んだ。
そして、誰にも見つからないように長椅子の隙間の奥深くそれを押し込んだ。
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