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夜が明けぬうちに訪れると思っていた死刑執行人は、とうとう朝まで来なかった。
私にも朝は来た。
最後の朝が。
私は無言で見送る皇帝の元を去ると、そのまま浴室に連れて行かれた。そしてもう一度念入りに支度をされた。
黄金色の長衣から見え隠れするゆったりとした足通しは、皇帝が選んだのかいつか彼が私にくれた薔薇と同じ色だった。 その上に黒いチュニックとベールを被せられ、私はもうくぐることはないと思っていた後宮の門をくぐった。
「あんたも、とうとう終わりだな」
門を後にした直後に、横にいた宦官長が皮肉そうに唇を歪めて私に言った。
◇◇◇
落ち葉が舞う中で、私は鴉のような黒ずくめの姿で宮殿の庭を歩いていた。
後宮と宮殿を隔てる高い塀に沿って植えられている木々の葉は黄色く染まり、地面に落ち葉の絨毯を敷きつめていた。そして行き着いたのは宮殿の一番奥まった庭だった。
そこには、何人かの男達が半円を描いて整列していた。
体格、髭の形も様々だったけれど、みな頭にターバンを巻ききちんと身なりを整えて立っていた。
微動だにしない彼らも、視線だけは私の方に向いていた。
眉はひそめられ、まるで不浄のものでも見るように私の黒い姿を睨みつけていた。
そんな様子から、彼ららは私のことを一番快く思わなかっただろうイスラムの司祭達だということが分かった。不信心者の処刑の立会人としては、ごく当たり前の人選なのだろう。
少し離れたところに、建物を背にして皇帝が立っていた。ちょうど、司祭達と向かい合う位置だ。
彼の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
皇帝の後ろには、親衛隊と小姓らしき少年が派手な衣装を身につけ彫像のように立っていた。
緊張した面もちで視線を私から逸らそうとしている小姓は、これから目にするであろうおぞましい事を怖れているのだろうか、彼が捧げ持っている剣の先がふるふると揺れていた。
執行人の姿はここにもまだ無かった。
「イレーネ、こちらへ参れ」
皇帝の声に従って、彼の前まで歩み出た。恐ろしさは感じなかった。
皇帝は、淡々とした手つきで私のベールとチュニックをを剥ぎ取った。
私の顔が露わになると、司祭達のしかめられた眉が一斉に開いた。
「この美しい女は、余の最愛の妻だ。だが、この女はアッラーを敬うことを拒み、改宗に応じなかった。いくらこの女を愛したところで、改宗に応じぬ限りは生かしておくわけいにはゆかぬ。神への愛に比べれば、俗世の愛など私にとって取るに足りぬものだ。それを失うことに何の未練もない」
皇帝は無表情のまま、まるで暗記していたものを読み下すように言葉を継いでいた。
そして、腰からぶら下げられた剣を抜き私に一歩近づいた。
「余の妻でありながら、アッラーに帰依せぬ罪でこの女を処刑する」
死刑執行人は皇帝自身だった。
皇帝は私の長い髪をそっと持ち上げ、ゆっくりと自分の左手に巻きつけていった。
うなじに触れた彼の手は、冷たかった。
私は胸の前で手を合わせた。
神様、今お側に参ります。
あとひとつ、私にはやらなければならないことがあった。
最後の偽りを。
思い切りあざ笑うのよ、私を手に入れられなかった皇帝を。きっと、以前の私ならそうしたわ。
さあ、口の端をつり上げて!
皇帝の剣が、一気に私の首に振り下ろされた。
◇◇◇
首筋に焼けるような感覚があった瞬間、私の意識は宙を飛んだ。
何も解らないうちに、私は司祭達の後ろ彼らより身ひとつ分の高みから皇帝を見下ろしていた。
皇帝の前には首のない私の身体が血の海に横たわり、その頭は金色の髪で皇帝の腕から吊り下がりゆらゆらと揺れていた。
皇帝の顔、ターバン、長衣は返り血で真っ赤に染まっていた。
皇帝は剣を握ったままの手を添えてその揺れを押さえ、まだ血の吹き出ている私の首をそっと身体の横へ降ろした。
その時、初めて顔がこちらを向きその死に顔を皇帝の目に曝した。
今まで人形のように無表情だった皇帝の瞳が驚愕で見開かれ、顔が奇妙な形に引き歪んだ。
そして、いったん地に降ろした私の頭を血で汚れるのも構わずにかき抱いた。
ああ、この人は狂ってしまうかしら?
血の気の失せた青白いその顔に浮かんでいたのはあざ笑いではなく、愛する男の手にかかって死んでいく幸福そのものの微笑だった。
私は偽りきれなかった。
そして、皇帝は気付いてしまった。私も皇帝を愛していたことを。
ごめんなさい。
私が皇帝にかけた言葉は、もう彼の耳には届かなかった。
でも、皇帝は叫びも狂いもしなかった。
数秒間の沈黙の後、再び私を地に置くと瞳だけをぎらぎらさせて短剣を鞘へと差し込んだ。震える手に握られているそれはなかなか鞘へは収まらず、皇帝の左手を傷つけてようやく本来の場所に戻った。
そして皇帝は唇をぎゅっと引き結んだ。
歯が、ぎりっと音を立てた。
皇帝は重々しい声で親衛隊を呼び、私の死体を片づけるように命じた。
「余の妻の遺体だ。丁寧に葬れ」
これだけを言い残し、皇帝はきびすを返ししっかりとした足取りで建物の中へ消えていった。
気圧されたような青ざめた人々の中で、小姓だけが皇帝に着替えをさせるために慌てて後を追った。
◇◇◇
その夜、皇帝は一人で部屋にいた。
侍女や宦官達を一人残らず遠ざけ、窓辺の長椅子に身を投げ出し月を眺めていた。開け放たれた窓からは明るい満月の光が降り注ぎ、皇帝や部屋の調度を青白く染めていた。
私は皇帝と向かい合って座っていた。
「イレーネ」
皇帝は、月に向かって呼びかけた。
「はい」
私の返事は、目の前の皇帝の耳には届かない。
「もう二度と、おまえには会えぬのか」
キリスト教に帰依しなかった者は、天国の門はくぐれない。昔、母から聞いたことがある。
それはイスラムでも同じらしかった。
二つの教えの天国が隔てられているのなら、私たちは死んでも再び会うことはできないのだ。
「皇帝、私はまだここに居ります」
私は空しく皇帝に応える。私の代わりに冷たい秋風が皇帝の頬を撫でていく。
「会えるはずなど無かろう。余がこの手でお前を殺したのだからな」
皇帝は自嘲気味にこう言うと、言葉を切り苦しげ吐き出した。
「お前を他の者の手にかけたくはなかった」
そして、吐き出した苦しみを振り払うように首を振り、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「お前は初めから、媚びるということをしなかった。どんなものを与えても、どんなことをさせても、いつもそのきつい瞳で余を見つめ返していたな。お前のような女は初めてだ。嫌われていると分かっていても、その気高さに惹かれずにはいられなかった」
虚ろな瞳が追憶を捉えてほんのわずか笑み浮かべたけれど、すぐに絶望の光に支配され頬をゆがませた。
「それなのに何故、余の手の届かぬ所に行ってしまってから、あのような微笑みを残すのだ? お前は最後まで残酷な女だ」
皇帝は、再び月を眺めることで潤んだ瞳から滴がこぼれ落ちぬようにしばらくじっとしていた。
「いや、ただの恨み言だ。おまえとて、偽りで浮かべた微笑みではあるまい。最後に弱みを見せてしまったのだな。そうでなければ、お前には騙され続けたままであった」
私の偽りを見破ったことが皇帝にとって良かったのかどうか、私には分からなかった。
私は、皇帝への愛を隠し通したかったのだから。
彼は薄く微笑むと、私の首に剣を振り下ろした右手を見つめた。
「いっそ狂えてしまえたら、どんなに……どんなに楽だろうな」
両の掌がぎゅっと握り合わされる。
「だが、おまえのために狂うことはできぬ。余には、まだやらねばならぬことがあるのだ。余の手を染めているのはおまえの血だけではない。私が殺してきた者達の死を無駄死ににするわけにはゆかぬ。余は、皇帝なのだから」
皇帝の肩が微かに震えていた。
「おまえには何もしてやれぬな。……赦せ」
「あなたを愛していました」
この世の身ではなくなった今でも、この言葉はどうしても言えなかった。
皇帝への愛よりも神への忠誠を選んでしまった私だから。
皇帝の前で静かに涙を流すことしかできない私の代わりに、月光が優しく皇帝を包んでいた。
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