安土桃山時代の日本4

日本における宗教
日本には多くの仏教の宗派があり、熱心な宗徒も多く、遠方への巡礼も行われていました。また、この時代には各個人の宗教選択の自由があったようです。
信仰心
「この東方のあらゆる民族の中で、日本人は神聖なるものに対する極度の崇拝と信仰の心を持っている。彼らは現世のこと、例えば寿命、健康、財産、繁栄、子孫、その他この種のことのために偽りの神々に祈るばかりでなく、さらには彼らの偽りの誤った道においても、なお来世における救霊を心の底から求めることに懸命である。こうして懸命に努力していることは、この王国に見られるあれほどの豪奢な寺院がその証拠である。」(日本教会史)
「彼らが神々に祈願する時に示す強い信仰は、言葉では容易に表現することができない。多くの人々は絶えず数珠を手に持ち、ある者は昼間に日課として一定の短い祈り、すなわち南無阿弥陀仏を一万遍唱える。農民は一種の調子をつけてこれを大声で唱えながら道を行く。またある者は早朝に起床してたっぷり一時間以上も小さな鉦を叩きながら偶像に祈っている。
人々はしばしば寺院に行き、毎日でも通っているが、特に一定の日に行く。また遠方へ出かける男女のさまざまな巡礼の一行が、喜捨などを乞いながら日本国中有名な偶像のある場所を巡る。」(日本教会史)
高野山
「この宗派は真言宗で、日本全国からここに盛んに参詣し、すべての者がお金を納めて沢山の仏燈に点燈してもらい、多くの人々が自分の遺骨をここに収めてもらうよう頼むのである。」(日本教会史)
信仰の自由
「たがいに異なる教義を持った(仏教の)宗派が九つある。男も女も、自分らの最も要求する宗派を、その好みに応じて選んでいる。他の宗旨へ走ったからと言って、これに圧迫を加えるような日本人は一人もいない。したがって一家族の中、主人はこの宗旨に属し、主婦はあの宗旨を奉じ、子供までがそれぞれにまた他の宗派に帰依しているような家庭がある。日本人にとっては、これは極めて当然のことで、各人は自分の好む宗教団体を選ぶことが、まったく自由だからである。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
仏教の戒律
「しかしどの宗旨も、重要な戒律は五条だけであることに一致している。第一の戒律は殺さないことと生物を食べないこと、第二に盗まないこと、第三は姦淫しないこと、第四は嘘をつかないこと、第五は酒を飲まないことである。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)

日本の食事
宣教師たちは庶民と同じ貧しい食事をしていたようです。一方で、この時代でも刺身(なます)が食べられていたようです。また、貴人たちは鶴などの鳥を好んで食していたようです。
宣教師の食事
「厳寒の降雪の折、終日歩行して宿に着き、食膳に供されるものは、水だけで炊いた少量の米と、煮たり焼いたりしたわずかばかり塩漬けの魚と、ひどく味付けが悪く、そのうえ悪臭さえある一杯の野菜汁だけであった。」(フロイス日本史)
「彼は同家に赴き、そこで自ら米を搗いた。日常、彼らが買ったのは、汁を作るための蕪菁(かぶら)と、少しばかりの塩漬けの鰯であった。」(フロイス日本史)
「当国の食物が私を病気にしました。それはなんらかの味付けといったものは何も加えられず、塩気もなしに水で炊いた米だけです。そして寝床は蓆(むしろ)で、木製の枕がついています。私の病気はとてもひどく馬上で府内に来ることができたのがやっとのことでした。」(フロイス日本史)
「彼女は善良なキリシタンと結婚していたが、ひどく貧しかったので、彼女が司祭たちに供した夕食は幾つかのわずかな山芋と蕪菁(かぶら)に過ぎなかった。そして彼女は司祭たちに蓄えていたわずかな藁(わら)で火を起し大いなる愛情と喜悦を示して奉仕した。」(フロイス日本史)
「日本人は自分らが飼う家畜を屠殺することもせず、また食べもしない。彼らは時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。ただし彼らが食べる草(野菜)は豊富にあり、また僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもっており、稀な高齢に達する者も、多数いる。従って、たとえ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物に依って、いかに健康に保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕われている。この国において、私達の身体は、皆頗る元気であるが、願わくは神の思召しによって、私達の霊魂も、元気であらんことを。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
刺身(なます)
「ヨーロッパ人は、焼いた魚、煮た魚を好む。日本人は、生で食べることを一層よろこぶ。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

「狩猟される鳥で日本人が最も珍重しているものの第一は鶴、第二は白鳥、第三は野鴨であって、貴人が荘重な宴会で行う茶の湯ではもてなしを盛大にするためにこれら三種類の中のどれかが必ず出される。そして、実際にこの地における日本式の煮込料理は上等で味が良い。」(日本教会史)
牛肉
「私たち(ヨーロッパ人)の食物も彼らの間ではとても望まれております。とりわけ、これまで日本人が非常に嫌悪していました卵や牛肉料理がそうなのです。太閤様までがそれらの食物をとても好んでいます。」(フロイス日本史)
素麺(そうめん)
「我々は、素麺(麺類)を食べるのに熱い切ったもの(短いもの)を食べる。彼らは、それを冷たい水に漬け、極めて長いものを食べる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「我々は、砂糖や卵やシナモンを使ってそれ(麺類)を食べる。彼らは、芥子(からし)や唐辛子をつかって食べる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

「また、ダミアンは、司祭が必要としたために、毎日豊後から携えて来た瓢箪に少しばかり酒を買出しに行った。」(フロイス日本史)
胡椒
「それで神父の乗っている船には、胡椒を沢山積んではならない。多くとも80パルに泊められたい。なぜなら、少ない方が日本に高価に売れて利益が大きいからである。特に堺において然りである。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)

日本の文化
ヨーロッパと異なる日本の文化について、宣教師たちは数多く報告しています。

この当時のヨーロッパ人は手づかみで食べるのが普通だったようです。ナイフとフォークを使うようになったのは、もっと後の時代のようです。ある意味で日本人の方が文化的だったのかもしれません。
「日本人は手でじかに食べ物をとって食べることを決してしないで、長さが一パルモ半で銀製の肉刺の柄ほどの太さのある二本の棒を使って食べる。それは白く清潔で細くてたいへん滑らかな木の棒で作られていて、彼らにとってフォークの役目をする。彼らはその二本の棒を使って、ごく上品でしとやかに食べることがたいへん巧である。
教養ある人は、その棒の新しいものを一度だけ使い、客人は食事中にしばしば取り替える。だから彼らは手ではまったく触れないし、また前に述べたように、すでに切盛りされた食べ物が食卓に出されるので、ナプキンの必要はない。手づかみで食べたり、食べ物のしみが付いているナプキンで手を拭ったりするのは、ひどく奇異な感じを与え、吐き気やむかつきを起させるのである。」(日本教会史)
「我々はすべてのものを、手をつかって食べる。日本人は、男も女も子供の時から二本の棒を用いて食べる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

「我々は、食事を料理する際に陶製の煮物鍋や丼(ボール?)を使う。日本人は鋳鉄製の鍋や器を使う。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
懐紙
「また先に述べたように、衣類の両端を重ね合わす胸のところには、汗を拭くための手巾と、鼻をかみ、茣蓙(畳)の敷かれた座敷の中にいる時に唾を吐くのに使う、たいへん柔らかくてきれいな紙(懐紙)をたくさん入れている。」(日本教会史)
炬燵(こたつ)
掘り炬燵について報告しています。この当時からあったようです。
「客人や外来の人と話をする座敷のうちのあるものには、寒くなる冬の季節のために、一種の炉のようなものが深く掘ってあって、その上部は茣蓙(ござ)と同じ高さで、その中に火勢のごくぬるく気持ちのよい炭火をおこして、その上に四角な食台のようなものを置き、その上をある柔らかくて長い絹の布すなわち帳で蔽って暖炉のような形とし、それで熱の発散を防ぐ。掛蒲団の下に両手を入れ、また時には四角な台によりかかって話している間、両足を暖める。家の奥にも冬に暖まるために、このような炉が作ってある。」(日本教会史)
蚊帳(かや)
「そしてそこの人々は皆蚊帳をもっていて、夜はその下にもぐりこんで蚊から実を守るのであるが、その中にただの一匹でも入っていると、人々をいらいらさせ、彼らから睡眠を奪うのに十分である。」(フロイス日本史)
駕籠(かご)
「駕籠は、非常に軽い木材で作られ、方形で簾がついた二つの小窓があり、中に坐っている者が望む度に開閉できるようになっている。非常に小さく内部は一人がちょうど安楽に坐れる程度です。二人がこれを担ぐのですが、道程が長ければ交替できるよう四人が担ぎます。
高貴な人や仏僧たちは皆これを使用し、贅沢で華美なものを所持していることを誇りとしています。」(フロイス日本史)
歯磨き
「我々が食事の後に歯を綺麗にするという心遣いを、日本人は朝にするのが普通である。すなわち顔を洗う前に歯を磨く。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
屋根瓦
日本でも飛鳥時代から寺院などに瓦が使われていましたが、この時代では、一般庶民の家の屋根は板葺や藁葺(茅葺)がまだ多かったようです。
「我々の屋根は、瓦で葺かれている。日本の屋根は、大部分が板、藁または竹で葺かれている。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
糞尿
百姓が糞尿を買うことは、江戸時代の習慣としてよく知られた話ですが、この時代でも既にあったようです。
「我々は、糞尿を取り去る人に金を払う。日本ではそれを買い、米と金を払う。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
排水路
日本でも狭い路地などでは中央部を低くして排水路にしていたと思いますが、広い街道などでは道の両側に排水路があったのだと思います。
「ヨーロッパでは、水を流すために街路の中央部が低くなっている。日本では、(街路の)中央が高く、家々の側が低い。それに沿って水を流すためである。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

日本では伝統的に白木の船です。防水剤のようなものを使わないのは、日本の木工技術が優れていたからでしょうか。
「我々の船は、水が入らないように外側を松脂またはガラガラ(瀝青と樹脂の混合物)で修理される。日本の船は、板を巧みに組み合わせるだけで他の接合剤を使わない。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
船の帆布
木綿の帆布はこのころから使われ始めたようです。それまでは蓆(むしろ)が使われていたようです。
「我々の(船)は布製の帆を使う。日本の(船)は、すべて藁(わら)の帆である。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

牛馬の利用
牛や馬についての秀吉の意見が報告されています。日本では牛や馬が少なかったのでしょうか、何か必要以上に大切に扱われているような気がします。
殺生
「彼らは文明化していて、飼い馴らされた動物や家畜など、この種のものに対して慈悲と憐憫の心をそそぐので、それらを殺すことは社会的習慣からいって奇異に思うのである。」(日本教会史)
農耕馬
「我々の間では、土地を耕すには牛だけを使う。日本では、牛または馬が使われる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
牛馬(秀吉の発言)
「汝らは何ゆえ馬や牛を食べるのか。それは道理に反することだ。馬は道中において人間の苦労を和らげ荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は百姓の道具として存在する。
しかるに、もし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は人々によってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。」(フロイス日本史)

日本の祭り
日本人の祭り好きは昔からのようです。フロイスは祇園祭や住吉の祭について報告しています。この中では祇園祭の立像について「完全で精巧な仕事」であると褒めています。
祭り
「この都(みやこ)の市内では、古来神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらの幾つかは、人々が語るように華麗さ外面的な費用においては、はなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。」(フロイス日本史)
祇園祭
「そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。
その一台一台の後から自分の職業の印しを持った職人たちが進み、みな槍・弓・矢・長刀(すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなもの)を持ち、本当の兵士がそれに続いて行く。
これらの大きい舞台付きの車が通過すると他の小さい車が続く。その上には立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事に携わるのである。」(フロイス日本史)
堺の住吉大明神の祭り
「両手に刀を携えた偶像が騎乗して来る。その後から弓と矢を入れた箙(えびら)を携える小姓が続き、その後方を手に鷹を持った別の者が続く。彼らの後から徒歩や騎馬で偶像の伴をする大勢の人たちがやって来る。これらの人たちは、みな武器や武具を携え「千歳楽、万歳楽」、すなわち千年の喜び、幾千万年の楽しみという意味の言葉を唱えながら歌い、かつ踊る。」(フロイス日本史)
「馬が通過すると、神主と称する白衣の多数の僧が、はなはだ大きい広い袖の衣をまとい、紙か革でできた非常に美しい黒の僧帽を頭にかぶってやって来る。この後に彼らの女妖術師(巫女)たちが馬で進むが、彼女たちは同様に白衣をまとい、非常に美しく飾り、おびただしい数の婦人たちに付き添われ歌いながら行く。」(フロイス日本史)
「この輿は、それを見るすべての人から礼拝され、人々は双手を挙げて大いに畏敬の念を示す。3、40人の者がこれを肩に担いでいる。そしてこの人々の後から、いろいろの歌を歌い「千歳楽、万歳楽」を繰り返す大勢の人がやって来る。」(フロイス日本史)

季節の行事
「日本教会史」では日本の年中行事を紹介していますが、今とはかなり違っているようです。桃の節句は雛祭りではなさそうです。また端午の節句も男の子の祝いでもなさそうです。そしてなぜか七夕の記載はありません。「日本教会史」で紹介されている年中行事は以下のようなものです。
 第一の祝祭 正月
 第二の祝祭 三月三日 桃の節句
 第三の祝祭 四月一日 衣更え
 第四の祝祭 五月五日 端午の節句
 第五の祝祭 六月一日 にんにくや豆など入れた餅を食べる
 第六の祝祭 七月十四、十五日 死者を迎える
 第七の祝祭 九月九日 菊の節句
 第八の祝祭 十月一日 衣更え、二種類の菓子を作る
 第九の祝祭 十二月二十九、三十日 歳暮
桃の節句
「正月すなわち新年の後には、第三の月の三日目に当たる第二祝祭が続き、その日は戸外での盛んな行楽を行うのが習慣である。
この日には、とりわけ潮の干満が異常であって、一年中のどの日よりもその差が大きいので、人々は貝類を拾いに行って海辺で楽しみ、また山奥で浜辺のないところの者は野原に出かける。
この日には、米と青草を使って同じ草色をした米の菓子(蓬の団子)を作る。それをまず午前中にお祝いとして食べ、また訪ねて来る親類や親しい者にその菓子を盆の中の皿の上に敷いた紙の上にのせて出す。この菓子はこの日独特のものなので、その上には桃の花を添える。
肴の代わりにその菓子と冷たい酒とで客をもてなす。その冷酒は昔から伝わる固有の習慣に従って、この日から第九の月の九日まで冷たいまま飲まれる。(現在では、もはやその習慣はすたれている。)
その冷酒の上に、非常にこまかく切られた桃の花びらが少し浮かべられる。それは桃の花びらが非常に滋養に富むものとして、ある昔の仙人がその露を吸って生命を支えたという彼らの故事にもとづくものである。
この日の訪問が、民衆の一般普通の人々の間なり親類や親しい友人の間なりで行われるのに比べて、貴族の間ではさほど一般的でもなく、しばしば行われるということもない。」(日本教会史)
端午の節句
「第四の祝祭は第五の月の五日で、この日には一種の米を熱い湯気で蒸して、一定の草か柏の葉かで包む。その日を祝ってそれを食べ、葉に包んで蒸したものを贈物として遣わす。
またこの米で客人をもてなすのに、その葉で巻いたものを盆に盛り、一人の小姓がその盆を持って客人の間を廻る。もしそれを配って廻る人が貴人であるならば、客人は各自右手で一つだけ取って頭に押し頂き、それを包みから出して一番尖った先から食べ始める。そして礼法にもとづいてすぐに皆のものに酒が廻される。」(日本教会史)
舟の競争
長崎のペーロン祭りは旧暦の5月5日の行事だったようです。
「この日(五月五日)シナでも日本でも舟を並べて漕ぎ合う競争があり、また海上では数々の遊興が行われる。この日にも、日本人はおたがいに訪問し合い、衣更えをして、この日から彼らの祝日である第八の月の末日まで単衣(ひとえ)を着る。」(日本教会史)
燗酒
「日本の古来正真の流儀によれば、第九の月の九日(菊の節句)から翌年の第三の月の三日(桃の節句)まで、すなわち九月から三月までは必ず熱い酒(燗酒)を用いる。ただし前及したように正月の訪問に出る酒は例外である。一年のその他の時季には本来冷酒を用いる。
もっとも現在では一年中あらゆる時季を通じて皆の者が熱い酒を一般的に用いるので、今はこの点について言えば一般的のことではない。」(日本教会史)
「我々の間では、葡萄酒を冷やす。日本では、(酒を)飲む時ほとんど一年中いつもそれを暖める。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

公方への年賀
フロイスは公方(将軍)への年賀のようすを記録しています。
「その際、人々が一定の順序で彼のところへ持参するのは、脚のついた木製の小さい盆台に、我々ヨーロッパのものとは異なる同質の紙で作った幅の広い紐で結んだ紙十帖とその上に塗金した一本の扇である。また幾つかの寺院の仏僧は紙片に記し3パルモの長さの棒の先に付けたある種の護符を彼の許にもたらすのが常である。これらは彼の家の加護となり悪霊を追い払うのに役立つのである。」(フロイス日本史)
「ルイス・フロイス師は公方様とは未知の間柄であり初めての訪問であったので、彼への贈物としては、大きい水晶鏡、黒帽、少量の麝香(じゃこう)、ベンガル産の籐杖を携え、ガスパル・ヴィレラ師は自身の紙と塗金した扇を持参した。」(フロイス日本史)
「公方様の宮殿は深い濠で囲まれており、それには広く良くしつらえられた木橋がかかっていた。」(フロイス日本史)
「彼が出て来た時に、他の司祭は彼とともに塗金した屏風に囲まれ、すべて木造の贅沢で華麗な部屋に入った。公方様は、この時の大勢の来訪に対して、時間の許す限り彼らを鄭重に応接した。」(フロイス日本史)
「(公方の)母堂の近くには、美しく清潔に手入れが行き届いた阿弥陀の祭壇があって、阿弥陀の姿は小児の形で、非常に美しく、金の後光がさしている頭には頭飾りがついていた。」(フロイス日本史)

葬儀
この当時に火葬や埋葬を行うのは、三昧聖(さんまいひじり)と呼ばれた人たちが担当していました。この人たちは後世の隠亡(おんぼう)のようです。
「日本には、このような貧しい兵士や見捨てられた人々が亡くなると、聖(ひじり)と称せされる人たちが彼らを運んで行って火葬にする習慣がある。聖たちは、非常に賤しい階層の者と見なされていた。」(フロイス日本史)
「キリシタン宗門が高槻で繁栄し始めた時のこと、その地で二人の貧民が死亡した。ダリオ(高山右近の父)はさっそく、我らヨーロッパのミゼリコルジアで作るような一台の棺を製作させ、真中に白い十字を付した黒緞子の棺布で掩い、貴賤男女のキリシタン全員を召集し、死者たちを葬るため一同自宅から蝋燭を点した提燈を持参するようにと言った。そしてダリオと城主であるその息子右近殿は、新たなキリシタンたちの許で、棺を担う敬虔な行為が習慣となるようにと、この蔑視されている賤しい聖(ひじり)の役を自ら引き受けた。」(フロイス日本史)
「日本人は死人に対しては、喪服の代わりに白衣を着用する。これはシナの習慣であって、日本人とコーリア人(朝鮮人)がそれを取り用いたのである。」(日本教会史)

日本の女性
宣教師たちは日本の女性の地位や風習についても書き残しています。日本の女性は比較的に自由に行動していたようです。
純潔
「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わないし結婚もできる。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
女性の外出
「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格に行われる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由を持っている。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
眉毛とお歯黒
「宮廷に仕える女たちや領主の奥方を始めその他一般の女はすべて、眉毛が自然が人間の顔に作った飾り物であることを無視し、それがあまりに華々しすぎて、きわめておおきな無用の物だとして、眉毛を引き抜き、眼から睫毛をとるので、顔中には一本の毛も残さない。それが昔からの習慣となっている。
宮廷の人々と貴族は化粧をする時に、ある種のきらきら光る黒い絵具で自然の眉のある場所よりも少し上に非常に薄い別の眉を描く。それと共に鉄と酢で作った一種の染料で歯を黒玉のように黒く染めることは、多くの貴族の女も若者もする習慣である。
これは我々が日本に行った頃、非常にあたりまえのことであった。しかし現在では、男にはまったくそれがなくなり、女にもその数はきわめて少なくなって、自然のままにしている。」(日本教会史)
「ヨーロッパの女性は美しい整った眉を重んずる。日本の女性は一本の毛も残さないように全部抜いてしまう。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「ヨーロッパの女性は歯を白くするために手をつくし、手段を講ずる。日本の女性は鉄と酢を用いて、口と歯を黒くすることに努める。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
比丘尼(びくに)
「ヨーロッパでは修道女の隠棲および隔離は厳重であり厳格である。日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の街になっている。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
堕胎
「日本では婦人の堕胎はきわめて頻繁で、ある者は貧困のため、あるいは多くの娘を持つことを厭うため、もしくは端女(はしため)であるために、そうでもしなくては十分よく奉仕を続けられないから、その他の理由によってそれが行われている。しかも、何びともそれを不思議とは思わぬのが習わしである。ある婦人たちは出産後、赤児の首に足をのせて窒息死せしめ、別の婦人たちはある種の薬草を飲み、それによって堕胎に導く。
ところで堺の市は大きく人口が稠密なので、朝方に海岸や濠に沿って歩いて行くと、幾たびとなくそこに捨てられているそうした子供を見受けることがある。もし母親が出産後、捨てようと思う赤児に対してなお幾ばくかの人情味を示そうとするならば、彼女らは赤児たちを岸に置き、潮が満ちてその児らを完全に殺すようにするか、それとも濠に投げる。そうすると通常は犬が来てそれらを食べるのである。」(フロイス日本史)

教育と躾
この当時のお寺は、公家、武士、庶民を通じて、子弟のための教育機関としての役割をはたしていたようです。また、フロイスは日本の子供の立派な立居振舞について褒めています。
子供の教育
「われわれの間では世俗の師匠について読み書きを習う。日本ではすべての子供が坊主の寺院で勉学する。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「日本人の大部分は、男も女も読み書きができる。特に上流階級の者や商人などは達者である。寺院の尼さんは女の児に書くことを教え、坊さんは男の児に教えている。また、上流階級の者たちは、その子供のために家庭教師を置いている。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
日本人の文章力
「日本人は、いったいに文字で書くことには至上の技を身に備えており、世界の異教徒のうちでもっとも簡潔で要領を得た文を好み、我らヨーロッパ人が紙1枚にわたって長々と書く必要がある特許状の内容を、彼らは僅か二、三ヵ条だけで表現するのである。」(フロイス日本史)
子供の躾
「我々の間では、普通、鞭で打って息子を懲罰する。日本では、そういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「子を育てるに当って決して懲罰を加えず、言葉を以て戒め、6、7歳の小児に対しても70歳の人に対するように、真面目に話して譴責する。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
子供の成長と質
「ヨーロッパの子供は青年になってもなお、口上ひとつ伝えることができない。日本の子供は10歳でも、それを伝える判断と思慮において50歳にも見える。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「我々の子供はその立居振舞に落着きがなく優雅を重んじない。日本の子供は、その点非常に完全で全く賞賛に値する。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「我々の子供は、たいてい公開の演劇や演技の中ではにかむ。日本の子供は恥ずかしがらず、伸び伸びしていて愛嬌がある。そして演ずるところは実に堂々としている。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
「我々の間では、息子は外出する時、母に随って行く。日本では滅多に、もしくは(彼らが大きくなれば)決して随って行くことはない。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

貨幣制度
正式に金貨(小判)が発行され使われるようになるのは江戸時代ですが、この時代においても金や銀が貨幣として使われていました。金や銀は重さで取引されていたようですが、金や銀の棒が献上されたり、黄金二百枚あるいは銀百枚が贈られたりしています。金や銀の延べ棒あるいは大判があったようです。
金貨と銀貨
「日本には鋳造された金貨や銀貨はなく、すべて重さで遣り取りするのである。ただし真中に孔があり、セイティスのように造られた銅貨がある。ところで日本の銀1枚は4タエル3マスの重さがあり、私たちポルトガルの貨幣では4クルザード6ヴィンティスの価格である。だが金1枚は銀43枚で、43クルザードに相当する。」(フロイス日本史)
「我々の間では、金や銀の貨幣を使う。日本では、その切片が常に重量で通用する。」(ヨーロッパ文化と日本文化)
金や銀の延べ棒
「(信長の朱印を得るために)ある者は1万クルザード、ある者は5千、6千を提供し、また仏僧らは15本、20本の金の棒を差し出した。」(フロイス日本史)
「允許状(朱印)を獲得する可能性がかくて延引していた間、都の数名の名望あるキリシタンは、密かに司祭になんら相談することなく3本の銀の延べ棒を集め、これでもって允許状の作成を促進してもらおうとして和田殿に手渡した。」(フロイス日本史)
「信長は上京(かみぎょう)の市民に対し反感を抱いていたので、彼らが提出していた銀の棒1500本を受理することを拒絶し、かくて町(上京)はただちに放火された。」(フロイス日本史)
「立佐(小西隆佐)はまた司祭の生計費と、いずれ時が来れば都の修道院を再建するためにと、当時2千ダイスまたはクルザードに相当する金の棒15ほどの多額の喜捨を残した。」(フロイス日本史)
金や銀の大判
「(法華宗の)僧侶たちは文書の提出を強くためらったが、長谷川と称する信長の家臣は、殿が右の男以外の者に生命を許した恩恵に対して、もし敗北した場合には彼らを殺してもよいと述べた署名入りの文書を渡していたので、黄金200枚を差し出すべきであると付言した。」(フロイス日本史)
「巡察師が習わしどおりにふたたび盃を口にして飲みほそうとした時に、大きい二つの盆を捧げた高官たちがそこに現れた。一つの盆には銀百枚、他の盆には彼らが小袖と呼んでいる絹衣四枚が置かれており、それらの品が関白殿の側から巡察師に送られた。」(フロイス日本史)
銭相場
「当時は1千カシャ(銅銭)が2.5クルザードの価でした。」(フロイス日本史)
撰銭と鐚銭
この当時の銅銭には質の悪い鐚銭(びたせん)が出回っており、受け取る側で良い銭だけを選ぶ撰銭(えりぜに)が行われていました。
「ヨーロッパでは、銅の貨幣は滞りなく受け取られる。日本では必ず選びとられる。古いものであること、特定の色、特定の刻印の付いているものでなければならない。」(ヨーロッパ文化と日本文化)

日本の鉱山
当時の日本では、鉄や銅だけでなく金や銀の鉱山が開発されていたようです。石見や佐渡の地名があげられています。
金山
「日本の国土には多くの鉱山があって、あらゆる種類の金属を産出する。例えば多量の鉄、銅、また少量ではあるが、これらと銀や鉛や錫や水銀との混合物を産する。主要なものは全土にある銀山であって、中国の石見の国、北の海にある佐渡島、その他多くの地にある金山というのがそれである。」(日本教会史)
「また山の一部には金山があって、金は銀と一緒になっているので銀と共に採取し、それを水銀で分離する。一部は金山の地域でとれ、一部は川沿いの低地にある泥中のごく狭い地域で最良のものがとれる。最も多量の金は関東なり、奥州の国なりにある。」(日本教会史)
徳川の金銀
「1609年に我々が駿河にある内府(徳川家康)の宮廷にいたとき、出納係長(勘定奉行)は貯蔵されている量の報告を行い、銀貨だけで8300万テール(両)すなわち8300万金クルザードの銀貨があり、その他にも多量の金があった。それより減少することはなく、むしろ年ごとに増加していった。経費をその中から引きだすことは全然しないで、逆に数百万くらい毎年蓄えられたからである。」(日本教会史)

日本の農作物など
「日本教会史」でロドリゲスは日本の農作物や産物についてもかなり詳しく紹介しています。ザビエルが最初にたどり着いた九州などは米が十分にはとれなかったようです。
ロドリゲスは柿を無花果(いちじく)として紹介しています。また、木綿はこの時代になって普及したようです。

「この国土は良質の米を多量に産する。これが王国全土の主食であり、主な収入となる。」(日本教会史)
「大麦もまた産出し、不毛の地方では農民や貧乏人の食料として使われ、少量の米を混ぜて米と同じように炊く。これは主として関東や九州の島の不毛地や山岳地方の一部でのことである。」(日本教会史)
「また豊後、薩摩、天草、五島では米が十分でないので、農民や貧乏人は一年のある時期に大麦や歯朶(しだ)の根や叢林の椎の実を食べる。初期に渡来したわれわれの先輩のある者はそのことを見て、他の地方でどんな生活をしているかも知らないで、日本はきわめて貧しくて食糧が不足し、ただ大根や草を食べているにすぎないと書いた。」(日本教会史)
「五畿内やその他の肥沃な地方ではこのようなことはなく、多量の食糧と副食物がある。信長の時代まで日本国中に起こった相次ぐ内乱もまた不作の原因であった。それは種まきもできず、絶えず田畑が荒らされたためであって、土地が肥沃でないからではない。」(日本教会史)
「また、あらゆる種類の豆、たとえば「ささげ」を豊富に産し、多くの種類の玉蜀黍(とうもろこし)、多種多量の野菜や蕪、また大量の大根を産し、ある地方では男一人で大根四つがやっと持てるくらいに大きいものがあるのをわれわれは見たのであった。」(日本教会史)
果物
「果物の中の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じものである。すなわち、さまざまな種類の梨や小さな林檎、上(東)の地方における桃や杏(あんず)がそれである。李(すもも)と葡萄は少ない。」(日本教会史)
「味覚や風味の違った非常に優れた色々の種類の瓜がある。主として五畿内のものは、果肉や風味が我々のものとは大いに違っていて、胡瓜、南瓜、西瓜がある。その他我々のところでは、ほとんど見られない多くの果物がある。」(日本教会史)
「無花果(いちじく:実は柿)は多くの変わった種類があり、風味が優れていて、それを干すと我々の無花果のようになり、その干したものは、その外見も無花果と同じように自然に吹いている粉が幾分似ているが、味や果肉は似ていない。これらの中の上等なものは、我々の上等なものに劣らず、むしろ大いに優れている。おもに美濃の国にある一種がそうであって、それゆえそれは美濃柿または枝柿と呼ばれ、はなはだ高価なものである。これら干した果実は、我々の無花果と外見が似ているので、最初のポルトガル人たちがそれを無花果と呼んだのだと思われる。種類の上からは樹も実の形も梨にいっそうよく似ており、梨のように内に種があるが、それは核のように固い。熟しないうちは緑色で、熟してからは赤味がかった黄色である。」(日本教会史)
油と蝋
「土地は良質の胡麻油を多量に産する。これが一般に最も普及している油で、そのほかに芥子(からし)、罌粟(けし)の種のものや、ある種子の油、すなわち木(椿)の実の油がある。女性はその木の油を使って頭髪を黒くする。」(日本教会史)
「また、鯨やその他の魚類の油があり、漆を採る樹の一種の実からはカンディア(提灯または燭台)用の蝋(ろう)が多量に作られる。」(日本教会史)

「この国土は一種の樹を産し、それからは極めて上等の漆が採れ、それは今まで発見された地域にあると思われるものの中では最良であり、シナのものより優れていると思われる。」(日本教会史)

「この土地は大麻と良質の木綿を多量に産出する。木綿の使用は我々が日本に赴いた後に増大した。」(日本教会史)
「また、シナのものよりは質が劣るが、無地の生糸が多量に産出される。」(日本教会史)
「また、非常に質の良い、たいへん細い生糸屑(真綿)が多量にあって、はなはだ繊細であり、手ざわり良く、気持ち良く、この上なく暖かいので冬に詰め綿の用をする。それでまた一種の頭巾を作って冬に頭に被るのに使い、またそれを首に巻いてタルターリ人やコーリア(朝鮮)人やシナ人が冬に用いる種々の獣の毛皮の代わりにする。」(日本教会史)

「いろいろの種類の紙が、そのために植えられた一種の木の皮から作られ、日本における紙の用途は、様々なものの中で最も大きい類に属する。」(日本教会史)
琥珀
「数年前から島々には多量の琥珀が見つけられている。その物を見分けることのできる人々の断言するところによると、その中のあるものは本物であり、日本人の間には知られていなかった。」(日本教会史)
木材
「森林には木立と種々の木材があり、その多くは建築用として貴重であり珍重される。」(日本教会史)
「貴重な木材の中では檜と榧(かや)と呼ばれるものがある。これらは杉の類で香気があって他のものよりは上等であり、尊重される。」(日本教会史)

「日本には淡水魚も海水魚も、多くの種類のたいへん上等のものがいる。北の海には沢山の鮭がいて、一年の一定の時期に産卵するために川に上ってくるので、そこでは無数に捕獲され、それを塩漬にして天日に干す。」(日本教会史)
農耕牛
「牡牛が沢山いて、それで耕地を耕し、我々のように二頭を一緒にするのではなく、一頭だけで耕す。時には土地を耕すのに、牡馬か牝馬かを使う。シナやコーリア(朝鮮)には極めて沢山いる騾馬も驢馬も日本にはいなくて、この前の戦争の時にコーリアからいくらか渡ってきた。」(日本教会史)
家畜
「家畜では、ただ犬が狩猟のために飼われ、鶏や鴨や家鴨を飼うのは娯楽のためであって食用にするためではない。なぜなら、王国中で、豚、鶏、牛のような家畜は不浄のものと考えられ、家畜一般の用途はその肉を食うのではないからである。」(日本教会史)
鷹狩
「領主や貴族は自分の邸内に、鷹、青鷹、隼のような、それを使って猟をする多くの種類の猛禽をはじめ、その他大小の鳥を多く飼っている。そして特定の小屋を造り、そこには止り木があって、濃紅色の絹の縒糸(よりいと)で編んだ華美な紐でこれらの鳥の足をしばったままそこに止まらせておく。また、それを飼育し、餌を与え、手入れをして世話をする特殊な人(鷹匠)がいて、彼らはこのことに大いに丹精をこめる。」(日本教会史)

信長と秀吉
フロイスは信長や秀吉の印象などについても記録しています。信長は宣教師たちに好意的でしたが、秀吉はキリスト教を禁止したので余計に酷く書かれているような気がします。
秀吉に子種がないことは、この当時にも噂になっていたようです。秀吉には多くの側室がいたにもかかわらず子供ができなかったからです。秀頼は誰の子だったのでしょうか。なお、下記にある秀吉の長男の鶴松は早世しています。秀頼は二男にあたります。
信長
「彼は中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髯は少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。」(フロイス日本史)
秀吉
「彼は身長が低く醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。」(フロイス日本史)
「彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者はもとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではないと密かに信じていた。」(フロイス日本史)

シナ
ザビエルは日本文化の源流ともいえる中国(シナ)に大きな希望と興味を持っており、中国へ行くことを切望していました。しかし、当時の中国は鎖国しており、結局その願いはかないませんでした。
「日本人は白人である。シナは日本の近くにあり、前にも書いたように、ここから(仏教の)宗旨が日本へ渡来した。シナは厖大な国で、平和であり戦争などはない。そこにいるポルトガル人が書いているところに依ると、そこでは正義が非常に尊敬されていて、キリスト教世界のいかなる国よりも義しい政治が行われているという。
私が日本やその他の国々で見たところに従がって判断すると、シナ人はすこぶる教養が高く、日本人よりもさらに才子である。シナには物資が有り余るほど存在している。人々の言葉のごとく、この国には種々の絹が非常に豊富にある。
シナ人から私の聞いたところによると、シナには種々様々の宗教が存在しているという。色々の報告から判断すると、その中に回教徒やユダヤ人もいると考えられる。はたしてキリスト信者がいるかどうかは誰も知らない。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
「この1552年の間に、私はシナ国王のいるところへ往こうと思っている。シナは、我が主イエズス・キリストの信仰の宣布にすこぶる適しているように考えられる。シナがキリスト信仰を受け入れるならば、これはまた日本において、日本人がその信じている(仏教の)宗旨に不信頼をおこすことに非常な助けとなるだろう。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
「シナは大きくて平和であり、かの有名な法律によって支配されている国である。国王は一人だけで、しかも国民はよく国王に服従している。非常に豊かな国で、生活物資がたくさんある。日本とシナとは、ただ僅少な日数の航海で連絡される。このシナ人は賢明で勉強家であり、特に国を治めるための法律を研究する。識ることを非常に望む人々である。一般に白い人種で髯がない。眼は非常に小さく、心は寛大で、はなはだ静粛である。彼らの中に戦争はない。私は、もしこの印度に今年1552年出発を妨げる故障がなければシナへ往くつもりだ。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
「というのは、シナ人が神の掟(キリスト教)を受け入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく失ってしまうだろうと考えられるからである。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)
「シナの国王は、自分の許可なしに外国の者が自分の国に入ることを、こうも厳しく禁じている。」(聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄)

安土桃山時代の日本3

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参考文献
「完訳フロイス日本史」ルイス・フロイス 中公文庫
「ヨーロッパ文化と日本文化」ルイス・フロイス 岩波文庫
「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」岩波文庫
「日本教会史」ジョアン・ロドリーゲス 岩波書店

2015.03.02 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp