4月
○すかんぼの酸味を舌に感じゐる春来て故郷を思ひいづるとき(陰影)
○菜の花の相模の國に鐘のなるあしたを夢はゆきてかえりぬ
(うすひ野)昭和15年2月作
2006.4.21 撮影 秦野市大倉
鰻釣り
庭の隅の烟草苗場から、あたたかく霞があがって、朝の空に春はうつすらと眼をあいてゐる。
苗場の柔らかい土から生えた煙草苗は、どれもこれもさしわたし一寸程の、楕円な厚葉をつけていかにも日の光を甘さうに吸つて、心持汗ばんでゐる。
私は手頃の眞竹の棒をもつて來て、苗場の圃ひの藁の上からずぶりと突き出すと、金色に光つた赤い大きな蚯蚓(みみず)が、すつと頭をあらはす、二尺ほどの長さにのびて、煙草苗にぬるぬると纏(まつは)りながら這ひ出すのを、指さきでちよつとつまんで、笊(ざる)のなかに投げ込む。笊(ざる)のなかに堆肥が少し入れてある。かうして十疋ほど引き出すと、それをもつて私は田圃に行く。田の畔には鰻の巣がある。上の田から下の田へ穴がぬけて、水がごぼごぼと音を樂しさうにたててゐる。田の畔(くろ)には、茅花(つばな)がほほけて、きんぽうげや狐の牡丹が黄いろゐ金平糖のやうな花をつけてゐる。すかんぼも紅い穂をだして、風に吹かれてゐる。
私は、それらの冷たい草の上に腰をおろして、笊のなかからとり出した蚯蚓を三四度畔に強く敲きつけ少し弱つたとところを針のついた細い麻縄にとほして、鰻の巣のなかに静かにながし込むのである。そして、麻縄の端を指にからませて、手ごたへをまつてゐる。
頭をあげて見渡すと、田圃のあちこちで、白い頬かぶりした人が、ぼしやり、ぼちやりと水音をたてて田を鋤き返してゐる。田の畔にはところ、どころ菜の花が咲いてゐる。乾田には大根の花が咲き、蓮華草が紅紫に盛上つてゐる。
私はつひうとうとと眠くなる。日がちろりと散つて、明るい水光が、顔に反射する。泥くさい匂があたたかくふところに這入つてくる。
突然釣糸をからんでゐた指さきが、きと引締つてぐつと曳かれる。はつと思つて糸を両手で手で手繰りあげた時、三尺にあまる銀色の太い鰻が、溌剌として、日光のなかで躍る。
私は、やあといふ歓聲をあげて、田の畔を往還の方へ、鰻をさげたまま突つ走る。
注1 茅花―茅萱(ちがや)の花。イネ科の多年草の若い花穂。野焼きの跡によく生える。若い穂に甘味がある。それが長けて銀白色に光る。
注2 きんぽうげー金鳳花(華)、馬の脚形。花は2センチ程の黄色の五弁花。葉は馬の蹄の跡に似ている。「狐の牡丹」も同じ科で有毒な店も同じ。
注3 すかんぼーすかんぽに同じ。夕暮はすかんぼと書くことが多い。
『烟れる田園』「春」
出典 郷土文学叢書 第15巻
「前田夕暮 ふるさとのうた上」〜詩歌歳時記 生い立ちの記〜 村岡嘉子編著 30p
発行 秦野市立図書館
鰻(うなぎ)
前田夕暮歌碑めぐり 前田夕暮の散文
環境にやさしいインテリア吉田グループ 地元情報発信 ホームページ