カンパネッラの生涯と『太陽の都』に関する批判的研究
(Campanella : Etude critiques sur sa vie et sur la Cite du Soreil, 1895)
1 中世の異端派
宗教的危機が絶えず中世ヨーロッパを揺さぶっていた。一二世紀以前から異端派が各地に生まれ、禁止追放されては場所と名前を変え再生した。異端派は勢力を増しては禁止され、再び民衆のうちに神秘の炎を灯しに戻ってきた。そしてまた追放された。鉄と火による禁止も異端派を根絶やしにすることはなかった。神学論争など、各々が訴え認めさせようとする物質的な利害を覆い隠す隠れ蓑でしかなかったからだ。異端の人々を焼き殺し虐殺しても、異端派を抹殺することはできなかった。
その頃、都市に誕生したブルジョワジーが階級として姿を現し、異端の神秘的な装いの下で、経済的・政治的発展を押さえつける封建制の箍を打ち砕こうと最初の試みを行った。この階級闘争は宗教的な装いをまとい現れた。なぜなら、当時、教会の力は他を圧倒していたからだ。教会は、王や皇帝に命令を下し、カトリックの民衆に税を課し、公私にわたる生活上の振舞いに干渉し、知識を独占し、人類の思想的発展を自らの支配欲の下にとどめおこうした。だから、宗教的領域で争うことをやめ、教会がその護り人、代表と自認する霊的関心の名において教会を非難する以外、教会と争うことはできなかったのだ。
それでなくても富裕な教会は、信心深い民衆から絞り取り、ますますその財宝を増やしていった。その莫大な財産に羨望の念を抱いた貴族やブルジョワたちは、それを手に入れるため手を組んだ。蛮族の王たちは、キリスト教に改宗しキリストの兵士なる称号をもつにもかかわらず、配下の兵士に分け与えるために、最も崇敬される聖遺物箱や祭壇を飾る黄金や宝石のほか僧院の財産を何かまうことなく奪い取った。教皇の世俗的な王国を築いたシャルル・マルテル(シャルルマーニュ=カール大帝の祖父)がそうしたようにだ。しかし以来、そのような蛮族のやり方を繰り返すには、教会はあまりに強大になった。もはや武力によっても神学によっても、教会が略奪されることはなかった。教会の物質的な財産に対する精神(霊)的な反対運動が始められた。財産は、イエスと使徒たちの清貧を放棄させ、貧しくあることの願いを破り、聖なるものの不正な取引へと向かわしめる、つまり教会を堕落させるものとして非難された。財産こそは教会の過ちと悪徳の原因であり、異端はそのことを告発し改革を求めたのだ。その原因を取り除こうとするのは、宗教と教会自身の最大の財産を思ってのことでそれ以外ではない、と叫ばれた。
貴族とブルジョワが奪おうとしたのは、教会の所有権だけであり、人間の精神(霊)は関知するところではなかった。神学論争が修道院やブルジョワジー・貴族連合の枠を越え、民衆の間に広がったとき、人々は僧の財産に対する攻撃から、論理的ではあるが予想外の結論を引き出した。すなわち、教会を堕落させた富は、〈社会〉をも等しく堕落させたということを。私有財産は本源的に、人間を苦しめるあらゆる悲惨をもたらすものとなった。中世を通じて民衆の間に広まったすべての異端派は、その中で私有財産を捨て財産の共有制を打ち立てることから始まった。ボヘミアのピカール派やアダム派のようにいくつもの異端派は、この共有制を女性にまで広げた。すべては皆のものであり、自らの財産を捨てることなしにはそこに加わることはない、異端派がこのコミュニズムを掘り出してきたのは、福音書であり、初期キリスト教徒の友愛の物語であった。その財産に対する告発は、無益なスコラ的議論ではない。私有財産を認めない彼らの社会観は、観念論の厚い雲の中に迷い込んだ夢想家のユートピアではない。そうではなく、彼らはその根本原因を見出そうとしていた社会的悲惨という現実に基づいてコミュニスト的批判を行ったのであり、その共産制社会は観念論的な夢想というよりも、小さな集団の一人ひとりに直結していたのだ。迫害をくぐり抜け、今日なお、ヨーロッパやアメリカでその共同体が栄えているモラヴィア兄弟団(Les Freres Moraves)を見れば、中世において異端派のコミュニズムがどのように実践されかがわかるだろう。
このようなコミュニストの理念は福音書に反するものではなく、また多くの宗教改革者たちによって民衆の間では耳新しいものではなくなっていた。この理念は、経済的状況からわき起こり、民衆の中から現れ出たものであり、改革者たちはしばしば民衆の霊的な指導に当たっていた。事実、ヨーロッパの民衆は氏族の原始共産制から抜け出したばかりで、数々の点でまだまだ共産制の名残をとどめていたのだ。ミール〔古代ロシアの地域的・経済的共同自治体〕やマルク〔ゲルマン社会および中世ドイツにおける定住団体〕のような共有地、こうした土地の共有財産化は、村落においても、また都市においても存在した。自由農民と農奴が、時に数百人からなる家族共同体の中で暮らし、そこでは異邦人も容易に迎え入れられた。したがって、コミュニスト的な習慣はごく普通のことであり、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食って暮らすという事実だけで共有財産の権利が確立されたのだ。だから異端派が民衆に受け入れられたのは、ひとえに民衆にとっていまだ親しくその細々とした記憶も新しい過去への回帰を求め、周囲にまだ存続し続けている農村共同体のあり方をあらゆる社会に展開しようと望んだからのだ。もちろん、遠い将来〈新しいイェルサレム〉に入ることを拒んだわけではない。民衆は、天国ではなくこの世で〈天国〉の喜びを味おうとしたのだ。一三一五年、教皇クレメンス五世〔一二六四〜一三一四:一三一五年は教皇空位期のため、この記述には疑問あり〕の教書は、「天国においてと同様に、人はこの世で幸福であることができる」と主張したことからベギン派・聖霊派(Begghars ou eres du libre-esprit)を禁じた。
ウィクリフ〔原文ではWickief:John Wycliffe 一三二〇頃〜一三八四年:英国のヨークシャーに生まれ。宗教改革の先駆者〕と後継者による英語訳聖書は社会のあらゆる階級に流布し、文字の読めない者や貧しい人々の間に広まった。彼らは聖書の中に、社会変革の構想に役立つ宗教的主張を取り出そうと、自らの求めるものを読み取り、自分の頭で理解できるものを見出し、自らの欲求に従って解釈した。聖職者や貴族が自らの権威や特権を裏づけるために福音書の文言を幾百となく引用する一方で、司祭でも封建領主でもなく、福音書の文言に出会うこともない農民や職人は、キリストのことを彼らがその再興を望み氏族組織の中にあった平等の使徒であったと見なしたのだ。
アダムが大地を耕し、イヴが糸を紡いでいたとき、
だれが遊んで暮らせる身分だったか?[1]
と、ロラード派〔一四世紀中頃から宗教改革の時代にかけてイングランドで起こった政治的・宗教的な運動〕の歌にある。彼らが求めた平等は、新奇な原理ではなく、非文明時代のかすかな残響だったのだ。
しかし、聖職者や貴族、ブルジョワジーが結託し、己が都合で解釈した聖書を用いて共同体的・平等的変革を禁じ、彼らを迫害するのを見て、民衆中の異端派はかつては反抗の根拠を見出したこの宗教に反旗を翻すようになった。とりわけ一四世紀のロラード派は、サタンや他の悪魔は不当にも天国から追い出されたが、いつか天国に戻り、彼らを地獄に追い落とした聖ミカエルや天使たちを天国から追い払うだろうと説いた[2]。サタンは土地の共有制という天国から追い払われた農民や職人であり、聖ミカエルや天使たちは土地を独占した貴族や聖職者のことだった。異端派は神自身を非難し、人間と一体化させるために天国から地上へ降ろしたのだ。アモーリ〔シャルトルのアモーリか? 一二〇九没、フランスの哲学者・神学者。汎神論者であり聖霊派の主張者〕、通称エメルリクスの弟子たちは、神はあらゆるもののうちにあり、キリストと聖霊は一人ひとりの内にあって働くのだと主張した。アモーリの教義はラテランの公会議〔一二一三年の第四ラテラン公会議か〕で禁止され、一二〇九年、公会議はアモーリの墓を掘り起こし、遺骸の辱めと遺棄を命じた。ベギン派の説くところは、ネオプラトニズムに影響を受けたヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ〔八一〇?〜八七七?。九世紀の神学者、哲学者〕の流れを汲み、〈神〉は全であり、〈神〉と被造物の間には何ら差異はなく、人間の運命は神との合一にあり、それによって人間は神になるのだと主張した。ほとんどの異端派がこのような哲学的教説に与し、その神秘主義的土台は、中世の思想家にとってその汎神論の源泉となったカバラのうちに見出すことができよう。もちろん、汎神論という名はまだ作り出されておらず、教会はそれを完全な無神論と名づけたのではあったが。
民衆的異端派の広がりと、教会・貴族・ブルジョワジーの連合軍との対立という社会的動揺は、宗教的な装いを捨て、ある哲学的形式の下に姿を現した。異端派は、ギリシャやアレクサンドリアの哲学が練り上げ、それにカバラが古代アジアやエジプト、ペルシャの宗教の神秘主義と結びつけながら収集発展させた観念を復活させた。異端派の混乱に満ちた理論が、現実的には、社会環境の経済的事実のうちに深く根を下ろしているにもかかわらず、異端派は古代の観念体系に結びついていたのだ。
コミュニスト的土台の上に社会を変革しようとする試みが失敗に終わったのは必然といえよう。せいぜいのところ、モデルとなった農村共同体あるいは宗教団体を模した小共同体ができたくらいだったからだ。とはいえ、生産労働や男女両性の協働において、それは修道士の共同体より優れていたし、またモデルを模倣し彼らにとってなじみ深い原初的な組織体をあらゆる社会に対し広めようと知性を働かせた点で、無自覚なコミュニストであった農民の共同体より優れていた。民衆的異端派の社会事業は達成されなかったが、それは、経済的展開に対立したからだ。それは蛮族の氏族社会のコミュニズムを再び導入するどころではなく、逆に封建制のうちにそのままにされていたその他のものを無情にも粉砕してしまったのだ。こうした異端派のほとんどは、彼らを壊滅させた迫害や彼らに下された破門によってのみ知られるばかりだ。彼らの歴史を書いたのは死刑執行人なのだ。したがって彼らの教説をきちんと書き留めなかったし、少なくとも彼らに関する目録も書物も残さなかった。しかし、数世紀にわたって続いた、民衆の苦痛に満ちた抗議から生まれたこの願望は、トマス・モアの『ユートピア』とトマゾ・カンパネッラの『太陽の都』という二つの天才的な作品の中に遺言書のように残されている。
「私は新しい夜明けに鳴り響く鐘である」とカンパネッラは言った[3]。だが、彼は間違っていた。訪れたものは、「哲学者によって書かれはしたが、ついぞ地上に存在しなかったこの完全な共和国」ではなかった。地平線に現れたのは、非情な商業主義と冷徹な個人主義を備えた市民社会だった。神政統治や騎士道精神、哲学的神秘主義、占星術そしてコミュニズム的異端に耽った彼が鳴らしたのは、封建社会に対する夕暮れの弔鐘だったのだ。
2.カンパネッラの生涯
カンパネッラの生涯
トマゾ・カンパネッラは一五六八年、当時勢力を誇ったスペインの支配下にあったナポリ王国のカラブリアのスティーロ村で生まれた。幼少時より抜群の記憶力で注目され、一三歳のときには、主題を問わず散文でも韻文でも等しく表現することができた。彼は、中世を通じて高く評価され洗練されたこの語学の才に、その哲学研究に対する熱意を結びつけた。この時期、聖トマス・アクィナスの『神学大全』の読解に没頭したが、その書はカンパネッラの生き方を決定づけた。父親は、叔父の一人のように司法官職に就かせようと彼をナポリに送るが、スティーロの修道院の哲学教授であった修道士の授業を受けた若きカンパネッラは、一五歳でコセンツァのドメニコ会に入った。ここは、アルベルトゥス・マグヌスや聖トマス、そしてサヴォナローラがその名を高からしめ、最も独立不羈の修道僧を輩出した修道会だった。
あらゆる学問を吸収するカンパネッラの能力は、その弁舌の才と同様、同僚や教師たちから高く評価され、彼らはカンパネッラの知性を鍛え身につけさせることに熱心に取り組んだ。修道院は、中世においてもなお、学問の精神にとっての避難場所だった。修道会はそれぞれが、学者や哲学者、弁論家を擁していることを誇り、なかでもドメニコ会は、傑出した人物を最も多く輩出していた。しかし、一五三七年、イグナチウス・デ・ロヨラは、異端と闘い教皇の権威を守るためにイエズス会を設立するや、他の宗教組織を圧倒し始めた。この恐るべきライバルと闘い、かつての権威を取り戻すべく、ドメニコ会は、修道会の威光を示しうる才能ある闘士をカンパネッラに見出そうと期待を寄せ、特別の好意をもって迎え入れ、その知識への情熱に力を貸した。
注目を集めるのに時間はかからなかった。各修道院はなお熱心にスコラ的議論をし続けており、互いに挑発しあい、聴衆の立ち入りが認められた弁論会で神学的・哲学的学説を弁護した。コセンツァのフランチェスコ会に招待され、自らの修道会の見解を弁護しようとしていたサン・ジョルジオの哲学教授は出発の直前、病を得、代理に自身の生徒であったカンパネッラを選んだ。カンパネッラが会場に入ったとき、その若さは悪意に満ちた驚きをかき立てた。人々は、哲学者が代理としてこの無髭の若者を送ったのは軽蔑のしるしだと考えたからだ。しかし、彼が口を開くや、驚きが観衆をとらえた。彼は才気に溢れ緻密であり、フランチェスコ会としてもカンパネッラを勝者と宣言するほかなかった。「テレージオ〔ベルナルディーノ・テレージオ〕の天分が彼のうちに甦った」と評された、とニスロン〔ジャン=フランソワ・ニスロンか? 一六一三〜一六四六、フランスの物理学者〕は伝えている。
こうした討論にカンパネッラは熱中した。一〇年間、彼はその時代の精神をとらえていた神学的・哲学的問題について議論するために、街から街へイタリアを経めぐった。いたるところで、彼は輝くばかりの成功を収め、酔いしれたが、それは妬みを招き、彼の頭脳に対する他の修道会、基本的にはイエズス会の嫉妬と憎しみをかき立てることとなった。イエズス会こそは、「君主の専制のために福音の純粋な教説を変質させた」がゆえに、カンパネッラが論争を挑み壊滅を望んだ当の相手だった。彼は、アリストテレスに対する激しい攻撃にすべての怒りをぶつけた。大学におけるその権威は、聖書に勝るとも劣らぬものだったのだ。スタゲイロス〔マケドニアの地名。アリストテレスの出身地〕の哲学とその擁護者マルタ〔騎士団か?〕に向けられた最初の本が出版されたとき[4]、二〇歳になったばかりだった。論敵は、師や過去の哲学者に対して彼の口から発せられた軽蔑の言葉に憤った。イエズス会士たちは、カンパネッラが赴く場所場所で引き起こした憎悪を利用し、カンパネッラを異端者、魔術師として告発し、教皇から弁論資格の停止を得た。かくして、ピエトロ・ジャンノーネ〔PietroGiannone一六七六年〜一七四八年、イタリアの歴史家。主著に『ナポリ史』(一七二三年)〕の言うところでは、彼はローマでの醜聞と乱行のかどでスティーロの修道院での蟄居を命じられた。彼はそれに従い、その慰みにと、科学と詩学の研究に取り組み、マリー・スチュワートの死をテーマに悲劇を構想する。カンパネッラもまた、新思想の激烈な使徒ジョルダーノ・ブルーノが言ったように、たとえその身を焼き尽くさんばかりの欲動の使い道が見つからなくとも「いつまでも錯誤に縛られてしまう、この狭くて暗い牢獄」での蟄居から逃れたのだった[5]。
ここで、われわれはカンパネッラの生涯で最も重要な出来事の前にきた。しかし、それについて漠然とした手がかりしかない*。カンパネッラ自身、数ある著作の中でもそのことにはふれていないし、二七歳年間続いた長い獄中生活を終えたとき、友人にほとんど何も伝えていないようだ。パリでカンパネッラと相知っていたニスロンは、その『賢人伝のための覚書』(Memoires pour server a l’histoire des hommes celebres)の中で何事も語っていない。カラブリア王の宣言を試みた『蜂起論』(Considerations politiques sur les ciyo d’Etat)において関係のあったノーデ(Naude)は、そのことについては素通りしている。唯一ピエトロ・ジャノンネは、その『ナポリ王国民法史』(Histoire civile du Royaume de Naples, Neapoli 1723)の中で、スペインの軛からカラブリアを解放しようとするカンパネッラの企てた陰謀について確かなことを語っている。彼は、その詳細がすでに失われたカンパネッラの裁判記録に基づいていることを強調しているのだ。
「カンパネッラは、そこに新しい理想と自由、そして共和国の種をまくことでカラブリアを変革するところだった。王国と君主制を改革し社会を統治するための法と新しい体制を与えることを熱望した」とジャノンネは言う。彼は明らかに『太陽の都』を念頭に置いているが、カンパネッラがその執筆に取りかかったのは、ずっと後のことだ。とはいえ、カンパネッラは、中世の異端派が宗教改革と社会のコミュニスト的変革をともに行おうとしたように、社会的革命を自身の政治的反抗と重ね合わせようとしたのだ。
カンパネッラは、教皇パウロ五世やウルバヌス八世、リシュリュー、またベーコンといった当時最も優れて実証的な精神と同様、占星術を信じており、星の中にこの世の、とりわけナポリ王国とカラブリアにおける革命の予兆を読みとった。修道院の僧たちとその確信を分かち、スペインの統治を覆し君主制に代えて神の共和国(そこではイエズス会士は排除され、必要とあらば皆殺しにされるのだが)を打ち立てるべくチャンスを活かすことを彼らに説いて回った。神はこのことをあらかじめ定められたのだ、カンパネッラはそう語った。ノーデによれば、彼はフランソワ・ド・サールのように、しばしば神と語り、メシアと呼ばれたという。彼は言葉(la parole)と武力で大きなことをするはずだった。つまり、言葉をもって王族と高位聖職者たちの専制に反対し自由を説き、言葉を全うするために山賊やならず者など多くの猛者の武力を雇うはずだった。民衆に、牢獄の門を打ち壊し、訴訟文書を焼き払い囚われた者を解放し、蜂起に加わるよう訴えかけるつもりだった。カンパネッラは、グアルダバーレ付近に停泊していたトルコ海軍の指揮官アサン=シカラ(Assan-Cicala)の協力を見込んでいたが、彼はカラブリアの生まれで、スペインの支配から逃れるために故郷を離れイスラム教に改宗したという人物だ。
情勢はカンパネッラの企てを後押しした。カラブリアには流刑者で溢れていたし、度重なる重税に民衆は怒りを募らせていた。また、ニカストロのドニ・ポンジオ師(Le Pere Denys Ponzio)は任地であるカタンザロ地方で熱心に抵抗運動を説いて回った。彼は「人の命を金で買い貧者や弱者を踏みにじるスペイン王の家臣どもによる侮辱から民衆」を救い出し、自由を確立するための神の使いと、カンパネッラのことを語った。地方の修道士たちは熱心にカンパネッラを助け、ピゾーリの修道院では、流刑者を兵とするのに二五人が力を尽くした。ドメニコ会、聖アウグスティノ修道会、フランチェスコ会の修道士ら三〇〇人以上が、この運動に関わりをもった。事を起こすときには、二〇〇人の説教師が反乱をたきつけるために地方に散るはずだった。一八〇〇人の流刑者が戦いのために集められ、貴族たちは運動を手助けする手はずになっていた。これらいきさつの証人は、ニカストロやジラーチェ、メリトー、オピドの司祭たちも陰謀に加担していたとしている。蜂起は一五九九年の末に起こるはずだった。二人の裏切りが陰謀を暴露したとき、すべては準備万端整っていたのだ。
トルコ軍から海岸線を守る任務にあったナポリ総督レモ伯爵は不意を襲い反乱者を捕え、これをナポリに送還るべく軍を派遣した。総督は見せしめのために、移送する艦の上で二人の謀反人の身体を引き裂き、また他の四人を帆にぶら下げた。ドニ・ポンジオ師は俗人の変装をしたまま捕えられ殺された。
カンパネッラは、トルコ船まで運ぶ船をつかまえようと一日中交渉した後、父親が彼をかくまった羊飼いの小屋の中にいるところを発見され、ナポリのウフ城に幽閉された。ときは一六〇〇年、ジョルダーノ・ブルーノがローマで火刑に処せられた同じ年だった。
彼の一声で民衆が立ち上がる、カンパネッラはそう思った。彼にそれ以外考えられたか? 民衆に自由をもたらし、約束の地に導こうとしたのだ。だが、逃亡のための船出を拒む船頭と交渉をしながら、自分がすべてに見放されたった一人であることを知ったとき、心奪う夢からの目覚めはどれほどつらいものだったろうか。彼は、まさにこの痛々しい落胆の記憶をもとに、きわめて真実で砂を噛むかのごときソネットを書いた。そこには、民衆に対する彼の深い憐れみが溢れており、時と場所を問わず革命家が抱く思想と感情がある。
民衆[6]
「民衆とは、己が力に気づかぬ、移り気で馬鹿な動物。これ以上ない重荷、そして打擲を耐え忍ぶ。だが、彼らが己を導くがままにさせているものは、彼らが身震いすれば簡単に転んでしまう弱い子どもなのだ」
「しかし、民衆は子どもを恐れ、そのわがままに仕えている。彼らは知らないのだ。彼がどれほど恐れられているかを。彼らを愚かにさせる媚薬を主人が調合しているのを」
「なんということだ! 民衆は自が身体を自ら打ち、自が手で縛める。自ら王に与えたたった一枚のカルリーニ貨幣[7]のために争って死ぬのだ」
「天と地の間にあるものはすべて民衆のものなのに、彼らはそれを知らない。よし教える者があれば、彼らはその者を打ち殺すのだ」
革命の企てとイエズス会への攻撃は代償として、カンパネッラに長い殉教の時を強いた。というのは、おそらく、ジェズイットたちの怒りがなければこのひ弱な敗者からスペイン王庁は興味を失っていただろうし、カンパネッラが異端と非難されたとはいえ教皇たちは庇護しただろうからだ。
『無神論克服[8]』(Atheisumus triumphatus)の序文で、カンパネッラはその苦しみを次のように語っている。
「幽閉された牢獄は五〇カ所、私に対する拷問は七度に及び、最後は四〇時間も続いた。肉を裂く硬い縄で縛られ、手は後ろ手にくくられたまま、尖った杭の上に吊り下げられ、それは私を血だらけにした。死を思った四〇時間の後、わが苦痛は終わった。ある者は私を罵り、苦しみを増さんがため私を吊した縄を揺さぶった。が、ある者は、私の勇気を小さな声で賞讃したのである。何者も私を挫くことはできなかったし、誰も私からひと言も引き出せなかった[9]。六カ月後奇蹟によって病から快復し、私は穴の中に入れられていた。一五回にわたって裁判を受けたが、第一回目にこう訊かれた――おまえは習ってもいないことをいかにして知ったのか?――おまえは修道会で悪魔とともにいるのではないか?――私は答えた――私はそれらを学ぶために、多くの油を使ったが、あなた方はワインしか飲まなかったのだ……。私は、生まれる前に出版された三人のペテン師に関する本を著し[10]、〈民主制〉を訴え……教義および体制に関して教会によからぬ感情を抱き、異端者であるとして告発された。結局、永遠不変の世界を作り上げたアリストテレスに反対し、太陽や月、星のうちにさまざまな変化(les revolutions)の徴があると主張したために、私は異端者、謀反の徒として告発されたのである」
カンパネッラは二七年の間、ナポリの数々の牢獄にいた。その感動的な詩編の中で、彼は神に解放を訴えている。
「どうか、わが不幸の上に永遠の愛の来たらんことを。すべてに優る知性がその力をもってわが身を憐れまれんことを。ああ、わが神よ! 私は語りはしないが、あなたはうち続くこの長い地獄の責め苦をご存じです。一二年の間、私は苦しみ続けました。わが仲間は七度にわたり責めつけられ、無知なる者は私を呪い愚弄した。太陽はわが目に届かず、わが筋は裂かれ、骨は砕かれ、肉は引きちぎられた。私は床の上に寝、縛められ、わが血は飛び散った。酷薄極まる恐怖の手に委ねられ、食べるものはわずかで、それとて腐っていた。もうたくさんです、わが神よ! どうか私をお守りください」
「この世の権力者たちは、人間の身体を踏み台にし、魂を籠の中の鳥とし、人々の苦しみや涙を神をも畏れぬ楽しみとするのです。役立たずの者の骨をも拷問の道具となし(それはあなたを苦しめるがために行われるものですが)、不安に満ちたわが仲間を間諜や偽の証言者とし、彼らはまた、私が潔癖であっても私を非難告発したのでした……。いや、あなたは裁きの場の高みにあり、私よりも多くをご存じです。たとえ、辱められたあなたの正義や私への責め苦の数々が、あなたを立ち上がらせるに足りずとも、少なくとも、この悪に満ちた世界に心乱されることでしょう。なぜと言って、あなたの〈摂理〉は皆に等しく注がれるのですから」
彼の嘆きに神は沈黙したままだった。彼は太陽に語りかけた。太陽はテレージオにとってもそうであったようにカンパネッラにとっても、心を持ち、植物や動物などすべてのものの創造者だった。人間は神の手から出た。
〈春の太陽への讃歌〉
「私の祈りはまだかなえられていないから、あなたに私は語りかけよう、ああ、フェブスよ!」
「私は見る。あなたが牡羊座で輝き、すべての者が生気を甦らせるのを」
「あなたは、生気なく死にかけたものに生命をもたらす」
「恩寵をもて、何よりもあなたを愛すこの私もまた蘇らせたまえ」
「あなたがこの恐ろしく湿った牢獄に私を置いたままでいられようか、いつもあなたを褒め称えてきた私だのに」
「大地から草ぐさが芽吹くとき、私は牢獄から出るのだ」
「あなたは樹液を木々に送り、それは花となり、花は果実へと変わる」
……
「あなたはモグラやアナグマをその永い眠りから目覚めさせ、ちっぽけなミミズにも力と動きを与える」
「おお、太陽よ! あなたに知性と生命を認めず虫けらにも劣ると見なす輩にあなたはお気づきです」
「彼らはあなたに対して恩知らずな反抗を行う異端の者と私は書きました。が、あなたを擁護したがため、彼らは私を生きたまま閉じこめたのです」
……
「もし私が死んだなら、誰かあなたを褒め称え、生ける寺院、真なる〈神〉の姿形、いと高く慈しみ深き灯火、自然の父、星々の幸福な統治者、あらゆるものの命であり魂であり意味であるものと、あなたを呼ぶだろうか」
「私を憐れみたまえ、ああ、我が神よ、すべての光を生む源よ、あなたの光を我が身の上に注ぎたまえ」
カンパネッラの禁欲的な魂は拷問に負けなかった。「彼は倦み幾多の苦悩に打ち勝ったのだ」と彼は言う。官吏たちは彼から一片の自白も得ることをあきらめ、獄中に独り彼を放置した。彼は夢想に耽った。
彼はあるソネットで歌っている。「鉄鎖につながれて自由であり、孤独でありながら孤独でなく、苦しみながら穏やかで、私は敵を当惑させる。俗物の目には私は阿呆であり、神の目には賢しい。
「地上で虐げられようとも、私は空に舞い上がる。肉は打ち倒されようと、魂は晴朗だ。悪の重圧が私を深淵に突き落とそうとも、霊の翼は世界の高みへと私を届けるのだ。
「……わが前に必ずや訪れるだろう真実の愛の姿がある。そのとき、私は理解するのに言葉はいらないのだ」
カンパネッラの捕囚は、オスナ公がナポリ王国の副王になったとき緩められた。彼もまた、スペインの迫害に苦しんだことがあったのだ。彼はこのカラブリアの陰謀者の才能を認め友情を結んだ。しばしばカンパネッラのもとを訪れ、国家の懸案について意見を質した。カンパネッラが仕事をし、友人と連絡を取り、獄中で彼らと面会することさえ許した。独房の奥から、彼の名前はヨーロッパ中に知れ渡った。教皇たち、ジェームズ1世、イギリスの王や権力者たちが彼に占星術の教えを求めにきたのだ。また、ピエール・ガッサンディ〔一五九二〜一六五五:フランスの物理学者・数学者・哲学者〕その他の優れた学者が、哲学や科学の問題について彼と意見の交換を行った。さらに、ドイツ人の二人の弟子、トビアス・アダムスとショッペ(この人物はジョルダーノ・ブルーノの拷問の場に居合わせた者だった)がカンパネッラの手稿を受け取り、それはドイツで刊行され、イギリスやイタリアにまで広まった。
オスナ公がナポリ王国内での審問を拒んだために、イエズス会士たちはこれを憎んだ。彼らは、マドリード宮廷に作り上げた敵対勢力の助けを得て、公を、そのヴェネチア人に対する輝かしい成功とその統治能力・正義からして当然たる副王の地位から取り除こうと画策したのだ。公は、奪われるがままになるならば、スペインより独立を図りナポリ王国とカラブリアの王を宣言しようと決心した。ここにはカンパネッラの忠告や後押しがあったと言われる。カンパネッラは、オスナ公の中に、自らの政治的・社会的革命を実現する執行者を見出したと思ったのだ。オスナ公と共謀した人物の一人がジェルミーノであり、彼は三七年後、マサニエロの陰謀を指揮した。おそらく彼もまた、カンパネッラとつながりがあっただろう。オスナ公は、枢機卿ボルジアによって地位を奪われ、アルメイラの城に幽閉され、一六二一年そこで死んだ。牢獄が、カンパネッラにとってもまた続くこととなった。
オスナ公失脚の二年後、カンパネッラの擁護者パウロ五世(彼はフェリペ三世に恩寵を求めたのだが聞き入れられなかった)がローマで亡くなった。教皇の死の知らせは、カンパネッラを深い絶望に突き落とした。「私は生涯牢獄を出ることはないのだ」と彼は書いている。しかし、パウロ五世の後を襲ったウルバヌス八世に、彼は新しい擁護者を見出す。新教皇は一五年にわたる折衝の後、カンパネッラの解放を勝ち取った。一六二六年五月一五日のことだった。とはいえ、それは、ローマ教皇庁の判断と同様、異端者として彼を求めてでしかなかった。いったんは教皇の町で自由の身となった。が、彼を憎むイエズス会士たちは執拗だった。彼らはカンパネッラに対する下層民の反感を煽ったのだ。「教皇がカンパネッラを自由に歩き回らせるのは大問題だ。不信心者で異端者であるこの男は、国家を乱し教会に敵対する。ルターやカルヴァンについて彼が口にすることは下らぬことで、ローマはその身中に最も危険な蝮を飼っているのだ」――もっとも当時の著者によれば「体の不自由なあわれな修道士に怒りなど感じなかった」。結局、いえずす会士たちに唆された下層民たちの怒りから逃れるために、カンパネッラは変装しフランス大使の馬車に乗ってローマを離れた。到着したマルセイユでは、エクス高等法院の参事官ペーレスク〔ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレス:一五八〇〜一六三七、フランスの天文学者〕が彼を迎えた。彼こそは科学とそれに仕える者の知的で自由な擁護のゆえに、P・ベイルが「文芸の検事総長」と呼んだ人物だ。ひと月の間、カンパネッラの生活は満ち足りたものであり、それはこの三〇年間味わうことのなかったものだった。が、リシュリューからパリに呼ばれ、この静かな暮らしから離れなければならなかった。彼は、涙ながらにペーレスクに別れを告げた。カンパネッラは言う。「最も残酷な拷問も私に涙を流させることはできなかったが、今日、私の心は高ぶり、感謝の気持ちで涙するのです」と言った。
カンパネッラは宮廷に迎えられ、歓迎会の日、この老齢で腰が曲がり苦痛に打ちひしがれた著名な老人の前に現れたルイ一三世は、彼の手を取り両の頬にキスをした。――彼のある予言が実現したことは、その占星術への評価をさらに高からしめた。ニスロンによれば、ことの次第は、こうだ。ルイ一三世に世継ぎのないことを心配したリシュリューはカンパネッラに対して、オルレアン公が王位に就くことがあるかと尋ねた。カンパネッラはこう答えた。「決シテ君臨スルコトアラズ(Imperium non gustabit in aeterium)」と。事実、ほどなく王は一人の男児を得、後にルイ一四世となった。カンパネッラはこの男児のホロスコープを作っている。
カンパネッラのスペインに対する憎しみはリシュリューを喜ばせた。フランスとスペインとの間で戦争が起きたとき、彼は御前会議に招かれイタリアの事情についての知見を求められた。
彼はパリにあるドメニコ会の修道院に隠遁し、占星術と哲学の研究に没頭する暮らしを送った。
一六三三〔訳注―一六三九の間違いか〕年六月一日に起こる日蝕が、彼に災いをもたらすであろうことを予知し、自分を脅かす危険を祓おうと、彼が『太陽の都』で人々が「天から流れ出る悪い影響」から身を守るために用いるあらゆる占星術的な処方を行った。彼は、かぐわしい蜜蝋の松明で照らされ香りで満ちた、真っ白の壁の部屋に閉じこもり、音楽の演奏や修道士との会話で不安を紛らせようとしたが、彼らはカンパネッラが気が触れたと思った。カンパネッラは一六三九年五月二一日、七一歳でその生涯を閉じた。日蝕が予測された時の一〇日前のことだった。彼とともに、偉大なるユートピアの殉教者が死んだのだ。
3 哲学と政治
1.
「私は三つの巨悪と闘うためにこの世に生を受けた。すなわち専制政治、詭弁、偽善だ」とあるソネットでカンパネッラは語っている。事実、彼の全生涯は、スコラ哲学と「精神の専制君主」たるアリストテレスに対する長い闘いだった。カンパネッラは、テレージオやジョルダーノ・ブルーノ、ベーコンと同様、こうした機運(それは、きわめて困難で障害に満ちたものではあったが、人間精神の改新と、哲学・神学の教条主義や煩瑣かつ空虚な、そして限りなく錯綜したスコラ学派流の議論からの精神の解放への熱烈な衝動に突き動かされたものだった)の中である役割を担った力強い天才たちの一人だった。実際、たとえスコラ的議論がうんざりするような知的訓練を課すことで頭脳を柔軟にし、一七世紀に華々しく登場する驚くべき分析・批判の獲得に一役買ったとしても、それらは頭脳をいらだたせ、感覚的現実への無関心をもたらしたのだ。観察や経験に訴える代わりに推論に頼るという方法が習性となり、それをやっかい払いするのに数世紀を必要とした。ウィリアム・ハーヴェイ〔イギリス人医師:一五七八〜一六五七〕が〔一六二八年〕血液循環の法則について画期的な発見を報告したまさに同じ一七世紀に、ヴェーザル、セルヴェその他の解剖学者は、アリストテレスやガレノス〔古代ギリシャの医者:一三一〜二〇一〕、アヴィセンナ〔イブン=スィーナー:九八〇〜一〇三七、哲学者〕などの哲学者や議論の余地のない神学的主張の権威を仰ぎ見ることしかせず、人々は明白な実証に反対したのだった[11]。
アリストテレスはこの嘆かわしい解釈妄想病の元凶とされたが、それも古代の思想家たちと同様、諸科学がようやく生まれたばかりでそのほとんどが疑われなかったときに思索せざるを得なかった彼には、森羅万象を理解し説明する資料などほとんどなかったからだ。しかし、諸現象が必然の法則に従っていることを理解したアリストテレスは、いくつかの原理から演繹を積み重ねることで先験的に法則を発見しようとした。たとえば、神秘的な数の教説によってカンパネッラにきわめて大きな影響を与えたピュタゴラスは、数をそれぞれ不動の知の原理、物事に内在する本質と考えた。つまり、彼らはその中に、森羅万象を説明する手段ではなく、法則の必然の原理を見たのだ。こうして数のオカルト的な特質を知ることで、物質的・精神的世界の法則の発見に至ったのだ。
中世の思想家も物事を考えるに当たって初歩的な科学しか持ちあわせていなかった。そのうえ公的な思想の方針は教会の統制の下にあり、その教会は、現世を追放の地、嘆きの谷と見なして蔑視し、自然科学をサタンの業として禁じていたのだ。だから、中世の思想家はまさに仕方なく自らのうちに同様の思考方法を見出さざるをえなかったのだ。彼らとて、演繹法を用いるためだけ、また科学を推論の技術に終わらせるためにアリストテレスを必要としたわけではなかったが、アリストテレスが演繹における三段論法を彼らに教え、スコラ学者たちが正しい三段論法だけを唯一の明証の基準と主張したのも事実なのだ。さらに、彼らはスタゲイロスの人の哲学の業績を翻訳とアラビア人による注釈によって不十分・不完全にしか知らなかった。ギリシャ語原典の研究が行われたのは、一四五三年モハンマド二世によるコンスタンチノープル占領の後、ビザンチンの学者の移住の後でしかない。それ以前は、ラテン語の文章の中にギリシャ語の語句を見つけたなら、「これはギリシャ語だから読めないぞ」と言って遠慮会釈なしにすっ飛ばしていた。一五世紀の学校では、アラビア語訳からの重訳しか用いられなかった。教授たちはアリストテレス学派の哲学のアンチョコをいくつかもっており、それをネタに学生たちに講義をしていた。一三世紀には、文法と算術と哲学の教育について、次のようにいわれた。「哲学なんて軽いものだ(legere in philosophia)」
研究すべき現実は書物であり、自然ではなかった。スコラ哲学者はアリストテレスを解釈することしか教えなかった。唯一の関心事がアリストテレス哲学の解釈だったのだ。大いに解釈をしたおかげで、まったく対立する体系がアリストテレスの名の下に推奨されることとなった。教授たちはみな、アリストテレスの忠実な弟子を自認していた。すべてがアリストテレスの中に見出され、すべてがアリストテレスから始められた。まさに聖書とともに、アリストテレスは〈権威〉だったのだ。「なぜつねに権威に頼るのか? プラトンとアリストテレス、判断をするのはこのどちらかなのか? 真理についての侵すべからざる裁判官は明々白々の事実である。もしそれが私たちに欠けており、感覚と理性が沈黙するなら、判断を控え疑うようにしたまえ」とパリ大学の学長に対しブルーノは書いている。
聖トマスはアリストテレスに拠りながら教会の支柱を作り上げたが(彼は教会の教義とアリストテレス哲学の学説が一致することを強く主張した)、アリストテレスはスコラ学者の過ちのスケープゴートとなったのだ。ポステル〔ギョーム・ポステル:一五一〇〜一五八一、フランスの東洋学者〕は、アリストテレスの哲学をあらゆる誤謬の原因、無神論の源泉として非難した[12]。ベーコンは、アリストテレスの作品が滅びなかったことを残念がった。ジョゼフ・マルティーニは論理学、文法学、力学に対し破門を行ったが、彼は、それらを世俗(deuxieme ordre)の技術の中に追放し、その有害な協力関係から哲学を解放しようとした。「論理も、弁論術の緻密さも、哲学のものではない」と彼は言った。トマス・モアは学校での緻密さに対しもはや何の感嘆も抱かなかった。こうしたユートピア人たちは、二次的な観念や一般概念についての議論など納得できなかった。彼らは詭弁も弁論術も等しく黙殺したのだ。
しかし、アリストテレスとスコラ哲学を攻撃することは困難な作業だった。破壊の後にそれに代わる新しい体系を提示しなければならなかったからだ。批判的立場を離れ、実験的方法の適用を示唆する以上のことを試みるや、彼はこれまで闘ってきたのと同じ過ちに陥ってしまう。あるいは彼は普遍的な哲学を先験的に作り出さなければならないが、とりわけそれは危険なことだった。というのも、それは、議論の代わりに拷問や火刑を用いてきた教会を攻撃することになるからだ。マルクスは『資本論』の序文でこんなことを言っている。「教会は三九の信仰箇条のうち三八までに対しては批判を容易に許す。だが教会の収入に関する三九番目だけは別だ」。今日、英国国教会の教義への批判で、その収入を侵害することにはならないが、当時は違った。カトリック教会を霊的に批判することは、教会から世上権を奪うことだったからだ。宗教改革は経済改革への一つの方法でしかなかったのだ。
テレージオはアリストテレスと闘った一人だった。「私たちはテレージオを尊敬し、彼を真理の友、新しい人間の先駆け(Novorum hominen primus)と思っている」とベーコンは言った[13]。「このアリストテレス学派の学説の殺害者」は、経験ではなく理性で相対するべくアリストテレスに近づき、スコラ哲学を自然ではなく書物の中にのみ科学を求めたことで批判し、実在(Entia realia)や「ものとその力」の研究を奨めたが、パルメニデスの自然学から熱・冷の原理を取り入れざるをえなかった。アリストテレスから逃れるためには、他の古代哲学者の学説を採用するほかなかったのだ。彼はこのような原理を形のない形而上学的実体へと変えた。つまり、一方の熱は天の原理、運動と生の源泉であり、他方の冷は地の原理、不動と死の原因なのだ。彼は森羅万象を、この二つの原理が、物体(corps)の基礎であり完全に受動的な原理である質量(matiere)を支配するために争うことにより生じると見なした。カンパネッラの賛歌『春の太陽』によれば、太陽と大地の闘いから、第二次元のものが生まれたのだ。しかし、創造においてすべての働きを神から奪うことはあまりに危険であり、彼は神に人間の創造を残した[14]。こうした避けがたい譲歩にもかかわらず、テレージオは異端者として告発され、人々の目を逃れるために、ナポリを離れコセンツァに引きこもったのだ。カンパネッラがドメニコ会の修道院で哲学を学んだのはこの頃だった。教師たちはテレージオの思想を一部教えながらも、異端者との交流が露見する危険のため、テレージオのもとを訪れることをカンパネッラに禁じた。
支配的な哲学に対する闘争を始め最後までやり抜くためには、カンパネッラやジョルダーノ・ブルーノの鋼の勇気が必要だ。プロン・ド・デニーズでの六年、そしてローマ聖庁の監獄での二年の後、ブルーノは、その人生を償わせようとする異端審問官に対し、力強く棄教の宣言をもって応えた。「判決を聴く私よりも、それを口にするあなた方のほうが怖がっている」と。彼はずっと前からわが身を犠牲にしてきたのだ。不撓不屈の思想の英雄の不安を描いたソネットで彼は言う。
「栄光への願いにわが翼を羽ばたかせるや、私は宙にあり、激しい風に身を委ね、天空にあって地上を軽蔑する」
「私は、ダイダロスの息子よろしく、大地に敗れた。だが、いかなる死がわが生に値しようか」
「私は、わが心に語りかける声を空に響かせる。向こう見ずな者よ、おまえは私をどこに連れ去ろうというのか? また翼を折ってしまうぞ。偉大な勇気もまれに罰せられることがあるのだから」
「私は答える。なぜかような最後を恐れるのか! 勇気をもって諸天を渡り、満ち足りて死せよ、たとえ天空がわれらに華々しき死を定めようとも」
テレージオはカンパネッラの反逆心をかき立てた最初の師だった。自然の哲学を求め、大学の書物の授業を拒絶した。
「世の中のすべての書物は、とソネットの中で彼は言っている、私の飽くなき渇望を満たすことはできなかった。そのことに私はどれほど苦しんだことか? だが糧もなく、私は死ぬのだ」
「森羅万象の研究が私を養うほどに、わが餓えは増えまさり、すべての感覚をもって求め探すほどに、私は理解し、そしてさらに無知となった」
カンパネッラの激しい気質は彼を極端に導いた。大学での型どおりの哲学教育に不信感を抱いた彼は、書物に書かれた歴史記述にも疑念をもった。実際、シャルルマーニュについて、歴史書の物語によってしか知ることがなかったために、その存在を疑ったことを、彼は『詩学』の中で告白している。『リブロス・プロプリイス』(LIbris propriis)で彼が書いているところによれば、「プラトンやプリニウス、ガレノス、ストア派の哲学者、そしてテレージオの著書に」読み取ったことを信じるまえに、「私はそこに書かれた事柄を自然という偉大な書物と対照し、写されたことがいかほど信頼のおける原本に違っていないかを確かめようと決心した」
「世界は、永遠の知性がその知恵を書き込んだ世界である。その知性は、生ける化身で飾られた生きた寺院の中で、その業の数々と自らの像を描くのだ」
「……だが、書物という死せる寺院、生ける書物の不実な写しにとらわれたわれわれは、そのほうを好むのだ」
自然の研究は全体の声だった。「哲学は、自然という大きな書物の中に書き込まれている」とガリレオは宣言したが、18世紀、ルソーが切り開いたロマン主義文学は、自然への同様の回帰によって、宣言されたのだった。この文学運動は、ちょうど哲学運動が教会の教条的な支配への反抗であったように、貴族支配の社会の人工的な生に対する抗議だったのだ。
世界、森羅万象から、キリスト教によって教え込まれたものとは異なる観念を作り出す必要があったのだ。
地上は、カトリックの教義によれば悪魔が聖人のか弱き肉を堕落させるために幾千となく罠を仕掛けた嘆きの谷だが、ブルーノにとっては美に輝くものだった。彼にとって、生は好ましく、自然はその最も乏しい作品においても驚嘆すべきものとして、またその力において限りのないものと見えたのだ。「世界は〈神〉の真正の似姿である(Mundum esse Dei veram statuam)」とテレージオは大胆にも述べている。またブルーノは「自然はものの形をまとった神である(Natura est Deus in rebus)」と言った。これら先駆者と同様、カンパネッラは〈自然〉全体に生き生きとした命を与えた。「宇宙は巨大で完璧な生き物だ、と彼はあるソネットの中で語っている、神に似せた似姿だ……と。われらは、不完全な存在で、世界の胎内に生き棲みついたあわれな族なのだ……。われらはこの身体に巣くう寄生虫よろしく、最も大きな生き物である〈大地〉にあるのだ」
テレージオの思想を受け継ぎ、それを完成させたカンパネッラはあらゆる物体(corps)や存在物のように、感覚もなく動かないものに対し、その保存の欲求に応じた感性を付与した。星、元素、植物はある感性的生を生きている。それは死体も同様である。なんとなれば、死は相対的なものでしかないからだ。動物は知性を授かっており物事について考える。動物はそれぞれ理解できる言語をもっているのだ、とカンパネッラは主張した。さらに、〈神〉はこの宇宙のすべての存在、すべてのもののうちに生きており、宇宙は神の生ける似姿(esse Dei vivam statuam)なのだ[15]。「神は宇宙と一体である。それを作り上げる内部の芸術家として、またそれを支える実体として」とブルーノは言い。ポステルは〈宇宙〉は普遍の魂によって動かされていると考えた。
物質は永遠であり、全体から見れば増えも減りもしないとテレージオは主張した。ポステルは、物質は、その本性からして失われえないがゆえに、姿を変えるのであり、絶対的な休息に至る必要があると考えた。これらの思想家の中でもひときわ光彩を放つブルーノは、一つの原理すなわち物質と、一つの原因すなわち動因しか認めなかった。つまり、すべてのにびが物質と力によって形づくられているのだ。ヘラクレイトスの唯物論が甦ったのだ。
これら思想家の頭脳に閉じこめられた哲学理論と神秘的観念は、印刷に付されたり訳されたりして熱意を持って研究されたギリシャの哲学者の作品と、一六世紀に熱狂的に受け入れられたカバラとによって広まったものだった。
* * *
コセンツァのドメニコ会修道院で哲学を学んだ頃、カンパネッラは、ある年老いたラビと知り合った。彼はカンパネッラに神秘学や占星術、魔術、錬金術を教えるほかカバラの手ほどきを行った。この神秘的な書物は、口伝えで何らかの規則に基づく秘密の下にのみ伝えられるもので、中世思想に大きな影響を与えたものだ。ピコ・デラ・ミランドーラ、コルネリウス・アグリッパ、パラケルスス、ロバート・フラッド、ファン・ヘルモント、ブルーノその他に教えられた。おそらく聖トマスもまたその哲学の一部はそこから汲んだだろう。彼が、科学や哲学、商業に尽くしたユダヤ人を擁護したのは、感謝を示すためなのだ。
カバラは神に由来し、その初めの巻は『創造の書』(Sepher iecirah)は、よく知られたある天使によってアダムに示された。カバラはあらゆる知恵を含んでいる。ロイヒリン〔Johan Reuchlin 一四五五〜一五七二:キリスト教的カバラ主義者〕その他のカバリストは、カバラが古代のあらゆる知恵に霊感を与えたのだと主張する。彼らによれば、たとえばピュタゴラス学派は、その魂の転生説や数の理論などはカバラから借りてきたのだ。しかし、おおよそのところ、カバラは、古代世界のあちこちに離散したユダヤ人によって集められ、イスラエル人の天才が作りかえ、エジプトやアジアの宗教的神秘主義と混ぜ合わされたものだろう。それは最も高度な哲学的観念と幼児性、オカルティズムの幻想的夢想とのきわめて極端で混乱した混合物だ。カバラは、数的価値をもった文字の組合せによって、表面的な文字の背後に隠された聖書の神秘的な意味を見出すことを教え、内面の世界に至上の力を作用させ超自然的な結果を生み出す業を示すのだ。カバラの神秘の出来のよくない真似事が、イエス・キリストが行った奇蹟だった。
この雑然と積み上げられた解きほぐしがたい堆積物を研究する勇気をもった現代人は、そこから哲学的汎神論を引き出すが、それは、物質界の諸現象を規定する法則(ordo et connexio revum)を、精神の諸現象がそれに基づいて結びつく論理的規則(ordo et connexio idearum)と同じものと見なし、前者を後者に従わせるという一種の観念論的思弁に結びつくものなのだ。つまり、ヘーゲルが概念について語ったように、〈宇宙〉の創造を〈存在〉の発展によって説明し、存在とその多様な現れ、すなわちカバラのいうところの流出の外には何ものも存在しないことを主張するのだ。
エン・ソフ(En-Soph)と呼ばれる潜在的な〈存在〉は、宇宙を生み出す以前の無限無形のままである限りにおいて、つまりいかなる形式ももたず、その無限性に対しいかなる規矩も課せられない、同一ものもである限りにおいて、存在しない。ヘブライ語のain, nihilなのだ。「自らの家のとどまる〈存在〉は決定されることなく、人間の言語において何ものか名づけられるものの外にある」と、カバラの第二の書『光輝の書』(Zo-har)は言う。無限の〈存在〉は自らを知らず、存在しないかのようにあり、〈非-在〉なのだ。それは知恵もなく、力もなく、属性もない。なぜなら、属性は区別を、したがって限定を伴うからだ。
自らを手に入れ、その無形から出るために、〈存在〉は自分に対して、〈思考〉として、〈言葉〉として顕れる。〈思考〉については、十のセフィロト、十の最初の数字が抽象的に表され、〈言葉〉については、言語のエレメントである、ヘブライ語の二二のアルファベットによって表され、それらは十のセフィロトとともに、〈知恵〉の三二の声なのだ。
最初の流出、第一のセフィロトはディアデームあるいは〈王位〉と呼ばれるが、無限無形の〈存在〉に対して、有限有形の〈存在〉だ。聖書の中でその名前は「我あり」と告げられている。無限のもののこの最初の顕れはきわめて濃縮されており、その象徴は数学における点、ヘブライ語のアルファベットの最も小さい文字lodだ。これらの象徴は、有形の〈存在〉が最初の一体性、あらゆるものの始まりと終わりであることを教える。なぜなら、数学的点は直線の、直線は面の、面は立体の始まりであり、十という数字はあらゆる記数法の終点だからだ。有形の〈存在〉の濃縮があまりに強く、いかなる属性も区別されず、それは〈非-在〉とも呼ばれる。世界が創造されたのは、この〈非-在〉とともにであって、〈無〉とともにではない。
原子のように小さく分割されない、この一体性のうちに、同時に二つのセフィロト、男性原理である〈知恵〉と女性原理である〈知性〉(これらは〈学〉を生み出す)が流出し、第一の不可分の三位一体を形成する。〈知性〉から〈恩寵〉すなわち〈力能〉と〈正しさ〉すなわち〈偉大さ〉が流出し、それらは〈美〉を生み出すために結びつく。かくして第二の三位一体が形成されるのだ。〈美〉からは、〈勝利〉と〈栄光〉が流出し、十番目のセフィロトが生み出される。これには他のセフィロトのすべての力が凝縮されている。ちょうど数字の十がそれ以前の9つの数字をそのうちに含むように。その象徴がファルスだ。
自らを生成した〈存在〉は、同様のやり方で他の〈諸存在〉を生成する。〈存在〉は、互いに関連しあう一連の流出の連続によって、言い換えれば、解きほどかれる存在の一連の流儀によって、諸存在が起源点から遠ざかっていくにつれ、それぞれが互いに流出し次第に弱まっていく力として、自らを顕すのだ。
物質的創造は、セフィロトの観念的創造を生み出す。極限まで拡大されたもの、すなわち〈宇宙〉、マクロコスモスが一方にあり、もう一方に極限まで集中化されたもの、すなわち人間、ミクロコスモスがある。人間はあらゆる創造物の要約であり、魂によって存在のあらゆる属性を分有し、肉体によってマクロコスモスの中に存在するあらゆるものをもつ。医学の分野でアヴィセンナやガレノスの学説と闘い、カバラから影響を受けたパラケルススはこう言っている。「原型(archetype)の一つの元素、一本の木、知性、能力、理知と照応していない人間などひとりもいない」
〈宇宙〉の創造、人間の創造に至る〈存在〉の拡大運動は、あらゆるものの最終的な目的である、〈存在〉それ自身の集中・濃縮という逆向きの運動によって続けられるだろう。
〈存在〉と創造を同一のものとみなすことは、カバラをグノーシス主義やアレクサンドリアの哲学、ヒンドゥー教やキリスト教の神秘主義とはことなる創造観をもたらした。なぜなら、それらによれば存在の生成は失墜であり、世界は呪いであり、生は悪意ある神によって目的も理由もなく人間に与えられた苦痛だからだ。それに反して、カバラにとっての創造は〈存在〉の善と偉大さの顕れであり、愛の業、祝福なのだ。絶対的な悪も、永遠の呪いも、悪魔も存在しない。地獄は消え去り至上の楽園へと変わる。そのとき生は永遠に続く祝祭となり、終わりなき安息日となるだろう。
* * *
カンパネッラの哲学にはカバラの影響が色濃く残っている。
無限の存在は、第一のセフィロト〈私はある〉を生み出し、自らを知ることによって、その活動の第一歩を踏み出す。カンパネッラは、彼の言によれば、私が何ものかであること、それが私はあるということだ、と決意することから出発する。デカルトなら我思う、ゆえに我ありと言ったに違いない[16]。〈存在〉の属性を分有する人間の魂は、それらを見出すためには意識を差し向けるだけでよい、そして、その実在を明らかにした後に、魂は、できること、知ること、望むことを確認するのだ。この三つの働きは、潜在力(potentia)、知(sapientia)、そして共感(amor)という、〈存在〉の三つの根源的な属性(primalitates)なのだ。これらと対立する属性、不能・無能(inpotentia)、無知(insipentia)、反感(odiummetaphisicum)は、それ自身で存在しえない〈無〉にではなく、あらゆるものを限定しそれらに縛りつける〈非-在〉に属する。この〈非-在〉はカバラの無限の〈存在〉だ。動物や植物、生命のない物体と同くじ人間など創造されたあらゆるものは、程度の違いはあれ、三つの根源的な属性(primalitates)に属しており、〈存在〉のみがその一体性を有している。それらの属性をすべての存在者に対して結びつけるのは〈存在〉なのだ。存在者が三つの根源的な属性(primalitates)のかけら、〈存在〉のかけらをうちにもたなければ、あらゆるものは存在しない。したがって〈存在〉はすべてのうちにある。〈存在〉はすべてである。〈非-在〉があらゆるものを取り囲んだとしても、それは何ものでもない。
カバラによれば、〈存在〉は、流出によって宇宙を創造した後、自らのうちに凝縮しすべてを吸収するという。同様にカンパネッラも、世界の展開の原理と法則が確立した後、世界の病、衰微、そして死を見出した。しかし、アナクシマンドロスやイオニア学派の哲学者が教えたように、この死は新しい生の条件となるだろう。すべては生まれ、そして再び生まれるために死ななければならない。ポステルはこの世界の歴史を六〇〇〇年と見積もるに至った。世界には、上昇する展開が果たされれば、それに続いて別の下降する展開に至るというこの見方は、カンパネッラ以上に神秘主義的で、また博識な者の多かった彼の時代をもその知識で驚ろかせたこの著名な異邦人を、歴史の法則の発見にまで導いた。それは、後にヘーゲルが再発見するはずのものだが、ポステルによれば、あらゆる革命、あらゆる歴史的事件、見るところ何か常軌を逸したもの、矛盾したもの、意味や目的にかけるものは無用のものではない。なぜなら、それはある定められた目的、宗教の一体性によってなされるはずの人間的領域の一体性へと向かうものなのだ。----もっとも、ただ一つの事実、つまりコーランの広まりだけは、この展開の枠組みにあてはまらない、と彼は言っている。
〈存在〉が世界の中で展開するのと同様に、人間の精神もまた世界についての意識の中で展開する。カンパネッラは、この展開の歩みを知(sciences)の分類によって示そうとした。ベーコンがこうした知を主体という漠然とした観点、すなわち知の形成に寄与するさまざまな知的能力によって整理したのに対し、カンパネッラは対象によって分類した。神に関する知つまり神学(theologie)と人間に関する知つまりミクロロジー(micrologie)と、さらにそれら共通する原理をうちにもつ形而上学(Metaphisique)がそれだ。ミクロロジーは次の二つに大きく分けられる。「医学」「地理学」「宇宙論」「天文学」「占星術」の五つからなる自然の学と、それに等しく「倫理学」「政治学」「経済学」「修辞学」「詩学」の五つからなる精神の学だ。カンパネッラは魔術を応用学に分類したが、それは自然魔術、天使的魔術、悪魔的魔術に分けた。
カンパネッラは、多くの同時代人と同様、占星術を固く信じた。異端の廉による火刑から逃れ、また教皇や王、また大臣たちの中に彼をイエズス会の憎しみやスペイン政府からの怒りから保護してくれる忠実な友を見出したとしても、それは彼の占星術師としての名声によるものだった。カンパネッラは作品のすべてに占星術の戯れ言をちりばめているが、ある6巻からなる書物の一冊では、アラビア人やユダヤ人の迷信を暴き、聖トマスや聖書に基づき占星学の正しさを哲学的に述べたと主張している。
カンパネッラは言う。「天体は自然に影響を与える。もし太陽が光を植物に注がなければ、植物は花を咲かせることができないだろう。温度は宇宙的な原因つまり天の生み出したものである。これが、われわれがあらゆる活動において天空の影響に従う理由である」。カンパネッラは、このごく当然の事実の示すところを、ミクロコスモス(人間)をマクロコスモス(宇宙)の要約・反復とするカバラの理論に結びつけ、人間の運命と天体の軌道の照応――それは悪の原因であり〈神〉の告知でもあった――を作り上げたのだ。「世界の目的は、太陽と星の中の徴によって告げられる」と彼は言う。ポステルは「自然の家にあるすべてのものは、星々の配置によって、天にヘブライ文字をもって書き込まれている」と述べた。つまり、カバラによれば、ヘブライ語の二二のアルファベットと、最初の一〇個の数字は、知恵の三二の声をつくるのだ。
2.
ポステルやその他の16世紀の思想家たちと同様、カンパネッラは、人類の統一を信じ、同一の権力の下に民衆の統一を達成するのは誰かについて考えた。彼は哲学の形ではあったが、それとは知らず、当時の資本主義的ブルジョワジーの高まる経済的欲求を解きあかしたのだ。事実、ブルジョワジーが、都市や農村の廃墟のうえに国民的統一を立ち上げるためには、それらの自治を打ち壊すことでしか、政治的経済的に成長できないのだ。もっとも、商品の自由な流通を妨げる地域や農村の障碍を覆し、マニュファクチュアによる産業の確立に反対する地域、団体の特権を奪い、貨幣を好き勝手につくる王や封建領主に金銭と金の価値に敬意を払うよう仕向け、複数の地方の間での交換を妨げるバラバラの度量衡を統一するなどからなる国民的統一は、われわれの時代にようやくその形を整えるに至ったものだった。
その広大な商業網によってアジア、アフリカ、ヨーロッパの民衆と関係のあったユダヤ人は、哲学にその経済的欲求を持ちこんだ最初の人々だった。その国際的な商業は、彼らにそのイデオロギーの先導者となさしめたのだ。カバラのいう汎神論と〈魂〉の転生は、商品の価値とその交換の形而上的な表現以外の何ものでもない。すべての創造物の中にある〈存在〉と同様、価値はすべての売買されるものの中に含まれる。生命のあるなしにかかわらずすべてのものが〈存在〉の属性をそれ相応にもっているように、すべての商品はある決まった価値量をもっている。ある商品の価値は他の商品に転生するが、それは商品のうちにはその原料と生産手段の価値が生きているからだ。あらゆる商品は質的に異なるにもかかわらず、しかし至上の商品となりさまざまな商品の一体性を体現する貨幣において、量的な価値の違いとして表される。マルクスが言うように、資本主義的交換は貨幣に至るために、いや利殖を伴った貨幣に至るために貨幣から始められるのだ。カバラの神智学では、統一体つまり第一のセフィロトから始まり、一〇番目のセフィロトとともに複雑な一体性へと至るために、それ以前の九つのセフィロトの属性が一〇番目のセフィロトに加えられた。
中世には、二つの政治的一体性があった。農奴から王まで同一の地域社会にあるすべての成員が互酬的権利義務によって結びついた封建的階層社会と、ごく限られた者しかその場所には含まれなかったがより一般的で、キリスト教国家の上に広がっていたカトリック階層社会だ。これら二つは支配をめぐって争っていた。教皇とその学者たちは封建組織の所有、王権を攻撃した。グレゴリウス7世は、それらを「悪魔から生まれ人間の奢りにより作り上げられたもの」と断言した。聖トマスは、移ろい滅びゆく地上の権力(pouvoir)の上に、教皇の霊的権威(puissance)を掲げたが、彼はそれを、哲学と聖書の名において、人民と王を超えるもの、両者の対立を仲裁するものと主張した。
ドメニコ会修道士時代のカンパネッラは、新しい政治的秩序を作ることでヨーロッパ社会ヲ統一しようとする代わりに、後ろ向きに、あらゆる側から攻撃されていた教皇の権威を立て直すことを夢見た。『メシアの王国』(Monarchia Messiae)において、彼は聖トマスと同様、人間と神の哲学の名において、すべての地上的なものに対する教皇の権限を主張している。宗教の一体性は人類の統一をもたらすだろうとポステルは考えたが、それには三つの敵があった。ユダヤ人、イスラム教徒、偶像崇拝者であり、彼はこの者たちを伝道と理性の力によって改宗させることを主張した。カンパネッラは、宗教裁判所の長を送り出していた修道会に属しており、プロテスタントやイスラム教徒を減らすために力を行使することには躊躇しなかった。彼らは人類の統一がそこから始まるだろう神政政治による統一の確立を妨げる者だったからだ。かれは暴力によって異端を根絶することを主権者たちに進言し、プロテスタントに対抗するべく徴兵を行うよう教皇に提案したのだ。
カンパネッラが教皇支配に求めたこの人類の統一を、彼は宿敵であるスペイン王国の助力によって実現しつつあると考えていた。彼は著名な『スペイン王国(De Monarchica Hispanica)』(この書は発表後、ドイツ語、英語に翻訳された)を著したとき、スペイン王の牢獄にあった。彼は次のように書いている。「この人類の統一が実現する日は遠くない。それは一六世紀の歴史の一頁一頁に告知され書き込まれている。スペイン王国の限りない拡大は神の御業である。それは、摂理による計画に授けられるために、ヨーロッパの人民を選び、最も神聖な神の徴を与えたのであり、太陽の照らすところあまねく、キリストの宗教はその荘厳さと犠牲をもつ。カトリックの王は全宇宙をその法の下に治め、その証書はもはや空虚な言葉ではない。一方の手にキリストの十字架像を、もう一方に剣をもって、プロテスタントとイスラム教徒が地上から消えるまで戦わなければならない。なんとなれば、敵を倒し地にひれ伏させ教会の勝利をもたらすことが、その使命だからである。今日のキュロスが今日のこのバビロン捕囚に終止符を打つに違いない」。しかし、こうした出来事が準備したものは、教会の勝利ではなく、資本主義的ブルジョワジーの勝利だった。
しかし、カンパネッラが力に頼ることをも厭わなかったこの宗教的・政治的統一だが、それは対立を終わらせ地上に平和と善を確立するためにのみ求められたのだった。その長く苦難に満ちた人生において、彼はその行動をコミュニズムの確立という目的に傾けた。三二歳の若さで、それを実現するために蜂起を説いて組織し、投獄と拷問にも屈することなく、牢獄の奥からオスナ公と陰謀を企て、ユートピアを夢見て自らの不運を慰めたのだった。そして再び自由になって、彼は『太陽の都』を著した。
エクスラシャベルに王と資本家たちを呼びファランステールを採用させようとしたフーリエのように、自らの思想に熱狂的に取り憑かれたカンパネッラは、その哲学的共和国に関する著述が〈世界〉の人民を改宗させるものと信じた。彼はソネットの中で共和国の到来を予言している。
「幸福な黄金時代がかつてあったなら、再び訪れないことがあろうか? かつて存在したものはみな、その移りゆきを終えた後、始源に戻るのだから」
「……私が観じ説いたように、人間がみな有益、善、徳のうちに共通なるものをもっているならば、世界は〈楽園〉となろう」
他のソネットでは、次のように予言する。
「それならば、あなた方は、神の御意志がこの世で果たされる時の来ることを祈り、切に願うことができるのだ」
「……なんとなれば、詩人は、金があらゆる金属を超えるように、他のいかなる時代よりも優れた時代を見るであろうからだ」
「……かくして哲学者は、自身によって描かれはしても、いまだこの世に存在したことのない、この完全な共和国を見ることができるだろう」
いかなる幻滅もカンパネッラの深く燃え上がる信念を揺さぶることはない。生涯の最後の日まで、彼はそのユートピアの夢を追い続けたのだ。彼は書いている。「神学的論述『無神論克服(Atheismus Triamphatus)』の中の不信心者を辱めて、私は、〈楽園〉の幕開けを、善に満ちた黄金の世紀(そこでは信仰を欠いた神なき者は除かれるが)を待つ」
4 『太陽の都』
カンパネッラのユートピアである『太陽の都』はラテン語で書かれ〔実際にはイタリア語が先〕、一六二〇〜一六二三年フランクフルトで著され彼の死の二年前に再刊された『実践哲学』(Philosophia realis)の第三部『政治学』の補遺として収められた。これ以上詳細な文献情報には立ち入らないが、ユートピア的社会主義が喧伝されていた頃、『太陽の都』の二つの翻訳(一つは一八四六年ヴィルガルデル訳、もう一つは一八四四年ジュール・ロッセ訳だ、こちらの方はルイーズ・コレ夫人による伝記的注記が付されていた)がパリで登場したことにふれておくのは興味深いことだろう。一八八五年には、Th・W・ホリディが英訳をした、プルタルコス『リュウクルゴスの生涯』、ベーコン『ニュー・アトランティス』そしてカンパネッラ『太陽の都』が、『理想的共同体』というタイトルでモーリー氏の手によって一冊にまとめられた。
カンパネッラのユートピアは、これまでに書かれたうちで最も大胆で完全、そして美しいものの一つだ。その《哲学的共和国》の組織には、成人男性同士の、また女性や子どもとのあらゆる社会的関係が含まれており、それは私的生活の詳細にまで至る。それは精神のまったき自由をもって、その時代が、また一九世紀もなお提起するさまざまな社会問題に取り組み解決するものだった。
トマス・モアの『ユートピア』は、宮廷の権謀術数の中に生きた政治家の作品だ。彼は、自ら批判し時には辛辣に風刺した社会を熟知していた。正義を弄ぶ野蛮人に憤り、住む場所を羊に追われ些細な罪のために無慈悲にも物乞いや受刑者として町に追いやられた農夫たちを打ちのめす不幸に対し深い憐れみの念を抱いていている。トマス・モアは観察によって私有財産と貨幣が争いと暴力と悲惨の原因であることを認識するに至った。だが、モアのコミュニズムは過去の復興なのだ。それは、当時なお多くあった村落共同体の家父長制家族のコミュニズムへの回帰なのだ。ただし、住民数およそ四万の町と同様の他の町とが連邦制によって結びつけられ規模としては大きくなっていた。また、モアは男女の関係の改善は考えなかった。つまり、女性は男性に完全に依存した位置に留め置かれ、女性のすべての権利は夫が保有し、そこでは男権的道徳観念を女性に教え込むために殴りつけるものとされていたのだ。
これに対して、カンパネッラは世間など考慮していない。幼少期から修道院のコミュニズムのうちに暮らし、形而上的な思想の大胆さに身を投じていたのだ。また、若くして牢獄にあって、人間の社会の姿など牢獄の中からしか見なかった。ギリシャの思想家の著作と当時アジアやアメリカで発見された人々の物珍しい習俗を語る物語によって養われた豊かで奔放な想像力に取り囲まれていたのだ。彼は、その理想都市のいちいちを実現の可能性など一切考えずに作り上げ、その実現のためには人々がそれを知る以外にないという信念で、彼はそれを女性を含む人間に差し出したのだ。これに対し、モアは、ユートピアが実現されるかどうかについては懐疑的だった。復興を求めたコミュニズムが、かつて存在しなかったほど個人主義的な社会を形成しようとする経済現象によって、永遠の崩壊を遂げつつあることをこのイギリス人思想家は知っているのだ。
コミュニズムの都市がすぐにも実現可能であるためにはそれを構想しさえすればよいと考え幻想を抱くには、カンパネッラがそうであったように、周囲の世界の現実を無視する観念論者でなければならない。人類はその運命として経済現象が課す個人主義の型枠を耐え忍ばねばならないが、経済現象は発展する中で自ら作り上げた個人主義的型枠を壊しコミュニズム的型枠を準備するという役目も負う。個人主義がコミュニズムから生まれたように、コミュニズムも個人主義から生まれるだろう。現代の思想家、活動家には、俗物たちがユートピアを望んだようにそれを夢見るのではなく、出来事の歩みについてその速度を速めるべく研究と理解に努める使命がある。この俗物の皆さま方がユートピアの再現を望まれるなら、われわれとしては彼らをカンパネッラの才気あふれる作品に立ち返らせよう。読むのに、貴重な時間をそれほど必要としないことでもあるし。
われわれは、小冊でありながら多くの問いが詰めこまれた『太陽の都』の全体をここに採録したいところだ。しかし、われわれは読者が、この16世紀の修道士(というのも一六三九年に死んだとはいえ、彼はその天賦の勇敢さ、精神の神秘主義によって一六世紀の人間だったからだ)が作り上げた世界観を理解できるようシンプルな分析に限るべきだろう。もちろん十分満足のいくよう試みものだが。
1.
地方から地方へ、町から町へ、そして村から村へとうち続く戦争が封建制中世の人生だった。そこから人々は抜け出したところだった。都市の中の家や修道院は腰を据えられる確かな場所だった。男たちも女たちや子どもたちも、また聖職者も平信徒も、住民はみな、攻撃のためではなく自衛のためにしばしば武器をとらなければならなかった。何よりもまず、敵に立ち向かうために優れた城壁を持つことが関心事だった。
〈太陽の都〉は、四つの王国の並び立つ島にあり、エルサレムや中世の都市がそうであったように、小高い丘の上に立つ城塞だ。大砲とその他の兵器の備えつけられ、銃眼のついた7つの城壁に取り囲まれている。つまり、敵が勝利するためには、七回の攻撃に成功しなければならないというわけだ。トマス・モアも同じように、ユートピアを大陸から離し、奇襲から守られるよう首都アモーロートの飲み水用の水源を設けるといった巧妙な仕掛けでユートピアを強固にすべく注意を払った。
プラトンは、商業港湾都市に暮らしたが、その住民はさまざまな職業を持っていた。そのため、プラトンは〈共和国〉の防衛を兵士と哲学者そしてコミュニストからなる一団に委ねだ。彼らは傭兵の類であり、プラトンは彼らを皮肉をもって「やせた用心深い犬」に比している。実際、彼にとって、犬は哲学的な動物だった。というのも、犬は主人を守り敵を攻撃することができるからだ。一方、その他の市民はといえば、コミュニスト的組織を作り上げることなどおかまいなく、商売や物作りに余念がなかった。これに対し、太陽の都では、すべての住民が年齢性別の区別なしに防衛に貢献する義務がある。全員が兵士なのだ。軍事教練は12歳から始まるが、それ以前にすでに太陽市民は、封建諸侯の子弟と同様、あらゆる身体的鍛錬に慣れ親しんでいた。しかし、一二歳からは「敵、馬、象をたたく」こと、剣や槍の扱い方、矢の射方、投石機の扱い、馬に乗り、「タタール人がするように」手綱なしに馬を操る方法、攻撃法、退却法、隊形の組み方、危険にある友の救助法など、要するにあらゆる戦い方が教えられる。「女性にも、他の仕事同様、戦争のための教育が行われる、この点については、太陽市民はプラトンに賛成している。私はプラトンの中で同様のことを読んだが、この点について私はアリストテレスにまったく反対だ」。戦争は必要なだけでなく、徳を高める動機でもある。つまり、太陽市民が軟弱になるのを防ぐものなのだ。カンパネッラはここで蛮族的思考を再び持ち出す。定住化し農耕を介しし始めたゲルマン民族は、勇敢さの徳を保つために遠征をし続けているのだとカエサルは見た。太陽市民は戦闘における誇りを培い、名誉に敏感なため、「たとえ彼らが何ものをも侮辱しなくとも、彼らは一切の侮辱を忍ぶことはない」。カンパネッラの都市の姿は修道士としての彼の生活の影響を多かれ少なかれ受けていたが、カンパネッラは、頬を打たれたらさらに頬を差し出せというキリスト教的規範の信奉者ではなかった。実際、この原則は、その大半が奴隷や解放奴隷であった初期キリスト教徒にとってはよきものではあっても、コミュニスト社会の自由で平等な人間にはふさわしくないものだった。
太陽市民は、プラトンの兵士と同様に、「まさにライオンの子やオオカミの子が獲物に食らいつく親に学ぶように戦いを学ぶために」戦場に子どもたちを連れていく。武装した女性もまた同じように、子どもたちを励まし勇気づけ手当をするために連れそう。カンパネッラはおそらくカエサルやタキトゥスが蛮族について書いたことを思い出したのだ。それによれば、蛮族たちは、ローマの兵士たちが、戦いの手助けをし、男たちを奮い立たせ、また逃げるときには道案内をしてくれ、傷の手当てをしてくれる女性を共に連れていないで、笞で打たれていることを馬鹿にしたという。カンパネッラは、確かにローマの著作家から、太陽市民のもつ戦争の慣習を部分的に借りてきている。事実、太陽の都の将軍たちは陣営をローマ式に強化しているし、ローマのように、最初の襲撃を果たした陣営には芝草の冠をもって賞讃されるとカンパネッラは書いている。実際、騎士の試合についてふれながら、英雄を褒め称える女たちのいるところでしか、褒美は与えられないのだ。
太陽市民は、アマゾネスやスパルタ市民と同様、戦いのあらゆる作業を女性の長の指導の下に行った。彼らに教えられるのは、とりわけ城塞を守ること、石や火を投げることなどだ。そして「少しでも恐れを見せた者は厳しく罰せられる」。都市には四六時中、城壁あるいは何もない平地に、見張りが立てられている。それは夜間は男たちが、昼間は女たちが勤めた。聖ヒエロニムスや教父の女性に対する尊大で馬鹿げた悪口、あるいは女性は魂をもった動物の中には位置づけられるべきかどうかを真剣に議論し多数決で女性が魂を一つもっているとした公会議を思うにつけ、いかにカンパネッラが宗教によって作り上げられた当時の偏見から自由であり、女性に対して男性と同様の権利義務を認める勇敢さをもっていたかに驚くだろう[17]。
健康な市民は毎年、閲兵式や軍事教練がある。野蛮人のまっすぐな思考をもった太陽市民は20歳以上のすべての共和国住民を大会議に召集した後にしか戦争をしない。戦うべきときはみな、討議に加わらなければならないのだ。
しかし、この勇敢な都市においてすべての住民が 性別年齢の区別なく兵士であるとはいえ、それはプラトンの共和国において議論されたような野営の生活ではない。
2.
カンパネッラは、観念的・神秘的哲学と占星術なしには、何も書くことができなかった。彼の傑作からそのきわめて深い見解を損なうこうした側面を取り除いてしまったならば、正確な理解を得られないだろう。彼のコミュニスト都市にとらわれなく入るために、そうした側面には立ち入らない。しかし、今日、彼の勇敢で教養ある精神を汚すかに見えるこの神秘的観念だが、これは当時の優れた人物よって共有されていたものであり、それは最古の伝統によって彼に伝えられたのだ。なぜなら、原初、人類は、世界について実証的な概念を作ることはできず、経験と観察に与えられたものを満たすために想像力の助けを借りたのだ。注意・関心にふれた現象をその現実の、物質的な原因ではなく、想像的な観念的な原因のせいにしたのだ。
カバラは数の神秘性の研究を展開したが、いつの時代も人々はそのことに関心を奪われていた。それは、おそらく基数とその組合せの発見や記数法もたらす操作性にたどり着くために人間の精神が乗り越えなければならない障害のためだ。数の抽象性に驚き魅入られた思想家は、すべてのものにそれを見出し、ピュタゴラス学派のように数をあらゆるものに内在する原因に変えた。今日の理神論者は、彼らの〈神〉の実在を数学的抽象化という絶対性によって証明するとき以外考えようとしない。カンパネッラは、数のオカルト的意味を信じていたが、カバラ的とも言える『太陽の都』の中では、それについてはあまり述べていない。
最初に出会う数は七だ。都市は七つの城壁に取り囲まれ、神殿には七つの惑星の名を持った7つの灯明がある。それには七つの惑星の名がついているが、それらはピュタゴラス的体系においては、妙なる音、えもいわれぬ和音を奏でながら不動の〈地球〉の周りをめぐる。太陽市民は彼らの発案による道具によってその音を聴くのだ。七という数は、一定の文化程度に達した人々にとって神秘的な数であったが、キリスト教徒もまたその数に心奪われた。黙示録はその数に満ちているし、オリゲネスや聖アウクスティヌス、サン・ティレールその他教会の著名な博士たちが六や七の力について長々と論じた。七つの秘蹟や七つの大罪など、カトリシズムの教義と儀式の中に七を見出せるだろう。太陽の都には七の倍数もしばしば登場する。占星術の神秘が書き込まれた天空を観察する司祭の人数は七かける七の四九人、学問と芸術を教える博士の数は七かける二の一四人なのだ……などなど。
神殿の丸屋根の上にはためく太陽都市の旗は三六の風向を示し、また最高指導者として浦ばれるためには三六歳にならなければならない。子どもたちの学習は、学問・芸術が六歳に、軍事教練が一二歳に始まる……など。三六や一二は六の倍数であり、ヤハウェの名の三番目の文字を表す数である六は、ピュタゴラス学派やカバリストたちから神聖視された。というのも、六は単独数、二つ組数、三つ組み数の和(1+2+3=6)、つまりあらゆる完全さの象徴なのだ。
三という数は、とりわけ神秘的な数であり、最初の野蛮人と考えられ、そこに到達するには非常な努力が必要とされると見なされているものなのだが、したがって、太陽市民の間では、きわめて高く評価されることになっていた。実際、それはいたるところに見られる。太陽都市には三人の長がおり、学問の教育は、神殿や町の外壁に書かれた短い三行詩によって行われ、三歳になると子どもたちはアルファベットを習い始める……など。
太陽市民は占星術を信じているが、「ヨーロッパ人は愚かで太陽や星の中に運命を読みとれない」と考えている。彼らには天体を研究する専門の司祭がおり、天空を観察することで、将来の予言や病気の治療のほか、七〇歳も若返らせることなどを行う。つまるところ、彼らは、馬の種付けや職業選択のほか大して重要でもないことまで、彼らを統べる星々に問いかけるのだ。
太陽市民は太陽を、神の似姿として崇拝している。それはここそこにあるものすべての創造者なのだ。「太陽は父であり、大地は母である」。太陽はすべてに人々よって神と見なされ、キリスト教においてもその祭式に痕跡を見出せる。カンパネッラが間違いが間違っていたとしても、それは少なくとも他の数多くの仲間と同じく間違ったのだ。カンパネッラのユートピアを嘲ろうとしてその占星術に対する考えを偉そうに指摘したがるやつらは、単に人間精神の歴史が見えていなかったと言うことなのだ。
3.
太陽都市は「共和国でもなければ君主制でもない、なぜなら最高指導者である〈ホーHoh〉の世俗的霊的権威は無制限のものだが、それは世襲されるものではなく選出されるものだからである」。〈ホー〉は一種の教皇なのだ。カバラでは、純粋存在を〈エン・ソフ〉と名づけたが、この名と太陽都市の最高指導者の名前の間にはどこか響きあう点、それはおそらく重要な意味を持ったオカルト的な含意がある。どんな場合でも、〈ホー〉(その名前は形而上学と意味する俗語に翻訳される)は、その全体性において、太陽市民の知識と徳をもつとされる。ちょうど、純粋存在がその完全さにおいて、人間が部分的にしか持たない属性をもつことができるように。
〈ホー〉に選ばれるために必要な知識は膨大なもので、かれはあらゆる民族の習俗、習慣、宗教儀礼をはじめ歴史も知らなければならない。そのほかに、数学や抽象的科学、物理学、そして形而上学を体現する存在であるために並はずれた学問深く究めていなければならない。また技術的学芸にも通じていなくてはならない。カンパネッラは手仕事を高く評価した最初の思想家だ。古代の異教徒は農耕を除いて労働を蔑み、排斥されていたキリスト教も教義として労働を懲罰とみなし、祭式に携わる者はそれを免れるとした。スコラ哲学者は技術の存在を無視し、医者や外科医は解剖学など学ぶ価値はないと考えた。それは床屋のための手仕事だったのだ。パラケルスス自身、彼は当時の医学に対し反旗を翻した人物だったが、解剖学に対するこの誤解を共有していた。神秘家の修道士で、修道院と牢獄にあって世間から離れて暮らした夢想家であるカンパネッラは、しかしながら、解剖学の重要性についてきわめて正確な理解を持っており、太陽市民は罪人の死体を切り刻み人間の器官を研究するのだと書いている。
太陽の都市のすばらしさを語る旅人は、〈ホー〉に選ばれるために求められるさまざまな理論的技術的知識を一人の人間が持ちうることに人は驚くだろうことを知っており、次のことを付け加えることを忘れてはいない。つまり、太陽市民は「アリストテレスが論理学者であって哲学者ではない」と見なしスコラ哲学の空虚なゴミの山をバカにしているし、科学とは本を読むことではなく自然を研究することだと理解している。そして、彼らの町はそれ自体が大きな博物館であり、その壁は地図や天球図、動植物の絵でいっぱいだ。そして可能なときは、感官によって教育をより完全にするために、その絵の横に植物や鉱物などのものが置かれる。アルファベット自体、壁に書かれているため、子どもたちはみな広間で遊びながら文字を覚える。こうした新しい指導方法によって、太陽市民は、「やみくもに記憶に頼って言葉を覚えるほかない」ヨーロッパの学校で一〇年かかってやっと修得する知識を一年でマスターするのだ。
三人の副指導者は、同様に選ばれ、〈ホー〉の指導のもと、都市を統治する。彼らは純粋存在の三つの根本的属性に対応しており、その名前を彼らはそれぞれ持ち、呼ばれる。すなわち、〈力〉〈知恵〉〈愛〉だ。〈力〉は戦争と軍事技術を専門とする。〈知恵〉は、一三人の博士(その筆頭者は占星術と呼ばれる)とともに、科学と技術の教育に当たる。〈愛〉は、住民の維持と再生産に関わるあらゆることがらをその統制のもとに置く。彼はよき子を授かるよう、動物のつがいや人間の夫婦を決める。われわれ〔ヨーロッパ人〕の習俗や習慣をよく知っている太陽市民は、「われわれが犬や馬の改良に注意を払っているのに、人間を完全にしようとは気にもとめていないのをバカにする」。何も偶然のままにはされない。〈愛〉は、種まきや収穫の時期を決め、家畜に気を配り、料理の準備、食品の種類、衣類の品質、子どもの教育、性関係に関するルールを作る。すべてはあらかじめ定められる。
〈ホー〉を補佐する三人は、その担当する分野の学問・技術だけではなく、すべての学問・技術に共通の原理について幅広い知識を持っている。
〈ホー〉と三人の補佐は物事を管理し、「人々を司法官の狡知をもって悪徳に染まらぬよう」人々を監督する。彼らは褒美を与え懲罰を科す。勇敢な兵士は冠を与えられ数日間軍事教練を免除される。一方、逃亡兵士は、軍全体が恩寵を求めない限り、タキトゥスのゲルマン人のように、死刑を宣告される。また伴仲間を助けなかった兵士は鞭打ちに処せられ、作戦において指揮官の命令に従わなかった兵士は猛獣の中に投げ込まれる。
民間の犯罪は同業組合の裁判で取り扱われる。犯人は各職業の長によって裁かれ、追放、鞭打ち、譴責、共同食堂からの排除、女性との交際禁止が命じられる。同罪の刑が太陽都市の正義だ。つまり、死には死を、追放には追放を、目には目を、等々。しかし、牢獄はなく、すべては訴訟手続きなしで裁かれる。告発人と証人の話が聞かれ、彼らの語るところに従い、司法官が判決を言い渡す。この自由で平等な人間の都市には死刑執行のいる余地はあり得ないが、判決は罪人に石を投げる人々によって実行される。その際、告発人がまず石を投げる。神の右手と呼ばれるこの正義は、往々にして野蛮人の残酷な正義であり、緩和的な措置によって軽減される。罪人は懲罰に値することを認めなければならないが、そうすれば罰せられない。過ちを懺悔することで償い、修道院で序列に従って告白するように、すべての懺悔が〈ホー〉に届いたとき、彼は神に過ちを告白し、都市全体への過ちに対し許しを請う。神に人間の犠牲を捧げるが、それは自発的でなければならない。毎年、〈ホー〉は集まった人民に対し、全市民の救いのためにスケープゴートを差し出し神に捧げる者を募る。とはいえ、生け贄は、殺される代わりに、塔に閉じこめられる。塔では、生け贄が餓死しないようきちんと食事が与えられる。そして二〇、三〇日後、罪は贖われ、犠牲にされた者(Je)は再び同胞のもとには戻らない。彼は神に捧げられたのだ。人々はいつも出自を示す刻印を持っている。カンパネッラの精神は、蛮族や異教徒の歴史に深く親しみ、また大胆不敵だったが、修道士の習慣にとらわれたままだった。それは彼につきまとい、スペイン王評議会においても、彼はつねにその注意を修道士の共同体に払っている。かれはそこに人類の善を確立するコミュニスト的組織の萌芽を見ていたようだ。
4.
太陽市民は、子どもを社会のものだと考えている。「彼らは1人の人間が、妻や子どもや家を自分のものであるかのように利用するのと同様、子どもを所有し、養育することを否定している。彼らは。聖トマスが主張したように、子どもを養育するのは、種族の維持のためであって、個人の楽しみのためであってはならないと言う。なぜなら彼らは、共同体の不可欠な一員として、子どもの教育を個人の利益ではなく共同体の利益の観点から行うからである」。
太陽市民はスパルタの習俗を再現している。彼らは子どもの教育をいわば生まれる前から、発育の前から始まる。最も美しい女性が生殖のために選ばれる。そして、この生殖を行う夫婦は哲学の規則によってめあわされる。彼らの言うところでは、彼らの間では、嫉妬をかき立てることなく女性を配偶させるためにプラトンが忠告したような策略に従う必要はない。なぜなら、彼らは愛の情念を抱くことはなく、それは友情に置き換えられるからだ。シャルル・フーリエが同じく考えたように、ファランステールでは、愛は鎮められ、少なくともキリスト教徒が愛と呼ぶものとなる。なぜなら人類の始まりから中世まで、愛は違った様相を見せていたのだ。太陽市民は、ひとりの女性への独占的な愛が育つことを防ぐもの、それはみなが等しく美しい太陽都市の女性の美だと断言する。子ども時代から習慣となっている体操によって、女性に健康な肌、力強さ、優美さ、俊敏さを備えるのだ。太陽市民は、美を力と身体の均衡ある調和と見なす。彼らは自然な女性を愛し、作られた女性は好まない。髪を染め化粧をし、踵の高い靴を履き背を高く見せることは、死罪に値する。とはいえ、彼らは決してそのように残酷な刑罰を命じる苦痛は持たなかった。なぜなら、女性の家誰ひとりとして、美しく見せようとそのような行いに頼ろうなどと考えないし、たとえそう思ってもその手段がないからだ。カンパネッラは、恋人たちを思う気持ちを持ち合わせていたから、ひとりの女性への盲目的で独占的な愛に囚われている者には、種族を危険にさらさないために妊娠はしないという条件で彼らの楽しみは許されると付け加えている。この性生活は、当然ながら、打算で結婚し、夫婦の愛の倦怠を売春で紛らわすような、物語や芝居で聞いたようなことでしか愛を知らない俗な男女の不道徳の頂点のように思われる。カンパネッラは、キューピッドへのソネットを書いたとき、取り上げねばならなかった醜聞を思い浮かべたのかもしれない。
「三千年来、人々は翼と矢筒を持った盲目的な愛を崇めている。だが、この愛は頑なで残酷なものとなった」
「……彼は金に餓え陰気な服を身にまとう。率直で誠実な、裸の子どもではなく、ずるがしこい老人だ。彼は、金貨が作られてから後、矢を射ることを止めた」
個別的な家族はこのような習俗とは共存しえない。なぜなら、家族は、その言葉が示すように[18]、所有制と奴隷制に基づいているからだ。都市のすべての住民は一つの家族を作っていると考えている。同じ年頃の者は兄弟姉妹と呼び合い、二三歳以上年上の者は父母と名づけられる。また、二二歳以上年下の者は子と呼ばれる〔岩波文庫版『太陽の都』ではともに一五歳となっている〕。年齢階層で共同体を分けることは、プラトンもふれていたが、気まぐれに発案されたものではない。それはポリネシア人にも見られるし、おそらくギリシャの哲学者もカンパネッラと同じく、旅人の見聞によったに違いない。さらに、プラトンとカンパネッラのユートピアに特徴的なのは、彼らが語り、その時代のものとは正反対のものである社会制度や習俗が単なる想像上のものではなく、過去の意図せざる反映だったということだ。
太陽都市の女性は妊娠中、アテナイの人々がそうしたように、英雄の彫像の中で暮らす。その完璧な形姿から霊感を得るためだ。人々はこの芸術の影響を信じているので、種付け用の動物も雄牛や馬、犬その他の動物の美しい絵画で取り囲む。太陽市民は、未開人の女性と同様、二年間、医者が必要と認めればもっと授乳する。
三歳から子どもは、壁にアルファベットが書かれた部屋で遊びながら文字を習い始め、六歳から自然科学と応用化学を学び始める。指導にはレクリエーションの要素を持たせている。太陽市民は、アリストテレスにあまり芳しくない評価を与えてはいるが、にもかかわらず、彼の学派の方法を採用し、課題が与えられるのは散歩のときだ。また、子どもの注意力を呼び覚ますために、一日に四時間以上は教えないし、四人の異なる先生によって教えられる。
彼らはすべての科学を学ぶ。というのも「一つの科学しか知らない者、本の中でしか知識を得られなかった者は無知で不器用」だからだ。
実践と理論を結びつけるために、彼らは子どもたちを鉱物学や植物学、農業や家畜の飼育を教え、また子どもたちが頑丈になるようつらい仕事に慣れさせるために田舎に連れていく。子どもたちは男の子も女の子も同じように、帽子もかぶらず裸足で川に入ったり、戦いの予習に狩りを夢中になる。彼らはさいころ遊びやチェスのような座ってする遊びはしない。すべての遊びは身体の訓練なのだ。完全な技術教育を授け、子どもの気質を慎重に見極めた上で示す機会を与えるために、「彼らは若者たちを調理場や、靴職人、金銀細工職人、家具職人の工房などに連れていく」。太陽市民はみな、相続によらないいくつもの仕事をすることができるが、プラトンはすでに、古代や中世で行われてきたように何世代もの間一つの仕事に家族がとらわれていることに異議を唱えていた。
太陽市民は、さまざまな仕事を知れば知るだけ尊敬される。だから、「われわれのように仕事を卑しいものと考える者、貴族のように自分の情念を満たし快楽に浸るために奴隷を置いて何もせずただお気楽に生きる者を軽蔑している。われわれは、悪徳の学校にいるように、社会に廃墟の種をまく怠け者や悪人を作り上げているのと同じなのだ」。
子どもたちはみな、同じ発育手段を利用する。だから、知的能力や身体的技能の差違は、ヨーロッパの場合のように教育の違いのせいではなく、持って生まれたものの違いのせいなのだ。太陽市民は、その知的身体的能力に応じて人々のために役立つよう教えられる。理解力の劣る者は特に農場労働を割り当てられ、手足を失った者、障害のある者は、足の悪い者は監督者として、目の見えない者は椅子に詰める馬の毛を選別する者として等々、同様に雇われるのだ。「非常な高齢者でもない限り、共同体への貢献を妨げうる身体障害などないのだ」。
あらゆる労働は高貴であり、「食卓を整えること、食事の準備をすること、土地を耕すことが不名誉なことだと思う太陽市民はひとりもいない。彼らはあらゆる労働を訓練と呼び、労働することを、足で歩くことや目で見ること、また言葉で語ることのような、ひと言で言えば生得の機能を使いこなすことと同じくらい誇らしいことだと言う。同様に、彼らは、与えられた職務を果たすことに心躍らせ、それをみごとにやり遂げることを誇りとする」。生産活動はきちんと管理されており、健康な人々に一日に四時間以上の労働が求められる必要などない。残りの時間は、休息や学び、娯楽に当てられる。最も苦痛で危険な労働は、最も誇り高いものだと見なされている。
農業労働は祭りだ。決まった日に耕作、種まき、収穫のために、彼らは、隊列を組んで、旗を掲げ楽隊を先頭に大挙して町を離れる。ペルーでは、ヨーロッパの野蛮なキリスト教徒がインカの偉大なコミュニスト的王国を滅ぼしてしまう以前、耕作可能な土地は太陽、つまり彼らの神のものとされていたが、収穫されたものは、儀式を行うために使われた後は、みんなに分け与えられた。土地は、晴れ着で着飾ったインカの誇りのほめ歌を歌い、すべての人民によって耕作された。カンパネッラは一六世紀の初めに発見された、この異国の物語を読んだに違いない〔カンパネッロはボテーロ『世界報告』(一五九六年)から多くの題材を得たらしい〕。おそらく、彼はそこから都市の名前や数々の描写に関して着想を得ただろう。彼がこの新しい国の習慣や習俗によく通じていたことを示すようなさまざまな事実があるのだ。その一つを挙げれば、野蛮人は種をまこうとする農地からすべてのゴミを取り除く。それは、彼によれば、ゴミは種を堕落させるからなのだ。太陽市民も同様に考える。「彼らは農地に堆肥を決して撒かない。それは、果実は堆肥の腐敗の影響を受け、堆肥はほんのわずかの貧弱な養分しか与えないと彼らは信じているからである。訓練不足で、化粧でしか美しく見せられない女性が、弱々しい子どもしか産まないのと、それは同じである」。
太陽市民は、農作業を助ける機械、なかでも歯車を利用して、風に向かって進む帆かけ車を持っている。また、巧みな仕組みで帆も櫂もなしに動く船もある。
5.
太陽市民は共同生活を行っている。広い共同寝室で眠り食事は食堂でとる。食堂では、テーブルの一方に男性が、他方に女性が並ぶ。食器を並べるのは二〇歳未満の若者の仕事だ。食事中は離してはならないが、少年がよく透る声で朗読をしたり、楽隊が歌ったり演奏をしたりすることもある。年齢と季節に応じて医者が食事を決め、たくさんの種類の食物をとる。彼らは菜食主義者であろうと考えたが、野菜に肉を加えることの大切さを知った。食事の回数は年齢によって異なり、成人は二回、高齢者は三回、子どもは四回となっている。また、彼らは一〇歳で水で薄めたワインを飲み始めるが、高齢者は生のままで飲む。
彼らは清潔好きだ。事実、身繕いの時間があり、しばしば水浴を行い、また頻繁に下着を替える。その下着は、「砂の詰まった筒を通した水で洗われる」。彼らは香りも大いに利用する。香りのある油や植物を身体にこすりつけ、毎朝、息をきれいにするためにウイキョウやタイム、パセリを噛むのだ。
男性と女性は「戦いに適した」服を着るが、その唯一の違いは、男性の寛衣が膝上の長さなのに対し、女性のものが膝よりも少し下である点だ。太陽市民は、職業や社会・家庭内での役割、服装、習慣、習俗での男女間の違いによって何世紀もの間築かれてきた男女の不平等を打ち壊し、平等を確立した。彼らは「堆肥と同じように、日本人の好きな色である黒」を嫌う。彼らが市内で身につける衣服はみな白であり、外国の人に会うときは赤い服を着る[19]。衣服は絹か羊毛だ。マルコ・ポーロによれば、中国のタタール人は元日に善を意味する白の服を着る。白馬はカンパネッラが属していたドメニコ修道会の寓意的紋章だったが、カンパネッラはヴェネチア人の語る物語の中にさまざまな細目を取り入れた。彼の語る都市の造りは、コンバルク(Combaluc)――タタール人が北京をそう呼んだのだが――の王宮と似ているのだ。
明日の不安もなく、何の心配事もなく、労働と精神・肉体の喜びとで彩られた清潔で豊かな生活のおかげで、太陽市民はたくましく健康だ。彼らにとって唯一の病気は癲癇だが、それは「ヘラクレスやドゥンス・スコトゥス、ソクラテスやカリマク、ムハンマドのような最高の人間の病気である」ということは正しい。彼らは癲癇を祈りや適切な体操で治す。彼らの治療法は単純かつ独自のものだ。とりわけ処方されるのは、乳やワインの風呂への入浴、田舎での滞在、適度の段階を追った体操、音楽やダンスだ。太陽市民以前には、スパルタの女性が、新生児の身体を頑丈にするためにワインブルに入浴させ、伝えられるところでは、デモクリトスが腎疝痛を笛の音色で治したという。
6.
太陽市民は、子どもの教育や養育を社会が担うことで、個人的な家族の形成を認めないが、それは財産の共同性を守るためのみにそうする。「というのは、私有財産は、われわれ一人ひとりが家や女性、子どもを自分一人のために所有するためだけに獲得され保障されるものだからである」。同様に、すべての「ものは共有のものであり、司法官によって全員に分配される。技術、名誉、喜びはみなに共同のものであり、すべてはきわめてよく統制されているので、誰も個人の目的のために何かを独り占めすることなどできないのである」。太陽市民は、カトリックの〈神〉をよいとは思っていないが、教父の著作は読む。彼らはそこから、自分たちのコミュニスト的習俗を裏づける見解を好んで引用するのだ。彼らは、初期キリスト教徒がすべてを共有したことをテルトゥリアヌスが伝えていること、また使徒やプラトンの教えを受け入れていた聖クレメンティウスが、財産と同様に女性もまた共有されるべきだと考えていたことを取り上げているのだ。
太陽市民はコミュニズムに対する反論も知っている。ギリシャ・ローマの時代から、私有財産の擁護者はそのような意見を宗教的な熱情をもって伝えてきた。まさに現代の資本家とその仲間のペテン師どもがするように、プラトンに対して、コミュニストの社会では誰も働きたがらず、みな他人の労働に頼って生きようとすると述べたアリストテレスには、彼らは自分たちの都市を示して答えるだろう。太陽都市の住民は、かつてローマの人々が祖国に捧げた以上に献身的なのだ。
聖アウグスティヌスは、友は互いのよいところを得るがゆえにコミュニスト社会では友情は存在しえないと言った。神の国での奴隷のことを考えたこの聖者は、アリストテレスが友情を自然的秩序と考えたように、友情についてのきわめて貧弱な観念したもっておらず、それを利害関心に基づかせたのだ。この見解はまさに真のキリスト教のものだ。法学者ポロ・オンデガルド(Polo Ondegardo)は、インカ帝国を滅ぼした野蛮な文明人たちからスペイン王国の利益を守るため国王の命でペルーに赴き、「貧しく惨めなインディアンなどそこにはいなかった」ことを確認したのだが、それでもこの先見的なコミュニスト的行政組織の創出について、年老いて貧しい親たちを扶養する義務を子どもたちから奪うことで彼らの心を冷酷なものとし、また貧しい者を扶助することから持てる者を解放することで隣人愛を失わせてしまうという理由から、それを〈悪魔〉の仕業とした。太陽市民は聖アウグスティヌス以上に友情を高く評価し、それを利害関心ではなく、障害のある者や病人に感じる憐憫と同様に、戦場で共に分かち合う危険、芸術や科学的探求、遊びにおいて共に味わう喜び、の上に基づかせた。
太陽市民は、利害関心が人間を結びつける絆であるはずだと考えるのではなく、ひとりの人間が他の人間を頼り、そこから何か利得を引き出すことができることがないよう心を尽くす。太陽市民はみな、必要とするものを共同体から受け取り、司法官は、誰もが必要以上に受け取らないよう気を配る。必要なものは誰に対しても拒否されない。「彼らは足りないものがないがゆえに豊かであり、何も所有しないがゆえに貧しい。つまり彼らは状況の奴隷ではなく、逆に状況の方が彼らに尽くすのである」
私有財産を持たないために、彼らには貨幣も商業も必要がない。とはいえ、作ることのできないものは外国から買う。「しかし悪趣味な商慣習で汚されたくはないので、彼らは都市の門でしか取引をしない」
しかし、彼らは最大の敬意をもって客人に接する。「彼らのもとを訪れた異邦人には礼儀正しく親切にふるまい、公費でもてなすのだ。足を洗った後、客人を市中へと招き入れ、会議や会食の際は貴賓席を用意し、客人を特別にもてなすための女性を選ぶ。もし異邦人が都市の住民になりたいと望むなら、二カ月の審査――ひと月は室内で、もうひと月は市中においてなされる――の後に受け入れるだろう」
太陽の都市は万人に開かれている。カンパネッラは、人間の物質的、知的、道徳的発展をもたらすものの共有へこの世のすべての人民を招いているのだ。「黄金時代の再来」のために。
[1] アダムが耕しイブが紡いだとき、誰が貴族だったのか?
[2] この見解は、カバラ第二の書『ゾハル』の中で述べられている。そこには、悪魔の皇子であるサマエル(Samael)は、その栄光のうちに復活し名と本質を再び見出すとある。その隠された名のうち、毒を意味する第一の音節Samは消え、英雄、力を意味し、生成の神の名Elloahの語幹であるElが残るのだ。
[3] カンパネッラはその名前のことをほのめかしているが、彼の名は、イタリア語で小さな鐘を意味し、七つのこぶがあった彼の頭と奇妙な対照をなしている。「彼の頭部は不規則な七つの部分に分かれている」と彼の友人ナウデ(Naude)は肖像画の下に付した六行詩の中で言っている。
[4] Philosophia Sensibus demonstrate, Neapoli, 1590.(『感覚によって論証された哲学』)
[5] カンパネッラのような自由な精神が修道院でどれほどの苦痛を味わったかを知るには、ブルーノの皮肉たっぷりのソネット『〈馬鹿話〉を称える』を読めばよい。
「おお、聖なる目出度き〈馬鹿話〉よ、聖なる〈無知〉、聖なる〈愚かさ〉、軽々しい〈信心〉よ、おまえだけがあらゆる知の探求がなし得る以上の満足を魂にもたらすのだ。
「精励も刻苦も哲学的瞑想も、おまえが居を構える天空に達しはしない。
「自然を究め、星々が火よりなるか、あるいは土か水かを知るのに力となる探求の精神、
「聖なる目出度き〈馬鹿話〉はそのすべてに目もくれず、両の手を合わせ膝をつき、〈神〉からのみよきものを待ち望まないのだ。
「〈神〉がわれら死後に許したもう永遠の安らいのほかは、その心を襲うものはなく、とらえるものもないのだ」
* 以下、ラファルグによる、蜂起後のカンパネッラの記述については疑問なしとしない。澤井繁男によれば、「九月六日、前日三十一歳の誕生日を迎えたばかりのカンパネッラは追っ手に引き渡された。ナポリの牢獄に送還され、九月十日に直筆で、『カラブリアの件についての釈明書』を書いた。その結果、彼は長い牢獄生活を強いられることになる。/その『釈明書』を読むと、全く包み隠さず、行動を起こすに至った自分の心情、信念を述べており、共謀者の名も列挙し、トルコ軍との交渉にも筆は及んでいる」(『ユートピアの憂鬱』海鳴社、1985年、四七頁)。
[6] トマゾ・カンパネッラの哲学詩は、一八三四年ルガーノでガスパーレ・オレッリによって最初に出版された。
[7] カルリーニとはナポリの少額貨幣のこと。
王族のために傭兵として加わったスイス人とグリソン人に対するソネットの中で、カンパネッラは同様の思想に立ち戻っている。
「そびえ立つ頂きよりも高い空から、自由が君たちに近づくならば、おお、アルプスの岩山よ、暴君たりとて、他国の民を隷従せんがために、君たちの子らの力をかりようか?
「一片のパンのために、おお、スイス人よ! 君たちはおびただしい血を流している……それは君たちが軽んじられているからなのだ……すべては自由な人間のためにある。君たちに対する白十字のように、奴隷は高貴な衣服にも食事にも預かることはない。(スイス人はマルタの騎士ではあり得なかったのだ。)ああ! 英雄となって、自由を取り戻せ、高く売り飛ばされた君たちのものを王たちから取り戻すのだ」
[8] 一六三一年に出版された『無神論克服』(Atheisms triumphantus)はカンパネッラに災いした。彼は、この本で無神論者に反対するかのように思わせるが、無神論者が考えもしなかった主張を彼らに帰し、それにほとんど答えようとせず、無神論を奨めようとしたのだとされたのだ。論敵の一人は、この本の名を『勝ち誇った無神論』(Atheisms triumphans)とすべきだと言った。
[9] カンパネッラは、その著作の中で、彼を囚われの身へと導いた出来事については沈黙を守っているが、『太陽の都』において、彼が耐え忍んだ責め苦のことを語っている。彼の言うところによれば、「ある哲学者は、その敵が四〇時間にわたって続けた拷問にもかかわらず、話すまいと決めたことをひと言ももらさなかった」
J・N・エリトロエウス(J.N. Erythroeus〔訳注―I.N. Erithraeusか〕)の偽名で著述を行っていた、カンパネッラと同時代人ロッシ〔Gian Vittorio Rossi 一五七七〜一六四七〕は、Pinacothea imaginum illustrium (1643-1648)の中で次のように語っている。カンパネッラは三五時間ものあまりに残酷な拷問を受け続けたため、「肛門の周囲のあらゆる血管は裂け、傷口から流れる血は止まろうとしなかった。だが、彼は拷問にも毅然とした態度を失わず、この哲学者からは恥ずべき言葉などひと言だに漏れ出ることはなかった」
[10] 同様の糾弾がポステルに対してもなされたが、彼は一六世紀でも著名な急進主義者の一人であり、彼とともにカンパネッラは、学問的観点から多数の著述を行った。
[11] マルコ・ポーロはヨーロッパ人としてはじめて中国と日本に足を踏み入れた人だったが、アリストテレスの主張と一致しないために、その作品は創造の産物だと考えられた。『太陽の都』のいくつかの記述から見るところ、カンパネッラは、マルコ・ポーロの著述を知っていた。
哲学の議論はその愚かしさにおいて、哲学論議の議題に対して当たり散らしたギリシャ・ローマ衰退期の弁論家をしのいでいた。主題が他愛もないものであるほど、それを扱う才能が必要となった。中世の神学校では、アダムにヘソがあったか否か、聖者は腸を復活させうるか否か、天国には糞便があるか否かなどが、真剣に議論されたのだ。ラブレーは、はじめに現れたのは酒を飲む欲求か、それとも欲望かで口論をはじめる二人の酔っぱらいを描いて、スコラ的議論を陽気に笑い飛ばした。つまりは、卵が先か鶏が先かを決めようと真剣に議論がなされたわけだ。とはいえ、高い見識を持った人々も、このようなことにかかずらうのを拒みはしなかった。アルベルトゥス・マグヌスや聖トマス・アクィナスは次のような問いを投げかけたのだ。なぜイエス・キリストは両性具有でなかったのか? なぜ女性の性を有しなかったのか? ――この課題は宗教的に重要だった。なぜなら、聖書によれば、イェホヴァは自らに似せて人間を象り、人間を男と女につくった。したがって、創世記の神は両性具有であり、イエスもまた、女性の特徴を持つためには、同様の存在でなければならないのだ。
[12] Eversio falsorum Aristotelis dogmatum.
[13] カンパネッラはテレージオにあるソネットを捧げたが、それは次のように始まる。「テレージオよ、君の矢筒の矢はソフィストの群れを砕き、君は精神の暴君(アリストテレス)をうち倒し真理を蘇らせたのだ」
[14] De Nature rerum juxta pnncipia, 1565.
[15] De Sensu rerum et magia, Lib. IV, Pars mirabilis occultae philosophiae ubi demonstrator mundum esse Dei vivam statuam. Paris, 1637. 作品はリシュリューに献呈された。
[16] ヴィーコは、《偉大な瞑想家の独断論》を楽しげに笑い飛ばしている。その独断論とは、その哲学の神秘に通じた者は、習得された信念やいわゆる幼年期以来感官によって得た先入観ばかりか、学問によって教え込まれたあらゆる真理からも浄められ、我ありによってカバラの〈存在〉のように一歩を踏み出すことができると主張するものだ。ヴィーコは続けて言う。「デカルトは我思うゆえに我ありにおいて根本真理をわれわれに提示する。しかし、プラウトゥスのソシアが、彼女の姿を借りたメルクリウスによって、自らの存在に疑いを抱かせられたように〔この挿話はヴィーコの『新しい学』にあるが、デカルトにはふれていない〕、デカルトもまた瞑想によって、この根本真理を承認するよう導かれたのだ。なるほど、と彼は考えるのだが、私が私の姿を認識したということを検討するとして、それはあたかも鏡の中の私のように私に似たものなのだ。同じ帽子、同じ服、同じ出で立ち、同じ足、腰、髪、鼻、歯、唇、あご、ひげ、首、要するに、背中が傷だらけであろうと、それは最もよく似たものなのだ。しかし、私が考えるとき、私は確かにいつもあったかのように存在するのだ」
[17] カンパネッラと同じドメニコ会の聖トマス・アクィナスは、教父よりも尊大でも愚かでもなかったが、次のように述べている。「女性はすぐに生い茂る雑草である。女性は不完全な人間(homo imperfectus)であり、価値少なく自然も大して手をかけないために、その身体は全き完成には容易に到達しない。……女性は、その主人によって軛の下に永遠に置かれるために生まれたのであり、自然は、そ女性があらゆる面で男性に帰属するという優位性によって、の主人に対し徴をつけたのである」。カンパネッラもまた、美しさについて次のようなカンツォーネを歌うとき、聖トマスに影響されたように見える。「手足の均衡と均整、力、敏捷さ、輝くばかりの肌の色、動作や身振りの優美さ、これらのものが身体の全き美の条件。神はこの資質を女性よりもはるかに多く男性に与えたもうた。女性にとって男性は、より美しく神聖なものであり、愛するよりも愛されるものなのだ」。カンパネッラは多少なりとも太陽市民についてよく考えてみる機会をもつべきだった。なぜなら、男性と同様自由で気高く訓練に慣れた女性が、男性と同じだけ自然から恵みを受けているのを、彼は描いているからだ。ギリシャの彫像は、そのことを知っており、美の神、アポロンに女性的なところを与えている。
[18] ラテン語のfamiliaという語は、奴隷という意味のfamulusに由来する。さらに、famulus自体、奴隷という意味のfamelと家という意味のfaamaの二つの語から派生したものである。夫は妻を一人の奴隷として買い、出産動物としての働きを満たさない場合は送り返したのだ。
[19] 衣服の色はカンパネッラにとって重要な意味を持っていた。色は象徴であり、彼は詩の一節で次のように歌っている。「喪の服はわれらの世紀にふさわしい。世紀は陽気な色を恥じている。なぜなら世紀は、その終わりの上、その庭を満たす暴君の上、足かせや、葛折りの道、弾丸、血みどろの英雄の罠、〈正義〉の悲嘆に暮れた魂の上に涙を流すがゆえに」
「……この色はまた、われらを暗く悪意に満ちた盲目へと導く激しい狂気の紋章。……いと高き意志がわれらをこの泥濘から救い出したとき、白い寛衣が身をつつむ時をかいま見るのだ」