レバノン情勢   



自由で多様な言語空間

 標高3,000メートルを超える山が聳える風光明媚なレバノンは、かつて中東のスイスと表現され、首都ベイルートは中東のパリと称された。アラブ諸国のオイルマネーが流れ込んだ1970年代初頭、レバノンの繁栄は頂点に達した。
 しかしこの繁栄は短命に終わった。1975年から1990年まで続いた泥沼の内戦により、国土は荒廃した。この期間に目覚しい発展を遂げた湾岸諸国は言うまでも無く、近隣のシリアやヨルダンと比較してさえも、レバノンはインフラ整備の面で立ち遅れてしまった。ベイルートでは銃弾で蜂の巣状になったビルの残骸など、今でも内戦の傷跡が随所に残っている。
傷跡は外面に留まらない。東西ベイルートを分断していた壁は取り払われたが、内戦終結後15年になろうとする現在でも、人々の心理の中では依然として高い壁が聳えている。東ベイルートのタクシー運転手は西ベイルートに入るのを逡巡するし、逆もまた同じである。どんな政治的対立も容易に宗派間の対立に転化してしまうし、宗派間の憎悪を煽る様な犯罪も後を絶たない。
狭隘な宗派主義や、地縁や血縁を過度に重視する偏狭な社会は、しかし皮肉なことにレバノンの国際化をもたらした。レバノン国内の隣人から孤立するグループが、広く海外に進出して外国との絆を強め、その国の文化を吸収していったからである。マロン派がフランスと、シーア派がイランと、という具合に。
また、圧倒的多数の宗派グループが居ないため、宗派ごとに政治権力を分配するシステムが生まれた。大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派に割り当てるといった不文律である。どの宗派に生まれるかによって、かなりの程度就業機会などが定められてしまうのだから、このシステムは一面では極めて非民主的と言える。しかし同時に、一つの宗派やグループが他を圧して支配する機会を与えず、結果的に言論・表現の自由などを保障する民主的な伝統つくりに貢献してきたのも事実なのである。
こんにちのレバノンには、テレビ局がいくつもある。国営放送は一局だけで、残りはすべて民放である。キリスト教徒反体制派の系列を引く局、首相が所有する局、その政敵が所有する局、国会議長が所有する局、カトリック信者のための局、ヒズボッラーの局などである。いずれのテレビ局も、連日政治家など渦中の人物をスタジオに招き、ゲストと討論させ、時には厳しく追及する。アラブ世界では極めて稀な、オープンで自由な言語空間がここにある。

レバノンをとりまく国際情勢

1975年にパレスチナ武装勢力とキリスト教徒民兵組織の衝突によりレバノン内戦の火蓋が切られた。翌年、軍事的に追い詰められたキリスト教徒勢力を助けるかたちでシリア軍が介入し、内戦第一期は終了する。しかし程なくして今度はそのシリア軍とキリスト教徒民兵との衝突が起きた。そこにさらにイスラエルやイラク、革命イランも介入し内戦は泥沼化する。東西ベイルートのみならず、国土全体の分断は固定化し、各地で宗派間、あるいはキリスト教徒同士、イスラム教徒同士の仁義無き殺戮が果てしなく繰り広げられた。1990年10月、シリア軍は最後まで抵抗を続けるアウン将軍を国外に追放し、内戦はようやく終結した。そしてシリアの強い影響下で、歴代の政府が組閣されてきた。多くのレバノン人は、現在もレバノンは実質的にシリアの支配下におかれていると考えている。
そのシリアの国際的地位は、イラク戦争以後のこんにち、極めて微妙になっている。米国はシリアを「悪の枢軸」にこそ含めなかったものの、今年になって「シリア問責法案」に従い、経済制裁措置の一部発動に踏み切った。あまり知られていないことだが、この問責法案の正式名称は「レバノン主権回復」という語句も含む。シリアによるレバノン実効支配終焉を目指す、在米レバノン人のロビー活動の結果である。
ただし、2004年6月時点では、シリアと米国の関係が今後どうなるのか、予測することは困難になっている。パレスチナにせよ、イラクにせよ、ブッシュ政権の中東政策が行き詰まってしまっているし、9月にブッシュ大統領が再選を果たすかどうかもわからない。いずれにせよ、小国レバノンの国際的立場がシリア・米国関係に翻弄されるという1990年以来の図式は、しばらく続きそうだ。

レバノン内政事情

 レバノン内政は複雑で難しい。対立軸が幾つもあり、錯綜しているせいだ。
 パレスチナ紛争などと比べてみれば良くわかる。
 たしかにイスラエル側内部にも、右派と左派の対立があったり、世俗勢力と宗教勢力があったり、またパレスチナ側でもファタハとハマースの対立があったりする。しかし、パレスチナ紛争の場合、大抵の問題はイスラエル対パレスチナの構造で理解可能だ。
 レバノンの場合はそうはいかない。
 例えば宗派対立という対立軸の場合。
 イスラム教を二分するスンニ派とシーア派の相互不信は深刻であり、権力闘争も熾烈である。
 キリスト教徒の場合はさらに複雑だ。
 概して親欧米でアラブ・アイデンティティの希薄なマロン派に対し、ギリシア正教やギリシア・カトリック社会は、汎アラブやシリア民族主義の思想家、活動家を輩出している。
 従って、宗派対立という軸ひとつをとっても、「イスラム教とキリスト教の対立」と単純化して説明するのは不可能に近い。
 この他、大統領と首相の対立も熾烈で目下内政上の争点になっている。
 親シリアか、反シリア(とまではいかずとも、少なくともシリアの実効支配は終わらせたいとする勢力)の対立も見逃せない。パレスチナ難民をめぐる問題もあるし、最近では中東全域の例に漏れず、スンニ派原理主義勢力をめぐる問題も要注意である。
 ヒズボッラーは尖鋭的な反イスラエル組織として、中東和平問題の主役のひとつといえるが、同時に内政上はシーア派を代表する政治組織であり、また貧困層を代表する組織としての顔も持つ。
 レバノンはその複雑な宗派構成故に、「モザイク社会」とよく形容されるが、まさにその通りで、各地で、相互に連関のない問題がいくつも同時並行的に動いている。それぞれの問題は、しかし掘り下げていくとどこかで結びついていたりする。或いは、本来は純粋に個人と個人の政治権力配分をめぐる対立なのに、それがすぐに宗派問題に転化されてしまうような危うさも秘めている(大統領と首相の対立が好例)。

 こんにちのレバノン政治を理解する鍵のひとつは、1975年から1990年まで続いた内戦だ。
 特に内戦後期から末期にかけて(ジュマイエル政権が出来た1982年終わりころから)の歴史は重要だ。こんにちのレバノン政治の主要プレーヤー(ヒズボッラー、ハリーリ首相、レバノン軍団、アウン将軍派など)はいずれもこの時期に歴史に登場し始めた。一方、それまでの主要プレーヤー(カターイブ党、シャマウーン一族、PLO、イスラエルなど)は、この時期までに舞台を譲ってしまった。

 このサイトでは、内政上の事件を、以下のようなトピックに分類して解説する。

1.2004年大統領選挙をめぐる対立
2.ヒズボッラーと南部情勢
3.シリアとキリスト教徒諸勢力
4.パレスチナ難民問題
5.スンニ派原理主義組織の動き
6.その他

    2005年国政選挙
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