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![]() ペグー山系を出発してから、シッタン河に差しかかるまでに我々の軍隊は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。 飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明になった者、弱り果て自決する者等いろいろてある。確実に兵士の数が減少している。 今日も、マラリヤで苦しんでいた北浜上等兵がついに死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵たち四、五人が休んでいた。彼は仲の良かった長代上等兵へ、「お世話になったが、わしはゆく」と小さな声で伝え外に出て行った。 みんな弱っておりもう誰も止める者もいなかった。止めたところでどうなるものでもない。彼は死期が近いと覚悟したからだろう 可哀相にと思ってもどうする術もなかった。 お互いにみんな重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面しており、冷静に考えるゆとりもなかった。 私自身もそうてあったが、死んだ方が楽だとさえ思ったことがある。 二十五歳の青年北浜上等兵。目もとの美しい彼も、長い敗走の間に髪は伸び放題、髭は顔を覆い、今は見る影もなく痩せ衰え、垢に汚れ黄色くなった顔、おそらく高熱に冒されていたのだろう。 |
彼が外に出て行ってからしばらくして、ドカンという手溜弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんなことが随所に起こり シッタン平野は阿修羅の巷となった。 日本軍の作戦を知った敵は空陸一体となって攻撃してくる。シッタン河に沿った集落を何回も空襲し、機関砲を撃ち、小型爆弾を落としてゆく。我々は家の床下に隠 れたり、集落外の田んぼの間にある木の陰に隠れたりした。 私は背丈ぐらいある竹で編んだ大きな籾の桶の間にうずくまり 一日中そこにいた。 敵のするがままで他に良い方法はない。嵐のような機関他の弾、耳をつんざく爆弾の破裂音、逃げたとてどうしようもない。 私は、弾が当たれば当たれ、当たるなら即死するように当たれとさえ思った。 そのとき、ふと母からの手紙を私は思いだした。母が金光教をお祈りしてくれているから大丈夫だ、敵弾など当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。 また、西澤とよ子さんから来た手紙のー節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死なないと予言してみるのである。 民家のー部が燃えだした。固唾を飲んで様子をうかがい思わずお守りを握りしめていた。 この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた。 その他の連隊でも大変な犠牲者があり、多ぐの血がこの平野に流されたのである。 英印軍の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏につかまり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後まで戦いとおすか、自決するかの決断に迫られた。 多くの者は渡河手段を選択したが、すでに負傷したり、体力が衰弱した者は泳げないのでここに残らざるをえなかった。残った兵士は、以後数日間、敵弾にさらされ、生命を落とすことになったかと思われる。 |