天上の楽園 4




 目を覚ますと、控えていた侍女オダリスクが平たい桶と水差しを持って近寄ってくる。
「お目覚めですか?」
 彼女は、決まり文句をさわやかに言いながら洗面の支度を整える。
 手渡された小布で顔を拭いているうちに、別の侍女オダリスクがカタンと音を立てて窓の板戸を開けた。
 黒から藍に変わろうとしている空が、黒く浮かび上がる格子の背景を彩っている。
 窓から入る夏風がまだ暖かい私の肌を心地よく冷やしていく。海を渡ってくる風は、かすかに潮の香りを部屋に運んでくる。
 空から名残の星も消えかかるころ、謡うようなエザーンが聞こえる。これはイスラムの祈りの合図だ。
 僧侶が寺院モスクの隣に立つ細い塔に上り、祈りへの呼びかけを奇妙な節をつけて叫ぶのだ。
 一日五回、イスラム教徒が神にひれ伏すという祈りのひとつが始まろうとしている。
 コンスタンチノープルにある全ての寺院モスクで奏でられているエザーンが遠く近くこだまする中で、侍女オダリスク達が潮が引くように部屋を去る。廊下では、さわさわと衣擦れの音がする。
 後宮ハレム寺院モスクに出かけて行ってしまうのだった。
 初めのうちは一緒に行かない私を怪訝な顔で見ていた彼女たちも、今はすっかり慣れてしまった。この時間になると、私のことは見て見ぬ振りをしてそそくさと寺院モスクに足を向ける。
 一日に五回、私は一人の時間が持てるのだった。

 じっと、耳をそばだてる。
 廊下で足音が全くしなくなるのを確認して、長椅子ディヴァンの隙間から絹の包みを取り出す。いつもと変わらず優しい光を放っている銅の十字架を長椅子に立てかけ、その前に跪く。
「主よ、どうかまた今日も私をお見守り下さい。私が主の僕として主と共に居りますことをお許し下さい」
 長椅子ディヴァンに肘をついて組み合わせた指に額を寄せ、ささやくように語りかける。
 自己流の祈りの文句だった。
 柔らかな朝日の中、小鳥のさえずりだけが耳に届く。まるで神のいらえのように。
 その声を聞くため、しばしそのまま耳を澄ます。
 私は一日のうちで一番このひとときが好きだった。
 私の短い祈りの時間は終わった。侍女オダリスクが戻る前に十字架を隠さなくては。
 名残惜しい気持ちで十字架に手を伸ばす。
 その時、黒い太い手が後ろから伸びて、私の十字架をさっと掴んだ。驚いて口から出かかった悲鳴を両手で押さえ込み振り返る。
 私の目に映ったのは信じられない人物だった。
 宦官長クス゛ラル=アカ゛だ。
「なにをするの。返しなさい!」
 宦官長クス゛ラル=アカ゛の手に握られている十字架を取り返そうと慌てて手を伸ばした。宦官長クス゛ラル=アカ゛はそれをひょいと高く掲げ、私を避けた。
「誰の許しを得てこの部屋に入ってきたのですか! 無礼は赦しませんよ。早くそれを返して出て行きなさい!」
 怒りにまかせて相手を叱りつけるには、トルコ語は私にはあまりに不案内だった。私は舌をもつれさせながら、これだけを言うとまた十字架に手を伸ばした。
 私よりもふたまわりも大きな宦官長クス゛ラル=アカ゛の指先に届くはずもなく、私の手は虚しく空を切った。
 宦官長クス゛ラル=アカ゛は、彼に手も足も出ない私の様子を楽しんでいるかのように、にっと唇をゆがめ、勝ち誇ったふうな大声で言った。
皇帝スルタンのご命令です」
皇帝スルタンの? どうして皇帝スルタンが……?」
「これを持って、貴女と一緒に皇帝スルタンのお部屋へ参るようにとのことです」
 宦官長クス゛ラル=アカ゛は、ターバンの上で十字架をひらひらさせながら再び奇妙な顔をして笑った。
「貴女がいけないのですよ。貴女が私の言うことをお聞き入れ下さらなかったから」
 あの薔薇の咲いている中庭で皇帝スルタンと言い争いをした日から、何度も宦官長クス゛ラル=アカ゛が私の改宗を勧めるためにこの部屋へ来ていた。
 そのたびに、彼は忌々しげに舌打ちしながらこの部屋を去らなければならなかった。
 皇帝スルタンに報告に行っては叱られたのだろう。
 私が見せかけにせよ皇帝スルタンの寵妃となった今は、彼との立場は逆転していた。侍女オダリスク達には威張り散らしている彼も、私には強く出ることもできずによけいに鬱憤がたまっていたらしい。
 宦官長クス゛ラル=アカ゛は、嬉しそうにいそいそと私を皇帝スルタンの部屋へと連れて行った。

     ◇◇◇

 皇帝スルタンの部屋は窓が開け放たれ、奥まで入り込む眩しい朝日が絨毯や壁の錦を白く輝かせていた。窓際の長椅子ディヴァンでは、葡萄葉のシルエットが微かに揺れている。
 いつもまだ暗いうちに去ってしまう私は、見慣れたはずの皇帝スルタンの部屋がまるで違って見えた。
 祈りがまだ終わらないのだろう、皇帝スルタンの姿はなかった。私は扉の傍らで立ったまま待たされた。
 後ろには上機嫌の宦官長クス゛ラル=アカ゛が表情を押し殺して立っている。

 突然扉が開き、皇帝スルタンが入ってきた。
 皇帝スルタンは横目でちらっと私を一瞥しただけで通り過ぎ、長椅子ディヴァンにどかっと腰を下ろした。そして例の冷たい無表情でじっと私を見つめた。
 私も皇帝スルタンに気圧されるものかと睨み返した。
「イレーネ、こちらへ参れ」
 火花を散らすような緊張の中、私は皇帝スルタンを睨みつけたまま彼のすぐ前まで歩み出た。
 皇帝スルタンはふと視線を外し宦官長クス゛ラル=アカ゛に目配せした。宦官長クス゛ラル=アカ゛は恭しく皇帝スルタンに近づき、十字架を捧げ渡すとまた元の位置に戻っていった。皇帝スルタンはそれをつまんで私の目の前にかざした。
「イレーネ、これは何だ?」
「私のものです。返してください」
「おまえが毎朝これに向かって祈っているというのはまことか?」
「はい」
 皇帝スルタンの眉がぴくっと動いた。
「余は改宗しろと言ったはずだが」
「私は、嫌だと言いました」
「おまえに拒否する権利などない。今すぐ改宗しろ」
 虫けらを相手にするような冷静さで、皇帝スルタンはさらに言い募った。
 私は、きっぱりと即答した。
「嫌です」
 遠くから宦官長クス゛ラル=アカ゛の声がした。
「あのー。私に全てをお任せいただければ、必ず改宗させて御覧に入れますが……」
「口を挿むな!」
 いきなり驚くような大声で一喝され、皇帝スルタンの許しを得て私を拷問するという楽しい考えを抱いていた宦官長クス゛ラル=アカ゛は首を竦めた。
 皇帝スルタンは、そんな宦官長クス゛ラル=アカ゛の様子など全く意に介さず私を見つめ続けた。
「嫌だと言うことは、どういうことか分かってるのか?」
 底に何かを孕んでいる嫌な声だった。
 緊張に耐えきれずに叫んでしまったのは私の方だった。
「前にも言ったでしょう? 絶対に嫌です! 悪魔なんて決して信仰しないわ!」
「悪魔だと!」
「ええ、そうよ。あなたと同じ悪魔よ。あなたは二年前に無抵抗なコンスタンチノープルを攻め落として、たくさんの人を殺したわ。それだけでは飽きたらず、海賊をさせて私の家を襲い私の家族と幸せを奪ったのよ。あなた達が信じるものは、人の道に反する悪魔の宗教よ。そんなものは絶対に信仰しない!」
 自分たちの神が侮辱されたことで、皇帝スルタンの顔が珍しく怒りで赤く染まった。
 でも、それも長くは続かなかった。私の言葉が進むにつれて皇帝スルタンは落ち着きを取り戻し、最後には冷笑を浮かべていた。
「無抵抗なコンスタンチノープルか。おまえは、そのように聞かされていたのか? だが、そのコンスタンチノープルの救援に現れたおまえの祖国ヴェネツィアやジェノヴァの船に、我が海軍は赤子のように完敗したのは聞いておろう?」
 コンスタンチノープルの主、東ローマ帝国は、かたくなに籠城を続けていた。攻めていたトルコ軍も、そんな街をとうとう海上からは落とすことができなかった。
 それで、奇襲と大砲の威力で東ローマ帝国を屈服させた。
 その際ただひとつの胸のすく話として、ヴェネツィアとジェノバ艦隊の前にはトルコ海軍は手も足も出せなかったという話題はヴェネツィア中を駆け回った。
 父が嬉しそうに話しているのを聞いたことがある。
 皇帝スルタンは少し自嘲気味に頬を歪めて、さらに続けた。
「おまえの生家があったのは、確かクレタだったな? ヴェネツィアの重要な軍事基地であるクレタにその自慢の海軍の目をかいくぐり、上陸し、誰の手引きも無しに城壁を越えて略奪してくるなど、我が軍もたった二年でめざましい進歩を遂げたものだ。どうしたらそんなことができるのか、一度教えてもらいたいものだ。この悪魔でも、そのような方法は考えつかぬわ」
 皇帝スルタンはいったい何を言っているのだろう? 私は不安になった。
 皇帝スルタンの言っていることが理解できないから?
 違う。
 彼の言っていることを分かりたくなかったから。それがとても忌まわしいことだったから、私は無意識にそれを拒んでいたのだった。
 私は皇帝スルタンから目をそらし、弱々しく言った。
「何を言っているか分からないわ」
 皇帝スルタンは、拗ねたような意地悪な声で私に追い打ちをかけた。
「その海賊の中に、知った顔が有りはしなかったか?」
 知人などいるはずが!
 ……
 その時、ある言葉が胸の中によみがえった。
 ──商品に手を出すなと言っただろう?──
 私がクレタで最後に聞いた言葉。知らない声で語られた言葉だった。
 私を商品と呼んでいた。
 その意味はその時には分からなかった。でも、彼の語った言葉ははっきりと耳に入ってきた。
 それは一番聞き慣れた祖国の言葉だったから。
 あまりに自然に耳に入ってきたから今まではおかしいとも思わなかったけれど、海賊達に命令していた人物はヴェネツィアの言葉を話していたのだ。
 私は、呆然と立ちすくんだ。
 目の前のものが何も見えなくなった。朝の光も、皇帝スルタンの姿も。
 苦笑を含んだ皇帝スルタンの声だけが、ぼんやりと遠くから聞こえてくる。
「本当に知人が居たのか? 信じられぬな。よほど粗末な作戦を企てたものだ。おまえの父に敵がいたのだろうよ、イレーネ。トルコ軍の仕業にしてしまえば追求されずに済むからな。島のギリシャ人達の反トルコ感情を煽るにもちょうど良い事件だ。案外、ヴェネツィア政府が噛んでいたのかもしれぬぞ」
 そんなはずはない!
 そんなはずは……
 皇帝スルタンの声は、潮のように遠ざかりながらもまだ続いている。
「コンスタンチノープルを攻めたのは、この街が欲しかったからだ。それが悪いことか? それとも、キリスト教徒ならそのようなことはせぬと言うのか? この街が攻め落とされたのは、これが二度目だ。二百五十年前、誰がそれをしたのか知らぬのであろう? 同じキリスト教徒の十字軍だ。同胞の街を襲い、略奪していったキリスト教徒どもに、イスラムを悪魔の宗教などと言う資格はない!」
「やめて!!」
 地面がぐらりと揺れた。
 膝に衝撃が走り、気がつくと床に手をついていた。
 私は、床に座り込んだまま唇を噛み鋭く皇帝スルタンを見上げた。視線の先で皇帝スルタンが慌てて座り直した、浮かしかけた腰をごまかすために。
 その表情には戸惑いが浮かんでいる。意地悪をした相手に、思った以上のダメージを与えてしまった子供のような戸惑いだった。
 この男でも、こんな表情をすることがあるんだわ。
 頭の隅でぼんやりとそんなことを考えた。
 皇帝スルタンは軽く首を振って、いつもの無表情に戻りまた口を開いた。
「女を相手に何をむきになっている。ばかばかしい。余もどうかしていたな。余がこの街を落としたのも、キリスト教徒を殺めたのも事実だ。余を憎みたいのならばそうするがよい。ただし、イエスを信仰することだけは許さぬ。言うことを聞かぬと殺すぞ」
 そして、十字架を親指と人差し指の間に立て指に力を込めた。
「何をするの!」
 私は皇帝スルタンから十字架を取り戻そうと立ち上がりかけたけれど、後ろから駆け寄ってきた宦官長クス゛ラル=アカ゛に押さえ込まれ身動きができなかった。
 皇帝スルタンの指先が白く変わり、小刻みに震える中で私の小さな十字架が見る見るひしゃげていった。
 そして、二つに折れ曲がってしまった。
 いやぁっ!!
 私の心は絶叫していた。
 それなのに、太い腕で押さえ込まれた身体は身動きひとつできずに、黙ってかわいそうな十字架を見つめていた。
 私の頬を涙が一筋滑っていった。
 皇帝スルタンの前では決して泣かないと誓ったのに。
 心が壊れかけていた。
「殺せばいいわ」
 私は涙に濡れた顔を皇帝スルタンに向けた。
「いっそう殺してしまえばいいのに。どうして私を側においておくの?」
 愛してもいないくせに。
 私が皇帝スルタンを憎んでいるのを知っていて私を罰しているの?
 苦しめるために、傷つけるためだけに、私を飼っているの?
「分からぬか?」
 皇帝スルタンは、痛みを含んだ声で私に反問した。
「いや、おまえは分かろうとせぬのだ」
 相変わらず冷たい瞳で、皇帝スルタンは私を見つめている。
 その瞳の奥から、彼は私に何かを訴えていた。
 何を分かれと言うの?
 何に気付かなければならないの?
 でも、瀕死の私の心はそんなことを考えるゆとりはなかった。
 ただ皇帝スルタンの瞳を見つめ返すのが辛くて、そっと目をそらした。

 突然皇帝スルタンが、大きな衣擦れの音をさせ立ち上がった。そして私の前に歩みを進める。
 殺されるかもしれない。
 それも良いと思った。このまま生きていても何の意味が有るのだろうか?
 いっそう、死んでしまった方がどんなに楽だろう。
 けれども皇帝スルタンは私の横を通り抜け、宦官長クス゛ラル=アカ゛の前でいったん足を止めた。
 折れ曲がった十字架を彼に渡しながら、
「処分しろ」
 と言った後、思い出したように付け加えた。
「この女を拷問することは許さぬ。……しても無駄であろうからな」
 皇帝スルタンは、そのまま私のことなど忘れてしまったように部屋から出ていった。

     ◇◇◇

 いまいましげな宦官長クス゛ラル=アカ゛に丁重に皇帝スルタンの部屋から追い出されてからどう辿ったのかは覚えていないけれど、気がついたら部屋に帰っていた。
 ふらふら居間へと足を踏み入れた私を心配して、口々に言葉をかけてくれる侍女オダリスク達。そんな優しい彼女たちに感謝する余裕さえ持てずに部屋を出て行ってもらってから、私は長椅子ディヴァンに身を投げ出した。
 私の家族を殺したのが、同じ国の人間だったなんて……。
 私は、これからどうすればいいの?
 皇帝スルタンが敵でないと判っていても、いまさら彼を愛し彼の寵妃に収まることなどできるはずはない。
 でも、今までのように彼を憎むことができるだろうか?
 コンスタンチノープルを攻め落としたのは彼だ。多くのキリスト教徒の血で剣を濡らしたのも彼だ。
 皇帝スルタンは自分でそう言っていた。
 でも、どうして皇帝スルタンはそんなことを言ったのだろう?
 そして、十字架を私の目の前で折り曲げて見せた。わざわざ憎まれ役を買って出ているようだった。
 私を煽って楽しんでいたのかしら? いつも、口答えばかりしている私に対する嫌がらせだったのだろうか?
 でも、そのときに皇帝スルタンが見せた表情。
 戸惑い、痛み、そして問いかけ。
 あれはいったい何だったのだろう?
 私がこの手で殺してしまいたかった男。そんな男の心の中など、今まで考えたことなどなかった。
 素直な気持ちで見ていたら、私は皇帝スルタンの気持ちが分かったのかもしれない。
 皇帝スルタンがしつこく改宗を押しつける理由も。
 そして、彼が私を側に置いておく理由さえ。
 でも私は、まだ気付かなかった。あまりにも今まで皇帝スルタンを悪者と決めつけていたから。
 このときの私は同国人に裏切られた悲しみと失ってしまった十字架のことで頭がいっぱいで、とても冷静に考えられる余裕などなかった。
 いっそう自分の命を絶ち切ってしまいたかった。そうすればどんなに楽だろうか?
 けれどもそれは神の教えに反することだった。
 自殺は神が禁じている。
 十字架を手に入れる前ならば、神の教えなど意に介さずに皇帝スルタンの部屋からの帰り道に塔にでも登り、身を投げていたかもしれない。
 でも、今の私は神に背くことはできない。
 これだけは、確かなことだった。
 十字架を手に入れたときに、私は本当の意味でキリスト教に帰依していたのだ。
 たとえ十字架を奪われても、どんなに苦痛を与えられても、私は自殺することもできず改宗するつもりもなかった。
 改宗を迫られる限り私は皇帝スルタンを憎むしかないのだろうか?

 入口の扉がかたんと鳴り、侍女オダリスクの遠慮しがちな声が聞こえた。
「イレーネ様、カラ=エルマス様がおみえなのですけれど……」
 どうしてこんなときに限って。
 私は苦々しい気分で侍女オダリスクに応えた。
「今は誰ともお会いしたくないの。申し訳ないけれど気分が悪いのでと、そうお伝えして」
「はぁ、そう申し上げたのですが。どうしてもとおっしゃって、今こちらに……」
「来ているの?」
 私は長椅子ディヴァンから身を起こした。
 突然部屋を訪ねてくるのだけでも、十分礼儀に反している。それなのにすでに控えの間を通り抜け戸口まで来ているなんて、ずいぶん非礼な振る舞いだ。
「はい……」
 侍女オダリスクもそう思っているらしく、口を尖らせた。
「良いわ。どうぞ入って」
 私は、扉の影のカラ=エルマスに直接呼びかけた。
 開かれた扉から、カラ=エルマスは優雅な足取りで入ってきた。そして、長椅子ディヴァンに身を投げ出している私に無邪気に笑いかけた。
「ご気分が優れないようね?」
「ええ、今は誰ともお話しする気分じゃないの。申し訳ないけれど、お引き取り願えないかしら?」
「どうなさったの? 皇帝スルタンに、大切なものを取り上げられてしまったの?」
 カラ=エルマスはこう言うと、凍り付いた私の反応を見てふふっと笑った。
「どうしてそれを?」
「私が皇帝スルタンに申し上げたのですもの、昨夜」
「そう……そうだったの」
 私は、彼女の言葉が妙に納得できた。見張られていたのだ。
 それとも十字架を買ったところを誰かに見られていたのかもしれない。
 後ろにいた宦官長クス゛ラル=アカ゛にさえ気付かなかったのだから、窓の外や扉の影に隠れていた者に気付かなかったとしても不思議はない。
「それで?」
 私は、無気力にカラ=エルマスに問い返した。
「私の十字架はもう無くなったし、あなたの望み通り私は皇帝スルタンの不興を買ったわ。それで、あなたは私をどうしたいの? 何のために、わざわざここまで来たの? 私の顔を見に来たなんて、そんな悪趣味なことは言わないでしょう?」
 カラ=エルマスは、口に手を当て楽しげな声を上げた。
「まさか。私、あなたをお迎えに来たの。珍しいお菓子が手に入ったから、あなたにも差し上げたくて。一緒に私の部屋にいらしてくださらない?」
 カラ=エルマスの瞳に暗い炎が走り、唇が三日月型につり上がった。
 同時に部屋の空気が凍り付いた。
 側で控えていた侍女オダリスクが息を呑む。
 皇帝スルタンの妃の毒殺事件は、古来後宮ハレムでは珍しいことではなかった。
 侍女オダリスクにも雰囲気で感じ取られたのだろう、カラ=エルマスが私に何をしようとしているのかを。
「私がわざわざこうしてお迎えにあがっているのですもの、いらしてくださるわよね?」
 彼女は恐ろしげな表情とは裏腹に、優しく私の肩に手を添えた。その指の間から、金色に光る針が私の首に向かって突き出していた。
 毒針だ。
 私は黙ってカラ=エルマスを見つめ返した。彼女の瞳は決して笑ってはいなかった。
「いいわ」
 毒針が無くても、私はきっとこう答えていた。
「あなたがそう望むなら」
「イレーネ様!」
 針が見えない侍女オダリスクには、私の答えは信じられないものだったらしい。まるで私を叱りつけるように青ざめた顔で叫んだ。

     ◇◇◇

 付いてくると言い張る侍女オダリスクを無理やり部屋に残し、私はカラ=エルマスと連れだって彼女の部屋へと向かった。
 侍女オダリスクを説得するのに手間取ったけれど、連れて行くわけには行かない。もしカラ=エルマスの部屋で何かが起これば、一緒に居た侍女オダリスクに咎めが行かないはずはなかったから。

 夏の陽は中天にさしかかり、木造の宮殿を熱して私たちの汗を誘う。
 カラ=エルマスは床にふわっと腰を下ろし、私にも座るように言った。絨毯を通して伝わる、床のひんやりした感触が心地よかった。
 座るとすぐに彼女の侍女オダリスクが持ってきたのは、あのときのように冷たいシロップだった。
「どうぞ。大丈夫よ、それには何も入っていないわ」
 彼女は私に勧めてから、四本の指で自分のグラスをつまみあげ口に運んだ。
「最後に、あなたともう一度お話しがしたかったの」
 そしてこう言うと、喉が渇いて仕方がないとでも言うように、もう一度グラスに口を付けた。
「あなたが毎日十字架に向かって祈っているのは知っていたわ。あなたが礼拝に行かないことは、後宮ハレム中の噂になっているのですもの。その間にやっていることなんてすぐに想像がつくわ。皇帝スルタンが改宗しろとおっしゃったのに、あなたは無視をして皇帝スルタンに恥をかかせた。それだけでも罪だわ」
 彼女の理論は理解できなかったけれど、それを言ったところで水掛け論になるのは判っていたから黙っていた。
「それにあなたの傲慢な態度。それが皇帝スルタンをどれほど苦しめているか分かっていて?」
 カラ=エルマスは吐き捨てるようにそう言うと、いったん言葉を切り大きな瞳を伏せた。
 そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昨夜、中庭で皇帝スルタンにお会いしたの。とてもお寂しそうだったわ」
 昨日の夕刻、また私を薔薇にたとえた皇帝スルタンに皮肉を言った覚えがある。でも、そんなことくらいで傷つく男ではないだろう。
「中庭で、虚ろな瞳で薔薇を眺めていらした皇帝スルタンをお慰めしようと、散歩のふりをして近づいたの。でも、皇帝スルタンはそんな私の心に気付いて優しい女だと言ってくれた。そしてこう続けられたの。余の欲するものがおまえの中にあればよかったのになと」
 昨夜の出来事を反芻しているのか、カラ=エルマスの瞳は伏せられたままだった。
「たまらなかった。誰が皇帝スルタンを悲しませてるか知っているから。だから思わず皇帝スルタンを抱きしめて言ったの『私は心から皇帝スルタンを愛してます。どんなことでもしますから、イレーネより私を愛してください』って」
 視線がゆっくりと上がり、私を捉えた。
皇帝スルタンは、私の肩にそっと手を置いて言ったの。なんて言ったか分かる? 『すまぬな、余はイレーネを愛している』こう言ったのよ!」
 細く押さえ込んだ声が激昂に支配され始める。
「私、かっとして、あなたが礼拝に行かずに何をしているかを話してしまったの。そうすれば、皇帝スルタンはあなたに怒りをぶつけると思ったから。でも、皇帝スルタンは怒らずにもっと悲しそうな顔をされたの」
 カラ=エルマスの鋭い視線。
「私、皇帝スルタンを悲しませてしまったことを後悔したわ。嘘だと言おうとした。そのとき皇帝スルタンが仰ったのよ。それでもイレーネを一番愛してるって!」
 そして、カラ=エルマスの言葉は叫びへと変わった。
「何故、あなたなんかが皇帝スルタンの愛をもらえるの? 私の方が何倍も、何十倍も皇帝スルタンを愛しているのに! あなたなんか、あなたなんか居なくなってしまえばいいのよ!」
 絞り出すような妬みと悲しみが私にも伝わってきた。
 最愛の男の胸で別の女の名を聞かされたら、どんな気持ちになるのだろう?
 どうしてあの男は、自分を愛してくれるカラ=エルマスにまで、わざわざそんなひどい嘘をつくのだろう?
 嘘?
 本当に嘘なのだろうか?
 ──分からぬか?──
 さっきの皇帝スルタンの問いかけがよみがえった。
 でも私はカラ=エルマスに告げられた皇帝スルタンの言葉が信じられずに、弱々しい声で返した。
「嘘よ、皇帝スルタンは私を愛してなんかいないわ」
「ふざけないでよ! 皇帝スルタンはいつだって嘘なんか言わないわ。あなたが、被害者意識に浸り込んで真実を見ようとしないのよ。皇帝スルタンを愛そうとしないくせに、あなたはどうしてここにいるの? どうして皇帝スルタンを悲しませるの!?」
 もし私が皇帝スルタンを愛していたら、カラ=エルマスをこうまで苦しませることは無かったのかもしれない。
 でも、私だって望んでここに来たわけではなかったのだから。そして、望んで出ていけるはずもない。
 ここから居なくなる方法はひとつしかなかった。

 カラ=エルマスが侍女オダリスクに合図をすると、侍女オダリスクは綺麗な色の砂糖菓子を載せた盆を捧げ持ってきた。
 それを絨毯に置くとき盆が微かに震えていた。
「どうぞ、召し上がって」
 興奮状態から醒めたカラ=エルマスは怖いほど冷静だった。
 毒が入っているということは分かっていた。知っていて、ここまでついてきたのだから。
 これは自殺ではないわ。
 私は自分にそういい聞かせた。
 逃げることなどできなかったのだから、仕方がないのよ。
 本当は、私自身も私を消し去ってしまいたかったのかもしれない。そして、彼女が私を殺してくれるのなら。
「ひとつだけ訊いていい?」
「なに?」
「もし私がここで死んだら、あなたはどうなるの? ただでは済まないのじゃない?」
「脅しても無駄よ。あなたに心配してもらうことではないわ」
 カラ=エルマスは、私の言葉を時間稼ぎと思ったのかいらいらと応えた。
「私の道連れになってしまうかもしれないわ。それでも良いのね?」
「ええ! あなたが皇帝スルタンの目の前から永久にいなくなってくれれば、後はどうなってもいいわ。もう、一日だってあなたの姿を見るのが耐えられないの」
「そう」
 カラ=エルマスは、きっと毒殺の罪からは逃れられない。でも彼女がそれを望んでいるのなら、私がこれ以上考えてあげることもないだろう。
 私は砂糖菓子を手に取って、無造作に口に入れた。
 砂糖菓子の甘みの中に舌を刺激する味が含まれていて、飲み下すと喉に焼け付くような痛みが走った。
 喉を押さえたまま苦しさのあまり床に倒れたとき、カラ=エルマスの瞳をとらえた。
 彼女の瞳は涙で潤んでいた。
 遠くからざわめきが聞こえてくるような気がしたけれど、耳鳴りのためよく分からなかった。
 暗い谷底に落ちていくような感覚の中で、呟くような鎮魂歌のメロディが聞こえる。
 それがふと途切れ、誰かの涙に濡れたつぶやきが聞こえた。
「なぜ、私の髪は金色じゃなかったの?」
「なぜ、私の瞳は緑じゃなかったの?」