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幼い頃の夢を見ていた。
「いやよ、まだ眠たくないもの」
自分の部屋で、母の白いスカートにまとわりつく私。
私をベッドに入れようとしていた母は、諦めてため息をつく。そしてベッドに座り、小さく笑って私に腕を広げでくれる。
「仕方がないわね。それじゃ、お話しをしてあげるからいらっしゃい」
私は母に飛びついた。
「おかあさま」
「なぁに? 甘えんぼさん」
母が私をぎゅっと抱きしめる。
「おかあさま。……おかあさま」
母の暖かな体温が心地よくて、私は意味もなく母を呼びながら胸に顔をこすりつけた。
突然喉に痛みがよみがえり、身動きした弾みに目が覚めた。
陽の光は蝋燭に変わり、部屋にいくつものオレンジ色の大きな輪を作り出していた。
夢から覚めたはずなのに、私を包んでいる暖かい胸の感触は消えなかった。
頬に触れる白い錦。背に廻された腕は、しっかりと私の身体を支えている。
見上げると、焦点の定まらぬ視界の真ん中にぼんやりと顔が見える。
誰の顔?
だんだんと、霞が消えていくように視界が澄んでいく。
そこに浮かんだのは皇帝の顔。
私が眠っていたのは皇帝の腕の中だった。
どのくらいこうしていたのだろう?
皇帝の服装は、後宮でくつろぐときに着るものではない。特上の絹で厚く織られた長衣や、それを彩る派手な色の帯。
特にターバンを飾っている大粒のダイヤ。外国の大使にオスマン帝国の国力を見せつけるために使われる特別なものだと、前に聞いたことがある。
皇帝は公務の後、着替えもせずに私のところに駆けつけたのだろうか?
それとも……
皇帝の顔に何とも曖昧な微笑が浮かぶ。
安堵?
悲しみ?
怖れ?
そんなものを一度に飲み込んだような、複雑な泣き笑いのようだった。
この胸の中に居てはいけない。
さっきまで、泣き叫びながら罵った相手だ。
我に返った私は、皇帝の腕から逃れようと身を起こしかけた。皇帝の手がそんな私をそっと押しとどめた。
「まだ、動いてはならぬ」
カラ=エルマスの毒が私の気力を根こそぎ奪い去ったのだろう。こんな穏やかな制止でさえ、私の反抗を封じ込めるには充分だった。
私は皇帝の言う通りに首の力を抜き、つい今朝までは親の仇と憎んでいた皇帝に身体をあずけた。
皇帝は、満足気に私の重さを受け止めた。
皇帝は今までになく優しかった。そして私は、彼の優しさをごく自然に受け入れた。
皇帝は、私の頬にかかった一筋の髪を指でそっと脇へ流し言った。
「気分はどうだ? もう吐き気はせぬか?」
喉の痛みは残っているけれど、吐き気は感じなかった。
私は、吐いたのだろうか?
覚えてはいなかったけれど、ひどい苦しみを味わったらしい。皇帝の気遣わしげな表情がそれを物語っていた。
私は不思議な気持ちで皇帝を眺めながら小さく頷いた。
皇帝はもう一度微笑もうと頬を動かしかけた。でも、微笑みは歪んだ口元に消された。私を包んでいる両腕に力がこもり、私は皇帝の胸に押しつけられた。
「もう、目覚めぬのではないかと思った」
絞り出すようなかすれ声で、皇帝はこう言った。
このとき棘の鎧を置いてきてしまった私の心は、初めて皇帝の言葉に出さぬ声を感じ取っていた。
そして、私の胸の奥で何かがそれに応えているのが分かった。
「おまえの 侍女に褒美を与えねばな」
思い出したように付け加えられた皇帝の声で我に返り、意識がなくなる寸前のざわめきが思いだされた。
私の侍女が、私の身を案じて走り回ったのだろう。
侍女の身で、勝手にカラ=エルマスの部屋に踏み入ることは許されない。彼女にできることは、 宦官長を通し皇帝に事情を話して許可を願うことだけだった。
宦官長は、私よりもカラ=エルマスの方に好意を持っていたから、彼女は説得するのに大変な苦労をしたに違いない。
そして、寸前のところでその努力が報われたのだ。
カラ=エルマスは失敗し、私は生き残った。
カラ=エルマスがどうなったかは聞きたくなかった。
ただひとつだけ、彼女の言葉が正しかったことが私にも分かった。
皇帝は私を愛していた。
そして彼女の言う通り私が目を塞いでいただけだった。素直な気持ちで見れば、いろいろな事が見えてくる。
この男は愛情の表し方が下手なのだ。
私の目の前で十字架を折り曲げ、自分を憎みたいのなら憎めばよいと挑発した皇帝。
あれは、怒りのやり場を失った私のために憎む相手を与えてくれたのだった。
嫌われている自分の身を使って。
──わからぬのか?──
今朝なぜ自分を殺してしまわないのかと聞いたとき、皇帝が私に投げかけた言葉だった。切ない、虚しい言葉だ。
──おまえを愛しているから。なぜ、それがわからぬ?──
心の中で皇帝はこう問いかけていたのだろう。
そしてあきらめと一緒に吐き出された言葉。
──いや、おまえはわかろうとしないのだ──
私を胸に押しつけていた力が弛み、皇帝の手がそっと私の頬を包んだ。
「もう夜も更けている。今宵はこのまま眠れ」
私は、素直に皇帝の胸に顔を埋めた。
考えなければならないことはたくさんあるけれど、考えることさえ今は億劫で、ただ暖かい胸の中で眠りたかった。
皇帝の手が、何度も何度も私の髪を優しく撫でていった。
◇◇◇
目が覚めると、朝になっていた。
私は見慣れた皇帝のベッドに寝かされていたけれど、皇帝の姿はもうどこにもなかった。腰を低くし、媚びるような様子で挨拶に来た宦官長に訪ねたら、今朝から遠征に出かけたという答えが返ってきた。
「イレーネ様のお身体のことは大変心配されていましたので、何かございましたらすぐに私にお申し付け下さい。医師を手配致しますから。しかし、昨日は危ないところでございましたね。私が皇帝をお連れするのがもう少し遅ければと考えますと、身の縮む思いが致しますよ」
抜け目なく自分の働きを売り込む宦官長の言葉は聞き流した。
皇帝にしばらく会わずにすむという気持ちが、ほっとしたような少し物足りないような不思議な感覚をともなって心を占めていた。
その日から、カラ=エルマスの姿は後宮から消えていた。彼女はやはり、私のために処刑されてしまったのだ。
私を殺そうとした少女。不思議と彼女を憎む気にはならなかった。彼女は、最愛の人と自分を苦しめる私を消し去ってしまいたかっただけなのだ。
最初に会ったとき、カラ=エルマスは鎮魂歌を歌っていた。
皇帝に滅ぼされた街から来た彼女。あのとき、ここに来たばかりだと言っていた。きっとあの鎮魂歌は、亡くなった同胞達のためのものだろう。
かわいそうな同胞のために鎮魂歌を歌いながらも、迷いもなく皇帝への愛を宣言していた。そんな彼女に潔ささえ感じる。
別の形で出会っていたら、私はきっと彼女に好意を抱いただろう。
死んでしまったカラ=エルマスのことを考えるたびに、罪の意識が胸を刺す。
私は悪くない。
こう思いたかったけれど、それはできなかった。
なぜ、私の髪は金色じゃなかったの?
なぜ、私の瞳は緑じゃなかったの?
涙に濡れた、彼女の呟きが耳に残る。
──冗談じゃないわ、あなたに同情されるなんて願い下げよ──
彼女が生きていたら、きっとこう言うに違いなかったけれど。
カラ=エルマスの悲しい呟きを心の外に追い出しながら、皇帝のことを考える。
すべてを皇帝のせいにすれば今までは済んでいた。でも、あのとき置いてきてしまった心の鎧はもう二度と着ることはできなかった。
今後、どんな顔をして皇帝に会えばいいのだろう。
私はあの男の愛に応えることができるのだろうか?
いいえ、駄目だわ。
宦官長が、今でも時々思い出したように改宗を勧めに来る。でも、どうしてもそれだけは頷くことはできなかった。
皇帝の妃が異教徒であることが許されるはずはない。皇帝がしつこく改宗を迫る理由も、今の私には判っていた。
断るたびに、周りでささやかれる噂の声は高くなる。
改宗しなければどうなるのか、それは皇帝が答えを出している。
皇帝が帰ってくるまでに、私は大きな覚悟をしなければならなかった。
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