安土桃山時代の日本1

安土桃山時代には多くのポルトガルの宣教師たちが日本に来て、日本の文化や習慣について書き残しています。幕末にも鎖国していた日本に多くの欧米人が来日し、日本の風景の美しさや日本の清潔さについて報告していますが、同じように宣教師たちも日本の庭園の美しさや日本の清潔さ、清々しさについて多く書き残しています。こうした日本の特徴は相当昔からの伝統のようです。
また、宣教師たちは信長や秀吉による壮大で豪華な建築にも感嘆し、この時代の日本の木造建築技術のすばらしさを発見しています。その他に刀鍛冶や蒔絵などの職人技術についても驚いています。
フランシスコ・ザビエルが来日したのは、日本人が理性的であり日本がキリスト教の布教に向いている国だと思ったからです。宣教師たちは日本人の性質や性格についても報告しています。
京都人については、温和な性格、礼儀正しい、接待好き、遊び好き、酒宴好きであると書いています。また、日本人の性格として、下記のような特徴を指摘しています。
  好奇心に富む。
  分別があり、理性に基づいて行動する。
  礼節があり、慇懃である。
  他人の悪口を言わないし、他人を妬まない。
  賭博をしない。盗みをしない。
  名誉心に富み、武道の修練に励む。
  自信を持っており他民族を恐れない。
これらの性格や性質は、現代の日本人のものと変わらないようにも思えます。民族的な性質や性格は相当古くから継承しているものかもしれません。

日本の建築
安土城
信長の安土城は壮大さ、豪華さでヨーロッパ人を驚かしています。また、こうした建築においてもヨーロッパ人は日本の清潔さを感じていたようです。「清潔」はこの時代においてもヨーロッパ人の見た日本のキーワードでした。
 外観
「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。事実それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを越える石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。」(フロイス日本史)
 内部
「なお、宮殿や広間の豪華さ、窓の美しさ、内部で光彩を放っている金、赤く漆で塗られた木柱とすべて塗金した他の柱の数々、食料庫の大きさ、多種の灌木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のためまた鳥のための池、黒く漆で塗られた鉄が打ちこまれた扉、全建築と家並みの塗金した枠がついた瓦、周辺に見張り用の鐘がある保塁の数、新しい豪華な宮殿、それとおびただしい部屋の塗金した絵画の装飾、新鮮な緑ときわめて広大な平地、これを越えて望むと片側には麓に大きい湖があり各種各様の舟が往来し、他方に見渡すかぎりの田野が開け、その間に城や多数の村落が展開している。それらすべてに全範囲にわたって格別の清純さが見受けられる。」(フロイス日本史)
 眺望
「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。」(フロイス日本史)
安土城下
安土の城下も整備されていました。清潔好きの日本人は街路を日に二、三度も清掃していたようです。
「3年を経ずして新築され不断に成長したその町は、すでに一里以上にも拡張した。諸侯諸士の家々は、すべて上に番人部屋がついた特殊材の玄関を有し、壁はすべて白く上塗りされ、内部には塗金した屏風がしつらえてある。幾多の高価な馬に満ちた厩は、非常に清潔で、娯楽室としても結構役立つように思われる。街路ははなはだ長くて広大で、日に二、三度清掃された。」(フロイス日本史)
都への道路
信長は安土から京都への道路も整備しましたが、ここでも清掃に気を配っています。また、茶店のような設備もあったようです。
「この安土の町から都まで陸路14里の間に、彼は5、6畳の幅をもった唯一の道路を造らせ、平坦で真直ぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木を植え、所々に箒を懸け、近隣の村から人々がつねに来て道路を清掃するように定めた。
また彼は全道程にわたり、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。一定の間隔をおいて休息できる家があって、旅人はそこで売っている豊富な食料品を飲食して元気を回復した。
そして以前、その諸国では少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には人々はことに夏にはつねに夜間に旅をした。彼らはその荷物をかたわらに置き路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全になった。彼は道中のこの秩序と設備を、その統治下の多数の諸国において実施させた。」(フロイス日本史)
瀬田の橋
本能寺の乱で落とされた瀬田の橋です。本陣のような施設でしょうか、信長のための休憩所があったと記されています。
「そして都から安土へのこの道が旅人にとり、あらゆる困難から免れるよう、彼は近江の湖が狭くなり激流と急流を伴う瀬田というところに4、5千クルザードを費やしたといわれる立派な橋を懸けさせた。それは4畳の幅で180畳の長さがあり、形はきわめて完全であった。彼はそのほとんど中央の片側に一軒の非常に快適な休憩所を自分のために作り、そこを通行するときに休息できるようにした。」(フロイス日本史)
比叡山の峠
逢坂の峠でしょうか。信長はこの峠道も整備したようです。
「安土山からのこの道には、さらに一つの障害があった。すなわち都と近江の湖の間にある比叡山の山獄と嶮しい岩石であった。したがってその道路を容易に通過できるようにするために彼はこれをすべて手で切り通させ、以前には人々が苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく嶮しい道をまったく平らにし、なんら障害がないようにした。かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、牛車や婦人の駕籠もなんらの困難なしに通行している。」(フロイス日本史)

聚楽第
信長よりもさらに派手好きの秀吉は金銀で装飾した御殿を造らせました。ここでもヨーロッパ人は清潔さ、清々しさを強調しています。
 聚楽
「彼(秀吉)は、今や都に新たに構築した城と諸屋の同じ囲いの内部に、内裏がくつろぎに行くための幾つかの御殿を建てさせた。それらの御殿に彼は金属の銀の柱と鉄の門を造らせ、また金を塗った多くの部屋の間に、とりわけ内部には入念に金銀で浮彫りを施した豪華きわまる一室、および庭と称するきわめて珍しく非常に清潔で調和がとれた庭園を設けさせた。暴君(秀吉)はそれらの御殿と城に聚楽すなわちあらゆる喜びと楽しみが集まる場所という名称を付した。」(フロイス日本史)
 内装
「この座敷の後方に、さらに一段低い座敷があり、そこは別の大広間となっていた。これらの場所はいずれも、これ以上望めぬばかりに清潔であった。なぜなら床という床には、日本の習慣に従って3デードほどの厚さにごく繊細な蓆で作った敷物風のもの(畳)が敷きつめられ、壁には金で幾つかの樹木を描いたもの以外には何も見えなかったからである。この大広間の一方には、広間沿いに縁側が延び、前面は大きく清爽な中庭となっている。」(フロイス日本史)
 木造建築
「そこで一行は宮殿の主要な部分を見物したが、それらは疑いもなく壮大かつ華麗で見事に構築されており、木造建築としてはこれ以上望めないように思われた。とりわけ、それらはこの上なく清潔かつ新鮮に装飾されており、ヨーロッパのどこに建てられていても大いに賞讃され人々を感嘆せしめずにはおかないであろう。なぜならば、部屋という部屋、広間という広間、その内外と上下は言うに及ばず、台所までがその用具や机の置場に至るまで、ことごとく金が塗られているからである。これらの家屋がいかばかり清潔ですがすがしいかは、これを目撃した者でなければ判るはずがない。」(フロイス日本史)
「部屋や広間その他の造作には最良の木材が使用され、その多くは杉の香りを放っていた。内部はすべて金色に輝き、種々の絵画で飾られており、あまりの清潔さ、完璧さ、また調和がとれていることに人々は驚嘆せずにはおれなかった。」(フロイス日本史)
 外観
「彼はことのほか自らが賞讃され名声を残すことに熱心で、快楽と歓喜の集まりを意味する聚楽という名の宮殿と城を造営したが、それは絢爛豪華であり、深い濠と石壁で取り囲まれたその建物は周囲が半里に及んだ。
石壁の石は密接してはいないが、漆喰で接合されており、技術が優れ、壁が厚いために遠方からは石造り建築と見誤るほどであった。使用されている石の多くは稀有の大きさで、遠くからはるばる肩に担いで運ばれて来たのであるが、時には一個の石を運搬するのに3、4千人の人手を必要とした。」(フロイス日本史)
聚楽町
秀吉は聚楽の周辺の町も整備しています。諸侯の屋敷は黄金の瓦で葺いてあったようです。
 外観
「彼(秀吉)は、これらすべての諸侯に対し、街路に面する壁と、豪華で立派な家屋を建てよと命令した。」(フロイス日本史)
「こうして彼らは街路に面した壁を仕上げてしまったが、それらは同時に彼らの屋敷の囲い塀でもあり、すこぶる清潔で美しく、その表面は花模様の黄金の瓦で葺いた屋根で掩われていた。いずれの屋敷にも二つの豪壮な門があり、その正面はすこぶる優雅で珍しい構造で、数々の塗金された銅版が張られ、日本の慣習に従って驚くほど見事な出来栄えであった。」(フロイス日本史)
 都市計画
「これらの門は堂々とした装飾であるが、また真直ぐで幅広く長く見事に仕切られた街路が幾筋にも及んでおり、一つとして調和を乱すものはなく、すべての街路が一本の線で画されているようであり、この囲い塀によって街路はすこぶる上品かつ優雅なものとなった。」(フロイス日本史)
「聚楽から王宮へは、たいへん広くてたいへん真直ぐな一本の道路が通っていた。その道路の両側には、すべて諸国の領主たちの御殿が続いていて、それらの御殿には防壁としての外郭がり、根太やその上の組立ては、豪華に銅と金で細工した薄板の張られた木材を使い、金色に塗った瓦で屋根が葺いてある。そして、外郭の正面のところには多くの費用をかけた非常に豪華な門がある。」(日本教会史)
 諸侯の建物
「諸侯は後に囲い塀の内部に必要なすべての家屋を建てたが、いずれも驚くほど清潔で豪華な構えのものばかりであった。」(フロイス日本史)
「すなわち彼らは非常に宏壮な様式の屋根を設け、また疑いもなく我らより豪華で優れた建築法を用いるので、これらの家屋はふつう平屋建てで上階を有しないにもかかわらず屋根が高々と聳え、ほとんど我らヨーロッパの建築の屋根と同じくらいの高さとなる。
棟も屋敷の周囲の瓦もすべて種々の花や木の葉模様で飾られた黄金塗りで、屋敷ごとにいろいろ異なった屋根があるから、都の町のこの地域(聚楽町)はすこぶる高貴で豪華な様相を呈している。」(フロイス日本史)
 清潔
「これらの屋敷内の清潔さに至っては、ヨーロッパのどこにあったとしても、まさしく驚嘆せしめるに足りる。なぜなら、彼らは湿気を避けるために家の床を3ないし4パルモも地面から上げて造り、床板の上に彼らが畳と称する蓆のようなものを用いている。」(フロイス日本史)
「家財その他の調度品を片づけておく屋舎にもわざわざ押入れが設けられ、すべて清潔で整頓されている。こうした物事の清潔さという点では、疑いもなく日本で見られるものは人をして驚嘆せしめずにはおかぬのである。」(フロイス日本史)
 黄金の内装
「このように、それら屋敷の内部に見られるものにはいずれも黄金が塗られており、そのうえにどの屋敷にもある美しい絵画、屋内の天井板、敷きつめた床などが形成する非常な清潔さ、新鮮さ、優雅さなどを加えると、この世ではこれらの屋敷に見られる以上の清らかさを造り出すことはできまいと思われるほどである。
なぜならば、ただに広間、部屋、縁側、廊下のみならず、上記の台所、それに付随する作業部屋、さらにこれらの屋敷では慣用するというよりも体裁上設けてある厩とか厠に至るまで、いとも清潔で塗金されているからである。」(フロイス日本史)
 庭
「いずれの屋敷にも中庭や空地が設けられ、その場に誂え向きのさまざまな形の石や花や樹木が配される習わしである。これらの樹木にはなんらの果実もならないが、どこかの景色を象って自然の姿を再現している。そこには自然の池や泉が配されて驚くほどの新鮮味があり、それらが人工的に作られたものとはとても考えられない。」(フロイス日本史)
聚楽町とヨーロッパの比較
フロイスは聚楽町の方がヨーロッパの都市より優れていると認めています。ただし聚楽町以外の町はヨーロッパと比較できないくらい劣っているとも記しています。
「彼(秀吉)は、都のこの城を聚楽と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する。我らヨーロッパの都市がたとえ美しくても、ある点では都の聚楽町の方が優れていることは疑いを容れない。だが他の点では聚楽町の方が明らかに劣っている。街路が整然としていることやその美しさ、また屋敷の新鮮さ、清潔さという点では聚楽町の方が優れている。というのは、こうした場所には諸侯の屋敷しか建てられておらず、他の庶民の家は一軒もそこにないからである。」(フロイス日本史)
「(日本の都市は)住民、出店、店舗、生活費、物資の豊かさ、市民の待遇や仕事ということになると、都は我らヨーロッパの都市とはほとんど比べものにならないくらい劣っている。
最後に、都のこの聚楽町の区域を除くと、我らの都市と比較できるような気品があり壮麗であると言いうる町は日本中どこにも見出されない。だがヨーロッパでは、いかなる国においても、それに優る種々の都市がたくさんある。」(フロイス日本史)
マルコ・ポーロ
「日本教会史」のロドリゲスは聚楽を見てマルコ・ポーロのジパング伝説を思い出したようです。ただし、マルコ・ポーロは日本の鎌倉時代の頃の人です。当時の黄金の建物といえば中尊寺の金色堂などが考えられます。
「我々が鉛や銅で屋根を覆うように、黄金の板金で覆った豪華な宮殿を持っており、屋内や部屋の高い床もまた黄金の薄板でできているという。この点について、この著者(マルコ・ポーロ)も彼にそのことを教えた者も誤解していた。」(日本教会史)
「ただ、日本の国王と領主たちはその屋根の表面を黄金で飾るので、遠方からはぴかぴか光って見え、黄金で出来ていると思われることは、我々がすでにしばしば経験した通りである。
そして、屋内の天井と壁は贅沢に金で飾っているので、そのことを報告した者がそれを黄金の板金だろうと考えたのである。」(日本教会史)

京都
宣教師たちも日本の都である京都を訪問していますが、当時は打ち続く戦乱で荒廃した町が復興していく時期だと思われます。宣教師たちは当時の町の様子についても報告してくれています。機織りなどの産業が興っていた様子もうかがえます。
 荒廃
「都はかつて大きな都会であったけれども、今日では打ち続いた戦乱の結果、その大部分が破壊されている。昔はここに18万戸の家が櫛比して(すきまなく並んで)いたという。私は都を構成している全体の大きさから見て、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には10万戸以上の家が並んでいるように思われるのに、それでいてひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
 風景
「そこは広々として、素晴らしい川に恵まれた爽快な平野にあり、東と西と北の三方はきわめて高い山々に囲まれている。これらの山には宏壮な修道院が多数あって偶像の修道者の住む豪奢な寺院がある。」(日本教会史)
「この市街は平地にあるので、そこから散策に出かけると万物はなはだ美しく、また快く、新鮮な緑の野とか、見るべき良いものなどが多いのである。」(フロイス日本史)
 交通
「この都市は、これらの山々に囲まれているといっても、ある場所では山から1グレアも離れており、広々としている。南方にはたいへん爽快な平野があるだけで、しかもそこにはすぐそばを淀の川が流れているので、はなはだ開豁(広々として眺めがよい)である。その大きな川は、ここの近くにある鳥羽というところまで海から航行可能であって、櫓や帆を使う船が限りなく通っている。この川は近江の湖から出ていて、通る場所が異なるに従がってその名も例えば宇治川、淀川と変わり、大坂という都市で海に注ぐ。」(日本教会史)
公方(将軍)の別荘
足利将軍の別荘ということで考えられるのは金閣寺や銀閣寺ですが、表現内容からすると銀閣寺でしょうか。
「公方様が静養するために宮殿内の離れたところに建てた一住居を彼らに見せた。それはきわめて清潔で、親しみが持て、また快適なものであった。窓の外には、杉、松、蜜柑、その他我らヨーロッパ人には知られていない種類の新鮮な緑色の珍しい樹木が植えられた庭園があったが、それはいとも巧妙に育成され手入れされていて、あるいは鐘、あるいは塔、その他種々の形で、多くの百合、薔薇、雛菊、および種々の色彩の花もあった。人々はそれらを静養と慰安のために植えているのである。」(フロイス日本史)
御所
「司祭らの一行は側の戸口から、非常に幅広く長い街路に出たが、両側には新鮮な緑色の同じ形の樹木が一面に植えられていた。その街路は内裏の宮殿(御所)に通じている。」(フロイス日本史)
「その宮殿は古く、ひどく破損していた。というのは、先代の公方たちは、それを新築することに尽力せず、御所のことにはほとんどまったく気を配らなかったからである。」(フロイス日本史)
「その内府(家康)は太閤の建てた王宮のほかに、同じ国王のためにきわめて華麗豪奢な別の御殿を新たに建てた。外郭すなわち防壁ときわめて優れた門を持った構え、美麗さ雄大さ豪華さは大いに注目に価する。」(日本教会史)
百万遍
京都の百万遍には機織りなどの多くの職人がいて、繁華街が形成され賑わっていたようです。また、この時代でもすでに街路に木戸を設け警備してたことが分かります。
「そこから一同は、広く真直ぐでまったく平坦な街路を進んだが、人々は夜になるとその街路を皆両側とも門と鍵で閉鎖する。ここには、絹や緞子の機織り、その他扇子の製作者、また各種の別の職人が大勢いた。それらの店舗の真中に、全市でもっとも参詣人の多い百万遍という阿弥陀の寺があった。ここでは終日、ことに夕刻になって、かの職人たちが店を閉じ仕事から解放されると、おびただしい群衆が殺到して喜捨をしたり、大声でそこの偶像に祈ったりした。」(フロイス日本史)
都の道路
都の道路もまた清潔だったようです。人々は日に二度清掃していたと記しています。
「都(みやこ)という都市にはきわめて広い道路がついていて、この上なく清浄である。その中央を流れる小川と泉のすばらしい水が全市に及んでいて、道路は日に二度清掃し水を撒く。したがって道路はたいへんきれいで快適である。人々は各自の家の前を手入れし、かつ地面に傾斜があるので泥土はなく、雨の降った場合にもすぐ乾く。」(日本教会史)
機織
「目録によれば、都にはさまざまな絹の反物を織る5千以上の織機があり、そのほとんどがすべて一つの市区に集まっている。」(日本教会史)
商売人の夫婦
「普通は妻が店で手伝い、反物その他の品物を売り、夫が取引とか遊興とかで色々な所に出かける。このことについて、男子は非常に自尊心が高いのに、女たちは婦人としての立場を常に忘れないので、人々の言うことを気にかけないから、店内で争いを起さないで平和を保つために、この習慣があると言われている。」(日本教会史)
住民の性格
当時の日本人の性格を描写しています。これは現代にまでも受け継がれている性格かもしれません。
「都の大衆、住民はたいへん温和な性格で、はなはだ礼儀正しく、きわめて接待好きである。また、たいへん上手に衣類を着こなし、遊び好きで、絶えず休養や娯楽や慰安に大いに耽る。
たとえば、野原に行って酒宴を開き、花や庭園を見て楽しみ、たがいに酒宴に招待し合い、喜劇や演劇や幕間狂言を見たり、また日本風のいろいろな歌謡を楽しむのである。
彼らは信仰にあつい人々であって寺院をよく巡拝し、また平常から男女は頻繁に祈願をこめ説教を聞きに寺院に出かけるので、そのありさまは聖年を思わせるものがある。
言葉は王国中でどこよりも優れていて最も洗練されているが、そこには宮廷があり公家が居て、それらの人々の間にこの言葉が保存されているからである。」(日本教会史)
花見の酒宴と短歌
この時代においても日本人は花見で宴会をしていたようです。ただし、花を見て短歌を詠むという高尚な趣味についても紹介しています。
「この都市から外に出たところは、どの方面へ行っても、日本国中にある平野の中で最も美しく、爽やかな気持ち良さが味わえる。
都市の周辺には所々に森や林があって、そこは慰安に適していて、毎日酒宴を設けて楽しむ市民の集いが行われ、一種の幕を張り廻してそれぞれの宴席を囲む。
この民族は彼ら風のはなはだ優秀で技巧をこらした詩を持っているので、この都市の者はそれを大いに愛好し、彼らが珍重する色々な花が咲く季節に、それらの花を栽培している場所では、そのような場所の中にはたいへん快く人目を引く花園のある壮大な修道院もたくさんあるが、未知の間柄であっても、ある人が他の幕の中にいる人に一枝の花を贈る。
知人に対しては、金銀や色々の花で立派に飾られた細長い紙片(短冊)をかねて用意しておき、そこの花と場所について詠んだ二行詩(短歌)をそれに書いて、花の枝に旗のように吊るして、色々の花に添えて盛んに贈る。そして相手の幕の中の人々は同じ題材について詠んだ別の二行詩をもって相手に答える。」(日本教会史)
都の芸能
四条河原あたりの芝居小屋でしょうか。庶民向けの芸能が盛んになっている様子がうかがえます。なお、歌舞伎の芝居は江戸時代になってからです。この当時は狂言などが主流でしょうか。
「都市の入口に当たるそれらの通路の一定の場所に、小門のついた板囲いがあって、その中では絶えず演劇、喜劇、幕間狂言が行われ、その他に昔物語を語る者がいて、それには楽器に合わせて調子を取り一定の歌をうたうことが伴っていて、この国の人にとってはたいへん楽しいものとされる。
そこでは、いつも閉めてある小門を通って人々は中に入り、各自で一定の銭を払うが、一幕毎にかなりの数の観客がいるので、その役者はその銭で食事代を稼ぐ。そして、それが終ると人々は出て行き、新たに別の人が入って来て、別の幕すなわち演劇が、それぞれの役に適した立派な絹の衣裳を着て始められ、それぞれの幕の終わりには、その方面の優れた役者いるので、彼らによってきわめて機知に富んだ幕間狂言が演じられる。」(日本教会史)
食糧、飯屋、大衆浴場
大衆浴場について書かれていますが、これは蒸風呂だったかもしれません。この頃はまだ蒸風呂の方が一般的だったようです。
「都市は食糧がきわめて豊富であって、野生の鳥獣を狩りして入手する多量の肉や、川と湖からとれる各種のきわめて上等で新鮮な魚や、またそこから9グレア離れている北の海と、約12グレア離れている南の海とから、主として冬に送られて来る海の魚がはなはだ豊富である。
多くの様々な野菜と果物がそれぞれの時期にできて、朝早く近隣の土地や菜園から荷を担いだ二百人以上の者が隊をなして売りに来る。あらゆる食べ物は、広場があってそこで売っているほかに、男がこれこれの物を売ると大声で触れながら都市の道路を売り歩く。
また、全市にわたって外から来る人のために食べ物を用意している無数の売店や飯屋もある。
また、大衆浴場があって、そこでは一人の男が法螺貝を吹いて人々に呼びかけ、日本人の非常に好きな入浴を勧めている。」(日本教会史)
輸送
「海に面した大坂という都市から都の近くまでは、たいへん大きな川を船が航行する。その船は多数あり、どれもたいへん清潔である。そして、その船で食糧その他すべての商品を運ぶ。牡の騾馬の代わりに荷を積む馬や牛の荷車が多数あって、同じく物を運ぶために大いに役立っている。」(日本教会史)
牛車
「天下殿や、昔公家および王国の高官が、公式の荘重な訪問に使った飾車すなわち儀装車は、昔国外から来た一定の種類の牛で、普通の牛よりはるかに大きい黒牛が曳く。その牛の角を金で飾り、脚には濃紅色の縒糸で作った短靴を履かせ、公の役目にある馭者(牛飼)がつく。現在では、天下殿が国王を正式に訪問する時の公式の儀式にだけそれを用いるのであって、我々はそれを数回見たことがある。」(日本教会史)

大坂
秀吉の時代に大坂は大きく発展したようです。大坂城は秀吉の好みで金ぴかだったようですが、ヨーロッパ人はここでもその建物に清潔さを見出しています。
大坂の町
「城の建物なり部屋、大坂の拡大した町自体、また城の周囲に建てられていった日本の諸侯や武将たちの屋敷など、そのいずれにおいても、すでにかつての美しかった安土の町および城をはるかに凌いでいるとの定評がある。
市はすでに一里以上に達し、そこには豊富に食糧品が充満し、腕ききの職人たちが大勢居住している。
事実、大坂の地は比較にならぬほど地の利を占めているので、これらのことがいとも容易に成就され得たのである。すなわち大坂は日本一の国際都市、貿易都市である堺に隣接し、諸船は大坂の諸々の家屋近くに到着できたし、都に通ずる道筋にもあたった。
その点、安土は近江の国なる辺鄙な場所に築かれて、そうした利点を有せず、遠隔の地から必需品を購入せねばならなかったことは、信長の全政庁に多大の犠牲を強いるものであった。」(フロイス日本史)
大坂城
「だが金箔を施したこれらの部屋も娯楽室もヨーロッパの建物とは異なったところがある。すなわち、その趣向、構造、不思議なほどの清潔さ、はたまた内部の装飾、調和などにおいては、我らのヨーロッパ建築の設計とはあまりにもかけ離れかつ稀有のもので、これらの建築は我らのものに比べてはるかに少ない費用でもって大いなる威厳をかもし出しているのである。」(フロイス日本史)
「とりわけ驚嘆に価するのは、これら宮殿および実に広大な屋敷に見られる清潔さである。そこには椅子も腰掛けも机も大箱もしくは櫃もない。だが、これらの部屋は同じ技巧をもって作られていること、美しい絵で飾られていることを特徴とし、大いに見るべき価値がある。」(フロイス日本史)
「屋根には、それぞれ正面部があり、上部には怪人面が付いた黄金の鬼瓦が置かれ、それは角の部分にもあった。そして、それらの瓦は皆黄金色で建物にいっそうすばらしい光彩を添えていた。」(フロイス日本史)

名護屋の宮殿
朝鮮出兵の際に築かれた肥前の名護屋城です。秀吉のための宮殿として豪華に造られていたようです。
「諸家屋ははなはだ豪華広大で金箔の広間を有し、丹誠こめて仕上げられていた。それら数多くの屋敷が名護屋に集まり、間もなく関白の宮殿も完成したが、それは驚嘆に価するほどの美麗、清潔、新鮮、巨大なものであった。」(フロイス日本史)

山口
宣教師たちは豊後や周防あたりを中心に布教活動をしていました。山口は拠点の一つです。
「ここは山口という。この町には1万人の住民がいて、家はみな木造である。ここには、沢山の武士やその他の人々がいて、私たちの説く教義はどんな内容のものであるか、非常な興味をもって聞き耳をたてた。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
「そのためにフランシスコ師(ザビエル)は彼(大内義隆)に奉呈する13の立派な贈物を選定した。それらは次のようなもの、非常に精巧に作られた時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な火打石の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などであり・・・」(フロイス日本史)

多聞城
松永弾正の多聞城(奈良)について、アルメイダ修道士が報告しています。意外と立派で豪華な城だったようです。
 外観と城下
「城壁と保塁の壁のところは、私がかつてキリスト教国で見たことがないほど、いとも白く明るく輝いていました。というのは、彼らは石灰に砂を混じえず、わざわざそのために作る非常に白い紙とだけ混ぜるからであります。すべての家屋と保塁は、それまで私がみたうちで最も美しく快い瓦で掩われていました。瓦は黒色で指二本の厚さがあり、一度葺けば4、5百年は保ちます。この都市に入り街路を進むと、人々は地上の楽園に踏み入ったと思うほど、市街はいとも清らかで白く、道路と家屋はその当日できあがったかのような印象を受けるのです。」(フロイス日本史)
 内部
「私はその宮殿を見物するために中に入りましたが、そのすべてではなく、ただ一部だけを記すためにも多くの時間を要することは確かでしょう。それほどこの建築はすばらしく完璧で、すべて杉材で造られていることはともかく、その芳香だけでも見物に入って来た人々を喜ばせるに足りる有様です。」(フロイス日本史)
「幅7ペースの廊下は、ただ一枚の板が張られているだけであります。壁は、日本とシナの古い歴史物語を描いたもので飾られ、それらの絵を除外すると、その他の空白部はすべて金でできています。柱頭と柱礎のある柱は、上下約1パルモの太さの真鍮製で同様に塗金され、半ば浮彫にされた彫刻が施され金製と見違えるばかりです。柱の中央には同じ種類の非常に大きな薔薇の彫刻がありました。部屋の天井板は、ごく近づいても接ぎ目が認められず、ただの1枚の板でできているように思われました。」(フロイス日本史)
「私がこの宮殿で見た多くのものの中には、4プラサ半平方の一室がありましたが、それは私が想像し得る限りもっとも美しく快い波紋(木目)がついた黄色の材木でできており、非常に光沢があり巧妙に造られていて、済みきった鏡のように思われました。」(フロイス日本史)
 庭園
「この宮殿内の庭園と樹木に見られる技巧については、この点ではこれ以上優雅なものはあり得まいと私には思えました。なぜならば、私は都において眼を楽しませてくれるはなはだ美しく珍しい事物に接しましたが、これに比べればすべては劣っているからなのです。それがために、日本中から多数の殿たちがこれを見物に参ります。」(フロイス日本史)

沢城(宇陀)
高山右近の父の高山友照はキリシタンでダリオと呼ばれていました。その居城が奈良県宇陀市の沢城です。この山城には教会があり、そこをアルメイダ修道士が訪問しています。沢城の周辺は豊かで美しい農村だったようです。
 山城
「私たちが沢城に登ったところ、その城は非常に高い山の上にありますので、まるで中空に浮かんでいるように思われました。しかし周囲半里にわたって高い杉や松および新鮮な緑色をした他の木々など美しい樹木に取り囲まれていて非常に快適な場所にあり、その眺望はいとも美しく遠くまで開けています。すなわち、そこから15里20里の遠方まで利用されていない地とて一つとしてなく、家屋や村落が見られます。」(フロイス日本史)
 教会
「人々は私たちを城内にある教会の傍に泊めました。その教会は長さが9プラサ、幅は3プラサ半です。その建物は、実は小さいのですが中には多くの部屋があり、すべて非常に清潔で秩序整然としています。礼拝堂、香部屋、司祭や修道士たちが宿泊する部屋、その人たちの従者のための別室など、ほとんどすべて杉材でできており、非常に良く造られています。というのもダリオ(高山友照)はその点で几帳面な性格の人だからです。そこには廊下があって、そこからは目の届く限り、私がかつて見たうちもっとも清々しく、よく開けた人里が見渡せます。」(フロイス日本史)

市来の山城
宣教師たちは薩摩の市来鶴丸城を訪問しています。この頃の山城の堅固な防御のようすが分かる報告です。
「私たちは市来といわれるその城に行きましたが、私にはそれまでに目撃した城のうちでもっとも堅固なものの一つだと思われました。すなわちその城は一つの山で、それが十ばかりの砦に分かれていました。それらはすべて鶴嘴(ツルハシ)で掘ったとても深い濠でもって、それぞれ相当距てられていました。そして私は、これは人間業ではできかねることと思えました。すべてこれらの砦に行くのには、一つの砦から他の砦へと架けてある橋を渡るのですが、私がそこを渡って行って下を見下ろしますと、まるで奈落の底を眺める思いがしました。そしてそれらすべての砦の真中に、そこの城主が住んでいる本丸があります。彼は薩摩国主の家臣なのです。」(フロイス日本史)

安土桃山時代の日本2

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2015.03.02 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp