幕末の日本13
日本の農業
日本では丘の上まで段々に耕され、畑には雑草が一本も無い、と当時の外国人の間では伝説のように語られています。
段々畑
「一般に日本人は、自分の農地をもっともよく利用し、多くの場合、丘陵は驚異的な労力によって段々にされ、巧みな方法で耕される。」(大君の都)
田畑の除草
「自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなう者はないであろう。田畑は念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちが良い。」(大君の都)
畑の畝
「高地では早くも発芽したばかりの小麦や大麦が生育している。種子は英国の農法のようにばら播きでなく2フィート3インチおきの列になっている畑地にひとつかみ25粒から30粒ぐらいの種子を各列それぞれ約1フィート間隔の溝に手で落として播いて行くのである。この畑はとりわけ整っているので畑全体が農地というよりは庭といった感じである。」(幕末日本探訪記)
耕作
「シナでは耕作に牡牛や水牛が使われるが、日本では労働者の手だけで農作業を行う。土を掘り起こしたり、鋤き返したりするのに先のとがった農具が使われる。肥料はシナと同様に植物性のものを使用している。」(幕末日本探訪記)
日本の園芸
日本人の園芸好きは昔からですが、江戸時代には特に園芸マニアがいたようです。日本の文明度を表す一例かもしれません。
園芸業
「一般に、花を相当に栽培している日本の園芸家たちは、売る目的で栽培しているのだ。彼らは、四季を通じてもっとも珍重される種類のものを供給するように栽培している。だから、いかなる日でも、花売りが美しい商品を持って歩きまわる姿を見ることができる。きわめて貧しい家庭でさえもそれを買うことは、かなり確実である。たしかに、その値段は安い。どんな家庭にも家族用の祭壇があり、毎日欠かすことなく一束の花が捧げられている。また、彼らの墓も、しばしばそれと同じような単純な愛の捧げもので飾られている。そのため、需要は絶えることはない。」(大君の都)
花好き
「高級役人や豪商や隠居した人たちの屋敷は、おおむね一階か二階建てで小さいが、気持ちの良い高台の住宅地にあった。住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず花好きなことであった。良家らしい構えのどこの家も一様に裏庭に花壇を作って、小規模だが清楚に整っていた。この花作りは家族的な楽しみと幸せのためにたいへん役立っていた。」(幕末日本探訪記)
「日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でも生来の花好きであるということだ。気晴らしに好きな植物を少し育てて無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人たちに比べると、ずっと優ってみえる。」(幕末日本探訪記)
「家々の奥の方には必ず花が咲いていて、低く刈り込まれた木で縁取られた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
盆栽
「日本人がこれらの植物の生産に捧げた勤勉と忍耐の量を知って、まったく驚いた。ある小さなもみの木は、高さが1フィート足らずであった。それでも、節の数は50以上もあった。若枝がそれほど前後にジグザグに曲がりくねっていた。これらの小さな松の木は、非常に古いものに違いなかった。」(大君の都)
「日本の園芸家が、非常に接ぎ木が巧みで、その作業に多くの方法を用いていることを立証する他の多くの植物があった。」(大君の都)
「下枝を水平に仕立てたツツジの丈は20フィート位あって、全体を板のように平らにするために葉や枝を束ねて刈り込んであった。上枝を円形に整枝した数多くの小テーブルが上へ上へと重なっているので、全体の枝ぶりがすこぶる奇観を呈していた。そのとき一人の男がツツジの手入れをしていたが、おそらくこの男は年中毎日このツツジの手入れに追われているに違いない。」(幕末日本探訪記)
植木屋
「日本の首都である江戸の近郊には、商売用の植物を栽培している大きな苗木園が幾つもある。江戸の身分ある人々は、すべての高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。」(幕末日本探訪記)
団子坂の菊人形
「この庭で一番珍しいものは、菊の花で作った人形であった。数千の花を使って作られた菊人形の美人が微笑みを浮かべて、茶屋や休憩所から出てくる客をしばしば驚かせていた。評判の梅林が庭内のいたる所にあり、小さな池や築山の島が全体の眺めを引き立てていた。」(幕末日本探訪記)
染井村
「そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル以上も続いている。わたしは世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ3、4エーカーの地域を占め、鉢植えや路地植えのいずれも数千の植物がよく管理されている。」
「そこでサボテンやアロエのような南米の植物を目にした。それらは、まだシナでは知られていないのに、日本へは来ていたのである。実際、それは識見のある日本人の進取の気質を表している。」
「染井や団子坂の苗木園の著しい特色は、多彩な葉を持つ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる自然の斑(ふ)入りの葉を持つ植物を称賛し興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、わたしの知る限りでは、日本は千年も前からこの趣味を育てて来たということだ。その結果、日本の観葉植物はたいてい変わった形態にして栽培するので、その多くは非常に見事である。」(幕末日本探訪記)
浅草寺の菊
「ここは江戸の近くで、多種類の美しい菊で有名である。我々が訪ねた時は、花は満開であった。」
「わたしは、形も色も特殊で実に素晴らしくイギリスで現在知られたどんな種類とも全く異なった品種を幾つか手に入れた。ひとつは、赤色の長い花弁が毛髪のように咲き乱れて、黄色のおしべがショールやカーテンの房のように見える。次のは、広くて白い花弁に赤い線が入って、カーネーションか椿のようであった。別のは、大形で光沢のある色彩が目立っていた。」
「日本の園芸家は菊作りの技術にかけては我々よりだいぶ上手で、不思議に大輪の花を咲かせる。」(幕末日本探訪記)
牡丹の展示会
「ヨーロッパ人にとってもっとも魅力的だったのは、わたしたちの滞在中に開催された牡丹の展示会であった。」
「淡紅色や白などさまざまな色をした美しい牡丹の花には、しばしば9インチもある大輪がある。その美しさは他に比類がない。シナで花の王と呼んでいるが、まったくその通りである。」(一外交官の見た明治維新)
花の香り
「日本の花には香りがないというのが外国人の一般的な批評であるが、ある人は日本の天然の地質によると言っている。だがこの説が当を得ないことは、芳香を持つ種々の植物を見ても明白である。すなわち忍冬、薔薇、特に木香薔薇、梔子、芍薬、月下香ほか数百の他の花々も他国の匂いのある花と同様に日本で芳香を持っている。菫には匂いはないが、これは土壌のためではなく品種によるらしい。」(幕末日本探訪記)
日本の音楽
日本の音楽は不協和音であるとして、概して外国人には不評です。それでも、一部の人は理解しようと努めています。
雑音
「もしわたしがこれまで中国人のあいだに住んでいなかったとしたら、日本人はハーモニーやメロディーというものを知らない点では最たる人種だと、わたしは言ったことだろう。日本人にしろ、中国人にしろ、彼らがいわゆる音楽を奏でようとする時に発する雑音は、とうてい言い表せるものではない。」(大君の都)
「しかも、彼らはこれを一つの技芸とし、職業的な歌手や教師がいて、ヨーロッパのそれに劣らぬほど懸命に腕を磨いているのである。」(大君の都)
「音調の十中の九までが調子はずれと思えるような、西洋の音曲とは全く異なった一連の音程からなる日本の音楽にヨーロッパ人の耳を慣れさせるには、よほどの長い年期を必要とするだろう。」(一外交官の見た明治維新)
「日本の音楽は半調子のものが多く、しばしば同じような言葉を繰り返しながら、長音調から短音調に移り、最後は全く調子になっていない。従がって日本の音楽芸術は、我々が西欧において知っているものとは決定的に合致したところがない。」(絵で見る幕末日本)
好意的評価
「日本の音楽は、我々のものと比較しようがない。しかし、民謡のなかに優しい主題がみてとれた。同様に、日本人の耳が確かだということも認めねばならない。日本人は完全に斉唱で楽器を奏で唄う。そして、それらの旋律の時にはたいそう難しいリズムを正確に守るのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
「日本音楽の音律をはっきり掴むことは困難であったが、しかし、この熟練した芸術家(三味線の先生)は、我々ヨーロッパ人の歌の調子に自分の三味線を合わせたばかりでなく、それらのうち若干を正確に模写して見せた。」(絵で見る幕末日本)
「日本の唄は美しいといえたものではないし、歌い手の声がたいてい甲高い鼻声であるにもかかわらず、ときおり覚えやすくて耳に快いメロディーがあって驚かせる。歌い手は三味線と呼ばれる三絃のギターを伴奏に使う。弦は指ではなく熊手型をした象牙の撥(ばち)で弾く。」(江戸幕末滞在記)
日本の舞踊
宴席などで披露される日本の舞も、外国人には不評です。現代の我々が見てもおそらく退屈なものですから、当然の評価かもしれません。
姿態
「わたしはいつも、日本の舞踊というよりもその身振りに、はなはだもって感心しないのだ。日本の踊りは、多少とも優美なあるいは不自然に気取った肢体の動作によって、三絃のリュート(三味線)の伴奏で唄われる内容を表現するのである。前もって唄の文句を知っていると少しは助かるが、この文句が唄われるときには、イタリアのオペラ歌手の発する音声が大多数の聴衆にわからないと同じように、さっぱり分からない。」(一外交官の見た明治維新)
「日本の踊りは、西洋人がダンスと呼んで理解しているものとはまったく異質である。踊りは、本来のダンスというより、さまざまな姿勢の総体から成っていると言った方がふさわしい。」(江戸幕末滞在記)
精密な動き
「おばさんの命令で、娘たちは立ち上がり、一人であるいは何人かで踊りのステップを踏む。無理なしぐさ、奇異な体のよじりは、我々が持っている優雅という考えとほとんど調和しないのである。しかし、そのしなやかで精密な動きは、ある時はゆっくりと物悲しく、ある時は速く騒々しく、音楽の特色と忠実に合致している。そして、それが芸妓によって語られる詩の伴奏となっているのである。」(スイス領事の見た幕末日本)
日本の絵画
この当時の来日外国人には、日本の絵画はあまり評価されていないようです。西欧でジャポニズムが流行し北斎や広重が評価されるようになるのは明治になってからです。
油絵
「実際のところ、彼らは油絵を描く技術をまったく知らないのであり、それにどんな材料を使っても立派な風景を描くことができない。彼らの遠近法についての知識はあまりに限られており空間の効果ということを、まだほとんど考えたこともないのである。だが、人物画や動物画では、わたしは墨で描いた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくも鮮やかに示されている確かなタッチや軽快な筆の動きは、我々の最大の画家でさえうらやむほどだ。」(大君の都)
写生
「製図やスケッチ技巧は、日本人はイギリス人より劣っているが、シナ人よりはずっと進歩している。」(幕末日本探訪記)
「幕府が外国人の享楽のために設けた岩亀楼での光景も、別に我々の風俗習慣にこだわることなく写生している。騒がしい宴楽で葡萄酒や強烈な飲料に耽溺し揚句の果てに喧嘩腰になる人たちのようすが、すべて克明に描かれている。それらの非常に精緻で興味を引く日本人の芸術作品は、たいていこの店で入手できるだろう。」(幕末日本探訪記)
日本の食事
肉や牛乳が手に入らない日本で外国人たちは食事には苦労したはずです。それでも日本式の魚料理などを食べていたようです。
奈良付近での朝食
「我々は日本式の朝食を出させた。食事は、少量の各種の料理からなっており、わたしの好みからすれば大変おいしいものもあったし、またその反対のものもあった。しかし、食事の出し方は非常に優雅なものだった。一人一人に高さ1フートのお膳があって、三品ついていた。第一に輪切りの筍、これは柔らかくて煮ると大変おいしいものである。次に塩魚、そしてご飯、それに醤油その他のちょっとした調味料があり、さらに消化を助けるための酒が一本ついていた。」(大君の都)
鎌倉での昼食
「出発前に昼食を注文しておいたので帰ると十分な御馳走が待っていた。この海でとりたての上等な魚を日本の醤油で調理してあったが、実に美味であった。それに精選した白米にオムレツ、これは少し甘すぎたが、とにかくすこぶるうまかった。宿の井戸から汲み上げた美味い冷水に持参したブランデーを混ぜて喉に流し込む。我々は日本酒よりもやはりブランデーを好む。」(幕末日本探訪記)
王子
「一人の娘が金蒔絵の椀にご飯、刺身、たいそうおいしそうな煮汁で煮つけた魚、大海老、海藻類、筍、固ゆで卵などを給仕してくれた。また錫の徳利に冷たい酒を入れ、コップの代わりに陶磁器の盃へ注いでくれた。わたしは日本風に座ることができなかったので足を投げ出して昼食をとった。別の娘が五人の供の者にご飯、刺身、煮魚、惣菜などを給仕し、燗をした銚子を次々に、少なくとも六本はつけた。伴の者が冷酒より燗酒を好んだからである。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
長崎の遊郭の夕食
「他の娘たちも手伝って数分後には、我々の前にはたいそう賑やかな日本の夕食が並べられたという次第である。それは以前に摂った食事と同じように、ゆで卵、伊勢海老、刺身、煮魚、ご飯、果物、それに砂糖菓子からなっていた。大坂の甘口の酒、日本酒、それに茶も忘れられてなかった。料理は美味しくてなかなか凝ったもので、我々は幼い召し使い(禿)によって手際よく楽しく給仕してもらった。」(スイス領事の見た幕末日本)
横浜郊外での夕食
「女将は私の馬の世話をするようにと命令し、私を清潔な小さな部屋に案内し、日本風の食事を出させたのである。それは魚の吸物、魚の煮付、刺身、ご飯、菓子と果実、それに酒とお茶からなっていた。料理は、私の注文で水っぽいものにして貰ったのである。」
「ふつう広く飲まれているのはお茶である。また例外的に普通の酒と大坂の甘口の酒(味醂?)も飲む。この心地よい味わいはトカイの葡萄酒を思い起こさせてくれる。しかし、これらの酒をたしなむ機会は稀ではない。日本人は世界でもっとも人付き合いのよい人たちなので、こころよく夕食に招き食卓を囲んで友だちと集うのが好きだからである。」
「上手な日本料理の板前は、ヴァーテル(有名な宮廷料理人)と同じように目を楽しませる料理を準備する技を持っており、社会の最も低い階層においてすら食欲をそそる方法で食事を供するように努めている。不潔ということに関しては、私がこれまで全く言ったり聞いたりしたことが無いほどに無縁のことである。」(スイス領事の見た幕末日本)
博多、藩侯の食卓
「我々は調練の後、藩侯(藩主)とともに食卓に着いたが、その時の料理は次のようなものであった。すなわち鶴、家鴨の焙り肉、鯛の薄肉、鮪の刺身などであった。この生の刺身を、我々は非常に空腹を覚えていたので食べてみたが別条はなかった。」(長崎海軍伝習所の日々)
江戸での食事
「江戸ではパンや牛乳が手に入らなかったし、またわたしには、洋式の料理所を作るだけの余裕もなかったので、直ぐ近くの評判の良い日本料理の店から食事を取り寄せることにしていた。そうしているうちに、子供の時から食べつけている食物と同じほど日本料理が好きになったのである。」(一外交官の見た明治維新)
日本の料理
「日本の料理は、少数の例外を除いて西洋人の口には合わない。その例外の一つが魚で、鮮魚だけでなく干魚も非常に味がよく、生で食べることもある。最初のうち、わたしは舌にピリッとくるソース(わさび)と一緒に出されるこの珍味(刺身)を勧められても恐れをなして手を付けなかったが、一度勇気を出して当初の嫌悪感に打ち勝ってからは、なかなかの味だということを発見した。」(江戸幕末滞在記)
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2014.11.28 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp