9月
○崖土(がけつち)につきさされたる青竹の樋(とひ)より水は縒(よ)れおつるなり
『南風』「東秦野村」昭和3年作。水は縒れおつるなりー湧水の落ちる描写の確かさ
夕暮は特に郷里の丹沢の水の味を愛した
○いま、つきをへた鐘が霧のなかで揺れてゐる、空すこしあおい
昭和15年2月作。その折りの弘法山の夕暮(58歳)と筆跡
2005.4.11 撮影 丹沢葛葉の泉
山上の饗宴 ―日記の一節― (弘法山)
6月9日
そして、毎月歸る毎に登りたいと思つてゐた弘法山に今日こそ登つてみやうといふ山に対する強い欲望が湧いた。朝飯をすませると、従兄弟たちを誘ひて行った。(中略)一二ヶ月前に植ゑつけられた煙草は、今や充分に根を地中に張り、思ふまま空にむかつてその廣い青い葉を拡げようとしてゐる。そして、一面にその青い波をたてて、隣の刈り殘された大麥畑やまだ青みのまじつてゐる小麥畑などをわたつて、畦の白く光つた茅花の穂を驚かし、さらに段々畠を上へ上へと吹きあげて、やがて遠い水無川の空の方へ消えて行くのである。(中略)
此山の展望ばかりではない、その追憶の中心はいつも此山上の鐘にあつたのである。村人にしても、二百年前より、此鐘を唯一に時間の標的として、起き、眠り、労働し、休息して來たことであろう。(中略)自分は少年時代によく此山に唯一人で遊びに行つた。そして、八十何歳になるといふ紀の国の老婆と、どこか中国邊の中老婆と大きな白猫と同棲して鐘をついてゐたのを記憶してゐる。(中略)
自分はこのぐみの實をみる毎に9歳頃の少年時代の小事件を思ひ出さずにはゐられぬ。それは、尋常小學の二年頃の事であった。同級生二三人と秦野に行き、帰途は山越えに歸るつもりでこの山に遊びに登った。(中略)千畳敷といふ草山の向ふ側を登ってくると、ふと私達の眼に入つたのはある崖下の一本の木立である。それが即ちぐみの樹で、全樹の木の實は赤く夕日の光をうけて燃えるやうであつた。私達は本能的に欲望に驅られて其樹の方に惹き寄せられた。(中略)
麓の村落からであらう、單調な麥打ちの連枷(くるり)の音が、鈍いタイムをとつて、遠く山上に響いて來る。
耳をすますとうら悲しい麥打唄もきこえるやうな心持がする。廣い庭に筵を何枚も敷き合せ、その上に麥の穂を一面に散らして、それをとんとんと連枷(くるり)で打つ男女の群れの圓い輪が見えるやうだ。その男女の輪がゆるい調子で靜かに右から左に、或いは左から右に、黄いろい麥の穂を散らした筵の周圍をめぐつてゐる。皆の顔から汗が流れている。その中の一人が疲れたうら寂しい聲で麥打唄を歌ひ出すと、あとのものもそれにつれて聲を合わせる。そして、輪がひと廻りぐるりと廻る。そして、此弘法山の鐘の音が夕の安息の時を知らすべく藁屋根越しに彼等の輪のなかになつかしく響いて行くであらう。その鐘の音をきくと皆は麥を打ち終へてほつとして鐘の音のする山の方をながめることであらう。
自分の想像はそれからそれへとはてしなく續くのであつた。

2006.4.4 撮影 秦野市弘法山
大正七年6月年譜(『評伝前田夕暮』前田透著)に「透を伴ひ郷里大根村へ帰省、冩真師を呼んで生家を撮影させる」とある。夕暮36歳、透4歳。父が前年没し、家産整理や親族の相談にのるために毎月帰郷していた。「詩歌」は十月をもって廃刊するが、これはその3号前の大正7年7月号に掲載(副タイトル「帰郷日記の一節」)
前田夕暮歌碑めぐり 前田夕暮の散文
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