中東関連書籍書評


シリアは何故戦争するのか?(フレッド・ローソン著、英語)

 国家は何故戦争するのか?
 政治学の世界では、戦争に向かう国家の国内情勢に戦争の原因を求める方法は、主流ではない。とりわけ、悪化する経済状況打開のために対外軍事行動に打って出る、という分析は、一部のマルクス主義経済・政治学者以外ではもはやあまり用いられなくなった。
 
 シリアは、イスラエルや米国との対決のリスクを冒してまで、何故1976年6月にレバノン内戦に全面介入したのか?
 この疑問に対し、米国やイスラエルの研究者たちの解釈の主流は以下のようなものである。
「レバノン左派とPLOが軍事的にマロン派守旧勢力を粉砕して、レバノンが過激な左翼国家になると、必ずやイスラエルの介入を招く。シリアは自国の裏庭であるレバノンにイスラエル軍が介入してくるよりも、自国軍を用いてレバノンの現状維持を図る方がましだと考えた」
 つまり、純粋に安全保障上の計算から、シリアは介入に踏み切ったと言うのである。

 本書の著書ローソンは、果敢にもこの分析に対し正面から挑む。シリア国内の経済・治安情勢から、すべてを説明しようとするのである。
 まず経済状況について。
「1970年代前半に、シリアは計画経済の投資を石油関連の重工業部門に集中させた。その結果、それまでの主要産業だった綿・被服産業が衰退、綿花栽培地帯(東北部ユーフラテス川沿い)の土地を所有していたアレッポ商人や、綿花関連産業施設が集中していたハマの経済はこれで打撃を蒙った。また、イラクの原油輸出ルートの変更で、ホムスの石油関連産業も打撃を受けた。」
 これが原因で、70年代後半には、ムスリム同胞団に代表される反体制勢力が、アレッポ、ハマ、ホムスなどで政府機関を襲撃する事件が頻発、シリアの治安状況は不安定になっていく。
「中北部の治安状況悪化で、ダマスカスから北部沿岸のタルトゥース港や、ラザキア港へのアクセスは困難になった。しかし、頼みのベイルート港は内戦で利用出来ない状況になっていた。
 対外債務に喘ぐシリア経済は、レバノン資本に頼ってきたが、ベイルートの治安悪化で金融機関も機能しなくなっていた。
 また廉価なレバノン製の軽工業製品を輸入出来なくなったことも、シリア経済を圧迫した」
平たく言うと、シリアはベイルート港へのアクセス、レバノン資本や工業製品確保のために、レバノンの内戦を一刻も早く終結させようとして介入した…と言うのだ。

 結論的には、この議論はいかにも弱い。
 何と言っても、その介入に要したコストがまったく紹介されていないのである。もし軍事介入に要するコストの方が、国内経済再建が要するコストよりも低いなら、ローソンの議論は成り立たない。
 二つ目に、ローソンがここで挙げているシリア経済悪化の原因のいくつかは、イラクの原油輸出ルート変更やサウジによる財政支援打ち切りなど、純粋な外交問題である点だ。つまり、経済悪化の原因はやはり政治なのである。
 従って、シリアのレバノン軍事介入を説明するのに、イデオロギー的側面や、安全保障的側面を完全に無視するのはどうしても無理がある。
 
 しかし、1976年の対レバノン軍事介入と、当時のシリア国内情勢をリンクさせて考える契機を与えてくれる点は、この本の功績と言えるだろう。


レバノンをめぐる戦い(タビサ・ペトラン著、英語)

 著者ペトランは、メキシコ生まれ、ガーディアン紙等の特派員として中近東を中心に、世界各地で働いた。特にシリアとレバノンには1962年から1986年まで滞在したという。
 
 オスマン時代から内戦真っ只中の1986年までをカバーする、実に430ページの大著。1987年の著作ながら、巻末にはエドワード・サイードやノーム・チョムスキーが推薦文を寄せており、9.11事件以降の著作かと見まがう。

 この2名が推薦しているからには、相当偏向した内容だろうとは思ったが、それにしても参った。
 内戦の記述の中で、左派「レバノン国民運動(LNM、カマール・ジュンブラートPSP党首が率いた)」やPLOのことを、「進歩勢力」、それと敵対するマロン派政治勢力および民兵は、なんと「ファシスト勢力」、こんな表現が頻発するのだ。
 紛争当事者ならともかく、研究者や報道に携わる第三者が、こんな一方的な用語を使うようでは、客観的な視点を保てるわけがない。
 
 案の定、レバノン内戦の引き金をひいた1975年4月13日のアイン・ルンマーネ事件についても、こんな風に記述されていた。
「サブラ難民キャンプで開かれた集会に参加したパレスチナ人とレバノン人家族たちを乗せたバスが、テル・アッザアタル・キャンプに戻る途中、アイン・ルンマーネ地区で、周到に準備された待ち伏せ攻撃を受け、女性や子供、老人も含めた30人以上が殺害された」

 普通、どんなにパレスチナびいきの人でも、アイン・ルンマーネ事件について書くときは、この日、これより数時間前に起きた事件のことに言及するものだ。
 数時間前、アイン・ルンマーネの新しい教会の落成式典に出席したカターイブの党首、ピエール・ジュマイエルを狙った暗殺未遂事件が起きていたのである。通りがかりの車両からジュマイエルを狙ったのが誰かははっきりしない。しかし、当時カターイブなどキリスト教徒民兵とパレスチナ・ゲリラの小競り合いは頻発していたから、カターイブ側は暗殺未遂はパレスチナ・ゲリラの犯行に違いないと確信、パレスチナ・ゲリラの車両がアイン・ルンマーネに入って来るのを待ち構えて報復したのである。
 紙数に制限があってどうしても省略せざるを得なかったならともかく、400ページを超える大著で、ほんの数行の記述で済む暗殺未遂事件を省略するというのは、理解できない。パレスチナ側に不都合な内容は書かないという意図があるとしか思えない。

 何にせよ、中立でバランスのとれた歴史叙述とは何かということを考えさせてくれる点で、反面教師的な著作と言える。
 

1975年以来のシリアのレバノン介入(ルーベン・アビ・ラン、原著ヘブライ語、Westview Pressから英訳版が出ている)

 1975年にレバノン内戦が始まったとき、シリアにとっては長年の夢、レバノン併合の絶好の機会だった。
 しかし、シリアは介入をためらった。シリア軍の介入は米国やイスラエルの反発を招き、場合によってはイスラエルとの軍事衝突に発展しかねないためだ。そこでシリアは当面、伝統的な盟友パレスチナ・ゲリラや、カマール・ジュンブラート率いるレバノン左派勢力に対する武器供与など、間接的な支援にとどめた。

 そのシリアが、何故1976年6月に、シリア軍を投入して全面的な介入に踏み切ったのか?しかも、伝統的に関係が悪かったキリスト教徒を支援するかたちで?
 アビ・ランは、1976年1月以降の内戦の展開に注目して説明する。
 まず、この時期、キリスト教徒民兵が標的を、レバノン左派勢力ではなく、テル・アッザアタルなどパレスチナ難民キャンプに切り替えた。これは、
「この戦いはレバノン人の内戦ではない。レバノン人とパレスチナ人の戦いなのだ」
とアピールする目的で行われたことだが、そのまま推移すると、レバノン分割→キリスト教徒独立国家誕生へ向かう。欧米やイスラエルと深く結びついたキリスト教徒国家誕生はシリアの安全保障上、悪夢のシナリオだ。
 このキリスト教徒の「分離主義」を武力で粉砕すると言って聞かないジュンブラートも、もはやシリアにとってはお荷物だった。ジュンブラートもアラファトも、もしPLOに支援された過激な左派反米国家がレバノンに誕生すれば、米国やイスラエルが放置するはずはないという国際政治の論理を理解出来なかった。しかしアサド大統領はその危険を十分承知していた。
 ここに至り、アサド大統領は、キリスト教徒の側に立って、PLOと左派の野望を武力で粉砕する決心をした。
 では、いかにしてイスラエルの警戒を解き、介入を未然に防ぐか?
 シリアが進めた策は4つあった。まず、レバノンのキリスト教徒との提携である。PLOや左派の側に立ってシリアが参戦すればイスラエルは黙っていないが、キリスト教徒の側に立つならイスラエルも理解してくれる。次に、米国との調整。それから、レバノン南部におけるイスラエルの権益の認知…サイダ以南にはシリア軍は展開しない、ということを了解させる。最後に、イスラエルのショックを和らげるために、一回の大軍投入ではなく、PLA部隊やシリア歩兵部隊、最後に機甲部隊という具合に、段階的に兵力を投入した。

 アビ・ランによれば、米国が実質的にこのシリア・イスラエル「交渉」を仲介したという。この結果、シリア、イスラエル、米国三者間に
「シリア軍はサイダ以北に展開し、レバノンの治安を回復させる。その後速やかに撤退する」
という暗黙の合意が形成された。筆者は続ける。
「イスラエルと米国が理解していなかったのは、そのままシリア軍が居続けることになるという展開だった」
こうして、こんにちの安保理決議第1559号にまで連なる問題の種子が蒔かれたのである。

 先日会ったアマル関係者は、シリアが何故、これだけの国際圧力にも関わらず、依然レバノンに部隊を駐留させているのかという質問に対し、こんな風に答えた。
「一回出て行ってしまうと、次回戻ってくる口実を失ってしまうからさ」
 なるほど、確かに。
 1976年のような絶好の口実がいつでもすんなりと見つかるわけではないから、この見方には強い説得力がある。


サーディス・ワ・サブアイーン(「第76代」、アントワーン・サアド著、アラビア語)

 ナスラッラー・ソフェイル現マロン派総大司教の伝記。表題の「第76代」は、同総大司教が第76代目にあたるところからとられた。
 著者のサアドは、総大司教の日記を引用しながら、1986年の総大司教選出から、1990年の内戦終結に至るレバノン現代史を克明に描いている。

 冒頭、総大司教の選出に関わる諸勢力や各国の駆け引きが描かれる。興味深いのは、一般の印象と違い、キリスト教徒最大の民兵組織レバノン軍団(LF)はソフェイル総大司教と決して良好な関係にはなかったという点だ。ジャアジャアLF司令官にとって、ソフェイル総大司教は対シリア、対イスラム勢力という観点から、穏健過ぎた。逆にバチカンは、もっと融和的な聖職者がこのポストにつくことを望んだ。このような関係者の思惑は外れ、司教会議はダークホース的存在だったソフェイルを選んだのである。
 ソフェイルは総大司教に選出されると、イスラム教徒聖職者や、米仏、バチカン、露、アルジェリアなどを精力的に訪問し、内戦終結と国民融和に向けて努力する。その過程で、フセイニ国会議長や、サウジの代理人として動いていたラフィーク・ハリーリ現首相らとの関係を築いていく。しかし、再三の働きかけにも関わらず、内戦の事実上の当事者であるシリアだけは訪問しなかった。「シリアがレバノンへの干渉を止め、両国関係が本当に対等なものとなるまではシリアを訪問しない」という総大司教の原則的立場は、こんにちも変わっていない。

 1989年11月5日、ターイフ合意に反対し、アウン将軍支持を叫ぶ学生デモが、無防備の総大司教府に乱入した。
 学生たちは徹底抗戦を叫ぶアウンに煽られ、ターイフ合意を売国行為だとみなし憤慨していた。これに対し、総大司教は、流血を止め、レバノン国家の分割或いはシリアへの併合といった事態を避けるには、国際社会が後押しするターイフ合意を受け入れるほか選択はない、と考えていた。興奮した学生たちの暴力を危惧してLFは警護を申し出たが、総大司教はこの申し出を断った。
 学生たちは教会内の聖像を引きずり倒し、アウン将軍の肖像を代わりに掲げた。そしてアウンの肖像に接吻するよう総大司教に強要するなど、筆舌に尽くしがたい狼藉を働いた。
 サアドは、このデモに参加し、乱暴を働いた青年の口で、この時の状況を克明に語らせる。
 青年の証言はこう続く。
「あの時の自分は23歳で、分別が無かった。今はあの時自分がやったことを恥じている。内戦が終わり、とある信者グループの一員として総大司教に謁見する機会に恵まれた際、自分は総大司教の耳元で囁いた。『あの日のデモに自分も参加していました。今ではあの時に自分がしたことを悔いています』。
総大司教は微笑んで、『あの日のことは忘れました。貴方はまだそんな古いことを覚えているのですか?』それだけ言うと、また隣の人との会話に戻っていった」。