天上の楽園 8





 私は天国へ行くことができなかった。

 私が異教徒である皇帝スルタンを愛してしまったことが神の怒りに触れたのか、それともイスラムの神に帰依しなかったからアッラーの罰が下ったのか、理由は私には判らなかった。
 どちらにしても、私が天国の門を開いてもらえないほど罪深い存在なのが悲しかった。
 ただひとつ救いだったのは、いつでも皇帝スルタンと一緒にいられることだった。
 皇帝スルタンが喜びに身を浸しているときには遠くで見守り、彼が失意や悲しみの中にいるときにはひっそりと傍らで心を共にした。
 皇帝スルタンが苦しんでいるときに何一つしてあげられない自分が悲しかったけれど、彼の姿を見ていられるだけで幸せだった。
 生きているうちに味わうことができなかった人を愛する喜び。死を経て噛みしめることになるとは皮肉なことだった。
 でも、この幸せを知らずにいるよりはずっと良い。
 人は、死んでからもなお幸福に出会うこともあるようだ。

 皇帝スルタンは、私の死後も何度も遠征を繰り返し勝利を収めていった。
 バルカン、ペロポネソス、黒海沿岸の街は次々にオスマン=トルコ軍の手に落ち、いつしか皇帝スルタン征服者ファティーヒの名で呼ばれるようになった。
 皇帝スルタンと共に戦場に足を運ぶうちに、私がクレタで聞かされていたことすべてが真実ではないことに気付いていった。ほとんどが誇張されて教わっていたのだった。
 略奪という行為でさえ、イスラム教徒特有のものとは決して言えなかったのだから。
 戦争で負ればどんな国も否応なしに略奪の憂き目に遭う。そして皇帝スルタンは、攻め落とした街をやみくもに兵士の略奪にまかせたのではなかった。
 イスラムの法で定められている三日間の略奪が終わった後は、皇帝スルタンはそこを平和に治めるためにいつも心を配っていた。
 そしてその新しい領主は前任者に比べて寛大であることの方が多かった。
 でも、たとえたった三日間の略奪だとしても、敵兵に襲われ泣き叫ぶかわいそうな人達が大勢生まれることには変わりはなかった。
 私は、それが自分の身に起こったことと重ね合わされ、見るたびに胸が痛んだ。
 日常茶飯事という言葉で片づけてしまうには、それはあまりに痛々しく悲しかった。
 いつかこんな光景を見なくてもすむ日がやってくるのかしら?
 もし、そんな日が来るのなら、皇帝スルタンの生きているうちに来て欲しい。
 略奪の様子をじっと見守る皇帝スルタンの手がまた新たな血で染まり、それが彼を縛る鎖に重さを加えていくような気がするから。

     ◇◇◇

 その日の訪れを待たずに、皇帝スルタンは崩御した。

 五十歳を目の前にした、遠征中での突然死だった。
 皇帝スルタンの遺体は急ぎコンスタンチノープルに運ばれ、私の死後に建てられた石造りの宮殿の奥まった部屋に安置された。
 岬沿いに海に突き出る形で造られた宮殿は、オスマン帝国皇帝スルタンの居城にふさわしく広大な敷地を持つ壮麗なものだった。その中では二人の皇子による後継者争いが、すべての重臣を巻き込んで騒々しく繰り広げられていた。
 物言わぬ皇帝スルタンの亡骸はそんな騒ぎからは遠ざけられ、ひっそりと二人の従者だけが遺体を清めるためにその場に残された。
 北向きの寒々とした部屋で、人の良さそうな二人はせっせとその準備をしていた。
「あれっ?」
 皇帝スルタンのターバンを外そうと手をかけた従者が声を上げ、動きを止めた。
「どうした?」
 もう一人が彼の後ろからのぞき込んだ。
「見てみろよ。皇帝スルタンのお顔を」
「いやー、良いお顔だな。笑っていらっしゃるようじゃないか」
「こんなに穏やかなお顔は、見たことがないだろう?」
「最近は、特に難しいお顔ばかりなさっていたからな。きっとあれだよ」
 相手の問いかけるような視線を受けて、後ろからのぞき込んでいる従者はまた口を開いた。
皇帝スルタンは信心深いお方だったから、天使様がお迎えに来なさったんだろうよ。有り難いことじゃないか」
 彼がこう言って祈りの文句を唱えると、もう一人もそれに習った。
 二人のハーモニーが、少しの間部屋の中にこだました。
 そしてまた二人は一生懸命手を動かした。

「私を天使だと思った?」
 私は首だけで振り返り、斜め後ろを見上げた。
「イレーネは、イレーネだ」
 若々しい声が後ろから返ってきた。
 私の後ろには、私を抱え込むようにして皇帝スルタンが立っていた。私を愛してくれた頃の若い姿の皇帝スルタンだった。
 私の前で組み合わされた暖かい皇帝スルタンの手に、私はそっと自分の手を重ねた。
 私の背中は皇帝スルタンの胸に押しつけられ、うなじにそっと口づけを落とされた。
 彼の髭がこそばゆく、私は軽く笑って首を竦めた。

 私は皇帝スルタンを迎えるために、地上に残されたのだった。
 神は、私たちを裁くために天の高みから監視しているのではなかった。いつでも私たちを愛し、慈しんでくれる存在だったのだ。
 たとえ、神がどんな名で呼ばれていようとも。

 ふと思いついて、私はまた口を開いた。
「私たちはどこへ行くのかしら?」
「さあな。それは神のみぞ知ることだ」
「神様ってどの神様?」
 私は平然と応える皇帝スルタンを見上げ、少し意地悪な質問をした。
 皇帝スルタンは片頬に笑みを浮かべ、私を抱えたまま肩をすくめただけだった。
 それは、いかにも人を皮肉っているように見える皇帝スルタンの照れ笑いだった。

 私たちは、どこへ行くのかしら?

 その答えはすぐに私たちの前に現れた。
 天上から光が降りてきて、そっと私たちを包んでいったから。


                 ─ 終 ─