− 943 さんの恋愛話(その2) −

あの北海道での出来事は忘れない。
シロはんとクロちゃんとの思い出。
あの時に、旅前の俺の失恋は完全にふっきれたように思っている。
北海道で旅を続ける理由が突然なくなったんだ。
過ぎ去った台風のあとには、青空がくるものだ。

でもシロはんは、深く悩んでいるようだった。
あのとき、胸の中に包んでくれた俺に、震える声で彼女は俺に謝ったんだ。
俺はその言葉を思い出すたび、痛かった。
謝る声に、何もこたえてあげられなかった。
俺は元彼のそっくりさんでもいい、
あのままいられるならば。一瞬でもそう思った。
でも、彼女と北海道で別れるときに交わした言葉は、さようなら、だった。
 またね。じゃ、いつか。またどこかで会いましょう。
そういう未来につながることばがあれば、今の心は違っていたかもしれない。
それらがすべて、俺とシロはんの間に距離を置かせる原因でもあるように思っていた。
たどり着いた東京の9月下旬は、まだ北海道の夏のように暑くて、めまいを覚えていた。
仕事はおぼろに手につかない状態が続いた。

秋が過ぎて、冬になり。クリスマス、歳末、そしてお正月。
俺は休暇になっても実家に帰るでもなく、
世田谷のアパートと近くの銭湯を行き来する生活だった。
心のはじっこに深い穴があいている。
届いた年賀状に目を通すと、そこからまたひとつのドラマがはじまった。


それは、一枚の写真年賀状だった。飲み屋のなか、へべれけに笑顔で笑う3人。
シロはんと、クロちゃんと、俺。
上から書きなぐったような、特徴的なマジックの字が踊る。
「元気か?労働者!」
クロちゃんからだった。
そういえば、盛り上がって写真撮ったような・・・
名刺を渡したような・・・すっかり忘れている俺。
一生で初めて届いた年賀状というもので笑った。
そして、年賀状を買いにコンビニに走って行く。
俺は二人と連絡をとろうとしはじめたんだ。

このまま、俺が空虚でいる理由がないと思った。
また、会いたいと強く思えただけで、
俺の「穴」は埋まった。
最初にクロちゃんと再会できたのは、1月。成人の日だった。
そのときのことを書こう。

雪がちらつくなか、新成人の晴れ着が行き交う中、東京湾岸のTアイルで会えたんだ。
ガラにもなく、待ち合わせ場所にちょっとはオサレなスポットを選んでいる自分がおかしい。
3人で会う約束だった。

待ち合わせのそのときその場所にいたのはクロちゃんだった。
クロちゃんは、すっかり東京の女性に戻っていた。
しっかり、いまどきの女性の装いだった。まぶしい。
冬だというのにやっぱりアサ黒く、しかし頬をほんのり染めていたのが「らしくなく」て印象的。
お互い見開いた目を合わせると、北海道でと同じ元気な声と笑顔がはじける。
「おーっす!」
俺はしかし、北海道での無口なダサ男に戻っていた。
「おー、元気か?」
精一杯に明るく、一生懸命にそのまなざしを受け止めながら、
お前化粧してんな!と突っ込んでわざと憎まれてみる。
ひととおり笑ったあと、クロちゃんは、すまなそうに手を合わせ、
シロはんは急用で来れなかったけど、ほんまゴメン、と伝言だけ、と言う

正直にいえば、俺はシロはんにすごく会いたかった。
不謹慎ながら、そのためにクロちゃんに連絡をとったようなものだ。
とにかく会って、できるかどうかわからないが、
俺は最初からシロはんとの、やりなおしの出会いを、したかったんだ。

聞けば、彼女は北海道から帰ってきてから、一時は暗くて心配したというが、
もう心配ない、大学でも元気よとクロちゃんはいう。
ほっとしながら、シロはんとの連絡方法を聞いておきたかったが、それはまた次の機会でいい。
クロちゃんにすこし失礼かな、と思った。

寒いので、パスタ屋に入り、注文してみる。
ここのラビオリは絶品なんだ。あんまりヒトに教えたくなかったが、こういうのは
とっておきに使うもんだ。こういう店を知っていることが
内心ちょっと自慢だったが、でも、クロちゃんはこの店を知っていた。
ちょっとバツが悪い感じだったが、まぁいいや。

俺はひととおりのあらたまった挨拶の後、
北海道の思い出話、仕事の話、近況の話をしていた。
そんな話題も途切れがちになるのは、俺が緊張しているせいか。
でもしかし、話したいことは、彼女にはたくさんあったようだ。
北海道でのあの後の旅や、これから計画している卒業旅行のこと、
冬のサーフィンのこと、大学の研究のこと、実家のこと、就職のこと。
だんだん内容が深刻になってくる。
そして相談めいてくる。

そうなんだ。俺はいつもヒトから相談されやすい人間。
風体からか、ヒトから「相談しやすい」と思われるらしい。
妙なオーラを放っているらしい。
そんなときはいつものことで、俺は禅問答のように、
怪しげな占い師が吐く
当たり障りのない占い常套句を並べては、相手をケムに巻いて楽しむ。
でも、悪いことは言ってないぜ。
俺の言葉にクロちゃんは数秒考えては、真剣な面持ちで相談を続ける。
なんだクロちゃん、まだ悩み事か?
そう笑いながら時々話を逸らそうとするも、
クロちゃんに力強く引き戻され、
やっぱり悩み事相談室は続く。
こりゃ、長いぞ。そう思いつつ、俺は彼女の悩みに引き込まれる。

クロちゃん、表面は明るくて気合が入った体育会系に見えるんだけど、
それが誤解を生んで、本人は悩んだりひそかに傷ついたりすしてるんだ。
サーファーを続けているのは、弱気な自分を鍛えたかったから。
一人で海に出て、トライ&エラーを繰り返し、失敗を恐れず努力する
勇気のヒトだということを実感する。偉いな。
実家は自営業で、長女クロちゃんの帰りを待っているが
クロちゃん自身は帰りたくなくて、
自分は東京で、営業職でどこまでいけるか試してみたいという。
夏の北海道の前に内定をひとつ決めていたらしいが、
年末に会社の業績悪化から突然内定取り消し!にあって、とても堪えているようだ。
この就職難時代に、この時期の内定取り消しはとても厳しい。

俺も似たようなものだった。
不注意で留年してせっかくの内定を流しちまって、
翌年の本当の卒業直前まで内定を決められなくて、
ギリギリセーフの3月上旬に決めて、
それで人生初のうれし泣きをした奇特な人間だ。
だから、俺はそんな自分の身の上を話し、
「心を大きく持って待てば、きっといい波が来るはず。」と言う。
サーフィンやったことないのに偉そうに何言ってる!とゲラゲラ笑われるが、
クロちゃんはちょっとふっきれたようだった。
やっぱり、クロちゃんには暗い顔が似合わない。笑顔こそが似合い。
そういう意味で
「お前の暗い顔はブサイクだ」
と言ってやったら、思いっきり腹にパンチされた。効いた・・・

パスタ屋を出ても、別れるでもなく、デートは続く。
そう、1対1の男女なら、「デート」だよなぁ。
そんなことを思いつつ、でも意識しないで、緊張しないでいられる。
ちょっと背伸びして気取った緊張感のあるデートよりも、
自然でいられるほうが楽しいデートになるね。
そういうことを、クロちゃんなら言えてしまう。
そしてクロちゃんは「なんでや!なんで緊張しない!」と突っ込んでくる。
漫才コンビのようなデートは続く。

俺はクロちゃんをJ町界隈に連れ出した。俺が大学時代を過ごした街だ。
喫茶店や飲み屋や定食屋、美術道具の店や変わった本屋などが面白い。
恋人のようにいっしょにショッピングを楽しんで、
雰囲気ある神社のまわりの甘味どころで一服。
この時期は受験生でごった返し。
彼女の就職祈願に、お守りをひとつ買ってやると、子供のようにはしゃいでいた。
そんな街での、初デート。
俺は自分の思っていたこの街の魅力を語りながら、ゆっくり歩いていきたいのに
彼女は次に次にと行きたがる。先を歩いてひっぱるなんて
恋人のようじゃないか。
彼女はすごく楽しい!とはしゃぐ。そうか?
俺が面白いと思うような場所で連れ回すしか俺にはできないが、
こうして楽しいと感じてくれる、感覚の共有というものが、俺には不思議だった。

でも、俺が会いたい相手ではないんだ。違う。
俺はこの半年、シロはんのことがずっと心にひっかかっていた。
俺は彼女にとって元彼そのものなのか、薄れ行く幻影を映しているだけなのか。
彼女にとって、俺は今何か。 これから変われるのか。
あのとき謝った言葉の真意は。
いろいろ聞きたいことがあった。会えたときに、聞けるかどうかは別にして。
あの、まっすぐな瞳に会いたい。
じっと訴えかけるように見つめて話す、あのシロはんの目に。


気がつけば、学生時代になじみだった、ビルの谷間のレンガの喫茶店。
クロちゃんはそれまでの調子の憎まれ口をたたきつつ、俺の隣に座った。
ふと横を見れば、印象よりも小柄な彼女がそこにいた。
俺は北海道では、彼女はシロはんの友達、としてしか覚えていなかった。
すらりと細いシロはんの隣にいて、特に小さいとか印象がなかったんだ。
そんな彼女がもう一度近くにいて、俺はじっとみている。
俺のなかに、印象が強く刻まれる。
ホットウイスキーを飲みながら、俺は今日楽しかったなと正直に打ち明ける。
そして、今度はシロはんもつれてきてね、と。

彼女の顔が変わった。
「シロはんは今でも元彼を投影しているよ」
と、ちょっと怒ったように言う。
痛いトコロを突かれた。
でも、俺はそれでもいいと言い返す。
「心配なんだ。ただ。」
搾り出すような声で。
シロはんの表情が、一瞬ゆるんだように思えた。
「じゃ、まだ連絡先は教えてあげない」
見透かしたような、いたずらっぽい彼女の声。
クロちゃんは、あの嵐の朝のことを知っているのだろうか?

そしてその日のデートは終わった。
俺には、今日一日のクロちゃんの印象が強く残った。
シロはんの友人、ではなく、クロちゃんというひとりの女性として。

クロちゃんとのデートのあと数週間は、
俺は世田谷のアパートで、ボーッと過ごすことが多かった。
クロちゃんとのデートは、楽しかった。
女性と楽しくデートできることが、奇跡のようだった。
中学生のときの文通相手以来10年以上、彼女と呼べるような存在がしばらくいなかった俺は、
デートという言葉だけでも、ことのほか誘惑とともに恐怖を感じていた。
だが、それをクロちゃんが壊してくれたように思う。
彼女がデートで俺に言ってくれた言葉が、俺を救ってくれた。
『なんだ。おどおどしなければ、やっぱりイイオトコやんか。』
女性からそんな言葉をかけてもらったのは、初めてだった。
自分はネクラでオタク系、というコンプレックスが、
その言葉を思い出すだけで、冬の雪に溶けていくようだった。

先のデートでシロはんの連絡先は聞けなかったが、
クロちゃんと携帯メルアドを交換した。
クロちゃんのサーフィンの話を聞いているうちに、
知らない分野、どういうものなのか? 面白そうだな。
という感情がムクムク、俺がいろいろ質問しているうちに
クロちゃん曰く『百聞は一見にナントカ』
という迷言により、俺が海に見に行く、ということになっていた。
『時間ができたら必ず連絡してね。海は結構気持ちいいよ』
興味はあった。
でも俺は、何週間か連絡を取り損ねていた。

俺のシロはんへの思いが続くなかで、
クロちゃんとデートを重ねるというこの展開は、正直、気が引けた。
俺が海に行けばやっぱ、1対1で「デート」になるしな。
ん、待てよ、その場にもしかしてシロはんを呼んでくれるかも。
そうだよな、ありうるよな?
それにクロちゃんは、シロはんと連絡をとるための最後のチャンスだし・・・
と俺はずるくも「理由付け」をしていた。
そうして、俺のメールがクロちゃんに届いたのは、2月になってからだったと思う。


夜空が晴れて異常に冷え込んだ日、暗いうちからリトルカブを駆り出して、鎌倉に向かった。
クロちゃんは場所と日時を指定してくれた。
メールではシロはんが来るのかわからない。
多分来ないだろう。
呼んでいるのかどうかも、聞けない。
呼んで、とお願いもできない、自信のない自分がそこにいた。

当日、出発の深夜はものすごく冷え込んでいたが、
久しぶりのリトルは何度かキックするとエンジンがかかった。
北海道のときよりも調子がでなかった。
1国では飛ばす車抜かれるたび怖い思いをしながら、
リトルと俺は軽快な排気音と共に冬の鎌倉に向かう

鎌倉には原付が似合う。
俺は勝手にそう思っている。狭い道幅、あちこちに点在する魅力的な場所、
決して広くない街。あちこち写真を撮り歩いた大学時代を思い出す。
その頃から数年経っているのに、取り立てて変わるところがないのが鎌倉の魅力でもある。
早朝の海岸線を始発回送の江ノ電が走る。海は早朝から波がたっている。海鳥が砂浜を埋め尽くしている。
ヒトが見ていないときにも事象は動き続ける。当たり前のことだが、スゴイことだ。

メールで指定された早朝のK高校前駅前で待つ。
クロちゃん、埼玉から始発電車でボードを持って来るのか?気合入っているな。
と思っていたら、なんとスクーターで来た!
横にボードアタッチメントをつけた古いタクトかなんか。
鎌倉の友人から中古で買ったんだって。
でも、ボードとスクーターは友人宅に置きっぱなし。
駐車場と倉庫レンタル代だとしても安かったよ、と笑う。
なんだスクーター乗れるの?と聞くと、
実は今大きいのに乗りたくて普通二輪教習に通っているという。
そして俺様のリトルカブをブチ抜いてやるんだそうだ。相変わらずだな。
でも挑発に乗らずに、そのスクーターでも抜けるさ、とさらりと負けてみる。
いいんだ、なんかうれしかったから。

シロはんは、きてなかった。
クロちゃんはシロはんについて何も言わず、早速海に誘う。
しかし俺は、そんなに残念でもない気持ちだ。なぜだろう。

その朝はベタ凪で、波が小さいようだった。
たまにくるあの小さな波に乗るのは至難の業、ということだけは素人にもわかる。
サーファー連中はボードに座って浮かんだまま、海のむこうを見ていた。
俺は冷たい砂浜に座ったまま、海とそのサーファー連を見ていた。
この寒い中、ウェットスーツで海に出て根気よく波を待つクロちゃんたち。
あがってきたクロちゃんの顔は、冷たそうだったけど、充実してた。
『自然相手だから、いろいろあってなぁ。ゴメンなぁ』と笑う。
俺は、彼女はもう心配要らない、と思った。もし就職一浪しても、きっと大丈夫さ。
タオルを渡した。彼女は、サンキューと凍りつきそうな顔で微笑む。
俺も自然に微笑みかえしたように思う。
着替えやシャワー場所は友人宅なんだそうだ。体を拭くのもそこそこに、早速海を後にする。
成り行きで付いていく俺。

その古いアパートは海岸からは丘の向こう側にあった。
友人は留守中。
俺は外で待っていると言ったが、クロちゃんは入って茶でも沸かせと言う。
さすがのヒト使いだが、俺もすっかり冷えていたので、あがらせてもらった。

こまこまと雑然とした部屋、匂い。女性の部屋だった。
しばらくして、我が家のようにリラックスしたスウェットでクロちゃんが風呂から出てきた。
でもこの雰囲気って・・・。
熱いお茶をいっしょに飲み、一息。話を始める。
もうちょっと格好イイとこ見せたかったと言うクロちゃん。
『うまく乗れるとめっちゃ感動よ』
彼女が、笑う。
なんか、この前と感じが違うな。そりゃ、風呂上りの濡れた髪の色っぽさが気になる。
俺は、海での彼女の真剣な姿は十分格好イイと思ってたが、
何も言えず黙ってしまった。
アパートの部屋に、クロちゃんと2人きりで、いる。
変な緊張感。
初デートであれだけ楽しく喋れたのに、今目の前にいる彼女は別人のようだ。
彼女は静かに、まだ震える手でお茶を飲んでいる。
俺は息苦しかったので、外で待つと言い残しそのまま外へ出た。帰ろうとも思った。
寒い外のほうが、まだ良かった。
なんだかちょっと、不機嫌になっている。
何で、俺は腹をたててる?

しばらくして彼女は外に来て、横に座った。
日曜の朝、閑散としたアパート前の路地で、二人並んで座っている。
黙って座っている。日があたって暖かい。
二人とも黙っているが、クロちゃんは、すぐ横にきたかと思うと、

俺の頬に突然キスした。
びっくりした。
俺はワケがわからない。
びっくりして、何もいえなかった。

俺はクロちゃんの気持ちは、正直、うれしかった。
こんなクロちゃんから、まっすぐ打ち明けられて嬉しくないわけがない。
でも、素直に受け止められない俺がいた。
こんなときに、シロはんのことを思い出すのは、すごく失礼なことだ。
しかし、思い出してしまう。
その時点で、俺は彼女を受け入れられない、そんな資格がないと思った。

それにクロちゃんは、初デートの相談で、俺が言った言葉を、よく覚えていた。
俺はといえばそのとき、テキトーな応答をしただけで、よく覚えていない。
その言葉たちに、彼女は救われたという。
俺は、血の気がひくかのように、動けなくなった。
俺、ずるい。ひどい。
親身になって相談を受けているわけでもなかったのに。
クロちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
でも、彼女は、微笑んでこちらを見ている。
『あなたが好き。』

俺は、そのとき、何もうまく言えなかった。


クロちゃんとは、昔会ったような気がしていたんだ。
北海道で出会うよりも昔に。たとえば幼馴染のような感じだ。
あの日あのアパートの前で、俺は気づいたんだ。
とても親近感が持てるんだけど、恋愛の対象としてみることは、ちょっと違う。
ほんわかと胸に暖かさを感じつつ、
しかし鋭い針が腹の毒の袋を破ったような。
気分が重い俺は、その日午後のN街道を世田谷宅に向け突っ走っていた。
そういう気分での運転では嫌なことは重なるもので、
路肩を走行中に、何か硬いものを踏んで、リトルのタイヤはパンクしてしまった。
ボコッといったかと思ったら、シューシュー音を立てて、
あっという間に空気が抜けた。
ベコベコとさびしい音をたて、まっすぐ走らなくなり、止める。
俺は、天罰が下ったのかと、思った。
ただリトルを押して帰って行く。

それからしばらくシゴトが忙しい時期になり、俺は帰りが深夜になっていく。
クロちゃんはといえば、あれから、毎日のように元気な声で電話してきた。
俺のケータイには、クロちゃんから、メールではなく声の伝言が入るようになった。
その日の短い近況ともに、
「今日もお疲れ様。元気? 連絡頂戴」という内容だった。
メールは不思議に届かなかった。声の伝言ばかりが残った。
深夜の駅から、俺はクロちゃんの声を聞きながら帰るのが日課になっていた。
そして、何度も何度も聞きなおし、次の伝言を受け取るために、
惜しむように1件づつ削除していたのが心に残っている。
俺は伝言を楽しみにしていた。

でも、シゴトで遅いことを理由に、俺から電話しなかった。
俺は「逃げ」ていた。ここにも俺のずるさが出ている。
本当は遅い時間なので電話しなかったのではなく、俺が弱くて電話できなかったんだ。
何を話題にしていいのか、電話しても困ったはずだし。
俺は彼女の気持ちを受け止めることが、やっぱりできないのではないか、と
モヤモヤ、グズグズしていた。結論まで出せなかった。
こちらの近況を伝えるメールは、俺から何度か出すことができた。
ただ、あの日の告白への返事や、再会については書くことができなかった。
でも、「逃げ」はそれほど長く続かなかった。
クロちゃんとの3度目のデートは、突然だったんだ。

年度末の3月、シゴトの結果が出なくて、終電にも間に合わない日が続き、
世田谷にはしばらく帰れなかった。ケータイの電池も切れていた。
伝言も聞けない、返事のメールも出せない。
数日振りの終電、駅からの帰り道、俺は急ぎ足になっていた。
早く帰って電話を充電しかったし、さびしかったんだ。
と、アパートの外で、俺は懐かしい顔を見た。
クロちゃんだった。
俺は、瞬間に固まっていた。
『オッス!労働者!』
動けない俺に彼女は遠くから大声で迎えた。
電灯の下に、クロちゃんの笑顔が見えた。
彼女はあのときまでと同じく、元気だった。

俺だけが、彼女のまっすぐな態度にモヤモヤ、グズグズしていた。
恥ずかしかった。
でも、彼女のいつもの態度と声を聞いて、何か気持ちに整理がついた。
近づいて、ひとしきりの挨拶と、
『入って茶でも沸かしたらどうだよ』
と俺は憎まれ口を叩くことも忘れなかった。
彼女は、茶目っ気たっぷりに笑った。それが印象に残っている。

彼女はどれだけ待っていたのだろう。
まだ冬の寒さの夜だった。顔色がすっかり冷たくなっている。
3回目のデートは、俺の部屋だ。
6畳一間、万年布団とローテーブルがひとつ。家具が少ない。
暖房器具は電気ストーブとガスコンロくらい。
柱と壁板の隙間からは、冷たい風が入ってくる。それでも外よりは何倍もましだ。
クロちゃんをしばらくストーブにあたらせた。
俺はコンロの湯沸しの火にあたり、湯が沸くと暖かい紅茶を出した。
大事に両手で紅茶を飲む彼女の顔が、ようやく、いつもの彼女の顔に戻る。
彼女の肌が浅黒くみえるのは、血色がよいからだ。
寒さに凍えた彼女は、別人のように見えた。
俺がまじまじとクロちゃんの顔を観察しているのを気づかれたので、
『寒くてもブサイクだな』とごまかしてみた。
腹にパンチが飛んできた。効いた・・・

しばらくぶりだね、と二人は話し始めた。
当たり障りのない近況話が続いたけど、最初のデートのときほど盛り上がらない。
お互い、何か話したいことがあったからだった。
俺から、クロちゃんに話しはじめた。
層雲峡でのシロはんとのこと、
あれから半年、俺がシロはんへ思いを寄せていることを。
話さなければならないと思っていた。
隠しているのは、クロちゃんにものすごく悪いことだと思ったから、
誠実に、すべてを話したつもりだ。
でも、
俺のクロちゃんへの気持ちについては、言えなかった。
恋人というよりも幼馴染の友人のように思っていることは、
俺の勝手な気持ちだし、
彼女の俺への気持ちに対する答えではないと思ったからだ。
ただ、俺はシロはんに会いたい。それを話したつもりだった。

黙って神妙に聞いていたクロちゃんは、下を向いてじっとしていた。
ローテーブルに突っ伏したかと思うと、しばらくして、
肩を震わせて笑い出した。
『言われちゃったか』
顔を上げると、笑いながら目に涙をためていたように思う。
それから気丈に、クロちゃんは彼女自信のことを話し出した。
彼女は、前に北海道に言った理由から説明してくれた。

シロはんを心配して同行した、と言ったけど、確かにそれもあったが、理由はそれだけじゃなかった。
シロはんとシロはんの「元彼」が付き合う前に、クロちゃんはそいつに気を寄せていた。
クロちゃんも「元彼」が心配する心があった、そのときは。それを認めた。
『でも、』とクロちゃんは続ける。
『私は、あなたに投影してないよ。まっすぐに見てるよ。第一、そんなに似てない。』
ん?そうなのか?似ているというのはシロはんの主観なのか?
じゃ、俺のどこが好きかと聞いた。
『・・・同感できるとこ。
  考え方がしっかりしてはるとこ。
  もうひとつは・・・秘密。』
マジな顔で黙る。
そいつと似てるから?
『違う! でも言わない。』
目を逸らさないが意地になっているように見えた。

彼女のしっかりした顎のラインが、きっと結ばれた口元を支える。
俺にはそんなのどっちでもいい筈なのに、聞きたかった。
真意を確かめたかった。
しばらく沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは俺だった。
『シロはんとの時間を、もう一度チャンスをくれないか』
コレはどうしても俺が言わなければならない台詞だった。

クロちゃんは、涙をほろりと流した。
彼女は笑おうとしていた。でも口元が震えている。
目を閉じていた。
俺は、彼女が消えてしまいそうに思えた。
俺は両手を彼女に伸ばしていた。
『大丈夫、私は平気。』
彼女の手のひらは、俺の手のひらを包み、でもそれ以上は気丈に止めていた。
俺は、彼女の気丈さの前に、ただ包むだけだった。
あのときのシロはんが、俺にしてくれたように。
そのまま夜が更けた。
クロちゃんと俺とは、寒い部屋のなか同じ布団で一晩をあかした。
俺には体温があたたかかった。やさしい匂いがした。

朝、俺とクロちゃんは目が覚めてから、しかし言葉を交わさなかった。
俺は彼女に対して誠実でいたいと思い、すべてを打ち明けた。
でも、それは俺のエゴだったのかもしれない。
彼女の気持ちに対しては、俺は誠実だったのか?
自問は今も続いている。

その日、彼女はシロはんの連絡先を書き置きしてくれた。
紙に丁寧に書かれた文字。
部屋から去っていく彼女が、小声で言った言葉は、
まだ俺の心に刺さってぶら下がってる。
『待ってる』
俺は今も、そんなクロちゃんの強さを忘れられない。


俺がクロちゃんと別れてから、苦虫を口いっぱいに頬張っているような、あたまの半分が重く痛い日々が続いた。
自分が嫌でたまらない。洗面台の鏡に映る自分を直視できない。
俺はクロちゃんに対する自分の態度が、気に入らなかった。
なぜ俺は受け入れなかったのだろう。
俺は選ぶ立場なんかにゃいない。わかってる。
しかし、あれ以上、俺はクロちゃんに会わせる顔がなかった。
それを思うと、耳のうえのあたりがキーンと痛んだ。
クロちゃんからはメールも電話も途絶えた。あれほど頻繁にあった連絡が、ある日途絶えた。
狭い部屋にいると気が狂いそうで、近所の公園を徘徊することが多くなった。
外のベンチや階段に所かまわず座って、ぼーっと空を見上げる。
薄い水色の東京の空が、なんだか懐かしい唯一の景色だった。

そしてクロちゃんから最後にもらった、シロはんの電話番号へも、かけられない俺がいた。
ケータイを持っても、どうしても連絡できない。あれほど欲しかった連絡方法、手に入れたのに。
クロちゃんとの一件が、シロはんへの思いにブレーキをかけていた。
俺は今のままの自分では、シロはんと連絡をとってはいけない、と思った。
大切に大切にしまっている素敵な宝物を、汚い手で汚してしまうくらいなら、なにもしないほうがいい。
いまは何もすべきではないんだ。

1カ月、2カ月と過ぎていった。ウジウジした長い梅雨があけて太陽が高く上がる夏。
くらくらして、倒れそうになる。
仕事に気も入らず成果も出ず、仕事一旦やめようかと思い始めた。
駐輪所のリトルには小さな蜘蛛の巣がかかっていた。

そんな初夏のある日、また運命が動き始めたんだ。
ケータイにある日メールが入ってた。シロはんからだった・・・!
どうして?


「労働者さんへ(笑い)」
という書き出し。クロちゃんからだと思って、急いで読む。2行目には
「お久しぶり○○です」
えっ、シロはんだ・・・! 俺は頭が真っ白になった。
連絡できずにいた俺を先回りして、連絡してくれたシロはん。
シロはんに俺のメアド伝えてくれたクロちゃん。
ずるくて弱くてウジウジしている俺・・・。
でもうれしい。俺、強くなりたい。会って変わりたい。
シロはんにすぐに返信するのだった。

「俺は元気さ。」嘘ばっかり。
「ホント久しぶり。懐かしいね、」昨日のように思い出せる。
「あれから、どうしてる?」もっと聞きたいだろ、俺。
「また、時間あるときにメールくれよ。」本当はいますぐに会いたい。
「じゃまたね。」本当に連絡ありがとう。

ロクに自分の気持ちも伝えられてない文面で、しかしすぐにメールを返信する。
もどかしい”送信中”の文字。時間がやけにかかる。
そして送信終了、俺はホッとする。
ほどなく、シロはんからメールが何度かに分けて届く。
そこまではしっかり覚えている。
俺は一生懸命になれたんだ。生気を取り戻していた。


シロはんはそのとき、神奈川のS市にいた。たまたま来ていた、というのが正しい。
シロはんは4月からの就職を決めていて、関西方面で事務職をしているそうだ。京都の実家から通勤しているという。今は一時的に、会社のS市研修所に来ているという。
そして、クロちゃんから、メールしてみれば?と俺のメアドが転送されてきたのは、昨日だという。
クロちゃんは、俺との一件をシロはんに話していないのだろうか。
俺は、クロちゃんの掌の上で弄ばれているのだろうか。
シロはんの後ろには確かにクロちゃんがいる。2人は友達。
シロはんはどこまでクロちゃんとの一件を知っているのだろうか?
しかし、シロはんは何も知らないようだった。
そしてだからこそ、俺にはクロちゃんが大きなヒトに思えた。
ありがとう。そしてごめんよ。

シロはんのメールは、近況を知らせてくれた。
あの旅行から帰って、私は元気になったんだよ、という。クロちゃんとはあの旅行から数回しか、会っていないらしい。
2人の間で何か小さなケンカがあったようで、シロはんはクロちゃんとのことについて、多くを語りたがらなかった。
何か、あったのだろう。俺はそれ以上詮索しなかった。

シロはんのきているS市の研修所は全寮制で、内容は起床から就寝まで管理される、まるで体育会系のようらしい。
新入社員の全員研修で、ビジネスの基本やらから、専門技能の研修まで、毎日、8時間以上に時限管理されているらしい。
いまどき大変だね、珍しいんじゃない?と俺が切りかえすと、シロはんからは堰を切ったように、会社へのグチや文句満載の長文メールが止まらない。こちらが返信を返すまでに、何通も何通も・・・。そして、どうしたらいい?という俺への問いかけで終わる。
俺はメールで答える。
わかるよ、俺もそういう洗脳めいた会社研修の経験がある。社会人一年目の不安も大きくて、つらいんだよな。
そういう意味のメールを送ったら、しばらくして、今度はシロはんから短いメールが一通だけ届いた。
「電話していい?」
俺は胸がキュンとなった。ほどなく、俺も電話番号だけの短いメールを一通、送った。
そうして、シロはんとの再会はスタートしたんだ。

最初の電話では、2人ともぎくしゃくしていたのを覚えている。
お久しぶり、お元気? そこからはじまる会話はしかし、俺には違う感じがした。
苦しんでいるときには長かった俺の時間が、声を聞ければもうどうでもよかった。
電話を持つ俺の口の端が、微笑んでいたと思う。
最後に会ったのはあの北海道の嵐の朝。その話にはお互い、何も触れられなかった。
「そう、研修。ひどいんだよぉ」
ちょっとおどけた口調で、シロはんが話し出す。

話の端々に、やわらかい関西なまりが少し聞き取れる。あれ、シロはんて、こんなに関西口調だったか?
うまく文字にできないのだが・・・京都風のしゃべりくち。〜してはる、とか、独特の関西系イントネーションとか。その雰囲気がしかし、妙にシロはんのイメージにあっていた。
数ヶ月の関西生活が、彼女を埼玉の大学生から、京都のひとに戻していた。
俺、ひきこまれている。話の内容は、研修が辛い、我慢できない、理解できない、という真剣な相談なのに、気がつくとうっすら微笑んで聞きこんでしまう俺がいる。いかん、いかん。
俺、このときほど、自分がそういう気質でようかったと思ったことはない。
シロはんは俺を必要としてくれていたんだ。
簡単な動機付けでも、かまわない。俺はシロはんとふたたび話せた喜びを、しかし隠すことに精一杯だった。

俺は、よくまわりの人間から相談をうけやすい人間だ。
だから俺に身についている、占い師がよく使うよくある「アドバイス常套句」を並べて、相手の気持ちを煙に巻く俺一流の特技を、シロはんにも使いたくなる。
でも、それはしなかった。シロはんには、それを絶対にしたくなかったんだ。
前のクロちゃんとの一件で、俺はものすごく反省していた。
その常套句が、彼女を傷つけるものでなくても、最終的に彼女のためになるとしても、
俺は俺の言葉で真剣に、彼女にアドバイスしたかったんだ。

俺は言葉を選びながらゆっくりと、俺なりのアドバイスを、シロはんに伝えた。
俺の経験とそれから感じ導いた俺なりの今考える結論、世間に渦巻く常套句アドバイスとの違いへの考察。
これは俺なりのシロはんへの思いの表れであり、今までの俺への挑戦だった。
シロはんが電話の向こうで、どういう顔で聞いてくれていたのかはわからないが、
相槌をうつ声が、次第にやわらかくなっていいくのが俺には感じられた。
言葉の真意が伝わったのか、本当に彼女のためになる言葉を言えたのかは、今だにわからない。
でも、彼女が俺の言葉を、受け止めてくれたことは、俺にとって大きな一歩だった。
俺は一歩、大人になれたような気がしたんだ。
なんでも簡単にすまそうとしないで、大切なときには一生懸命にならなければならない、ということを、
俺はこのときはじめて実践できたと思う。

話をおえて、彼女が言ってくれた言葉。「本当に、ありがとう。」
俺はそこではじめて、一生懸命に彼女に伝えているうちに、熱くほてった自分の顔に気付く。
ほっとしながら、俺も言葉で伝える。「こちらこそ、ありがとう。」
と、彼女はコロコロと笑った。
「相談したのは私よ。」
俺も高らかに笑った。二人のあいだの憑き物が、落ちた気がした。
2人は、やり直しの出会いのスタートラインに立てたと思った。

シロはんがS市にいるのは2週間だった。
俺は次の日曜に会えないかと彼女を誘った。OK! やった!
次の日、俺はすぐに床屋に向かった。ボサボサになりかけてた髪形を、すぐにシロはんに恥ずかしくないようにしたかったからだ。
週末を楽しみにしながら。



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