婦 人 問 題
(La question de la femme, 1904)
女性は家庭にあって家事を管理監督し、夫の面倒を見、子どもを産み育てることにその能力を捧げるべきだ--そう市民階級は考えてきたし今もそうだ。すでにクセノフォンは、古代社会に市民階級が誕生し姿を現していた当時、彼らの女性観の大筋を明らかにしていた。しかし、このような考えが、たとえ何世紀もの間、時代の支配的な経済的状況に合致していたためにさも妥当であるかに見えたとしても、状況が変化してしまえば、それはもはやイデオロギー的な残存でしかない。
女性を家庭に閉じこめる(ドメスティカシオン)ということは、女性がそのエネルギーをすべて使い果たすほど多くの仕事で家事を満たすことを前提としている。もっとも、家事の大半を占める手のかかる仕事--糸紡ぎや編み物、裁縫、洗濯、パン焼きなど--は今や資本主義産業によって行われているが。また、女性を家庭に閉じこめるということは、男性の持参金と稼ぎによって家族の物質的欲求を満たすということでもある。裕福な市民階級にとって、結婚は人と人との結びつきであると同時に、資本の合体でもある。そして、多くの場合、妻が持ち寄る持参金は夫より多い(1)。小市民階級の場合は、父親の稼ぎはきわめて低いため、息子も娘も子どもたちは生きるための職--商売や鉄道職員、行員、教師、郵便職員など--を得なければならない。さらに結婚をしても若い妻は、夫の給料では支出を賄うに足りず、家計を補うために外で働くことがしばしばなのだ。
それゆえ、小市民階級の娘や婦人は、労働者階級と同様に、父親や兄弟、夫と競争をすることになる。市民階級は女性を家庭に幽閉することでこうした経済的敵対関係が生じることを防いできたのだが、資本主義的生産が進展する限り、その一般化と深化は避けられない。自由業--医者や弁護士、文学者、ジャーナリスト、科学者など--も例外ではない。男はその独占を保証され、永遠にそれが続くと考えていたのだが。いつものように、最初に、女性の社会的生産への参入から論理的結果を導き出したのは労働者たちだった。彼らは職人と専業主婦という理想を、賃上げと労働からの解放という彼らの政治的経済的闘争の仲間としての女性という新しい理想に置き換えたのだ。
市民階級はいまだ、その理想とするものがもう長い間時代に即しておらず、社会環境の新しい状況に合致させるべく作り直さなくてはならないことがわかっていない。しかしながら、19世紀の最初の四半世紀以来、市民階級の既婚婦人たちは、持参金において夫と同等であるがゆえにそれだけ、家庭内での我慢ならないほどの低い立場に対して抗議し始めた。知的・物質的喜びの剥奪の強制に対して、また強いられた貧しい人生や家事奴隷というあり方に対して抗議の声を上げたのだ。最も大胆な人々は、自由な恋愛を宣言し、女性の解放を説く社会主義者の団体に参加するにまで至った(2)。哲学者やモラリストたちは素朴にもこう考えた。女性のフェミニスト運動もそれが家族の侵すべからざる利益と対立すれば女性もそこから手を引くだろうし、女性たちは、ワイシャツのボタンをつけ靴下を縫うなどの家事労働への服従なくしては生きてはいけないことがわかっている、男性がそのすばらしくも卓越した能力を自由に見せびらかせるよう女性には地味で厄介な仕事に捧げるべきなのだ、と。しかし、家族崇拝に反抗する市民階級に説教をたれるこの賢人たちが一方では、工場での強制労働を押し付けるために、台所や揺りかごの側から女性を連れ去り労働者の家庭を破壊する資本主義産業を誉め称えるのだ。
市民階級の既婚夫人たちは、こうした深刻そうな〈偽善者(タルチュフ)〉の道徳と同じくらいばからしい説教など意にも留めなかったし、思うがままにやりたいことをやった。とはいえ、古代ローマの貴族や18世紀の貴族階級と同様、彼女たちが資本家界の着飾った華やかな人形として男たちと浮き名を流すため、おめかしに没頭できるのも、人を雇い家事や授乳の悩みを免れているからなのだ。アメリカの富豪の娘たちや婦人たちは、この種の解放の極限にいる。父親や夫を自分たちの途方もない浪費に遣う数百万ドルを調達する者へと変えてしまうのだ。資本主義における婦人たちの行動は、おめかしで尽くされるわけではない。彼女たちは、自分たちの独立を確かめ、女性という種族をより良いものにするため、結婚の契約書をナイフで穴だらけにして楽しむのだ。コミュニストの〈宣言〉の言うように、不倫や身体と財産との分離に関する無数の訴訟は、好色な社会主義者がそこからの解放を約束した結婚の聖なる絆が、市民階級の男女に呼び起こした尊重の念の確かな証拠だ。
小市民階級の娘や婦人たちは、生計を立て家族の必要を満たさなければならず、商店や役所、郵便局、自由業に進出し始め、市民階級はすでにわずかしかない生計の資に不安を感じている。女性という競争相手はそれをさらに縮小するに至った。知識人たちは、男を守ることを企ててはいるが、モラリストの説教を再開することには及び腰なのは、彼らが富裕な市民階級に対して惨めな敗北を喫したからだ。そこで彼らは科学の助けを借り、反論の余地のないきわめて科学的な理由によって、女性は自然と歴史の法を破ることなしには家庭から出ることはできないのだと主張した。女性が劣った存在であり、優れた知的文化を享受したり、男たちとの競争に参入しようとしている専門分野に求められる注意力や能動性、機敏さが与えられたりしないのだということを、十分に証明したと彼らは考えている。女性の脳は男性より小さく、軽く、複雑でなく、「子どもの脳」であり、筋肉は発達しておらず攻撃力、抵抗力に劣る、腕や骨盤、大腿骨頚部の骨もまた同様、つまりは骨格、筋肉、神経の全体が、家庭での繰り返しの仕事以外を女性に許さないのだ。ちょうどユダヤ人やキリスト教徒たちの卑劣な〈神〉が呪いによってハム〔アブラハムの二番目の息子〕の一族を奴隷としたように、自然は女性を男に仕える者として形作ったのだ。
歴史はこの超?科学的な真理に明白な証拠を与えた。哲学者や歴史家は、歴史を繙くならば、つねに至るところで、男たちに従属した女性が家や婦人部屋に閉じこめられてきたことを認め、また骨の髄までブルジョワ哲学者であった実証主義者オーギュスト・コントは過去にそうであれば将来もそうであるはずだ、と言ってのけた。
知らぬ者のないほら吹きチェーザレ・ロンブローゾ〔1836?1909:イタリアの精神科医、犯罪人類学の創始者〕は、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者〕は、勝馬に乗ったかのように女性を攻撃した。彼が本気で述べたところによれば、女性が劣っていることは社会統計より明らかである、なぜなら重罪を犯す者の数は男性より女性のほうが少ないからだ。数字を重視するというのなら、彼は狂気に関する統計から同様の論証を付け加えることができただろう。かくして道徳、解剖学、生理学、社会統計そして歴史は、女性を家庭に従属する者としてくぎ付けしたのだ。
資本主義的生産は、女性が家庭で費やす労働のほとんどを吸い上げ、安価な労働を手に入れるために、労働者階級や小市民階級の婦人や娘たちを工場や商店、事務や教職に携わる大量の賃金労働者のなかに組み入れた。知的能力への女性の激しい欲求は、読み・書き・計算こそが女性の全知識であるべきだとする男性主義的道徳の侵すべからざる原則を脇に押しやり、女性たちは、男子と同様に女子にも学問の基礎を教えることを求めた。最初の一歩は、女性の大学入学の解禁であった。彼女たちは、知識人たちに「子どもの脳」と決めつけられた女性の脳が、男性と同様、科学教育を受けるだけの能力のあることを証明した。女性たちが授業を受けることができた最初の学問である、抽象的な学問(数学や幾何学、力学など)は、彼女たちがその知的能力を示しえた最初の学問だった。いまや、女性は経験科学(生理学や物理学、化学、応用力学など)にも取り組み、幼い頃から生きていた劣悪な道徳的・物理的発育条件にもかかわらず、アメリカでもヨーロッパでも、男と肩を並べる多くの女性が現れてきた。
だが、資本主義は、女性を解放するために、女性を家庭から引き抜き社会的生産の中に引き入れたのではない。男に対する以上に情け容赦なく女性を搾取するためなのだ。それゆえ、女性を夫の家に隔離するため作られたものではあったが、経済的、法的、政治的、道徳的な壁が覆されないよう十分に注意されてきた。〈資本〉に搾取された女性は、自由労働者の悲惨に耐え、そのうえ過去の足枷に囚われている。女性の経済的悲惨はひどくなるばかりだ。というのも、女性たちは、その支配に耐え忍び続けた父親や夫に扶養されるかわりに、生きる糧を得なくてはならず、また男よりも欲求が少ないという口実の下で労働に対してより少ない賃金が支払われ、そして工場や事務所、教室での毎日の労働が終わった後に、家事労働が始まるのだから。社会的役割のうちで最も高い、母である(マテルニテ)という献身的な労働が、資本主義社会においては、恐るべき経済的・身体的悲惨の原因となっている。女性に対するこの許しがたい状況は、人類という種の再生産にとって危機なのだ。
しかし、このきわめて過酷な状況は、私有財産の形成とともに始まりその廃棄をもってのみなくしうる女性の従属の終わりを告げる。機械制生産の圧力の下、文明化された人間は、共有財産に基づく社会へと向かっている。そこでは、女性は、彼女たちを縛りつけていた経済的、法的、道徳的束縛から解き放たれ、未開人のコミュニズムの時代と同様、自らの生理的、知的能力を自由に開花させうるだろう。
未開人は、原始の乱交を禁じ性的関係の循環をうまく制限するために、男女を分離する以外の手段を持たなかった。それぞれの役割分担化によって固定化、強化されたこの分離が女性の主導権の下で行われたと考えるに足る理由はある。役割分担は、宗教儀礼や私的な会話のやり取りによって、さらには対立によって(3)
、おのおのの性に示された。だが、対立が暴力的な色合いを帯びた後、役割分担は、経済の領域での男女の敵対関係が拡大深化するにつれ次第に緩和されつつあるが今なお続く、女性の隷従へと至った。しかし、現代の敵対関係は、一方の性の他方に対する勝利とはならない。なぜなら、それは〈資本〉に対する〈労働〉の闘争の一現象であり、男と同様、女性も含む労働者階級の解放によって解決されるだろうからだ。
生産技術は、仕事と役割を高度に専門化し肉体労働を注意と知的器用さに置き換えようとしている。そして生産技術が改良を重ね社会的生産において男女の差をなくすほどに、未開人や野蛮人の国で男女の分離を維持してきた諸条件が再び生じることはなくなるだろう。共有財産が、文明社会の経済的敵対関係を消滅させるだろう。
しかし、もし女性の隷従と男女の敵対関係との終わりを垣間見、人間という種にとって比類のない身体的・知的進歩の時代を思い描くことができるとして、たとえそれが肉体的、頭脳的に高い文化をもった女性と男性によって再生産されたとしても、彼らがこれまで生み出してきた卑しい物質的利害や野蛮な道徳によって結びついたり離れたりすることのない、自由で平等な男女による性的関係は将来も考えることはできない。現在までのことから判断するなら、男は女性よりも本来的な情動が暴力的、直線的であり、同様の現象はすべての動物系統の雌雄に観察される。つまり、男は好意の対象に対し、羽を広げて見せびらかし、その身体的、知的な長所を誇示せざるをえないのだ。性による選択は、ダーウィンが主張したように、動物の種の発展において重要な役割を果たしている。インド=ヨーロッパ種族においては、わずかな例外を除いて、この300年間何もなしえなかったが、再びそれは人間の完成の最も力ある要因のひとつとなるだろう。
母であること(マテルニテ)と愛すること(アムール)は、古代宗教の神話と伝説がそのうちに記憶し続けてきた、原始社会における女性の地位に、再び女性を立たしめるのだ。
ポール・ラファルグ,パリ,1904年
--------------------------------
(1)持参金は女性の歴史において決定的な役割を果たした。家父長制時代のはじめには、夫は女性をその父親から買うものであり、もし夫が女性を離縁し家族に送り返すだけの何らかの理由があるなら、父親はその対価を返却しなければならなかった。後に、両親からこの代金の二倍が持参金として女性に手渡されるのが慣習となった。持参金を持って夫の家に入るや妻は、いつでも追い戻されたり、売られたり、殺されたりする奴隷ではなくなる。古代ローマやアテネにおいて夫の財産に抵当として入れられた持参金は、離縁や離婚の際には、すべて債券として優先的に妻に返却された。エウリピデスの一節には次のように書かれている。「男は、妻が家計で得た富は享受されることはない。それはやっかいな離婚をもたらすことに役立つだけだ」と。この喜劇作家は、持参金という一撃によって妻の独立になす術のない夫を嘲っているのだ。妻に不平をいう夫に対して、プラウティウスの劇中人物はこう言っている。「持参金を受け取ったということは、おまえの権威を売ったということだ」。古代ローマの富裕な既婚婦人はその持参金の管理を夫に委ねないほどの力を誇った。毒舌家のマルティアリスによれば、彼女たちは、傍にかしずきときに他の奉仕を行う管理人に持参金を与えたという。
女性の不倫は、当然、離婚と持参金の返却をもたらすが、そのような事態に至よりはむしろ、夫たちは妻の過ちに目をつむるほうを好んだ。ローマやアテネの法では夫の誇りを取り戻すために妻を打つよう定められていたし、中国では不貞を働いた妻には足裏を竹で一定回数叩くようになっていた。しかし、罰則をもってしてもローマ人に不貞の妻を離縁するよう決心させるには至らなかった。法は、男性の徳を示すために妻の不貞を告発する者に、その持参金の一部を手元に置くことを認めた。当時、妻の不倫を見越してしか結婚しなかった男たちがいたのだ。古代ローマの既婚婦人たちは、風紀取締官に自らを娼婦のリストに記載させ、法が適用されないようにした。記載された既婚女性は多数にのぼり、そのためティベリウス帝の治下の元老院は、「祖父あるいは父、夫のうちに受勲者のいる既婚婦人に対し身体を売ること」を禁止する勅令を出すほどだった(タキトゥス『年代記』第2巻85)。
(2)古代の貴族社会における女性の不倫は、18世紀の貴族階級社会と同様、ごく一般的なこと、いわゆる習俗の一部であり、結婚を緩和し補うものとして、好意的に考えられていた。
1830年のサン=シモン主義者のマニフェストによれば、サン=シモンの宗教は「結婚の名の下にしばしば、献身とエゴイズム、知識と無知、若さと老いの恐るべき結合を作り上げる、この恥ずべき不正、合法的な売春に決着をつけ」にきたのであった。
(3)オーストラリアにおける一種の性のトーテミズムに関するA・W・ハウイットの観察によれば、同一クランの女性と男性は、一方の性のトーテムとされる動物が他方の性の者によって殺されたとき、闘うのだという。