中東生活雑感



 このページでは、政治から離れ、筆者(編集人)の日常生活の中から、様々な経験を切り出してお伝えします。当然、徹頭徹尾私事について語ることになりますがご容赦下さい。筆者の限られた経験を通じ、読者の皆様がレバノン生活を擬似体験していただければ素晴らしいと思っています。
 なお、このページを更新する時は、大抵本拠地ブシャッレを離れ、他の町や村を訪ねた時です。テレビやインターネットへのアクセスも出来なくなるので、他のページの更新はサボることになりますが、その点も御了承下さい。

珍客闖入(2006年10月3日)

  10月3日の昼下がり。
(株)ベイルート通信社ベイルート事務所のデスクにて執務中の筆者(編集人)は左肩に液体がかかったのに気づいた。見ると白っぽく濡れている。よく見れば、デスクの縁と背後の壁にも同じ白い液体がかかっていた。

 先日ブシャッレで左官屋さんを頼んで家の壁を塗りなおしてもらったが、その時のペンキそっくりの濃い白色だ。風通しを良くするため、左手の玄関の扉を開け放してあったから、そこから飛んできたのか、と思い外を眺める。
 誰も居ない。それに、液体は斜目の角度で室内に入りこんだ形跡はなく、まるで真上から落ちてきたようにしか見えない。
 壁のペンキが剥げたのか、と思って真上を見上げたが、すっかり乾いていて湿った部分は一点もない。

 家内が冗談めかして
「鳥の糞じゃあ無いの?」
と言うが、デスクの位置はベランダから数メートルも奥まったところにある。そんなところまでわざわざ入り込む鳥が居るとは信じにくいし、それにいくら仕事に気をとられていても、筆者も鳥が来たなら気づくはず。
 どうも釈然としない気持ちだったが、とりあえずまた仕事に戻った。

 約10分後。
 筆者のデスクから見て右側のトイレに向かった息子(3歳5ヶ月)が、脱兎のごとく執務室に駆け込んで来て、ソファに腰掛けていた家内に
「お母さん、お母さん、ハマームハンマームに居とる」
と、関西弁とアラビア語のちゃんぽんで「通報」した。興奮するとそうなる。
 「ハマーム」はアラビア語で鳩。「ハンマーム」はトイレのこと。
「トイレに行ったら、何とそこに鳩が居る!」
と言いたいのである。
 
私は、しかしそうは受け取らなかった。まだ日本語もアラビア語もかなり無茶苦茶な文法でしゃべる息子のことだから、「ハマーム」と「ハンマーム」を混同したのか、と思ったのだ。
「あのな、ハマームはハトポッポのことや。ハンマームはトイレのこと。わかってんのか?」
と諭しかけた矢先。
 今度は隣の部屋でテレビを見ていた娘(1歳半)が絶叫、泣きながらペンギン歩きで執務室に逃げてきた。泣き方が尋常でなく、何かに怯えているのは明らかだ。

 そちらを見ると、娘の後ろに体長25センチ程度の黒い影が。羽ばたこうとしたので、それが鳥らしいのがわかった。このあたりに良くいて、たまにベランダに降り立つ山鳩とは違うらしい。こいつが筆者の左側の扉から不法侵入、筆者に糞をかけたまま右手のトイレ方向に飛んで言って、そこで息子、娘と遭遇したというのが真相だったようだ。




 台所に逃げ込んだこの鳥としばらく大捕り物をした挙句、何とか取り押さえた。
 一見するとウズラか雉のような、茶褐色に黒の綺麗な羽毛が印象的だ。ツグミかイソヒヨドリであろうか?詳しい方がおられたら是非教えていただきたい。

 最近ブシャッレでアリジゴク採集とトカゲ捕りにはまっている息子は珍客の闖入に大喜び。鳥が鋭い嘴を突き出し、足の爪で引っかこうとするのに顔をぐいぐい近づけて覗き込もうとするから危なっかしい。
 娘の方は数日前、友人宅のハムスターに指を突き出して咬まれ、救急病院に連れて行く騒ぎになったせいか、この鳥を最初は怖がって母親にしがみついて離れなかった。しかし父親と兄が二人してご機嫌で、翼を広げたり、一緒に写真におさまったり楽しそうにしているのを見て、そのうち自分でも近寄って「なでなで」するまでに。






魚介三昧(2006年2月17日)

 ブリストル会議が一ヶ月以内にラフード大統領を退陣に追い込むことを宣言、一気にレバノン情勢が風雲急を告げた16日。
 膝上まである今年一番の積雪をかきわけ、ようやくブシャッレの自宅に戻った筆者(編集人)が何をしていたかと言うと、こんなことをしていたのです。



 遠方より来たる友が、筆者の同類で魚介類に目がなく、何でも裁いて食べてみたい人だったので、二人してトリポリの漁港に買出しに行って来ました。写真(上)はシャコ。体長20センチほどの堂々たる体格である。シャコは食べにくいせいなのか、姿が不気味だからなのか、売れ残ることが多いらしく、活きのいいやつをいつも叩き売りしている。この日も最初は水揚げ分全部(2キロ分くらいあった)を12,000リラ(800円程度)で持っていけ、と行っていたのがどんどん安くなり、最後は6,000リラまで値下げ。



 最近はお魚博士を目指す息子(2歳9ヶ月)の教育用に、沢山の種類を少しずつ買うようにしているが、この日はいろいろ刺身にしてみたい友人の意向とも合致、空前のバリエーションに。写真は右上から時計回りでタコ、ワタリガニ、シタビラメ(ムニエルだけでなく刺身もなかなかいける)、ヤリイカ、イワシ、シャコ、スミイカ(刺身の他、イカ墨スパゲッティにする)、そして左上はウツボ。



 本サイト初公開ブシャッレの我が家の台所と愚息。スミイカの甲をウツボの口に突っ込んでいる。普通の玩具だとすぐに飽きてしまうのに魚介類を与えると何時間でも遊んでいるので助かる。後ろで魚を裁いているのが筆者。



晩夏の三点盛り(2005 年9月6日)



 ほぼ一ヶ月ぶりにトリポリ漁港へ買出しに行った。
 目当ての活けダコは無かったものの、他はなかなかの品揃えだった。上の写真は左上がワタリガニ、右上の巨大な胸鰭の魚はホウボウ、下が戻りカツオ。
 ワタリガニはほとんど一年中獲れるが、旬は冬。当たり外れが激しく、夏でも上品にあたることもある。
 焼きガニも旨いが、やっぱり王道はボイル。塩水で20分くらい茹でる。
 買い方のコツはメスを選ぶこと。雄と雌の違いは甲の裏側の「ふんどし」の形でわかる。「ふんどし」が丸みを帯びていれば雌(そこに卵を抱える)。雄は「ふんどし」が尖っている。この他、雄の方が手が長い。
 雌でも卵が外に出てしまっている場合はダメ。鮮やかなオレンジ色の卵巣がぎっしり甲に詰まっているのが理想的だ。ちなみに今日仕入れた三匹のうち、二匹までは卵巣も手足の肉もぎっしり詰まって絶品だった。
 ホウボウを地元の人は飛行機や凧を意味する「タイヤール」と呼んでいる。体のヌメリをとり、ウロコをおろしてから三枚に下ろす。結構面倒だが淡白な白身の肉は刺身が美味しい。ムニエルや唐揚げにしてもいける。1キロ5,000リラ(360円程度)と、白身の魚としては最もリーズナブル。しかし下ろすのが面倒なせいか、あるいはどぎつい赤と青の外見が敬遠されるのか、スーパーではまず見かけない。
 カツオはやっぱりカツオ。タタキが旨い。ポン酢とおろし生姜があれば、それだけで十分おかずになる。
 ちなみに今日はカツオ、カニを三匹ずつ、ホウボウを一匹買ってしめて8,000リラ(600円程度)也。
 ベイルートのシーフード・レストランへ行けば、カマス(レバノン名マッリーフェ)をニ、三匹揚げて(レストランの調理法はほとんど揚げるか焼くか、どちらしかない)もらったくらいで簡単に10ドルは超える。当然それに付け出しや飲み物、消費税やチップもかかり、最低でも一人30ドル程度の出費は覚悟した方がいい。


フマキラーのセールスマン(2005年9月2日)

 ベイルート・アメリカ大学の図書館で、昔のことを調べるためにナハール紙のマイクロ・フィルムを検索した。
 1972年の9月10日版である。前日にダマスカスがイスラエル軍に空襲され、200名を超える犠牲者が出たため、この日はトップから数ページにわたり、もっぱらそのニュースと写真が紙面を埋め尽くす。
 5、6ページ目まで進んだところで、突然場違いなアジア人風のビジネスマンの顔写真が現れた。小さな囲み記事に添えられている。
 きちんと背広を着こなしたその紳士が醸し出す、あまりに日常的な雰囲気は、それまでの紙面の騒然とした雰囲気と好対照になっていた。
「何なんだ、いったい、この人は」
と思って見出しに目を通すと、F、U、M、A、K、I、L、A・・・そう、殺虫剤の「フマキラー」、と書いてある。
 フマキラーの営業部長の「トダ・セイジ」氏がレバノンにやって来るので、代理店の店長らが歓迎会を開く、という記事だった。
 
 現在でも、トヨタや日産、カネボウなど、レバノンに市場を持つ日本企業の幹部がベイルートを訪問することはたまにある。
 しかし、パレスチナ・ゲリラの全盛期で、そのゲリラをめぐりレバノンとその周辺諸国の情勢が緊張に包まれていた34年前にも、同じように日本企業から人がやってきて、殺虫剤を売っていた、とは…何とも奇異な思いにとらわれてしまった。


セミエビの活け造り(2005年5月20日)

 ミカーティ議員が首相指名を受けた4月15日、筆者(編集人)は新首相の地元トリポリ港に水揚げされたフグを撮影。
 もの珍しいだけではなく、つぶらな瞳が実にチャーミングだったので本HPのトップに写真を掲載した。しかしほどなく一部愛読者の皆様から
「生臭く匂ってきそう」
と抗議を受けたので、引き下げることに。
 しかし美食の国レバノンを知ってもらうためにも、このページに遷って生鮮魚介類の紹介は続けます。


 まずは高級魚ヒラメ(左)。文字通り「まな板のヒラメ」で、さばかれるのを待っている。
 地中海ではフランス料理で有名なシタビラメはよく獲れるが、日本でよく見かけるこのタイプは珍しく、トリポリの魚市場でも滅多に見かけない。
 刺身にしたが淡白でコリコリした食感は、まさに高級魚。これまで地物のタイ、クロダイ、スズキ、サバ、アジ、サヨリなどいろいろ刺身で試してみたが、断然ヒラメが旨かった。ちなみに写真のヒラメは重量約1キログラムで900円程度。

 続いて20日に購入した「海のバルタン星人」ことセミエビ(右)。高級スーパーなどでたまに手に入るが、大物だとキロあたり3,000円もしてなかなか手が出ない。
 しかしトリポリでは今が旬なのか、最近水揚げが増えて、キロ1,700円くらいまで値下がりした。写真のセミエビは小ぶりの刺身皿からはみ出るくらいのサイズで、かなりボリュームがあるが一匹500円程度。生命力が強い生き物で、購入後4時間経っても元気に動き回っており、文字通り「活け造り」される羽目に。
 醤油によくなじむ甘味たっぷりの身はイセエビそのもの。なお隣のビールはレバノンが誇る「アル・マザ」。サッポロやエビスに勝るという人も居る。
 
 
爆弾の恐怖(2005年4月2日)

 3月30日夜。
 3月も終わりとなれば、ベイルートなど海岸地方は春真っ盛りで、暑過ぎず、寒過ぎず、快適な気候が楽しめる。日本では教育機関が春休みのこの時期、レバノンでもイースターを挟む観光シーズンで、例年なら深夜までカフェテラスが賑わうはずなのだが今年は違った。
 この夜、また爆発事件が起きるのではないか、という噂が広まっていたからだ。
  シリア軍撤退が始まってから、18日、22日、26日夜、と規則的に四夜ごとに、商業地域や工業施設が狙われている。26日から四夜目と言えば、30日夜だ。

 昨年9月の大統領任期延長以来、レバノンの政治的緊張は着実に高まっていた。
 10月のハマーデ元経済・貿易相暗殺未遂をはじめ、ジュンブラート派とハリーリ派に対する圧力・脅迫が次々と加えられたが、市民が巻き添えになるような事件はほとんど起きなかった。だから深夜までダウンタウンやモノ通りのレストランやカフェテリアで友人たちと談笑する社交的・享楽的なライフスタイルを変更する人は少なかった。

 それが一変したのは、2月14日のハリーリ前首相暗殺事件である。
 ハリーリは内戦後のレバノンの経済復興を体現する存在だった。そのハリーリが、レバノンでも最高級のフェニキア・ホテルの目と鼻の先で爆殺された。ハリーリの同僚、警護チーム、それに何の罪もない通りがかりの人たち19人も巻き添えとなって殺され、生身の人間が燃えながら車から脱出しようとしてあがく地獄図が生中継された。2002年にアラブ・サミットとフランス語圏諸国サミットの会場となった絢爛豪華なフェニキア・ホテルをはじめ、周辺に立ち並ぶリゾート・ホテルのガラス窓は一瞬にして無残に砕け落ちた・・・この日のニュース映像が、泥沼の内戦の記憶をひきずる人々の心理にどれほど深い傷を及ぼしたかは、想像に難くない。内戦後の急速な復興開発、経済繁栄はこれほど脆いものだったのか・・・身震いしながら人々は映像に見入った。
 
 人々がおののくのは、他にも理由がある。
 ほとんどの人は、誰がやったかを知っているのだ。そして、その「誰か」を突き止めるための捜査がなされず、証拠は揉み消されることも知っている。犯人は今回も野放しにされ、従って、将来また確実に同じ事件が起きることも知っている。

 2003年6月、ハリーリ首相(当時)が所有するムスタクバル・テレビが深夜にミサイルで砲撃される事件が起きた。その2ヶ月前に改造されたばかりのハリーリ内閣で、ラフード大統領と首相の対立が一向に緩和されず、政局が完全に行き詰る中で起きた事件である。
 ハリーリは
「誰がやったことかはわかっている。メッセージは受け取った」
とメディアに語り、翌日から閣議で次々と大統領に譲歩した。一方、当局はいつものように、「イスラム原理主義者」の仕業だとして、数名を逮捕して捜査は打ち切られた。
 2004年10月にハマーデ元経済貿易相が自動車爆弾で狙われ、危うく一命をとりとめた時も、PSPのファイヤード事務局長はメディアに対し、
「これは我々(ジュンブラート派)に対するメッセージだ。メッセージは理解した」
と語った。その後、サフィール紙が犯人をおさめたビデオの存在をすっぱ抜いたが、その時も法務省が乗り出して、メディアによる追求は打ち切られた。

 それから半年が経過した。
 状況は劇的に変わった。米仏を中心に、国際社会がシリアとレバノン政府に凄まじい圧力を加え、情報機関も含めてシリア軍はレバノンからの撤退を開始した。
 ハリーリ暗殺を機に、宗派を超えて真相追求を求める声が高まった。
 これまで体制派だった政治家たちの間で、「転向」が相次ぎ、もはや国会内でも体制派の圧倒的優位は崩れ、折半するほどになっているという人も居る。
 フィッツジェラルド調査団の報告書は
「レバノンの捜査当局には真相解明の意思も能力もない」
と喝破した。これに快哉を叫んだ人は少なくないだろう。
 国際捜査団派遣と、各治安機関トップの更迭も、もはや後戻りのきかない流れになっている。だから、ほとんどの人は一連の爆破事件を
「最後のあがき」
であるととらえている。歴史を逆戻しすることは無理だ、と考えている。

 ・・・とは言え、爆弾は怖い。
 一連の爆発事件が始まって以来、軍はものものしい装備で警戒態勢を敷いており、場所によっては戒厳令下を想起させるほどだ。
 ホテルや商店街の歩道脇には、路上駐車を禁じる黄色のテープが目につくようになった。これまでの爆発のほとんどが路傍に仕掛けた自動車爆弾によるものであるからだ。
 ショッピング・モールに行けば地下の駐車場に入るまでに車は内部や下部、トランクまで開けて徹底的にチェックされるようになった。
 各地で自警団が組織され、ここブシャッレでも青年ボランティアが交代で夜に出入りする人や車両をチェックする。武器の闇市場が活性化しているという噂もあるし、警備会社は引く手あまたになっている。
 筆者(編集人)は以前テルアビブで暮らしていたころ、自爆テロが起きる度に、バスに乗ったりレストランに入る気がしなくなったものだ。現在のベイルートの雰囲気はかなりそれに似てきた。

 30日の夜、恐れていた爆発は起きなかった。
 ほっと一息をついたのも束の間、2日後の4月1日夜、またブルンマーナで爆破事件が起きた。


或る友人の死(12月8日)

  三週間ぶりにレバノンに戻った筆者(編集人)を待っていたのは、友人Jの訃報だった。

 Jは家内の義理の姉の弟にあたり、筆者より3つ若い35歳。ロシア人の夫人との間に3人の子供が居る。一番下はまだ1歳だ。
 
 Jは家内の親戚であり、筆者にとってはレバノンにおける最初の友人の一人であり、恩人でもある。
 
 7年前にレバノンを旅行中に今の家内と知り合った筆者は、当時イスラエルに勤務していた。
 外交関係が無く、形式的にも、実質的にも戦争状態にあるイスラエルとレバノンの間で交際を続けると言うのは、並大抵の事では無い。例えて言うなら、日本と北朝鮮の間で民間人同士が交際するようなものだ。日本と北朝鮮の間では、少なくとも戦闘状態は無いのだから、イスラエル・レバノン間の方がもっと複雑かもしれない。
 何しろ連絡をとる手段が限られている。
 電話はイスラエルからは出来るが、レバノンからは出来ない。
 出来たとしても、家内の両親には秘密の交際だったから、相手の実家に電話するわけにもいかず、家内は誰かから受信用に携帯電話を貸してもらうしかない。
 また筆者がイスラエルで当時使っていた公用旅券ではレバノンには入国出来ない。
 そんな状況だったから、連絡を保つには中に入って協力してくれる人たちがどうしても必要だった。

 最初の理解者で、全面的に協力してくれたのは、家内の長兄夫婦だった。
 クラシック音楽が趣味の筆者は、国立レバノン高等音楽院のピアニストである長兄夫婦とは初対面から意気投合した。二人は、筆者らが結婚にこぎつけるまでの3年近くの期間、秘密の交際を続けるよう惜しまず協力してくれた。
 Jはこの長兄夫人の弟である。
 
 長兄夫妻の紹介で知り合ったJは、母親がニュージーランドへ移民したレバノン人の子孫だったため、ニュージーランド国籍を持っていた。夫人はロシア人。この夫妻と筆者、家内が連れ立っていると、日・露・レバノン・ニュージーランドという4カ国人が連れ立つことになるわけだ。
 Jの魅力は、この国際性と、異文化に対する感受性の高さだった。マロン派ばかりの山岳地帯に住む家内の一族が、ともすれば閉鎖的な傾向を見せるのに対し、カジノがある観光都市ジュニエに住むJやJの姉は、異文化に対してオープンだった。知り合って間もなく、Jが当時の幕内力士のしこ名をほとんど諳んじているのに驚かされたものだ。Jは熱烈な相撲のファンで、ユーロ・スポーツ・チャンネルで幕内後の取り組みは欠かさず見ていた。
 Jと筆者は年齢が近いこともあってすぐに打ち解けた。Jは車を持たない筆者と家内を、あちこちに案内してくれた。そして、結婚を前に筆者が家内とじっくり結婚観や家庭像について話し合う時間もつくってくれた。Jが居なければ、筆者たちが多くの障害を乗り越えて結婚することは出来なかったかもしれない。
 Jや、どこか幼いが陽気で朗らかなJ夫人と過ごす時間は楽しかった。
 しかし、いつも立派な車に乗って、気前良く買い物をするJが、いったいどうやって生計を立てているのか、よくわからなかった。

 イスラエル勤務を終えて、拠点をレバノンに移した筆者は、長兄夫妻に伴われて家内の実家を訪問し、結婚の承諾を得た。
 カトリックの結婚式には新郎・新婦にそれぞれ一名ずつが付き添う。
 家内の付き添いは、家内の実姉が努めた。筆者はJに付き添いを頼んだ。
 結婚式のミサの前に、新郎と付き添い人は罪の告解を求められた。
「えーっ?この俺が告解?困ったなー。告解なんて10年以上していないよ」
信仰深いブシャッレに来たJは明らかに周囲から浮いていた。
 ついでに、式のために新郎とお揃いで新調した黒のスーツも、Jの肥満体にはフィットしなかった。その姿はどこか滑稽で、Jを見ていると、異国の地で一生一度の式を控える筆者も、緊張がほぐされる思いをした。
 
 結婚後、筆者夫妻の拠点はベイルートになった。そのうちJ夫妻には子供が立て続けに生まれ、だんだんと連絡が途絶えがちになった。
 長兄夫人にはブシャッレで顔を合わせる度に、
「Jは元気でやっていますか?」
と尋ねた。最初のうちは
「シリアに観光客を連れて行って不在のことが多い」
と言う答えが返ってきた。しかし、そのうち
「ヨルダンに行って帰って来ない」
と言う答えに代わった。何か事情があるのだろうと推測は出来たが、彼女は明らかにそれ以上語りたくない様子だったので、詮索するのはやめた。
 家内が長兄や他の親戚から聞いたところでは、Jは不動産投資に失敗して多額の借金を背負い、夜逃げ同然にレバノンを離れてしまったのだと言う。しかし、3人の幼子と、外国人の夫人、老いた母親を残して、Jはレバノンに出入りしているのかどうか、それは家内も親戚たちにもわからなかった。

 筆者が今回日本に帰国している間に、Jがイラクで死んだという報せが一族のもとに届いた。
 Jは米軍の通訳の仕事で、こっそりとバグダードに入っていたらしい。そこから姉のもとに
「月額6千ドルになる結構な仕事だ」
と電子メールを送った翌日、自動車爆弾に遭遇した。爆弾は小さく、殺傷能力は低かった。Jと同行していた5人はかすり傷で済んだと言う。
 不運だったのはJ一人だった。 
 爆弾の破片が首筋後ろから右前頭部に向かって貫通し、即死したらしい。

「まさか、嘘だろ、間違いに決まっている。誰か遺体を見たのかい」
と信じない筆者に、家内は
「間違いないわ。遺体はベイルートに搬送されて、姉と夫人が対面したから」
と言った。

 4年前、結婚式のために仕立てたあの黒いスーツを着、明日筆者らは弔問にジュニエを訪れる。


レバノン停電事情(10月6日)

 10月3日ごろから、レバノン全土で電力供給が滞り始めた。
 今回の停電の理由は、イスラエルの空爆ではない。火力発電所にタンカーで届けられたディーゼル燃料が、輸入規格を満たしていないという情報があって、その検分に時間がかかったというのが国有電力会社「レバノン電力」の説明である。
 ベイルートを始め、各地で電気が配給制になり、ひどい場所だと一日にほんの数時間しか電気が来ないという。
 4日の夜のNTVニュースは、十時間ぶりに電気が戻ったことを喜び、わざわざ人を集め、ケーキを買ってお祝いする一家の映像を放映した。
 「せーのー」
と、テレビカメラの前で子供がケーキにナイフを入れようとしたその瞬間!! また停電してしまった。電力が戻ってから、次の停電まで、その間ほんの数分。せっかく調達したケーキも無駄になって、この人たちの怒らまいことか。テレビカメラに向かって
「この国の役人はみんな大泥棒だ」
と口々に罵声を浴びせた。

 そのニュースの時間までに電気は復旧しなかったので、怒っている本人たちは、このニュース映像を見れなかっただろう。
 しかし筆者(編集人)は腹を抱えて笑いながら見ていた。
 ブシャッレも、停電に悩まされている点は同じなのだが、我が家と隣の数軒だけは例外なのだ。我が家の送電線は、眼下のカディーシャ渓谷にある水力発電所に直結しているため、滅多なことでは停電しないのである。
 レバノンでの生活を始めた4年前は、イスラエル軍がトリポリ近くの変電所を爆撃したため、慢性的な停電に悩まされた。
 しかしその後、ベイルートで外交官生活を始めると、自宅にも職場も、発電機が完備していたので、ほとんど市井の人々の苦労を経験せずに済んだのだ。
 おかげで、ほんの昨日までは、停電の悪夢をすっかり忘れてしまっていた。当然、備えも何も無い。

 5日の夕暮れ時ベイルートの事務所に着いた。
 道中、ほとんど街灯が点いていないので、
「あ、また停電だな」
と気付いたが、事務所に入るとテレビもエアコンも動く。ブシャッレの家内に電話して、
「やっぱりこのアパートを借りて良かったよ。ちゃんと発電機が備わっているみたいだ」
と報告してから、ニュースを見た。
 やってるやってる、どのチャンネルをひねっても、今日もトップ・ニュースは停電問題だ。テレビカメラに向かい、誰もが口を揃えて
「こんな政府は早く辞めてしまえ」
「レバノン電力は、あれだけ予算をくっていながら、どうしてまともに電気を送れないんだ」
「今どき、アフガニスタンだって電気は来ている。どうしてベイルートに電気が来ないんだ!!」
みんな口々に、そう罵る。
 と、その時。
 ブチ、っという鈍い音とともに、突然闇が。こんな安アパートで、発電機が完備している筈は無かった。甘かったのである。
 よちよち歩きを始めたばかりの息子に邪魔されることもなく、ニュースをモニターし仕事に専念出来ると思って事務所を借りたのだが、これではお手上げだ。ニュースも見れないし、コンピューターも使えない。
 冷蔵庫が動かないのだから、数日分のつもりで買ってきた肉も牛乳も、もはや使い切ってしまうしかない。アパートの入り口の非常灯まで、フライパンを抱えて時折火の通り具合を確認しながら、手探りで肉を焼いた。
 この停電は結局10時間続き、今朝6時になって突然室内灯とエアコンが動いて眠りを覚まされた。
 一旦眠りに戻ったが、2時間後には隣のビルの発電機の轟音に叩き起こされた。また停電したのである。

 レバノンの停電は、構造的な問題だ。レバノン電力は莫大な赤字を抱え、レバノン政府がこの赤字を補填して自転車操業している。その補填額は、例年レバノンの財政赤字の3分の1にも及ぶ。電力問題はレバノン経済の癌と言っても過言ではない。
 競争相手が居ない独占供給体制の国営資本が、どうしてこれほどの負債にあえぐのか?
 原因のひとつは盗電・料金未払いだ。
 手先が器用なレバノン人のこと、勝手に配線して電力を盗むなど朝飯前。ベイルートでも、農村部でも、ちょっと人口が密集している地域に行けば、ジャングルのように電線が柱から柱へ、家から家へと配線されている。
 たちの悪いことに、地域の有力者たちも人気とりのためなのだろう、これを黙認するようなところがあり、レバノン電力の職人が盗電線を切断したり、メーターを取り付けに行くと、住民に襲われるので、警察や軍が出動しない限り実力行使も出来ない。
 またパレスチナ難民キャンプの住民も電力料金を支払っていないが、これも極めてセンシティブな問題なので、レバノン電力は料金未徴収を知りながら、電気供給を打ち切る政治決断が出来ない。
 別の原因は、レバノン電力の放漫経営にある。
 レバノン電力の管轄官庁、水資源・エネルギー相は内戦後、エリ・ホベイカ(元LF情報局長、サブラ・シャティーラ虐殺事件の責任者)やアマルから歴代閣僚が送り込まれて来た政治ポストである。大臣ポストが政治任命されると、政治家たちは自分の一族郎党を官庁に送り込み、実務能力も、やる気も乏しい職員ばかり増大するのは、古今東西どこでも同じだ。
 これに加えて、空前の燃料値上がり問題がある。
 今年度予算では、レバノン電力は原油1バレルあたり25米ドルで計上していた。それが今や50ドルを突破しているのだから、お手上げだ。
  
 とりあえず、今回は輸入ディーゼル燃料の発電所への搬入が完了したので、危機は収束に向かっている。ベイルートでは6日午後から、ほぼ通常の電力供給体制に戻った。
 しかし10月の末にも次の危機が来るのは確実で、政府レベルで真剣な取り組みが必要だ。
 その政府がどうなるのか…内閣改造は本当にあるのか、あるとすればいつになるのか、ハリーリ首相は留任するのか…6日現在には、様々な噂が飛び交うばかりである。


レバノン杉の古木の下で、愛を叫ぶ!(8月30日)

  大統領の任期延長を決める運命の閣議が開かれた8月28日土曜日
吉日(?)。
  閣議決定を慌しく記事にまとめ、本サイトにアップした筆者(編集人)
は、長男を背負い、家内を伴って車で20分程度の距離にある、レバノン
杉保全地帯に出かけた。
  目的は、家内の甥っ子の結婚式である。

  ブシャッレには大小併せて10近い数の教会があり、それぞれに風情
があって結婚式のミサにも用いられる。しかし真夏にカップルにとりわけ
人気の高いのが、レバノン杉保全地帯の真ん中にある教会である。標
高2,000メートルの爽やかな風に吹かれ、樹齢ウン千年とも言われるレ
バノン杉の古木の下で、杉の香りをいっぱいに浴びながら愛を誓う。
  なかなかロマンチックで、これだと日本からのカップルにもアピール出
来そうだ。もっとも極めて信仰深い地域のこと、信者でなければ式は挙
げてもらえないだろうけれど。
  なお、スギ花粉症にお悩みの方も心配無用。レバノン杉は我が国の
学術的分類に従うとスギではなく、マツになるそうだから。

  
500リラの攻防(8月4日)

 行ってきました、トリポリへ。
 3週間ぶりに山を降りて、単身トリポリに出かけた。
 目的は活けダコを仕入れること。随分魚介類と御無沙汰していたので、息子のためにもタコ焼きを焼いてやろうと決めたのである。
 ちなみに1歳2ヶ月になる息子は、生後2回祖国を訪問しているが、拠点が大阪なので毎日のように父親にタコ焼きを食べさせられ、すっかり病みつきになってしまったのである(ただし、咽喉を詰めては大変なので息子にはタコを取り除いて食べさせる。つまり仕入れたタコを楽しむのは結局彼の両親だけである)。

 ブシャッレからのバスが到着するヌール広場でセルビス(乗り合いタクシー)に乗り換えた。
「ミナーへ行って欲しい」
と運転手に行って車に乗り込んだ。ミナーとはトリポリの岬に突き出た部分で、ここに漁港や魚市場がある。
 なお、トリポリは若干内陸に入ったトリポリ市と、ミナー市の双子都市である。セルビス料金はベイルートの半額で、市内なら500リラ(35円程度)で行ってくれるが、トリポリからミナーへ、という具合に両市をまたぐ場合には普通1000リラとられる。
「幾ら払う?」
「1000リラだ」
「2000リラ出さないか?」
「出さない。2000というなら降ろしてくれ」
運転手はしぶしぶ1000リラだけを受け取った。
数百メートル行ったところで、道路脇に立っていた婦人が
「ミナーへ行って欲しい」
と近寄ってきた。窓越しに運転手が
「1000リラだ」
と言ったら、婦人は
「500リラよ」
と言い返した。
「もう誰も500リラではトリポリからミナーまでは行かないよ」
運転手がそう口説いたが、婦人はもういい、勝手に行って、と手振りで示した。運転手は諦めて、その婦人を拾わずに発進した。

 「ほら、あんた、さっき俺に2000リラ出せとか言ったけど、本当は500リラなんじゃないか。1000リラでも取り過ぎじゃないの?」
筆者がそう悪態をついた。運転手は
「あの婦人は貧乏人さ。本当にもう誰も500リラではミナーまで行かないよ」
そう答えた。

 そう言い終わるか終わらないうちに、運転手は別の肥った婦人を路傍に見つけて車を止めた。婦人は
「ミナーへ」
とだけ言って乗り込んできた。そして運転手に1000リラ札を一枚手渡した。
 1キロメートルほど進んでから、婦人は運転手に
「500リラ返してよ」
と言い出した。
「ミナーへは1000リラだよ」
「500リラよ。乗る時にそう言ったでしょ」
「そんなことは聞いていないよ。」
「ミナーへは500リラのはずでしょう」
「今時誰も500じゃあ行かないよ。少なくとも俺は行かない。だからこのお客さん(筆者のこと)も1000リラ払った。あんた、もし500リラしか払わないつもりだったならあらかじめそう言いなよ。そう言ってたならあんたを拾ったりしなかった」
「私は絶対500リラよ、って乗る時に言ったわ」
「聞いていないって言っているだろう。なあ、お客さん、あんたも聞いていないよな?」
運転手はここで筆者に振ってきた。
(いやだなあ、こんなのに巻き込まれるのは。金持ちの外国人が気前良くカネを払って物価を吊り上げているみたいに思われたくないし)
ちょっと当惑したが、運転手の言うことは正しかったので、仕方ない。
「確かに僕も聞かなかった」
そう証言した。
 結局この婦人は不服を言いながら、諦めて目的地で下車した。
 後で考えると、この婦人は500リラと最初から言っていれば誰にも拾ってもらえないから、黙って乗って、車中で交渉する戦術だったのかもしれない。根負けした運転手からお釣りが帰ってくるかもしれないと思ったのかもしれない。
 ともかく、わずか500リラをめぐるこの激しい攻防を目撃し、貧困の現実に触れた思いである。
  

レバノンの生き物たち(7月28日)

 辺鄙な場所のため、普段は滅多に来客の無い我が家に今日は客が来た。
  カルメル修道会のアイユービ神父が、新居の祝福にいらして下さったのだ(ブシャ
ッレはマロン派カトリックの町だが、カトリック系カルメル修道会の修道会と教会もあ
る。この他、マザー・テレサの小さな修道会も所在する)。
  この神父様は帰天された先代神父様の跡を次いで、巨大な蝶類と貝類の標本コ
レクションを管理されている、という噂だった。
  案の定、我が家に入った神父様は、それより数分前に我が家に迷い込んできた
先客に目を輝かせて見入った。その先客がクワガタムシ(写真)である。なお、クワ
ガタムシの左は筆者が素潜りで採ってきたタカラガイの一種である。
  新居の祝福そっちのけでしばらく昆虫談義にふけった後、秘蔵のコレクションへ招
待を受けた。
  
  南部の港町スール市には、ダイビングと魚介類標本蒐集の趣味が高じて、自費で
標本博物館をオープンさせた歯科医が居る。この医師の子息は世界最年少のスキ
ューバ・ダイバーとしてギネスブックに登録され、こちらのテレビでも何度か取り上げ
られた。

  こういう趣味人たちは情報を求めて世界と交流する。だからレバノンの国際化に
も大きく貢献していると言える。どんな分野でも世界最先端のものがレバノンで容易
に入手出来るというのも、こういう人達のおかげなのだろう。
  こんな人たちとの交流も、レバノン生活の醍醐味のひとつだ。
  
携帯電話ボイコット(7月15日)

 15日、レバノン国民は宗派を超えて団結し、抗議行動を起こした。
 抗議の相手は携帯電話を運営するレバノン政府(通信省)だ。
 
 レバノンは中東の中でも物価が比較的高いことで知られる。しかし携帯電話料金は近隣諸国と比較すると、不合理な程に高い。加入費は月額36ドル、これはエジプトの2倍、シリアやアラブ首長国連邦の4倍にも相当する。勿論、これに加えて通話料を支払わねばならない。
 何故こんなに高いのか?
 筆者(編集人)にも真相はわからない。しかし、何しろお喋り好きなレバノン人のこと、人口のおよそ4分の1にあたる80万本を超える携帯電話回線が売れ、一人あたりの月平均通話時間が何と450分(EU平均で160分の由)にも上る巨大市場である。大きな利権をめぐる駆け引きが消費者の負担を押し上げているらしいことは容易に想像がつく。
 
 事実、携帯電話民営化問題は過去数年にわたり大統領と首相の政争のネタのひとつだった。
 過去10年にわたり政府の委託を受けて携帯電話回線の経営を独占してきたのが、ハリーリ首相の娘婿の会社リバンセル社と、ミカーティ運輸公共事業相一族のセリス社だった。両社は以前から契約で認められた以上の回線を無断で販売し、その分の収入を政府に申告してこなかったなど、レバノン政府との間で係争を抱えていた。
 2002年秋にシラク大統領の肝いりで、レバノンに対する財政支援会議(パリ2会議)が開催されると、ハリーリ首相は、財政赤字削減の切り札として携帯電話セクターを民営化するとドナー諸国に公約した。しかし、大統領サイドはハリーリ首相やミカーティ運輸相が不当に安く自社に運営権を売りつけるのを阻止するため完全民営化を中止、委託経営権の入札のみを実行した。しかもいろいろとハードルを設け、リバンセルとセリスを事実上入札から締め出してしまったのである。

 こうして5月になって、とうとうセリスとリバンセルはこの美味しいセクターから追放された。
 すると突然、前例の無い携帯電話ボイコットが組織されたのである。運営会社を変えても、やっぱり携帯電話料金は高いじゃないか・・・そう言って大統領やコルダーヒ通信大臣を嫌がらせようとしているかのようだ。首相や運輸相の陰謀ではないかと勘繰りたくなる。
 しかし今回のボイコットの音頭を取ったのは一介の消費者団体である。それに医療、報道関係者の組合や労働組合が乗った。どうやら今回は特定の政治的思惑が動いたわけではなく、高過ぎる携帯電話料金に対し消費者が立ち上がったと素直に受け取った方が良さそうだ。
 医療関係者など仕事で回線を用いている人々は、実際には回線を切るわけにはいかず、どれだけの人がボイコットを遵守したかは不明だ。従って、実際にどれだけの損失を国庫に与えたかもわからない。しかし、ボイコットの動きがここ数日メディアで大きく報じられたことで、消費者の怒りを伝えるという目的は既に達成出来たと言えるだろう。

 で、筆者は?
 勿論、携帯電話は使っていない。仕事が込み入ってくるまで携帯電話は持たずにすませようと思っている。

レバノン 山の幸(7月3日)
 日本人に限らず、レバノンへ来訪する外国人は一様に、ともかく野菜と果物が美
味しいと言う。肉も魚も美味しいのだが、やっぱり野菜と果物が際立っている。
  さらに嬉しいのは、一年を通じて楽しめる点だ。それぞれの季節に、旬の野菜と
果物があるから、さすがにこの果物にも飽きてきたな、と思った頃には、次の味覚が
店頭に並び始める。
  
  今、7月の旬の果実と言えば、メロンとサクランボであろう。
  特に、ブシャッレのような高地ではサクランボと言えばリンゴと並ぶ主要な果樹で
(地中海沿岸で一般的に栽培されるオリーブやイチジク、柑橘類はここでは冷涼過
ぎて育たない)に、サクランボを育てていない農家はまず見当たらない。農家でなくと
も、土地付きの家に暮らす人なら、桜の木の一本や二本は大体植えている。
  そのサクランボだが、銘柄がいろいろあって、それぞれに美味しい。中でも筆者
のお気に入りは、薄紅色で、実が大きく、真ん中に縦線が一本入った品種である
(写真)。その形状から、ブシャッレ界隈では「カルブ・アスフール(小鳥の心臓)」と呼
ばれる。並べて置いたアメリカン・チェリーと比較していただくと、その大きさが実感し
ていただけることと思う(念のため、このアメリカンチェリーも大人の親指の先くらい
のサイズはある)。見てのとおり、はちきれそうに膨れ上がっていてみずみずしい。
噛むと張り詰めた外側の皮がぷちっと裂けて、中から密のように甘い果汁がしたた
る。
 この「カルブ・アスフール」の木だが、育てるのが難しいのか、あんまりお目にかからない。しかも旬の時期はほんの10日間程度だから、何とか手に入れようと、毎年これを求めて探し回る。
 幸いなことに今回引っ越してきた新居の隣の農家がこれを植えていたので、牛乳を絞ってもらいに行く度に、生みたてタマゴなどと一緒に譲ってもらっている。ベイルートでは考えられなかった贅沢だ。

外国人労働者の境遇(7月3日)

 1日付けの「ムスタクバル紙」は、レバノンにおけるフィリピン人家政婦3人の死亡事件について報じている。そのうち2人が死んだ状況は不明だが、一人は雇用主の家から脱出しようとして窓から即席のロープを垂らして下っている途中にロープが切れ、転落死したらしい。
 家政婦を邸内に閉じ込め、外出を許可しないという話はあちこちで聞いた。
 外国人出稼ぎ労働者に対するひどい仕打ちは、他にいくらでもある。
 3年前、外交団の一員としてベイルートへ赴任することが決まった筆者(編集人)は、家内とともにベイルートの不動産を探し回った。
 何しろ家賃が月何十万円とする高級住宅である。どれも日本在住の人にとってはおとぎ話の世界のような、ゆったりしたスペースだ。
 しかし、どの住宅にも必ず一つは小さな物置のような部屋がある。小さめのシングルベッドか、マットレスがようやくひとつ置けるかどうかといった窮屈さだ。さらにひどいことに大抵の場合、窓の一つもない。陽の光はささないし、換気も出来ない。管理人に聞くと、そこは家政婦の部屋だと言う。
 住宅全体が狭いならまだわかる。しかし、ほとんどの場合は最低でも寝室が3つ、住民用とゲスト用の2つのトイレ、さらに20畳以上もあるような広大なサロンを備える家なのだ。自分はそんなスペースで優雅に暮らしながら、家政婦は窓もなく寝返りさえ打てないような場所に押し込め、外出の自由さえ奪うとは、一体どんな感覚なのだろう?
 さすがに、そんな家の場合、大家さんの人格が疑われるということで、何軒目かの訪問からは、まずメイド部屋を見せてもらうことにしたくらいだ。
 
 こんなこともあった。
 新聞に家政婦斡旋会社の広告が入っていた。そこに「今お申し込みいただくと、もれなくエプロンがついてきます」とあったのだ。家内が激怒して、この会社に電話をかけて「人間をモノのように扱うのはやめて下さい」と抗議した(流石に次の週の広告からエプロンのおまけは削除されていた)。
 また、広告では家政婦の国籍ごとに値段が決まっている。スリランカ人とエチオピア人は安く、フィリピン人の場合30%程度割り増しになる。フィリピン人の場合、英語でコミュニケーション可能だから、ということらしいのだが、国籍ごとに値段をつけるなど筆者の感覚では余りに非人間的で耐え難い。
 国際的で、新しい物好き、異文化に対する感受性が高いレバノン人であるが、外国人労働者に対するこんな仕打ちはレバノン社会の負の側面と言えるだろう。
 
 ただ、2日の記事の救いは、この事件に心を痛めた在フィリピンのレバノン人コミュニティが、犠牲者の遺族に対して募金を献呈するという点である。レバノン国内でも、外国人労働者が受ける非人間的な仕打ちに抗議の声を上げ始める人が増えている。

レバノン 海の幸(6月30日)

 午後から妻子と母を連れてトリポリの町に行って来た。
 トリポリは首都ベイルートに次ぐレバノン第二の大都市である。官公庁や大手銀行の支店なども集中している。ブシャッレからなら車で1時間程度の距離で、2時間以上かかるベイルートに比較すると格段に近い。
 にも関わらず、ブシャッレの人々にとってトリポリは遠い町だ。
 その理由は、例によって宗派主義である。
 トリポリ市民の圧倒的大多数はスンニ派のイスラム教徒だ。一方、ブシャッレを始め、カディーシャ渓谷一帯の村々は例外なくマロン派である。
 内戦前には、キリスト教徒もトリポリ市内でビジネスを広く手がけていたが、戦火を逃れてほとんどのキリスト教徒はトリポリを離れてしまった。
 だから、今でもブシャッレの人々は学校にせよ、就職にせよ、病院にせよ、トリポリを避けてビブロスやジュニエ、ベイルートまで出かけていく。 

 筆者も今月9日にブシャッレに移り住んでから、ベイルートへは一度出かけたが、今日までトリポリには一度も行かなかった。
 ブシャッレの冷涼で乾燥した爽やかな気候と静寂に馴染んでしまうと、トリポリにせよ、ベイルートにせよ、海岸部の都市の高温、多湿、喧騒のどれもが鬱陶しく思えて来てなかなか腰を上げる気になれない。
 しかし20日間も住んでいると、新居での生活にどうしても足りないものが出てくる。スーパーマーケットの一軒すら無いブシャッレでは調達出来ないものばかりだ。かくして今日はようやく重い腰を上げてトリポリまで出て来たのである。

 トリポリに着いて、買い物もそこそこに食事をすることになった(余談ながら、レバノンの食事パターンは他の地中海沿岸諸国と似ている。昼の2時〜3時ころにたっぷりの食事をとり、これが主食である。その後、勤務環境などが許せばシエスタをして、夜にまたぞろぞろと活動する。夜食はサラダ程度の軽いもので済ませることが多い)。
 せっかく海に来たのだから、魚が良い、ということになった。何しろ高原の町ブシャッレには魚屋は一軒もなく、手に入る魚と言えば冷凍ものか、養殖の鱒しかないのだ。

 海岸のシー・フード・レストランを二軒覗いてみて、幻滅した。
 港町だというのに、置いている魚の鮮度は低く種類も少ない。それでいて値段は法外に高い。
 例えばスズキ。魚屋に行けば1キロ700円程度で売っているものが、ここではキロあたり2,000円だ。調理代と言うのだろうけれど、揚げるか焼くか、どちらかしかないのだから、納得いかない。タコもベイルートに暮らしていた時は、家の前の海で漁師が釣った3キログラムもあるオオダコを1,000円程度で売ってくれて、いつも暴れ回るのに手こずりながら料理したものだ。それがここでは一皿600円だという。
 
 仕方なく、「どこかにもっと安くて美味しいシーフードの店はないか」と町の人に聞いてみた。
 その人は、300メートルほども歩けばアブ・ファーディという美味しいレストランがある、と教えてくれた。
 言われたとおりの方角に向かう途中、小さなダンボール箱を持った青年に呼び止められた。
 割って洗ったウニを売って歩いていたのだ。箱の中を覗くと、結構綺麗なオレンジ色をしている。30粒くらいはあるだろう。それで500円程度と言うのだから安い。レバノンの海は潜ればいくらでもウニが採れるが、卵巣部分(食べるところ)は北海道のウニなんかと比べると、100分の1くらいの分量しかなく、それを綺麗に洗うのが結構大変な作業なのだ。
 筆者は買ってみようと言ったが、普段はウニに目のない家内が反対した。どんな水で洗っているかわからないと言うのだ。確かに、低地でしかも大都市であるトリポリの水道水は、ブシャッレのように直接飲むにはリスクを伴う。その水道水で洗っているとしたら、食あたりが心配だ。結局買うのはやめておいた。 

 そのうち背負っていた息子が泣き出した。息子だけでなく、母も妻も汗だくになっている。避暑地から突然高温多湿の海岸に降りてきて、みんなへばってしまっているのだ。
 目の前に「ファーディ」の看板のスナック屋を見つけた。
 (あれ、アブ・ファーディじゃなかったっけ?)
と怪訝に思った。ガラスケースに入っているタコやイカ料理はどれもあまり新鮮そうではなく、あまり食指が動かなかった。しかしみんな疲れているし、お腹も空いている。仕方ないかと思った。名前は聞き違えたんだろうと納得して、結局そこで食事をした。

 いやな予感が的中し、その店は大外れだった。
 タコもイカも、魚も、どれも硬く生臭い。度を過ぎてしょっぱい上に、レモン汁が効き過ぎて酸っぱい。「鮮度が低いのをごまかすために匂い消しをしてるのよ」と家内が言った。
 みんな口々に不平を言いながら、店を後にした。ほんの30メートルも行くと、別のシーフード・スナックの店に行き当たった。中を覗くと、ほぐした魚の白身はふかふかしていていかにも新鮮だ。他の店には無かったエビのサラダもある。何よりもそれまで見てきた店より一段と清潔だ。入り口を眺めると、そこには「アブ・ファーディ」の看板が・・・。
 母が最初に口を開いた。
 「さっきファーディ・レストランに座っていたとき、あそこの店にはひっきりなしに客が入っているなと思っていた」
 そして家内も。
 「あー、思い出した、弟が言っていたのよ、アブ・ファーディっていうのがトリポリで一番美味しいって。それで最近紛らわしい名前の店がすぐ近くに出来たって。」

 これがケチのつき始めで、予定の半分も買い物が出来ず、最終のバスに乗り遅れて5倍の値段を払ってタクシーで帰るなど、今日のトリポリ行きは散々だった。次回はアブ・ファーディに直行してツキを呼び戻そうと思う。
 ただ、シーフードをビールの肴にして楽しみたい筆者や多くの日本人観光客が、禁酒の町トリポリでシーフードを堪能するのは難しいのかもしれない。