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![]() 出発準備ができた。その時、中村上等兵は重傷で動けない。 歩いてついて行けない。今は誰一人として、元気な者はおらず、担架に乗せて運ぶことなどとうてい考えられぬ。皆目分の体が運べなくて次々に死んている状況である。 手島中隊長は、師団そして連隊長の命令により中隊を指揮して行かねばならない。 「行軍について行けない者は仕方がない。片岡軍曹はその旨を、中村上等兵に伝えよ」と命令した。した。 |
片岡邦夫軍曹は中隊長の命令であり、中隊としてもそうしなければならないことだとは分かっていたが、悪い役を仰せつかったものである。 躊躇する暇はない。中村上等兵が横たわっている所に行って静かに言った。 「中隊は再び、山の中に逆戻りし、行軍することになった。これから出発するが、どうするか?」 「ついて行けるか?」 しばらく黙っていた中村上等兵は、 「ついて行けません」 と答え、またしばらく沈黙が続いた。 「自分はもう動けない、どうすればよいか教えて下さい」 と言った。彼の体は重傷を負い、自分の装具や兵器、自決用の手榴弾を置いている場所まで、取りに行くことさえもてきないのだ。 「自分は 決して恨みません。殺して下さい。その小銃で」と苦しい呼吸の間で、やっとこれだけ言った。息詰まる沈黙の時間が続いた。 軍曹は、この小銃で撃ってしまおうか、本人の願いでもあり、中隊長の命令でもありと思ったが、しかし、共に戦ってきた戦友を自分の手で殺すことはてきない。 いくら助からない命でも、そんなことはできない。できるはずがない。だが、出発の時間を遅らせることはできない。それに敵がいつまた攻撃してくるか分からない。 早くしないと中隊長に叱られる。考えることはない。断あるのみで軍曹は小銃に弾を込めた。しかし、彼の生命を断つことは忍びなかった。 いくら戦いに明け暮れたために荒んだ気持ちになっていてもまた多く の死体を見ていくら |
か人間の温かい感情が麻痺していても、自分の友を手にかけることはできない。 「これに弾を込めたから、自分の足で引き金を引け」といって銃を渡した。中村上等兵は、死ぬ覚悟を十分していたのだろう、もう静かに考えるほどの余裕も感情もなかったのだろうか。与えられた銃の銃口を顎の下にあてがい、助けを借りて引き金に足の親指を乗せたと思った瞬間引き金は落ちてしまった。 口からも血が流れ落ちた。軍曹は銃を取り上げ、そして手を合わせ成仏を祈った。 それから、右手の親指を切り取りポケットに入れて別れた。中村上等兵の悲壮な気持ち、片岡軍曹の立場、その心境は図り知れないものがある。 中隊長と兵隊との間に立つ下士官の苦労と心痛は大変なものであった。 人の情けと勇気と正しい理性を備えた片岡邦夫軍曹も、それからこ十日余り後、、シッタン河を渡河した地点で戦死されたのだと後日聞いたが、哀れというか残酷というか、戦場はこのように次々と尊い生命を奪い取ってゆくのである。 何ということか。 さらに出発にあたり、またあの山を登り歩くのかと前途を悲観して、三、四名の者が相次いで自決したと聞いた。 |