天上の楽園 6




 三月ほどが過ぎ、夏の暑さももうすっかり忘れてしまった頃、後宮ハレム皇帝スルタン凱旋の報が届いた。主のいなかった後宮ハレムは、たちまち活気づき、いそいそと皇帝スルタンを迎える準備を始めた。
 私もその夜、湯浴みをさせられ、髪を結われ碧色の美しい衣装を着せられ、仕上げに長い間香炉の前に立たされて全身にふくよかな香を焚きしめられた。
 宦官長クス゛ラル=アカ゛に連れられ皇帝スルタンの部屋に一歩足を踏み入れた私に、皇帝スルタンは鋭い一瞥を投げかけた。
 彼は白いシャツと緋色のゆったりとした足通しに幅広の孔雀色の帯を巻き、長椅子ディヴァンに座っていた。
 胡座をかいた両膝の上には、握りしめた拳が乗っていた。
 皇帝スルタンの瞳には苛立ちが浮かび、唇は固く結ばれていた。
 遠征直後ということを感じさせず、皇帝スルタンはさっぱりと身だしなみを整えている。でも、三月前より少し肉のそげた頬が戦いの苦労を偲ばせていた。
 特にどこかを痛そうにしている素振りはない。遠征中に大きな怪我は無かったようだ。
 私は、それが一番の気がかりだったことに気付いた。皇帝スルタンの姿を一目見るなり、最初にそれを確認した自分がいたから。
 そして、皇帝スルタンに気付かれないように安堵のため息をつきながら、同時に胸の高鳴りを感じている自分をみつけた。
 私は、皇帝スルタンを愛している。
 こんな事実が、私の心の中にすんなりと受け入れられた。
 あの死の際から生き返った夜、予感はあった。
 あの日、憎しみの呪縛から解けた。
 同時に皇帝スルタンの優しさを知った。
 素直な気持ちでこの男を見ることができた。
 あの日から、わたしは皇帝スルタンを愛し始めたのだろうか?
 いいえ、もしかしたら、初めて会ったときからこの男に惹かれていたのかもしれない。皇帝スルタンの冷たいまなざしに、あんなにも腹が立ったのはもしかしたらそのせい?
 憎しみに支配されていた私の心は、それを認めようとはしなかった。
 あのとき、自分の気持ちに気付いていたら…
 私は唇を噛む思いで皇帝スルタンを見つめた。

 皇帝スルタンは険しい顔のまま、私を呼んだ。
 私は、彼の前に歩み出た。
「おまえがまだイエスイーサーへの信仰を続けているという噂を聞いたが」
 私が皇帝スルタンの前まで行くか行かないかのうちに、鋭い言葉が飛んできた。
 彼の言葉は私の予想通りだ。私は平然と応える。
「その通りです」
「何度も、改宗しろと言ったはずだ!」
 皇帝スルタンは立ち上がり怒鳴った。何度目かの不毛な言い争いが始まった。
 でも、今日の皇帝スルタンの様子はいつもと違っていた。切迫したような緊張感が、彼を包んでいる。
「主を捨てるつもりはありません」
 わたしの言葉が終わるか終わらぬうちに、皇帝スルタンが立ち上がり私の頬を払った。
 わたしの左頬で大きな音がして、耳鳴りがした。
「まだ分からぬのか? 命令だ、今すぐ改宗しろ!」
「嫌です」
 また何度か平手を受けた私は床に倒れ込んだ。頬がしびれ頭の中でがんがんと何かを打ち鳴らしているような感覚に支配され眩暈がした。皇帝スルタンは片膝を落とし、私の腕を掴んで引き寄せがくがくと揺すった。
「言うことを聞かねば殺すと言ったことを忘れたか!?」
 叫ぶ皇帝スルタンの瞳には、勝ち目のない戦いに挑んでいるような悲壮感が表れていた。
 打たれている私よりも、皇帝スルタンの方が辛そうだった。
 でも私は頷くことはできなかった。
 神を捨てられない限り、皇帝スルタンを喜ばせることはできない。私が皇帝スルタンを愛しているかどうかは関係のないことだ。
 どうせ運命が変わらぬのなら、せめて私の心の変化を皇帝スルタンに悟らせないようにしよう。
 最後まで嫌な女のまま彼の前から消えよう。
 私はそう決心していた。
「殺せばいいでしょう! あなたはそうやってたくさんのキリスト教徒を殺してきたのだから。私のことも殺せばいいのよ。怖くなんてないわ!」
 必要が無くなった今になって、私のこの言葉がどれほど皇帝スルタンを傷つけることができるかが解った。
 皇帝スルタンは、ただ唇を噛んだだけだった。唇が白くなるほどに強く。
 また私は何回か平手を浴びせられた。唇が切れ、私の血が皇帝スルタンの右手を汚した。
「改宗すると言え! 言うんだ! 言わねばこのまま殴り殺す!」
 皇帝スルタンに顎を引き上げられ、上を向かされた。私をのぞき込んでいる皇帝スルタンの瞳が血走っていた。
 私が返事をしたら、彼はどうなってしまうのだろう?
 それでも私は答えるしかなかった。
 腫れて血で汚れた顔をそむけ、たった一言をきっぱりと言った。
「嫌です」
 皇帝スルタンの身体からいままでの荒々しさが抜け落ち、急に動きが緩慢になった。
 彼はゆっくりと私を放し、ふらふらと立ち上がった。
「弟の血に染まった玉座を手にしたときから、余の運命は決まっていたのだろうか? 大切なものが血にまみれなければ手に入らぬのは、余のさだめなのか?」
 立ち上がりざまに彼が漏らした乾いた呟きが、私の耳に届いた。
 ごめんなさい。
 私は、そう言って皇帝スルタンの足にすがりつきたい衝動を必死に堪えていた。
 先帝に疎まれていた皇帝スルタンが、自分の命と玉座を手に入れるために幼い弟を殺めた噂は耳にしたことがあった。その心の傷を深くえぐるようなことを、今、私はしているのだ。
 そんな自分が憎くさえあった。
 今ならカラ=エルマスの気持ちが分かる。

 皇帝スルタンは、面白そうに私たちの様子を眺めていた宦官長クス゛ラル=アカ゛に向き直り、
「連れて行って手当をしろ」
 とだけ厳しい口調で言った。
 来るときよりも邪険な様子で私を扱う宦官長クス゛ラル=アカ゛に引き起こされ、彼に支えられて退出した。
 そんな私を、皇帝スルタンは一度も見ようとしなかった。

     ◇◇◇

 それから半月、私は皇帝スルタンの姿を見かけることはなかった。
 そしてその次の夜、私は支度を整えられ皇帝スルタンの部屋へと召された。
 私に関わることを恐れてか、初めて私を連れてきたときのように始終無言の宦官長クス゛ラル=アカ゛の導きで、私はその部屋に向かった。

 部屋に入ると、いつも通りベッドに伏していた皇帝スルタンの声で宦官長クス゛ラル=アカ゛は早々に追い払われた。
 私は作法通りベッドに入った。
 皇帝スルタンは、初めての夜のようにそっと私の髪をかき上げ私の頬に手を触れた。
 腫れはもうほとんどひいていた。
「痛かったであろう? すまなかったな」
 全てを諦めた上での皇帝スルタンの穏やかな優しい声に胸に熱いものがこみ上げ、それを奥歯をかみしめることで堪えた。

 私にはもう朝は来ないだろう。
 あと少しよ。
 あと少しですべてが終わるの。
 最後まで演じ通すのよ。

 いきなり皇帝スルタンが私を強く抱き締めた。
 息が苦しかった。
 それよりも、皇帝スルタンの抱擁の意味が解り悲しかった。
 それはまるで、宝物を取り上げられることに抵抗してしがみついている子供のような抱擁だったから。
 この夜、皇帝スルタンはこの上もなく優しく慈しむように私を愛した。