安土桃山時代の日本2
日本の寺院
宣教師たちは、意外にも宗教上の敵である仏教の寺院を多く訪れています。そしてその建物や庭のすばらしさを褒め称えています。
東寺
「都の市街に入るすぐ手前に七百年前に弘法大師という悪魔のような僧侶によって建てられた一僧院がある。四角形に造られた非常に厚い粘土でできた壁がめぐらされているので、同僧院は非常に尊大ぶった印象を与えている。内部には庭と称せられるはなはだ美しい庭園がある。この僧院は東寺と言い、そこに住んでいる仏僧たちはすべて高貴な人々である。
この僧院の一隅に、この都市の誇りあるいは飾りとして「塔」と呼ばれる円く(?)非常に高い塔が建っていた。内部で人々は廻り階段で上に昇った。
塔はすべて木造で、五階を有し周囲には外に差し出された五つの庇屋根があって、偉大な芸術的建築物であった。外部上方には銅製のいくつかの円いマーパ(?)があって、幾多の鐘や厚く長い鎖がついており、それらは装飾になると同時にこの建物を堅固にすることに役立っていた。
そして、その塔は非常に大きく華麗な建築であり、とりわけ外に突き出た屋根を付して高く聳え立っていたので、都へ赴く人々にとり一目瞭然たる最初の大建築であった。」(フロイス日本史)
紫野の大徳寺
「司祭やキリシタンの一行は、我らヨーロッパのとは異なった非常に巧妙にできたはなはだ美しい門を通って、これらの僧院の一つに入った。そして方形の石が一面に敷きつめられた廻廊に至った。その廻廊の両側には、漆を塗ってあるかと思われるほど白く艶のある壁があった。」(フロイス日本史)
「また、この僧院の一つの戸口から(キリシタンの)一行を見物するために7、8名の男の子が出て来たが、彼らは長い彩色の絹衣をまとい非常に長い付髪を背中から垂らしていた。彼らはここで教育を受けている貴人の息子たちで、ある者は僧侶になるために、またある者はただ読み書きと日本の礼儀作法を習うためであった。」(フロイス日本史)
「僧院には巻物の書物を読経するための広間がある。それらの書物は各人の前にある美しい漆塗りの小さい台の上に巻かれている。司祭やキリシタンの一行が進んで行く部屋の板まで鏡のように輝いており、それらの家屋が優雅で清潔なことは驚嘆に価する。」(フロイス日本史)
金閣寺
「紫の僧院(大徳寺)から半里あるいはそれ以上進むと、かつてある公方様が静養するために設けた場所がある。そこは非常に古い場所なので今なお大いに一見に価する。同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の小さい塔のような建物がある。」(フロイス日本史)
「二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が、彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。廻廊が付いた上階はすべて塗金されていた。そこは、かつては公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池全体を眺め、気が向けば建物の中にいながら池で釣りをしていた。上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは□□パルモ幅は□□パルモで、まったく滑らかでたった一つの節もない。」(フロイス日本史)
三十三間堂の仏像
「この門と向き合って阿弥陀(その寺院のご本尊)の像がある。それは婆羅門風の座像で、孔のあいた大きな耳、無髯の顔、縮れ毛を有する。はなはだ大きい像で、すべて塗金されており、その塗金はヨーロッパ最良のものにまったく劣らない。」(フロイス日本史)
「さらにこの仏の前に30体の神(像)があるが、いずれもかなりの大きさの像で、すべてそれらは一種の祭壇上に立っている。それらはここで笑劇か演劇が演ぜられているように見え、それらすべての形状はきわめて良く均整がとれている。」(フロイス日本史)
「これらの像の中でもっとも芸術的で、奇抜でもあり適合しているのは一人の乞食の像である。すなわち、それはその人物の貧苦と困窮の様子をきわめて迫真的に表しているので、真に観賞に値する。」(フロイス日本史)
「この階段上に千三十三体の仏があり、すべてその段上に順次立ち並んでいるが、すべてほとんどまったく同形である。」(フロイス日本史)
「そしてこれらすべての像は、頭から足まで極上の金が厚く塗られ、その容貌は美しく、良く均斉がとれている。そして人々がこれらの驚くべき多数の像を見渡すならば、誰しも崇高だという印象を受ける。」(フロイス日本史)
東福寺
「そこから約半里進むと、東福寺というはなはだ高貴で古い僧院がある。そこには見目よき灌木や木立とともに、夏でも非常に涼しい小川がある。」(フロイス日本史)
「境内の最高の地点には、はなはだ大きく、かつ華麗な、すべて木造の三つの寺院が相互に近い間隔で建っている。その壮大な全建築は、非常に太い木柱の上に立てられ、地面には磨いた切石が敷かれている。」(フロイス日本史)
「第一の堂には、すべて塗金した異常に大きい釈迦像がある。釈迦は婆羅門風に蓮華の葉に坐しているが、すべてその釈迦像の大きさに相応し調和している。」(フロイス日本史)
「(第三の堂の)釈迦は全身塗金され美しく、好感のもてる容貌の青年のように造られ、その寺院の周囲全体には、彼の弟子たちの立像があるが、その大多数は、有髯、剃髪の老人風に造られている。そのうちの幾人かはガラス製の眼を持ち、いとも完璧かつ巧妙に造られているので、もし突然その建物の中に入れば、それらはまるでいきているかのように思われる。」(フロイス日本史)
興福寺 (アルメイダ修道士の報告)
「入口には、はなはだ見事に作られた美しい石の階段があり、門の両側には手に笏を持った驚くべき大きさの巨人像が2体ありますが、おのおの3頭の像の多きさがあろうと思われ、非常によく均整がとれたものです。」(フロイス日本史)
「内部には高さ7プラサの坐像が3体ありました。中央は釈迦の像で、両側はその息子たちの像です。屋根は寺院の壁から4プラサほども外に付き出しており、それに材木の組合と指物術のすばらしい技巧が施されています。それらは外側の柱の中央から突き出して屋根を支えるものなのですが、これほど大量の材木の膨大な重量を空中で支えることはふつうならほとんど不可能なことに思われます。」(フロイス日本史)
「同寺院の厨房が清潔なことは非常なもので、外面的なことにはなはだ清潔を好むのは、日本人の大いに常とするところなのです。」(フロイス日本史)
春日神社 (アルメイダ修道士の報告)
「神社の本殿まで、この道の両側には杉および少数の松の木があって、それらは非常に高く、私たちは真昼に通過したにもかかわらず、ほとんど道路全体が陰になっていたほどでした。実のところ、それらは太さと言い高さと言い、私がかつて生涯で見たうちでもっとも見事なものなのです。」(フロイス日本史)
東大寺の鹿と鳩 (アルメイダ修道士の報告)
「この寺(東大寺)の全域および半里離れた奈良の全市には、鹿と鳩が驚くほど多くいます。私は幾度かそれらが民家に入って行くのを見ましたが、誰もそれを妨げはしませんでした。なぜならばそれらの鳩や鹿は、往昔この寺院に奉献されたもので、それらを殺すことに対しては死罪が科せられているのです。」(フロイス日本史)
日本の庭
宣教師たちは日本の庭の美しさを褒め称えています。自然を模したこうした庭はヨーロッパにない日本独特の文化です。
公方(将軍)の宮殿
「窓の外には、杉、松、蜜柑、その他我らヨーロッパ人には知られていない種類の新鮮な緑色の珍しい樹木が植えられた庭園があったが、それはいとも巧妙に育成され手入れされていて、あるいは鐘、あるいは塔、その他種々の形で、多くの百合、薔薇、雛菊、および種々の色彩の花もあった。人々はそれらを静養と慰安のために植えているのである。」(フロイス日本史)
細川氏の御殿
「細川殿は追放されたので、その御殿は破損していた。だがその庭園は日本の古い物語や文献の中で大いに賛美され、今なお往時を偲ばせるに足るものを大部分残し示していた。
それらの庭園の一つの中央に、すばらしく美しい水をたたえた池があった。その水は遠方からそこに引かれ、刈り込まれた繁みから池に流れ込むのであるが、その繁みは人工を施したものではなく自然の業のように思われる。
この池には幾多の人工の小島があり、木と石でできた綺麗な橋で互いに繋がっており、いずれも皆はなはだ美しく欝蒼とした樹木の下に横たわっている。」(フロイス日本史)
紫野の大徳寺
「この廻廊の片側には庭があったが、そこには遠方から運ばれ、この庭のために求め選ばれた特別の石でできた一種の人工の山または丘以外にはなにもなかった。この岩山の上には、多種多様の小さい樹木があり、幅1パルモ半の路と橋がかかっていた。そこでは、こうした技巧が一段と鮮やかである。
地面は、一部には粗く真白い砂が敷かれており、他のところは小粒な黒石でできている。それらの間に、高さ1コヴァド半ないし2コヴァドの幾つかの自然石の塊があり、その上には多くの薔薇に交じって草花が植えられていた。
仏僧たちの説によれば、年中それらのうちどれかが入れ替わりに花咲くとのことであった。
ついで一行は、同僧院の別の一院を訪れたが、そこには廻廊および新鮮な緑の庭園があって、その清浄で秩序整然としている点では先の僧院に劣らぬものであった。」(フロイス日本史)
金閣寺
「池付近には、小さい島々、各種の形に枝を曲げた多くの松、その他こころよくはなはだ美しい樹木がある。人々が語るところによれば、以前には公方様(将軍)がこの池に彩りを添え美しくするために、遠方や異国から集めさせた多くのいろいろ異なった種類の水鳥がこの池にいたとのことである。」(フロイス日本史)
岐阜城
「この前廊の外に庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。
それらの幾つかには1パルモの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花卉や植物がありました。」(フロイス日本史)
高槻の新築教会
「居間の前方に、彼(高山右近の父)は庭と称される一種の庭園を設けたが、日本の僧院では装飾として役立っているものであり、自然のままの石塊の間には、多数の灌木が植えられており、いとも技巧と秩序と清潔さを保ったもので、ヨーロッパにあってこうしたものを一度も見たことのない者は、それを見て喜び、非常に美しいと思うことであろう。」(フロイス日本史)
庭師
「この廊下と客室の前方には、多くの技巧、調和、優美さ、その他人工を加えたものを配して自然を真似、自然のままに樹木やさまざまな花を配置した一種の庭園のある内庭があって、そこでは季節毎に色々の花が咲く。
その庭園のためには、丹精をこらし、遠方から珍しい草木や石を集めるので、そこに立って数多くの変わったものを見ると大いに目の保養となる。
また庭園を造るのに守るべき規則にさまざまな種類のものができているので、それに従ってこのような庭園を造り整えることで生活している職人がいて、時には自然をそのまますっかり模倣するが、これは彼らがそれを習慣としているからである。」(日本教会史)
自然の風景
幕末に来日した外国人たちは日本の風景の美しさを数多く報告していますが、この時代の宣教師たちが風景について触れている報告は意外と少ないようです。このころの日本には美しい風景は少なかったのでしょうか、それとも宣教師たちは忙しくて風景を楽しむ暇もなかったのでしょうか。
京都
「そこは広々として、素晴らしい川に恵まれた爽快な平野にあり、東と西と北の三方はきわめて高い山々に囲まれている。」(日本教会史)
「この市街は平地にあるので、そこ(御所)から散策に出かけると万物はなはだ美しく、また快く、新鮮な緑の野とか、見るべき良いものなどが多いのである。」(フロイス日本史)
「司祭らの一行は側の戸口から、非常に幅広く長い街路に出たが、両側には新鮮な緑色の同じ形の樹木が一面に植えられていた。その街路は内裏の宮殿(御所)に通じている。」(フロイス日本史)
安土城
「新鮮な緑ときわめて広大な平地、これを越えて望むと片側には麓に大きい湖があり、各種各様の舟が往来し、他方に見渡すかぎりの田野が開け、その間に城や多数の村落が展開している。それらすべてに全範囲にわたって格別の清純さが見受けられる。」(フロイス日本史)
八代(やつしろ)
「この地がいかに美しく清らかで優雅で豊饒であるかは容易に説明できるものではない。じじつ敵(異教徒)たちは慰楽のためにこの地を選び、そこに領内の他のいずこよりも多くの家屋を建てたのであった。
まるで日本の自然は、そこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり、同所に住まうデウスの教えの敵(異教徒)たちがいとも恐ろしく残酷なだけに、その地の美と快適さはひとしお際立つものがあった。
そこには幾つもの美しい川が流れ、多数の岩魚が満ちあふれている。」(フロイス日本史)
「見渡す限り小麦や大麦の畑が展開し、清浄で優雅な樹木に掩われた森には多くの寺院が散見し、小鳥たちの快い囀りが満ち溢れている。」(フロイス日本史)
沢城(宇陀)
「しかし周囲半里にわたって高い杉や松および新鮮な緑色をした他の木々など美しい樹木に取り囲まれていて非常に快適な場所にあり、その眺望はいとも美しく遠くまで開けています。すなわち、そこから15里20里の遠方まで利用されていない地は一つとしてなく、家屋や村落が見られます。」(フロイス日本史)
日本の気候風土
「大気はきわめて健康によく、温暖なので国内にペストのような伝染病がない。かくして当然ながら享楽の習慣のない一般民衆は、通常長命を保っている。貴人や富者は快楽に耽る境遇にあることとて体をこわし短命であるが、老人は身体の調子がよく体力と健康に恵まれている。日本人は長命の薬と、その色々な方法とに大いに関心を持っている。」(日本教会史)
日本の建築
宣教師たちが一番褒め称えている日本の文化は木造建築です。この当時においては世界一だったかもしれません。また日本の畳は規格化されており、標準化された工業製品の先駆けと言えるかもしれません。
ヨーロッパとの比較
「私たちは巨大で豪華な日本の諸建築をヨーロッパのそれと比較することはできない。なぜならば、ヨーロッパの諸建築は威厳、富裕、頑強さにおいて幾倍も日本の諸建築に優っているからである。」(フロイス日本史)
「日欧双方の建築を眺めた我らの目にも、日本の諸建築は賞賛と尊重に値する若干の特色を有する。」(フロイス日本史)
「日本の建築において、他のいかなることより優れている点は清潔さと秩序であり、それは寺院でも、諸侯および貴人たちの住宅、庭園、御殿においても見受けられる。」(フロイス日本史)
木造建築技術
「全国で木造の家を建築するのであるが、その建築技術がきわめて優秀であることは、世界のいかなる地域に持って行っても言えることである。実際にヨーロッパのさまざまな地域を見たことがある見識を持った人たちもそのように判断する。
木造建築の種類では、日本のものに優るものも、またこれに近いものさえも、一般的には他の地域には見られないようである。
ことに大領主、公家貴族、武家貴族、富豪、教養ある人々の御殿、および寺院や修道院の建物が、その建築法とすべてにわたり調和がとれている点とで優れているとともにその荘厳華麗その他すべての点で、比類ないことはすぐ次に全般的知識を与えるために述べる通りである。」(日本教会史)
「さて、領主や公家貴族の家屋について述べるならば、多くのことがそこでは考慮されている。それらを通じて、この地域での日本人の持っている偉大な文化や優秀さがわかり、また家人に対しても外部の人すなわち客人に対してもあらゆる必要なことに気を配って、その建物にどれほど熱意を払っているかが分かるであろう。」(日本教会史)
家屋の規格
「彼らは家中一面に畳を敷きつめ、それらの畳の寸法に合わせて家を建てるが、不思議なことに、この建築法に違反するような家屋は一軒も見当たらない。
彼らは木で造るものなら何であれ、きわめて優秀な工匠であると言いうるのであり、申し分のない洗練された腕前の持主である。
同様に家屋の天井板もすこぶる清潔で優美に巧みに張られており、彼らはこの種の仕事においては板をきわめて巧妙に接合するので、その繋ぎ目は辛うじて目にとまるほどである。」(フロイス日本史)
日本の大工
「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため最初に材木だけを全部仕上げておき、3、4日間に組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでも難しいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行うので、見た目には突然でき上がったように映ずるのである。」(フロイス日本史)
大工の工具
「彼らは、我々の所(ヨーロッパ)にある、あらゆる種類の工具を持っているが、その工具ははなはだ優秀で良質のものである。たとえば手斧(ちょうな)、鉋(かんな)、目盛によって分けられた直角定規(さしがね)で、この目盛はすべての単位の中で最小のものである1ポント(分)から始まるが、それは数学上のグラーウにほぼ対応する。それの10が一つの単位(寸)をなし、それは親指の関節から関節までの長さに当たる。」(日本教会史)
「なお、彼らはまたさまざまな鑿(のみ)、鋸(のこぎり)、錐(きり)、その他のたいへん優れた造作に使う道具を持っているが、それらは我々の持たないものである。」(日本教会史)
家屋
「彼らの造った家はすべて正確な寸法によっている。それはそこに敷かれる茣蓙(ござ)すなわち畳のためであって、それが一定の寸法と大きさからできているからである。」(日本教会史)
「通常、彼らの住む家は平屋で、床を地面から4、5パルモ高くして、その下を風が通り、衛生に良く、湿気を除くようにする。もっとも、前に述べたように二階のついた家もあるにはある。
壁についていえば、それは相互に一定の間隔をおいた木の柱からできていて、その柱は腐らないようにするために、土台として地面に据えられた石の上に立てられる。
その柱の上部に穴をあけておき、他の横木(梁)をそこに通して互いにつなぎ合わせておく。それは一方の壁の柱からそれと向かい合っている他方の柱へ横木(梁)を差し渡すのであって、そうすると風や嵐や地震に対して、石や煉瓦または漆喰壁でできているものよりはるかに強く強固になる。」(日本教会史)
「日本では家屋は木造で、その大多数はこけら板か藁で屋根を葺いてあるので、実にたびたび起こることなのであるが、司祭たちの近所で大火が発生した。」(フロイス日本史)
城
「天下殿、公方、その他王国や諸領国のすべての領主たちの城砦には、慣例として一つの城楼、すなわち巨大で堅固な、そして巨大で堅固な、そして五階六階七階ときわめて高い天守閣が造られ、そこから遠くを見張る。各階には側面に八つの屋根があるが、それは高壮で華麗なものであり、はなはだ堅牢なのでびくともしない。」(日本教会史)
「これらの建物の結構、内部や外部の造作、屋根の装飾、釣合いなど、どの部分をとってみても大いに見るべき価値がある。要するに彼らはその建物に、細工を施し、嵌め込み、継ぎ合わせ、強固にするあらゆる種類の技術において、これ以上注文の付けようのないほど優れている。
このようにして何かの箱や手箱を作る時も、細心の注意を払って、木と木、板と板とを嵌め込み、正しく継ぎ合わせて作るので、それはあたかもただ一つの木か板であるかのように継ぎ目が見えず、縫い目の分からない縫い方をしたのと同じように見える。」(日本教会史)
職人の技術
建築技術以外にも、日本人の持っている優れた技術や文化についても宣教師たちは報告しています。
刀剣
「この(木造建築)技術の次におかれるのが鉄を加工する技術、ことに日本人が大いに誇りとしている攻撃用武器の技術である。そしてこの技術は品位や尊敬という点で前述の(木造建築)技術と相競っており、あらゆる職人のなかで首位を占めるのはこの技術であるか、それとも木造建築のそれであるかということについて大論争が起きている。
昔この技術の面で著名な偉大な武器職人(刀鍛冶)がいた。その武器は、今もその完璧な切れ味によって大きな価値を持っている。またその他の武器、すなわち新月刀(大刀)、短剣(脇差)、槍の鋒先、戦争用鎌(鎖鎌)、矢尻、その他の価値ある武器についても同様である。
なかには、すでに述べたように何千クルザードもする刀や短剣もあり、今でも王国中にこの武器のきわめて優れた職人がいる。
また実際に目撃したことだが、日本人の武器は一般に最良のものであって、他のいかなる武器にもましてよく切れる。なぜなら彼らの常用する大刀はきわめて簡単に人間を真二つに斬るからである。また、短剣(脇差)は1パルモ半(一尺二寸)、大きいので2パルモ(一尺六寸)ある一種の刀であって頭から首を切り落とし、槍でも同じことができるのである。すなわち槍の鋒先は槍傷を与えるだけでなく、長剣と同種の刃物なので長剣のように切りもするのである。」(日本教会史)
金細工
「我々が金細工と呼ぶ金、銀、銅を細工する術においても彼らは劣っていない。細工の優秀さと多彩さにおいて、また金銀と銅を混合させることで、シナ人やその他東方の諸民族を凌駕している。
この合金によって日本人の間でははなはだ珍重されている黒い銅(赤銅)という第三の金属を作り、それで刀の鞘につける一種の道具(鍔)を作る。
それには金銀を彫刻する技術で彼らの間に評判が高く尊敬を受けているきわめて優秀な職人たちによって彫刻された花や動物の細工が施されている。この種の銅にはさまざまな木、草、鳥、水陸の動物、故事が彫刻刀(たがね)で彫り付けてあって、それらはすべて自然を模しており、きわめて優れたものである。」(日本教会史)
「彼らはこの彫刻刀を使った細工に金や銀を被せること、すなわち金を銀で、また銀と黒い銅を金でもって飾り立てることにおいて独特なものを持っている。
これらはすべて彫刻刀によるものであるが、その細工物は絶妙ではなはだ優美であり、日本人の間にのみ見出されるものである。」(日本教会史)
漆
「一年の一定の時期にその樹の幹に傷をつけると、そこから上等な樹脂が出てくる。この樹はシナ、コーチ(ベトナム)、カンボジアおよびシャム(タイ)にもある。しかし、これらすべての民族のなかでも日本人はこの技術に卓越していて、きわめて器用なのでこの漆で色々な物を作るが、それは光り輝く滑らかな革でできているかのように見える。」(日本教会史)
「この(漆の)技術は、どんな水でも、たとえそれが沸騰していようとも、これらの器や椀に注がれた場合にも、まるで釉薬をかけた陶土でできているかのように、何ら損ずることのないものに作りあげるのである。また彼らは刀や短剣の鞘と、槍の鋒先の鞘、槍の柄その他無数の物に漆を塗る。」(日本教会史)
蒔絵
「というのは、この職人たちの中に、これまでに見出されたこの種のものでは最良の作品に一種の金箔を施す特定の職人(蒔絵師)がいて、彼らは固い金粉でさまざまな物を描き、金と銀の薄片でできた花とか、比類ないほど贅沢に細工された真珠貝とかを、それに填めこむ仕事をするからである。しかし、それはあまりにも高価なので領主や富豪だけが用いることができる。」(日本教会史)
蒔絵の文箱
「書簡は日本の習慣どおりに巻き込まれた。その袋は金銀の色彩と花模様の濃紅色の絹製で、日本では書簡入れにだけ用いる箱のようなものに納められたが、その箱は非常に立派で見事な工芸品であるから、ヨーロッパではいずこであれ、それを見た者は精巧な製作技術と優秀さに感嘆することは疑いない。なぜならば、内側も外側も日本で漆と称せられる塗り方ですべて塗られ、それに砂のような金粉を刷くのであるが、非常に骨が折れる仕事であり、しかも金銀の薄片で幾つかの花や薔薇の模様が付いているからである。
これらの模様は、どうしてもその接ぎ目が見分けられぬほど巧みにかの漆に填めこまれており、その技術を知らぬ者はどうしてこのような優れた工芸品が作られうるか理解し難い。
それは見た目にすこぶる優美であり豪華でしかも雅致がある。そして両側には幾つかの黒い銅の浮彫りがある金環付の花形があり、それに箱を閉じる紐がついている。花形は非常に高価なものであるのみならず、またきわめて優れた製作でもある。」(フロイス日本史)
甲冑の櫃
「その櫃(ひつ)は非常に清らかで艶のある黒色の石に似た黒色の漆という一種のニスですべて塗られている。さればこれを見る人は鏡で見るように自分の顔をそれで認めうる。櫃にはすべて塗金され美しく細工された銅の金具が付いている。それはヨーロッパでは聖遺物を櫃として立派に役立つことは確実であろう。」(フロイス日本史)
染物
「彼らの間では、染物師の技術もたいへん普及しており、かつ優れている。なぜなら、絹や木綿や亜麻の布をさまざまな色で染めるばかりでなく、それがどんな色であろうとも、その地色の上にいろいろな色彩のさまざまな花模様を散らしておくのが一般の慣わしだからである。
この技術をおもに絹の衣服に施す優れた職人がいる。それらの衣服は反物として白地で織られた後に、それを思うままの色で染めるが、そこにはさまざまな色彩をした花模様が加えられ、その他彼らの丹精こめた多くの創意が見られる。」(日本教会史)
絹織物
「また、シナにおけると同じように日本人はさまざまな花や鳥その他のものを、絹のいろいろな反物に織り込む技術を持っている。そして都(みやこ)の都市だけで絹の織機が5千あり、そこでこのような反物が織られている。」(日本教会史)
畳
「一般に家屋全体についても、また座敷や各部屋についても、あらゆる種類の家屋住居の建物は、縦横の長さも壁の高さも一定の寸法できわめて優れた調和を保って造られることである。
それはすべての部屋を一種の敷物で敷きつめるからであって、その敷物は厚い茣蓙(ござ)のようなもので、縦と横の長さも一定の限定された大きさで横は縦の半分であり、間に隙間のできないようにすべての茣蓙を互いに合わせていくと、茣蓙で敷きつめられたたいへん大きな座敷となる。
それらの茣蓙はその周辺が彩色した布か絹かで一種の縁飾りがしてあって、はなはだ優雅な趣を添えており、座敷はそのために四角のものを敷いたように見える。」(日本教会史)
「茣蓙(ござ)の色々な敷き方で、全体がただ一つのもののように、たがいにぴったり合って密着しているので、見た目にも一種優美な調和をかもし出している。3デードの厚さを持ったこれら茣蓙すなわち高座を敷くために、部屋はすべてその寸法に合わせて建てられるのであって、実際にこれらを敷いた一つの座敷とその清潔さを見ると楽しいものである。」(日本教会史)
包丁人
「切盛りすることは日本人の技芸の一つなので、それのきわめて器用な人々がいて、切盛りする時には何ものにも手を触れないで、料理に作る前にすべて生のままで切盛りする。これは実際に見なければ理解できないことである。そのためにそれぞれの用途に適した道具が色々あって、極端にまで清潔にしてある。」(日本教会史)
「これは御殿において領主の前でなされる仕事なので、そこに示される器用さと清潔さ、規則に従ってやるところは、何ともいうべき言葉がないほど立派である。」(日本教会史)
日本人の清潔さ
この当時の日本人も、かなり清潔好きだったようです。上流階級や富裕階級の話だと思いますが、神経質なほどに清掃していたようです。
屋敷の清潔
「日本人は外面のきれいさをたいへん重んじ、そのことに多大の注意を払って、単に屋内や室内だけでなく、また外は表通り、入口、外郭内にある外玄関も、客人を迎える時だけでなく、平素からすべてをきわめて清潔にし、家の内もさらに人目につかない場所までも整えているので、たとえ不意に高貴な客人の来訪を受けても、その人にふさわしいように迎えることができる。」(日本教会史)
屋外
「表向きの場所と決まっている路には、そこを掃くためにたくさんの箒(ほうき)が吊るしてあり、その他清掃に必要な道具がある。また中庭と通路に生える雑草を抜く他の道具があって、そこらじゅうが絶えずきれいにされ整然としているので、それらを見るのは気持ちがよい。」(日本教会史)
室内
「また、外側をきれいにするこれらの係の者がいるのと同様に、その他にそれらよりも身分が重く教養のある人々が室内と廊下の係となって、いっそうの注意を払っている。
毎日座敷を掃除し、はたきをかける。夜間に張られた蜘蛛の巣を払い、濡れ雑巾で縁側の板の埃と汚れを拭き、また木の柱を拭く。それらは通常、上等な杉(檜)でできているが、その雑巾がけで非常にきれいにされて澄みきった鏡のように光っているため、その板で時には顔を映せるほどで、我々はそれをしばしば目撃した。」(日本教会史)
便所
「内の便所には、香炉と清潔にするために切り揃えた新しい紙とが置いてあって非常にきれいである。その場所には悪臭がなくいつも非常にきれいにしてあるが、それは客人が帰ったらすぐにそこの掃除の世話をする者が、必要とあればそこでは全然何の用も足されなかったかのように、きれいに砂を撒いてその個所を掃除するからである。
便所の側には、便所を出る時に手を洗うために、水の入ったきれいな小鉢とその他の道具とが置かれている。大小便をするごとに手を洗うことが、身分の高い者も低い者も必ず行う習慣だからである。」(日本教会史)
入浴
幕末に来日した外国人は日本人が毎日のように入浴する習慣に驚いていましたが、この時代においても日本人は風呂が好きだったようです。ただし、この頃はまだ蒸風呂が多かったようです。湯に浸かるのが一般的になったのはこの後の時代のようです。
湯殿
「日本では、日に少なくとも一、二回は、毎日身体を洗うのが一般の習慣なので、貴族なり教養があり身分のある人々なりの家屋には、湯と水を備えたきわめて清潔な客人用の湯殿がある。これらのきわめて清潔な湯殿すなわち浴室には、茣蓙(ござ)を敷いた場所があって、客人は身体を洗うために衣類をそこで脱ぐ。」(日本教会史)
蒸風呂の作法
「入浴の仕方は、まずきわめて貴重な香木か、その他の薬用の木で造られた蒸風呂があって、それには中に入った時に閉める小さな戸がついている。その蒸風呂は沸騰している湯の蒸気で暖められるが、その湯気は一定の場所を通ってここに入って来て、熱い露に変わるのである。
こうして身体についている垢と汗をすべて取るために、身体を心地よく柔らかにする。そして垢がすっかり浮いて剥がされるが、そのために蒸風呂を出てその前にある一部屋で洗い落とすのであって、その部屋は床を珍しい木でたいへんきれいに張り、水が流れるように少し斜面にしてある。そこには、各自が自分の好きなように湯を加減するために、濾した湯の入ったごく清潔な器(湯釜)と別に水の入った器(水槽)とがあって、蒸風呂の中で身体から浮いた垢をそこですべて洗い落し、たいへんきれいな身体になって外に出る。」(日本教会史)
湯浴み
「ある者は蒸風呂に入りたがらないで、ただ汗を流してさっぱりするために、ぬるま湯を浴びる。その仕方は暑い時季には大いに気分を爽快にし、冬には身体を暖め活気づけるといわれているからである。」(日本教会史)
沐浴
「この(アジアの)地方では日本人がすべての民族に優っていると思われるのは、一日に何度も沐浴するばかりでなく、その湯殿が示している清潔さと壮観さにおいても、またもっとも貴重でもっとも薬効のある木造であることにおいても、はるかにまさっている。」(日本教会史)
「我々の間では、全く人目を避けて、家で入浴する。日本では男も女も坊主も公衆浴場で、また夜に門口で入浴する。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
安土桃山時代の日本1
安土桃山時代の日本3
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2015.03.02 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp