幕末の日本15

宗教
西欧人にとってはキリスト教の教えが絶対であり、それ以外の宗教については概して否定的です。
宗教について
「キリスト教は、古代国家のうちでもっとも教養に富み、もっとも文明の進んでいた国に欠けていた一つの規準を与えた。」(大君の都)
「彼らが他のことよりも、もっと直接に願っている目的は、この世での幸福ということである。彼らは霊魂の不滅とか来世での至福とか悲惨といったことについて多少の概念は持ってはいるが、きわめて曖昧で不完全なものである。しかし、私の知りえた限りでは、教養ある階級はそういった一切の教義を下層の無知の階級のみ適したものであると嘲笑し、古代のすべての詩人や哲学者と同じく死後の世界はないと信じている。」(大君の都)
「社会の上層部、特に知識人の間には、神道にも仏教にも与しない開けた日本人が数多く見出せる。彼らは外見的な神仏信仰をしりぞけ、孔子の教えの規範に多少の修正を加えたものに従っている。」(江戸幕末滞在記)
「けれども、神と彼岸の生に関する概念群には不確かで不明瞭な部分が多すぎるため、その信奉者はふつう無神論者と見なされている。その教えは、宗教と呼ぶよりは一連の哲学的な処世訓により成っていると言った方がふさわしい。」(江戸幕末滞在記)
日本人の宗教心
「なぜなら、目に触れるものは高貴なる簡明さばかり、そして心に触れるものは祈りにふさわしいように保たれている厳粛なる静謐ばかりという寺社のすぐ脇で「せり売り場」を思わせる内装の建物に出くわすからである。そこでは信仰がもっとも粗雑な形をとって嫌悪を催させるような神像、動物の像となって展示されており、蝋人形館や動物園に持っていった方がいいと思われるほどだ。」(江戸幕末滞在記)
日本人の宗教
「私は一般に日本国民は辛抱強い国民であると信じている。彼らはお寺参りをするのが務めであると考えており、我々がお寺に参ることをも非常に喜ぶ。彼らの年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心掛けなど、すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、また慈悲心が強く、残虐を忌み嫌うのは、日本人の個性かとさえ思われる。」(長崎海軍伝習所の日々)
邪教
「邪教は全て自然の法則にかなった宗教ではなく、逆に人間の本質に対する敵であり、人間性を歪曲する宗教である。それ故に、そうした宗教の表現は外部の観察者に何とも言えぬ漠然とした不安と本能的な嫌悪の感を与える。」(絵で見る幕末日本)

日本の社会制度
日本の封建制度での上下の人間関係などについて、外国人たちは好意的に評価しています。国民が幸福に暮らしており、むしろ個人的な自由を享受していると見ています。幕府政権の日本では理不尽がまかり通るような専制政治ではなく、理屈の通る法治国家が実現できていたからではないでしょうか。
なお、封建領主のいる本当の封建制度は西欧以外では日本にしかなかったようです。その意味では日本は歴史的に発展してきていると外国人も評価したのかもしれません。
上下関係と身分制度
「日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえ滅多に物怖じすることのない国民で、私はかつてまだ年若い青年が大名や家老と同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな会話をする場面に居合わせたことがある。青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方で自己の尊厳を主張することも教えられているのである。」
「日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う。最下層の召使いが主人に厳しい扱いを受けたなどという例を耳にすることさえ稀である。主人と召使いとの間には、通常友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係と言ってよい。」
「市民のうち商人階級はその富を利用してある程度の影響力を発揮でき、大枚を寄進することで大小二本を帯刀するなど武士階級の特権を入手することができる。」(江戸幕末滞在記)
国民の自由
「ラウツ教授は、日本の下層階級はあらゆる圧迫に曝されていると言っているが、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものより大きな個人的自由を享有している。そうして彼らの権利は驚くばかりに尊重せられていると思う。」
「裁判は政府によって極めて正当な方法で行われる。日本人は賞賛以外に一言の不満も漏らしていない。」
「町人は個人的自由を享有している。しかも、その自由たるやヨーロッパの国々でも、あまりその比を見ないほどの自由である。道徳および習慣に違反する行為は間諜の制度によって、たちまち露顕し犯人は逮捕せられる。市民はそれを歓迎しているようだ。そうして法規や習慣さえ尊重すれば決して危険はない。」(長崎海軍伝習所の日々)
幸福な国民
「民衆はこの制度の下に大いに栄え、すこぶる幸福に暮らしているようである。日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は安い。だから誰も皆その身分に応じた財産を持つことができるのである。上流家庭の食事とて至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしている訳ではない。」
「日本人は頑健な国民である。苦力(クーリー)や漁師たちは、少なくとも長崎においては冬でもほとんど裸体で仕事をしている。しかも彼らは歌をうたい冗談を喋りながら、すこぶる快活に仕事をしているのである。」(長崎海軍伝習所の日々)
日本の社会制度
「日本人の外面生活・法律・習慣・制度などは、すべて一種独特のものであって、いつもはっきりと認めうる特色を持っている。中国風でもなければヨーロッパ的でもないし、またその様式は純粋にアジア的とも言えない。日本人は、むしろヨーロッパとアジアをつなぐ鎖の役をしていた古代世界のギリシャ人のように見える。」(大君の都)
封建制度
「これほど長くみごとに中世的な形態を維持してきて十分に発達した封建制度を持った国民とその制度の現状は、注意深い研究に値する。この封建制によって日本人は、我々の考えている意味では自由ではないにしても、多くの幸福を享受することができた。西洋諸国の誇る一切の自由と文明をもってしても、同じくらい長年月に渡ってこの幸福を確保することはできなかったのである。国家の繁栄、独立、戦争からの自由、生活の技術における物質的な進歩、これらはすべて日本人が国民として所有し、そして何世代にも渡って受け継いできたものである。」(大君の都)
「封建的・武断的制度のもとにある日本での現在の生活は、イギリスのアングロサクソン時代と同じように不安なものである。すでに述べたように、日本の現在の社会状態はイギリスのあの無法で凶悪だった時期と酷似している点が多いのである。このような状況のもとでは、生命の保証はないし、またありえない。」(大君の都)
「彼らは封建的・武断的階級に支配されている。この階級に比肩しうるものを求めるとすれば、我々はイギリスの歴史の凶暴な動乱期にまで立ち戻らねばならない。この時期には、アングロサクソン人とデーン人とノルマン人が全土に渡って争い合い、それぞれの族長と家来の間で王国を分割し合い、全王国ないしその一部の主権を握った君主といえども、その大胆かつ野蛮な封建諸侯の間に秩序を維持したり、平和を確保したりすることはできなかったのである。」(大君の都)
「幕府は、昔は事がある時には直ちに各藩を統合する権力を持っていたと思われるが、今は強力な各藩が結合すると幕府を財政困難に陥らせたり滅亡させたりすることができた。それは、封建時代のスコットランド王の状況に似ている。」(幕末日本探訪記)
「これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にましてよく耕された土地が見られる。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)

文明国家
日本では教育が行き渡っており、物質的に繁栄しており国民は満足そうに暮らしています。機械産業やその技術がないにしても、それ以外の産業や工芸は発展しています。こうしたことから、外国人たちは日本を文明国家と認めてくれています。
日本国
「日本人が偉大な民族として、国際的に仲間入りしたことは注目に値する。おそらく世界中で、日本以外に自給自足できる国は他にないであろう。日本は自国内に生活必需品や贅沢品のすべてを供給できるだけのものを十分に持っている。日本の田畑で、熱帯と温帯の産物が同じように生産され、農家の納屋に貯蔵されている。どこの山脈からも石炭、鉛、鉄、銅が発掘され、貴金属もまれではない。茶、絹、綿、木蝋、油脂類が国内いたる所で豊富に産出され、朝鮮人参や他の薬草類が塩魚や海藻などと一緒にシナへ多量に輸出されている。」(幕末日本探訪記)
政治と文明
「(箱根付近の)この土地は、土壌と気候の面で珍しいほど恵まれており、その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面で非常に幸福でありつつ、成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている。」
「成文法、法律ないし法律家のない国で非常に進歩した文明を持っているのは異常であるように思われる。」
「この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界との交わりをいっさい断ち切ったまま、独力の国内産業によって三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である。私は、専制主義や日本政府を弁護しようとしているのではなくて、一ヨーロッパ人旅行者として自然にいだく感想を述べているのである。」(大君の都)
物質文明
「物質文明に関しては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械文明が劣っており、機械産業や技術に関する応用科学の知識が貧弱であることを除くと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができると言ってもよかろう。」(大君の都)
「彼らの物質文明は、我々の物質文明にあまり遅れてはおらず、国民大衆は秩序があり平和的でヨーロッパのどの国民に劣らないほどの教養と知性をそなえている。」(大君の都)
「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)

日本の産業
幕末には欧米向けの輸出も始まっており、造船や機械産業も興ってきていました。外国人たちも日本の産業の発展を信じて疑わなかったようです。
日本の将来性
「もし、日本の支配者の政策がより自由な通商貿易を許し、日本人をしてバーミンガムやシェフィールドやマンチェスターなどと競争させるようになれば、日本人もそれらに引けを取らずシェフィールドに迫る刀剣や刃物類を作りだし、世界の市場でマクリスフィールドやリヨンと太刀打ちできるだけの絹製品や縮緬製品を産出するだろうと私は信じている。その際に、原料と労働力の安価なことは、生来の器用さや技術と相まって、機械の差を補うことであろう。」(大君の都)
輸出品
「日本の絹と茶は、他では求められぬ品質を持っていて、新しく貴重なものを供給している。」(大君の都)
「現在、絹と茶がもっとも重要で、ヨーロッパとアメリカ向けの貴重な輸出品になっている。」(幕末日本探訪記)
「生糸は、日本の大坂から北寄りの地方で、どこでも多少生産しているが、とりわけ奥州、上州、甲州、信州の四地方が最も大量に産出する。奥州の産出量は最も多いが、そこの生糸は他の地方のものに比べて、優良な規格品としては型が不揃いである。その点、上州、信州産の生糸は、繊細な品質で知られている。」(幕末日本探訪記)
「茶は九州各地に限らず、日本中いたる所で栽培されている。山城産の茶が最上品であるが、最大の生産量は伊勢と尾張である。駿河、下総、甲州の生産地から神奈川市場に、いち早く新茶を出荷する。盛りの季節には、瀬戸内海沿岸から大量に出回る。」(幕末日本探訪記)
開港初期の輸出品(長崎)
「1トンにつき5ドルの値段による石炭の輸出は、日を追って盛んになっていき、1200トンないし2000トン級の船舶は何の苦労もなくその必要な燃料を僅かの日数で積み込んだ。彼らはその石炭を、せいぜい運賃2ドル半くらいを払って、上海で上海銀の8ドル半、またはざっと蘭貨の32ギルダーで売ったのである。だからその利得たるや莫大なものであった。」
「輸出品の代表は何といっても石炭であるが、そのほか鯣(するめ)、米、小麦、樟脳、海鼠(なまこ)、菜種と菜種油、昆布、鰹、卵、鱶鰭(ふかひれ)、白蝋、醤油、蜂蜜、麺、生糸、椎茸、豆類、肉桂、切芋、塗料、味噌、寒天、海草、漢薬のほか、漆器、焼き物、銅細工などがあった。これらの商品の大部分はシナに持って行って高く売れるばかりでなく、為替の関係も上海を経るほうが有利であるから、貿易は上海を目標とすることになろう。」(長崎海軍伝習所の日々)
日本の商人
「シナの商人は、日本の商人よりはるかに進歩しているようだ。たとえば、日本人は一かせの絹や一ポンドの茶のわずかな金額に対してもとやかく言うが、シナ人は同じ品物を船一隻分で平然と取引する。経験によって、シナの商人は日本の商人よりも頼りになることが分かった。」
「シナ人は取引を一度決めて契約したら、それが結果的に損失と分かっても手を引くことはしない。今のところ、こうしたことでは日本人は語るべき実績は何もない。」(幕末日本探訪記)
長崎の変化
「長崎の外見は、ここ数年の間に大きく変化した。郊外のはずれに蒸気機関の建造と修理をする広大な工場がそびえていた。反対側、すなわち湾に入って右側にフランス領事館、英国教会の礼拝堂、イギリス領事館、アメリカ領事館があり、その下の海岸沿いには新しい自由地区の大浦で、英米の卸商人たちの店や家が立ち並んでおり、その先は以前からのシナ人の商店地区である。左側には日本人の街と橋で結ばれている二つの小島があって、一つは新地といい政府の税関倉庫があり、もう一つは出島でインドシナ商会の代理店やドイツとオランダの商店に属する建物があって、その上にドイツやオランダ領事の旗が翻っていた。」(絵で見る幕末日本)
長崎の造船所
「数年かかって優れた生徒が養成され、今では日本人は蒸気船を建造することができるのである。これらの船は、実を言うとヨーロッパやアメリカの造船技術の傑作とは比較にならないが、日本人が外国の模倣をしようと思ったものを同化吸収してしまう素晴らしい才能の持ち主であることを見せしめるものである。その点が日本人とシナ人との間に深い境界線を敷くことのできる特質なのである。」
「外国人を間近に見て日本人の活力は刺激を受けた。そして彼らを模倣しようと努めて、日本が長い間その影響に抗ってきた進歩の法則に身をゆだねたのである。知的で活力があり、誇り高く、とりわけ忍耐強い人種である日本人は、他人のなかに認められる自分にないものに見惚れるだけで済まず、実行してきたのである。4年という短い期間のうちに戦艦隊を作り上げ、数多くの軍隊を再編成し、西洋式に武装し訓練されていくことになった。」(スイス領事の見た幕末日本)
横須賀の造船所
「私はローズ提督とフランス公使の伴をし、その地を訪れた。ほとんどの地域がすでに開拓されており、埠頭、ドック、大きな機械工場がすでに建設されていて小さな蒸気船を建造中だったが、何千人もの日本人は相変わらず敷地を広げるべく働いており、岩山を崩し容積の大きい山を人手だけで除き去っていた。」
「ひょっとすると日本人の職人の方が西欧人より優秀かも知れなかった。日本のものより遥かに優れている西欧の道具の使い方を直ぐに覚え、機械類に関する知識も簡単に手に入れて、手順を教えてもその単なる真似事で満足せず、自力でその先の仕事をやってのける。日本人の職人がすでに何人も機械工場で立派な仕事をしていた。」
「横須賀は日本で唯一の造船所ではない。もう一つ横浜に同じくフランス人の指導のもと、すでに何年ものあいだ機能してきている造船所がある。特に機械関係の仕事をするのに使われており、設備が良いために三、四百馬力の蒸気機関を製造することができる。第三の造船所は長崎にあり、もう長いことオランダ人に運営されていた。横須賀が完成されたなら、これらの小規模な造船所は、当然修理作業のみに使用されるようになるだろう。」(江戸幕末滞在記)
薩摩の蒸気機関
「我々の船の傍らに繋がれてあった小さな外輪蒸気船を見に行った。この長さ二丈ばかりの汽船は木で造られ銅が張ってあった。この船には1851年に日本で初めて造られた蒸気機関が据え付けられてあったが、その機関はフェルダム教授の著書に載っている図面だけを頼りに造られたものである。」
「何としても一度も実際に蒸気機関を見たこともなくして、ただ簡単な図面をたよりに、この種の機関を造った人の才能の非凡さに驚かざるを得ない。我々オランダ人でも、蒸気機関の働きに十分の理解を持つまでになるには、なみ大抵の苦労ではない。」(長崎海軍伝習所の日々)
薩摩の工場
「工場に着くと、我々は綺麗な石段から上げられたが、その左右にはロンドンに持っていっても決して恥ずかしくないような立派な岸壁が連なっている。」
「工場のある場所は、港の傍らである。そうして後方には小山を背負っているが、その小山は機械を動かす水車に水を供給する所である。」
「我々は静かに鉄や銅の製造所、製鉄炉、火焔炉、大きな錬鉄場、砲身を造る穿孔盤、製陶場、硝子工場、硝子磨き場、その他いろいろの余り大して重要でもない設備などを次から次へと見て回った。」
「以上だけをもって考えても薩摩藩主たちが如何に旺盛な企画精神を持っているかを知るに足るだろう。」(長崎海軍伝習所の日々)
博多の工場
「第四日目に、我々は藩の工場数ヵ所を見学した。その工場というのは、鋳鉄工場、製銃所(ここにドクトル・ファン・デン・ブルクの小型蒸気機関が据え付けられてあった)、硝子工場および絹糸工場などであった。この絹糸工場では、有名な高価な博多織が作られるのである。我々はその織物の帯地数本を買った。この帯地は長いネクタイおよびチョッキを作るのに適する。」(長崎海軍伝習所の日々)

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2014.11.28 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp