幕末の日本10
仏教
キリスト教徒である西欧人は、偶像崇拝であるとして仏教に反感を持つ人も多いのですが、仏教の形式などが意外にもカトリックに似ていることに驚いています。
川崎大師
「川崎の近くに大師河原・平間寺という広大な寺がそびえている。これは日本のもっとも美しい寺の一つに数えられている。それは古い建物で広い屋根をいただき、立派で興味深い彫り物で飾られ、敷石のある広い中庭の中央に位置し、周りは大樹の並ぶ欝蒼とした林であった。」
「多くの仏教寺院におけるように、寺院内部の配置はカトリック教会のそれと似ている。主祭壇は、二、三歩で近づける内陣に続いており、その右と左の別の祭壇には金箔を貼った木製の仏像が飾られてある。それらの中のいくつかは頭に後光が輝き、足下には雲が漂っているが、これなど我々の聖母や聖人の模造であるように思われる。」
「非難しようがないほど清潔な茣蓙(ござ)が敷き詰められている。そこかしこで僧侶たちがひざまずいているのが見かけられるが、彼らの僧院はこの寺院の敷地内にある。剃髪した頭とその衣装はカトリックの修道士や司祭を思い起こさせるものであった。」(スイス領事の見た幕末日本)
鎌倉の大仏
「境内の奥に目的の巨大な仏像が立っているというより座っていた。台座の直径が30フィート以上もあり、高さがたっぷり40フィートはあった。座像の均整のとれた姿態は、感嘆に値するものであった。一見して鋳造物の大きさに驚いたが近くで調べてみると、この巨像は幾つかの部分に分けて鋳造され、さらにそれらを接ぎ合わせて建造されたことが判った。」(幕末日本探訪記)
「大仏すなわち偉大な仏陀の像は、宗教的な観点においても、また芸術的な感覚から見ても、日本の天才により作られたもっとも完成された作品ということができる。」(絵で見る幕末日本)
「大仏の像は多くの点において八幡宮とは違った性格を持っている。長い距離と広い空間の代わりに、超自然的な天啓に心を向けるような孤独な秘密な避難所を作ることが必要であった。」(絵で見る幕末日本)
「この巨大な像を見て起こる無意識の動揺は、まもなく驚嘆に変わってくる。この大仏の姿勢には何とも言えぬ魅力があり、その体の調和と均斉さ、その衣の上品な素朴さ、その外貌の静けさ、明確さ、正しさも、また無限の魅力がある。」(絵で見る幕末日本)
「周囲のすべてが彼(大仏)によって発散されている明るい感じに完全に適応している。よく茂った灌木の生垣の上に数本の美しい木がそびえており、何物もこの聖地の静けさと孤独を侵すものはない。ただわずかに大仏の世話をする僧の慎ましい小屋が、茂みの陰に見えているだけである。祭壇の上には銅の香炉があって少しばかり香煙を立てており、蓮の花瓶が二つ飾ってあるが同じく銅製で立派な作品である。祭壇の前の階段と広場は、表装石で張られて正しい線で配置されている。青空、銅像の大きな影、花の光沢、各種の若葉、生垣と茂み、これらのすべてが光と色のもっとも豊富な効果を出している。」(絵で見る幕末日本)
横浜・豊顕寺
「境内に足を踏み入れるや、私は、そこにみなぎるこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使いごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔でしかも退廃的だったから嫌悪感しか抱かなかったものだが、日本の寺は、ひなびたといってもいいほど簡素な風情であるが、秩序が息づきねんごろな手入れの跡もうかがわれ聖域を訪れるたびに、私は大きな歓びをおぼえた。」
「白い衣をまとった僧侶たちが、我々のために扉を急いで開けてくれた。彼らは頭を剃り上げ素足である。床は美しく磨かれ白木の天井には彫刻が施されていた。」
「どの窓も清潔で桟には埃ひとつない。障子は破れ目のない白紙がしわひとつなく張られている。僧侶たちはといえば老僧も小坊主も親切さとこの上ない清潔さが際立っていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
横浜の僧侶
「寺にいる坊主たちは、見たところあまり裕福な暮らしではなさそうである。彼らの衣装は大部分が不潔でだらしがない。顔の表情は愚昧と不満の影を持っており、外国人の訪問者に対する強い反感を示していて、ことさら彼らを避けて、近づかないように努めていた。」(絵で見る幕末日本)
仏教の葬式
「プロテスタントである私は、この仏教の葬式が外見上ギリシャ教会やローマ教会のそれに似ていることに驚かざるを得なかった。祭壇、小ローソク、香、僧侶の服装やしぐさなどは、多くの目につく細かい点で似通っていた。」(大君の都)
葬式の白装束
「白装束に身を包んだ同じ役所の300人の役人全員が、手を合わせ祈りながら棺を囲んでひざまずいた。一方、僧侶は祭壇の上の蝋燭に火を灯し、香を焚き、鐘を鳴らして祈る。40人ほどの僧侶が両側に立ち葬儀の賦を梵語で唱えていた。導師も他の僧侶も白い衣を着ている。式が終わると直ぐに寺の正面の階段の上で一人の坊さんが持ってきた籠を開き中に入れられていた白い鳩を放った。この象徴的な行事のあと棺は竹の綱で巻かれ、そこへ竿を通してから両端を二人の男が担い寺のすぐそばにある墓地へ駆け足で運び去った。墓地に着くと棺を墓穴に降ろし参列者が各々一握りの土をかけた。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
日本の墓地
「日本の墓地は、彼らの宗教のなかではもっとも注目にあたいし、かつまた心地よいものであって、死者の憩いの場所に対して当然我々がいだく神聖な感じともっとも調和している。墓地は、普通は立派な木の植わった美しい土地にあり、手入れがとてもよく行き届いている。」(大君の都)
「公使館に当てられている寺に付属している墓地は、江戸中でももっとも立派でもっとも美しいもののひとつである。ひとつひとつの墓の前には、いつも花活けと水入れがあって、花や水が常に新しいのを見るのは気持ちが良かった。」(大君の都)
「シナは、使い古して腐りかかった建物を思い出させるが、日本では荒廃もなければ老衰もなく、常緑の島の新鮮な植物のように永遠の若さの徴候があり、それをこの幸福な国の住民たちは世代から世代に伝えているのである。彼らは、その永遠の春の表徴をもって最後の住所をすら飾っており、このため彼らの墓地は、一年中いかなる時にも草花に埋まっている。墓石には亡くなった人の記憶を保存するための銘が刻まれているが、そこには滅亡とか死とかいった考えを起こさせる何物も存在していない。」(絵で見る幕末日本)
カトリック
「ローマ・カトリック教の表面的形式は、一般に日本に広められている仏教のそれと非常に共通な点がある。これは一度日本のお寺に参った者は、ふとそれがカトリック教会堂の聖壇の前にでも立っているかのような感じを受けるくらいに、よく似ている点があるのである。日本人は自分の魂のことは、一切僧侶に委せきりで、その代り思いきった喜捨をするのである。これがそもそも長崎のような小さな町においてすら、あんなにも沢山のお寺が存在しうる理由である。」(長崎海軍伝習所の日々)
仏教とキリスト教
「仏教は、キリスト教の根本をなす多くの道徳的な真理や教義を含んでいるとのことである。」(大君の都)
日本の巡礼
信仰心からなのでしょうか、それとも単なる旅行好きなのでしょうか、この時代には巡礼が盛んに行われていました。
富士登山
「宗教的な動機からこの巡礼を行う日本人は、おおむね白い衣装を着用しており、巡礼の期間中そこに滞在している僧侶からさまざまの神秘的な文字や邪神像のスタンプをその衣服に押してもらうことに熱心だ。」(大君の都)
巡礼
「日本人が一応は宗教的目的から巡礼をすることが大変好きだということは、少なくとも下層階級にはある程度生きた宗教的感情があるという証拠と考えることができよう。伊勢への巡礼や三十三の主な観音の寺への巡礼が行われたり、もっとも有名な霊や神ないし仏寺への巡礼が行なわれたりする。」(大君の都)
「その途中12歳と14歳になる二人の少年に出会った。この少年たちは江戸から聖なる伊勢神宮と讃岐の金毘羅宮へとはるばる巡礼の旅をして、いま江戸へ帰るところであった。神社の護符などの大きな包みを油紙にくるみ、それを斜めに背負っていた。」(一外交官の見た明治維新)
旅行好き
「実に日本人は大の旅行好きである。本屋の店頭には、宿屋、街道、道程、渡船場、寺院、産物、そのほか旅行者に必要な事柄を細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさん置いてある。それに、相当よい地図も容易に手に入る。精密な比例で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの地理上のあらゆる細目が書いてある。」(一外交官の見た明治維新)
祭り好きの日本人
今でも昔でも日本人は祭り好きです。神社の祭りに限らず、端午の節句、七夕、お盆など各種のイベントが大好きな民族です。英国公使のオールコックは、祭り好きな点についてはローマカトリックの国々を超えると書いています。日本人は娯楽好き、遊び好きなのでしょうか?
また、大勢の人が群がっても整然たる秩序があると外国人たちは報告してします。
江戸の祭り
「これらの祭りの性格的な特色は、劇場的なけばけばしさとあらゆる種類の誘惑的娯楽になっている。一方において音楽や舞踊や曲芸や仮装行列や野天劇や提灯行列をやっているかと思うと、他方では射的、競馬、相撲などの民族的遊戯や福引をやっており、またいたる所で果物、魚、菓子、花などを売る屋台店のならんだ市場が開かれ、中には扇子、日傘、麦藁(むぎわら)細工、提灯(ちょうちん)、子供の玩具といった一般の需要品まで売り出している。」(絵で見る幕末日本)
神田明神の大祭
「明神の神体を乗せた車は、二頭の牡牛と車に付けた縄を持つ無数の信徒によって引っ張って行かれる。それから数歩離れてものすごく大きな鬼の首を台に載せて運んで行く。善良な庶民は巨大な角や乱髪や真っ赤な顔や恐ろしい牙を、恐怖を持って眺める。よりいっそうの演出効果を上げるため並んで歩く僧侶たちが法螺貝を吹いて吠えるような、唸るような音を立てている。さらに、その後を英雄が鬼の首を切ったという大きな斧が運ばれて行く。」(絵で見る幕末日本)
山王の大祭
「警官隊が出動して民衆の整理に当たっていて、百万以上の観覧者が、この日は整然たる秩序を保っている。行列が通過する街路や広場では、婦女子や老人のために観覧台が設けられ有料の指定席まで作られている。しかし、行列が通りだすと、その場に立ったまま移動することはできない。」
「新吉原から選び出した七人の美女が一人ずつ盛装を凝らして、しずしずと進んでいくのだが、その一人一人に召し使いが付き添っていて、これらの美人を太陽の光線から庇護するために大きな絹の日傘を差しかけている。」
「こうした風景に出会った私は、山王の大祭が彼女たちを自分たちの偶像と一緒に市内を堂々と練り歩かせている奇知に頭を下げるばかりである。」(絵で見る幕末日本)
日本の祭り
「ローマカトリックの国々では祭りが驚くほど多いと私は思っていたが、行列や祭りにかけては、日本はこれらの国々をはるかに超えている。」(大君の都)
「ある日長崎の町を散歩していると、風変りな行列に出会った。先頭の行列はシナ服を着た大勢の人たちが巨大な竜を高く持ち上げて異様な身振りで竜をくねらせて、回りながら行進していた。」(幕末日本探訪記)
「行列には相当な衣装でめかし込んだ音楽隊が加わり、洋楽器で音楽を奏していた。その日は快晴で何千という群衆が町に溢れ、どこの家の窓にも旗が翻り、まったく楽しい光景であった。」(幕末日本探訪記)
「長崎に着いた日は当地の祭礼で、みんな美しく着飾っていた。娯楽の焦点は凧上げにあるらしかった。町や郊外の上空一面に、初めはカモメの群れかと見違えた紙凧が群がっていた。凧はたいがいダイヤモンド形で、赤白青などの絵の具で鮮明に彩色されてあった。町内、屋上、山腹、野原などの各所で、愉快に競い合う凧揚げを、大勢の老若男女が楽しそうに見物していた。」(幕末日本探訪記)
「そこには群衆があふれていた。身動きもつかぬほどの楽しげな、だが争いのない群衆であった。日本人が決して忘れることのないあの礼儀正しさでもって、てきぱきと我々が進む道をきちんと開けてくれた。」(スイス領事の見た幕末日本)
端午の節句
「我々の留守中、町では端午の節句の用意で忙しかった。去年子供の生まれた家々の軒先には幟(のぼり)やいろいろ意匠を凝らした飾り物が陳列される慣習があるので、町々はお祭り気分で満たされる。例えば、ここかしこに紙で上手に作られた鯉幟(こいのぼり)が高い竿に吊って揚げられる。この鯉幟の腹は空洞であるから風をはらんで空をうねうねと泳ぎまわる。」(長崎海軍伝習所の日々)
お盆(長崎)
「8月13日、長崎では例のお盆の燈籠流しの祭りが盛大に行なわれた。三日間は毎晩、祖先や新仏のお墓が美しい燈籠で飾られた。この墓地はちょうど急峻な丘に設けられてあったが故に、海からその丘の景色を眺めた光景は何とも言えない美しいものであった。」
「我々はその夜の光景を残らず、自分たちの客間の背後の広間で眺めたが、その時の光景は永遠に忘れがたいものであった。」(長崎海軍伝習所の日々)
コレラ
「私は、日本人ほど無頓着な人種が他にもあるとは信じない。八、九月の頃に長崎市およびその付近でコレラ病が発生し莫大な犠牲者を生じた時でも、住民は少しも騒がなかった。それどころか彼らは町中に行列を作り太鼓を叩いて練り歩き鉄砲を打って、市民の気を浮き立たせ厄除けをしようとしていたようであった。日本の厄神は虎の形で現わされる。」(長崎海軍伝習所の日々)
幕末の日本9
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2014.11.27 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp